第五話『祇園愛生』
一週間前、新宿で買った自分専用の安眠枕に顔をうずめた。
こういうときのために、買ったこの枕。
深呼吸して酸素を蓄えて息を止めた。
ざ、ざ、ざ、ざ、ざ。
かち、、かち、、かち、、かち、、かち。
まるで私の中を軍隊か何かが行進している足音のように、慌しい鼓動は響いてくる。
時計の秒針の音よりも早い。いつもより、およそ○.二秒は早い。
枕に顔を押し付けたまま首をひねる。
ごろり、と頭だけ向き直り、新鮮な空気を吸い込んでみる。
かすかに、昨日の十時ごろ焚いたアロマキャンドルの甘い香りが残っている。
銀色の時計を凝視する。
午前四時四十七分。
まだ、午前四時四十七分。
今日はまったく一睡も出来ていない。しかし、不思議と体も頭も休まっている。
体調は、不思議とこれ以上なく万全なのだ。
まだ真っ暗である。
カーテンに遮られ、月明かりさえ届かない時計を見つめ、そっと自分の首に手を触れてみた。
ど、ど、ど、ど、ど。
かち、、、かち、、、かち、、、かち、、、かち。
また、早くなった。
そして、予感は確信になった。
もはや全身で、今日の何かを感知している。
きっと今日は、大スクープがある。
ううん、きっとじゃなくて、絶対に。
「ふふ、ふふふふふふふ」
彼女はベッドの中で芋虫のように二、三度蠢いてから勢いよく布団を撥ね退ける。
同時にベッドに合い向かいに設置されている樫の机の上のリモコンを取り上げ、電気をつける。
一秒ほどして蛍光灯の光で照らし出された部屋には、パソコンから部屋中の小箱に通じたコードの束が壁に沿い天井に向かっていて、そして天井では細分化したコードが縦横無尽に走っている奇妙な光景だ。
彼女は目を細めて、光に目を慣らしてから角のない長方形の下縁メガネをかける。
腰にかかるくらいの流れる黒髪を手で梳いて整えた。
東側にはクローゼットと入り口、そして先程の机が設置されている。
年頃の女の子が扱う机にしてはかなり簡素というべきか。
せいぜい樫の造りによくあう、蔦をあしらった写真たてが二つ、そして三センチほどのパンダの縫い包みが三つ、例のコードがついた小箱が二つほど乗っているだけ。
そして部屋の南側にもはや壁といって良いほどの巨大な本棚が四つ。
そのうち二つを締めているのが色とりどりの圧倒的な数のアルバム。
そして残りがカメラや風景などに関する資料、そして心理分析の小難しい、主に犯罪心理学の分厚い本だ。
西側にはベッド。
北側には頑丈そうなチタン製の棚。
シルクを被せてある何かが大量に入っている。
元は正方形の部屋は、南、北側の巨大な棚のせいで、やや歪な長方形になっている。
「何だろう。今日は、どんなスクープなのだろう。」
北側の棚を開く。
シルクをどけて、一際大きな何かを取り出した。
それは、一眼レフのカメラだった。
専用の布でレンズをふき取る。
そして首にかけた。
そう、およそ高さにして一メートル七十センチ、幅にして一メートルほどの棚に収められている無数の物体は全て、彼女のパートナーたるカメラ。
「後は、これだ。」
そしてパソコンの横のデジカメを手に取り、そしてパソコンの起動画面からあるアイコンをクリックした。
彼女は小日向高校二年生。
新聞部きっての敏腕とされる女部長、祇園愛生だ。
パソコンが起動する。
フォーン、なんてファンの音がして、そして三度、電子音が鳴り響いた。
「レディ…」
部屋の中心で左手にデジカメを持ち直して、愛生は脱力した。
ピー。
一際長い三度目の電子音が終わると同時だった。
ベッドの下に隠すように設置されている箱から、鳩をあしらった縫い包みがひょっこりと顔を覗かせる。
「壱!」
振り向きざまにデジカメでそれを撮影。
それを認識したかのように今度は真後ろの机にマングース、天井の中心にインコ、出窓の隙間に白熊、本棚の上に獏の縫い包み。
「弐、参、四、伍!!」
次々にアトランダムに現れる動物たちを全てそのカメラに収めていく。
そして一分。
「弐拾八。」
ファファー、なんてファンファーレがパソコンから鳴り響き、全ての小箱から現れた縫い包みは再びその箱の中に身を隠すように勝手におさまった。
「よし。手ブレなし、ピンボケなし、撮り逃しなし。完璧。」
いとおしむように愛生はもう一度胸にかけた一眼レフに指を這わせた。
「早く、日が昇ってくれないかな。」
カーテンを開けて外を見やる。
星はほとんど見えなかった。まるで神様が寝タバコをして夜に穴を開けてしまったように、ポツリと真円より少しかけた月だけが浮かんでいた。