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Extra Report 1 賢治と現世の一日(平日版)(前編)

【青梅邸】


AM 6:50 起床


「まったく、あの寝ぼすけはいつまで床におるのだ……」


 今しがた作り終えた弁当三つを見下ろす因幡現世(いなば げんせ)は、不機嫌そうに声をあげた。

 広い台所を挟む二つの廊下のうち、客間が向かいになっている方へ現世は大股で歩き出た。右に曲がって、真っ直ぐ突き当たりの扉を開く。

 そこは、パーティールームと兼用になっているだだっ広いエントランスであった。一階と二階の吹き抜けになっており、広さはざっと二十畳ほど。両開きである大扉の上の窓からは青い光が差し込んでいる。高い天井に吊り下げられたサンルイのシャンデリアが、やわらかな朝の光に(きらめ)いていた。


(……居候し始めてから五日経ったが、未だに慣れないのだ。ここは熱海のホテルなのだ?)


 現世は、エントランス奥の壁に左右から設えられた二つの階段のうち、右の階段を昇る。二階の廊下へ出る扉を開け、左斜め後方の道に曲がる。そこで突き当たる角部屋が、現世の目指す部屋だった。

 現世は音を立てて、両開きの扉を開けた。

 部屋は八畳ほどの広さで、至るところに本が山積になっていた。窓際には、ダブルクッションのベッドが置かれている。見るからに寝心地が良さそうなアイボリーのベッドには、大変小柄な少年が布団にしがみつくように眠っている。

 この部屋の持ち主である青梅賢治(おうめ けんじ)である。


「むにゅう……。背丈があると、高いところにあるものが取れて便利だなあ……」

「……」


 その寝言を聞くと現世は、哀しいやら情けないやらという気持ちになった。

 サイドキャビネットに置かれた目覚まし時計の爆音アラームも何のその。とても気持ち良さそうに、賢治は夢の世界へと留まっている。


「……んん? そこにいたのか現世。小さ過ぎて、視界に入らなかったぜ……むにゃむにゃ」


 ……ピキッ。

 現世は額に血管を浮かべて、雄叫びをあげて右ひじを賢治目がけて前へ突き出しながら飛びかかった。


「……けーんーじーぃぃぃいいい!!」

「ほにゃ? ――いっ!?」


 ボンッ!

 豪奢なベッドに、十歳児のフライング・エルボーアタックが突き刺さる。ダブルクッションのスプリングが大きくベッドを揺らしたかと思ったら、すぐに止まった。


「ふむ……。さすがに、米国シェアナンバーワンを誇るシーリーのベッドなのだ。衝撃のほとんどを吸収されてしまったわ」


 当の賢治はというと――、とっさに身体を半回転させて避けていた。


「……げ、げげげ現世ッ!! 何してんだお前!!」

「それはこちらの台詞なのだ! 今朝の食事当番はおぬしであろうがッ!!」


 賢治は、キョトンとした表情を浮かべる。

 そして青ざめて絶叫した。


「へ? ……ああーっ!!」

「やっぱり忘れてたな。さっさと顔洗って、降りて来るのだ!」




AM 7:10 朝食


 六畳近くある青梅邸の台所では、テーブルが二つある。一つは調理台として、もうひとつは食事をするために使っている。庭に面している十二畳のダイニングルームはほぼ締め切りの状態であるため、賢治たちはいつも台所で食事している。今朝も賢治、現世、賢助の三人が各々の椅子に腰をかけて朝食を囲んでいた。


