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死に神と女神のひるさがり

手刀が僕の頭頂部に目掛けて、上から降ってくる。僕は右に避けてから、顔面に左手でストレートを狙う。相沢(あいざわ)さんは攻撃を避けると、伸びきったその腕を掴み、一本背負いをしてくる。僕は受身の体勢を取る。しかし、相沢さんの行動は僕の予想を超えていた。途中で僕の腕を離し、空中に投げ出したのだ。僕は上下百八十度反転した世界を頼りに床がどちらかを確認し、両の手を床に伸ばす。直ぐには止まらなかったが、なんとか壁にぶつかりまではしなかった。僕は四つん這いで着地すると、そこに相沢さんの長くて綺麗な脚が迫っていた。こんなのを食らったら死んでしまうと本能的に感じ、どうにかこうにか顔を逸らした。だけど、相沢さんの踵が今度は脳天に目掛けて降り下ろされる。これは避けられないと判断した僕は、右腕を頭上に持っていく。腕に踵落としが突き刺さり、骨にヒビが入ったような気がしたが、そんなことを気にしている暇もない。直ぐに距離を置かなければ、また蹴りの餌食になってしまう。

「うがぁぁ!!」

 僕は声を上げながら相沢さんの脚を押し返し、間合いを広げる。相沢さんは、ニコニコと満面の笑みを浮かべながら、僕の出方を窺っている。此方の出方がどうでも、相沢さんに迫られたら、此方が対応出来ることなんて殆どないというのに。と言っても、それでは稽古にも何にもならないから、仕方ない。

 この前の学校での事件から、彼女の家――邸宅に戻ってきた僕は、こうして週に一度の稽古――彼女のボディガードのための稽古――をしている。内容は相沢さんと組手。というか此方が一方的にやられている気もするが。

 相沢さんは、全く仕掛ける気がないようだ。此方の出方を窺っているのではなく、受け身の体勢に入っているらしい。そうなれば、此方から攻撃するしかないのだが、相沢さんの後手必殺の手を受けるのは、身体的に辛い。相沢さんの攻撃は一回一回が重すぎる。本人は普通にやっていると言うが、あの人の普通と一般人の普通は違うみたいだ。

 このままだったら膠着(こうちゃく)状態なので、此方から仕掛けよう。僕は床を蹴って、脚が届く範囲まで距離を詰める。相沢さんは驚いた顔をしているが、演技だろう。僕は相沢さんの顔面に回し蹴りを入れようとする。相沢さんはこれを(かわ)してきたので、僕はもう一度回し蹴りで顔を狙う。相沢さんは向かってくる脚を腕で守る。流石に三度回し蹴りをする勇気はない。相沢さんも足払いをしてこなかったということは、矢張り今回は受け身らしい。防御だけで何もしてこない。

 僕は、顔面を狙って左の拳を突き出す。相沢さんは顔を逸らす。僕は相沢さんの注意が左にいっている間に右手でボディーブローを狙う。しかし、相沢さんはそれに気付いていたようで、身体を捻って躱す。まぁ予想通りではあるが。攻撃はしないけど、攻撃を当てさせてくれるわけでもないと。中々厳しいな、相沢さんに一撃を与えるのは。運が良ければ……いや、こういう時に自分の運はあまりに信用出来ない。その後も、何度かパンチを出してみたが、ギリギリのところで避けられる。

 稽古場の時計にチラリと目をやると、一時五十分前である。そろそろ潮時だろう。相沢さんもそう思っていたようで、防御を止めて反撃に転じてくる。相沢さんは左手の甲で僕の左ストレートを軽くいなすと、右の脇腹に衝撃を走った。下に目線を落とすと、相沢さんの拳がめり込んでいる。息つく暇もなく、今度は左頬からの打撃に、顔が無理矢理右に向かされる。守ることすら出来ない。正面からいれられた蹴りに後ろに倒される。立つ暇もなく、相沢さんが僕の上で馬乗りになった。そして、僕の顔面に拳を振り下ろし――。

「降参!」

 相沢さんの拳は眼前で止まった。時計は二時丁度を指し示している。相沢さんは、僕の上でニコリと笑顔になる。

「二時です」

 相沢さんは僕に笑いかける。

「二時ですね」

 と、僕も返事する。

「今日の稽古は終わりです。お嬢様のところに行きましょう」

 確か彼女から呼ばれていたのは、二時半。良い頃合だろう。それにしても、上手いことに時間になったな。もしかしたら、そこも計算に入れていたのかもしれない。相沢さんは身体を伸ばしながら、入口に向かっていく。

「あぁ、ちゃんとシャワー浴びてきて下さいね。汗臭さ漂わして、彼女の前に現れたら、彼女に失礼ですからね」

 汗一つかいていない相沢さんに釘を刺されたので、僕は更衣室に向かう。服を脱いで、シャワー室に移動して、蛇口を捻る。身体に当たる水が稽古で出来た痣に染みたが、ある程度汗を落としてから、シャワー室を出る。臭いが取れたか身体を嗅いでみたが、体臭なんて自分で分からないものだと気付いて、止めた。

 僕はいつもの燕尾服に着替えて、更衣室の時計を見る。時刻は二時十五分だった。此処から彼女の部屋まで十分ぐらいかかるか。彼女は時間に五月蝿い。十分前には行っておかないといけないから、少し急いだ方が良いようだ。……間に合いそうにないが。



