【短編版】三十三歳、イケメン男子にご飯を奢るのが趣味になりました。
「おねーさん。ご飯おごってよ」
駅前でそう声をかけられて、私は足を止めた。
明るい茶色の髪をした男の子が、こちらを見ている。大学生くらいだろうか。一応、後ろを振り返ったけれど、私に用がありそうな人はほかにいなかった。
「……私?」
「そ、おねーさん」
「どうして?」
男の子は、さも当然という顔で答えた。
「お腹すいたから」
理由としてはわかる。ただ、それが私にご飯を奢ってもらう理由になるかは、また別の話だ。
改めて顔を見ると、ずいぶん整っていた。長めの前髪の下に人懐っこい目があり、私と目が合うと、口元がにっと上がった。
「何歳?」
「二十歳。大学生」
「何か、年齢がわかるものある?」
見せてもらった学生証で、生年月日を確認する。確かに二十歳。三十三歳の私とは、十三歳違いだった。
その日はもともと、駅前のイタリアンへ寄るつもりだった。冷蔵庫に大したものはないし、帰ってから包丁を持ちたくない。
一人分が二人分になったところで、困るほどの出費でもなかった。
「……いいよ。あそこのイタリアンでよければ」
「ほんと? やった」
ぱっと明るくなった顔に、こちらまで笑ってしまった。
彼はよく食べ、よく喋った。私が気になっていたパスタも、ピザと一緒に頼めた。料理が来るたびに嬉しそうな顔をするので、ご馳走する側も気分がいい。
一人ならスマホを眺めていたかもしれない夕食が、思いがけず楽しいものになった。
店を出ると、彼が少しかがんで顔を覗き込んできた。
「おねーさん、このあとどうする?」
「帰るよ?」
「え?」
意外そうな顔をされて、私も足を止めた。
「え?」
そこでようやく、何を尋ねられたのか察した。
ああ。ご飯のあとも、一緒にいると思っていたのかな。
でも、私はもう、お腹もいっぱいだった。
彼から連絡先を聞かれ、交換してから駅で別れた。
また誘われたら、ご飯くらい奢ってもいいかな。そんなことを考えながら、ホームへ向かった。
*
二度目の食事で、彼はSNSにも、ご飯を奢ってくれる人を探している男の子がいると教えてくれた。
ただし、先に条件を伝えておいたほうがいいらしい。食事のあとに自分の店へ連れていこうとする人もいれば、ご飯代とは別にお金をもらえると思っている人もいるという。
「だから、ご飯だけ、ご飯代だけって、先に言っといたほうがいいよ」
見せてもらった画面には、料理や男の子の写真と一緒に、短い誘い文句が並んでいた。
「知らない人と会うのって危なくない?」
「俺だって最初は知らない男だったじゃん」
「そうだけど、あなたはもう知ってる子だもの」
彼は少し口元を緩めてから、最初は人の多い場所で会うようにと言った。
その後、私も何人かと食事をした。
初めて会う相手には年齢を確認し、食事だけという約束をする。家の場所を細かく聞きたがる子と会った日は、帰る方向を見せずにタクシーへ乗った。その子とは、それきりにした。
また誘いたくなる子もいた。
美味しいものを食べて、他愛のない話をする。向かいには、顔のいい男の子。帰宅して料理を思い出すと、ついでに、その子が嬉しそうに笑った顔も浮かんでくる。
会うのは、私が外食したい日。行くのは、私も食べてみたいお店。
二週間に一度くらい。友達との約束や、一人で過ごす時間の合間に、そんな夕食を楽しむようになった。
恋人を作るのとは、別の話だ。
気になるお店を見つけるたびに、一緒に行く相手を考える。
それが、私の趣味になった。
*
ある週末の夜、SNSを見ていて、一枚の写真で指が止まった。
黒い髪と、片方の目。顔の下半分はスマホで隠れている。
その目が、よかった。
切れ長で、涼しげで、少し近寄りがたい。もう少し見えないものかと写真を大きくしてから、指を離した。
大きくしたところで、隠れているものは見えない。
プロフィールには、二十一歳の大学生とあった。
名前は、蓮。
投稿を遡ると、映画の感想や、友達と食べに行ったらしいラーメンの写真があった。最新の投稿は、焼肉の約束が流れたという話。その下に、『誰か代わりに飯連れてって』と書き足してある。
私はDMの入力欄を開いた。
『はじめまして。三十三歳の会社員です。よかったら、一緒に夕食をどうですか?』
それから、いつもの説明を添えた。
食事だけ。ご飯代はこちらで出すけれど、お手当はなし。
送信したあと、もう一度写真を見る。
実際に会ったら、どんな顔なんだろう。
*
待ち合わせは、土曜日の夕方。
駅に隣接した商業施設の、一階の時計の下にした。五分前に着いて、服装を知らせるDMを送る。
『俺もいる』
返事に顔を上げると、柱のそばに黒いトップスを着た男の子が立っていた。手元のスマホから目を離し、こちらを向く。
あ、写真の目だ。
彼は片手を軽く上げて、近づいてきた。
すっと通った鼻筋に、形のいい唇。黒い前髪の下には、あの切れ長の目がある。
……全部、よかった。
「真帆さん?」
声までいい。
「うん。蓮くん?」
「そ」
目の前で足を止めた彼は、私を見て、口の端を少し上げた。
「へえ。綺麗な人じゃん」
リップサービス、リップサービス。
心の中で唱えて、私は笑った。ここで浮かれては、『おねえさん』としての沽券に関わる。
「ありがとう。蓮くんも格好いいね」
「知ってる」
思わず声を出して笑ってしまった。
「そうだよね」
「そこ、同意するんだ」
