わけのわからぬ般若心経(1/4)
「カブラギさんお経は聞きますか?」
「毎日聞いてます〜」
えっ。オトは意外な顔になった。
「お若いのに……感心なことです」
「私は興味ないですよ。主人が毎朝『般若心経』を唱えるんです」
夫の両親はすでに死去している。
なんでも夫の父親ーーつまり紫陽の義父にあたるわけだがーー熱心な仏教徒だったらしい。そこで夫の是也は供養のために毎朝出勤前に『般若心経』を唱えているのだった。
「ほう……『般若心経』ですか? で、カブラギさんは意味がわかって聞いているのですか?」
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かんじ〜ざいぼさつ ぎょうじんはんにゃはらみったじ しょうけんごうんかいくう
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「わかるわけないっしょ!!」
フフとオトが笑う。
「あんなん是也さんのイケボがなかったら聞いていられませんよ!!」
「そういえばご主人いい声ですもんね〜」
紫陽の夫はとてもいい声をしていた。低く、落ち着いていて聞き取りやすい。紫陽は夫の声に惚れていた。
「だいたいお経ってなんであんなに難解なんですか!? 法事のとき眠気と戦うのが大変なんですけど! 私のおばあちゃんも熱心な仏教徒だったんですよ。何かにつけちゃ『ナンマンダブ〜。ナンマンダブ〜』って拝んでましたよ。『ナンマンダブ』って何?」
オトは吹き出した。
「『ナンマンダブ』がお分かりにならないと?」
「呪文みたい!」
「まぁ当然ですね。あれ日本語じゃないですからね」
「え? 日本語じゃない?」
オトはノートにボールペンで『ナンマンダブ』を書いた。人差し指でさす。
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南無阿弥陀
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「これサンスクリット語です」
◇
サンスクリット語!?
「いや、もろ漢字で書いてますやん。サンスクリット語ってアレでしょ? ミミズがいっぱい組体操してるみたいな文字」
「『デーヴァナーガリー文字』です。ずいぶん突飛な喩えしますね! あとインドの人に謝ってください」
すみませ〜ん。どうせ突飛ですよ〜だ。
「これを理解していただくためには、まず『音写』について説明しなければなりません」
オトはさらににボールペンを走らせた。
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田子の浦にうち出でてみれば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ
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「知ってます!山部赤人。百人一首ですね!」
「百人一首得意でしたね?」
「大得意です!!」
「こちら『万葉集』にも載っているんですよ」
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田子の浦ゆ うち出てみれば ま白にぞ
富士の高嶺に 雪は降りける
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「ちょっと違いますね?」
「収録された歌集によって違いがありますね。これが載っていた『万葉集』にはこう書かれてました」
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田兒之浦従 打出而見者真白衣 不尽能高嶺尓 雪波零家留
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「さて。最後見てください『雪』『波』『零』『家』『留』です。雪は降る『ゆき』ですね?それ以外はなんでしょう?」
「当時ひらがながなかったから、中国語から音だけ借りたんですね。『は』『ふり』『け』『る』です」
「そうです。これを『音写』といいます。中国語には漢字があるが日本語の音はない。日本には言葉はあるが文字がない。だから中国語の発音を借りました。さて、カブラギさん。『南無』って『南が無い』って意味ですか?」
「違います」
「どういう意味です?」
「え……わかんない……けど……。今の説明だとこれも『音写』ですか?」
「正解です。では何語から何語に音を『翻訳』したのでしょう?」
さっき『サンスクリット語』言ったやん! 『サンスクリット語』はインドの言葉だから……。
あっ! 『万葉集』と同じ!?
