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氷鳥

作者: 秋花

「爺さま、わたしはもう飽き飽きしております」


 孫の(あきら)が頬を膨らませる。背中はこれでもかと毛皮を被り、冬ごもりで丸まっている熊のようだ。冷えた氷穴の中ではそれだけでも足りないに違いない。頬は真っ赤に色づき、吸った息を吐き出す度に白い綿が飛び出してくる。

 丞司(しょうじ)はノミを立てる手を緩めない。手袋の下の氷像はまだ粗削りな様相を見せている。


「飽きたなら帰りなさい」


 孫の願い対して丞司の反応は冷たい。彰は襟巻に顔の半分を埋めると、短い足をばたつかせた。無数の氷柱が取り囲むように二人を見ている。


「帰れば母さまが雷のように怒り、わたしはまたこの冷たい穴に放り投げられます」


「であれば我慢をしなさい」


 間髪返された言葉に耐え切れず、彰は立ち上がった。我慢の限界だった。


「いやです! 爺さまはいつもいつも氷穴で氷像を掘っているだけで満足でしょうが、わたしは子どもなのです! こんな洞穴で寒さに震えながら爺さまが凍え死にしないかを監視するよりも外で遊びたいのです!」


 幼さ特有の高い音が洞窟の中で反響する。地団駄を踏むと、丞司が溜息を吐きながらようやく手を止めた。ノミを足元に置いて、彰の両肩を掴んで座らせる。


「氷穴は滑りやすい。むやみに立ち上がるものではない」


「……爺さまが一緒に帰ってくれれば危険もありません」


「それはできない」


 年寄りはわがままだ。彰はいつも思う。だが、祖父の氷像を作る手は好きだ。最終的に作られる氷像はガラスのように透明で、冷たいのに今にも動き出しそうな温かさがある。それにしても寒すぎるから、彰は文句を言っているのだ。


「氷で作らなければよいではありませんか」


 丞司は改めて座って氷像を削りだした。目を合わせてくれない祖父に彰は歯嚙みする。


「……彫刻を作りたいだけならば、私はガラスでも木でも石でも作っただろう。だが、氷像でなければ意味がない」


「なぜですか」


「春になれば溶けるからだ。その点を言えば、雪でもよかったかもしれない。……いいや、雪ではダメだったろう。ただの模造品になってしまう」


 厚い毛皮で覆われた小さな頭を傾げる。丞司は彰の様子など視野に入れず、髭に隠れた口を淡々と動かした。


「私の氷像は山に捧げている」


 カツン。ノミに叩かれて氷が欠ける音が響いた。




 

 厚い雪布団で覆われた山の山頂で、白雪を纏った鳥を見た。雪に埋もれるように羽根を休めていた鳥は、丞司のことを意にも介さない様子で羽を広げ、山麓へと下っていき、そして溶けるように雪の中に消えた。

 地元の人間だった妻は、よく見る光景だと注目すらしなかった。誰もがそうだろう。消えた鳥に魅入られ、日が傾き始めるまで陰ろうを見つめ続ける者はいない。

 たかが鳥一匹。たった一匹の野鳥に、彼は山の息遣いを感じたのだ。


 それから狂ったように近くの氷穴に入っては氷像を掘り続けるようになった。

 奇跡を自らの手で作りだしたいわけではない。しかし、その可能性を追いかけなかったと言えば嘘になる。あの日の一端を感じたい。その一心で氷を掘り続けた。


 気づけば年老い、しわがれた手でノミを抱えて氷穴の中に引きこもっている。己の執着心でどれほどの人間が悲しみにくれただろう。ふとした瞬間には後悔が過ぎる。だが、あの光景を見ると後悔なぞ些末事なのだと思うのだ。



 バーナーの炎で表面を炙ると、氷像独特の透明な姿が浮かび上がる。彰は感嘆の声を飲み込んで、吸い込まれるようにじっと見つめていた。

 丞司は作業を終えて鉢巻で汗を拭う。足元には野生の生き物を模った氷像が数体並んでいる。


「運ぶぞ、彰」


 工具を片付ける丞司に、眠気に目を擦る彰は眉を顰めた。


「爺さま、わたしは子どもです。昨年は母さまについてきただけで、出来上がりを見たのも今回が初めてです」


 ひょいひょいと小さな氷像を厚く風呂敷に包むと、彰に渡す。しぶしぶ受け取り、彰の背の丈ほどの氷像を背負った丞司を追いかける。道端にはマリンライトが埋め込まれており順路を照らしている。氷穴の階段は凍っている。恐る恐る足場を探りながら上を目指した。


「日に照らされる氷像を見るのは初めてか、彰」


 彰は唇を尖らした。手すりを引っ張るように登る。


「産まれて十年ですよ、爺さま」


「なら、今日は呪いにも希望にもなる」


「……意味がわかりませんよ、爺さま」


 祖父は彰が思うよりも多弁だった。冬には山に籠り、心配した家族が無理やり家に連れ帰る。だが、懐いている祖母の寂しそうな顔を見る度に祖父に対して怒りが湧いた。彰は祖父が嫌いだった。誰とも目も合わせず、いつも一人でいる。勝手に一人でいるのに、祖父を見ている誰かが泣くのだ。


 氷穴から出ると辺りは真っ暗だった。冷えた風が頬を刺す。空には雲一つない。星明りを頼りに歩こうにも、夜目にはまだ慣れない。

 「こっちだ」影の中から丞司が手を伸ばしてくる。彰は分厚い手袋越しに祖父の手を握る。


 山頂に辿り着くと、丞司は荷を下ろして氷像を並べ始めた。彰の持っていた小さな氷像は、一つを除いて同じように陳列される。彰が放っておかれた氷像を指差すと、「やる」と返ってきた。

 日の光が山向こうから頭を出し、黒く滲んでいた雪化粧を白く焼いていく。丞司が彰の手を掴み、氷像を遠巻きにして眺める。腰をかがめ、何者かから隠れるように伏せている。


「爺さま、なにしてるんですか」


「っし。静かにしてなさい」


 彰は手元に残った小鳥の氷像を撫でる。子どもに静かにしていろ、と言うのはご飯を食べるのを我慢しろと言うのと同じぐらい身勝手だ。

 白を擦った藍色の光が山頂を撫で、山麓まで手を伸ばす。並んだ氷像が光を吸って煌めきを発する。


「よく見ていろ。――今日は、快晴だ」


 山沿いから白い鳥が弧を描いて氷像に降り立つ。溶けた朝露に嘴を伸ばし、山頂に長い影を作る。

 彰は、不思議と息ができなかった。ぎゅっと手の中の小鳥を握りしめ、祖父の氷像に吸い寄せられた鳥を見つめていた。群青が追い出され、白む空は、天に雪が降ったようだった。

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