4.4
繰り返される日常の風景で、安心を覚えるのは危険を味わったとき。神殿へ祈る少女の後ろ姿を見てネクタルは小さく微笑んだ。その両手には、さばかれたばかりの牛の肉が抱えられている。
「……ネクタルさま!」
少女が振り向き、いつになく大きな声で彼の名を呼ぶ。その手に竪琴が抱かれていることにネクタルは気づく。少女が自分の名を現すそれを持っているのを彼は初めて目にした。
「リュラか。いつも祈りを捧げて偉いな。どうした、それほど驚いて」
「よかった、無事だったのですね……。あの若君との戦いが本日と耳にしていたので……」
いつになく感情の起伏に富んだ話し方、少女の言葉には不安と喜びが込められていた。
「心配してくれたのか。ありがとう。ただ、あまり、気にしないでくれ。彼との諍いは私自ら呼び寄せたものだから」
ポリュボスからかばったことで彼女に引け目を感じさせてしまっているとネクタルは考えた。
「いえ! そんなことは……。あなた様はわたくしと、あるじの恩人ですので……」
「そういうならば、私もリュラに助けられているさ。……さて、今日は私も一緒に祈らせてもらおう。望みを聞き入れてくれた女神に感謝を捧げようと思ってな。パラス・アテナは私に勝利を授けてくれた」
「そのわりには、浮かないお声をしておりますね」
頭巾の下に隠された白い肌をネクタルはのぞきこむ。リュラはそれに気づいて顔をそらした。その頬の色は野原に咲く桃色の花のよう。
「申し訳ありません! 妙なこと……、失礼なことを口にしましたか?」
少女の動揺も、桃色の頬も、彼へと伝わる。ネクタルは照れてむずがゆくなった手で、赤くなった自分の耳にふれる。
「いいや、そんな事はない。ただ、いつになく頬をゆるませていると思ってな。喜ばしいことでもあったのか?」
「……ええ」
つややかな唇ののる口が優しげにほころぶ。純粋な笑みを浮かべ、リュラはうなずく。黄金色した髪が揺れる。ネクタルはその一瞬、美しい少女に心を奪われた。
「ネクタル様が、今お伝えしてくださったではありませんか。見事、勝利したと……」
初め、彼女の言うことを彼は飲み込めなかった。ややあって、その意味を理解する。広い草原に吹くような爽やかな風が彼の胸に訪れた。
日に焼けた顔をくしゃくしゃにしてネクタルは無垢な少年のように笑う。
「ありがとう。私の勝利を祝ってくれたのは、君が初めてだ」
肉を切り分ける彼の背中に、優しく美しい旋律が届く。竪琴の音色が体中の痛みを忘れさせてくれた。
天空へと上る煙。それを見て、彼の瞳は潤む。煙のせいではない。その滴は、今まで滝のようにかいた汗が凝縮されたように、さまざまな想いが込められていた。
そうして、ネクタルは勝利したことを遅れながら感じた。胸の内から徐々に喜びがもれ広がる。




