4.2
古びた防具も、ひたすらに磨けばわずかな光が蘇る。その光は、歴史のこもる重い光、作りたての防具には見られないもの。
体育場の広場にて、ネクタルは防具の準備をしながら手合わせを待った。太陽はそろそろ頂上まで登る頃合い、彼の番は正午と決まっていたものの相手の姿はいまだ見えない。
約束の時が迫るにつれ、観客席の皆が不安になりだした。戦巫女エイレーネが審判のアンティポスへ、青年の館へ使いを出すべきか相談していると、皆の心配をよそにその張本人、ポリュボスが堂々とした足取りで現れた。
「ポリュボス! 遅いですよ! 何をしていたのです」
エイレーネを自分に寄る羽虫のように追い払い、ポリュボスは大きくあくびをした。
「ああ、少し遅れたか。昨晩は隣国の客人を招き、盛大な宴を開いたのだが、ちと酒を飲み過ぎた。まあ、今日の俺の相手ならば、二日酔いでも力を持て余すだろうに」
ネクタルは立ち上がり、ポリュボスの前に立つ。
「至れり尽くせりの贅沢はうらやましい限り。負けたときの言い訳まで用意されてるとは」
「ふん、口ばかり達者な豚め。無駄口をたたかぬ分、昨日さばいたおまえの兄弟の方が利口であった。今日は貴様を裁く番だな」
言い合う二人の間にアンティポスが割り込む。ネクタルに一瞥もくれず、ただポリュボスをなだめる。
「ポリュボス、口を慎め。全てを見渡すゼウスの神域の前であるぞ。戦を始め、力にてお主の言葉の正しさを示すが良い」
ネクタル、そしてポリュボスとエイレーネは広場の中心へ歩む。距離をとり、向かい合いながら、武具を装備する。ポリュボスとエイレーネは男女の奴隷に用意をさせ、ネクタルは我が手で身につけた。
六つの首と十二の足を持つ恐ろしき化け物スキュラ、その装飾がなされた胸当てがポリュボスのぶあつい胸板をおおう。赤く光る化け物の瞳こそが勝敗を決する宝玉である。
兜は顔にぴたりと張り付き、主を守るだけでなく、不気味に垂れた馬毛の飾りが相手を威嚇する。幾重にも重ねられた革を囲むは、青銅だけでなく強固な黒金を使った金具、それは豪勢に金装飾された丸楯だ。並の家ならば十年は暮らせる価値のあるもの。ゆっくりと盾を持ち、戦神の聖樹であるとねりこの槍を構える。
付き添う女も鎧をまとう。革と青銅でつくられた兜、胸当て、それらを身にまとう姿は、戦技の女神パラス・アテネを思わせる。
対する男は、焼け焦げたように黒い革の盾を持ち、麻を編んだ安物の胸当てを身につけた。その中心には露わになった心臓のように赤い宝玉が埋められている。
すね当ての黄金を模した真鍮の飾りはとうの昔に色あせてしまっている。見栄すらはれない。けれど、彼が持つものが盾と槍ということは相手と変わらない。
両雄そろい前にでる。観客の若者たちは、これから起こるであろう惨劇に、半ば不安に、半ば心を躍らせている。審判であるアンティポスが彼らの元へ厳かに着き、天へと高らかに宣言する。
「群雲の主、神の王ゼウスよ。四年に一度、開かれし大祭にて、貴方を祝うにふさわしき者を選ばれよ。胸当てにつけられた宝玉が砕けるか、負けを認められるか、もしくは戦えぬ身になったとき、残った一方こそ、その座にふさわしい。さあ、互いに武器をぶつけあえ! 神に選ばれんがために!」
投石機から放られた岩石のような勢いでポリュボスは跳んだ。一直線に槍を付く。おびえずに目を見開いて、ネクタルは無駄のない動きでかわす。第二撃、盾で相手の怪力をいなして。第三撃、槍同士をぶつけて、弾く。
「豚というよりかは、それに集まる蠅のようだ。お前も男ならば、槍をふるえ!」
「なるほど、私は蠅か。ならば今それに煩わされているあなたは、豚だろうか? 今までいただいたお褒めの言葉、そのままお返ししよう」
「たわけが!」
怒りのこもる槍が突きだされる。宙に舞う羽毛のごとく、ネクタルは攻撃をすりぬけ槍を突き返す。不意を打たれ、ポリュボスは盾で防ぐのが遅れた。木の葉型の剣が宝玉をかする。けれど化け物の装飾を傷つけるだけ。砕けはしない。
相手が一歩引いたのを目にし、ネクタルはさらに踏み込み、槍をふるう。足場が悪く軌道がそれ、相手の右肩へ当たった。
「お前の力など子供のそれと変わらぬ。避ける必要もないな」
頭に血が上り、ネクタルはそのまま攻め込もうとした。この数日の間に鍛えた技で、あのポリュボスを押すことが出来ている。手を止める必要がどこにあるのか?