「ほう。今朝もまた美味そうだな」


 賢助が、テーブルの上に用意された朝食を見てつぶやいた。献立は、魚の煮付け、味噌汁、きゅうりの浅漬けだった。


「缶詰の水煮を簡単に味付けしただけだから、そんなに褒められると照れるのだ。――何せ、誰かさんが当番すっぽかすからの」

「はいはい、悪かったよ……」


 賢治は味噌汁をすする。すると、何か固いものが入っていることに気づいた。感触からして魚の軟骨だろうか。


「この食感は……、エイか?」


 賢助が言った。


「うむ。これは妖獣のシマアカエイというものでな。千葉の海に生息しており、術師界ではポピュラーな食材とされておる」

「アカエイ……、『絵本百物語』のあれか。あまりに大きく船乗りが小島と誤解して、知らずに上陸してしまうという」

「そうなのだ。ところで、弁当の方は冷凍職員オンリーなのだ。誰かさんが当番忘れて眠りくさっていたからの」


 賢治がバツが悪そうに「だから、悪かったって!」と言った。




【円島マルティン教会 めぐみのまなびや】


AM 7:50 登校


 県道803号線を横切って五色高のすぐ近くに建つ、三角屋根のファザードが目印であるレンガ造りの教会が、現世の通う円島マルティン教会である。

 マルティン教会では近年、インターネットを通じた育児相談や、不登校や発達障害などの事情がある子どもたちを対象にしたフリースクールの開校など、先進的な教育活動に力を入れている。現世が通学している「めぐみのまなびや」もその一環であり、特殊な事情のある子どもを受け入れている。その中でも現世は特に特殊(・・・・)なのだが、ここに務める職員は全員同盟と深いつながりにあり、事情を知っている。


「おはようございまーす」

「おはようなのだー!」


 賢治と現世が挨拶をして、柵の中に入る。


「おはよう、因幡さん」


 挨拶を返した眼鏡の女性は、この教会に配属されているシスターであるチョ・ソクハだ。髪の毛はキッチリ結い上げて、ベールの中にしまっている。


「今日も一日よろしくお願いします。三時半には、また迎えにゆきますから」


 賢治はソクハに頭を下げる。現世の送り迎えは、賢治の仕事だった。


「「ソクハ先生ー」」


 ツインテールの女の子と背の高い女の子が、ソクハに呼びかける。


「おお! 君香と六月、おはようなのだ!」


 現世が二人に挨拶をする。

 現世の汎人の友だちである岩居君香(いわい きみか)大藪(おおやぶ)・シウバ・六月(むつき)である。ツインテールが君香、背の高い方が六月だ。


「おはよう現世ちゃん。あの、ソクハ先生。リチェ先生が……」

「何? リチェがまた何かやらかしたの?」

「とにかく来て!」


 六月に引っ張られるままついていくソクハ。賢治と現世もついていく。

 そこには――


「ふしゅ~……。竜巻(トルネド)、ぐ~るぐ~る……」


 物置小屋前のベンチに、修道服姿の若い女性が焼酎の一升瓶を抱きかかえて寝ていた。

 この教会のもう一人のシスターであるカク・リチェだ。


「……」


 ソクハは、無言でベンチをつかんでひっくり返した。


으악(ウアク)!(ぎゃあ!)」


 リチェはゴロンと転がって、後ろの芝生に落ちた。


「痛ってえな~。何すんだよソクハ!」


 無造作にハネたピンクブラウンのロングボブに絡む落ち葉を取りながら、リチェは抗議した。


「何すんだよじゃないッ! もう生徒が来ているのよ! さっさと顔洗って支度してきなさい! 大体、アンタというヤツはいつもいつもッ」

「うるせ~な小姑みてえに。前髪しまってるから、デコの皺がくっきりだぞ」

「話をはぐらかすんじゃないッ! シスター足るもの、ベールに前髪をしまうのは当たり前よ! これは神に貞潔を誓う行為であって――ちょっ、何すんの……!」


 リチェがソクハのベールをめくりあげる。

 ふわっ――しまわれていた豊かな黒髪が、こぼれ出た。


「前髪出したほうが可愛いぞ?」


 無邪気さと悪戯っぽさを湛えた微笑みを浮かべ、リチェが言った。

 ソクハの顔が、ゆでダコのように真っ赤になってゆく。


「……! ば、馬鹿なこと言ってないで、さっさと支度してきなさいよーッ!」


 リチェの右手を乱暴に払い、正門の方へ走り去って言った。

 その様子を君香は、何故か顔を火照らせてキラキラと目を輝かせて見つめていた。


「しゃ、社会人百合……、とうとい……っ!」




【五色学園】


AM 8:20 SHR(ショートホームルーム)


