第十六話『涙』
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「思うんですけれど、明巳、あなたが私に空手を教えてくれればいいんじゃないですか?」
くりくりした目を輝かせて、不意にそんな提案をした義美は胸の前でガッツポーズを作って見せる。そして、しゅ、しゅ、なんて拳を三度ほど前に。
「それじゃボクシングだよ。」
「私、明巳に教えてもらえるなら頑張れると思うんですよ。それに、さっきのストーカーみたいなのを自分でちぎっては投げ!ちぎっては投げ!血袋、蟻塚、素敵です〜。私も明巳みたいになりたいですよ。」
まるで夢見る少女がダンスを踊るようなステップで商店街を縦断する道でくるりと回る義美。
しかし、口にする内容は少なからず血なまぐさい。
明巳はそんな義美に苦笑した。
「そんな危ないのダメに決まってるでしょ!」
「なぁんでですかぁ?明巳が教えてくれればきっと大丈夫です〜」
ムーッと子供のようなむくれっ面。学校で義美はこんな表情をすることはない。
「なんでも。」
義美はやるときはやりすぎなくらい過激にやっちゃう子だ。自分で切り開けると思うならば自分という未開の森をたった一人でもすべて更地にしてしまおうとする。
無邪気というか、肩に力を入れすぎというか。
一緒にいると私も頑張ろうとやる気が出る反面、それと同じくらい、自分は彼女にとって必要じゃないんじゃないかと思ってしまうときがある。
初めて声をかけたときも、
「自分で出来ますから結構ですよ。」
が、初めての返事だった。
それは単に彼女の照れ隠しと、無類の努力家であることに起因していると気付いたのはそれから少したってからだったっけ。
まあ、正直な話、空手を教えたくない理由はいろいろお世話になりっぱなしだから一つくらい義美に頼られる特技があるのがうれしいからなんだけど。だって、すぐに私が必要ないくらいまで上達しちゃいそうだし。
「もー!じゃあ報酬としてチーズケーキ焼いてあげますから!」
「甘いもので折れるような決意なら最初から教えてあげてるって。」
「じゃあじゃあ、好物のビーフストロガノフ作ってあげますから!」
「えうぅっ……だ、だめー!」
「じゃあ魔王と焼き鳥!!」
「ま、魔王と焼き鳥!?なにそのヘヴィな交渉材料!?!」
「伝説の焼酎です。それと焼き鳥のゴールデンペア。」
「義美ぃ、私のことオッサン趣味だと思ってなーい?」
「…………そんなことないですよ。」
「よ〜し〜み〜、何かな今の間はぁ。」
がぁっと明巳は義美に襲い掛かった。覆いかぶさるように押さえ、義美の頬をムニィッと左右に引っ張る。
「うそでふぅ!嘘ですって。おじ様にプレゼントぉ!」
「外堀から埋めにかかってもダメェ!」
「明巳のけちです〜。」
ぷいと顔を背けて、義美はまたむくれっ面になった。
「そうよ、私は弩級のケチですよーだ。今頃気付いたの?」
「…………そんなことないですよ。」
「だから何なのよその間はぁ!!」
「さあ、なんなのでしょうね。」
かばんを盾にして、逃げるように義美は歩調を速めた。
それを笑いながら明巳はカバンをヴァイキングがもつ曲刀カトラスのように回し、追いかけまわす。
商店街を抜けて左折。三分ほど歩くと土手がある。
土手の下、色とりどりの名前も知らない小さな花が咲いている小道を、ミュージシャンやドラマの話などの他愛ない話をしながらいつものように歩く。
日が傾きかけている下校時間に吹く風は、春先より幾分おとなしくなった草木の薫りとかなり早めの初夏の薫りを同時に乗せている気がした。
「気持ちいいですね。」
風になびき、顔にかかりそうになる変則ツインテールを手で押さえて義美は振り向く。
「明巳?どうかしたですか?」
急に真剣な顔になっていた明巳に、義美は肩をこわばらせた。
「私の横に並んだまま、普通にしていて。さっきからずっと私たちのことつけているような気配があるの。すぐそこの曲がり角を曲がって待ち伏せをするから、曲がったらすぐに私から少し離れて。」
「私も……」
「私の腕っ節を信じられない?義美。」
「女の子が腕っ節を誇っちゃダメですよ。」
さながら先生が生徒を指導するように片目を瞑って人差し指を振る義美。
そういわれちゃうとやり込められて明巳は苦笑いを返すしかない。
「痛いとこつくなぁ。」
「……気をつけてくださいね。それとやっぱり、空手、教えてください。」