 結局彼女の部屋に着いたのは、二十分を一分過ぎてしまった。恐る恐るノックしてからドアを開けると、彼女は部屋に居なかった。おかしいな、此処に居るはずなのに。と思ったが、奥の窓が開いていて、カーテンが揺れている。あぁ、テラスの方に出ていたのか。彼女の部屋を横切って、テラスに出る。すると案の定、彼女と相沢さんが居た。彼女は桃色のプリンセスラインのドレスを身に纏い、アンティーク調の椅子に座っている。その前には、同じデザインのテーブルと紅茶を淹れる相沢さんが居る。相沢さんはいつもと同じメイド服を着ている。

 彼女――瀬良那(せらな)()は、誰が呼んだか知らないが、世間では幸運の女神と呼ばれている。それは彼女の人生が既に幸運で溢れているからだ。彼女はごく普通の一般家庭に生まれた。銀行立て籠り事件――強盗に入った犯人グループが籠城の末、最終的に自爆するという事件で、彼女は唯一の生き残りだ。この事件で彼女は両親を亡くし、孤児院に引き取られた。両親が死んだことは、彼女にとって不幸なことではないらしい。私が幸運なだけであって、私の周りまで幸運になるわけじゃない、と彼女は言っていた。孤児院で暮らしていた彼女は日本を裏で操っていると言われている瀬良(せら)源蔵(げんぞう)に引き取られた。彼女の幸運な人生はそこから本格的に始まる。買った宝くじが一等を取ったり、競馬で万馬券を当てたり。その才能とも体質とも呼びがたいまさに神のような能力に目を付けた瀬良源蔵は、彼女に自分の孫会社の経営を一任すると、その会社は急成長を遂げた。彼女はそれ以降、会社経営に関わるようになり、今もその能力と手腕を振るっている。

 彼女が僕と出会ったのは、ある事件がきっかけだった。その時彼女は、僕に死に神という名をつけ、暇つぶしに丁度いいという理由で執事にしたのだ。その結果、僕は彼女と様々な事件と関わり、解決することとなったのだ。今もその関係が続いている。

 相沢さんは、瀬良源蔵直属のボディーガードだ。相沢さんは身元不明、性別不明、経歴不明の謎の人物である。その経歴を知ってるのは、瀬良源蔵、ただ一人と言われている。今は彼女のボディーガード兼専属メイドとして一緒に暮らしている。

 相沢さんと彼女が僕に気付き、彼女は仏頂面で此方に文句を言う。

「遅いわよあんた。時間も守れないの?」

 時間を守れていない、と言われてもたった一分遅れただけじゃないか。これぐらいは許容範囲だと思うんだが。取り敢えず、彼女に頭を下げて謝っておく。顔を上げると、相沢さんが手招きしていたので一応相沢さんと彼女の横に行く。相沢さんは僕に紅茶の管理を任せると、自分も彼女の前の席に着く。

 テーブルの上には、薄い冊子が置かれている。冊子にはゴシック調で、「七々(ななはら)美術館」と書かれている。どうやら、美術館のパンフレットのようだ。でも、何でこんなものが此処にあるのだろう。彼女は、わざわざ美術館に行くほど芸術に興味がないはずだ。

「これ、どうしたんですか?」

 と、僕はテーブルのパンフレットを指差す。

 彼女は、此方を見ないで何も答えず、代わりに相沢さんが答える。

「今度、アトリエに行くことになったんです」

 美術館という言葉に、僕は少し動揺した。行くことになったということは、誰かに誘われたのだろう。それもアトリエだ。彼女がそんな誘いを了承するなんて珍しい。恐らく、気紛れだろうな。行くことになった、と言っていたが、本当に行くか――もしかしたら、当日に行かないとか言い出すかもしれない――それだって怪しい。

「誰と行くんですか?」

「どうしてそんなこと聞くんですか?」

 彼女を誘った、ある意味命知らずの人物に興味がないわけではなかったが、むしろ、彼女が一度でも誘いを断らなかった人物にも興味がないわけではなかった。

「別に誰でもいいじゃない」

 彼女はそう言うと、紅茶を(すす)る。クスクスと、相沢さんは笑いながら彼女を見ている。それから、相沢さんが例の人物について話し始めた。

「彼女を誘ったのは、加藤(かとう)広明(ひろあき)さんです。あなたが居ない時に行ったパーティーで知り合った、男性です」

 男性です。と、相沢さんは何故かそこを大きく強調して、言った。何でそこを強調したのだろう。パーティーって言ったら、きっと豪華絢爛(けんらん)で世界的に有名な財閥の人達が集まるそういったパーティーだろう。なら、加藤という人もそういった人物なのだろう。彼女がそのパーティーに行ったということは、彼女の養父――瀬良財閥の総帥、瀬良源蔵――に呼ばれたのか、相沢さんが行くように言ったのか。確実に後者だ。きっと、瀬良源蔵が何らかの理由で行けなくなったのだろう。その理由は僕には知り得ないところだが。

「加藤さんは、由緒正しい茶道の家系の方です。身長はかなり大きいですよ。細型で、顔はあまり特徴のない感じです」

 と言われても、実際に見たことのない人のことを言われても分からない。それに今後、会うこともないが。

「というわけで、珍しくお嬢様の知り合いになった加藤さんに誘われて、私とお嬢様、そしてあなたと行くことになりました」

 どうして僕も参加人数に入れられているのだろう。僕がその質問をする前に相沢さんが畳み掛けてくる。

「なので、明日の朝、車の運転をお願いしますね。加藤さんは途中で拾いますから、よろしくお願いします」

 相沢さんの目が有無を言わせない、と行った感じで、僕はすっかり諦めてしまった。すると、彼女が無言で空になったカップを突き出してきた。継ぎ足せってことか。僕は内心で溜息を吐きながら、紅茶を継ぎ足した。


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