「本当のことだもの」
写真では冷たそうに見えた目が、笑うと少し細くなった。
なるほど。こういう顔で笑うのか。
DMでも頼んであったので、学生証はすぐに見せてくれた。生年月日を確認し、写真と本人の顔を見比べる。
確かに二十一歳だった。
それにしても、証明写真まで格好いい。
「そんなに違う?」
「え?」
「結構まじまじ見てるから」
手元へ目を戻し、ようやく何を聞かれたのかわかった。
「ああ、違うの。証明写真も格好いいなと思って」
学生証を返すと、蓮くんは少し笑った。
「それはどうも」
*
お店は、同じ商業施設に入っている洋食屋さんにした。
通路に面した明るい店内で、二人席に案内された。蓮くんが向かいに座ると、思っていたより顔が近かった。
渡されたメニューを開けば、彼も料理の写真に目を落とす。まつ毛が長い。ページの端に添えられた指も、すらりとしていた。
そこまで眺めていたことに気づいて、自分のメニューへ目を戻した。
ご飯に誘ったのだ。あまり、じろじろ見るものではない。
「ハンバーグにしようかな」
「俺も。それ、ソース何にする?」
「デミグラス。蓮くんは?」
和風、と言われて写真を見比べる。大根おろしも美味しそうだった。
「迷う?」
「ちょっと」
「一口あげるよ」
それはありがたい。私も自分の分をあげると約束して、注文を済ませた。
運ばれてきたハンバーグに、蓮くんがナイフを入れる。切り口から肉汁がにじんだ。一口食べて頷くので、私も自分のハンバーグを切ろうとした。
「はい」
顔を上げると、大根おろしののった一切れが、フォークに刺さったまま差し出されていた。
受け取ろうとして、手が止まる。
これは、口を開けるほうだ。
蓮くんは少し身を乗り出して、私が食べるのを待っていた。その顔からフォークへ目を戻し、もう一度、彼を見る。
あの顔に見られながら、口を開けるのか。
「あ、ええと……」
小皿に取ってもらえばいい。そう思いつくまでに、妙な間が空いてしまった。
「お皿に、もらってもいい?」
「喜ぶと思ったのに」
「嬉しいよ。ただ、その……ちょっと照れるから」
言ってしまってから、頬が熱くなった。もっと何でもないように頼めばよかったのに。
蓮くんの口元が上がる。
「照れるんだ」
「……初対面でしょう」
「そっか」
素直に小皿へ置いてくれたので、お礼を言い、私も自分の分を切り始めた。
「蓮くんのも、今あげるからね」
「うん」
返事に笑いが混じっていた。確かめたらますます顔を上げにくくなりそうで、しばらく自分のお皿に集中することにした。
映画の話になったのは、半分ほど食べた頃だった。
彼が最近見たという一本は、私も先週見たばかりだった。思わず、あの俳優が怪しかったと言うと、すぐに話が通じた。
「あの人、絶対裏切ると思ったの」
「わかる。出てきたときから怪しい」
「最後まで普通にいい人で、びっくりした」
蓮くんは笑いながら、水のグラスを置いた。
「顔で疑われてかわいそう」
その言い方に吹き出すと、彼も笑った。切れ長の目が細くなり、少し開いた唇から白い歯が見える。
あ、可愛い。
「可愛いね」
「格好いい、のほうがいい」
「それは、さっき言ったよ」
さっきまで楽しそうだった顔が、少し不満そうになるのも可愛かった。
「何回でもいいけど」
「じゃあ、格好いい」
「どうも」
満足したように水を飲むので、また笑ってしまった。
グラスを置いた彼が、少し身を乗り出す。
「で、あの映画の最後なんだけど」
その続きを聞きながら、私も思っていたことを話した。食べ終わってからも話は続き、店を出て時計を見ると、思っていたより時間が経っていた。
駅へ向かいながら、次に公開される映画の話をした。
予告編を出そうとスマホを見ていたら、肩に手が触れる。
「おねーさん、こっち」
「あ、ありがとう」
向こうから来た数人連れが、すぐ脇を通り過ぎた。画面を見ているうちに、通路の真ん中へ寄っていたらしい。
顔を向けると、蓮くんがすぐそばにいた。
近い。
人が通り過ぎても、肩の手はそのままだった。食事中、私が照れるのを見て笑っていた顔まで思い出して、また落ち着かなくなる。
ずいぶん、楽しませてもらっている。
「そういうの、しなくていいからね」
蓮くんが私を見た。
「そういうの?」
「ご飯、一緒に食べてくれるだけで嬉しいから。そんなに気を使わなくても大丈夫だよ」
彼の口元から、笑みが薄れた。
「……別に、サービスじゃないけど」
肩から手が離れる。そう言ってもらえても、さっきのハンバーグといい、私には少し贅沢すぎた。
「うん。でも、無理はしないでね」
「してないよ」
彼は何か言いたそうにこちらを見てから、少し笑った。
駅で別れ、電車に乗ってからお礼のDMを送った。
『今日はありがとう。楽しかったです』
返信は、ほどなく届いた。
『こちらこそ。ごちそうさまでした』
……今日の子、格好よかったなあ。
スマホをバッグにしまうと、窓に映った自分の口元が緩んでいた。そっと引き締めて、外へ目を向けた。
*
蓮くんと食事をした二週間後は、別の男の子とラーメンを食べに行った。
よく笑う二十三歳の子で、替え玉まで気持ちよく平らげていた。私も半玉くらい頼めばよかったと、帰り道で少し後悔した。
それから、また二週間。
そろそろ誰かとご飯に行こうかな、とSNSを開いたところで、通知が出た。
蓮くんだった。
『おねーさん、これ見た?』
