第六話『有毒親友』
カーテンの隙間から差し込む朝日が胡乱な意識と目に付き刺さる。
「…ああ、…朝か。」
布団をどかす。
寝ぼけたままベッドから降りて正面に用意してある服を手に取り、何でこんなにスムーズに起き上がったのだろうと、苦笑した。
振り向いてベッドに置かれている目覚まし時計を見るといつもの電子音が鳴り響くより十五分ほど早い七時五分をまわったところ。
シャツに腕を通してから、いつものように洗面台と向かい合い、顔を洗い、髪を整える。
「………あー…」
ため息のような唸りがこぼれる。
いつもより一キロほど頭が重い気がする。
それもすべて、今日これから学校で実行することになっている例の作戦のせいだ。
唸りながら全開に捻った蛇口からは、ざあざあと水が勢いよく噴出し飛沫が飛び散っている。
それを掬い、一度顔を洗って締める。
「ん……」
目を閉じたままタオルを取り、顔を拭くと、意識は意思に反して覚醒していった。
一階ではパタパタと足音がしている。親父がいつものように朝食を作っているんだろう。
部屋に戻って再び時計を見やる。
いつの間にか七時十五分。
まるで、残酷な時間君は俺を助けるどころかいつもの五割増くらいのスピードで審判の時へ俺を誘おうとしている様だ。
ああ、神様いるなら時間を止めてくれ。
「…学校、行きたくねぇ〜〜……」
消え入りそうな、最後の弱音を吐いて、壁にかけてある制服を羽織ると――
がごぉ、ごっわわわわぁっ!!
かんからか〜ん!
という音がドアの向こうで鳴り響き、蝶番ごと弾け飛びそうなほどの勢いで部屋のドアが開いた。
「登校拒否かっ!?ニート入門なのか!?」
わなわなと体を震わせ、俺を起こしに来たのだろう、手に持っていた空の中華なべと鉄製のオタマを取り落とした親父が目に涙をためていた。
「あ。……ちが…」
―――やべぇ。
「み、みゆきぃぃぃぃぃ!!!!」
階段を転がり落ちる勢いで誠は駆け出した。
普段身に纏う知的な第一印象などかなぐり捨てて、水面を走るトカゲよろしく激しい足音は確認するまでもなく深雪の仏壇へと向かっていた。
「あああああああああっ!!ちくしょう!!」
追いかけるように伸は階段を駆け下り居間へ。
用意されている朝食のうち卵焼きなどを胃に捻じ込んで、牛乳を流し込む。
トーストは包んでかばんに放り込む。
「うまかったよご馳走様今日も元気に学校行ってくるからあとよろしくなおやじ!!!!」
どうせ仏壇を前に十字を切っているのであろう親父に抑揚なく声を張り上げて、能力に巻き込まれないうちに家を飛び出した。
玄関を出るときに奥から「は〜い、いってらっしゃい」といつもどおりの声が聞こえた気がしたがもう振り向きもしないで玄関を閉める。
「はぁ〜。死ぬ。絶対近々、親父に消される。」
「あれ?伸ちゃん。どしたのこんな時間に。」
安堵のため息をついていた伸に、不意に声がかかる。
人当たりのよさそうな聞きなれた声に反応して伸が顔を上げると、そこにいたのは中学からの親友である桜庭圭吾だった。
生まれついてのだいぶ強い栗色のやや細い垂れ目を更に下げ、初対面で握手を求められたらまず、無警戒で両手の握手を交わせるであろう柔和ないつもの笑みを浮かべている。
顔はかなり整っているほうだろう。
敢えてマイナスをあげるならその細い垂れ目ではあるが、それもいつも浮かべている笑みのおかげでさして問題ではないようだ。
背は自称百六十。
いつだったか、一緒に帰っているときゃあきゃあとスタイルのいい大学生のお姉さんがたが急に圭吾を取り囲み、頭をなで繰り回したことがある。
その勢いに、馬の後ろ足に蹴られたみたいにはじかれて車に轢かれそうになったんだっけ。
「いや、まあ、その。」
ははは、なんて苦笑いを浮かべて小さく深呼吸。
そうこうしていたら、圭吾はなにやら学生かばんの中から三十センチほどの黒い棒――よく見ると折り畳み傘を取り出した。
空を見上げてみても、今のところ雲ひとつないし、まだ入梅には遠い。
「どうしたんだ?いきなりそんなもん取り出して。」
気を取り直して、圭吾と一緒に学校に向けて歩き始めた。
