霞暁
まだ少し冷たさの残る、春風が頬を撫でた。
窓の外、遥か遠い宇宙には赤い三日月が浮かぶ。
窓辺でロッキングチェアに腰かける私は、それを見つめながら、小さく息をついた。
「もう、春なのだな。」
私は幾重にも重なる赤い月へ手を伸ばした。
届かぬとわかっていながら、必死に手を伸ばした。
私が幼き頃から夢見たこと。
それは、美しくも膨大な力を秘めた月に触れることだった。
今でもその思いは断ち切れず、こうやって何度も手を伸ばすのだ。
…何時も同じ結果を見ることになっていても。
そして、今日もまた、触れられずに終わった。
わかっていても、やはり悲しい。
そっと、目を伏せて俯くと、自分の足を睨んだ。
もう、飾りでしかないこの足。
5年も前に動かなくなってからというもの、それっきりだった。
目も格段に視力が落ち、今では月が何個にも重なって見えるのだ。
これでは、彼処へ…月へと向かえないではないか。
キシッと軋むロッキングチェアの上で、もう何の役にもたたない足に拳を打ち付けた。
痛みは、ない。
が、心が締め付けられるように痛かった。
「くそっ!」
あの日に戻れたら。
あの日をやり直せたなら、今…。
幸せに暮らすことが出来ただろうか。
暗い暗い、森の中で。
今でもハッキリ覚えているあの日も、月は赤かった。
戦乱の世。
私達の部隊は敵に奇襲をかけるため、敵のアジトへと向かっていた。
恐ろしいと思えるほどに禍々しい、血の色をした月はそんな私たちを無表情に見下ろしていた。
が、現実は甘くない。
私たちの奇襲作戦は相手側に漏れていたらしく、勝利を確信して油断していた私たちに次々と矢の雨が降り注いだ。
そして、お互いが戦い終えた頃。
月明かりの中、私は懸命に足を動かしていた。
だが、もうすでに殆ど機能を失った足では全くと言っていいほど、進んでいなかった。
辺りには私を守るために命を落とした仲間たち。
結果は私以外、全滅。
私はそんな彼らを置いていくことしか出来なかった。
何故なら、生き残った私でさえも致命傷を負っていたから。
私の太股には毒矢が突き刺さっていた。
傷口からは絶えず血が溢れ、毒が回りはじめていた。
そんな状態では人を持ち上げることはおろか、歩くことすら儘ならない。
「何が隊長だ!何が強き女だ。」
ギリッと、噛みきる位の強さで唇を噛んだ。
途端、口の中に血の味が広がる。
それでも、この悔しさは拭いきれなかった。
大切な隊員を助けることの出来なかった隊長が。
仲間を守ることすら出来なかった女のどこが強いのだ。
そう思わずにはいられなかった。
「くそっ!」
そんな間にも体じゅうに毒が回り、ガクリと膝を着く。
私を命をかけて守ってくれた彼らの為にも、この命を無駄にするわけにはいかない。
その思いでもう一度足に力を込めるも、少し浮き上がっただけで、次の瞬間には再び膝をついてしまった。
何度繰り返しても同じで。
むしろ、毒がさらに体を蝕み、状況は悪化していくばかりだった。
「皆、すまない。」
いや、彼らも私の死を望んでいるのかもしれない。
自分だけが生き残り、卑怯だと思っているだろう。
そんなお前など、地獄の業火に焼き払われて仕舞えばいいと。
半ば言い訳がましい理由をつけて、私は体から力を抜いた。
仰向けになって、ボンヤリと歪んで映る月を眺める。
死ねば、月に近い星になれるだろうか。
いや、卑怯な私にはそんな権利は与えられないのかもな。
だが、どちみちこの世界で生きる権利はもうない。
私に残された選択肢は唯一冷たい「死」のみだ。
ならば、諦めてしまってもいいじゃないか。
「さらば。この世よ。」
私は薄れていく意識と共に目を閉じ…かけた時だった。
