TP吹きの僕 醜態
あらすじにもあるように、この作品は「TP吹きの僕シリーズ」の最終回となります。前作、前々作を読んでくださった方は想像つくかもしれませんが、この作品は小説なのか……? って感じの内容なので、それを踏まえて読んでいただきたいです。まあ、言い訳はたくさんありますが、そういうのは後書きに載せるとします。
もし時間があって読んでやってもいいぜという心優しい方がいたら、僕の戯れ言に最後までお付き合いください。
さて。
あの後、僕は高校生になった。
そしてあろうことか、性懲りもなく吹奏楽部に入り、Tpを続ける決断をした。当時の僕は、やはり諦めきれなかったのだ。自分がTpの才能がなかったのは自分だけのせいではなく、単なる知識不足、周りの環境のせいもあるのではないかという可能性にかけずにはいられなかったのだ。だから僕は最終的には部活動で進学する高校を決めた。勿論理由はそれだけではなかったが、高校生になっても吹奏楽を続けようということだけは心に決めていた。
その結果、僕はその決断をとてつもなく後悔することになる。否、Tp、或いは音楽という面に関して言えば確実に新たな知識も経験も得た。それはかけがえのないものであることに変わりはないだろう。しかし僕には、当然というか、Tpの才能はなかった。才能はないし怠惰だった。第一に、僕は中学時代に感じたことのなかった文武両道の厳しさを思い知ることとなった。練習時間は倍以上に増え、通学時間が5分未満のところから1時間近くに増えた結果、家庭での勉強時間が確保できなかった。僕の認識の甘さがそこには現れていたのだが、勉強を後回しにしていたのが良くなかった。そして練習時間も学年を重ねる毎にすごく中途半端なものになっていった。初めのうちは先輩方についていくことだけに必死になれば良くて、練習だけに集中できた。毎日の通学と練習で体力は徐々にすり減っていき、ヘタレの僕は毎日毎日ヘロヘロだったが、まだなんとか気力でごまかすことができた。しかし後輩ができてから、僕はなんだかどんどんだめになっていった。
勿体ぶらずに結論から述べると、僕は高三の春、吹奏楽部を退部した。理由は……、まあいろいろだ。表向きの理由は勉強に集中するため。部の仲間たちからの認識はおそらく人間関係のせい。当時自分であれこれ考えてこじつけた理由は家庭環境の変化から。どれも正解なんだろうし、それだけでもなかったような気もする。今となってはどうでもいいし、結果として僕は吹奏楽部を退部したことは変わらないのだ。高校に入ってから1年目は全てが真新しい景色に思えて、これは確実に中学時代にはいくら努力したところで自分の力だけでは見られない景色だと思った。初めて同じパートで同輩ができたことも嬉しかった。こいつとは3年間共に努力して最後まで一緒に吹くことになるんだと思っていた。努力は一向に技術に結びつく気がしなかったが、先輩方はすごくよくかわいがってくれた。それに1年の冬に陰で顧問から褒められていたことを先輩から聞いて、僕は死ぬほど嬉しくて、もっと努力してここから変わっていくんだと思い直した。2年の春、Tpの後輩が3人も増えた。そのうち2人はここの顧問に教わるために高校を選んだ、とてもやる気のある後輩たちだった。正直技術では勝てる部分は何もなかったし、学力も後輩の方が上だった。顧問はTpパートの自分と同輩はほとんど眼中になく、合奏のときもパートを引っ張る先輩とやる気のある後輩の名前をよく口にした。僕は相当悔しくてもっと努力しなきゃだめだと思ったが、その頃から努力の仕方がわからなくなっていって、同時に体力と気力がつき始めていた。それでも気持ちだけは負けるわけにはいかないと思って、めげながらも毎日楽器と向き合った。自主練習の日は毎回学校に通ったし、休日練習のときも校舎の鍵が閉まる時間まで楽器と向き合った。当然成績はひどいものだったし、親の迎えなしに駅まで行き来できなかったため、朝晩の送り迎えの際に文句も言われながらも協力してもらった。
1年目はがむしゃらに、2年目は耐えの年だった。
