第十一話『告白、酷薄』
落ち着け、落ち着け、落ち着け、落ち着け落ち着け、おちつけおちつけもちつけおちつけおちつけ!!
伸は大澤義美がいるクラス、一年九組の教室のドアを前に深呼吸をして、覚悟を決める最後の深呼吸をした。
とはいえ、その深い深呼吸が緊張のあまり何度も何度もエンドレスで繰り返され、異常な変質者風味の荒い呼吸になっているのに、渦中の伸が気づくはずもない。
クラスに入るに入れない学生たちが、思いつめたような顔の伸にプレッシャーを受け、これから何が起こるのか遠巻きに固唾を呑んで見つめていた。
心臓が早鐘のようになっている。手のひらにじっとりと汗が浮かんでくる。
どくん、どくん、どくん、どくん、どくん。
いくら肺に酸素を取り込んでもそのまま吐き出しているんじゃないかというくらい頭は真っ白。
背中には生暖かくて重いくせに、滑り落ちるときには驚くほど冷たく凍りついた感触の汗。内臓の奥がしんと冷たい。
おちつけおちつけおちつけおちつけ!
そうだ、思考を切り替えればいい。
この不安も、この悪寒も、この倦怠感も慣れてしまえば不愉快を通り越して一周回って快感に……
「なってたまるかボケェ!コンチクショウめぇぇ!!!」
危ない危ない。危うくあっちにギリギリ半歩踏み込みそうになってしまった。
自分に突っ込みを入れた伸は額の汗を拭った。
幾分冷静になり、周囲の様子をきょろきょろと確認する。
「はぁ〜、よし。」
その瞬間にあるものは物陰に隠れ体を丸めて目と耳を必死に押さえ、あるものは勢いよく目をそらして壁と恋愛相談をし、あるものはどこかへ電話をかけてどこそこの株をありったけ買い占めろ、だの叫んでいる不自然極まりない風景なのだが、今の伸には気付けない。
がらりとドアを開く。
その瞬間、九組のすべての目は伸に向いた。
(あれ?何でみんなこっちを見てんだ?ああ、クラスが違うやつがいきなり来たからか。)
もうすべての事象を基本自分の都合のいい解釈へと誤変換する伸の頭脳。
向こう三クラス先まで響き渡った叫び声が当然九組に響かないはずは無い。奇しくも伸は大澤義美に大衆監視の下で告白するステージを自ら作り上げた。
正面を見据えると、窓際最後尾にある机では義美と明巳が向かい合いに座っていた。
明巳のほうは俺を見てやや引きつった顔をしているものの、よし、よく来た伸!と口だけで訴えかけている。
当然、伸の事を見た大澤義美はというと、露骨に表情にさえ出さないもののわずかに肩眉を持ち上げた表情が、警戒していることを物語っている。
周囲のイタイ視線の中、腹をくくって真っ直ぐに二人の元へと進む。
「なん、ですか。青崎伸さん。もう、お話しすることは無いですよ。」
「一つだけ。」
一つ咳払いをして伸は鋭い義美の視線に自分の視線をぶつけ、そして気を付けから体を九十度に折る。
「ストーカーして体操着とかパクッたのは俺です!すいませんでしたー!!」
バンッ!!
パシャパシャパシャパシャパシャパシャ!!!
すべての静寂を一瞬の間さえなく打ち破ったのは伸が入ってきたドアを勢い良く開いた音と。
「大スクープ!!!アハハハハハハハッ!!」
パシャパシャという、伸を収めるカメラのシャッター音。そして愛生の高揚した笑い声だった。
「げっ、なんで!?」
ザン。
地震のような震えと音がした。
愛生から目をそらし、恐る恐るクラス内へと目を向けると、殊更屈強そうな男たちが義美の合図一つで穢れた虫けらを殺さんと仁王立ち。
その隙間ではそんな目で見られたら三回は泣けちゃいそうなほど冷たい女子たちの侮蔑のビィム。
泣いちゃダメだ、泣いちゃダメだ、泣いちゃダメだ!
でも逃げなきゃダメだ!
「ねえ、ストーカーさん。」
「はい?」
あ〜今俺のことストーカーさんって呼んだよオオサワサン。
ホントは違うんだー!でももう手遅れだー!
