表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
チェコっとチェルト 青春編  作者: 足立 真仁
3/3

後編

街灯の下を歩いているピエールとナオミは、地下鉄の駅を目指していた。バス停にいたおばさんが、随分待っているけど全く来ないというのを聞いたからである。

「今日はいろんなナオミちゃんが見れて楽しかったよ。」チェルトが一番すごかったと言いかけたが、ピエールは気を使って口には出さなかった。「TVスタジオにも行ったのは初めてだったし、発見がいっぱいあったよ。」

「発見って?」

「例えば、あの女優。画面では素敵に写っているのに、あんなに嫌味ったらしいとは思いもしなかった。」

「うん。最初はね。でも、いい人だったよ。お友達になったし。」

 確かにそうだった。ナオミが控え室に行って戻ってきてからは、役者同士のギスギス感はすっかりなくなっていた。 

「それに、いろんなナオミちゃんに会えたこと。僕らは普段画面でしかみていないけど、実際そこに至るまでの見えない部分を感じることができた。素晴らしかったよ。」

 目を細めたナオミがピエールを覗くように見ながら質問した。

「でも、刑事さんが一日仕事休んでもいいの?」

「あぁ、大きな事件がなければ僕らにも休養は必要だ。」

「それもそうね。何事にも充電必要だもんね。」

「そういった意味では今日は有意義な一日だったよ。新しい空気を吸った気がする。いや、確かに吸った。たくさんね。ありがとう。」ピエールが笑顔を見せると、ナオミはとても恥ずかしそうで嬉しそうだった。そんな仕草がピエールの心拍数をぐんと押し上げた。少し人の行き来が多い階段を降りるとナオミがカバンからチケットを出した。 

「地下鉄の切符。パンチするね。」

「あ、いや。」

「大丈夫。いつも何枚かもっているの。」チンチンと機械が時間を刻む音が響いた。

「ピエールさんはどちらへ?」切符を渡しながらナオミは聞いた。

「僕が住んでいるのはB線の方なんだ。」

「じゃあ、ムーステックまで一緒ね。」 

 さらに階段を下だりプラットホームを少し歩くと丁度入線してきた地下鉄が二人の前を勢いよくかすめて強い風を巻き起こした。ピエールが何か大きな声で言っている。だが、電車の音で聞こえなかった。

「なぁに?」ナオミは顔をピエールに近づけた。

「こ、これから、食事に行かないか?」ピエールは、ナオミの暖かさを感じて今まで見たことがないくらい緊張していた。ナオミは少し口を尖らせた。

「どこかいいとこ知っているの?」

「あぁ、ロマンチックとは言えないかもしれないけれど。」そう言ってピエールは手を差し出した。ナオミはどこか緊張しているピエールを見ると、ウフッと微笑んでその手を掴んですぐそばのドアから地下鉄に乗った。 

「何か食べられないものとか嫌いなものはある?」

ナオミは首を横に振った。

「僕は、あんまり生卵とか好きじゃないんだ。」

「え? 私も。嫌いじゃないけど、好物ではないわ。」

「ベジタリアン?」

 ナオミはまた首を横に振った。

「よかった。じゃあ、肉と魚。どっちが好き?」

「どちらかというとお肉かなぁ。でも、最近はお魚も好きになってきた。ポハートカに行くようになってからかな。あそこのお魚は新鮮だから美味しく感じるわ。でも…。」

「貝は苦手かな?」

 今度は首を縦に振った。

「うん。食べられるけど、好んでは食べないわ。だって。」

「あぁ、ちょっと得体が知れない感じだよね。」ハハハとピエールは笑顔を見せた。

「タコとかエビは?」二人の会話はゴトンゴトンという地下鉄のリズムとハモっているようだった。


 中央駅で降りた二人は東側に出て、程なくジシコフ呼ばれる丘の麓にある街並みを歩いていた。この辺りは、建物が狭い坂に迫ってくるように建っていて少し窮屈な感じがする。ある小径を曲がるとそのどんつきには、まるで隠れたようにある洞窟風のレストラン…というよりもざっくばらんな感じの食堂があった。見上げると入り口はまさにその岩山の横穴のように見えなくもない。