「担任の仁志田先生が出張のため、今朝のHRは私が担当致します。日直の地神(じがみ)さん、号令をお願いします」


 徳長が、教卓に手をかけてそう言った。茶髪のベリーショートの女子が「起立」と言うと、全員が立ち上がる。そして、礼。

 五色学園では、朝のSHRの時間に携帯電話を預けることになっている。担任が持ってきたバッグが回され、そこに自分のケータイを入れて回収するのだ。


「それでは、今日も一日よろしくお願いします」


 SHRを終えて、徳長が教室から去っていった。


「あ、水筒忘れたっぽい」


 賢治がそうつぶやくと、イソマツがこう返した。


「昼休み、一緒に購買行くかい?」

「自販機が故障中だしな……。そうするか」


 すると前のドアから、再び徳長が教室に入ってきた。


(――ん? 忘れ物か?)


 イソマツは何故か、徳長を横目で見ながらニヤニヤしていた。


『――な、何よ! 見返りなんて期待しないでよね! あの程度のこと、やってもらったうちに入らないんだからっ!!』


 徳長は仏頂面で右手にスマートフォンを掲げている。スマホからは、妙に媚び媚びした女性の声が鳴り響いていた。


『……あーもう、わかったわよ! 今回だけよ? ――じゃあ、行くわね! 「ツンツンデレデレ萌え萌え行進曲」! せーのっ、萌え萌えキュ――』


 ピッ。

 徳長は、スマホの電源ボタンを押してアラームの音声を停止させた。


「小田イソマツくん。至急、職員室まで来るように」


 ツン100パーセント・デレ0パーセントの声色で、徳長が言い放った。




【円島マルティン教会 めぐみのまなびや】


PM 12:00 昼餐(ちゅうさん)


 めぐみのまなびやでは12時になると、生徒は講義棟一階のプレイルームで昼食を取ることになっている。


「見て見て! ママがつくってくれたのー」


 君香がそう言って、お弁当のフタを開けて中身を見せた。


「おおっ! これは『オッツキイムワンダラーズ』のアキラではないか!」


 それは、人気アニメのキャラを象ったキャラ弁だった。梅ゆかりの部分が赤のパーカー、海苔の部分がショートヘアの髪型を表している。


「現世のはどんなんー?」


 六月が、覗き込むように顔を出してくる。


「いやー、今朝は時間がなくて手抜きなのだ。ちょっと恥ずかしいのだ」


 ロック鳥のから揚げ(見た目は鶏肉のから揚げとまったく変わらない)をメインのおかずとして、冷凍のキンピラ、きゅうりのたまり漬けなどが入っていた。全体的に地味な配色だ。


「いやいや、すっごい美味しそうだよ。いいなー自分でつくれて。ウチんとこはおかんが朝時間ないしさー」


 六月が、ビニールからサンドイッチを取り出しながら言った。


「ねえ車屋さん、こっち来て一緒に食べない?」


 君香は、同じテーブルの離れた席に座っていたウェーブがかかった茶髪の女の子――車屋祢夢(くるまや ねむ)に声をかける。

 だが祢夢は、「フン」と鼻を鳴らしてそっぽを向く。


「あ……」


 君香は、気まずそうな表情をした。


「気にするなよ。アイツいつも、ああだから」


 六月が君香に声をかけてやる。

 祢夢はつまらなさそうに、コンビニで買ったおにぎりのビニールを剥いでいた。

 その時、現世は見過ごさなかった。祢夢がおにぎりを食べようとしたとき、一瞬羨ましそうに寂しげな視線をこちらに向けたことを。




【五色学園】


PM 0:05 昼休み


 購買の前は、生徒でごった返しになっていた。

 この日は100円の唐揚げと焼きそば、そしてプリンという人気メニューが出る曜日だから、生徒が殺到するのだ。

 賢治は一度だけ昼時に購買へ行ったことがあったのだが、揉みくちゃにされてしまって「二度と行くまい」と思っていた。


 イソマツが「買ってこよっか?」と提案した。


「いや。ただでさえ普段守ってもらっているのに、そこまではさせたくない。自分でできることはできる限り自分でやるさ」

「¡Vale(ヴァーレ)!(了解!) じゃ、ブッ込むよ!」


 二人は意を決して、人ごみの中に突入した。

 賢治は前後の生徒に胸を圧迫されて、一瞬「ぐえっ」となったが何とか耐えた。これでもイソマツが賢治の周囲に気を計らいながら、適度に間隔が生まれるように動いてくれているから、まだ助けられている。一人だったら潰されるか、弾き出されていただろう。