「『万葉集』は中国語の音を借りて日本語を表現したんだから、『南無』は中国語の音を借りて『サンスクリット語を』を………………もしかして『中国語』に!?」
「正解です! 日本史で学びましたね。『仏教伝来』」
6世紀半ば。「欽明天皇」の時代である。
「仏教は百済(現代の朝鮮半島)から伝来しました。百済の前にはインドから中国に伝わっていたんですよ。つまり中国語です」
インド→中国→朝鮮→日本
「インドから中国に渡る時に1回サンスクリット語から中国語に翻訳されたわけですね」
「そうです。そして元のサンスクリット語ではこう発音したんですよ」
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ナモーアミターユスブッダ
(namo amitaayus buddha)
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「あっ!『ナムアミダブツ』って聞こえる!」
「中国語の一番近い『音』がこれだったのでしょうね。サンスクリット語の音を尊重して『ナモアミダブツ』と唱える宗派もあります」
「へぇ〜」
「意味はこうです」
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南無 namo 敬意、尊敬、崇敬、帰依
阿弥陀 amitaayus 量り知ることができない命・光
仏 buddha 悟りを開いた者
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「『南無阿弥陀』って『(量り知ることができない光を持った)悟りを開いた存在に帰依します』って意味か!」
「そうです」
「サンスクリット語だ〜」
「カブラギさんが毎朝聞いておられる『般若心経』にも『音写』はあります」
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般若波羅蜜多
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「こちらの『音写』です」
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パンニャーパラミッター
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「ほんとだ! 『はんにゃはらみった』ってサンスクリット語だ!」
「ちょっと違います」
「え?」
「後で説明します」
意味不明なことを言ってからオトはにっこりした。
「『仏説摩訶般若波羅蜜多心経』は言わば『タイトル』でしてね。1行目からはこう始まります」
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観自在菩薩
行深般若波羅蜜多時
照見五蘊皆空
度一切苦厄
舎利子
色不異空 空不異色色即是空 空即是色
(以下略)
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「毎朝聞いているやつ!」
「ははは。旦那様お勤めご苦労様です」
「……あれ……?」紫陽はあることに気づいた。「なんか途中から意味がわかるんですけど……」
「例えばどこですか?」
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舎利子
色不異空 空不異色色即是空 空即是色
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「こことか……。そういえば夫に教えてもらいました。」
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この世において、シャーリプトラよ、物質は空性であり、空性こそ物質である。物質から離れて空性はなく、空性から離れて物質はない。
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「そうですね。サンスクリット語だとこうです」
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iha śāriputra rūpaṃ śūnyatā, śūnyataiva rūpam rūpān na pṛthak śūnyatā, śūnyatāyā na pṛthag rūpaṃ
(注:ローマナイズ→後述)
イハ シャーリプトラ ルパーム シュニヤータ シュニヤーティバ ルパーム ルパーム ナ プリタク シューニヤーター シュニヤーターヤ ナ プリタク ルーパーム
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「全然ちゃうやん!」
「違いますね」
「『シャーリープトラ』だけわかる! 『舎利子』お釈迦さまのお弟子さんの名前ですね」
「よくご存じで」
タイトルだけが『サンスクリット語』タイトル以外は『中国語』?
「あっ。そうか。『音写』したのはタイトルだけで、次からは『意味』を訳したのか!」
「正解です」
「これね。翻訳したの玄奘三蔵です」
玄奘。今から1400年ほど昔の中国の高僧である。
629年。27歳のとき、シルクロードを陸路でインドに向かい、ナーランダ僧院などへ巡礼。学問を収めると16年後43歳の時に帰国。経典675部や仏像などを長安の都に持って帰った。
帰国後は亡くなるまでの約20年を経典の翻訳に費やした。経典全体の約3分の1しか翻訳できなかったが、それでも『大般若経』含め漢字にして約1100万字。
時の皇帝太宗に提出した『大唐西域記』は中国四大奇書『西遊記』の元になった。
玄奘三蔵とともに『二大訳聖』と呼ばれているのはやはり中国のクマーラジーヴァ(鳩摩羅什)
現在の新疆ウイグル自治区に344年出生すると、402年仏典の漢訳に従事。
臨終の直前に「我が訳した経典に間違いなければ焚身ののちも舌は焼けないであろう」と言ったが、実際に火葬後舌だけが焼け残ったと伝えられる。
偉大な高僧たちが挑んだのは仏教の教祖『釈迦』の教えである。
現在宗教人口世界第4位。信徒実に5億人。全人口7%にあたる。
釈迦自体は教えを文章に残さなかった。文字になったのは釈迦入滅から300年後。それまでは口伝であった。それ以降は各地の僧が自分たちの言語に仏典を翻訳し広めた。
日本のほとんどの経典はこの2人のものだ。クマーラジーヴァを旧訳、玄奘三蔵のものを新訳と呼ぶ。それ以前は『古訳』に分けられる
「つまり我々は今から1380年前、唐の時代の中国語でお釈迦さまの教えを聞いているわけです」
そんなんわかるわけないよね!
【次回】世界最古の般若心経はどこにある?(2/4)