第5話:桃色の地層と、雛鳥の挫折
「……佐々木、お前、本気か? 悪いことは言わない。……よせ。お前のような綺麗な顔をした雛鳥が、あの『猛獣』に近づけば、骨までしゃぶられるぞ」
インターン生の教育係であるベテラン社員、田中は、手元の書類から目を上げることなく吐き捨てた。
だが、大学のミスコン出身で、女性の扱いには絶対の自信を持つ佐々木は、自慢の白い歯を覗かせて笑った。
「田中さん、時代遅れですよ。久我さんは『肉食系女子』……要するに、自分から攻めるのが好きなタイプなんでしょう? だったら、僕みたいな『可愛がられ上手』な年下が、ちょっと隙を見せてやればイチコロですよ。僕、彼女を『狩る』側に回るつもりです」
佐々木は鏡で前髪を整え、噂の真相——「誘えば必ずOKが出るが、その後、男たちは一様に廃人になる」という伝説——を、「彼女があまりにも絶倫すぎて、男が腰を抜かしているだけ」と都合よく脳内変換していた。
田中は憐れみの目を向け、一言だけ付け加えた。
「……いいか、彼女が『骨までしゃぶる』のは、比喩じゃなくて物理だ。せめて、遺言だけは同期に預けていけ」
「ははは! 期待しててくださいよ、田中さん」
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佐々木が選んだ戦場は、メディアでも話題のローストビーフ丼専門店『ピンク・グラデーション』。
丼の上に、薄切りのローストビーフが幾重にも重なり、まるで桃色の花が咲いたようなビジュアルが売りの、いわゆる「映え」の聖地だ。
「久我さん、お疲れ様です! 今日は、僕がどうしても久我さんと一緒に来たかったお店があるんです。……ここ、すごく『エロい』肉が出るって評判なんですよ」
佐々木は、あえて「エロい」という言葉を使い、彼女の反応を伺った。
久我みさきは、会社での清楚な制服姿のまま、ふわりと微笑んだ。
「……エロい、ですか。それは……『官能的なテクスチャ』という意味でしょうか? 楽しみですね、佐々木くん」
「(食いついた!)」
佐々木は心の中でガッツポーズをした。やはり彼女は、こういう際どい表現を好むタイプなのだ。
店内に入り、運ばれてきたのは、山高く積まれた特盛ローストビーフ丼。
佐々木は、肉の山を崩さぬよう、しかし大胆に彼女の顔を覗き込んだ。
「ねえ久我さん、まずは僕が……『あーん』してあげましょうか? ほら、このお肉、すごく柔らかそうですよ」
佐々木は、自分の甘いマスクと、潤んだ瞳のコンボを炸裂させた。数々の女子大生を落としてきた、必殺の「子犬攻め」だ。
だが、久我みさきの瞳は、佐々木の顔を完全に透過し、その背後にある「肉の積層」にのみ焦点を合わせていた。
「——待ってください。動かないで」
みさきは、バッグからおもむろに、精密なステンレス製の「ノギス(厚さを測る計測器)」を取り出した。
「えっ……久我さん? 何を……」
「佐々木くん、見てください。このローストビーフの厚み。一枚あたり平均零点七ミリ……。この薄さだからこそ実現できる、この『桃色の地層』。……美しい。まるで、地球の歴史が刻んだ地層のようです」
みさきは、佐々木が差し出した箸を無視し、ノギスを肉の山に押し当てた。
「表面の加熱温度は五十八度。中心部は五十四度。この四度の温度差が、肉のタンパク質を緩やかに凝固させ、この絶妙な弾力を生んでいる。……佐々木くん、わかりますか? この肉、今……『呼吸』していますよ」
「……はぁ……呼吸、ですか……」
「そうです。この頂点に鎮座する卵黄。これを崩した瞬間、黄身の脂質が肉の毛細管現象によって地層の奥深くまで浸透し、味の『化学反応』を引き起こすんです。……ああ、早く……早くその瞬間を観測したい……!」
みさきの呼吸が荒くなる。その頬は赤らみ、瞳は熱っぽく潤っている。
佐々木は、それを見て「ついに俺の魅力に当てられたか!」と歓喜した。
「久我さん、そんなに興奮しなくても……。僕、どこにも行きませんよ? 後の時間はたっぷり……」
「——邪魔です」
「……え?」
「佐々木くん。今、私の視界には『肉の断面』しか入っていません。あなたの顔が、肉のグラデーションを確認する際のノイズになっているんです。ちょっと、椅子を横にずらしてもらえますか?」
「ノ……ノイズ……?」
佐々木は、生まれて初めて「ノイズ」というカテゴリーに分類された。
みさきは、彼が呆然としている隙に、卵黄を爆破させた。
流れ出す黄金色の液体。それが桃色の肉を濡らし、しっとりと輝かせる。
「……っ! ……っあ……!」
みさきは、恍惚の声を漏らしながら、肉を数枚まとめて口に放り込んだ。
「……素晴らしい。低温調理による細胞の保持。卵黄の乳化。ソースの酸味が、牛の赤身に含まれる鉄分を鮮やかに強調している。……佐々木くん、君は天才ですか? こんな『理論的に完璧な地層』を私に見せてくれるなんて!」
「……あ、いや、喜んでもらえて……よかった、かな……」
「さあ、佐々木くん! ぼーっとしてないで! 二層目に入りますよ! 二層目はタレの浸透率が三割増しています。これは……重力による味の堆積! つまり、丼の底に行くほど、私たちは『肉の深淵』に近づくんです!」
そこからの三十分間、佐々木は、自分が「女性をリードする年下男子」ではなく、「地層調査の助手」であることを痛感させられた。
みさきは、肉の一枚一枚の曲率や、タレの粘度について熱弁し続け、佐々木が繰り出す甘いセリフはすべて「咀嚼音の邪魔」として却下された。
「……久我さん……僕のこと、どう思ってますか……?」
佐々木は、最後の一振りとして、消え入りそうな声で尋ねた。
みさきは、丼の底に残った最後の一粒の米(肉の旨味が凝縮された聖杯)を愛おしそうに眺めながら、笑顔で答えた。
「佐々木くんのこと? もちろん、感謝していますよ! ……こんなに素晴らしい『肉の垂直分布』を教えてくれたのは、あなたが初めてです。……あなたは最高の、肉のコンシェルジュです!」
「……コンシェルジュ……」
佐々木の恋心は、ローストビーフの薄さ(零点七ミリ)よりも脆く、粉々に砕け散った。
翌朝。
インターンの佐々木は、目が腫れぼったい状態で出社した。
そこへ、田中が缶コーヒーを持ってやってくる。
「よう、雛鳥。……骨は残っているか?」
「……田中さん。……あの人は、肉食系女子なんてものじゃありません。……あの人は、肉の『地質学者』です。……僕の顔、一秒も見てくれませんでした……」
「ははは! ノイズ扱いか。名誉なことじゃないか。あ、次は営業部の接待エース、本田さんが『ローストビーフの食べ放題』に挑むらしいぞ」
「……本田さんにも伝えてください。……肉の断面を測る『ノギス』を持参したほうがいい、って……」
社内の噂はさらに歪んで広まった。
『期待のインターン佐々木、マドンナとのランチ一回で自信を喪失。彼女の「テクニック」があまりに専門的すぎて付いていけなかったらしい』
久我みさきは、今日も変わらぬ清楚な笑顔で、社内を歩く。
「おはようございます。……ええ、昨日はとっても『層の厚い』ランチでした」
彼女が次に暴くのは、どの肉の、どの地層なのか。




