開かない扉
「マツオ、足っ、足っ!!」
「う、うん…」
瓦のうえに足を置く場所を慎重に探しながら僕らは進む。
屋根の上を歩くのは、とてもアメコミのスパイダーマンのようにスムーズにはいかない。慣れないうちは恐怖感が先立ち、最初の五分くらいはみんな一歩進むだけで四苦八苦していたが、しばらくすると、思いのほか爽快で、むしろ地上を進むよりも眺めが良く、自分自身が偉くなったような、そんな気がした。
一番助かったのは、瀬神では、終戦直後に建てられた木造家屋が密集しており、家と家の間隔が狭く、ブロック塀の上を伝って歩いていくだけで先に進んでいけることだった。
そういうわけで、僕らは、しばらくは屋根を上らずに塀の上を両手でうまくバランスをとりながら、三人が団子のように連なって先を急いだ。
昼下がりのぼんやりと霞んだ太陽は、出発の時は頭の上だったが、もうすでに瀬神湾上の太平洋側に降りてきている。
時計のない僕は、カラに時間を聞いた。
「今何時だ?」
「三時ちょうどだよ」
「ヤバイな。急がないと」
そうこうするうちに、僕らの目の前に今までの家とは比べ物にならないくらい大きな、赤いレンガ造りの豪邸が立ちはだかった。家の周囲の塀には先の尖った洋風の鉄柵が巡らされていて、それを越えなければ向こうにいくことが出来ない。
僕はおもわず舌打ちした。
「しょうがねぇなあ…ここは何とか屋根に上るしかない」
鉄柵の槍のような先端を恐る恐るまたいで、眼の前の勝手口の上の庇へと飛び移る。
壁の角につけられた雨樋には、手を伸ばせば簡単に乗り移れそうだ。
「ここから樋を伝って屋根に上がろう。…先に行くよ」
カラとマツオも、鉄柵をまたいで、三角屋根へと飛び移る。カラ、そして次にマツオが乗ると、ミシミシっ、という音が鳴り響いたが、新築だからか、3人の体重くらいではビクともしない。
鉄製の樋の金具に足をひっかけ、まず僕が、そしてカラが続いた。屋根の上に上がると、そこは日本瓦ではなく、平べったい洋風瓦だった。一瞬僕は、滑ったら終わりだ、と緊張したが、登ってみると表面にコーティングがされていて、案外、足のグリップが効く。
瓦の踏み心地を確認すると、カラも笑顔を見せた。
「おお、こりゃいい。日本の瓦みたいにデコボコじゃないけど、わりと安全じゃん」
振り返ると、マツオがまだもたもたしている。
「マツオ! 大丈夫か?」
カラが声を挙げた。
すると、悲鳴に近い声が下から聞こえてきた。
「ヒぃ~、も、もう、手の力が限界なんだよぅ。プルプル震えて…」
ここはなんとか、勇気づけるしかない。
「大丈夫だ、って! もうあと少しなんだから! 倉庫に着いたら先になんでも食べさせてやるからよぉ!」
僕の体重とマツオのそれを比べると、体が音を上げるのも無理はない。しかし、ここであきらめさせるわけにはいかないのだ!
「体を屋根の上に預けるまでは何とか頑張れ! そのあとはこっちも手伝うから!」
マツオはすでに目尻に涙をためているが、ぐずりながらも、こくりと頷き、なんとか上がろうと体を尺取り虫のように揺すっている。
そして、ついに何度かの挑戦の後、マツオの右手が屋根のへりに伸び、半身だけ転がすように平板瓦のうえに彼の体が乗りかけたかと思うと?!
「あぁぁっ!!」
叫び声とともに、マツオの巨体がズルズルと音をたてて滑り落ちていく!
僕とカラは呆気にとられた。
落ちいてくマツオの目と僕の目が合い、そして、それは不思議にも、とても長い時間のように感じた。
もうっ、駄目だっ!
最悪の事態を想定した僕は、強く目をつぶり、下を向いた。
ところが?
ドスンと落ちた音が聞こえてこない?
何もない?