脳内で頭を抱えてウンウン唸ってみても当然自体は好転してくれない。
諦めて素直に振り向く。さっきまでの怪訝そうな表情はない。代わりに驚くほど無表情だ。
「私の筆箱を盗んだのもそうですか?」
「…そう。(ホントは違うんです。)」
パシャ。
「じゃあ、私の靴箱に『お弁当は愛の大きさだけ』っていう紙と一緒に、はち切れそうなほど一杯のおにぎりを詰め込んだのもですか?」
なんだそれ。本物のストーカー馬鹿なんじゃないのか?て言うか誰か気付け!
「……そう。(本当に違うんです。)」
パシャパシャパシャパシャ。
「そのくせ、いつの間にかすり替えた私のお弁当には私の写真と大量の白濁半固形のゲル状のものを詰め込んでみたりしたのもですか?」
うわぁ、いっちゃってるなぁ〜本物。
「そ……そう。(そんなこと考えたこともないんです。)」
パシャパシャパシャパシャ…ジー…カシャパチ…パシャ。
「っていちいち返事のたびに撮影しないでくださいよ!もう一本使い切っているし!!」
パシャパシャ。
「フフフ、キミ、この状況で私に突っ込みを入れていられるほど余裕なのかい?」
「……ですよ。」
「へ……?」
再び大澤さんのほうへ向き直った。とても不吉な言葉が聞こえた気がした。
「ストーカーなんて、死ねばいいんですよ。」
ポツリと。
大澤さんは無表情のままそうこぼした。
ザン。
クラスの男どもが一歩踏み出した。
大元帥の一言で、大澤義美大好きファンクラブ通称ダイダイクラブは殺人集団、青崎Die‐Dieクラブへと変貌を遂げた。
野球部のヤツはバットを取り出し、陸上部のヤツはとびっきりスパイクの尖ったシューズを履き、柔道部のヤツは白帯で首を絞めようと手に巻きつけている。
こ、殺される!こいつらマジで俺を殺す気だ!
にじり寄るようにダイダイクラブの連中は伸との半径を縮めていった。
視線を一瞬だけ明巳に流す。明巳は密かに窓の鍵を開けていた。
「はいはい、殺しちゃまずいからほどほどに制裁加えるだけにしておきなよ。」
いつの間にか撮影しやすいように教壇の上でカメラを構えている愛生。
「「「「「ウス!」」」」」
暴徒になりかけの男たちも律儀に体育会系の返事を返して。
「ストーカーなんてぇぇぇ!!」
「「「「「死ねばいいぃぃぃ!!!!」」」」」
スローガンをいっせいに吼えてから伸に向けて飛び掛った。
「殺されてたまるかぁー!」
伸は真っ直ぐに義美のほうへ駆け出した。
「ぬぉぉっ!卑怯な!義美ちゃんを護れぇぇ!!」
「人質にされるぞぉっ!」
「義美がぁぁ!!」
「あ、テメェ!何どさくさに紛れて義美様を呼び捨てにしてんだよ!」
「大澤さぁぁぁぁん!!!」
「どこかに救世主はいないのかぁ!」
真っ直ぐに駆け寄る伸に対して、建前上、明巳は庇うように大澤さんに抱きついていた。
「でかした鏑木さぁん!!」
「救世主はそこにいたぁ!」
「ざぁんねんだったな青崎伸、いやストーカー!」
「がぁはっはっ!俺たちも苦汁を舐めた鏑木さんの腕っ節は折り紙つきよ!」
奴らも苦汁舐めたのかよ……
(サンキュ)
視線でそう訴えかけて明巳をすり抜ける。かすかに明巳は頷いたように見えた。
「「「「なぁ!?机を踏み台にしただとぉぉ!!」」」」
大澤さんの机を踏み台にして、さっき明巳が鍵を開けてくれた窓を開け放つ。
ここは二階。
でも外は中庭に当たる。飛び降りても庭園の土は衝撃を減らしてくれるはず。
「飛び降りる気だ!」
「に、逃がすなっ!!捕まえろぉ」
いっせいにファンクラブの連中の手が伸びた。数本はどさくさに紛れて義美にも伸びた。
寸でのところで捕獲の手は届かない。
意を決して伸は飛び出した。思っていた以上にうまく着地でき、殺しきれなかった勢いで一度前転してからすぐさま駆け出していった。
大義名分が出来たと明巳は近付く数人のファンを一瞬にして叩き伏せる。
「どさくさで義美に手出しするヤツは私が赦さないからね。」