 しかし、であった。


「ぐふっ!!」


 賢治はイソマツが守りきれない左後方から、肘打ちを食らってしまう。

 そのチンパンジーのような顔をした暴漢は、賢治を押しのけて二人の横へ並んだ。


「青梅ェ!! 邪魔だテメー!」


 バスケ部の加良部だった。


「加良……部……、てめ……」

「昼休みの購買はなあ、戦場なんだよ!! 強えヤツが優先的に好きなものを手に入れられるんだ! てめーみてーな弱っちいヤツは、売れ残りのヨー○レッ○でもかじってろ!」


 加良部はいきり立つマウンテンゴリラのようにがなり、前へ出ようとした。

 しかし、であった。


「ぐえっ!?」


 イソマツに左手でつかまれ、後方へと強引に引き戻された。

 イソマツはギプスをはめている左肩で賢治を庇うように前に出て、通り道を作った。


Yo también(ヨ・タンビェン)(Me too)だよ加良部君……。君の言うとおり、強いヤツが好きなものを手に入れられるんだねえ……。あ、おばちゃん。唐揚げ、焼きそば、プリン、コッペパン。あと烏龍茶500ミリリットルちょーだい」

「てめえ小田!! 何しやがる!!」

「おい、痛えじゃねえか一年坊主」


 加良部が抗議の声をあげると、彼の背後からドスの効いた声が響いた。

 彼の後ろには、一人は反りこみの入った角刈り、もう一人はスキンヘッドという、厳つい二人組が立っていた。

 ネクタイのカラーはグリーン。三年生だ。

 彼らを認識するなり加良部の顔は見る見る青ざめていった。


「え、え、いや、俺じゃないんす。やったのは、あの二人組……」


 加良部が前を向いたとき、賢治たちはもう買い物を済ませて人ごみから外れていた。


「あれっ!? そ、そんな。たしかにいたんスよ。そいつらに引っ張られて俺は――」

「ちょっと、こっちに来てもらおうか」


 しどろもどろな加良部の弁明に耳を貸さず、ブレザーの襟首をつかみあげる三年生。


「悪いなイソマツ。ケガしているのに無理させちゃって」

「いいっていいって、こんなの朝飯前だよ」


 その場からそそくさと離れる賢治たちの背後からは、「てめえら、覚えてやがれ~」というケンカに負けた小猿の悲鳴に似た声が響いていた。




【円島マルティン教会 めぐみのまなびや】


PM 2:00 午後の運動


 マルティン教会の庭はそれなりに広く、簡単な球技くらいならできる大きさがある。今日の午後二時からは、リチェが講師である午後の運動だ。

 今日の種目はドッジボール。現世のチーム(赤チーム)とリチェのチーム(白チーム)に別れて、五対五で試合をしていた。

 そしてリチェのチームは、あっという間にリチェだけになってしまった。


「おおおおうりゃああああ――っ!! くらえガキどもおおおおッ!!」


 リチェが猛然とラインぎりぎりまで踏み出し、ボールをぶん投げた。


「うぎゃあっ!」


 直撃を受けたスポーツ刈りの少年が、外野まで吹っ飛ばされた。


「た、大洋ーっ!」

「大人げねーぞ、暴力シスター!! 子ども相手にムキになってんじゃねー!」


 少年の取り巻きである二人の男子が、リチェに抗議する。


「やかましい!! 獅子はなあ、ウサギを狩るときも全力を尽くすんだよ!」

「自分の仲間も、まとめて狩るライオンはいないよ……」


 グシャグシャになった髪をセットし直しながら、君香が不平を口にした。

 リチェチームの被害は、全てリチェの無軌道な暴投によるものである。