「こんなところに?」

 驚いているナオミを見てピエールはちょっと得意げだった。

「まぁ、知る人ぞ知るってところかな? 面白い人がやってるんだ。」

 店は細長く薄暗らく、お客はまばらだった。装飾はこざっぱりとしているが豪華でもない。奥に進むと髪の毛ボサボサのおばさんが接客している。ハッと気がついたようにこちらを見て伺った。

「ああ、ピエールさん。いらっしゃい。予約はないようけど大丈夫。2人だね。」とダミ声で言いながら、ナオミを足元からゆっくりと舐めるように見てヒヒと笑った。

「べっぴんさんだね。お似合いだよ。」

「いや、そんなんじゃぁ。」と恥ずかしがるピエールの前にゴツゴツの手をぬっと出してテーブルを指差した。

「あちらへどうぞ。」

 ピエールはありがとうと言ってナオミを小さな窓際のテーブルにエスコートした。2人に丁度いい大きさの正方形のテーブルに茶色の布製のテーブルクロスがかかっているが、オシャレというよりはひと時代前の簡素な感じだ。小さなバスケットの中には白い薄い紙ナフキンとフォークとナイフが無造作に入っている。ピエールはジェントルマンよろしく、ナオミのジャケットを脱がせてあげて岩肌のような壁にあるコート掛けにかけた。そして、椅子を引いてナオミを座るように促した。

「今日は随分と紳士じゃの、ヒヒヒ。」おばさんはピエールの頭を撫でながら2人をしっかり吟味したかと思うと厨房があるであろう扉の中に消えて行った。

「ここにメニューはないんだ。」

「え?」

「おばちゃん任せのコースなんだよ。」

「大丈夫?」

「リーズナブルだし栄養のバランスもいい。味もなかなかなものだよ。ほら、塩胡椒やオイルの瓶がないだろ。」

 確かに、調味料の類は一切見当たらない。ナオミはまばらな他のテーブルをそれとなく伺った。店内が暗く今ひとつよく見えなかったが、お客さんはそれなりの格好をした人たちだ。会話が弾んでいる。小さな窓から夜景のプラハが俯瞰気味に見える。 

「あれ? 街がこんな風に見えるなんて。」 

「そう、知らないうちにこの洞窟を上がってきてるってことだね。」

「お飲み物は?」耳元で聞こえるダミ声にびっくりして2人は振り返った。さっき厨房に入ってい行ったおばさんがいつの間にか2人目の前にいたので驚いたのだ。

「ナオミちゃん。ビールでいいかな?」

「ドラフトの黒ビールありますか?」ナオミはおばさんに聞いた。

「ああ、生ならストラホフとジシコフのがある。」とにかくダミ声だ。

「ストラホフは甘くなくて大好きだけど、ジシコフってどういうの?」ナオミは素直に聞いた。

「ジシコフはさらにビターだよ。」おばさんは親指を立てた。

「それじゃあ、ジシコフで。試してみるわ。」

「間違いないよ。」ヒヒヒとまた笑っておばさんは厨房の方に向かった。

「ピエールさん、あなたの飲み物…。」とナオミが心配そうに彼を見たが、ピエールは何も焦っていなかった。

「大丈夫。彼女はわかっているんだ。」 

 席から見える厨房への入り口でおばさんは振り返って、ナオミと一瞬目が合った。

「あのおばさん、以前どこかで会ったような気がする。」

「みんなそういうんだよ。」ピエールはくすっと笑った。

「どういうこと?」

「だって、なんとなく、ババヤガに似てるだろ?」

「あ、そうか!」ナオミは右手を思わず口に当てた。

「ここの店の名前は、Pod Skalka ZiZikov.。だけど、みんなババヤガって呼んでいる。」ピエールはナオミに近づいて小声で囁いた。ナオミはピエールの目を見て少しきゅんとした。 

「黒ビールジシコフは、お嬢さんだったね!」またもやいつの間にかおばさんはテーブルの前にビールのジョッキを持って立っていた。心臓が止まりそうになったナオミはハイっと小さく手を挙げた。

