忘れ去られた人びと
「うわあっ!」
ギョロギョロとした目が覗き込んでいるのに驚き、僕は思わず声を挙げた。
「やっと目が覚めたかい」
薄汚れたジャケットの下に何枚も重ね着した、浅黒い顔をした精悍な男が笑みを浮かべている。
その男の後ろには、ホッとした様子のカラと泣き顔のマツオが膝立ちしてこちらを見ていた。
「あぁ、良かったあ。このまま起きないんじゃないかって心配してたんだよぅ」
マツオは顔をくしゃくしゃにした。
僕はなんとか体を立てようとしたが、どうにも動かない。
「まだ無理しない方がいいぜぇ、若いの」
もう一人、僕の後ろにいる、古めかしいコートにニット帽をかぶった、がっしりした肩をした男が口を開いた。
「この人たちがタケシのことを救ってくれたんだ。あの放水銃で打たれたあと、お前は点検通路から落ちたんだけど、下にいたこの人たちが状況を察して、シーツを広げて待ち構えてくれてたんだよ」
カラはいくぶん興奮気味に、僕が気を失っていた間の出来事を話してくれた。
「それにしても、無茶な奴っちゃなあ。あの状況で向こう岸にいけるとでも思ったんかい?」
最初に声をかけてきた男が言った。
僕はあおむけになったまま顔を赤らめた。
「僕ら…学校から抜け出してきたんです。だから、都心に行くしか方法がなくて…」
「こいつの両親、滑り込みで都心に入ってたんですよ。僕の親も瀬神口に近いんで、きっとロックダウン前に向こうに渡ったんだと思う。マツオ、お前はどうなん?」
カラが尋ねた。
「僕のお母さんは昼は都心に通勤してる。だから、最初からあっちに行くつもりだったんだ」
「なるほどなぁ、まあいろいろ事情もあったろうが、ひとまず助かって良かった。俺はステゾー。そしてこっちはセイジ。お前らは?」
一通り互いに自己紹介が終わると、僕はようやく体を起こすことが出来た。
辺りを見渡すと、どうやら僕らは廃材やベニヤで出来た掘っ立て小屋の中にいるようだ。
キョロキョロと見回している僕を見てステゾーが声をたてて笑った。
「珍しいか? ここら一帯はな、俺らが自分たちでつくったこんなバラックが立ち並んでる。普段はアルミ缶集めたり、土方して稼いだり…瀬神谷にはだいたい五十人くらいがこうして暮らしてるんだ。地元の住民は怖がって近寄らない場所さ。ま、見捨てられた村ってとこだな」
僕とカラとマツオは顔を見合わせた。
気になって僕は尋ねた。
「じゃあ、テレビの報道とかぜんぜん知らないんですか? 町が封鎖されたことも…」
ステゾーは馬鹿にするな、といった様子でふん、と鼻で笑った。
「うちらにも、スマホを持っているやつは中にはいるんで、もちろん知ってるさ。ただな、ロックダウンしてからというもの、携帯が一切通じなくなっちまいやがった。町が爆撃されたわけでもねえのに、基地局の電源が一斉に消えるたぁ、都心で何があったのか…。ま、とはいえ、ここはさっきも言ったように、町の人間が立ち寄る所じゃあねぇ。つまり、感染の危険性は限りなく低いってことさ」
スマホが通じないと聞いて、僕は焦った。どうやって父さんと連絡をとったらいいんだろう。カラもマツオも携帯は持っていない。頼りは僕のスマホだけだってのに…
「まぁ、お前らもいろいろと事情があるみたいだし、出てけなんて言わねぇから。ここに好きなだけいればいい」
素直にこの言葉はうれしかった。
頼る人がいない僕らにとっては。今さら学校に戻るわけにはいかないし、戻っても三人分の食糧が余計にかかるだけだ。一ヶ月分の非常食なんてあっという間になくなる。むしろ、僕は残された生徒たちの方が心配だった。
しばらく僕らがステゾーに学校で起こった出来事を説明していると、入口のシミだらけのカーテンが突然シャアっと勢いよく引かれ、そこから白髪頭に白いあごひげをたくわえた仙人のような老人の顔がにゅっと突き出した。
「親方?!」
ステゾーとセイジはびっくりしたように振り向き、同時に顔を挙げた。
老人はそんな二人の態度に少しはにかんだように、にんまりと笑っている。
