4.3
「さあ、今日も宴を開かねばならぬ。早くしとめてやろう。命乞いをするならば今が最後。言わねば、喉をかききってやろう。例えお前の命を奪おうと、たかが平民、復讐など恐れるに足らぬ」
砂塵がおさまる前に、ネクタルは立ち上がり、負けじと槍を構える。倒れた時に打ち付けた頭と背中はずしりと痛み、足の裏は焼けたように熱い。あまりの衝撃に盾をもつ手は痛みすら感じず、動かすことすらできない。
「私の腕はまだ自在に槍を扱える。二本の足も地面を蹴れる! 退く理由はない!」
「ならば、それらが壊れるまで、俺は武器を振るうのみ!」
恐れがないわけではなかった。その言葉には強がりがこもっていた。それでも、彼の胸の内では恐れを上回る何かがあった。
相手の動作に全集中力をそそぎ込み、すんでの距離でかわし続ける。早さにすら慣れるものだ、そう思った矢先、槍は彼の腕をとらえる。身の危機を感じ、動くはずのない左腕が引き寄せられるように盾を動かす。打たれた衝撃は防具を貫通し脇腹の骨まで届く。
三度、槍が振るわれた。盾を肩にのせて、ネクタルはその打撃を防ごうとした。衝撃のたびに、彼の足は沈んだ。そのまま、地に足がつき、倒れかけた。ポリュボスがとどめ一撃を屠ろうとしたその瞬間、勢いよく転がり、何とか距離をつくる。
瞬時に立ち上がり、ネクタルは大男の様子を眺める。先ほど自分はあれだけ隙を見せていた。けれど止めを刺されなかったのは相手が遊んでいるからだろうか。疑問の答えを彼は直ぐに知ることができた。
ポリュボスは滝のように汗を流し、猛暑にやられた犬のように息を荒くしていた。アレスの加護を受けると、力が強くなる一方、疲れもまた激しいものとなるらしい。『神威』にも難点があることをネクタルは知っていた。
感覚が消え失せたものの、盾持つ左手は動かせた。鍛えた槍を振るう右手には存分に力が蓄えられていた。相手が疲れから隙をつくるのを狙いネクタルは焦らず盾を構えた。
「ちょこざいな! 貝のように閉じこもりおって! それでも男か!」
嘲弄されてもひたすら耐える。彼が味わう言葉は『戦の時は逸る心を抑え守り抜き、隙をつくが良い』というあの夜のもの。その忠告に従い、全身に重りがつけられているよう感じても、必死に身体を動かし続ける。
「ふんっ! くそっ!」
その血筋を疑えぬほどに、ポリュボスは戦慣れしている。ネクタルはひしひしと思い知らされた。隙をついたと思った一撃も、瞬時に盾で防がれる。様子を慎重に窺えば窺うほどに、相手の守りも堅くなることに彼は気づく。打つ手はないのか。
互いに攻めきれず、休みを求めて距離があいた。その間に、彼の思いは定まる。
大きく息を吸った。そして、胸の内でつぶやく。「骨を砕き、打ち負かした方が勝ちという決まりではない」と。
喉元をねらい、槍を構え、大声でこう叫ぶ。
「これ以上、私はこたえられぬ。ならば、最後、全力を尽くし、私の槍が彼に届くか試してみようぞ」
大雨の後の河のように、心臓から右手の肉へ血の波がおくられる。筋は膨れ上がり、猛烈な勢いでネクタルは槍を振るう。とねりこの木の枝が砕かれんばかりの激しさ。武器と武器が踊るようにぶつかり合う。
押し合いへし合い、二人の力が秤にかけられる。重みは明らかになる。ポリュボスの力が勝り、ネクタルの槍ははじかれ宙を舞った。ポリュボスは勝利を確信し、ついに喜びが笑みとして表にでる。
「……っ」
ネクタルは蛇のように小さく息を吐いた。ポリュボスにやられた勢いそのままに、コマのように回りながら、地を蹴る。小さな体をさらに縮め、自分よりも二回りも大きな男の懐へと潜り込む。
「なっ!」
相手の言葉も反応も、なにより防御を待とうとはしなかった。盾の裏にいれこんだ木製の小刀を引き抜く。一筋の線が描かれた。それは宝玉を一つを二つへと切り分ける。
勝ったのか、ネクタルは分からない。動くのが不思議だった左手から、こびりついていた力がぬけて盾が地面へと落ちる。からからと青銅の金具が音をたてた。
自分の胸元を見つめるポリュボスは、驚きに、目も、鼻の穴も、大きく開く。口は上手に動かせず、ただただ身体を打ち震わせる。
「……ものが」
小さく空気が揺れた。鼓膜を荒々しく震わせる力があった。ネクタルは背筋に寒気を感じた。それは予感と言うには遅かった。
「この卑怯者が!」
ポリュボスが身に纏う赤い光はさらに強くなり、あたりに熱気を放つ。そうして振るわれた槍は、ネクタルの左肩をかすり、血を吹き立たせた。ネクタルは地面に伏せ、右手で盾を引き寄せ、我が身を守る。
ポリュボスは全力を込めて槍をふるった。剣筋をネクタルの目は追いきれない。莫大な力が込められたゆえに制御もきかず、槍は獲物をそれて地面にぶつかる。地響きと共に大地が爆ぜた。とねりこの槍は砕け散り、かけらが宙に舞う。彼の怒りは収まらない。鞘から黒金の太刀を引き抜いた。その黒い鉄が求めるは、同じ族の赤い水。
「お主の宝玉は砕けた。勝敗は決したのだ。後の争いははすべきでない……」
遅れながらも審判が自らの義務を思い出す。アンティポスは暴れ狂う若者に近寄り、その腕をつかみおさえた。
「しかし、こいつは卑怯だ! 卑怯者だ! 武器を隠しおって! 貴族への冒涜だ。許してはおけぬ!」
「それ以上やれば、貴公とて罰が下るぞ。儀式の参加資格も剥奪される。……落ち着くのだ。偶然は何度も続きはしない。次の手合わせで叩きのめせばよいではないか」
怒り冷めやらぬ益荒男へ、戦巫女エイレーネは優しげにつきそう。そうして、慰めの言葉を彼に捧げる。
「ポリュボス、怒りを抑えて。平民が卑怯な手で勝ちを手にしても、神は不服に思うでしょう。不正にはいつか神罰が下ります」
平民を見るエイレーネの瞳は、氷柱のように冷たく、鋭い。純粋な敵意と嫌悪を向けられ、ネクタルは自分の空想がいかに甘かったかを思い知る、
観客席が騒ぎ始めた。エルペノルは我先にこんなことを大言している。
「そうだそうだ。卑怯な手を使いおって。僕と勝負したときも、ずる賢いことを企んでいた。僕の機転により、勝利は得たがな。全く穢れた平民だ。この勝負もまた、呪われている」
盾に小刀を入れて何故咎められるのだろう。ほかの貴族も同じことをしているのをネクタルは知っている。自分が正しいと思ってしたことは、卑怯な行いなのだろうか。
優れた体躯の男が、優れた容姿の女に慰められている。それが、健全で正しい姿に見えた。彼は握りしめることもできない左手を見つめながら、自分の正しさを疑わざるを得ない。
誰もが、険しい顔をして、嫌悪の視線を彼に浴びせた。ネクタルは確かに勝った。けれど勝利の味は、上等な酒のように甘美ではなかった。むしろ、胸の内を焼き、臓腑をじわじわと痛めつけるヒュドラの毒薬に似ていた。
ネクタルは立ち上がり、自分についた埃を払う。皆に一礼をして、その場から去った。




