1.2
冷たい空気が枯れ葉を踊らす。青々した草木が色あせて、今はどこか寂しげな色だけが残る。季節はもう秋に入りかけていた。
たき火の前に腰を下ろし、ネクタルは肉をほうばっている。鍛錬と手合わせを重ねたその身体は岩石のように厚い肉に包まれていた。肌には幾多の傷跡が見える。
慣れきったようにリュラがパンを差しだし、青年はにこやかに受け取る。雲で日が隠れた。少女は彼の背中に回り、羊毛の外套を羽織らせる。
「ありがとう、リュラ。急に寒くなったな」
「お体にお気をつけください。ここ数日、夜中まで訓練を続けているようですし。たまには家でお布団に入られた方が……申し訳ありません。差し出がましいことを口にしました」
リュラが頭を下げるのを見て、ネクタルは食事する手を止める。
「俯かないでくれ。リュラは何も悪いことをしてないだろう?」
そう言っても彼女の申し訳なさそうな態度が変わらないことを彼は知っている。だから話の向かう先を変える。
「この頃、勝ち続きで嬉しいんだ。この前も一度負けたエルペノルから勝利を奪い返した」
リュラの視線を意識しながら、ネクタルはもつれそうな舌を必死に動かす。いつも言えないことを伝えたかった。
「もっと強くなりたい。油断はできない。夜になるとその想いが高まり、体を動かさずにはいられないんだ。……こうやって訓練できるのも、リュラとその主の援助のおかげ。深く感謝している。ありがとう」
「わたしは何も……」
地面へ向かう顔に暗い影が落ち、彼女の表情はうかがえない。
ネクタルが食事を終えるとリュラは器を片づけていった。強い風が吹く。少女は寒そうに肩をすぼめた。質素な服はこれからの季節を耐えるにはいささか貧弱だ。
「火に寄るといい。寒いだろう?」
「わたしなどが近づけば火が汚れてしまいます」
「そう思う人は、ここにはいない」
羽織らせてもらった上着をネクタルはリュラにかけなおした。少女は驚き、外套を返そうとした。
「しばらく預かってくれ。訓練の時に着ていたら暑いからな」
返事を聞かずにネクタルは背を向ける。少女が顔をあげ、頭巾の下に隠されていた桃色の頬が暖かな日に照らされた。
邪魔者の言葉はどこかに隠れた。同じ日差しを、同じ空気を味わう。体育場のすみで作られた二人だけの空間だった。けれど意図せずつくられた一瞬のもろさを青年は忘れている。
自分の意志でつくったものでないから、壊れてしまっても直すことはできない。何がきっかけで壊れるかも分からない。それでも、一瞬の価値を知るのは、いつも壊れてからなのだ。彼は一度思い知らされたはずの、そのもろさを忘れていた。
六つの足音が近づいてくる。がしゃがしゃと不吉な鉄のこすれあう音を鳴らしながら。武器を持つ手を休め、ネクタルは来訪者を迎える。二人の従者を引き連れ、豪華な外套をまとった男だった。
美しい顔、鍛えぬかれた肉体、気品ある所作、貴族というにふさわしい男だ。彼は従者をおさえ、一人前に出た。
ネクタルは腰を上げ、深々と礼をした。相手の顔を見て胸は高鳴る。緊張に口の中が乾いて仕方ない。
リュラは震えながら、かけられた毛皮に顔をうずめる。立ち上がるも、おびえた様子でよろよろと後ろに下がった。
「余は……」
あまりに尊大な語り口にも違和感がなかった。ネクタルは一言も聞き漏らさないように耳を澄ます。後ろの少女の挙動には気が回らない。
「余はアイギュプティオスが倅、ペイライオス。ネクタルという者に用がある。お主で間違いないか?」
彼から名を呼ばれた喜びでネクタルの心はうち震える。
「ま、間違いございません! 私とて、あなたのことは存じ上げています。ずっと、あなたに憧れてきました。イタケの中でも武勇優れる一族の若君であり、そして……」
「良い。己のことはお主より存じている。それを余に説明する必要などないだろう?」
その流暢な語り口に、ネクタルは自然と口を閉ざしていた。
「……余が聞いた話では、争いの神エリスは二柱おわすらしい。一方は戦神アレスの妹にして、火を噴き戦場を飛び回る恐ろしい女神である。我ら死から逃れられぬ人間は彼女のことを極力避けねばならぬ」
