精霊の花嫁
※転載、翻訳禁止です。
王太子の婚約者になった、ルーシェ・アマネッセ公爵令嬢は、ずっと疲れていた。
王立学園の授業が終わり、王宮に向かうと王太子妃教育は夜まで続く。礼法、語学、史学、舞踏。どれひとつ欠けても許されなかった。それに加えて、婚約者である王太子ウジミル・ガーセマから日々割り振られる「仕事」があった。外交文書の草案作成、税制改革の立案、慈善事業の運営。いずれも王太子の名義で提出されるものだったが、実際に考えて書いて動かしていたのはルーシェだった。
それでも彼女は、こなした。
王太子の婚約者として、公爵家の娘として、誰かの期待に応える生き方が、いつの間にかルーシェの呼吸になっていた。自分が何を望んでいるか、などと考える余裕は、どこかに置き忘れてしまっていた。
それとは別に、ここずっと気がかりなことがある、同い年の義妹のことだった。
メキル・アマネッセ。母の亡き妹夫婦の娘で、両親を事故で失い、アマネッセ公爵家に引き取られた少女だ。澄んだ水色の瞳を持つ可憐な少女で、母のミジーナ公爵夫人は実の娘のように大切にした。
だがメキルは、ルーシェが自分をいじめていると──家族全員と、王太子にさえ──訴えていた。
ルーシェには、身に覚えがなかった。
何度、そう伝えても、誰も聞いてはくれなかった。
七月に入り、王城では聖夜の宴の準備が始まった。
夏の夜に催される「聖夜の宴」は、貴族社会の一大行事だ。令嬢達にとっては、特別な夜でもある。この国には、古くからひとつの言い伝えがある。年に一度、魔力を持つ一六歳の清廉なる乙女が、精霊の花嫁として、この地から連れ去られるという古い言い伝えがあるからだ。
もっとも、その防ぎ方は知られている。「精霊の腕輪」だ。婚約者あるいは親族の男性から、宴の一週間以内に男性の魔力を封じ込めた精霊の腕輪を贈られ、それを身につけていれば精霊の目をそらすことができる。ただし、その精霊の腕輪に魔力を送ることが出来るのは年に1回であり、その持続効果が1週間と制限もある。そして、これを身に着けないということは、精霊の花嫁になることを承諾する意味にもなる。過去六十年、その風習が守られてきたおかげで、精霊の花嫁として連れ去られた娘は一人もいなかった。ただの古い習わしではなく暗黙のものとして守られてきた。
ルーシェも婚約者のウジミルから受け取ると思っていた。だから気にもしていなかった。その時が来るまでは。
ルーシェは聖夜の宴日が近づく中、王太子ウジミルに面会を求めた。腕輪の件を話さなければならない。一週間を切っていたからだ。
応接室に入ると、ウジミルはソファに深くもたれ、くつろいだ様子だった。精悍な顔立ちに、いつもの余裕の笑みを乗せている。
「ルーシェ、ちょうどよかった。私からも話がある」
ルーシェは静かに腰を下ろした。
「今年の聖夜の宴のことだがな。メキルのエスコートを私が引き受けることにした。ルーシェ、おまえは父君に頼め」
ルーシェはまばたきをした。
「……殿下、精霊の腕輪の方は──」
「ああ、それもだ。メキルには贈られる相手がいないと聞いてな。俺の腕輪はメキルに渡した。メキルの亡き父上は私の叔父でもあるから問題ないだろう」
一瞬、何かが頭の中で止まった。ルーシェは静かに、ゆっくりと口を開いた。
「……殿下は私の婚約者でいらっしゃいます。腕輪を贈れる方は、本来──」
「おまえは父君にでも頼めばよかろう」とウジミルは遮った。目が笑っていなかった。「それに」と続ける。「メキルをいじめるようなおまえが、精霊の腕輪がなくとも精霊の花嫁に選ばれるはずもない」
静寂が落ちた。
ルーシェはゆっくりと息を吸った。ルーシェは口の中で、何かを言いかけて、やめた。反論の言葉が、喉の奥で霧散していった。メキルにいじめをうけているのだと相談された──それはウジミルだけではなく、父も母も兄も同じようなことを言っていた。ルーシェは身に覚えのない話だったが、誰も彼女の言葉を聞かなかった。
反論したところで、誰も聞かない。今まで何度、そうだったか。
わかりました、とルーシェは答えた。いつものように、静かに。
