第7話:白磁の皿と、選ばれし者の失墜
「……専務、本当にお誘いするつもりですか? 悪いことは言いません、おやめなさい。取り返しのつかないことになりますよ」
社長室の前で、秘書の村井は顔を青くして進言した。
だが、現社長の息子であり、次期社長の座が約束されている若き専務・一条は、イタリア製のオーダーメイドスーツの袖を正しながら、鼻で笑った。
「村井、君は心配性だな。久我さんは『肉食系女子』なんだろう? つまり、より強いオス、より高い価値を持つ対象を求めているということだ。この俺という『選ばれし者』が、一晩で数十万を動かす究極の社交場で彼女を扱えば、彼女の本能も自ずと膝を折るさ。今夜、彼女を俺のプライベートなコレクションに加えるつもりだ」
一条は、社内の噂を「格差社会の歪みが生んだ嫉妬」だと切り捨てていた。
(他の連中が失敗したのは、彼女に相応しい『格』を持っていなかったからだ。俺なら、彼女を飼い慣らせる)
一条は、佐藤や本田たちが味わった絶望を露知らず、総務部のデスクに座る久我みさきへ歩み寄った。
「久我さん。今夜、とっておきの場所があるんだ。君をエスコートさせてくれないか? 君のような美しい女性に相応しい、本物の肉を用意させてある」
みさきは、その言葉を聞いた瞬間に目を輝かせ、「専務のおすすめ……! ぜひ、ご一緒させてください!」と、期待に満ちた表情で快諾した。その食いつきの良さに、一条は「やはり俺の価値を理解しているな」と確信した。
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行き先は、看板すら出していない完全紹介制の超高級焼肉『白磁』。
全ての皿に人間国宝の手による磁器が使われ、肉は全国のセリでその日の最高値がついたものしか出さないという、権力者のための聖域だ。
久我みさきは、真珠のネックレスに淡いベージュのワンピースで現れた。その気品あふれる姿に、一条は「やはり俺の隣にふさわしい」と陶酔し、彼女の腰を抱き寄せようと手を伸ばす。
だが、みさきはその手を鮮やかにすり抜け、運ばれてきた最初の一皿——黒い白磁の皿に盛られた、金粉の舞う『シャトーブリアンの厚切り』へと突進した。
「……専務! 見てください、この肉! 表面の細胞ひとつひとつが、磁器の白さに反射して発光しています! まるで銀河系の一部を切り取ったような……!」
「ははは、気に入ってくれたようで何よりだ。君のような美しい女性には、この最高値の肉こそが相応しい。さあ、今夜は二人で……」
「専務、喋らないでください。今、肉が常温に馴染み、不飽和脂肪酸が活性化する『臨界点』に達しようとしています。この瞬間を逃すのは、宇宙に対する罪です」
一条は呆然とした。エスコートとは、男がリードし、女を酔わせる儀式のはずだ。しかし、目の前のマドンナは、一条の甘い言葉など一秒も聞かず、皿の上に鎮座した肉の塊を、恋人を見つめるような熱っぽい目で見つめていた。
「一条さん。……私、もう我慢できません。焼きますね」
「え? あ、ああ。どうぞ。君の好きなように……」
一条はゴクリと唾を呑んだ。ついに「肉食系」の本領発揮、自分への情熱が爆発するか。
だが、みさきが「食らいついた」のは、一条の誘いではなく、網の上で汗をかくシャトーブリアンだった。
「……んっ……ふうぅ……!」
彼女が肉を一口噛み締めた瞬間、その白い肩が大きく震え、瞳が潤んだ。
「……完璧。この肉、過保護なまでに甘やかされて育った結果、脂が糖化寸前の甘みに達しています。一条さん、この肉、今……私の魂を『買収』しようとしていますよ……!」
「……あ、ああ。……そうだろう。俺の財力があれば、これくらいの愛は……」
そこからの時間は、一条にとって「デート」ではなく「供物の捧げ物」だった。
みさきは次々と運ばれてくる「最高値」の肉に対し、その肥育環境の欠陥や、血統の偏り、そして「価格に胡坐をかいた店側の甘え」を、恍惚としながらも冷徹に分析し続けた。
一条が語る次期社長としてのビジョンも、ブランド物の自慢も、彼女の前では「肉の不純物」として一蹴された。
彼女の瞳には、一条の権力も、この贅沢な空間も、一ミリも映っていなかった。彼女はただ、皿の上の「過保護な肉」の怠惰さを、心から愛し、そして喰らっていたのだ。
「一条専務! 見てください! このサーロイン、脂の融点が私の体温より低い! 私の口の中で、牛の生命が液体に還っていく……! ああ、もう、専務なんてどうでもよくなるくらい美味しいです!」
「……どうでもよく、なる……?」
一条は、一晩で三十万円という、自分にとっても無視できない大金を払った。しかし、得られたのは「マドンナに存在を完全に忘れられる」という、かつてない屈辱だけだった。
帰り道。
「今日はありがとうございました、一条専務。……でも、次はもっと『自分の力で生きてきた』野性味のある肉をご一緒したいです。お金で買える肉は、少し退屈ですね」
みさきは、満足げに微笑んで去っていった。
後に残されたのは、一晩で三十万円という、虚無に消えた領収書を手にする「選ばれし者」の残骸だけだった。
翌朝。
社長室には、かつての自信を失い、自分の存在意義を疑い始めた一条の姿があった。
秘書の村井が、そっと声をかける。
「……専務。……久我さんへのお誘い、いかがでしたか?」
「……村井。……あいつは、女じゃない。……あいつは、肉の『審判官』だ。……俺はただ、肉を運ぶための『台車』としてしか認識されていなかった……」
社内の噂は、もはや神格化に近いものへと変わっていった。
『社長の息子、マドンナを最高級店に誘い出すも、肉の解説の聞き役にされて終わったらしい』
『一条専務ですら、彼女の「肉欲」の前ではただの背景だったのか……』
久我みさきは、今日も涼やかな顔で、電話を取っている。
「はい、総務部です。……ええ、昨夜はとっても『密度の高い』交渉ができました」
彼女の胃袋が、次に「査定」するのは、どの男の、どんな自惚れなのか。