不意に辺りを照らしていた月明かりが消えた。
私の上には影が差し、赤い月を視界から奪い去った。
「こいつ、生きているのか?」
そんなとき、降ってきたのは人の声。
どうやら、影の正体は人だったらしい。
焦点の定まらない私は、どうにか口を動かした。
「誰だ。」と
すると、相手が驚いているのが気配でわかった。
「女か!」
嗚呼、わかっている。
けれど、私もお前達と同じ兵だ。
剣を携え、戦の中を駆け回った兵なのだ。
私に女だからと言って慈悲を垂れないでくれ。
助けようとはしないでくれ。
私はもう此処に居るべき存在ではないのだ。
もとはといえば殺される運命だったのだ。
それが幸か不幸か生き残ってしまっただけの話。
だから、此処で。
運命通りに殺してくれ。
一思いにまだ動いている私の心臓を突き刺しておくれ。
私はそう願った。
相手は少しの間、戸惑っていたようだか、やがて私に手を伸ばした。
背中に片方の手がそっと当てられ、少し起こされた。
もう片方の手は頬に軽く触れるとすぐに離れた。
が、代わりに何か固く冷たいものが唇に当てられ、苦い液体が喉の奥に流し込まれた。
それが何か分からなかったが、抵抗する術もなく、されるがままに飲み込んでしまった。
しばらくして。
視界が徐々にハッキリしはじめたのだ。
完全とまではいかないが、相手を確認するには十分な視力だった。
そして、真っ先に目に飛び込んできたのは敵の部隊の紋章。
それが、相手の腕には巻き付いていた。
そうか、さっき飲まされたのはもっと強い毒か。
今、視界がハッキリしたのは互いが拮抗しあっているからなのだろう。
そう結論付けると、再び焦点が定まった目で、相手の顔を伺った。
そこにいたのは、私と同じ位の年齢の若い青年だった。
その顔はとても整っていたが、何処か苦しそうに顔を歪めていた。
あらかた、人を殺すのが初めてなのだろう。
真面目そうであるから、罪悪感に苛まれているに違いない。
だが、いちいち苦しんでいるようでは、この戦乱の世は生きていけない。
私は笑った。
出来るだけ、優しそうに儚げに。
躊躇いの思いを持っているのなら、今此処で捨てろ。
お前が生きる為だ。
が、青年は予想に反して笑い返してきた。
純粋な、安堵したような笑み。
どうして笑っているのだろう。
人の死を見るような笑みでなく、どうしてそんなに無垢な笑みを浮かべていられるのだろう。
私は不思議でならなかった。
だが、青年は尚も笑って言った。
「良かった。」
尋ねようにも声が出ない。
体も動かない。
私はひたすらに青年を警戒して睨んだ。
腕にある紋章は敵である証。
何をしでかすかなど、わからない。
警戒を一向に解こうとしない私に、青年は苦笑いしながらも、ジッと見つめ返していた。
だが、毒の回りはまた徐々に再開しはじめ、視界はまたボンヤリとしてくる。
殺せ、殺してくれ。
元から身動きの取れない私はただそれだけを切に望んだ。
この時の私には「生きる」という選択肢はなかった。
完全に生きることを放棄していた。
薄れ行く意識の中、何度も願った。
だが、意識はそんな私を置き去りにして、完全に消え去った。
そして、今。
私は此処にいる。
5年という長い歳月、無駄な命を貪り続けた。
だがやはり、あの時死ぬべきだったのだ。
死んでいれば、回りに邪魔になることも。
「彼」の人生を無意味なモノにしてしまうことも。
なかった。
なかったはずなのだ。
私は膝の上に置いた剣の柄をギュッと握りしめた。
5年前、私が戦を駆け抜けていた時、携えていた剣だ。
彼が留守の今、私は苦労の末に自室へ持ち帰ることが出来た。
だが、これを振るうことは今の私には出来ない。