「うん。ダメ。」
「けち。」
「じゃあ、ご要望どおりに今日からケチを極めようかな?」
「それは困るですよ。」
ふふふ、あはは、なんて声を合わせて小さく笑いあい、そして角を右に曲がる。
曲がって一メートルくらいの位置に明巳は構え、すぐさま正拳突きを出せるように細く長く息を吐き出した。
義美は皮製のかばんの取っ手を握り締め、三歩離れた位置で不安を紛らわせるように胸に抱いた。
そして、明巳の長い長い吐息が切れた頃。曲がり角から一つの影が現れた。
「セイッ!」
「あ?ッッッグぁ?!」
拳よ貫けといわんばかりの正拳突きは綺麗に曲がり角を曲がってきた真鱈目の顔の中心にめりこんだ。首が跳ね上がり鼻から赤い線が空気に舞った。
「私たちを付回していったいどういうつもり!?クラスと名前を言いなさいよ!」
その場に、しりもちをついてぺたんと座り込む真鱈目。
「いってぇ。いきなりなにするんだよ。ボケェ。」
「待ってあげてるんだからとっとと私の質問に答えろって言ってんのよ。」
真鱈目がどう動こうと、起き上がるその一つの動きより先に二つの打撃を打ち込める迎撃体勢で明巳は容赦なく睨みつける。
「暴力女が。僕は家に帰ろうとしてただけだっつーの。ほらよ。」
生徒手帳をぽんと前に投げ出す真鱈目。ちょうど住所が載っている欄が開かれている。
明巳はちらりと電柱にある番地と見比べて、すぐ目の前の古い家が書いてある住所であることを確認した。
改めて見渡せば、古びた蔵がある大きな家の門には、真鱈目という表札がかかっている。
「それは分かったけど、あんた何でずっと私たちの後を追っかけてきたのよ。私たちは遠回りしてこの道を通ってきたのよ?あんたは町の大通りを通ってくればもっと早いじゃない。」
「うるせぇな。僕だってこんなことしたかなかったんだよ。部長がトチ狂ったこと言い出したせいで、この馬鹿騒ぎに巻き込まれてそっちの……大澤義美さんを護衛する羽目になったんだからよ。」
明巳は怪訝そうな顔でもう一度、生徒手帳の内容と真鱈目本人を見比べる。
「ああっ!あんた新聞部の真鱈目雅明!?」
「ボケェ。もっと早く気付けよ。殴られゾンじゃねーか。」
「ゴメン確認すればよかった、よ?」
目の前に真鱈目の手が伸びている。
「引っ張り起こせ。」
「はぁ?なにいってんの?」
「ああ、鼻イテェ。ボケにいきなり殴られたせいで足ががくがくだしよぉ。」
憮然と、超然と。いけしゃあしゃあそんなことをのたまう真鱈目。
「あっそ。」
酷く腹立たしい。しかし確かにいきなり殴りかかってしまったのは私が悪かったんだから、と、我慢してぞんざいに腕を引っ張った。
「そりゃ悪かったわね!」
「まあ、ゆるしてやらねぇでもねぇけどな。」
引き起こされた真鱈目は手を払いのけた。
その勢いのまま前のめりに明巳に体を倒し、そしてそのまま残った手で隠していたスタンガンを明巳に押し付け、スイッチを押した。
「なっぎっ!!」
「明巳ッ?!」
引きつった義美の声と共に空域がひび割れたみたいに乾ききった音がパシリと響いた。
びくりと毛の先から指の先まで震わせて、明巳は自分を操っているすべての糸を切り落とされたように前のめりに頭から倒れこむ。
「…なんへぇ……?」
「だって、僕が本物だから?ははっははは」
「よ……ひ…みぃ……にえ…ぐッ!!!…」
麻痺し、回らない舌で逃げるように伝える途中のスタンガンの追い討ちでそのまま、明巳の意識は暗幕の奥底へと引いていった。
「インターハイ優勝経験者をまっこうから相手するわけねーじゃん。逃げろ、だ?ムカつくんだよばぁか。」
真鱈目は制服の汚れを払いながら、その足を上げ、明巳の腕の上へ。
「義美。君は逃げないよな。僕から、逃げないよな。」
頭の中の何かが抜け落ちてしまっているんじゃないかと戦慄するほど、色のない目でへらへらと笑う真鱈目。
こんな眼をしているこの男なら、容赦なく腕の一本を踏み砕くかもしれない。
「明巳に何かしたら、絶対に赦さないです。」
全力をもって敵意をぶつける。敵意をぶつけて人を倒せれば、もっと早くから明巳に空手を教わっていれば、あの時私も明巳を護れる位置に居れば。いろいろなことが頭の中を駆け巡る。
「いいねぇ。それもステキだ。ずっと、ぜったいに、赦さないで、僕のことを考えるんだろ?」
しかし、真鱈目の歪みには今の自分が出来る対抗手段がすべて通用しないと、たった一つの返答は痛いほど知らせてきた。