心臓を握りしめるよう無理矢理に、はやしたてる気持ちを押さえる。『盾を構えよ』あの夜の言葉が頭に響く。距離をとり、相手の様子をうかがう。
ネクタルが守りに入ったと気づき、ポリュボスは遠慮なしに力を振るった。ネクタルは相手の目を、槍先を静かに見つめ、その剣筋を察する。鋭い一撃をよけ、かわせぬものは盾でいなす。
アテナイ人との拳闘に比べれば単純な動きだった。痛みを恐れるだけでなく、知ったからこそ真っすぐ捉えおびえずに対処ができた。
そうして、互いに決め手のないままに勝負は続く。時が経ち、日もかげり始めた。すぐに、葡萄酒に似た液体を見られると期待していた観客たちは、この戦いに飽きて口を動かし始めた。
「今日はポリュボスが不調なのか、いやに平民の動きが素早く見えるな」
そうつぶやくのは、前戦でネクタルを打ち負かした痩せ気味の貴族、エルペノル。たしかにポリュボスの動きは緩慢になった。息は切れ、額には汗が流れ落ちる。
一時間も体を動し続ければそれが当然だった。未だなお整った呼吸の相手が異常なのだ。その点では貧相な軽い鎧が役立っている。けれど、それだけではない。腕力は敵わずとも、ネクタルの体力は相手を幾段も上回っていた。
「……まったくしぶとい奴だ」
ポリュボスが盾で殴りつけ距離をつくる。そうして、力強く、槍の柄を大地へ打ち付けた。
「このままやっても時間がかかるだけ。俺の時を平民などのために無駄にはできぬ。仕方のない」
そうして、重々しい声で、こう口にした。
「……『神威』を発動せよ、エイレーネ。さあ、決まりだ! 一度決まったことを直ぐに行えぬのは、愚図の証。早くしろ!」
戦巫女エイレーネはそれを受け、腕を組み神へ祈り始める。止めることもできぬと察し、ネクタルは相手の力を図ることを優先し盾を構える。
「向かい合うものの一方に輝かしき栄光を、他方に暗き死を与えたもう戦の神よ」
歌が不気味に響くほど、ポリュボスの体が光に包まれていく。返り血に染められたように、赤く、紅く。
「ゼウスとヘラの息子、戦神アレスよ! エウリュマコスの子、ポリュボスに、相手の目に暗闇を注ぐ、屈強なる力を授けたまえ!」
光は目に突き刺さるほど強くなる。ポリュボスの筋肉は膨れ上がり、元より大きな体躯が一回りも二回りも巨大になる。それは、向かう者に恐ろしい人食い巨人を彷彿とさせた。
槍を振るえば余りにも速く、ネクタルはなす術なく吹き飛ばされる。力のこめた足腰ができたのは土煙を舞い上がらせることだけだった。




