第3話:密室のすき焼きと、置き去りの情熱
「……まあ、よしなさい。久我さんは、お前みたいな真っ当な情熱を持った男が触れていい領域じゃない」
同期の河野は、コーヒーを啜りながら、極めて投げやりな口調で言った。
だが、その目はわずかに笑っている。開発部のホープ、山崎がこれから「肉食系女子」という噂の深淵に飛び込み、盛大に自爆するのを特等席で見物しようという魂胆だ。
「おい河野、お前は慎重すぎるんだよ。久我さんは『肉食系』なんだろ? ならば、周囲の目を気にせず二人きりになれる場所……そう、完全個室の『すき焼き』こそが、彼女の本能を解放する鍵になるはずだ」
山崎の作戦はこうだ。
ガヤガヤした焼肉屋ではない。老舗の重厚な個室、そして一つの鍋を囲むという親密な儀式。割り下の甘い香りに包まれ、理性のタガが外れたところで、一気に距離を詰める。
「ふうん。個室、すき焼き、二人きり。……完璧なプランだな。死ぬには良い日だ」
「死ぬ? 昇天させてやるの間違いだろ」
「ああ、そうだな。頑張れよ」
河野は、山崎が背を向けた瞬間、スマートフォンのメモ帳に『犠牲者:山崎。敗因予想:割り下による窒息』と書き加えた。
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創業百年の歴史を感じさせる、静謐な和室。
行燈の柔らかな光が、久我みさきの横顔を艶やかに照らしていた。今日の彼女は、和の空間に合わせてか、落ち着いた紺色のワンピース姿だ。
「山崎さん。……ここ、素晴らしいですね。この空気の静まり返り方。まさに、肉を『聴く』ための聖域です」
「喜んでもらえて光栄だよ、久我さん。今夜は誰にも邪魔されない。ゆっくりと……互いのことを知っていこうじゃないか」
山崎は、しっとりとした声で語りかけた。
だが、仲居が漆塗りの盆に乗せて運んできた「肉」が登場した瞬間、部屋の温度が劇的に変化した。
それは、芸術品のような霜降りを湛えた、大判の黒毛和牛。
みさきは、それまで浮かべていた柔和な笑みを即座に消し去り、瞳に鋭い「鑑定眼」を宿した。
「……山崎さん。この肉、サシの入り方が『網目』ではなく『流線形』です。これは……適度な傾斜地で放牧され、広背筋が鍛えられた証拠。そしてこの脂の白さ、上質な稲わらで仕上げられていますね」
「え? あ、ああ、そうらしいね……。それより久我さん、まずは乾杯……」
「失礼します。焼き始めますね」
山崎の言葉を遮るように、仲居が手際よく鉄鍋に牛脂を引いた。
パチパチという軽快な音が響く。そこへ、ざらめが投入され、香ばしい匂いが立ち上がる。
山崎は今こそ好機と、彼女の手元へ自分のグラスを寄せた。
「久我さん。俺、実は以前から君のことが……」
「——ちょっと待ってください」
みさきの制止の声は、冷徹だった。
彼女の視線は山崎ではなく、鍋の中の「割り下」の分量に向けられていた。
「仲居さん。……今のざらめの量に対して、醤油の投入タイミングがコンマ数秒、早すぎませんか? 結晶が完全に溶け切る前に醤油を差すと、糖分がキャラメリゼされず、肉のタンパク質との結合が甘くなります」
仲居の手が止まる。老舗で数十年のキャリアを持つベテランの仲居が、驚愕の表情でみさきを見た。
「……お客様、当店では代々このタイミングで……」
「時代は変わります。今日のこの肉の厚み、そして室内の湿度を考えてください。今のままでは、肉の表面が割り下に『浸る』だけで、『融合』しません。……山崎さん、すみませんが箸を置いてもらえますか? 集中したいんです」
「えっ? あ、はい……」
山崎は差し出したグラスを持ったまま、固まった。
そこから始まったのは、マドンナと仲居による、凄絶な「すき焼き論争」だった。
「仲居さん、火力が強すぎます。その設定では、肉の不飽和脂肪酸が酸化を始めてしまう。もっと……そう、産まれたての赤子を抱くような温度で、ゆっくりと熱を伝導させてください」
「し、しかし……」
「いいですか。すき焼きとは、肉の死を『甘美な再誕』へと変える儀式なんです。妥協は許されません。……山崎さん、生卵を溶いてください。ただし、白身を切るように。泡立ててはいけません。肉のコーティングが不均一になります」
「……はい、わかりました」
山崎は、もはや恋心を抱く同期ではなく、厳格な料理長の助手と化していた。
みさきの指示に従い、無心で卵を溶き、彼女の「今です!」という号令と共に肉を口に運ぶ。
「……はむっ。……ん……っ!」
肉を一口食べた瞬間、みさきは膝をつき、畳に手をついて咽び泣くような仕草を見せた。
「……完璧。……仲居さん、疑ってごめんなさい。……あなたの『返し』の技術、最後の一振りで全てが整いました。……肉が、私の魂と共鳴しています」
恍惚とする彼女の姿は、確かに「肉食系」という言葉が相応しい色気に満ちている。
だが、その色気のベクトルは、山崎の方には一ミリも向いていなかった。
彼女は、鍋の中で美しく散った牛の生命と、それを見事に昇華させた職人の技に対して、全霊の愛を捧げているのだ。
結局、追加の肉を三回注文し、彼女がすべての肉を最高の状態で「仕留める」のを見守るうちに、山崎の心はポッキリと折れた。
甘い告白も、個室のムードも、すべては「肉の熱伝導率」という圧倒的な現実の前に霧散した。
帰り道。
「山崎さん、今日は本当にありがとうございました。……あの仲居さんとの攻防、痺れましたね。おかげで、最高の『メイラード反応の向こう側』が見えました」
みさきは、満足げに夜空を見上げた。
「……ああ。……よかったよ、喜んでくれて」
山崎は、疲れ切った足取りで駅へと向かった。
財布は軽くなり、胃袋だけがやけに重い。
翌日。
山崎が暗い顔でデスクに座っていると、河野が死ぬほど楽しそうな顔をしてやってきた。
「よう、山崎。……どうだった? 密室の罠は。甘い夜になったか?」
「……河野。……あいつ、俺のことなんて見てないんだ。……あいつが見てるのは、肉の『細胞膜』なんだよ」
「ははは! 細胞膜! いいなそれ。あ、次のターゲットは筋トレマニアの先輩らしいぞ。『シュラスコ』で挑むんだってさ」
「……教えてやれよ。あの子の前で『筋肉』を自慢するのは、ただの『品評会』への招待状だってな」
社内の噂はさらに加熱した。
『開発部のホープ、老舗すき焼き屋の個室で久我さんに完敗。最後はなぜか仲居さんと一緒に頭を下げていたらしい』
久我みさきは、今日も涼やかな顔で電話を取る。
「はい、総務部です。……ええ、昨夜はとっても『深く、濃い』時間を過ごせました」
彼女が愛の言葉を囁く相手は、いつだって、皿の上にしかない。