「あんたにはこれだったよね?」ピエールに差し出されたのはワイングラスに注がれたオレンジ色の液体だ。軽く発砲していて、氷がうごめいている。ニカッとおばさんは笑ったと思ったらまたくるっと向きを変えた。

「じゃ、乾杯しよう。」

「ナオミちゃんの健康に。あ、それと、女優としての成功に!」

「ピエールさんが、おっちょこちょいじゃないように!」

「ひどいなぁ。」二人の笑い声にチンとグラスが当たる音がした。

「うわっ! 思ったよりも苦い!。」ナオミはそれこそ苦笑いしながらもうひとくち口にした。「ところで、そのオレンジ色のは何?」

「うん、イタリアでよく食前酒として飲まれるアペロールのプロセッコ割り。飲んでみる?」

 ナオミは差し出されたグラスを口に運んだ。

「甘い…と思ったら、ちょっと苦い。カンパリオレンジはもっとドライだけど、これはなめらかな感じね。美味しいかも。」

 程なく、おばさんが湯気の立った大きな鍋を抱えてやってきた。

「今日のスープは、いたずら好きだった鴨のスープだよ。ちょっと懲らしめてやったんだ。キャベツとイゾップと一緒に煮込んであるから少し独特な味だけど、美味しいはずだ。」と言いながら少し深めのお皿に木をくり抜いて作ったおたまでスープを注いだ。黄金色の液体は少し濁っていてとろっとしている。そしてそこここに油が浮いていた。おばさんがそこにリベチェックの葉を何枚か投げ入れると、ツンと香りが引き立った。 

「ドブロウ フゥチ(召し上がれ)。ヒヒヒ。」と言いながら二人に目配せした。

 確かにその味は少し奇妙だった。不味くはないが、今まで食べたことのないどこか違う世界のものだった。

「美味しいなこれ。センスあるよね。あんなおばさんなのに。」ピエールは満足げだ。

「でも、こんな味初めて。」ナオミは少し首を傾げて微笑んだ。ガブガブというくらいピエールは美味しそうにスプーンを口に運んでいるのが少し滑稽な感じだった。 

「あれ? ナオミちゃんはあまり好みじゃない?」

「いいえ、美味しいけれど、あんまりスープだけでお腹いっぱいになりたくないの。だって。」

「確かに。これからたくさん来るからね。じゃぁ、それ、僕がもらうよ。今日は随分とお腹が空いちゃったんだ。」ピエールはさっとナオミの皿と自分の皿を変えてあっという間にスープを平らげた。

「将来はこんなの作ってくれる嫁さんが欲しいよ。ナオミちゃんは料理するの?」 

「ええ、そんなに手の込んだ物はできないけれど、おうちでは、おとうとおかあの手伝いはするよ。」

「へぇ。いつかご馳走になりたいな。」と口が滑ったピエールの顔はどんどん赤くなった。

 バン!と厨房のドアを後ろ足で蹴っておばさんが両手に皿を掲げてやってきた。

「今日のメインは、迷子うさぎのムネ肉とモモ肉のオーブン焼き7色ペッパーソースがけ。放蕩ミツバチのはちみつを和えたアスパラの付け合わせでどうぞ。」 

 スープの皿と入れ替わったトンと置かれた大きな白い皿。だが、ナオミの皿には何も載っていなかった。が、ピエールはすぐに反応した。

「わお! こりゃ美味しそうだ。ナオミちゃんのも山盛りだね。いい匂い。うさぎは食べるだろ?」彼は上機嫌だ。あれっとナオミはピエールの皿も見たが、やはり何も載っていない。

「もう一度乾杯しよう!」オレンジ色の液体が彼の手元で揺れている。ナオミはあわてて黒ビールのグラスをとると、チンと乾杯した。そして、自分の皿とピエールの皿をもう一度見た。が、やはり何も載っていない。彼はナイフとフォークを手に肉を切り出した。いや、そういう風に見えるだけだ。

「ナオミちゃんも、温かいうちにどうぞ。」

 ナオミはええと苦笑いしてフォークとナイフで肉を切り、口に運ぶ真似をした。もぐもぐしているピエールは満足げである。ナオミはしばらくそんな真似事をしていたが、我慢できなくなって声をあげた。