「おう、お前たちここにおったんかい? ちょっとな、自衛隊の防衛線を突破しようとした無鉄砲な子供たちがおると聞いたもんで、一目見せてもらおうと思ってなぁ」
小屋の中にずい、と親方と呼ばれる男が足を踏み入れた。
僕は小柄なその老人の雰囲気に圧倒された。
賢者のローブのような布切れをボロボロのセーターの上にまとった姿は、まるで映画の中の登場人物のようだ。そして、なぜか僕には、彼の背後に黄金色の光が一瞬差した気がした。
と、その老人は、僕を見るなり、何かに驚いたように大きく目を見開いたあと、瞳を輝かせ、いかにも不思議そうに上から下までジロジロと見つめてきた。
「いやはや…、これは。なかなかのもんじゃのう…」
しきりに感心してうなずいている老人の反応を見て、ステゾーは驚いた。
「親方、どうなすったんです? この子のこと、知っておられるんで?」
彼は、とぼけた顔で答えた。
「ん? まぁな。知っているといえば知ってるし、知らないといえば知らない」
ステゾーはわけが分からない、とでもいうふうに首をかしげている。
僕にいたっては、どう反応してよいのか、ただ苦笑いするしかない。
「ところでなぁ、お前さん…。胸ポケットに携帯があるじゃろ? 何か良い知らせが届いているようにわしは見えるんじゃが? のう?」
親方が肩眉を挙げて僕に問いかけた。
「!」
驚いて、手で胸のポケットをまさぐると…
来ている! メールが届いてる! そうだ! そういえば、父さんは、「万一のために、通信が遮断されても数百メートルであれば端末同士でメッセージを送受信できるアプリを入れておくぞ」って、いつか言ってたっけ?
なんで親方にそれが分かったのか不思議だったが、僕は急ぎ、画面をクリックし、メールの内容を確認した。
▶タケシ、メール、届いてるか?
僕は慌てて返信した。
▶届いてるよ
▶良かった。パパはな、今、ママといっしょに、封鎖された瀬神口のそばのビルの一室からこのメールを送ってる。万一、近くにお前がいるならば、きっと連絡がとれるはずだと思ってな。ただ、封鎖線が厳しくて、これ以上はとても近寄れない。
▶分かった。でも、僕はこれからどうしたら良い?
▶こちらに来るのは残念ながら、まず無理だ。だから、当面の問題はまず食糧だ。そこで提案だ。父さんの会社の倉庫には、実は、海外輸出向けのインスタント食品がごまんと貯蔵されている。まず、そこに行けば、とりあえず食糧には困らない。入口のセキュリティの管理者コードを入力すれば、中に入れる。
▶了解。じゃあ、自転車に乗って倉庫に向かうよ。同級生のカラとマツオもいるんだ。一緒に行ってみる。
▶そうか。一人じゃないのは良かった。ただな、お前には悪いが、実は、倉庫まで簡単に行ける状況ではないんだ。
▶え? なんで?
▶あれから、新型結核について少しだけ特性が分かってきた。普通は、細菌の宿主が死ねば、よほどのことがない限り遺体から感染することはない。しかし、なぜか分からないが、この結核については、遺体から菌が自ら噴出し、エアロゾル感染を引き起こすようなんだ。死体から半径10メートル以内は極めて危険だ。そして、都心からドローンで瀬神町を偵察したところ、道路には逃げ遅れて死亡した遺体が港から瀬神口まで延々と山のようにつながっている。だから、道路を自転車で走ることはできない。
▶え~!! じゃぁ空を飛ぶしかないじゃん?!
▶まあ、聞け。だから、唯一安全な策を考えると、家の屋根を伝って倉庫までたどり着くしかない。
▶屋根の上?!
パパの突拍子もない提案に、僕は驚いた。が、身軽な自分ならば不可能ではない、という気持ちも一方ですぐに湧いた。
▶分かった。とにかく、やってみる。
▶くれぐれも無理すんなよ。パパやママは、お前が無事に倉庫につくことを心から祈ってる。お前ならきっとできる。自分を信じろ。
▶大丈夫だよ。僕は体育だけはいつもオール5だったろ? また落ち着いたら連絡するね。
▶ああ、頼んだぞ。
▶ママからよ! くれぐれも気を付けてね!
