Report 5 「あたり前」の先に(8)
賢治は驚いて、目を見開いた。
そこは、暗雲垂れこめる大雨の中だった。
さっきまで洞窟で戦っていたはずなのに。
恐らく場所は、いつもの白昼夢の原っぱであろうが――その様相は一変していた。氾濫した川の水が、完全に原っぱを呑み込んでしまっている。
視界だけじゃない。
雨の冷たさ。濁流の音。嵐の匂い。口に入る水滴。
賢治の五感は全て、あの幻覚の景色へと誘われていた。
そして目の前には、サッちゃんがいた。
荒れ狂う濁流の上に、賢治とサッちゃんは浮かんでいた。わら箒が浮遊し、その上に二人とも乗っかっていた。
「そんなのは信頼じゃない。依存だよ、賢治」
サッちゃんが言った。その顔は、今までのイメージでいつもしていたような柔和な笑みは消え、これまでに見たことがないほど厳格な顔つきをしていた。
「私は『もうここには来ないから、来るんじゃないよ』とこの前言った。なのに君は、私の言ったことに背いてここに来た。君の軽率な行動が、私に対する信頼を裏切った。君がそうした理由はただひとつ、君の私への依存だ」
――違う! 違うよ……! ただぼくは……、もう一度だけサッちゃんに会いたくて……。
頭の中で、幼い時の賢治の声が響いた。
(これは……! 因幡邸に最初に泊まった夜に見た夢と同じだ! 今の声は、小さい時のオレがその時考えたこと! ……ということは、このイメージも実際に起こったこと?)
「何も違くない。君は、『あたり前』に自分は弱い存在だと思い込んでいて、『あたり前』に私が君の弱さを甘やかしてくれると勘違いしていて、『あたり前』にこの愚行に出た。だが私を含めてこの世界は、君の思い込んでいる『あたり前』なんてどうでもいい。『あたり前』という『呪い』に囚われているのは、君自身だ」
――そんなこと……、言ったって……。
視界が潤むのは、雨だけのせいじゃない。
泣いているのだ。
このイメージの世界での賢治が、ぐすぐすと泣き腫らしているのだ。
――ぼくには、行くところなんかないんだ! 生きていたって、しかたがないんだ! 大伯父さんは最初のうちはやさしくしてくれるかもしれないけど、何もできないぼくにそのうちうんざりする! みんなそうだった!
幼い賢治の声が、頭の中でガンガンと鳴り響く。
イメージのなかでの記憶の賢治が、叫ぶように言っているからだ。
――ぼくは、誰の期待にこたえることもできない。ぼくには、何もできない。そんなぼくに声をかけてくれたのが、サッちゃんだけだったんだ。だから……、もう……。ぐす……、ぼくには、サッちゃんしか、いないんだ。……だから、さよならなんて、言わないで。
「甘ったれるな!!!!」
大喝。
サッちゃんがこんな大声を出すのは、初めてのことだった。
(……!)
これには思わず、現在の賢治も怯んでしまう。
サッちゃんは、真剣に賢治を見つめてこう言った。
「この間、私が君にどれだけの術を見せてきたと思っている。それに対して君は、どれだけの質問を重ねてきたと思っている。……知りたいんじゃないか、君は。考えたいんじゃないか、君は。『あたり前』のことを『あたり前』で満足できないから、考え続けてきたんじゃないか、君は! 私に言われたからじゃなくて! 自分自身の意志で!! ――それとも、あれはウソだったのか。なあ、賢治」
それはさっきまでの、非を咎めるような表情ではなく、優しく諭すような言い方だった。
イメージの中の賢治は、ガタガタと震える唇でこう言った。
――そ、じゃない……。
「もっとはっきりと言わないと、聞こえないぞ!」
上目づかいだった視界が、ガッと上がる。
イメージの中の幼い賢治が、顔をあげたのだ。
――うそじゃない! ぼくは、もっと、色んなことを知りたい! 誰かに言われた「あたり前」なんて言葉で満足しないで! 自分で、色んなことを知って、見て、感じて、考えたい!
はっきりとそうサッちゃんに言い返した、幼い日の賢治。
「……君はやっと自分自身を知れたな、賢治」
するとサッちゃんは、いつものからかうような、諭すような、優しいような、飄々としてつかみどころのないような、あの不思議な笑みを浮かべて、賢治にこう言った。
「世界を識って『あたり前』という呪いから振り切るには、他人に甘えて借り受けた言葉にすがるんじゃなくて、自分で言葉を紡がなきゃいけないんだ。自分自身を知って言葉にすることは、呪いを振り切る第一歩なんだよ。それを今、君は踏み出したんだ。──『知る』ということを、『考えた』ことによって」
それから、サッちゃんは箒の柄の方へ振り向いた。
「私の胴に手を回して」
イメージの中の賢治は言われるままに、腕を回す。
すると、不思議なことが起こった。
それまでぐしょ濡れだった二人の衣服と身体が、一瞬で乾いたのだ。
そればかりか降りしきる雨水が、見えないドームで箒に乗る二人が閉じ込められたかのように避けていくのだ。
「約束だ。雲の向こうへつれていってあげよう。……しっかり捕まりな!」
箒は急に浮上し始めた。二人はぐんぐん地表から離れていく。
――わ、ああああああああ!