扉を閉めた瞬間、廊下の静寂がどっとのしかかってきた。ルーシェは少しの間、その場に立ち尽くした。そして深呼吸をして、歩き出した。
翌朝、ルーシェは父ジストラ・アマネッセ公爵の執務室を訪ねた。
父は厳しい人だった。だがその厳しさの根底に、ルーシェへの愛情があることは、彼女も知っていた。いずれ王太子妃となる娘が恥をかかないように、という父なりの不器用な思いやりだと思っていた。だからルーシェは、父のことが嫌いにはなれなかった。
執務室のドアをノックした。
「ルーシェか。どうした、珍しいな」
父は書類から目を上げ、少し驚いた顔をした。ルーシェが自分から父を訪ねてくることは、珍しかった。
「お父様、精霊の腕輪のことで、ご相談があります。お父様から精霊の腕輪を頂きたいのですが……」
父の顔が、少し困ったような顔をした。その表情を見た瞬間、ルーシェは嫌な予感がした。
「ルーシェ、おまえには王太子殿下がおられるだろう。」
その時、執務室のドアをノックされた。
執事が現れ、公爵に耳打ちをした。
「急ぎの案件が入った」と言った公爵は、ルーシェに視線をうつし、「それと、メキルに贈ってくれる者がいないと泣きつかれて言われたのでな、メキルに精霊の腕輪を渡しておる。お前は王太子殿下から受け取りなさい」
そのまま、公爵は執事と執務室から出て行った。
ルーシェも執務室を出た後、ドアに背を向け、しばらく立ち止まった。そして、息を整えて歩き出した。
泣くつもりはなかった。ただ、心のどこかで細い何かがぷつりと切れたような気がした。まだ兄がいると思い直して、動いた。
ルシルス・アマネッセは中庭にいた。嫡男として多忙な日々を送る兄は、昼の休憩時間をこの庭で過ごす習慣があった。
「ルーシェ? どうかしたのか」
兄は驚いた顔をした。妹が自分に話しかけてくることは珍しかった。
「お兄様、精霊の腕輪のことなのですが……」
「ああ」ルシルスは頭を掻いた。「そういえば、メキルが精霊の腕輪を贈ってくれる者がいないと泣きながら頼まれたから、俺のを渡したが、お前は殿下にもらっているのだろう?」
「っ……」ルーシェは息をのんだ。
そこで兄はルーシェの様子がおかしいことに気が付き、ルーシェの顔をみて、「ルーシェ、どうかしたのか?」
「いえ……やはり、なんでもありませんでしたわ、少し用事を思い出しましたので、失礼します」
兄が何かを言おうとするのを、ルーシェは微笑みで遮って、踵を返した。背中に兄の声が聞こえたが、足を止めることはなかった。
自分の部屋に戻り、ルーシェはゆっくりと考えた。
精霊の腕輪は、一人が一つしか身につけてはいけない。それは暗黙のマナーだ。ならばメキルは、三つも集めてどうするつもりなのか。
──ああ。
思考が、静かに止まった。
皆、私のことより、メキルのことばかり。
その言葉は、怒りではなかった。激しい感情ですらなかった。ただ、静かな確認だった。そうなのだ、という。ずっとそうだったのかもしれない、という。乾いた、悲しみの感情だった。
窓の外に広がる青空を眺めた。眩しいほど青い空を見上げながら、ルーシェはふと思った。
──ここに、私の居場所はあるのだろうか。
その答えを、誰かに聞くことはできなかった。
その後、親族で精霊の腕輪を贈っていない者がいないか確認をしたが、誰一人としていなかった。──
その日の夜が来た。王城の大広間は煌びやかな光に包まれていた。楽団の音楽が柔らかく流れ、貴族たちの談笑に満ちていた。
ルーシェは淡紅藤のドレスに身を包み、一人で王城の大広間に入った。エスコートはない。父は夫人と、兄は友人たちと来ていた。
ざわめきが起きたのは、入場して間もなくのことだった。
ルーシェではなく、その向こう側を見た令嬢たちの目が丸くなり、囁きが広がった。視線の先には、メキル・アマネッセがいた。
淡いピンクのドレスをまとった義妹は、にこやかに微笑みながら広間の中央に立っていた。その腕に、精霊の腕輪が、三つ。
令嬢たちが遠巻きに囁き合う。なぜ精霊の腕輪を三つも。礼節を知らないのか。
ルーシェはその光景を、少し離れたところから眺めた。不思議なほど、何も感じなかった。もう驚く余裕も、怒る気力も、残っていなかった。ただ、ああそうか、と思っただけだった。
