これって、ヤバくね?
僕のマイカップが割れたのがそもそもの始まりだった。
寒い朝。
もともと早起きが苦手な僕は、ベッドから出られずに、目覚ましを消しては二度寝、三度寝した。
「タケシっ! いったい、何度いったら分かるの!」
母から叱られながらなんとか洗面所に立つと、取ろうとしたカップがすべり落ち、床で粉々になった。
さしもの僕も目が覚める。
いつもなら、「不吉だ」と考える僕だが、その日はなぜか「身代わりになってくれたのだ」と、妙に納得した。
「ま、いっか」
カップの破片をささっと片付けると、母のけしかける声に生返事しながら、食卓のトーストを口に詰め込んだ。
点いているテレビを何気なく見ると、コメンテーターの一人が深刻な顔で切り出しているところだった。
「とにかく、この未知の感染症が南アフリカのどこかで発生したことはまず間違いない…。結核に症状が似ているんですが、比較にならないほどの毒性がある。一番やっかいなのは抗生物質が全く効かないことでして…」
「なるほどぉ…。それと、先生。 ね、こちらからもお伺いしたいんですが、ある有力な情報によると、なんでも、発症してから二十四時間以内に死亡する確率が極めて高いんですって?…現時点で言える範囲で結構です、少し、そこんところ、少しだけでも教えていただけませんか?」
「ええ。…その点についても世界のウイルス学者たちが、今、懸命に分析に当たっているわけなんですが…一つだけ、事実を申し上げるとですね。今朝の南ア政府の発表では既に六百人以上が同じ症状で入院していて、医療スタッフの皆さんが必死の思いで治療を為さってると聞いております」
「テレビなんて見てる暇ないでしょ? 何時だと思ってるの!」
急き立てる母を適当に受け流しながら、僕はトーストを口に咥えたまま学生服に腕を通した。
通勤や通学する人々が皆が駅を目指して歩く中、僕もその流れに合流する。
学校に行くまでに何がいやかというと、学級で一番反りの合わない女子・ミコといつも一緒になることだった。
これがラブコメなら、困難を乗り越えていくうちに互いが恋に落ち、ハッピーエンドとなるところだが、その確率はゼロ! ゼロ!である。
クラスでミコに惚れているヤツは多いらしいが、たしかに顔もよく、成績も優秀、非の打ち所のない優等生ヅラではある。
その彼女からしたら、僕は不真面目な男に映るようで、やること為すこと気に食わないようだった。
たとえば、ちょっとしたおふざけで同じ班の男子をからかっていたところ、その日のうちに彼女は先生に告げ口し、おかげで職員会議にかけられ、母は早々に呼び出され、僕は問題児の烙印をおされた。
また、僕が嫌いなキュウリをサンドウィッチから取り出しては友人同士で投げつけて遊んでいたところ、ミコの密告によって悪者扱いされた、なんてくだらない出来事もあった。
このようなことが続いたので、僕はミコのことをヘビのように嫌っていた。
そんなあいつの家が通学路の途中にあるのだから困ったものだ。
おっ、と。
少し前をミコが歩いている。僕は無視を決め込んで、知らんぷりして足早に追い抜いた。
そこをすかさずミコが突っ込んできた。
「あいさつぐらいしたらどう?」
おすまし顔で言い放つのを見ると、とにかくムカつく。
「なんだよ、うっせえなあ」
肩越しにギロリとにらみつけると、ミコはふん、と鼻で笑った。
あいつに関わるとろくなことはない。
見下した態度に正直ムカついたが、触らぬ神にたたりなし、だ。
僕は不自然なほどに顔をそむけ宙を見つめたまま通り過ぎる。
が、普段ならひっかかるはずのない道路の段差に、足がっ…!
