第1話:猛獣使いの自惚れと、炭火に舞うマドンナの残影
「悪いことは言わない。……よせ。死ぬぞ」
営業部きっての遊び人、佐藤がそう言ったとき、武田は鼻で笑った。
武田は営業部のエースだ。仕立ての良いスーツを完璧に着こなし、爽やかな笑顔と少しばかりの強引さで、数々の難攻不落なクライアントを落としてきた自負がある。
ターゲットに定めたのは、総務部のマドンナ、久我みさき。
彼女が廊下を歩けば、芳醇な香水の残り香と共に、男たちの視線が文字通り「首の骨が折れる角度」まで吸い寄せられる。清楚な顔立ち、潤んだ瞳、そして何より——。
「死ぬ? 冗談はやめてくれよ佐藤。彼女、そんなに激しいのか?」
武田はデスクの角に腰掛け、勝ち誇ったように言った。
社内には、ある噂が静かに、しかし確実に蔓延している。
『総務部の久我さんは、とんでもない肉食系女子だ』
一度誘えば二つ返事でついてくる。しかも、行き先は必ず彼女が指定する。その後、彼女を誘った男たちは一様に、魂を抜かれたような虚脱状態で帰還するというのだ。
「ああ、激しいなんてもんじゃない。あれは……『深淵』だ。お前のような小手先のテクニックでどうこうできる相手じゃない。久我さんは、俺たちの想像を超える場所を見ているんだ」
佐藤の目は死んでいた。だが、武田にはそれが「先行者としての嫉妬」にしか聞こえなかった。
(肉食系? 結構じゃないか。むしろ望むところだ。清楚な皮を被った猛獣を、俺が飼い慣らしてやるよ)
武田は、その日の昼休みに給湯室で鉢合わせた久我みさきに、極上の笑顔で声をかけた。
「久我さん。今度、美味しい食事でもどうかな? もちろん、お店は君の好きなところで構わない」
彼女は、淹れたてのコーヒーを手に、ふわりと微笑んだ。その破壊力に武田の心臓が一瞬跳ねる。
「……本当ですか? 私、好き嫌いはないんですけど……その、ちょっと『攻めた』ところでも大丈夫でしょうか?」
「攻めた?」武田は心の中でガッツポーズを作った。やはり噂は本当だ。
「もちろんだ。刺激的なのは嫌いじゃない」
「よかったです。じゃあ、こちらのお店に……十九時に」
彼女が小さなメモに書き記したのは、都内でも予約が取れないことで有名な、高級炭火焼肉『黒鋼』だった。
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十九時。
黒塗りの扉を開けると、そこは重厚な石造りの内装と、控えめなジャズが流れる大人の空間だった。
武田は勝負服のネクタイを締め直し、案内された半個室の席で待つ。
ほどなくして現れた久我みさきは、会社での清楚な制服姿とは打って変わり、肩を大胆に出した黒のドレスを纏っていた。白い肌が、店内の薄暗い照明に照らされて発光しているかのように見える。
「お待たせしました、武田さん。……わあ、ここの換気設備、素晴らしいですね。気流が完全に計算されている」
彼女が最初に口にしたのは、ムードへの称賛ではなく、ダクトへの評価だった。武田は少し違和感を覚えたが、「マニアックなところも可愛いな」と強引に納得させた。
「まずはシャンパンで乾杯しようか。それとも、君の望むままに……」
武田が艶っぽい声を出すのも構わず、みさきはメニューを食い入るように見つめていた。その瞳は、獲物を狙う鷹のように鋭く、潤んでいる。
「武田さん、注文は私に任せていただけますか? 今日は……私、我慢したくないんです」
「ああ、好きなだけ頼むといい。君の胃袋を満足させるのが、今夜の俺の仕事だからね」
武田は余裕の笑みを浮かべた。内心では(焼肉か。まあ、精をつけるにはいい。この後の展開を考えれば、合理的だ)などと考えていた。
しかし、その余裕は、彼女が店員を呼んだ瞬間に崩れ去る。
「すみません。まずは『極厚芯タン』を二人前。それから『シャトーブリアン』を三百グラム、これは塊のままで。あと、『特上ミスジ』と『ハラミのサガリ寄り』を塩で。あ、あとカイノミをタレで追加してください。あ、それから、炭の状態はどうですか? 備長炭ですよね? 遠赤外線の出力が安定するまで、少し待ってから肉を持ってきていただけますか?」
店員が「……かしこまりました」と圧倒されたように引き下がる。
武田は唖然とした。
「……久我さん? 結構な量だね。それに、部位の指定がかなり細かいというか……」
「あ、ごめんなさい。私、こういう時は『中途半端』が一番嫌いなんです。しっかり、奥まで火を通すか、あるいは表面だけを急激にメイラード反応させるか。その二択しかないと思っているんです」
彼女はテーブルの中央に鎮座する七輪を、恋人を見つめるような熱っぽい目で見つめた。
やがて、運ばれてきた『極厚芯タン』。それはもはや牛の舌という概念を超えた、ピンク色の宝石の塊のようだった。
「……さあ、武田さん。始まりますよ。瞬きしないでくださいね」
みさきは、トングを握りしめた。その構えは、剣豪のそれだった。
彼女は網の上の「温度のムラ」を一瞬で見極め、肉を置く。ジウ、という官能的な音が響く。
「見てください、この脂の浮き出し方。これがタン元特有の、融点の低い良質な脂です。今、タンの細胞内でタンパク質が熱によって変性し、肉汁を閉じ込める『堤防』を作っているんです。まだです、まだ返しませんよ……」