「ん〜?だってさ、伸ちゃんがこの時間に起きてきたんだよ?今の時間分かる?」
携帯を開いて時間を確認すると
「七時二十三分……だな。」
ゆっくり歩いていったって二十分。
ホームルームが始まるまでは余裕がありすぎる。
でもそれが傘とどういう関係が。
「これは、降るでしょ槍が。くるでしょ大津波が。起こるでしょ天変地異が。」
ばさりと晴天下、鼠色の道路に黒い八角形の穴があいた。
「あ〜あ〜、そういえば圭吾。今日の天気予報、ところによりチョップが降るってよ。」
ゆるりと手を持ち上げて、それを力なく重力に任せ振り下ろした。
がっしりとそれが後ろから伸びてきた手に受け止められたかと想った瞬間。
「っっはょぉー!!!どーん!」
すでに朝の挨拶ではなくなっている奇声を元気いっぱいに発した明巳のチョップが伸の頭蓋をきしませた。
「ぎぃやあああああ」
天に手を伸ばして断末魔を上げてから、糸が切れたように伸は倒れこんだ。
「あはは、伸ちゃんがいったとおりだね。明巳ちゃん、おはよう。今日も元気いっぱいだね。」
軽く圭吾は首をかしげて、女の子のように、くすくすと笑う口元に手を当てていた。
「そりゃあね!私の長所は毎日元気に生きてることよ!」
明巳はチョップを振り下ろした伸びきったままの肘を直角に曲げて、力こぶを作るポーズを取ると、満足げに笑みを浮かべた。
「あ〜け〜みぃぃっ!!」
爆発したように起き上がり、伸はころころと笑いながら逃げ回る明巳を追い掛け回し始めた。
伸の手が明巳に伸びる。
ちょうど触れるか触れないかの瞬間。
「きゃあああああああああああ」
変態に遭遇した女の子のような『伸』の悲鳴が響き渡る。
なぜなら、伸の攻撃に対して、日々武力が積み重ねられている明巳の防衛本能が容赦なく、マシンガンばりの拳を繰り出したからだ。
「まっ、まだまだぁ!!―――――ぎゃあああああああああああああ」
「容赦できないわよ?たぁー」
「俺はこんなもんじゃ……!――――ぐぇええええっ」
「まだ立てるの?これならどうだッ!」
「ちょ、ちょっとまってく…どゎあぁぁぁぁぁぁ」
「ゴキブリ並みにしぶとい!こうなったらッ!!奥義!滅殺剛硝撃ぃ」
「ちにゃー!!おま、え、目的が変わってきてるだろそれ……」
「よかった。いつもの伸ちゃんだ。明巳ちゃんも生き生きしてるなぁ。」
圭吾はスプラッターなそれを見やり、小さく短い安堵のため息をついた。
朝からどこか元気がなさそうだった伸ちゃんをいきなりここまでのテンションに引き上げられるのは世界でも明巳ちゃんくらいじゃなかろうか。
圭吾はうれしそうに一度頷きかばんを背負いなおし、いつの間にか伸を明巳が追い掛け回す形になっていた追いかけっこからつかず離れずの位置をキープする早足に。
五分後。
「ごめん、俺が悪かった。正直、どこも悪くないけど悪かった。だからもう勘弁してくれ。」
学校の校門を目前にして、顔を真っ赤に腫れ上がらせた伸は言葉通り謝罪の意志が微塵も乗っていない形式だけの謝罪を明巳に放り投げる。
「ゴメン、伸。ちょっとやりすぎた。」
「よく見ろ。これがちょっとだったら警察は天下泰平でお役御免になるっつーの。」
「だからゴメンってば!」
「僕は許すよ。明巳ちゃん。」
「圭吾ナイス!ほら伸、二対一で民主主義的平和解決。」
「明巳大変だ!すぐに町外れの清潔感のある白くて大きくて四角い、いっぱいベッドがある建物にお世話になって来い!」
「なにそれ?」
きょとんと明巳は思慮をめぐらしながら二度ほど首をかしげた。
「分からないなら気にするな。」
「―――伸ちゃん、それって確か精神科が有名な大きな私立病院…」
「わっ、バカ圭吾!ささやかな復讐を邪魔しやが……」
「シ〜ン〜〜あなた余程私の滅殺奥義喰らいたいみたいじゃないか〜」
明巳は胸の前で拳を握り合わせ、いつものように暴虐極まりない効果音を響かせている。
「ふざけんな。もうすでにこっちは死にかけなのにそんなもん食らってたまるか!!」
逃げるように目の前の校門に駆け込んだ。
「!!!キミッ!」
声が、響き渡った。