同年秋、先輩方が引退して地獄の日々が始まった。その頃には僕がパートリーダーをしなければいけないことが確定していた。同輩が持病のため楽器を続けられるかわからないと言い出したからだ。そのときは「手術をして3年の夏を万全の状態で迎えたい」という同輩の言葉を信じ、そいつが戻ってくるまでは僕がパートを引っ張るんだと躍起になっていた。しかし技術がない僕に後輩を自信を持って導く力があるはずもなかった。音楽の知識も発展途上で、高校に入ってからたくさんクラッシックは聴くようになったが耳もいい方ではなかった。見る人から見たら努力不足だったのだろうが、元々体力も気力もない僕にはそれが精一杯だったのだ。先輩の期待にも後輩の期待にも応えられていない、頼られていないことをひしひしと感じた。後輩たちは自分のことを慕ってくれている自覚はあったが、それは一先輩としてでありトランペッターとしてや一人の人としてではないことは明白だった。顧問の期待にもことある毎に応えられず、何もできない役立たずとして認識されていった。今まで先輩の陰に隠れていた部分がむき出しにされて、僕には何もないことがばれてしまった。それからは、周りの目が僕のことを蔑んでいるようにしか思えず、そのうち学校に行くことが苦痛になった。練習も徐々にサボりがちになった。正確には、朝起きられなくなったり、居残り練習の時間に集中力が散漫になって施錠の時間ではなく次に来る電車の時間に合わせて帰宅しようとしたり……である。練習はもちろん真面目に参加していたし、やることはきちんとやっていた。ただ、気持ちの面ですら後輩たちに勝てなくなっていった。
同年冬、一通りの大会が終わって春に向けた練習にシフトし始めていた頃、僕は家庭の事情で初めて部活を休んだ。その頃祖父が倒れてすぐに入院したのだが、その後病院の事情で別の病院へ移ることになり、1日だけ家で面倒を見なければいけなかったのだ。母だけではなかなか大変だということで、土曜日だし僕も家で待機することになった。久しぶりに何もない1日だった。もちろん祖父の介護はあったが、食事の補助や着替えの手伝い、トイレへ連れて行く等くらいで、それ以外の時間は自由時間である。なんて楽なんだろうと思った。1日ってこんなに長かったっけと。
翌日の練習はいつも以上に苦痛に感じた。1日練習に参加しなかっただけで、いつも通っていた部活が全くの異空間に感じた。その頃の同輩は楽器が全く吹けない状態で、夏の大会にも間に合わないことが明白だった。部活にも顔を出したり出さなかったりした。その日は同輩はおらず、僕と後輩たちだけでパート練習を行った。何で僕はこんなところにいるんだろうと思った。楽器を持っていて楽しいと感じたのはもうずいぶんと昔のことのように感じた。僕が何を言っても後輩たちには届いていないように感じた。自分の汚い音なんて聞きたくなかった。2年の冬がラストチャンスだったのに。僕は一向に上達しなかった。1個上の先輩たちの顔が浮かんだ。その代も3人いたがどちらかという皆すごく吹けるというタイプではなくて、最後までとても大変そうだった。頭が良くて部1番の努力だった先輩も、終いには音がどんどん悪くなっていって顧問にこれ以上吹くなと言われていた。お前の努力は知っているがそんな音で吹かれたら困ると一蹴されて終わりだ。そんな先輩は、引退までやり抜いても報われた顔をしていなかった。最後までやり抜くことに意味があるのだと、皆が口癖のように言っていた言葉がすごく軽薄なものに思えた。
月曜日。僕は学校を休んだ。朝のパート練習には出られないことをパートの皆に連絡し、体調不良で出られないと、ごめんと送った。顧問にも学校を休む旨をメールで送った。次の日も、僕は学校を休んだ。パート練習メニューの組み立てからの開放感、後輩たちと顔を合わせずにいられることの気楽さ。それと同時に休んでしまったことへの罪悪感、再びあの場へ顔を出すことへの恐怖感。その日も同じように休む連絡をした。その後は返信が怖くてスマホを見られなかった。
そこから2週間、僕は学校を休むことになる。3日目以降は休む連絡をするのも怖くて、親に何か聞かれるたびになんと応えればいいかわからなくて、朝の9時くらいまでずっと寝たふりをしていた。初めのうちは親も心配そうに何度も起こそうとしてきたし「学校は行かないの?」と聞いてきた。夕方になると「明日は行きなさいよ」と促されて、僕も明日こそは行くよと答えていた。しかしそれでも態度を変えない様子を見て、そのうち諦めたようだった。毎晩、僕は翌朝こそは起きて学校へ行こうと考えた。だからこそ朝が来るのが怖くて、どんどん寝る時間が遅くなっていった。スマホは連絡が来てもわからないようにアプリの通知を切り、何も考えたくなくてどうでもいいような動画やアニメをひたすら見続けた。
その後、なんやかんやあって僕は一旦は部活に復帰した。一度は退部届を出したのだが顧問に受け取って貰えず、学年ミーティングに呼ばれて説得された。僕は学校を休んでいた理由に家の事情を持ち出した。家のことが大変なら帰る時間を早くしてもいい、配慮するから部には残ってほしいと言われた。話を聞いているうちに僕もだんだん気持ちが揺らいで、気がついたらこれからも一緒に活動させてくれと頭を下げていた。その直後は、2週間も吹いてないからただでさえ吹けないのに更に吹けなくなっていて、休んだことを後悔した。同輩たちにも後輩たちにも迷惑をかけてしまったことをすごく反省した。そして、授業での遅れを取り戻すのにも大分苦労した。成績は元々低かったが、3学期の期末試験はかなりひどかった。