ルーシェは、広間をあとにした。
王太子ウジミルがメキルを迎えに来た。そして気づいた。
メキルの腕を見て、ウジミルの怪訝な顔色に変わった。周囲の令嬢たちも一斉に距離を取った。
「メキル、その精霊の腕輪を……なぜ三つもつけているんだ」
メキルが何かを答えようとした瞬間、会場の入口からジストラ公爵とルシルスが歩いてきた。そして同時に、三人の目が重なった。
「ウジミル殿下、なぜルーシェをエスコートされていないのですか」
父が低い声で問うた。ルシルスも困惑した表情で周囲を見回した。そして三人の目が、メキルの腕に向いた。
「これは……どういうことだ、メキル」とジストラ公爵が低い声で言った。
「俺以外にも、受け取っていたのか?」とルシルスが呟いた。
三人はそれぞれ口を開いた。メキルに精霊の腕輪を贈ってもらえる相手がいないと言われ、頼まれた。だから渡した──三人がそれぞれ語ったその言葉は、完全に一致していた。
沈黙の後、怒りがわいた。
「騙していたのか!」公爵は怒りを抑えられなかった。「ならば、ルーシェは誰から精霊の腕輪をもらったんだ!」
ウジミルの顔が引きつった。周囲がざわめく。誰かが「そういえば、ルーシェ様は?」と呟いた。
誰も、答えを持っていなかった。
ルーシェは広間を抜け出し、庭園にいた。
誰かに話しかけられたくなかった。笑顔を作っていたくなかった。ただ、夜の空気の中に一人でいたかった。
白い薔薇が月光を受けて静かに輝いていた。今夜は、不思議と涼しかった。白いベンチに腰を下ろし、空を見上げると、星が多かった。ルーシェはそれをしばらく眺めた。
精霊の腕輪は、ない。ルーシェのドレスは腕まであるもので、精霊の腕輪がないとは気づかれないものにした。
もし今夜、精霊が現れて連れていかれてしまっても、構わないかもしれない、とルーシェは思った。
誰も探しには来ないだろう。ウジミルは義妹のエスコートで忙しい。父も兄も気づかないかもしれない。そして気づいたとして、悲しんでくれるだろうか。それとも仕方ないで、すませるのだろうか。
それは、ただの静かな確認だった。ルーシェは泣かなかった。涙の出どころが、もうどこにあるかわからなかった。
庭園の奥の方から、足音がした。
振り返ると、見覚えのある青年が立っていた。王弟のアレン・ガーセマ殿下だ。物静かで、滅多に話さない青年だった。
「一人でいるのか」と彼は言った。
「はい」とルーシェは答えた。「王太子殿下は義妹のエスコートをされていますので」
アレンの眉がかすかに動いた。嫌悪を隠そうとして、隠しきれていない。そういう顔だった。
「……あいつは、相変わらずだな」
ルーシェはそれを見て、少しだけ心が軽くなった。責める言葉ではなく、ただ静かに同じものを見てくれる人がいる、というだけで。
アレンはベンチの端に腰を下ろした。ルーシェから少し距離を置いた場所へ。
二人はしばらく、夜の庭園で言葉を交わした。ルーシェが王太子妃教育のこと、毎日山のように積まれた仕事のことを話すと、アレンは無言で聞いた。相槌を打つでも、慰めるでもなく、ただ聞いた。それがルーシェには、どこか心地よかった。
静寂が戻ってきた、その時だった。
空気が、変わった。
虫の声が、ぴたりとやんだ。風の音が止まった。白薔薇の花びらが、舞い上がった。
アレンが立ち上がり、剣の柄に手を添えた。ルーシェも立ち上がった。
眩しい光だった。
金と銀が混ざり合ったような、とても美しくどこか不思議で、描写しようとするたびに言葉が足りなくなる類の光だった。夜の庭園がその光に包まれ、白薔薇の花びらが宙に浮いた。不思議な輝きを放っていた。
中心となる光の中から、誰かが現れた。
長身で、白銀の髪が夜風に揺れている。瞳は輝かしい金色で、星の光を映したように揺らめいていた。纏う衣は夜空に浮かぶ霧のようで、この世のものとは思えない美しさだった。
精霊王──ラマキル・ゼッハ。
アレンが前に出た。庇うように、ルーシェとその存在の間に立った。だが精霊王の視線は、アレンを素通りした。まるでそこに何があっても、迷わず向こうを見るように、その金色の瞳は、最初からルーシェだけを見ていた。
静かな、低い声が夜に落ちた。