「ピエールさん、ごめんなさい。ちょっと洗面所に行って来るわ。」そう言って席を外し、トイレに行く真似をしてさっきおばさんが出て来た扉をそっと押して中に入った。そこには厨房はなく、ゴツゴツとした洞窟のトンネルがなだらかに下っている。その先からかすかに光が漏れていた。ナオミはゆっくりと下って行くと少し広めの空間に出た。真ん中にとても大きな鍋が釣り下がり、下から火で炙られてグツグツという音が響いていた。おばさんは大きな棒でそれをゆっくりかき回しながらナオミをチラッと見た。

「あんたが初めてだよ。私の料理を…。」おばさんの声がするが、その姿は老婆だった。

「だいたい無断でここに入って来るなんてどういう了見だい?」

「おばさんは誰?」ナオミは真っ直ぐ見つめて聞いた。

「そういうあんたは誰なんだい。人間じゃないだろう?」

「おばさんは、チャロジェイニーツェ(魔法使い)? ババヤガ?」 

「あんたみたいな子は初めて見るよ。」

 ナオミは老婆がかき回している煮立った大きな鍋から立ち上がる湯気になにかが写っているのを感じた。

「あ、その人!」それは知っている人物の顔だった。

「お前も知っているのかい?」

 ナオミは軽くうなづいた。

「おとぎ話の世界を否定しよるエリート現実科学バカだ。一度うちに来たことがあってな。魔法をバカにしよった。近いうちにまた来るらしい。その時におちょくってやろうと思ってな。ヒヒヒ。」

 ナオミは黙っていた。

「あたしゃ随分と長くこの世にいるけどね、ここ数年だよ、本当に住みにくくなったのは。なぜだかわかるかい?」

 ナオミは黙って鍋をかき回している老婆を見ていた。

「人間の社会だよ。どんどん便利になるのはいいかもしれんが、いろんなものを置き去りにして大切なことを忘れているのに気づいておらん。 フン。」ナオミを見つめたババヤガの目はくすんでいるが、その奥はギラギラと光っているようだった。

「忘れ物?」

「素直な心だよ。だから、あたしゃ苦労するんだよ。」ババヤガは突き出したシワシワの顎の先に少し生えている髭をなぞっている。

「人を…騙すのに?」

「エゴばっかりだ。権力を得たものは更に懐をこやそうと勝手に複雑な決まりを作り、庶民とやらは少しばかり裕福になるとなんでもできると思っている。取り残されたものはそれを妬んで…と、目に見えるわかりやすい悪循環だというのに。欲に眩んで何も見えんのだよ。」

 ババヤガがそんな風に社会を分析しているなんてなんだか滑稽だ。だが、大学の教授よりも現実味がある。ナオミは少し可笑しくなった。

「何が可笑しい? ああ? そう、バカどもを相手にするのも一筋縄ではいかなくなったんだよ。どうだい? うちでアルバイトしないか? ここのところここは評判が良くて…ね。ヒヒヒ。」

 ナオミは鍋から一歩下がって口を開いた。

「確かに私も嫌な事はたくさんあるわ。でも、あなたに加勢はしない。だって私は…。」

 老婆はかき回している柄杓を持ち上げて液体の表面をバシャンと叩くとその先をナオミに向けた。

「ふん、勝手にしな。だが、私の邪魔はするな。偉そうに。何様だと思っている!」 

「デザートが楽しみだわ。」老婆に軽くお辞儀をしてナオミはトンネルを戻った。ら、そこは入り口近くのトイレの前だった。奥の自分の席に戻る時に他の客のテーブルを伺うと、スープはあるがメインを食している人たちの皿にはやはり何も載っていなかった。客たちはナイフとフォークを駆使して食事をしている。まるでパントマイムのように。