「あっ、あ痛てぇ~!!」
つま先をしこたまコンクリートにぶつけた痛みで僕は悲鳴をあげ、その場にうずくまった。
しゃがんで足先を抑えながらふとミコの方を見ると、こちらを指さして声を立てて笑ってる。
「あ、あんの野郎~!」
顔をしかめつつ立ち上がって追いかけようとするが、道路の向こう側のバス停に並んだ通勤客や学生たちが驚いてこちらを見ている。
恥ずかしさで顔がほてるように熱い。僕は学生服についたホコリを払いながら、なにごともなかったかのように素知らぬふりして立ち去るしかなかった。
くそっ、あいつっ。いつか、絶対シメてやる。
僕は固く決心し、校門へと急いだ。
四時限目の数Ⅰが終わった休み時間。
前の席の金田がいきなり振り向いた。
「おう、タケシ、五時限目、公民だろ? たしか、ミニテストやるっていってなかった?」
彼は、僕と同じ名前なのだが、僕が「武」、金田が「毅」と紛らわしいので、みんなからは、漢字が卵の「殻」に似ているとの理由で、カラと呼ばれていた。
「いや、カラ、先生こないだ言ってたろ? 今日は、ニュース動画見ながら授業やるって。 ミニテストは来週、来週」
「あ~、そうでした~、楽勝ぉ~。 じゃ、今日は息抜きみたいなもんだな」
無駄話しをしていると、あっという間にチャイムが鳴った。
「起立」
見ると、公民の山下先生が散髪し立てだとすぐ分かるような刈り上げ頭で教室に入ってきた。
「礼。着席」
普通なら公民なんて教科は嫌いだ。けど、「教室を出て社会を見よ」という先生の方針にはなぜか共感していた。僕は先生が何を語るのか、と、教壇を見つめた。
「さぁ~て、と。今日は先日もみんなに伝えていたように、新しい曽根内閣の所信表明演説のダイジェスト版をYouTubeで見てもらって、それについての感想をみんなから聞く、っていう形にしたいと思う。いいか~?」
電子黒板に動画のサムネが映し出され、曽根首相のいかつい、日焼けした顔が大写しになった。
首相の演説は原稿の棒読みであったが、品のない野党のヤジもなかなか面白く、最初の数十分ほどは僕も集中して聞いていたが、先にカラが飽きてきたのか、その頭がゆらゆらと揺れだした。
案の定、彼は振り向くと、メモを僕にパスしてきた。山下先生の刈り上げを強調した似顔絵だった。眉間にしわを寄せて注意をしてみせるものの、彼はどこ吹く風といった様子だ。
しょうがねぇなぁ。
ただ、ミコにだけは知られてはマズイ。チクられでもしたら!
僕は数列前に座るミコの背中を慎重に確認した。が、どうやら演説の内容に集中しているようで、振り向く気配は全くない。
よし。
これで先生に見つかる危険は減ったが、その後もあまりにくだらないメモを回し続けてくるカラには、正直うんざりだ。
彼を適当にあしらいつつも、僕は万一先生から指名された時に備えて、耳だけを動画に集中させた。
首相演説は全部で三十分足らずで終わった。カラは懲りずに「あと授業十五分、ラッキー」とメモを回してきた。
「よ~し。ここまで。どうだ? 演説聞いたのは始めて、という人、手を挙げて」
山下先生は、生徒の何人かを指名して具体的な感想を聞くと、今回の所信表明のポイントになる点をいくつか挙げ、次回の授業のときまでに各項目別に個人の意見を書いてくるよう命じた。
すると、先生の背景の電子黒板は、先ほどの国会中継の画面からライブニュースへといつの間にか切り替わっていた。
先生が続けて地球温暖化問題についての政府の取り組みについての解説を始めると、画面は豪華客船を背にした港の風景を映し出した。その画面の左上に、中継・瀬神港、と表示されているのを見て、生徒は一様に目を合わせた。
「なんだ、瀬神港じゃん。ここから車で十分の」
画面の中の現地記者は、マスクで口元が隠れているものの、その眼からは悲壮ともいえるほどの切羽詰まった様子が伺えた。
「現地からのレポートです! 瀬神港に寄港した豪華客船ステラ・ブリーズ号にて日本における新型結核感染患者の第一号が確認されてから十七時間が経過しました。私も、船内に厚労省の医療スタッフとともに乗船が許可され、防護服に身を包んで一夜を過ごしましたが、患者は救急病院に搬送されることなく船内で治療を受けており、すでに危篤状態にあります! また、患者とディナーパーティーで同席していた五名の乗客が同じ症状を訴えているだけでなく、近隣のテーブルにいた客も体調不良を訴えるなど、事態は刻々とその深刻さを増しています」
教室の中は徐々にざわめき始めたが、まだ先生は気づかないのか、話しを続けている。
記者は、目の下に隈を浮かべ、額からは脂汗を流し、明らかに誰からも健康を害しているように見えた。
「あのひと、大丈夫なの?」
ひそひそと女子も隣同士で会話し、ミコも先生の反応を気にしつつも、同意して頷くしかないようだ。
「政府としても、この感染症を水際で食い止めるべくっ、…医療チームをっつ」
突然マイクがゴボッ、という音を拾うと、記者のマスクが真っ赤な血に染まり、彼は自分に起こったことが把握できないのか、呆然とマスクの血を手でぬぐい、そのまま立ち尽くしている。
「藤堂さん、血! 血!」
撮影クルーが慌てて記者に声をかけているのが聞こえた。
「ダメ、ダメ、画面切り替えてぇ!!」
一瞬、テストパターンの色付きの縞模様が見えたかと思うと、次の瞬間、ACジャパンの広告が映し出された。
妙に明るいポップなアニメーション。僕はそれを食い入るように見つめた。
カラが驚き、呆れた顔で僕に振り向いた。
「これって、ヤバくね?」