第1話 敗北は運か、数字か
「くそっ……! なんでだよ、運が悪すぎる!」
アミューズメントカジノ(アミューズ、現金を賭けずに遊べる合法カジノ)の熱気の中で、青年アカツキの悲痛な叫びが響いた。
彼の目の前で、積み上げられていたチップの塔が、対面に座る同年代の男、シンによって無慈悲に掻き集められていく。
チップ同士がぶつかる乾いた音が、アカツキの心臓を冷たく叩いた。
勝負が決したのは、テキサスホールデム・ポーカーにおける最後の瞬間だった。
アカツキの**ハンド(手札)**は、《スペードの6》と《スペードの5》。
場に開かれた3枚のカード(フロップ)にはスペードが2枚落ちていた。
あと1枚、スペードが来れば強力な役であるフラッシュが完成する。
いわゆる「フラッシュドロー」と呼ばれる絶好のチャンスだった。
しかし、無情にもディーラーが最後にめくった**リバー(5枚目の共有カード)**は、《ハートのK》。
シンが勝ち誇った顔で晒したのは、《ダイヤのK》と《ハートの7》だった。
場にあるカードと組み合わせて、シンはツーペア(Kと7のペア)から、最後のKでフルハウス(同じ数字3枚と、別のペア2枚で構成される非常に強い役)へと昇格していたのだ。
アカツキの淡い期待は、粉々に打ち砕かれた。
「勘が言ってたんだ! ここは勝負所だって! いけるはずだったのに……最悪だ」
悔恨が脳内を駆け巡る。
あの時――4枚目のカードが開かれたターンの局面で、シンは場にあるチップ量の2倍という、常識外れの**オールイン(全チップを賭けること)**を仕掛けてきた。
普通なら降りる場面だ。
だが、アカツキは自分の「勘」と「フラッシュが完成する未来」を信じて、コール(同額を出して勝負を受けること)してしまったのだ。
「……運が悪かった。今日はついてなかっただけだ」
自分にそう言い聞かせ、アカツキは逃げるようにカジノを後にした。
***
翌日。
駅前の裏路地にある落ち着いた喫茶店。
アカツキは、この店で知り合った少し年上の常連客、ソウマに向かって昨夜の愚痴をこぼしていた。
ソウマはいつも窓際で洋書を読んでいる静かな男だ。
アカツキは彼が実際にプレイしている姿を見たことはないが、噂では海外のカジノを渡り歩くプロのポーカープレイヤーだという。
「……それで、運が悪くて負けた、と?」
ソウマは読んでいた本を閉じ、ブラックコーヒーの入ったマグカップをゆっくりと回しながら言った。
「そうだよ! 俺はフラッシュドローだったんだ。相手はツーペアだろ? 俺の方が強い手を作れる可能性があったんだ! それなのに、最後の最後にフルハウスなんて引かれるなんてさ!」
「……違うよ、アカツキ」
ソウマは静かに、しかし断定的に首を振った。
「それは運で負けたんじゃない。実力で負けたんだ」
「実力?」
アカツキは眉をひそめた。運の要素が強いこのゲームで、たった一回の勝負の結果を実力と言い切られるのは心外だった。
ソウマは胸ポケットからペンを取り出し、テーブルのナプキンを自分の方へ引き寄せた。
「まず聞くが、アカツキ。……君は、ポーカーをどういう目的でやっている?」
「え? どういうって……そりゃ、勝つためだよ。チップを増やして、いい思いがしたい」
「そうか。もし君が『強い役を作ることを楽しみたい』だけのギャンブラーなら、戦略の解説なんて無粋なことはしない。だが……勝つため、か」
ソウマの瞳が、鋭くアカツキを射抜く。
「ポーカーは、**数字(確率)**で戦うゲームだ。もし君が本気で『勝ちたい』のなら、運任せのプレイヤーでいるのは今日で終わりにした方が良い。君の昨日のコールが、数学的にいかに大きなミスだったか、証明してみせよう」
その真剣な眼差しに、アカツキは背筋が伸びる思いがした。
ただの遊び友達だと思っていた男の、プロとしての顔がそこにあった。
「……勝ちたい! 教えてくれ、ソウマさん! 俺は何を間違えたんだ?」
「よし」ソウマは頷いた。「じゃあ、ポットオッズの話をしよう」
ソウマは昨日の状況を整理しながら、ナプキンにサラサラと状況を書き出した。
ボード(ターンまで): A♠︎ K♠︎ 7♣︎ J♥︎
アカツキのハンド: 6♠︎ 5♠︎
シン(相手)のハンド: K♦︎ 7♥︎
アクション: シンがポットの2倍額をオールイン
「まず、君の勝ち筋、つまり**アウツ(逆転に必要なカードの枚数)**を考える。君が勝つには、残りのリバー(最後の1枚)でスペードを引いてフラッシュを作るしかない」
「デッキに残ったスペードは9枚。君が勝てる確率は、ざっくり言って**20%**だ。5回勝負して、1回しか勝てない。まずはこの数字を覚えておけ」
ソウマは「20%」と大きく書き込んだ。
「次に、君がコールした金額、つまりリスクとリターンの計算だ。仮にポットに10万チップあったとして、シンはその2倍の20万チップを要求した。君がコールすれば、20万を出して、最終的なポットは合計50万チップになる」
ソウマはアカツキにペンを渡した。
「君がこの勝負で『損をしない』ために最低限必要な勝率、つまり必要勝率を計算してみろ。自分が支払う額を、貰える総額で割るだけだ」
アカツキは手を震わせながら、ナプキンに数式を書き込んだ。
「必要勝率は、**コール額(20万)を最終ポット(50万)で割って、40%**だ……」
「よ、40%……?」
計算結果を見て、アカツキは絶句した。
「そうだ。君は**40%の確率で勝たないと割に合わない賭けに、たった20%**しか勝てない手でコールしたんだ」
ソウマは冷徹に事実を告げる。
「これは、100円の景品をもらうために200円払うようなものだ。たとえ昨日は運良く勝てたとしても、そんなプレイを続けていれば、長期的には確実に破産する。『大損確定の悪手』だよ」
アカツキの顔から血の気が引いていく。
「そして相手のシンは、君の計算の弱さを見抜いていた。だからこそ、この『オッズが全く合わない』法外な金額を突きつけたんだろう」
「ポーカーは運が強く影響するゲームだ。しかし、実力が関係ないわけではない。勘で適当なプレーをすると、運が悪くなくても負けてしまうようになっているんだ」
アカツキは、ナプキンに書かれた「必要勝率40%」と「実勝率20%」という数字の差を凝視した。
熱い衝動だけでは越えられない、冷たく巨大な壁。
しかし、その壁の正体が「数字」であるならば、乗り越える方法はあるはずだ。
「ソウマさん……頼む。俺に、ポーカーの勝ち方を教えてください」
アカツキは頭を下げた。この日、彼は「カモ(ポーカー用語ではフィッシュ)」を卒業し、本当のポーカープレイヤーへの一歩を踏み出すことになった。