オレは声にならない声を上げ、必死になってサッちゃんにしがみついていた。
濁流は見る見る小さくなっていき、嵐に見舞われた街の風景が賢治の視界に飛び込んできた。
瓦が飛んでいる一軒屋。水没した地下駐車場。傘置場が倒れたままのコンビニ。店員が慌てて出て入口に飛んできたものを片付けているスーパー。校庭が雨水で波打っている学校。氾濫するドブ川。誰もいない公園。電車が止まったままの駅。ガムテープや板で窓や扉が補強された店舗が並ぶ商店街。決壊した土手。暴風で煙が散らされる工場の煙突。ぼんやり見える山並み……。
二人はとうとう、真っ黒な雷雲の中に飛びこんだ。
目の前で稲妻が閃く。
――うわあっ!
(うわあっ!)
イメージの中の賢治と、現在の賢治の悲鳴が重なった。
だがサッちゃんは、まったく臆することなく雷撃を避けた。
二、三回蛇行をしたと思った途端に、頭上が急に明るくなった。
(――)
賢治は、息を呑んだ。
頭上には、空色と橙色の鮮やかなグラデーションが広がっていた。
夏の夕空と、それを反射する積乱雲だった。
積乱雲の向こうには、全国版の地図で見た地形の一部と水平線が見えた。
箒は速度を下げて、やがて停止した。
「君は……いま君の目に映っている光景について、どれだけのことを知っているかい?」
サッちゃんは問いかけた。
「例えば、ただの点になってしまった君の住んでいる街、川の向こうのとなり町のこと、そのさらに先の山や森のこと、この広がる海の向こうのこと、ここそこに住んでいる人々……。それらのことについて、君はどれほど知っているかということさ。そこでは、君の知らない世界――君が『あたり前』だと思い込んでいることは、何ひとつ『あたり前』じゃない世界が広がっているのさ。
君はもう、それを見ずに終わることに……満足できないはずだ」
青。緑。橙。白。眼前に広がる無限のグラデーション。
「あたり前だ」「しかたないんだ」と、そう思っていた孤独が、絶望が、全て消え去ってゆく。
……この地平線の先の、さらにその先の景色を見てみたい。その経験をどれだけ積み重ねても、新しい景色を追い求める自分でありたい。
そんな感情が、オレの小さな胸の中に満ちていくのを感じた。
「手ェ、離してみ」
――えっ!?
「大丈夫。落ちたりしないから」
幼い賢治は、まず右手を離して箒に掴まる。それから、恐る恐る左手の方も離してみる。
解放されたサッちゃんは、くるりと身体を回してこちらの方を向いた。そして、おもむろにその白い腕を賢治の首に回す。
そして賢治の身体を、自らの豊かな胸の方へとぐっと抱き寄せた。
(な、な、な、な……!)
幼い頃の賢治の視界を通して見ているので、自分の顔を見ることはできないが――間違いなく、西の空に輝く夕日よりも赤く赤く染まったことだろう。
ニットの生地と下着越しに、サッちゃんの心臓の強い鼓動が伝わる。
「賢治。今まで私は君に、『教える』ということをしてこなかった。だから最後に、このことだけを今から君に『教え』ることにしよう」
サッちゃんがそういうと、息が耳にかかってこそばゆかった。
「楽しむんだ、賢治。感じることを、知ることを、考えることを、『誰か』と楽しむんだ、賢治」
――「誰か」、と……? でもサッちゃん、さっきは他人に甘えるなって……。
「甘えることとと、共に生きることは違う。『ひとのあいだ』って書いて、人間と読むだろう? 人と人のつながりを保ちながら、人は共に生きていくものなんだ。どちらかがどちらかに依存し過ぎず、それぞれが『自律』した存在として、共に生きていくものなんだ。各々が、感じて、知って、考えて、話し合って、日々を作っていく。それはきっと、『楽しい』ことなんだよ。賢治。そんな楽しく、忙しい日々を過ごしていれば、『あたり前』なんていう呪いに関わっているヒマはなくなるはずだ」
サッちゃんが発声するたびに、胸を通じて心地よい振動が伝わってくる。
賢治は五感全てで、サッちゃんという存在を感じ取っていた。
だが間もなく、サッちゃんの声が急に遠ざかっていった。
「――これが私の唯一の教えだよ。君が、楽しみを分かち合える素敵な人たちと出逢えることを願っているよ、賢治……」
夕焼けが遠くなり、黄昏が濃くなる。
全てが、優しい思弁の闇に溶けてゆく――
……賢治! 賢治!!