送られてきたのは、前に話していた映画の予告編だった。映画はまだ見ていないと返すと、蓮くんは今日、映画館で見てきたという。
『あの俳優、今回はちゃんと怪しかった』
声を出して笑ってしまった。
『それ、言っていいやつ?』
『予告でわかる範囲だから大丈夫』
『じゃあ、安心して疑えるね』
すぐに既読がついた。
『思う存分疑ってきて』
一か月前、向かいで笑っていた顔が浮かぶ。
『またご飯行く?』
送ると、行く、と返ってきた。来週の土曜日で予定が合い、お店を探そうとしたところで、もう一通届く。
『おねーさんも映画見てきてよ』
『感想聞きたい』
私は開きかけたお店のページを閉じた。
先に、上映時間を調べよう。
*
「久しぶり」
「うん。映画見た?」
挨拶の次がそれで、私は笑ってしまった。
「見たよ」
「どうだった?」
「話したいこと、いっぱいある」
蓮くんがスマホをポケットにしまう。
「俺も」
私も頷いてから、尋ねた。
「そういえば、焼肉はもう行けた?」
「まだ」
「じゃあ、今日は焼肉にしようか。近くに、よさそうなお店があったの」
あの投稿を思い出して、来る前に調べておいたお店だ。
「賛成」
彼と、お店のある通りへ向かった。
タンとハラミ、それからカルビ。ご飯は大盛り。
蓮くんの希望を聞いて注文すると、最初に届いたタンを、彼が焼いてくれることになった。
「映画さ」
網に肉を並べながら、蓮くんが言った。
「あの人が出てきたとき、笑わなかった?」
「笑った。怪しいって聞いてたから、余計に」
「俺も、おねーさん絶対ここで笑うと思った」
顔を上げた彼と目が合う。
私が見ているところを、想像したのか。
「笑ったよ。隣の人に気づかれないように我慢したけど」
「あの登場の仕方、ずるいよね」
「扉が開くところから、もう怪しかった」
今なら遠慮なく笑える。焼けたタンを小皿に取ってもらい、レモンをつけて食べた。
映画の結末については、意見が分かれた。
「最後、あれでよかったのかな」
「俺は好きだったけど」
「そっか。私は、あの二人にもう一回話してほしかった」
蓮くんは網の肉を返した。
「ああ。でも、話したら帰れなくない?」
言われて、最後の場面を思い返す。
「……確かに。帰れないね」
「だから、あそこで終わってよかったんじゃない」
そういう見方もあるのか。
「もう一回見たくなった」
「俺も。最初のほう、見直したい」
蓮くんが、焼けたハラミを私の小皿へ置いた。その拍子に袖口がずれ、手首の内側が覗く。骨ばった手の甲とは違う、薄い皮膚の下にうっすら血管の透けるところまで、つい目で追ってしまった。
彼は空いた手で袖を押し上げ、また網を見る。
顔が格好いいのは、本人もよく知っている。
でも、今の手首までは、たぶん計算していない。
……そういうところまでいいのは、ずるい。
「蓮くんも食べてね。焼くの、代わろうか」
「食べてるよ」
言いながら、自分の皿の肉を口に運ぶ。大盛りのご飯も、もう半分くらいになっていた。
本当だ。
私は安心して、焼いてもらったハラミを食べた。
食事の最後に、彼は普通サイズの冷麺を頼んだ。私は杏仁豆腐。向かいから少し気にしているようだったけれど、さすがに追加はしなかった。
店を出てから、袖口に鼻を近づける。
「ちょっと焼肉の匂いする」
「俺もする」
隣で蓮くんが、自分の肩口を嗅いだ。顔を上げたところで目が合い、二人で笑った。
「映画の話もできてよかった」
「俺も。周り、まだ誰も見てなくて」
「先に見ておいてよかった」
一人で見たときには気づかなかったことを、いくつも聞けた。もう一度見るなら、最初の場面から彼の話を思い出しそうだった。
*
帰りの電車で、DMが届いた。
『今日の店、よかった』
『杏仁豆腐も食べればよかった』
やっぱり、気になっていたらしい。
『冷麺、普通サイズにしたからね』
『あれは食べてよかった』
笑って、私もおいしかったと返した。
翌週には、コンビニで買った杏仁豆腐の写真まで送られてきた。
ずいぶん心残りだったのだろう。
『じゃあ、今度は最初から頼んでおこうね』
『それは最後にして』
お昼休みのお弁当を食べながら、また笑ってしまった。
その頃、蓮くんとは連絡先も交換し、DM以外でもやり取りするようになった。
配信が始まったとか、前に話していた店が休みだったとか。返事が翌日になることもあれば、何往復か続く日もある。
忙しい一週間でも、蓮くんから写真が来ると、ちょっと楽しかった。
三回目の食事は、彼から誘ってくれた。
*
気になっていたレストランには、ドレスコードがあった。
少し綺麗めの服で来てほしいと伝えると、『ジャケットあればいい?』と返ってきたので、それなら大丈夫と答えた。
そして当日。
待ち合わせ場所で、私は一度足を緩めた。
黒のタートルネックに、チャコールのジャケット。すっきりした黒いパンツに革靴を合わせ、髪もいつもより少し整えている。
……そう来たか。
私に気づいた蓮くんが、ポケットから手を出した。
「おねーさん」
いつもの声だった。
どうにか普段どおりの顔を作って、近づく。
「お待たせ」
「俺も今来た」
彼は自分の服へ目を落とした。
「これで大丈夫?」
大丈夫。非常に、大丈夫です。
「うん。素敵。似合ってる」
「よかった」
ああ。今日のお店、ここにしてよかった。
まだ入ってもいないけれど。
「おねーさんも、いつもと違うね」