「迎えに来た、我が花嫁となる者よ」
ルーシェはまばたきをした。
「……わた、私をですか」
「そうだ」
一言だった。金色の瞳がルーシェだけを見ていた。長い時を生きてきたのかもしれない。この世ならぬ存在の目が、一人の人間だけに向いている。そういう目だった。
ルーシェは、不思議と恐くなかった。
なぜか、心が静かだった。
精霊王がゆっくりと歩み寄ってきた。アレンがさらに前に出ようとしたが、何かの力で動きを封じられ動けなくなった。精霊王は彼に一瞥もくれず、ルーシェの前に立った。膝を折り、その大きな腕をそっとルーシェの背と膝の裏に回した。
──お姫様抱っこ、という言葉がルーシェの頭をよぎった。場違いに呑気な思考だった。
地面が、遠くなった。
精霊王は空に上がった。足など地につけず、まるで夜そのものが彼を支えているかのように、静かに、しかし圧倒的な力で空を割った。
王城の庭園が、宴の大広間が、眼下に広がった。
そして精霊王の声が、夜空に響いた。城全体に届くように──いや、この国全体に届くように。
「我、精霊王ラマキル・ゼッハである。ルーシェ・アマネッセを我の花嫁としてもらいうける」
城全体を揺るがすような声だった。大広間の窓から光が漏れていた。
ルーシェはその腕の中で、遠くなっていく城の灯りを眺めた。恐くなかった。悲しくもなかった。ただ、夜風が心地よかった。そして、精霊王の腕は、思ったよりずっと温かかった。大広間の窓から光が漏れているのが見えた。誰かが叫んでいる声が、かすかに聞こえた。
彼女はそっと目を閉じた。
大広間は混乱に陥った。
精霊王が現れ、ルーシェを連れ去ったという事実は、瞬く間に会場全体に広まった。そして同時に、義妹メキルが三つの腕輪をつけていた理由が明らかになっていった。
王太子、ルーシェの父と兄──三人それぞれが、精霊の腕輪をメキルに渡していた。それはつまり、ルーシェには誰からも腕輪が贈られなかったということを意味していた。メキルが、意図的にそうなるよう工作したということを知ってしまった。
メキルは言い訳をした。精霊の花嫁など、おとぎ話だと思っていた。まさか本当に連れ去られるなんて思いもしなかったと。それは、誰の耳にも届かなかった。
現実は残酷だった。ルーシェは連れ去られた。それが全てだった。
ジストラ公爵の顔から血の気が引いた。ミジーナ公爵夫人は両手で顔を覆って泣いた。ルシルスは壁に拳を打ちつけた。ウジミルは蒼白な顔で立ち尽くした。
「お前を引き取るのではなかった」
ジストラ公爵の言葉は静かだったが、氷よりも冷たかった。メキルはその言葉に、泣き崩れ落ちた。
メキルは厳しい修道院へ送られることになった。抵抗したが、もう誰も彼女の言葉を聞く者はいなかった。
王太子ウジミルに対しては、また別の問題が噴き出した。ルーシェが失われたことで、これまで王太子の功績として語られてきた数々の成果が、実際にはルーシェが立案し実行したものだったという事実が次々と明らかになった。外交の草案も、税制改革案も、貧民救済の制度設計も、すべてに彼女の筆跡と痕跡があった。
国王は静かに、しかし厳かに、王太子を召喚した。
判決は、生涯幽閉だった。婚約者を精霊王に渡した失態、優秀な王太子妃候補を失ったこと、そして功績を横領し続けた欺瞞。その罪の重さに、宮廷は声を失った。
新たな王太子には、アレン・ガーセマが立てられた。庭園でルーシェの隣に黙って座っていた青年が、今度は一国の重みを背負うことになった。彼はその知らせを、静かに受け取ったという。
そしてただ一度だけ、窓の外を眺めて呟いたという言葉を、側近だけが聞いていた。
「──どうか、あちらで幸せでいてくれ」
目が覚めると、世界が変わっていた。
空は深い群青と金の色が混ざり合い、不思議な光が柔らかく降り注いでいた。木々は銀色の葉を揺らし、花は地上では見たこともない色で咲いていた。遠くには水晶のような山が連なり、その頂が光を散らして虹のようなものをいくつも生んでいた。
ルーシェはゆっくりと立ち上がった。精霊王の腕の中から、いつの間にか降ろされていたらしい。そして気がつくと、彼はすぐ隣に立っていた。
ルーシェは思わず、声を出した。