視界が暗転したあと、不意に賢助の声が響いた。
目を開けると、ひどく憔悴した賢助の顔があった。
どうやらここは、病室のようだった。
賢治を抱き寄せる賢助。
だがその感覚をもう、現在の賢治は感じることがない。
ここから先の記憶は鮮明に覚えており、わざわざ白昼夢で追体験するまでもなかった。
そう。
今、幻覚と記憶が全てつながった。
(……なんで、こんな大事なことを忘れていたのだろう)
この数日に賢治を悩ませたこの白昼夢は、全て本当にあったことだった。
11歳の夏。母親を喪った賢治は、父方の祖母筋に当たる親戚の家へ一時的に預けられることになった。
だが内向的な賢治は、家の子どもにはいじめられ、大人たちからは疎まれるばかりだった。そしてとうとう限界に達し、家出を試みることにしたのだ。
それで辿り着いたのが、あの原っぱだったのだ。
(サッちゃんはオレに、色々な術を見せてくれては色々なことを話してくれた。オレの引き取り先が決まったあの日、サッちゃんから連絡先を聞こうとしたんだ。だけどサッちゃんは教えてくれなくて、「もうここには来ないから、君も来るんじゃないよ」とだけ告げて去ったんだっけ)
だが別れを拒んだ賢治はその翌日も、原っぱに来た。
その日は台風の予報が出ており、荒れ狂う天気の中を賢治は行ったのだ。
決壊は原っぱの方まで進み、賢治は濁流に呑み込まれた。
そこをサッちゃんに助けられて、叱られたというわけだ。
今見た白昼夢は、そのときの記憶だった。
(……サッちゃん。オレ、もういるよ。感じることを、知ることを、考えることを、楽しみ合える『誰か』が。だから、オレは――
もう、『あたり前』に、何もできないオレじゃない!)
記憶の映像が遠ざかる。
そして、目の前が真っ白の光に包まれる。
その光の中に、小さな影が現われた。
(……! 現世!!)
賢治は、その陰に向かって手を伸ばした。
★
「……賢治、賢治ッ!!」
現世の声が不意に響いた。
気がつくと、賢治は右手にトネリコの杖を、左手にゲーティアに変化した現世を手にして、立ち上がっていた。
現世が、涙ぐんで賢治に呼びかけている。
「現世……」
「この馬鹿者! 死んだかと思ったぞ!」
「……ごめん、心配かけた」
賢治は、自分が五体満足であることを確認する。どうやら、大事な怪我は負っていないようだ。
「何があった、現世」
「うむ。バルバトスは〔終戟の六星〕――自らを六本の霊力の矢に変えて敵に突き刺さる術を使って、麻枝の謎の髑髏を貫いて吹き飛ばしたのだ」
それを聞いて賢治は、バルバトスが最後に言った言葉を思い出した。
あとは頼んだぜ――ご主人。
(……そうだ。立たなきゃ。戦わなきゃ。勝たなきゃ……!
今ここで倒れたら、力尽きるまでオレに尽くしてくれたヴォラク、マルコシアス、バルバトスに申し訳が立たない……!)
「その通りだよ、現世ちゃん」
重く、腹の底に響くような声。賢治は前を向く。
血まみれの六本の腕をだらりとぶら下げた、麻枝が立っていた。傷口には、バルバトスの青い霊光の残滓がわずかにきらめいていた。
「くっ……、倒しきれんかったか!」
現世がうなる。
麻枝の舌には、不気味に赤く光るメダルが乗っている。そのメダルには、中央を結ぶ横棒が右下がりになった「H」が刻まれていた。
「そのメダルは一体なんだ……! ――ぐっ!」
賢治は、左足の痛みにうめいた。どうやら吹っ飛ばされたときに、ひねったらしい。
「霊力を増幅する魔道具……、とだけ言っておこう。まったくそのまま寝ていれば、苦しまずにすんだものを……。まあいい。どうせ君の勁路は、あと一回詠唱する余力しか残っていないはずだ」
そう言う麻枝もまた、満身創痍であった。
杖は失った。蜘蛛の糸も封じられている。六本の腕の筋力が働かなくなったことによって、自重が強烈な負担となって襲いかかる。それを切欠に蓄積されたダメージが、今になってどっと出てきたようだ。二つのヤシの木のような脚が、時折カクカクと笑ってしまっている。
「……ああ、そうだ。だから、決着を着けるときが来たようだ。――アンタの格律とオレたちの格律、どちらが普遍的に妥当し得るかをな!」