「お店に合わせてみた」
「似合ってる」
自分のワンピースを見下ろしてから、お礼を言った。
リップサービス、リップサービス。
隣に並んだ彼をもう一度見たくて、信号待ちで、向こう側の看板を見るふりをした。
黒い襟の上に、顎のラインがくっきり見える。ジャケットの肩も綺麗に合っていた。
「何?」
視線だけが、こちらへ動く。
見つかった。
「ジャケットも似合うなと思って」
「さっきも言った」
「うん。もう一回思ったの」
蓮くんは私を見たまま笑った。信号が青になり、隣を歩き出す。
*
デザートのお皿が下げられてからも、話は続いていた。
次に見たい映画から、帰りの電車で読んでいる小説の話になった。
「最後まで読んだら、面白かったか教えて」
「読む?」
「面白かったら」
責任重大だね、と笑って答えた。コーヒーを飲みながら相槌を打つ彼を、ときどき眺める。
「そんなに気になる?」
カップを置いた蓮くんに聞かれて、私は笑った。
「似合うなと思って」
「それ、三回目くらい」
「じゃあ、もう言わない」
彼の口元が少し上がる。
「言わなくていいとは言ってないけど」
それなら、遠慮なく。
私はコーヒーを飲みながら、もう一度その顔を見た。
店を出る頃には、通りの植え込みに明かりが灯っていた。駅まで並んで歩いていると、隣から来週の予定を聞かれた。
「あー、約束あるから、ごめんね?」
「友達?」
「ううん。蓮くんみたいな?」
彼の足が、ほんの少し遅くなった。
「……ああ」
私も歩調を緩める。
「その次の週も、ちょっと予定があって。もう少し先でもよければ」
「うん」
蓮くんは前を向いていた。
「また連絡して」
「わかった」
そう答えると、彼がこちらを見た。
何か言うのかと思ったけれど、口元が少し緩んだだけだった。
*
翌週は、二十二歳の男の子とスープカレーを食べに行った。辛さを選ぶところで二人とも迷い、私は無難な辛さにして正解だった。向かいの彼は汗をかきながら、それでも美味しそうに完食していた。
その次の土曜日は、大学時代からの友達とランチをした。二年前に結婚している友達だ。
「この間さ、夫が急にカーテン洗い始めて」
パスタを巻きながら、彼女が言った。
「カーテン?」
「そう。天気いいからって。私、洗えることすら忘れてた」
「わかる。ずっと掛かってるものだと思ってる」
洗濯が終わったら一枚だけ縮んでしまい、二人で交代しながら引っ張ったけれど、どうにもならなかったらしい。
「見慣れると気にならないよって言うんだよ。裾が浮いてるのに」
「言い出した本人が?」
「そう」
呆れたように笑う彼女と、一緒に笑った。
結局、その日は二人で新しいカーテンを買いに行ったという。
何だか、いいなと思った。
「真帆は、最近どう?」
「元気だよ。仕事もまあまあ」
「恋愛のほう」
食事に行く男の子の顔が浮かんだけれど、彼女が聞いているのは、そういうことではなかった。
「そっちは、特に」
「誰か探したりは?」
「してないなあ」
仕事をして、友達と会って、一人で好きなことをする。最近は新しい趣味もできたし、特に不満はない。
でも、このまま過ごしていたら、来年も同じことを言っていそうだった。
「……私も、ちょっと探してみようかな」
「うん。いいんじゃない」
大げさに喜ぶでもなく、そう返してくれたので、私もデザートのメニューを開いた。
*
その夜、恋活アプリを一つ入れてみた。
生年月日、住んでいる地域、仕事。順番に入力していると、結婚への意思を尋ねる項目が出てきた。
結婚式がしたいとか、何歳までに結婚したいとか、具体的な希望はあまりない。
ただ、今日聞いたカーテンの話を思い出した。
何でもない休日に、一緒に困ったり、笑ったりする相手。そういう人がいたら、嬉しいと思う。
いい人がいれば結婚したい、という項目を選んだ。
プロフィールに使える写真をようやく見つけたところで、蓮くんから通知が来た。
『おねーさん、来月の最初の土曜は?』
カレンダーを見る。そこは、まだ空いていた。
『大丈夫だよ』
『じゃあ、ご飯行こう』
私は笑って、予定を入力した。
蓮くんと食事。
それからアプリへ戻り、残っていた自己紹介文を考えた。
*
次のお店は、蓮くんが見つけてくれた。
土鍋ご飯と魚料理のお店で、送られてきた写真には、鯛も、鮭といくらもあった。当日まで迷っていたけれど、彼も食べたがった鮭といくらに決まった。
二人前からだったので、好みが合ってよかった。
注文を終えると、この前話した小説は読み終わったかと聞かれた。
「うん。面白かったよ」
「じゃあ、読む」
「私の感想だけで?」
まだ感想も話していないのに、読むことは決まったらしい。
「面白かったらって言ったじゃん」
「そうだけど。好み、合うかな」
「読んでみればわかるでしょ」
もっともだった。今度持ってくると約束すると、蓮くんは「ありがと」と言った。
土鍋ご飯は、二人ともおかわりをした。お茶碗を渡すと、おこげも一緒によそってくれる。
食後のお茶を飲みながら、本を忘れないようにメモしておこうと、スマホを出した。
「あれ?」
蓮くんの声に、指を止める。
「何?」
「それ、やってるの?」
視線の先には、この間入れた恋活アプリのアイコンがあった。
「ああ、これ? うん。最近始めたの」
彼は一度私を見てから、「そうなんだ」と答えた。
「まだ、使い方もよくわからないんだけどね」