「く、久我さん?」
「今です! 返します!」
鮮やかな手捌きで肉が翻る。裏面には完璧な格子状の焼き目がついていた。
みさきは、焼き上がったタンを武田の皿には目もくれず、自分の小皿に取った。
「失礼します……ふーっ、ふーっ……はむっ」
彼女が肉を口に含んだ瞬間、武田は息を呑んだ。
彼女の頬が紅潮し、長い睫毛が震える。喉を通り抜ける時、彼女は小さく「……んっ」と声を漏らし、恍惚の表情で天を仰いだ。
その表情は、武田が妄想していたどのシーンよりも色っぽく、しかし、決定的に何かが違っていた。
彼女が感じているのは、自分への情熱ではない。
牛の筋肉組織が口腔内で崩壊する、その物理的な快楽にのみ、彼女は溺れている。
「武田さん、何をされているんですか? 早く食べてください。肉が……肉が『泣いて』いますよ」
「あ、ああ。いただきます……」
武田が一切れのタンを口に運ぶ。確かに、今まで食べたことがないほど美味い。
だが、隣でみさきが語り続ける「グルタミン酸とイノシン酸の相乗効果」や「グリコーゲンの含有量による甘みの差」についての講義が、武田の脳内にあるロマンチックな回路を次々とショートさせていく。
次は、シャトーブリアンの塊だった。
みさきはトングとハサミを使い、まるで精密外科手術のように肉を切り分けていく。
「武田さん、知っていますか? シャトーブリアンは牛一頭からわずかしか取れない、究極の部位です。ここは……優しく、しかし大胆に扱わなければいけない。焦らして、焦らして、一気に……!」
彼女の言葉だけを聞けば、それは完全に「夜の誘い」だった。
だが、その視線の先にあるのは、網の上でじわじわと汗をかく赤身の塊だ。
みさきは、焼き上がった肉を今度は武田の口元へ運んだ。
「さあ、食べてください。私の……本気です」
武田は、震える唇でその肉を受け止めた。
……美味い。気が遠くなるほど美味い。
だが、その瞬間、武田は悟った。
自分は今、マドンナとデートをしているのではない。
『肉という名の神』を崇める宗教の、生贄の儀式に立ち会わされているのだと。
その後も、みさきの「肉食」は止まらなかった。
ハラミの繊維一本一本の食感について、ホルモンの脂の甘みが脳内麻薬に与える影響について、彼女は立て板に水のごとく語り続けた。
彼女のドレスの肩紐が少しずれても、彼女はそれを直そうともしない。彼女の全神経は、胃袋と、網の上の熱力学にのみ集中していた。
「あ……幸せ。武田さん、私、もう……パンパンです」
二時間後。
最後のアイスクリーム(牛脂の口直しのために必要だという)を完食したみさきは、満足げに腹部をさすった。
武田の財布からは、二人分で八万円という大金が消えていた。
店の外に出ると、夜風が冷たかった。
「今日はありがとうございました、武田さん。あんなに素晴らしいハラミのサガリ寄りに出会えるなんて、私、明日からまた頑張れます」
みさきは、会社で見せるあの「マドンナの微笑み」を向けた。
だが、武田にはもう、それが美しく見えなかった。
彼女の口元から漂う、微かなニンニクと牛脂の香りが、自分の敗北を告げている。
「……久我さん。この後、もしよければ、もう一軒……」
武田は、エースのプライドをかけて、最後の一振りを繰り出した。バーへ誘い、ムードを変えれば、まだワンチャンスあるかもしれない。
しかし、みさきは申し訳なさそうに首を振った。
「ごめんなさい。私、お肉を食べた後は、一刻も早く帰って『血流を胃に集中』させたいんです。消化を助けるために、四十五度の角度で横になるのが私のルーティンなので。……あ、でも! もしよければ来週、あそこの『熟成肉』の美味しいお店、予約しておきますね!」
彼女は軽やかな足取りでタクシーに乗り込み、去っていった。
後に残されたのは、焼肉の匂いが染み付いた、八万円の損失を抱えた営業部のエースだけだった。
翌日。
出社した武田は、自分のデスクで虚空を見つめていた。
そこへ、佐藤がやってきた。
「よう、エース。……どうだった? 昨夜の『猛獣』との戦いは」
武田は、ゆっくりと首を振った。
「……佐藤。お前の言った通りだったよ」
「死にかけたか?」
「いや……死んだよ。俺のプライドが。あいつは……肉食系女子なんて生易しいもんじゃない。あいつ自身が、一つの『生態系』だ」
武田の背後で、廊下を歩く久我みさきの姿が見えた。
彼女は昨日と同じ、清楚なマドンナの顔をして、同僚に挨拶をしている。
「おはようございます。……ええ、昨日はとっても充実した夜でした」
その言葉を聞いた周囲の男たちが、「やっぱり……!」と色めき立つ。
武田だけは知っていた。その「充実」の内容が、牛の筋肉組織の熱変性のことであることを。
佐藤が武田の肩を叩き、耳元で囁いた。
「言っただろ。やめておけって。……次は、開発部の田中が狙ってるらしいぞ。あいつ、給料全部注ぎ込むつもりらしい」
「……教えてやれよ。あの子が本当に欲しがっているのは、愛じゃなくて『A5ランクの個体識別番号』だってな」
武田の長い夜は、こうして、ただの「高級な食事代の支払い」として幕を閉じた。
そして、社内には新たな噂が付け加えられた。
『営業部のエースですら、一晩で骨抜きにされた』と。
久我みさきの「狩り」は、まだ始まったばかりである。