背に庇うように義美の前に明巳は仁王立ちをした。
「おのれこいつらぁ!!うらやま……ゴホン。とんでもないことをしようとしやがってぇ!」
「とりあえず鉄拳制裁!鉄拳制裁!」
「「「ギャー」」」
「さっき呼び捨てにしてたお前も鉄拳制裁!」
「ギャー」
ぼこぼこにされ、簀巻きにされた哀れな男が、数人教室の隅に積みあがった。蟻塚みたいに。
「ハ、こんなことをしている場合じゃない!即刻ストーカーを捕縛せねば!」
「その役目は野球部の部員があずかったぁ!」
ファンAの声にすでにユニフォームに着替えていた野球部員たちが拳と共に鬨をあげる。
「な、なんで野球部がでしゃばるんだ!!」
「なぜって、野球部は一番メジャーだからだ!」
「野球部ファイうぉおおおおおおおおおおお!!!」
ファンBの声にいつの間にか教室の外に集まっていた野球部員たちも声を合わせて吼える。
「ふざけるな!!それを言うならサッカー部だって負けてられない!」
同等の戦力を有した、ユニフォーム姿の男たちが肩を怒らせて野球部のメンバーを威嚇し始める。
なぜか全員サッカーボールを肩の高さに持ち、かつらを被せて部員数を倍に見せようと無駄な努力をしていたり。
「なにを世迷いごとを!荒事を解決するにはタマコロ遊びは力不足!ここは空手部におまかせあれぃ!」
「うるさいぞ空手部!胴着の下にパンツはいてないくせに!」
「なぁっ!?そういうお前たちは柔道部!お前たちこそ水虫のヤツが裸足ですり足をした畳に顔を擦り付けているくせに!」
「み、みなさん、喧嘩はダメですよ。だから、間を取ってわがパソコン研究…」
「「「黙れ文化部!」」」
「「「なんだとぉ!文化部を侮辱しおったなぁ!脳みそまで筋繊維の獣たち風情がぁ」」」
「「「なんだとぉ!筋肉エノキダケの軟弱もの風情が大澤さんを護れると本当に思っているのかぁ!!」」」
「聞けぃ脳みそ筋肉共!オセロ部はともかく将棋部の戦略をなめるなぁ!」
「な、将棋部め!どさくさに紛れてライバルを蹴落とそうなどと性根の曲がったことしやがる!」
「思い上がるなオセロ部。将棋部のライバルは囲碁部に決まっているだろう!」
文化部運動部くんずほぐれつムッサイ大乱闘がちらほら始まりかけたときだった。
「静まりたまえ!」
二つの手拍子と共に、巻きわらを両断する日本刀のような声が響いた。
顔を、蜜がびっしり詰まった林檎のように真っ赤に染めていた男たちと、男の醜さにさめざめとしている女の子たちが一同に、教卓の上で仁王立ちしている一人の女子に釘付けになる。
「やれやれ。ポイントを稼ぎたいのは分かるが、もっとスマートに出来ないものかな。」
愛生が肩と平行に右手を伸ばすと、その手のひらには無線機のようなものが袖口から飛び出してきた。
『急に失礼。』
ブツッなんて音がして、無線機に向けて発せられた声は全校放送になっていた。
「すげぇ…校内放送をジャックした……」
『現時刻をもって、一年四組の青崎伸を一年九組の大澤義美君のストーカー容疑者として指名手配。くれぐれも、校外に逃げ出すことがないように、みな注意してくれたまえ。』
「何時まで隠れているんだい?出てくればいいだろう。桜庭君。君の情報は有益だった。合格だ、晴れて、君を新聞部に迎え入れようじゃないか。」
「あ、あはははは。失礼しま〜す…」
かすかにバツが悪そうに、廊下の柱の影から頭を掻きながら圭吾はひょっこりと教卓の横に移動した。明巳は驚いたように目をむきそれを見つめる。
「それと、興味がないのは結構だけれどねキミ、スクープを前に腰をあげないのはいけないな。」
愛生は視線を廊下側最前列の席に座って、こともなく自前のカメラを手入れしている男子に呆れた様にため息をついた。
「知りませんよ。人の色恋バカ騒ぎのスクープなんて、僕には微塵も価値がありませんから。」
失笑に近いため息を吐いて、ヘルメットをかぶったようなおかっぱ頭の、頬骨が出張った痩せ型の男は愛生を遠いものを見るように見上げた。