笑ってメモを開き、本、と入力する。顔を上げると、蓮くんはお茶を飲んでいた。
「今度、忘れずに持ってくるね」
「うん。楽しみにしてる」
*
文庫本を貸して、一週間ほど経った頃。
読み終わったと連絡が来て、土曜日にお茶をすることになった。私は夕方から友達に会う予定だったので、その前に。
「今日、俺が出すから」
本を受け取ってバッグにしまうと、蓮くんがメニューをこちらへ向けた。
「本、借りたお礼」
「そんなの、いいのに」
「俺が誘ったんだし」
チーズケーキと季節のタルトの写真が並んでいる。お店のページを見たときから食べたかったほうを、もう一度眺めた。
「……じゃあ、ご馳走になろうかな」
「うん。どれにする?」
私がチーズケーキを指すと、彼も同じものにすると言った。
本の話は、ケーキが来る前から始まった。最初の場面について言われ、私は途中の台詞のほうが気になったと答える。
「真帆さん、知ってたから言わなかったんだ」
「言いたかったよ。すごく」
「危なかった」
彼の前に、ケーキが置かれた。
本のお礼なら、感想を聞かせてもらうだけで十分だった。でも、お店を探して誘ってくれたことも、ご馳走すると言ってくれたことも、嬉しかった。
一口食べて顔を上げると、目が合う。
「何?」
「ありがとう。誘ってくれて」
蓮くんは少し笑った。
「うん」
帰り際には、友達によろしくと言われた。知らないでしょうと返せば、「一応」と笑う。
手を振って別れてから、バッグの中の本を思い出した。
貸してよかったな。
読んでもらって、よかった。
*
数日後、お皿を持った猫のスタンプが届いた。
最初に声をかけてきた、あの子だった。
翌週、前にも一緒に行った洋食屋さんで会う。彼は海老フライ、私はハンバーグを頼んだ。
SNSで誰かと会っているか聞かれたので、近況を話した。家の場所を聞きたがる子とはもう会っていないこと。初めて会う相手には、食事だけと伝え、年齢も確認していること。
「ちゃんとしてるじゃん」
「どうしてあなたが偉そうなの」
彼は声を出して笑った。
「でも、最近は、決まった子とよく行くようになったよ」
「へえ」
その顔が、にやっとする。
「本気になっちゃった?」
「そんな――」
そんなことない、と笑おうとした。
なのに、白いお皿のチーズケーキが浮かんだ。今日、俺が出すから、とメニューをこちらへ向けてくれた手まで。
「……そういうんじゃないよ。話してて楽しいし、食べたいものも合うから」
「ふうん」
「何、その顔」
彼は笑いながら、海老フライを切った。
「楽しいならいいじゃん」
それには、すぐに頷けた。
帰りのホームで、蓮くんとのトーク画面を開いた。何か送ろうと入力欄に触れたけれど、特に用事はない。
今日、ハンバーグを食べたよ。
それだけ送るのも、何だろう。
迷っているうちに電車が来て、私はスマホをしまった。
*
日曜日、恋活アプリで知り合った人とお茶をした。
三十五歳の会社員で、やり取りの感じがよく、好きな映画もいくつか重なっていた。待ち合わせ場所で会釈をしてくれた彼は、写真より少し柔らかい印象だった。
仕事や休日の話をしているうちに、旅行先で撮ったという写真を見せてもらった。
「このお店が、すごくよかったんです」
「おいしそう」
「朝から食べすぎました」
金沢の朝ご飯だという。小鉢がいくつも並んでいて、確かに、お昼までお腹がすかなそうだった。
私の話も聞いてくれるし、会話が途切れて困ることもなかった。
結婚を考えられる相手と出会いたくてアプリを始めた、と話す彼に、私も、いい人がいればと思っていると答えた。
「まずは、お互いを知ってからですよね」
穏やかに返してもらえて、ほっとした。
けれど、帰りの電車で、また会いたいという連絡をもらうと、返事に迷った。
もう一度会うのは嫌ではない。一度ではわからないこともあるだろう。
そう思うのに、予定を開く気になれなかった。
帰宅してお湯を沸かしながら、友達のカーテンの話を思い出した。ああいう暮らしはいいなと思ったし、一緒に笑える相手は欲しい。
ただ、誰かと会って、次も会いたいか考えて、返事を書く。その一つ一つが、今日は少し重かった。
私、こういうの向いてないのかも。
お礼を書き、今は自分の気持ちが追いついていないことを伝えた。次に会う約束はできそうにない、と添えるまでに何度か書き直す。
送信して、スマホを置いた。
せっかくの日曜日なのに、宿題を済ませたような気分だった。
*
ソファでお茶を飲んでいると、連絡が来た。
『この前言ってた映画、配信始まってる』
蓮くんだった。
送られてきた画像を見て、すぐに配信サービスを開く。あとで見ようと思って、そのまま忘れていた映画だ。
『ありがとう。今日見ようかな』
『俺も今から見る』
『じゃあ、私も』
時計はまだ六時過ぎだった。見終わってから夕飯を作ればいい。
クッションを引き寄せ、再生ボタンを押した。
映画が終わってスマホを取ると、ちょうど『見た?』と届いた。
『今、終わった』
『最後さ』
『うん』
続きを待ちながら、私も打つ。
あの人、最初から知ってたのかな。
送る直前に、蓮くんから同じような疑問が届いた。笑って、入力しかけた文章を消す。
『それ、今打ってた』
『やっぱり?』
一つ答える間に、また聞きたいことが浮かぶ。途中で出てきた写真の話を書いていたら、新しい通知が出た。
『電話していい?』
電話。