▶心配しないで。大丈夫だから。
スマホを地面に置き、僕はカラとマツオを振り返った。
「父さんからだ。まずは食糧を確保しろ、って。瀬神港の倉庫まで行けばいくらでも手に入るけど、自転車ではとても行けないらしい」
カラが怪訝そうな顔をした。
「自転車が使えない? どうして?」
僕はパパから教わった状況をそのまま説明すると、カラとマツオは一気に押し黙ってしまった。
特にマツオの表情は深刻だ。
「…屋根の上、を伝っていく? それ、本気で言ってんの?」
断固とした態度で僕は言った。
「マツオ。言っとくがな、お前、生きたいんだろ?」
そのように振られたマツオは、一度ぶるっと体を震わすと、もうその目からじんわりと涙をにじませている。
「分かってる…分かってるさ…だけど、無理だって…」
冷たいとは思ったが、あえて僕は言い放った。
「やってみなきゃ分からないだろ? 最初から諦めるんじゃねぇ!」
カラがマツオの大きな背中に手を当てた。
「まあ、一人で行くわけじゃない。俺たち、で行くんだ。そうだろ?」
マツオは小さく頷きながら涙をぬぐっている。
僕は親方たちの方を振り返った。
「助けてもらって本当にありがとうございました。ただ、ここにずっといるわけにはいかなくなりました。父の会社の倉庫が港にあって…そこに食糧があるらしいんです。それに…」
「それに?」
親方が繰り返した。
「それに、みなさんたちの食糧だってきっとすぐに足りなくなりますよね? だから、とにかく倉庫にたどり着いたら、今度は食糧をみなさんにも届けられると思うんです」
ステゾーが口をはさんだ。
「あんなぁ、今聞いた話しじゃあ、道路は使えないそうじゃないか。どうやって食糧を運ぶっていうんだ?」
「確かに…今のところどうやって運ぶかは分かりません。だけど、あちらに行ってみることでしか道は開けないと思うんです」
親方が声をたてて笑った。
「その意気や良し、だ。が、心配には及ばぬ。わしらは数日食事にありつけないなんてことは珍しくない。それに、知恵を絞ればいずれ食糧集めの方法も見つかるだろう」
僕は力を込めて頷いた。
「はい。ただ、学校に残された生徒たちの食糧のことだってあるんです。僕らが動かないと彼らだってどうなるか分からない」
ステゾーが少し皮肉をこめて言った。
「おいおい、世界でも救おうってのか? 学校のことは知らねえが、俺らはもとより助けてもらおうなんてこれっぽっちも思ってねぇよ。まずは我とわが身を守ることだなぁ」
突き放した態度だったが、これは彼のやさしさの裏返しだと僕には分かっている。
立ち上がると、僕はカラとマツオに言った。
「日が暮れないうちに行こう!ところで、もし屋根伝いでいくとしたら、どちらから行けばいいですか?」
これまで黙っていたセイジが、無言のまま立ち上がり、指をくいくい、と曲げて、ついてこい、と僕らに目くばせしている。
谷の草むらをかき分けながらセイジの後に続くと、やがて、土手の上へと伸びる素掘りの階段が見えた。
階段を上ると、そこには谷の際まで苔むした民家のブロック塀が迫っており、いかにも谷の下の人びとの接触を拒んでいるかのようだった。
「俺らが手伝えるのはここまでだ。幸運を祈ってるぞ」
ぶっきらぼうなセイジが、目深にかぶったニット帽の下の目を光らせた。
「はい!」
僕らはセイジに頭を下げると、すぐに塀伝いに玄関に回り、門扉に足をかけて門柱によじ登り始めた。 案の定、マツオはなかなか扉に足をかけることさえも四苦八苦という様子で、何度もずり落ちている。
「だから、、だから、言ったよねぇ」
しかめっ面をしているマツオを僕は叱った。
「弱音を吐くな! まだ始まってもいねぇのに!」
壁伝いの雨どいの金具に足がちょうどいい具合に引っかかる。
先導する僕は、カラとマツオに足をかけるポイントを教えながら進む。
カラは身軽だった。マツオも心配だったが、金具がギイギイと悲鳴を上げながらも、なんとか付いてきている。
屋根瓦に沿って横に伸びる雨どいに手をかけ、上体をなんとか屋根上に滑り込ませると、僕の頭上には綿菓子のような雲がいくつか見えた。
瓦に足を滑らせながらも、ついに僕らは三人とも、屋根の頂にたどり着くと、まるで示し合わせたかのようにまたいで腰かけた。
「おいおいおい。この屋根の海のような中を進むってのかよぉ?」
カラが目を見開いて呆れている。
僕らの目の前には、はるか港の上にかすむ太陽と、その手前に、どこまでも続く、銀色に光る波のような屋根が無限に広がっている。
「やってやろうじゃねぇか」
僕は不敵に笑いながら前方をみすえた。