義美は強く拳を握り締め、下唇を強く噛む。かすかに、血の味がするほど。
「………なんでも言うことを聞きますから、明巳を助けて。」
「じゃあ、僕が何を望むかは分かるだろ。」
「…はい。」
「とりあえず、コレを中に運ぶ手伝いしてくれよ。」
「何でも言うことを聞きます。でも、明巳のことを次にコレなんて呼んだら、明巳に何か危害を加えたら、刺しますよ。」
「あっはははははは。義美にさすのは僕のほうさ」
――――明巳。私……
「ごめんなさいです。明巳」
涙が出てきそうになった。胸の奥が、喉が、鼻の奥がきゅぅっとうずく。
でも、一度強く目を瞑ってこらえきる。
泣いてしまったら、この男に負けてしまったことになってしまうんですから。
とにかく、意識を取り戻した明巳だけは逃げられるように。そのチャンスを待つために。今はとにかく耐えなきゃダメです。
明巳の足を抱える。真鱈目は乱暴に脇に腕を入れて持ち上げた。
「優しくしてください!」
「へぇへぇ。」
真鱈目はふらふらと体を揺らしながら、義美は細心の注意を払い。門をくぐりそして向かうのは蔵。
ピリリリリリリ♪ピリリリリリリ♪
そのとき急に明巳の携帯がなり始めた。
「うるせぇなぁ。」
真鱈目は手を伸ばしてそれを止め、その場に投げ捨てようとする。それを、手を伸ばしてキャッチ。
「やめてください。義美に関係するもの全部、手を出すのはやめて。」
「細かいねえ…。まあいいけど。」
義美は自分のポケットへとしのばせる。
ままならないまま、三人は蔵の中に足を踏み入れた。
重々しい扉を開き、そして口をあけたのは薄暗くほこりっぽい空間。
差し込む夕日で照らされた細かい粉塵のような埃が見える。
目が慣れてくると見えたのは並べ立てられた薬品の瓶。そして、現像された私の写真の山。無くなった私の私物。
どうやら、基本的にここは現像室として使われているらしい。そしてストーキングの成果の保存記念館でもあるようだ。
抱えている明巳の脚に少しだけ力を込めていた。
明巳と一緒にいるときの写真を、日常を、こんな顔をしていたのかと自分でも驚くような表情を収めてある写真郡。
さながら壁が悪い病にかかっているように、年数を重ねたクリーム色を乱雑に侵食する爛れの様なさまざまな色。
ひどく、気持ちが悪くなる光景だ。
「ここに寝かして手足を縛るんだ。抜け出せるように緩くなんてしたらどうなるかは…。」
「わかってます!」
何度目になるのかわからない謝罪を心の中で明巳にしながら投げよこされた紐で手足を縛る。ちゃんと確認しているつもりなのか、片時も真鱈目は目をそらさない。
悔しそうに歯噛みをしてから出来るだけ優しく力を込めて縛り上げる。それを満足そうにみてから真鱈目はその縛りの堅さを確認し始めた。
――ここです!
ポケットに忍ばせた携帯電話。明巳についさっき電話をかけてきた誰かに、確認もせずに折り返しの電話を入れる。
「ふぅん。もっと軽くやると思ったけどちゃんと縛ってあったか。」
「そんなことで満足ですか。」
あとは、相手が出てくれたらそれらしいことを言って場所を伝えるだけ。
「満足さ。俺が命令すれば君は親友であろうときつく縛り付けるんだ。こんなにうれしいことはない。さあ、次は君だ。手だけは後ろ手に縛るからな。」
「手を縛ったら私は逃げられません。それでもまだ明巳を解放してくれないんですか。」
「めんがわれてるからな。開放するにしてもすぐすぐじゃねーよ」
『あ、わわわわわっもしもし?今はマズイって…落ち着いたらまた……』
ポケットの中から相手の動揺した声が聞こえてきてしまった。
マズイです…ばれる前に今の居場所を……。
「こんな薄暗い蔵で……」
『もしもし?蔵って何だ?明巳じゃないのか?もしも〜し!!?』
明巳、いくらなんでも携帯の通話音量大きすぎですよ。これじゃあ…
真鱈目の視線が私のポケットに向いた。
ばれてしまったみたいですよ。
「ん〜?何だこの声…携帯か。……へぇ。何かの映画であったよね。そういうのムカつくんだよ!」
「きゃ……」
浪人が抜刀した時の動きみたいに大きい動作のビンタが義美の頬を叩く。義美がひるんだ隙に真鱈目は携帯を取りあげ、すぐさま通話を終了させた。
だめです。
この場所も、そしてこの男のこともぜんぜん伝えることが出来なかったです。もう助けを期待するのは絶望的。それに何よりまずいです。これじゃ明巳にまでこの男の暴力がいってしまいます。