こういうわけで一度は部に復帰した僕だが、最終的には高3の春に退部した。其れまでの間にもう2度ほど不登校を繰り返し、見かねた顧問はもう何も言わなくなった。最後に言われた言葉は、「これからは学校は休まず来ること」というとてもシンプルなものだった。すっかり休み癖がついてしまった僕は、卒業するまで何度かずる休みを繰り返したわけだが、部活がなくてもあの有様では我ながら呆れて言及しようがない。
結局受験が終わるまで勉強には身が入らなかった。部活をやめた後、学校へ行っても家にいても生きた心地がしなかった。人生でこれ以上ないというほど落ちるところまで落ちたなと思ったし、もうこの際どうにでもなればいいと思った。だから大学もセンター試験の結果で決めた。もちろん第1希望はその時点でかすりもしなかった。
さて、現在はというと、僕は未だにTpを続けている。もう呆れてものも言えないだろう。あれだけ散々苦しめられていながら、僕は楽器を吹くことを嫌いになれなかったのだ。吹奏楽自体は嫌いになりかけたが、結局音楽を聴くことは好きなようでクラッシックも自分のペースで聴いている。何なら、高校時代は義務感で練習したり曲を聴いたりしていたから、今の方が純粋に楽しんでいるくらいだ。
中学時代にマックスが口を利き始めたときは吃驚したが、今の楽器は中古だからか口を利いてはくれない。でもそれでいいのだ。僕は楽器を最大限に鳴らしててあげられないようであるから。どう頑張っても僕にはTpの才能がないようだ。Tpを始めて8年くらいになるが、僕の技術はあまり向上していないし音域も狭いままである。今の楽器がしゃべり始めたら、どんな文句を言われたものかわからない。
「でも、お前も災難だったよなあ、ホント。こんな吹けない奏者のもとにたどり着いちまって。もっと音抜けのいい楽器に育ててやりたかったけど」
すっかり僕の吹き癖がついてしまって、誰に吹かせても音抜けが悪いと不評なのである。
「ごめんなあ、マジで」
ふと昔のことを思い出し感傷に浸っていた僕は、かつてマックスと会話を交わした日々を思い出しながら誰にもなく謝った。
「本当だぜ、全く」
だから。
返事があるとは思っていなくて。
「うおぉっ!?」
思わず手が滑って楽器を落としてしまうところだった。
「ようやく俺の声が聞こえるようになったのな、お前」
その声は紛れもなく、楽器が僕に対して話しかけているものだった。
「とりあえず手始めに、名前を付けてほしいもんだね。いい加減」
それからまた僕と楽器の愉快な音楽生活が始まるわけだが、その話は又の機会に。いくらやっても上達の見込みはないが、素人の趣味として続けていくには悪くないだろう。この諦めの悪さ、正に醜態である。
久々の投稿がこれなのは作者としてもいかがなものかと思っております。前作の後書きでも書きましたが(書いてないかも←)、これは僕の経験に基づいて書いた文章です。昨年の春くらいに、自分の気持ちを整理するためにも一旦文字に起こそうと思ってこれを書き始め、飽きちゃったのか途中で止まっていました。そもそももう投稿したものと思っていたのであまり当時のことは覚えていません。なんでこんな物書き始めようと思ってしまったのか、自分でも疑問に思います。あー、これ書きかけだったのかー、ということに今日気がつき、ノリと勢いだけで書き上げました。なのであまり読み返しもしていません。本当はもう少し盛り込みたい要素もありますが、書いていても読んでいてもあまり楽しい内容ではないですしね、サクッと終わらせました。
最後のオチもとってつけたようなものですが、それ以外の部分がどれくらい実体験に基づいていたものなのかは想像にお任せします。因みに楽器とおしゃべりしたことはありません。小説なので全部フィクションです。いつの間にかシリーズ化してしまったこの3作品も、1作品目と今作とでは書いた時期があまりに違うので、文体も結構変わっているかもしれませんね。むしろ変わってなかったら成長してねえじゃねえか、って感じですね笑
そんなことより、最近また小説を書き始めたので1年以内くらいに投稿を再開できたらなあと思っています。連載中の作品はもう知りません。
ここまで読んでくださってる方がどのくらいいるかわかりませんが、こんな駄文を最後まで読んでくださりありがとうございました。次はもうちょっとましな読み物を書く予定です。