何て言ったって、もう5年もベットの上で生活していたのだ。
腕の筋肉はなくなって、痩せ細り、毒の後遺症で足ほどではないが、腕も麻痺している。
精々出来ることといったら、剣を僅かばかり持ち上げるまでだった。
こんな調子で自室に持ち帰るまでは2週間もかかった。
「本当に何も出来ないのだな。私は。」
自嘲気味に笑って、私は膝から剣を払い落とした。
剣では死ねない。
そうと分かれば、別の方法に頼るしかない。
私はロッキングチェアをズルズルと降りると、窓の淵に捕まった。
そして、ゆっくりと自分の体を持ち上げる。
ここ何日も何も食べていなかったせいだろうか。
腕の麻痺が嘘のように、多少の苦労をしながらも、窓から身を乗り出すことに成功した。
「ようやく、私は死ねるのか。」
空には赤い月。
この世に思い残すことと言えば、幼き頃に夢見たあの月に触れられなかったことだろうか。
嗚呼、この月を見るのも最後か。
私は遂に身を投げ出した。
春の風がフワリと私の髪を巻き上げる。
そして体が降下しはじめ、下半身も窓の外へと出ていこうとしたときだった。
ふと、腰に何か温かいものが巻き付いた。
抵抗する術のない私は簡単に巻き付いたものに部屋の中へ連れ戻されてしまった。
一体、何がと思う前に、背中にコツンと何かが当たった。
続いて耳にくすぐったい感触が。
私は腰に巻き付いた腕を見て、ようやく相手の正体を悟った。
「彼」だ。
遠くにいるはずの「彼」。
「おまっ…どう、」
「何しようとしてた?」
彼は私の言葉を遮ると、怒気のはらんだ声で私を問いただした。
その迫力はどんな戦場で見てきた奴よりも強く、私は声が出なかった。
「言いなよ。窓を飛び出そうと思った理由。」
「っ!」
彼は一層、抱き締める強さを強くした。
だが、答えられずに月に視線を戻した。
だって、言えないだろう。
自分を助けてくれた人。
あの日の青年が助けてくれた命を、本人の目の前で捨てようとしていたのだから。
「言えないんだ。」
相手、「彼」は拗ねたように言って、抱き締めるしめる腕の力を緩めると、乱暴に私の体をロッキングチェアの上に放り投げた。
痛みはない。
でも、彼が向かった先を見て青ざめた。
彼が向かった先には、小さな宝石箱。
その中には遺書が入っているが、内容はさっき思いを馳せていた通りのこと。
つまりは私の正直な、真実が書かれているわけだ。
だが、生き残ってしまった今となっては、彼の怒りの火に油を注いでしまうだけだ。
「止めっ…!」
私は必死に彼を呼び止めようとするが、彼は振り返らない。
宝石箱を開けるなり、中に入れてあった、遺書の封を切った。
文面に目を通す、彼の表情はたちまち怒りの形相に変わっていく。
「死んでもいいだって?生きる権利が無い…だって?」
「…あぁ。」
「ふざけるなっ!」
「ふざけてなどいないっ!」
私はつかみかかる勢いで言い返した。
案の定、バランスを崩してロッキングチェアから転げ落ちる。
いつもは優しく手を差し伸べてくれる彼は、そんな私の胸ぐらを手荒に掴んだ。
「命をそんな、粗末な扱いをしていいわけ無いだろ。」
「粗末も何も、私は死ぬべき生命だ。死ぬべき者が死んで、何が悪い?」
「だが、君はこうして生きてる。死ぬべき者なら、もうとっくに死んでいるはずだろ?」
「だが…。」
此処で言葉に詰まった。
言いたいことはたくさんあるのに、言葉に出来ない。
そんな私を彼は挑戦的に笑いかけてきた。
「だから、君は死ぬべき存在じゃ無いんだ。」
「けれど…私は…」
「止めてくれ。もう、あんなこと。」
「待ってくれ!」
何も言えずに、彼は立ち去ろうとする。
そんな背を私は呼び止めた。