そういえば、したことがなかった。
誰に見られるわけでもないのに、膝の上のクッションを脇へ置いた。
『うん』
すぐに着信が来た。
「もしもし」
「真帆さん?」
「うん。聞こえるよ」
いつもの声だった。ただ、いつもより近い。
「よかった。打つの間に合わない」
笑っている声に、私も笑った。
「私も。何回も書き直してた」
「あの写真、もう一回見た?」
「まだ」
リモコンを取り、教えてもらった場面まで戻す。言われたところで止めれば、確かに写真が写っていた。
「あ、本当だ」
「でしょ?」
耳元で声が弾んだ。
「あの台詞も、そういう意味だったんだね」
「たぶん。俺も最初、気にしてなかった」
二人で確かめながら、もう一度その場面を見た。一人で見終えたはずなのに、まだ映画の続きにいるようだった。
いつの間にか、別の話になっていた。
蓮くんは昼過ぎまで寝ていたらしい。昨日は友達とゲームをしていたと言い、私にも何をしていたかと聞いた。
「出かけてたよ。お茶して、夕方には帰ってきた」
「そっか。ご飯、食べた?」
「まだ。映画見ちゃったから」
時計を見ると、八時半を過ぎていた。
「何食べるの?」
「豚肉とキャベツがあるから、炒めようかな」
「いいじゃん」
スマホを耳に当てたまま冷蔵庫を開け、豚肉のパックを取り出す。
「蓮くんは?」
「米はある」
「炊いてあるの?」
冷凍、と返ってきたので、私は笑った。
「じゃあ、もう半分できてるね」
蓮くんが声を出して笑う。その声を聞いていたくて、キャベツを取り出す手が少し遅くなった。
「じゃあ、ご飯作るね」
「うん」
冷蔵庫を閉めても、すぐには切れなかった。
「映画、教えてくれてありがとう。電話も楽しかった」
「俺も」
返ってきた声に、口元が緩む。
「今度は、一緒に見ようよ」
「映画館で?」
「うん。見終わってすぐ話せるし」
蓮くんと並んで座るところが浮かんだ。
「いいね。何か見たいのある?」
「ある。あとで送る」
まずはご飯ね、と言うと、「はいはい」と笑って蓮くんは電話を切った。
豚肉とキャベツを炒めながらも、さっきの声を思い出していた。
食事ではない約束。
友達とも映画には行く。それなのに、蓮くんと行くのだと思うと、何を着ようかまで考えてしまう。
<本気になっちゃった?>
私は菜箸で豚肉を返した。
映画くらい、行くでしょう。
スマホが震えたので、火を弱めて見に行く。蓮くんから予告編が届いていた。
『これ』
私は先に返事を打った。
『行きたい』
送ってから、まだ再生していないことに気づいた。
*
予告編は、ちゃんと面白そうだった。
蓮くんが送ってくれた上映スケジュールを見て、土曜日の午後の回に決めた。チケットは彼が取っておいてくれることになった。
当日、映画館で代金を聞いても、蓮くんは受け取らなかった。
「今日は俺が誘ったから。一緒に見たかったし」
財布を出しかけた手が止まる。彼はもう売店のメニューを見上げていたので、私も慌てて顔を上げた。
「じゃあ、飲み物は私が出すね」
「ありがとう。何にする?」
「アイスティー」
決めていたものを答えただけなのに、返事が少し遅れた。
一緒に見たかった、か。
隣を見ないようにしながら、サイズを選んだ。
席は、ちょうど真ん中あたりだった。バッグを膝に置くと、蓮くんが「見やすい?」と尋ねる。頷いて座り直したところで、肘掛けに置かれた彼の腕が目に入った。
今日はテーブルがない。
顔を向ければ、すぐそこにいる。私はスクリーンへ向き直った。
予告編が始まってしばらくすると、見覚えのある俳優が映った。
あの人だ。
隣を見れば、蓮くんもこちらを向いていた。口元を緩め、少しかがんできたので、私も顔を寄せる。
「また怪しい役」
耳元の低い声に、首の後ろがそわっとした。
「まだ、わからないでしょう」
「今、銃持ってたけど」
確かに。
笑いをこらえてスクリーンへ戻る。彼はもう普通に予告編を見ていたけれど、私の耳には、しばらくあの声が残っていた。
本編が始まれば、ちゃんと夢中になった。
主人公が迷うところでは私まで息を詰めたし、そこでそんな冗談を言うのかと笑った場面では、隣からも小さく声が漏れた。
明るくなるのを待って顔を向けると、蓮くんもこちらを見た。
「どうだった?」
「話したいこと、いっぱいある」
「俺も」
同じような顔をしていて、笑ってしまった。
上映後のロビーは混み合っていた。彼の後ろを歩いているうち、横から来た人に道を譲って、少し離れる。
振り返った蓮くんが、手を差し出した。
「真帆さん、こっち」
つい、その手を取っていた。
指が私の手を包む。人の流れを抜け、壁際まで来ると、するりと離れた。
「最後のさ。あそこで戻ると思わなかった?」
もう映画の話を始めている。
「……思った。絶対戻ると思った」
「だよね」
私は空いた手でバッグを持ち直した。ロビーの時計は、まだ五時前だった。
「何か食べていく?」
「いいの?」
「うん。映画の話もしたいし」
このまま別れるには、話し足りなかった。
近くの店でピザを頼み、気になった場面を話した。好きなところが違うので、そのたびに映画の中へ戻ることになる。
お皿が空になってからも話していたら、蓮くんが壁の時計を見た。
「時間、大丈夫?」
「うん。蓮くんは?」
「俺も大丈夫」
彼はそのまま店員さんを呼び、飲み物のおかわりを頼んだ。
「真帆さんも?」
「うん。同じので」