つぶっていた目を開けて、恐る恐る下を覗くと、驚くことに、マツオのベルトのバックルが、樋のジョイント部の金具にひっかかり、革のベルトをたわませて、彼の体がぶらんぶらんと宙に浮いている。
カラがこわばった顔で笑った。
「運のいいやっちゃな〜」
その後、さらに倍以上の時間がかかったものの、僕らの助けを借りながら、マツオはようやくその体を屋根の上に滑り込ませることが出来たのだった。
「さっきの、最初にご飯を選べる権利、なし、な」
疲れ果てた僕はぶっきらぼうに言い放った。
「なんだよぉ~、残りも僕が頑張らないと遅れちゃうんだろ?少しくらいご褒美があったって…」
よくよく考えてみれば、瀬神口まで案内してくれたのもマツオだ。
僕とカラは苦笑いして顔を見合わせた。
一度危機を乗り越えたせいか、僕らの心は、なぜか晴れ晴れとしていた。
周囲の建物に比べ、ひときわ大きいレンガづくりの豪邸の屋根からは、陽の光に輝く瀬神湾が目の前にパノラマのように広がっている。
港の倉庫群は、最初はマッチ箱のように小さかったが、今ではもうかなり大きく見え、その向こうには、造船所の赤いクレーンが何本も長い首を空にもたげていた。
しばらく三人で町の景色に見とれていると、マツオが突然声を挙げた。
「あれ? あれって、瀬神高校じゃない?」
マツオが指差す方向をみると、確かに、周囲の建物を圧倒ほどに大きい白い校舎が、僕らがいる屋根と倉庫群の間ぐらいにピョコン、と頭ひとつ出して建っているのが見える。
「学校だぁ!」
僕とカラは同時に叫んだ。
カラは僕に尋ねた。
「どうする?」
僕は間髪入れず答えた。
「どうするもこうするもねえよ。とりあえず、倉庫に行く前に寄ってみよう。食糧が倉庫から調達できることを伝えたら、あいつらだってきっと安心するはずさ」
「そうだな」
僕は内心、どこにも身の置き場のない状況から、何か帰る場所が出来たようで心強かった。それは、カラにとってもマツオとっても同じで、互いに目を輝かせている。
マツオが言った。
「僕、ずっと心配してたんだ…」
「何を?」
僕は聞き返した。
「ほら、僕の隣の席のヨッコ、喘息持ちだから…薬って、いつも持ち歩いてるわけじゃないだろ?だから、困ってないかな、って…」
そうか…。食糧だけの問題じゃないんだ。
僕は改めてロックダウンされたことが如何に残されたものにとって理不尽なことなのかを痛感した。
それからの僕らの足取りは軽かった。
学校が近くなるにつれ、これは誰の家、あっ、ここは行ったことがある、と、くちぐちに言い合いながら塀の上を進む。
いよいよ校庭の裏側の破れたフェンスまでたどり着くと、僕らは順番に身をくぐらせて中に入った。
全校生徒が避難したと思われる地下壕は、グラウンドの東側の角にあり、盛り上がった丘のようになっている。戦時中の遺構をできる限り後世に伝えよう、と、入口の分厚い鉄の扉も当時のまま残されていた。
幽霊が出る、なんて噂もあり、僕らは、普段は肝試しのときくらいしか近寄らない場所だ。
人っ子一人いない校庭を横切って、錆びた扉の前に立つと、僕は振り返って言った。
「とりあえず、ノックしてみるか?」
二人は喉仏をごくりと動かしながら頷いている。
コォン、コォン
乾いた音が内部に反響しているのは分かったが、何も返事はない。
じゃあ、もう一度…
コォン、コォン
やはり、返事はない。
僕は不安げに、カラとマツオの顔を見た。
「どうしちゃったのかな? ひょっとして、別のところに逃げた、とか?…」
マツオの顔は真っ青である。
「まさか・・・全員亡くなっているなんて、ないよねぇ…」
ありえない話しではない。しかし、それだけは、考えたくもない。
「馬鹿言え! 外よりも中の方が安全に決まってんだろ?」
僕は苛立って、立て続けに何度も扉を小突いた。
コ、コ、コ、コ、コ、コォン
それでも返事はない。
「しょうがねぇなぁ」
僕は力任せにドンドン、と扉を叩き、終いにはお~ぃ、と大声を出し続けた。
と、しばらくすると、扉の前に座って耳を澄ませていたカラが、いきなり、とがめるように僕の顔を見た。
「ちょっと! 静かに! 今、あっちから扉を叩く音が聞こえなかったか?」
驚いて、僕は手を止めた。
ん? 確かに。
何か音が聞こえている!
コ、コ、コ、コォン
「こちら、瀬神高校生徒代表です。聞こえますか?」
「通じた! やっぱりみんな無事なんだ!」
マツオが大きな体を揺らせて喜んだ。
僕も驚きと喜びで声が裏返っている。
「聞こえてるよ! 誰?」
「そっちこそ、誰?」
「僕はタケシ。あとはカラとマツオもいる」
そう僕が答えると、相手からの反応が止まった。
何やら、あちらも扉の向こうで何人かで相談しているようだ。
数分も経っただろうか? 僕はいいかげん返事がないのにイライラしてきた。
「いったいどうしたの? 何があったん?」
そう尋ねても返事はない。
三十秒ほど間が開いて、ようやく、向こうから声が聞こえてきた。
「私は、ミコ。ここの責任者としてあなたたちを中に入れることは出来ないわ。悪いけど、どこか他のところに避難してちょうだい」
ミコの返事に、僕ら三人は固まり、その場で立ち尽くすしかなかった。