「教えてくれ…。」
「ん…。」
弱々しげにきく声に、彼は今度は足を止めた。
「私は…何を求め、何をすればいいのだ?こんなに使えない女を生かしておいて、お前は何を望む?」
そうだ。
こんな迷惑をかけるだけの私をどうして、彼はひき止めるのだろうか。
私なんかがいたとしても、彼の貴重な時間を割くだけであるのに。
私には此処にいることや命を大切にすることの意味がわからなかった。
戦場では何時死んでもおかしくなかった。
そんな状況に長く身を置いていた私には理解出来なかった。
存在意義を見いだせそうになかった。
あの頃の私の存在意義となっていたのは、戦えることだったから。
今戦えない私には何の価値もないから。
「君は死なせない。死なせたくない。」
「確かに人の命を奪ったことないお前はそう思うかもしれない。けれど、私はこの世での役目を終えた。戦えない私は、いる意味がない。」
「でも、君を大切に思う人が悲しむだろう?」
「私を大切に思ってくれる人などいない!」
「いる!いるよ、此処に!」
次の瞬間、私は彼の腕の中にいた。
彼は震えていた。
小さく、幼き子供のように。
「僕にとって、君は大切な存在なんだ。失いたくない、女なんだ。」
「お前…。」
「だから生きてくれ。君がいなくなれば、僕も今の君のような気がするから。」
「つまりは、お前が望むのは…。」
「僕の側にいてくれ。君がこの世にいて、迷惑だと思っているのなら、側にいることを見返りとしてもらう。存在意義も僕への恩返しと思えば、それでいい。」
側にいることが…恩返し。
そう言う彼はこんなにも私を大切に思ってくれていたのか。
「僕は君を…愛しているから。逝かないでくれ。」
私は震える彼の背にそっと手を置いた。
それに気がついて、彼は顔を上げる。
暫くの沈黙。
彼の表情が曇りかけた、その時。
私は言葉を発した。
「…ありがとう。」
「それって?」
「言わせる気か?側にいる…お前の。いや、貴方の側に。」
決断。
それは「戦の中の兵」を捨てること。
一人の「女」として、彼を支え、生きていくことだった。
生きる意味を与えてくれた彼に。
「兵」という肩書きをから解放してくれた彼に。
「…こちらこそ、ありがとう。好きだ、愛してる。」
「あの日、敵であるにも関わらず、私を助けてくれた。貴方だからこそ、私は側にいる。」
「あの日、助けてくれたのは君の方だ。一目惚れした。僕の人生に光を差してくれた。」
彼にもきっと、辛いことがあったのだろう。
それが何か、ということは聞かなかった。
彼が心のうちを話してくれる時になるまで待とうと思った。
「私は貴方への償いを出来ないことを歯痒く思っていた。そして、その償いは死ぬことだと勘違いしていた。本当は生きて、何か自分に出来ることを探すことだったはずなのに。」
「わかってくれたなら、それでいいんだ。君を失わずに済んだんだから。」
「私も貴方のいない世界に行くことが無くて良かった。」
私はもう一度赤い月を見上げた。
もしかしたら、彼と一緒ならあの月にも手が届くかもしれない。
とっくに諦めざるを得なくなっていた夢。
だが、そんな夢でさえも何故だか叶いそうに思えた。
「暁…不思議な力を持つ赤き月よ。」
これは、赤き月が1ヶ月に一度、あらわる世界で。
戦に生き、存在意義を求め続けた一人の女の半生。
残る人生を彼女がどう歩んだのか。
それはまた別のお話。
かなりシリアスな小説を読んでいただき、ありがとうございます。
毒などの描写で正しくない部分があるとは思いますが、ご了承ください。
これは、視力の悪い私が月を見上げた時に思いついた話です。
感想・アドバイス等、お願いします。