「……綺麗」
「ここは、精霊の世界だ」
それだけ答えた精霊王は、ルーシェが周囲を見回すのをただ静かに待っていた。驚かせたい、でも急かしたくない、そんな静かな沈黙だった。
ルーシェは深く息を吸い込んだ。空気が甘かった。花の香りと、土の匂いと、何か名前のつかない清涼感が混ざり合っていた。
「まさか、本当に連れていかれるとは思っていませんでした」
「そうだろうな」精霊王はかすかに、本当にかすかに、口の端を動かした。笑ったわけではないかもしれない。だが、その表情が少しだけ和らいだ気がした。
「恐ろしいか?」
「いえ、……正直に申し上げると、恐しくはありませんでした」
精霊王は少し間を置いた。
「なぜだ」
「地上に、あまり未練がなかったので」答えてから、ルーシェは少し笑った。
静寂が来た。精霊王はルーシェをしばらく見た。その金色の目が、ゆっくりと何かを読み取るように。
「……そうか」それだけ言って、彼は歩き始めた。こちらに来い、と言うわけでもなく、ただ少し先を歩いた。ルーシェはなんとなく後に続いた。
小さな橋の上で精霊王は足を止め、川を流れる光を眺めながら言った。
「精霊王が花嫁を選んだのは、おまえが初めてだ、過去に連れてこられた花嫁は他の精霊たちによるものだからな」
「そうだったんですね、私は選ばれた理由は……」
精霊王は少し考えてから、答えた。「天上から、おまえのことを見ていた」
「お前の魂は綺麗なものだ。まぁ、時には陰りもあるがな、それでも奥にあるものは美しい」
「……」
「押しつぶされそうになっていても、賢明に自己研鑽に励む姿が眩くてな、そんな姿を見続けていたら、ほしくなった。」
ルーシェは恥ずかしくなり、顔を赤くした。だが、今までルーシェを心から望んでくれたものはいただろうか。胸の奥に温かいものが流れた。そして涙が出た。
精霊王は何も言わなかった。ただ、隣に立っていた。
精霊の世界での日々は、穏やかだった。
精霊王は決して多くを語る者ではなかったが、ルーシェが何かを問えば正直に答えた。ルーシェが笑えば彼もまた、ほんのわずかだが、口の端を上げた。
精霊の世界には様々な者がいた。花の精霊、水の精霊、風の精霊、土の精霊。彼らはルーシェを恐る恐る、しかし次第に親しみを持って迎えてくれた。精霊王が花嫁を連れてくることに驚いたが、彼らにとってルーシェはやがて「王妃様」と呼ばれる存在になっていった。
ルーシェはこの世界で、はじめてゆっくりと眠った。誰かの機嫌を損ねないように先回りしなくていい夜を、はじめて過ごした。用意された仕事を完璧にこなさなければという焦りのない朝を、はじめて知った。
そうして季節が変わるころ、ルーシェは気がついた。
精霊王が近くにいると、心が落ち着く。彼の声が聞こえると、なぜか安心する。彼が笑うとき、あの滅多に見せない微かな笑みが浮かぶことを。その瞬間、嬉しくなる。
それが恋というものだと気づいたのは、花が咲き乱れる精霊の森で、二人並んで座っていたある夕暮れのことだった。
「……ラマキル様」
精霊王がルーシェに顔を向けた。その金色の瞳に、金色の夕光が映っていた。
「ここに来て、よかったと思っています」
精霊王はしばらく、ルーシェを見つめた。それから、静かに言った。
「そうか」精霊王はルーシェにやさしい笑みを向けた。
花嫁を迎えた精霊王は、その一言にいくつもの感情を込めていたかもしれない。ルーシェにはそれが分かった気がした。分かったうえで、微笑んだ。
かくして、ルーシェ・アマネッセは精霊の世界に根を下ろした。
地上では、彼女の名を呼ぶ声がいくつかあった。悔いを抱えた父の声、泣き崩れる母の震えた声、涙を堪えた兄の声、そして庭園で最後に隣にいた青年の、静かな声。
だが精霊の世界に届く声は、今はひとつだけだった。
「ルーシェ」
精霊王に名を呼ばれると、ルーシェはいつも振り向いた。そしてその金色の瞳を見ると、不思議と思うのだった。
──ここが、私の場所なのかもしれないと。
精霊の世界に、夜が来た。星が無数に瞬いた。ラマキルがそっと、ルーシェの手に自分の手を重ねた。
ルーシェは、その手を握った。
誤字報告ありがとうございます。助かります。