もう少し、ここにいられる。
私は椅子に座り直した。
外へ出る頃には、すっかり暗くなっていた。
駅までの道は、映画館のロビーほど混んでいない。蓮くんは私の隣を歩き、その手は上着のポケットに入っていた。
「今日はありがとう」
「こちらこそ。ピザ、ごちそうさま」
「映画、誘ってくれて嬉しかった」
横を見ると、彼もこちらを見ていた。
「また行こうよ」
「うん」
すぐに答えた私に、蓮くんが笑う。
帰宅して送ったお礼にも、『俺も』と返ってきた。
『次、真帆さんが選んで』
私は上映予定を開いた。
*
次の映画の約束は、二週間後の土曜日に決まった。
私が送った予告編に、蓮くんから『ありがとう。楽しみ』と返ってきた。そのあと何を食べようかと、お店もいくつか見ていた。
彼を見かけたのは、約束の一週間前だった。
買い物帰り、通りの向こうに見覚えのある横顔があった。アクセサリーのお店の前で、隣にいる女の子の話を聞いている。
淡いピンクの短いカーディガンにデニム。巻いた髪が肩にかかり、笑うたびに揺れていた。二十代前半くらいだろうか。可愛らしい子だった。
声をかけようとしたところで、蓮くんが少しかがんだ。
彼女の耳元を見て何か言うと、その子は嬉しそうに髪を耳へかけた。蓮くんの腕に触れた手が、そのまま残る。
私は足を止めた。
彼女、いたんだ。
見上げる彼女に蓮くんも笑って、近くで話している。
お似合いだな、と思った。
信号が変わり、買い物袋を持ち直す。今、声をかけるのは野暮だろう。それに、何と紹介してもらうのかも、よくわからなかった。
*
電車に乗ってから、蓮くんとのトーク画面を開いた。
あの子は知っているのだろうか。私と二人で食事をして、映画にも行っていること。
そんなことを考えていたら、彼から連絡が来た。
『さっき、駅の近くにいた?』
『うん。買い物してた』
すぐに既読がついた。
『一緒にいた人、時々ご飯行く人なんだ』
『彼女じゃないよ』
画面を見つめてから、『そうなんだ』と返した。
少しして、もう一通届く。
『帰ったら電話していい?』
しばらく迷って、『うん』と送った。
時々ご飯に行く人。
私も、そうだ。一緒に食事をして、楽しく話して、次の約束をする。
私にだって、ほかに食事へ行く男の子はいる。それなのに、彼女ではないとわかっても、さっきの笑顔が頭から離れなかった。
*
帰宅して、買ってきたものを冷蔵庫にしまった。服の入った袋はソファの脇に置き、蓮くんへ『帰ったよ』と送る。
ほどなく着信が来た。
「もしもし」
「真帆さん?」
聞き慣れた声に、胸のあたりが少し緩んだ。こんなときでも、声を聞くと嬉しいのか。
ソファに腰を下ろすと、彼が話し始めた。
「さっきの人、前から食事とかに誘ってくれる人なんだ」
「ああ……そっか」
もっと年の離れた女性と会うものだと、何となく思っていた。あんなに若くて可愛い人もいるのか。
あの人も、今日のために服を選んだのかもしれない。
私だって、映画館で耳元に話しかけられただけで、しばらく落ち着かなかった。
「真帆さん?」
「うん。聞いてる」
「真帆さんとは違うから」
声は優しかった。でも、何が違うのか聞いたら、困らせてしまいそうだった。
食事だけでいいと伝えたのは、私だ。近づいてきた彼に、そういうことはしなくていいと言ったこともある。
「……映画、誘ってくれて嬉しかったの」
少し間を置いて、返事があった。
「俺も、一緒に行きたかったよ」
「私に会いたくて誘ってくれたのかなって、思ってたから」
「そうだよ」
あの人にだって、会うのを楽しみにしていたと言うのかもしれない。
そんなことを考えた自分が嫌だった。ちゃんと答えてくれているのに、素直に喜べなくなっている。
「次の映画、少し待ってもらってもいい?」
向こうが静かになった。
「まだチケット、取ってないから」
「……会いたくなくなった?」
「そうじゃない」
それだけは、すぐに答えられた。
会えば、きっと嬉しくなる。いつものように顔を眺めて、笑ってしまうと思う。
「ちょっと、考えたいだけ」
蓮くんはしばらく黙っていた。窓の外を車が通り過ぎてから、声が返ってきた。
「わかった」
私は膝に置いた手を見ていた。
「でも、俺が会いたくて誘ったのは、ちゃんと覚えてて」
「……うん」
通話が終わっても、しばらくソファから動けなかった。
画面には、映画を選んだときのやり取りが残っている。
『ありがとう。楽しみ』
そこを読み返し、スマホを伏せた。
服をハンガーにかけようと、買い物袋へ手を伸ばす。店で鏡に当てたときには、色が気に入ったのだと思っていた。
違った。
これ、蓮くんと映画に行く日に着ようと思っていたんだ。
*
その夜、蓮くんから連絡が来た。
『さっき、ちゃんと言えなかったことがある』
『会って話したい。いつなら大丈夫?』
返事を書けたのは、翌日の昼だった。
『来週の日曜なら』
『お茶だけでもいい?』
『もちろん』と返ってきて、駅の近くのカフェで会うことになった。
*
カフェの奥で、蓮くんが手を上げた。
近づくにつれて、その顔がよく見える。
会いたかったな、と思った。
「待たせちゃった?」
「ううん。今来た」
向かいに座ると、いつものようにこちらを見る。その目に少し困って、メニューを開いた。
コーヒーを頼んでからも、何を話せばいいのかわからなかった。映画の話なら、いくらでもできるのに。
