第2話:黄金のステーキと、成金の誤算
「忠告はしたぞ。……久我さんは、お前が考えているような『高い店に連れて行けば喜ぶ女』じゃない」
取引先との調整役を務めるベテラン社員、村山は、隣に立つ男を見て深い溜息をついた。
男の名は、御曹司の金子。取引先である大手食品商社の二代目であり、若くして専務の座に就いている。高級時計を光らせ、自信たっぷりに髪をかき上げるその姿は、いかにも「選ばれし者」というオーラを放っていた。
「村山さん、心配しすぎですよ。女なんてのはね、結局のところ『見たことのない景色』と『食べたことのない金額』を見せつければ落ちるんです。特にあの久我さん……社内で『肉食系』って有名じゃないですか。なら話は早い。最高級の肉を食わせて、俺という最高級の男を味わせるだけです」
金子は、受付で電話応対をする久我みさきの横顔を、値踏みするように眺めた。
金子にとって、女性はコレクションの一つに過ぎない。ましてや「肉食系」と噂されるマドンナだ。自分の財力とステータスをぶつければ、容易く陥落するだろうと踏んでいた。
村山は、哀れみすら含んだ目で金子を見た。
「……まあ、せいぜい怪我をしないようにな。彼女の『食』は、君の『金』では買えない領域にある」
「ははは! 違いのわかる男ってやつを、今夜見せてやりますよ」
金子は意気揚々と久我みさきに近づき、一輪の薔薇を差し出すような仕草で、一軒の店のカードを差し出した。
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行き先は、一等地のビル最上階にある会員制ステーキハウス『ゴルディアス』。
一晩の客数はわずか三組。金箔が施された内装と、都心の夜景を一望できるロケーション。まさに、成功者のための聖域だ。
金子は、自信に満ち溢れていた。
対面する久我みさきは、会社での清楚な雰囲気はそのままに、上質なシルクのブラウスを纏っている。その控えめな装いが、逆に彼女の美しさを際立たせていた。
「久我さん。ここはね、特別なルートがないと予約すら取れない店なんだ。今日の肉は、この店が独占契約している牧場の、最高級和牛だ。君のような『肉食系』には相応しいだろう?」
金子はワイングラスを回しながら、陶酔したように語る。
だが、みさきは夜景にも金箔の壁にも目もくれず、運ばれてきたコンソメスープを一口含んだ瞬間、微かに眉を寄せた。
「……金子さん。この牛、育った環境はかなり標高が高い場所でしょうか?」
「え? ああ、確か高原の涼しい場所だと聞いているが。それがどうかしたかい?」
金子は、彼女が自分の知識に感銘を受けたのだと思い、さらに胸を張った。
しかし、みさきはスープを飲み干すと、静かに、しかし断定的に言った。
「このスープのベースになっている牛の出汁……微かに『焦燥感』が混ざっています。おそらく、出荷直前の輸送中にかなりのストレスがかかっていますね。あるいは、飼料の切り替えに失敗して、内臓に負荷がかかっていたか。脂の甘みが、少しだけ『悲鳴』を上げているんです」
「は……? 悲鳴?」
金子のグラスが止まる。
「何を言ってるんだい。これは一キロ数万円もする、最高級の……」
「金額は関係ありません。肉は、生き様ですから」
そこへ、メインのステーキが運ばれてきた。
四百グラムの特大サーロイン。表面は黄金色に輝き、最高級のバターとハーブの香りが食欲をそそる。シェフが目の前で、金箔をパラパラと振りかけた。
「さあ、これこそが成功の味だ! 食べてごらん、久我さん!」
みさきは、その肉をじっと見つめた。
金子は期待した。感動のあまり絶句し、自分に縋り付いてくるのを。
だが、彼女の口から漏れたのは、溜息だった。
「……もったいない」
「……え?」
「金子さん。金箔は……味を阻害するだけです。それにこの焼き方。表面をバターでコーティングしすぎて、肉本来の放熱が妨げられています。これでは、内部の肉汁が対流できず、せっかくの不飽和脂肪酸が泣いていますよ」
みさきは、迷いのない手付きでナイフを入れた。
断面から溢れ出す肉汁。彼女はそれを一口、ゆっくりと噛みしめる。
金子は、彼女がその美味さに降参するのを確信して笑みを浮かべた。
「どうだい? 俺の選んだ肉は」
みさきは、咀嚼を終えると、まっすぐに金子の目を見た。その瞳は、獲物を分析する学者のように冷徹で、かつ純粋だった。
「金子さん。……この肉、甘やかされすぎています」
「……何?」
「運動不足です。筋繊維の張りが甘い。ただ太らせればいいという、安易な飼育思想が見て取れます。確かに柔らかいですが、そこには『闘志』が足りない。私が求めているのは、過酷な環境を生き抜き、その生命の輝きを凝縮させたような、強靭なタンパク質なんです」
彼女は、金子が百万の夜景を見せるために予約した特等席で、ひたすら「牛のバルクアップと筋肉の密度」について語り始めた。
「いいですか、金子さん。私が『肉食』と呼ばれるのは、単に肉を食べるからではありません。肉を通じて、その個体の『覚悟』を摂取したいからなんです。なのに、この店は……デコレーションばかり。本質を金箔で隠している。それは、肉に対する冒涜ですよ」
金子は、唖然とした。
自分がこれまで女性を落とすために使ってきた「高級」「会員制」「特別」という言葉が、彼女の前では無価値なゴミのように切り捨てられていく。
彼女が愛しているのは、金子の財力でも、この豪華な空間でもない。
ただ、皿の上に横たわる「個体識別番号」を持つ生命の、その真実だけだ。
「……もう、いい。久我さん。君は、俺のことが嫌いなのか?」
金子は思わず、弱気な言葉を漏らした。
すると、みさきは不思議そうに小首を傾げた。
「え? 嫌いなんて、そんなことありませんよ。むしろ感謝しています。……こんなに『反面教師』になるお肉に出会えたのは初めてですから」
「……反面教師……」
「ええ。次はもっと、泥臭くて、力強いお肉を一緒に探しましょう。あ、お会計、ごちそうさまです! 領収書、必要ですよね?」
みさきは、満足げに微笑んだ。
その笑顔は、明日からまた「肉の真理」を求めて戦う準備ができた、戦士のそれだった。
結局、その夜。
金子は、彼女の指一本に触れるどころか、会話の九割を「牛のストレスチェックと赤身の重要性」に費やされ、虚脱状態で店を後にした。
翌朝。
金子は村山に電話をかけた。その声は、ひどく掠れていた。
「……村山さん。……あいつは、人間じゃない。あいつは……『肉の審判員』だ」
「だから言っただろう、やめておけと。彼女を誘うってことは、自分の人間性そのものを肉と比較され、裁かれるってことなんだよ」
社内では、また新たな噂が駆け巡った。
『取引先の若き専務、久我さんに高級ステーキでプロポーズするも、肉の焼き加減が悪いと説教されて撃沈』
久我みさきは、今日も涼しい顔で受付に立っている。
「おはようございます。……ええ、昨日はとっても『勉強になる』夜でした」
彼女の胃袋と魂を満たす「真の肉」に出会うまで、男たちの屍は積み重なっていく。




