第3話 緩すぎる扉を開けるな
アミューズメントカジノのトーナメント会場。
アカツキは、昨日ソウマに教わった「アウツ」と「ポットオッズ」の計算を頭の中で反芻していた。
彼の目の前には、無情にもめくられたカードと、相手からの強烈なプレッシャー。
ボード(ターンまで):A♠︎ K♠︎ 7♣︎ 5♥︎
アカツキのハンド:T♠︎ 2♠︎
アカツキはフラッシュドロー(場札と合わせてあと1枚スペードが来ればフラッシュ)だった。
(勝率は大体**20%**だな)
アカツキは冷静に計算する。残るカードはリバーの1枚のみ。スペードを引く確率は約5回に1回だ。
その時、相手のプレイヤーが、ポット(場に出ているチップの総額)を遥かに超える大量のチップを突きつけてきた。
「オールイン!」
アカツキは一瞬、心臓が跳ねるのを感じたが、すぐにソウマの教えを思い出した。
(相手のオールイン額に対して、この勝負を受けるために必要な勝率――必要勝率は40%。でも、実際の勝率は20%しかない……くそっ、オッズが全く合わねえ……!)
(これが、ソウマさんの言ってた**『大損確実の悪手』**か!)
アカツキは震える手でカードを伏せた。
「フォールド(降ります)!」
相手は満足そうにポットを掻き寄せた。
アカツキは、その勝負には負けてしまったが、前回のようにすべてのチップを失うことは免れた。
「ちくしょう、仕方ないか……」
しかし、トーナメントは続行する。
次にアカツキに回ってきたポジションはUTG。
テーブルで一番最初にアクションしなければならない、最も不利なポジションだ。
アカツキの手札:ダイヤの9とクラブの6(9♦︎ 6♣︎)。
(うん、絵札はないけど、9と6なら近い数字だ。フロップでツーペアやストレートになる可能性は十分ある!)
アカツキは勘で勝負を決め、自信満々にチップを出す。
「レイズ(賭け額の上乗せ)!」
意気揚々と参加したものの、その後のフロップ(ボードの最初の3枚)で役は何もできず、相手からの小さなベットにも怯えてフォールドすることになった。
次のハンドでは、オフスート(マークが違うハンド)のジャックと8(J♥︎ 8♣︎)で再びレイズ。
ここでも勝てず、チップはじりじりと削られていく。
結局、開始から1時間後、アカツキは残り少ないチップを分の悪い賭けに投入することになり、あえなくトーナメントを敗退した。
***
翌日。いつもの喫茶店。
「勝てなかったな、ソウマさん。アウツとオッズは完璧に計算して、前回みたいな無茶なコールはしなかったのに……途中でチップが減りすぎた」
向かいの席で本を読んでいたソウマは、静かに頷いた。
「昨日のターンでのフォールドは、素晴らしい判断だった。君はポットオッズという防御壁を正しく使ったと言える」
ソウマはスマホを取り出し、画面にポーカーのハンドレンジ表(どの手札で参加すべきかを示した一覧表)を表示させた。
それは複雑な色分けがされた、ポーカープレイヤーにはお馴染みの「虎の巻」だった。
「だが、根本的な問題がある。君は、そもそも**『勝負すべき手札』**を間違えている。簡単に言えば、参加しすぎだ」
アカツキは首を傾げた。
「参加しすぎ? でも、9と6や、Jと8みたいな手でも、フロップで強い役になる可能性はあるじゃないか!」
「その**『少ない可能性』**が、君のチップを蝕んでいるんだ」
ソウマは冷静に言った。
「ポーカーの戦いは、プリフロップ(最初に配られたハンド2枚だけで行う最初の賭け)で**『参加するハンドの範囲』**を決めることから始まる。ここを間違えると、その後にどんなに上手いプレイをしても、ミスを挽回することは難しい」
「君が昨日、アーリーポジション(前の方の不利なポジション)で『9♦︎ 6♣︎』や『J♥︎ 8♣︎』でオープンレイズ(そのゲームで最初に賭け額を上げること)をしたのを覚えているか?」
「ああ。あれで強い手札を装って、主導権を取ろうとしたんだ」
「その考えは悪くないが、使うハンドが致命的に弱すぎる。ポーカーの**GTO(ゲーム理論最適戦略)**において、それらの手札は、アーリーポジションでは絶対にフォールドすべきハンドだ」
「GTO?……ドラマの話?」
「違う違う。ポーカーにおける**『理論上、最も期待値の高い、相手に付け入る隙を与えないプレイ』**のことだよ。簡単に言えば、『数学的に導き出されたポーカーの正解』だ。GTOでは、参加する手札の基準が厳しく決まっている」
ソウマはテーブルの上のグラスとカップを使って、テーブル上の**ポジション(プレイヤーの順番)**を再現した。
「例えば、君がUTGのような不利なポジションで9と6のような弱い手でレイズしても、後ろにいる5人の相手はエースのペアやキングとエースのような強い手札で抵抗してくる可能性が高い」
「そもそもプリフロップで更にレイズされて降ろされてしまう可能性もあるし、もしフロップに進めても、弱い手札で始めた君は、相手からのベットに簡単に降りるしかなくなる。つまり、役ができるわずかな可能性のために、大きなチップを危険に晒しているんだ」
アカツキは愕然とした。
「俺は……最初から負ける確率の高い勝負に、わざわざ高いチップを払って参加していたってことか?」
「その通りだ。**強い武器(強い手札)**を持たずに、戦場に飛び込みすぎた。だからチップが少しずつ減っていったんだ」
ソウマは再びナプキンにペンを走らせた。
「ポーカーは、フォールド(降りる)することでチップを守るゲームでもある。勝負する手札の基準を厳しくする。これが、君が次にクリアすべき**『レンジという名の武器』**だ」
ソウマは、アカツキにスマホのレンジ表を見せた。
「次の課題は、これだ。オープンレイズしていいハンドの範囲を、ざっくりでいいから覚えよう」
「トーナメントでも、6人制のUTG(6人の最初の不利なポジション)は上位20%程度の強い手札しか参加しない。しかしBTN(ボタン、後ろの方の最も有利なポジション)では、50%以上の手札で参加する。後ろの人数が少ないほど、参加するレンジが広くなるんだ」
アカツキは、複雑なレンジ表を見つめた。昨日の失敗が、彼にこのレンジを覚える必要性を痛いほど突きつけていた。
「分かった、ソウマさん。俺はもう、勘でチップを捨てない。明日までに覚えてくるよ!」
アカツキはやる気に満ちているようだ。
それを見て、ソウマは微笑んだ。
「あー……まあ、まずは自力でやってみるといい。明日また会おう」
意味深な感じでそう言うと、ソウマは会計を済ませて喫茶店を出て行った。