目の前に立つ男を青年は浮かれ心地で見つめる。先ほどの言葉に嘘偽りはなく、ずっと憧れ続けてきた人だった。
「片方、敬うべきエリスは我らが暮らす町におられる。隣人より富を得よと煽られるのだ。怠け者を叩きつけ、仕事に精を出させる。皆が競いあえば、国は富み、そしてより強固になるだろう」
「おっしゃることはもっともだと思います!」
「鍛冶屋は鍛冶屋と、商人は商人と競うべき。人にはそれぞれ神に与えられし役割がある。豚飼は豚を飼い、大工は家を建てる。貴様も誇りを持ち、農民としての立場を忘れず、畑を耕すが良い。武器を持つのは戦争の時だけにするのだ」
ネクタルの瞳に宿る情熱の火が疑いの風に吹かれ、ゆらめく。
「身分違いの争いは血を好むエリスを国に呼び込むぞ……。強者どもの争いは我ら貴族に任せよ。神に愛されているがゆえ、国に喜ばしい結果をもたらすだろうから」
小さく口を開きながらも喋れずに青年は言葉を唾とともに飲みこんだ。顔をこわばらせ、いやな汗を握りながら、相手が語り終えるのを待つ。
「お主はどう努力しても代表にはなれぬ。その血ゆえにな。だが余もお主の力は聞いておる。立派なものだ。今まで長老に貢いだ三倍の金をやる。畑仕事が嫌ならば、我が家の従者にならぬか?」
「……あなたの仰ること理解しました」
ただ伝えたかった。自分が憧れた人へ胸に秘めた夢を。けれど、相手がそれを受け入れないことをネクタルは察した。訪問の理由を知ってしまった。そして、告げることは定まる。
「僭越ながら、私からもお話したいことがございます」
「何だ、話すがよい」
「鍛冶屋はヘパイストスの加護をうけ技術を磨き、農民はデメテルの加護をうけ小麦を育てあげる。ですが、彼らは神に祈るだけでなく、己の努力により成果を上げたのだと思います。群雲の主たるゼウスは富の前に汗をおかれたのだから」
「ふむ。確かに。怠け者に神の王たるゼウスは祝福を与えぬだろう」
彼が自分の言葉に同意してくれるのが嬉しかった。けれど、これからの話の流れを考えればそれ以上に怖くもあった。
「努力から逃げるものには相応の結果が下される。時に神はきまぐれを起こしますが、最後には然るべ物を、然るべき者に与えると私は信じております」
「……何が言いたい?」
「私は選定の儀で勝利を得た。それは神から賜りしもの。もし私は戦うべきではないと神がお考えなら、与えなかったものでしょう」
「余は聞いておるぞ。お主が卑怯な手を使って戦っていると。不正にはいずれ神罰が下る。お主は瀆神者で、神の怒りを恐れぬのか?」
ペイライオスに冷たい瞳で見下ろされる。自分に用があると聞いて喜んだことが今はただ空しかった。そうして、ネクタルは平坦な口調でこう言い返す。
「私は、神を信じています。私が犯した罰ならば残らず逃げずに受け入れましょう。……ですが」
足はしっかり地面を踏んだ。腹に力を込め、言うべきことは漏らさずに、歯垣から矢のごとく言葉を飛ばす。
「選定の儀を抜けるつもりはありません。代表となるために全力を尽くすのみです。今まで神に与えられてきた勝利を理由もなく無駄にすることこそ、神に失礼でしょうから」
「お主は何のため戦う? 貴族の青年らは今の英雄になるために、民の誇り、国の威信を守る使命を抱き戦う。民衆から敬われもせず、自分だけ勝てばいいと考えるお主にその意志はあるのか? 独りよがりの者に国の代表はふさわしくない」
「ふさわしくないとゼウスがお考えならば、おのずと敗北は私に降りかかる。だからといって、私のすることは変わらない。神を敬い、全力を尽くすだけです」
相手の言葉の響きが正しかろうと譲れなかった。ペイライオスが貴族の誰かの命令で、でしゃばりの平民を儀から降ろそうとしていることは彼にも分かった。
「なるほど。長老がたの言ったとおり、口先ばかりは達者だ」
ペイライオスはため息をつき、辺りを見回す。視線の矢はネクタルの肩を通りこして、その背に隠れていた少女を貫いた。それまで余裕のある表情を続けていた彼が初めて顔をゆがめる。憎しみをこめて少女を睨む。




