違う、そうじゃない
補足とも言えるし、蛇足とも言える後日談
「詰んだ……」
物が乱雑する部屋で、イブは頭を抱えた。
強打した後頭部がズキズキと痛むが、今はもっと別の意味で頭が痛い。
階下で両親が言い争う声が聞こえる。
最近は各々が私室に引き篭もり、顔を合わせること自体が稀だった。大方、食料を漁るために出てきたところで鉢合わせたのだろう。
「酷い顔」
壁に掛けられた鏡には、見窄らしい女が写っていた。
髪は伸びっぱなしでボサボサ。碌な手入れもされず年齢以上に老けた顔。
数年前に仕立てたため年齢に合っていない服は、ちゃんと洗濯できていないので襟や袖が皮脂で変色している。
数年間粗食だけで生活していたため太ってはいないが、圧倒的にタンパク質が足りなくて髪も肌もガサガサだ。
「これ『ざまぁ』後だよね〜」
茶化して独り言つが、全然笑えない。
「ざまぁ、もしくは追放後に記憶取り戻してスタートする作品もあるけど、あれって主人公が地道に再スタートして、周囲に認められるパターンじゃん。それでスパダリに惚れられて、自分を捨てた連中に男マウント返しするんでしょ? 私の状況じゃ無理ゲーじゃん」
人里離れた場所に隔離され、飼い殺し状態。
ここ数年、彼女が接した人間は、両親と週に一度食料を届けにくる老人のみ。
できることからコツコツ頑張るにしろ、家に閉じ込められている状態では精々家事ぐらいしか思いつかない。軟禁状態で一体何ができるというのか。
記憶を取り戻す前のイブは、外の世界に逃げ出そうと何度か脱走したが、その度に気絶させられて部屋に戻されている。脱走の最長記録は数キロ先の丘だ。
彼女は窓の外を見た。
見渡す限りの広大な草地。地平線まで見渡しても建物はひとつもなかった。
「とりあえず掃除しよう」
この屋敷に来る前、愚かな母娘は新生活に向けて爆買いした。
護送先の新居には使用人が一人もおらず、大量の購入物は数年経った今でも片付けられることなく部屋のあちこちに散在していた。
イブは足元に転がっている瓶を拾い上げた。彼女はこの瓶が原因で転倒したのだ。
「『ラベンダーのオリーブオイル』とか馬鹿じゃないの。そもそもこれ食料なの? スキンケア用品なの?」
パッケージを見ても『マルチに使える』としか書いてない。説明文が仕事をしていない。
瓶の中にはオイルとぷかぷか浮いているラベンダーの花。これで普通のオリーブオイルの十倍の値段だ。
(当時の私は何を考えて……いや、何も考えていなかったから身の程を弁えない振る舞いをしてたのか)
「これがドレッシングだったらな〜」
購入から数年経過していることは考えないことにする。
この屋敷には料理のできる者がいないので、搬入された食材は未調理の状態で食べていた。
最初の数回は肉、卵もあったが、調理できず腐らせてしまって以降、運び込まれることは無くなった。今では生で食べられる野菜、パン、チーズ、牛乳だけで命を繋いでいる。
「いやでも、オリーブオイルならドレッシング作れるんじゃない?」
戸棚の奥に仕舞い込まれているが、塩はあった気がする。
「あぁ〜。でもお酢は見た覚えがない」
三点揃えばドレッシングが作れる。塩がなくても酢が有ればそれなりになったのだが、無いのであれば不可能だ。前世の知識を掘り返すが彼女の料理の知識は浅く、他のレシピが思い浮かばなかった。二人分の人生の記憶があるというのに、全く役に立たない。
(人生やり直すにしても、それに活かせるような強みなんか何もない。今も昔も、私ってば目的意識もなく無為に生きてたのね)
人生何が起こるかわからないのだから、もっと貪欲に学べばよかった。今更だが彼女は己の生き方を後悔した。
「オリーブオイルなら、パンにつけて食べるだけでも少しはマシな食卓になるかも」
いつの間にか彼女の中で、ラベンダーのオリーブオイルは食用油で確定となっていた。
「お父様と、お母様にも声掛けるべきかな……」
あの喧騒に入っていくのは嫌だが、今がどうであれ十数年間不自由なく育ててもらった恩がある。
父カプリコーンは生粋の貴族のため、この屋敷に連れて来られるまでは厨房なんて入ったことがない。
母リリスは平民だが、父の愛人になってからは一切家事をしていない。全て使用人に任せていたので最後に火起こししたのは遥か昔。
イブは愛人の娘であったが、生まれた時から使用人に世話をされて生きてきたので、料理をしたことがない。
「罵り合うようになったのは、あの時からよね」
彼女は脳がショートしないように、ゆっくりと新しい記憶と、古い記憶を統合させた。
数年前に大量の荷物と一緒にこの屋敷に軟禁された三人。
腹が減ってはなんとやらで、食事を作ろうとはしたが頼みの綱であるリリスが着火することができず、それを責めたカプリコーンと言い争いになったのだ。
当時のイブは状況を受け入れられず、只々癇癪を起こしていた。
「今の私なら簡単な料理が作れるけど、火が使えないなら食事内容はあんまり変わらないか」
前世でキャンプ経験がないので、加熱調理は無理だ。
*
簡単に部屋を片付けたイブは、これからの事を考えた。
「死ぬまでこの屋敷で暮らす? 冗談じゃない」
自力で逃亡できない今、彼女にできることはただ一つ。
「お姉様……いえ、女王陛下に許しを乞うこと」
今の環境から抜け出せるのであれば、土下座でも何でもする。
頭を踏みつけられても構わないし、靴だって舐めてみせる。
(女王陛下の靴なら最高級の革製で、外出なんてしたことがないくらいピカピカに違いないわ。うん、いける気がしてきた!)
靴の裏なら躊躇するかもしれないが、靴先とか甲部分なら余裕だ。
(あれ? でも舐めるのって靴だっけ? 足だっけ? どちらにしても、やりきってみせる!)
妙な方向でイブは覚悟を決めた。
「その為には、謝罪のチャンスを得ないと」
*
<お話したいことがあります>
イブは口紅で無地のスカーフに文字を書いた。
彼女は勉強なんてしなかったし、手紙をやりとりするような友人もいなかった。
読み書きはできるが、買い物時にサインするくらいしか文字を書く習慣がなかったので、そもそも筆記用具を持っていなかったのだ。
横断幕もどきのスカーフを掲げて、イブは屋敷の周りを一人デモ行進した。
朝昼夕と一日三回、監視者からの接触があるまで毎日続けるつもりだ。
とても人に見られたくない姿だが、そもそも人が居ないので恥をかきようがない……と思ったが、チャレンジ二日目にして食料を届けに来た老人に見られてしまった。
「お嬢さん。神様とお話したければ、部屋で静かに祈りを捧げるんじゃよ」
「え? ちがっ」
「なあに、教会に行けずとも神様は我ら人の子をあまねく見ておられる。真摯な気持ちがあれば、ちゃんと祈りは届くさ」
「……ウン」
この家を見張っている者へのメッセージなのだが、よく考えればそっちの方が危ないヤツだと気付いたので彼女は反論を飲み込んだ。おバカな娘だと勘違いしてくれた方がマシだ。
同情したのか彼はイブにキャラメルをくれた。
数年ぶりの甘味と羞恥に、彼女は泣いた。
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