「ちくしょー、大洋のカタキッ。喰らえッ!」


 ボウズ頭の少年がボールを投げようと構えた。


「――うっぷ!」

「えっ!?」


 突然二日酔いで吐き出しそうに口を押えたリチェに驚き、ボウズ頭は姿勢を乱したままボールを投げてしまった。

 だがリチェはニッ、と笑って、軽快な動きでヘロヘロ玉を難なくキャッチする。


「ほりゃーっ!」

「ぐほっ!」


 ボールはボウズ頭のどてっ腹に当たり、外野の外まで転ばされた。


「ゲホッゲホッ! き、(きた)ねーぞ! 色んな意味で!」

「ぬわはははは。お前らでは真似したくても、真似できまい」

「スキありっ!」


 六月は、ボールをリチェに向かって投げた。身長165センチという十歳らしからぬ巨体から放たれる強烈な投球には、さすがのリチェも対応が遅れる。


「しまっ――あうっ!」


 それが命取りとなった。修道服の上からでもわかる豊満なGカップが、ボールにぶつかって大きく弾む。

 長髪の男子が「むむっ!」と気を取られ、鼻の下を伸ばして立ち尽くす。

 宙に舞い上がってからゆっくりと落ちるボール。このままなら、リチェの外野行きは確定。現世たちの勝利だ。

 だが――

 パシン!


「えっ?」


 リチェの影から突如、祢夢が現れる。ボールをキャッチして、すぐさま投げ返した。


「うげっ!」


 長髪の男児の右肩に命中。跳ね曲がったボールが、六月の左腕をかすめる。


「……フン」


 思わぬ伏兵の出現に、誰もが驚愕の表情を浮かべた。


「よっしゃあ! よくやったぞ祢夢!」


 リチェが歓喜の声をあげる。同じチームの人間が地面に落ちる前にボールをキャッチすれば、その前の当たりは無効となる。


「くっ……。岡田(カンジョン)、どこ見ているんだお前! 集中しろよ!」


 リチェの乳に釘付けになっていた長髪の男子・岡田(カンジョン)の非を、六月は糾弾する。


「う、うるせー! お前だって、取り切れなかったじゃねーか!」


 形成は逆転された。

 現世のチームは既に現世しかいない。対してリチェのチームはリチェと祢夢の二人だ。

 祢夢は、現世の顔面目がけてまっすぐ投げる。


「むう!」


 バシンッ!

 現世は、何とかそれをキャッチする。細腕から繰り出されたとは思えない、力強い投球だ。

 ボールを取り返した現世に、外野たちの注目が集まる。


「とうっ!」


 現世が投げる。ボールは放物線を大きく描いて、リチェにキャッチされる。


「はっはっは、何だこのヘロヘロ玉は! 取ってくれと言っているようなものじゃない――かッ!」


 リチェは、真っ直ぐに投げ返す。

 現世はそれを受け止め、すぐさまリチェの右足へ向かって投げ返した。


「――!」


 祢夢が、あわててそれを避ける。

 ボールは、リチェのふくらはぎを掠めて外野へと転がっていった。


「……な!?」


 その場で硬直するリチェ。


「先生は投げるとき、無駄に大振り過ぎるのだ。だから投げたあと、すぐに軸足を動かせないのだよ」

「こ、こ、このやろーっ! 拾ってくれよ祢夢! さっきのキレはどうしたんだ!」

「車屋さんに期待しても、それは無理な注文なのだ。車屋さんは最初から、リチェ先生を盾にする気だったのだ。だから一定の距離を置いて、先生の軸足の後ろにいるであろう? さっきボールを拾ったのは、たまさか拾えたからであって、先生を助けるつもりは毛頭ない」