「来てくれて、ありがとう」
「私も、ごめんね。映画、待ってもらっちゃって」
「それはいいよ」
そこで言葉が途切れた。
蓮くんは急かさずに待っていた。私はテーブルの端から、彼へ目を戻した。
「……この前、一緒にいた人。嬉しそうだったね」
「うん。喜んでもらえるように工夫したからね」
「工夫?」
彼は少し考えた。
「どう言ったら嬉しいかとか、何をしたら楽しめるかとか。仕事として会ってるから」
あの人が髪を耳へかけた仕草を思い出した。
「私も、あんな顔してたのかなって思ったの」
彼の口元から、笑みが消えた。
「蓮くんと話すの、楽しいから。ああいうふうに笑ってもらったら、嬉しいよね」
コーヒーが運ばれてきて、いったん黙った。店員さんが離れてからも、カップには手をつけられなかった。
「最初は、ご飯だけで楽しかったんだよ。でも、蓮くんから連絡が来るのを待つようになってた」
言ってしまうと、顔を見ているのが難しくなった。
「映画も、私に会いたくて誘ってくれたのかなって思ってたから。それも、喜ばせてくれてたのかなって……」
「会いたかったから、誘ったよ」
顔を上げると、蓮くんは私を見ていた。
「映画を見て、真帆さんと話したくなった。次は隣で見たかった」
「うん。でも、それは」
「好きだから」
続けようとした言葉が止まった。
蓮くんは、私から目を逸らさなかった。
「真帆さんが好きなんだよ」
私はコーヒーに手を伸ばした。飲もうとして、まだ熱いことに気づく。戻したカップがソーサーに当たり、小さく鳴った。
「あのね。私たち、十二歳違うでしょう」
「うん」
「蓮くんはこれから就職して、会う人も変わると思うの」
彼は黙って聞いていた。
「同じくらいの歳の子のほうが、一緒にいて楽しいって思うかもしれない」
「……真帆さんは、俺といて楽しくない?」
「楽しいよ」
思わず答えると、彼の眉が少し下がった。
「じゃあ、真帆さんは?」
先の話ならできた。自分がどう思っているかを言うほうが、ずっと怖かった。
「好きだと思う」
蓮くんの目が、わずかに開く。
その顔を見たら、曖昧にしておけなくなった。
「思う、じゃなくて……好き」
彼の口元が緩んだ。隠そうともせず嬉しそうにするので、見ている私の頬まで熱くなる。
「だから、怖いんだよ」
膝の上で両手を重ねた。
「ほかの女の人と会ってたら、嫌だと思うし。今までみたいに、楽しかったねって帰れなくなる」
蓮くんは、今度は笑わなかった。
「結婚も、今すぐしたいわけじゃないけど、何年かしたら考えるかもしれない。そのとき、蓮くんにはまだ早いかもしれないでしょう」
付き合ってもいないのに、こんな先のことまで。
「……重くて、ごめんね」
彼を見ると、また口元が緩んでいた。
「今、笑うところ?」
「ごめん。嬉しくて」
「私、結構、真剣に話してるんだけど」
蓮くんは頷いた。
「そんなに俺のこと考えてたんだ、と思って」
今度は耳まで熱くなった。
「……言わなきゃよかった」
「それは困る」
すぐに返され、何も言えなくなる。
「重くていいよ。ちゃんと聞くから」
その声は、笑っていなかった。
「真帆さんだって、俺じゃないほうがいいって思うかもしれないじゃん」
少しして、蓮くんが言った。
「アプリで、同じくらいの歳の、仕事もちゃんとしてる人に会って。俺といるより安心するかもしれないし」
簡単には否定できなかった。未来はわからないと言ったのは、私だ。
「俺、面白くなかったよ。アプリ始めたって知ったとき」
「……そうだったの?」
「俺にはあんなに格好いいって言ったじゃん、って」
私は彼を見た。
「それは、本当にそう思ってるから」
「うん。知ってる」
いつもの返事に、少し笑ってしまった。
「でも、顔が好きなのと、付き合いたいのは違うんだろうなって思った。だから、今、嬉しい」
彼はテーブルに置いた自分の手を見てから、私へ目を戻した。
「先のことは、俺も全部はわからないけど。怖くなったら、俺に言って」
私は頷いた。
「勝手に俺のためとか考えて、いなくならないで」
返事をしようとしたとき、彼が少し困ったように笑った。
「俺のこと、捨てないでよ」
その顔を見たら、抱きしめたくなった。
テーブルが、邪魔だった。
私は彼の手に触れ、そっと握った。蓮くんは一度手元を見てから、私を見た。
「……捨てないよ」
握り返してきた手が温かくて、ますます、テーブルが邪魔になった。
「私も、ちゃんと話す」
「うん。俺も」
彼の指が、私の手を包み直した。
「ほかの人と、ああいう会い方はもうやめる。真帆さんと付き合いたいから」
私はつないだ手を見て、それから彼の顔を見た。
「……私も、蓮くんと付き合いたい」
蓮くんが笑った。
今度は目を逸らさずに、その顔を見ていた。
短編版END
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
真帆と蓮の二人が作者自身とても好きで、もっと多くの方に知っていただきたいと思い、連載版を短編として再構成しました。
連載版では、真帆視点だけでなく、蓮の視点から描いた「蓮編」、そして二人が恋人になってからの「交際編」もお楽しみいただけます。
二人のことを少しでも気に入っていただけたなら、ぜひ連載版にもお立ち寄りください。
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