初めての、しびれるような熱を帯びた頬に手を当てて、なぜか冷静な思考をめぐらせながら再び泣きそうな表情で義美は真鱈目を見上げた。
怒りに我を忘れて、般若のような顔をしていると思ったら、見上げた真鱈目はからだをわなわなと震わせて眉をひそめているだけだった。
「なんで、僕の気持ちを理解しないんだ!」
ぜぃぜぃと呼吸は荒くなっていく。今にも倒れてしまうのではないかというくらい体を震わせている。
地面にへたり込んだまま、無意識に倒れている明巳のほうへずるずると避難する義美。
その、真鱈目の様は怒り狂われ地団太を踏まれるよりもよっぽど身の危険を感じさせるのだ。
「僕は君が大勢に追われるのを嫌っているのをくんでファンクラブなんて馬鹿なものに入ってないのに。」
よろけた体を支えるように真鱈目は現像に使っている机に手を突いた。
真鱈目は一言一言の間に異常なほど間をあける。まるでそうしないと何かが爆発しそうなのをこらえているようだ。
さあっと冷え切った指でうなじから背骨を撫でられるような冷たい悪寒。恐怖が緩慢に、しかし確実に湧き上がる。
「僕はダレよりもキミの事を理解しているのに!」
ぎろりと、目をむいて真っ直ぐに真鱈目は義美を見つめる。
その瞳には陰鬱なクライ光が蛇になってとぐろを巻いている。
「なんでだ!なんで義美は僕のことを理解してくれない!!なんでみんな僕のことを理解してくれない!君は僕と同じだったじゃないか!!」
ずんずんと一気に義美に迫り、戦慄するその肩に乱暴に掴みかかる。
「ひぅ」
「何でそんな顔をするんだ!同じはずだろ!!僕と君は同じはずだ!君が信じるのは唯一つ。自分の足跡、自分で積み上げたはずの石の山、自分で組み立てたロジックだけのはず!与えられた令嬢なんていう立場じゃなくて、自分で選んで掴み取った何かだけのはず。それのためには足かせになる他人になんて興味はない。それが君だ!そして僕だ。」
「い、痛いっです!」
ぎりりと、双肩にめり込む指。
「同じじゃないか。義美を理解してやれるのは僕しか居ないじゃないか。こんなによしみのことを思ってるのに!なんだって君はぁ!!」
リンゴーン♪
蔵に走る埃まみれのコードが繋がるスピーカーから、玄関のインターフォンの中継の音が鳴り響く。
「うるさいぃっ!」
リンゴーン♪リンゴーン♪リンゴーン♪
「とっととかえれぇ!」
リ・リ・リ・リ・リ・リ・リ・リンゴ・リンゴー・リ・リ・リンゴーン♪
「大事なときにしつこいぞ!!」
真鱈目は床を一際強く殴りつける。痛かったのか、密かに赤くなった拳をさすっている。
「手ェ出せ。」
義美は震えながら素直に前に両手を差し出した。真鱈目はそれをあっという間に明巳を縛っているものと同じ紐で固く縛りつけた。
「大声出しても外には聞こえないからな。おとなしくまってろよ!」
リン・リ・リ・リ・リ・リン・リ・リンゴ・リンゴー・リ・リ・リンゴーン♪
「うるせぇぇぇ!」
壁を蹴り飛ばして、片足ケンケンしながら真鱈目は出て行った。
そして急に訪れた静寂に満たされた蔵の中で、明巳の呼吸音を聞きながら。
未だに痛む肩と苦しい胸に手を添えながら、義美は暴れまわる心臓をなだめるために視線を明巳へ。
無体な明巳を見るとさっきの真鱈目の言葉に反論できなかった自分に、嫌気が差した。
「……違いますです。」
ちがうです。
だって、私には、明巳が必要だから。まだ、多くの人と仲良くやるのはあまり得意じゃないですけれど、でも私には。
体が粉になって、今にも崩れ去りそうな感覚に襲われた。
すっかり義美は萎縮してしまっていた。悪意に近いほど歪んだ誰かの思いをぶつけられたことなど今まで一度たりともなかったからだ。
相変わらず、明巳は気絶したまま。
明巳、もし、今、あなたが起きていたならあいつになんていったんですか。
明巳、もし、私が反論できなかったところを見たら、あなたはなんといったんですか。
「私には、必要です。自分以外の友人が必要です。私はあいつとは…違いますです。」
震えるかすかな声は、歪すぎるゆりかごの中で一瞬にして溶けて消え去ってしまった。
さっきとはうって変わった暴力的なまでの沈黙に、おびえるようにひざを抱えた義美の頬に一筋、光が伝った。
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