 これでリチェが抜けて、現世と祢夢の一騎打ちとなった。

 現世はボールを思い切りまっすぐ投げる。

 祢夢はそれを胸のところで受け止める。そしてフェイント――右と見せかけて、下手投げ。

 現世は地面ギリギリのところでキャッチする。

 激しい攻防の末、勝負を征したのは――


「……あっ!」


 祢夢の投げたボールが現世の右肩を掠った。


「白チームの勝利だ!」


 君香が叫んだ。リチェたちのチームの外野が沸き立った。

 現世、祢夢のもとへとことこと近づく。


「車屋さん、ナイスファイトだったのだ」

「……」


 手を差し出す現世。だが祢夢は、目を反らして立ち去ろうとした。


「こら」


 リチェが、祢夢の頭をコツンと軽く小突いた。


「試合の後で握手を求められたら、それに応えるのが礼儀だろーが」

「……」


 祢夢はゆっくりと右手を上げ、現世の右手を握り返す。


「ねえ」

「む?」

「負けたのに、何で笑っているの……」

「? 良い試合は勝っても負けても、楽しいからに決まっているからではないか」


 現世は、あっさりとそう答える。


「さあ並んだ並んだ! スポーツは、礼に始まり礼に終わるものだ!」


 リチェが号令をかける。

 整列した子どもたちの「ありがとうございました」という声が、元気良く響いた。




【五色学園】


PM 3:00 清掃


 帰りのSHRが終わった後は、清掃である。

 五色学園では業者の人が掃除してくれるので、生徒は教室の中を軽くホウキ掛けするだけだ。当番制であり、今週は賢治たちの班が担当だった。


「――キャアアアアッ!!」


 絹を裂くような悲鳴が、突如あがった。

 毛羽立った手足。みょんみょん怪しげに動く触覚。黒光りした羽。てらてらした頭。痙攣(けいれん)的で気味の悪い速やかな足運び。

 誰がどう見ても、害虫の中の害虫――クロゴキブリが教室に鎮座していた。


「そ、外に追い出そう……!」


 賢治は窓へと追い込もうと、恐る恐るホウキの先をクロゴキブリの方に持っていく。

 しかしクロゴキブリは大胆不敵にも、柄の部分を這い上がってきた。


「ひぎゃあっ!!」


 慌ててホウキを離したが遅かった。ゴキブリは既に、賢治の右手に到達していた。


「ぎゃあああ、ぎゃあああっ!!!」


 床に転がって滅茶苦茶に腕を振り回す賢治。

 幸いにもワイシャツの袖口から入る前に、ゴキブリは離れた。

 しかし、であった。

 ブオオオオオ――ン。

 賢治の手から離れた途端に、ゴキブリは飛んだ。

 阿鼻叫喚の一年一組。

 だが――ピタッと、突如悲鳴が止んだ。


「……イソマツ?」


 賢治は、きょとんと目を見開いた。

 イソマツがクロゴキブリを捕まえたのだ。胴体をしっかりと掴まれていて、身動きできない状態だ。


「¡Adiós(アディオス)!(じゃあね)」


 そう言って、イソマツは窓の外でゴキブリを解放した。大きな羽音を立てて、ブーンと飛んでいく。


「お……お前、平気なのか?」


 真っ赤になった目で、賢治がイソマツに訊いた。


「うん。昔住んでいたところじゃ、もっと大きいの出たから」


 そう言ってからイソマツは「手ェ洗ってくるねー」と言って、教室から出て行った。その光景を見ていたギャラリーたちは、ただただ呆然としていた。




【円島マルティン教会 めぐみのまなびや】


PM 3:30 自習・下校


「じゃあなー現世」

「また明日ね、現世ちゃん!」


 帰り支度を終えた君香と六月が、挨拶をする。現世はそれに、「さよならなのだ!」と応えた。

 六月は、リチェとすれ違いざまに「さよならー二日酔いシスター」と言った。


「うるせー、()よ帰れ」


 現世は、同じくプレイルームに残った祢夢の様子を見る。一人で本を読んでいる祢夢だが、その背中はどうにも寂しげだった。

 その時、ソクハにつれられて一人の男性が入ってきた。


「祢夢……!」


 スーツを着た細身の男性は、祢夢の名前を呼んだ。


「――お父さん!」


 祢夢は、自分の父親のところで駆け寄った。


「どうして? いつも遅いのに」

「このところずっと続いていた仕事が終わってね……。早く上がらせてもらったんだ」


 祢夢の父親がそう言うと、彼女の顔がパァと明るくなった。それは、現世が今までに見たことのない祢夢の表情だった。


(……よかったな、車屋どの)


「現世ー」


 自分の名前を呼ばれた。ボサボサ頭の眼鏡とふわふわの赤毛、見慣れた二人の少年が現世の迎えにやって来た。


「うむ! 今、行くのだ!」


 現世は元気良く返事をして、彼らのもとへと走っていった。

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