この男は一年九組の真鱈目雅明愛生を除いて唯一の新聞部員であり、またこのクラスではダイダイクラブに所属していないごく少数の人間である。
「ふふふ、ちょうどいいじゃないか。」
愛生は三千世界に敵は無しとでも言いたげな笑みを浮かべて虚空をみつめ、再び放送をジャックする。
『風紀、この件は私があずからせてもらうよ。それと、青崎クンを捕まえる上で無用な争いが生まれないように、捕獲部隊を二分。文化部を新聞部員一年真鱈目雅明に。運動部を桜庭圭吾に…』
「あ、あのぉ、僕は文化部のほうが良いです。」
「ふーむ……まあ、よし。」
『訂正。文化部の総括指揮権を新聞部一年部員の桜庭圭吾に、運動部総括指揮権を新聞部一年部員真鱈目雅明に一任する。二人はファンクラブに所属していない中立だからちょうどいいだろう。くれぐれも総括の意にそぐわない争いはやめるように。大澤義美君の護衛は一手に空手部一年部員鏑木明巳君に一任する。なお…』
愛生はちらりと蟻塚のように積み上げられている哀・戦士たちを見やり、そして今尚ほうけたようにつかみ合いながら自分を見つめる男たちに目を細め。
『異議があるならば直接私、新聞部部長祇園愛生まで。誰が来たとて納得していただけるだけのジョウホウは用意してあるからね。以上だ。』
にこりと微笑んだ。
と、同時に一切の抵抗は自分たちの今後に不利にしか働かないのだと確信した男たちは身震いしてからいっせいに気をつけ、敬礼をして。
「「「「祇園愛生先輩の意向に異議など微塵もありはしないであります!!」」」」
元帥閣下を前にした一兵卒みたいに整列して見せた。
「……っとちょっとちょっとちょっとぉぉ!!邪魔ッ!どけっ!なんか臭い!圭吾チョット来なさい!!ゴメン義美、一寸我慢して!」
思い出したようにソレを蹴り倒し、叩き伏せ、一直線に明巳は圭吾へ詰め寄り腕をむんずと掴んで駆け出した。ちなみに残っている手は義美の腕を掴んでいる。
「あ、あ〜……とりあえず文化部は総力を挙げてストーカーの背景と現状を洗ってねぇ〜…」
次第に小さくなっていく圭吾の声。ざわざわと揺れてから、実力行使に出ないことをやや不満そうに文化部の面々は伝令役を残して各々の部室へと移動し始めた。
「じゃあ、運動部のほうは異種の部同士でバディを組み、各々が校内を探索。弓道部とアーチェリー部は屋上に配置。見つけ次第周囲に呼びかけて増員を図り、捕獲後は別名があるまでは手出しをせずに監視。必要以上に攻撃は仕掛けないこと。ただし、やむをえない場合は相応の手傷を負わせてもよし。」
「「「うす!」」」
真鱈目の言葉に、血に飢えた運動部の面々は同じニオイを放っているギラツク同士を見つけ出し、再び鬨をあげながら散開していった。
追いかけるように真鱈目も教室を後にする。
「やれやれ。これで私もスマートに取材が出来る。」
見渡し一息。ふらふらと教卓から降りて、一度自分の武器を撫で回す愛生。
「それにしても……応援部ってのは曲者ばかりだね。青崎はああ見えてやるようだし、桜庭は…何を考えているやら。」
手元に開いた秘密手帳には桜庭圭吾と青崎伸のデータが書き込んである。二人とも応援部のランクはA+。一年にして部長、副部長に次ぐ高評価である。
ランクとは、簡単に言うなら派遣先での期待にどれだけ応えられたか、その派遣先からの評価の積み重ねにより上下する一種の『成功率』の高さで、小日向高校応援部史上異例のことだ。
「とはいえ……。」
無意識に口元が緩む。
「最後にスクープを手に入れるのは私なんだけれどね。ふふ、ふふふふふふふふふ…」
ゆっくりと笑いながら退室する愛生を見やり。大多数の女子はかかわりあうことを拒否。何も見なかったかのように顔を伏せ帰り支度を開始しする。
ただ、ごく数人の女子は「素敵。」とこぼし目を輝かせてから入部届けを入手すべく職員室へと駆け出すのだった。