「大丈夫? お腹でも痛いの?」ピエールは帰って来たナオミを心配そうに見た。

「ごめん。あっという間に食べちゃったんだ。さすがにナオミちゃんの分までは食べられないけどね。」ナフキンで口を拭きながらピエールはナオミの皿を見ている。

「ピエールさん、ごめんなさい。こんなに美味しそうなのに。なんだかお酒が入ってリラックスしたら、一気に今日の疲れが出ちゃったみたいで。」

 ピエールは少し残念そうな表情を見せたが、いやいやと軽く手を振って作り笑いをした。

「女の人はそういうところがデリケートだからね。リラックスするのがいちばんだよ。」

 と、いつの間にかまたおばさんがテーブルの脇に立っていた。

「さすが、若い青年は食べっぷりがいいね。おや? お嬢様はお口に合わなかったようで。」

「仕事で疲れちゃったみたいなんです。」ピエールはすかさずフォローしたが、おばさんはナオミと目を合わせるとフンと小さく言ってピエールに向き直った。

「デザートは何がいいかな? クレームブルーレ、チョコレートムース。洋梨のコンポット。それか、白いアイスのモーツアルトクーゲル。」

「じゃあ、僕は最後のやつ。ナオミちゃんは?」

「私は、もういいです。」

「若いの。このお嬢さんとはもう少し上品なところに行った方がいいかもしれんな。」おばさんは嫌味ったらしくそう言い残してテーブルを離れた。

「ごめんなさい。そういうつもりじゃ。」

 ピエールは目をパチクリしながらナオミを見た。

「大丈夫だよ。僕は君のことをわかっているつもりだ。」ピエールは雰囲気が悪くならないように自分の気持ちを抑えて笑顔で答えた。

「ありがとう。ピエールさんは強いのね。」と、ナオミの甘い笑顔とその言葉にピエールは単純に上気した。

 トンと小さな平たい皿がピエールの前に置かれた。それは何もない皿ではなかった。二つの白い玉が赤茶色のソースの上に載っていた。

「はい。チョコレートソースに白いアイスモーツアルトクーゲル。」おばさんはナオミを見て少しいやらしくウインクした。「溶けないうちに召し上がれ! ヒヒヒ。」 

 ナオミはおばさんを見送った後に皿の上を凝視した。茶色いソースはドロッとしたどす黒い赤みがかった血のようだった。そして、その白いクーゲルは、まるでギロッとした…。

「まるでフレンチの粋なデザートだね。」ピエールがデザートフォークをクーゲルに刺そうとした瞬間、ナオミは反射的にテーブルクロスを引っ張ってテーブルの上の全てを払いのけて、自分も倒れた。

「ナオミちゃん、大丈夫?」ピエールは床に倒れこんだナオミを抱き上げた。

「イタタタ、だ、大丈夫。ちょっと貧血かな?」

「ふん。小生意気な。余計なことをしおって。」遠目に見ていたおばさんは扉をけって厨房に入って行った。

「ごめんなさい。せっかくのデザートが。」

「いいんだよ。疲れているのに誘った僕がいけなかったのかもしれないね。」ピエールはナオミの洋服をパタパタと叩いていた。


「2000コルナだよ。」大きな財布を持ちながらおばさんはそう言った。ナオミの目が点になっているのを見てピエールはおどけて見せた。

「うん。1人1000コルナなんだ。まぁ、安くはないか。」

 ピエールは苦笑いしながらさっさと支払いを済ませるとナオミのジャケットを取りに行った。その間におばさんがナオミの横で呟いた。

「いいかい、はっきりいうが、私はあんたのこと好きじゃないよ。だが今は誰だかわからんあんたと小競り合いするよりも大切なことがある。ほら、こりゃお土産だ。」彼女は小さな茶色の紙袋を手渡した。 

 ピエールは、ナオミのジャケットを着せる手伝いをしながら、おばさんに向かってごちそうさまと言った。

「今度は別な娘を連れてきな。うちはこんな食堂だけど、出したものはきちんと食べてもらわないとね。ヒヒヒ。」

 ピエールはおばさんの肩を黙って叩いてナオミに行こうと合図した。ナオミを支えるように通りに出たピエールはタクシーを捕まえた。ドアを開けてナオミを座らせると運転手と話をして前金を渡した。ナオミは閉まった扉の窓を下げた。 

「ピエールさん、せっかくの夕食のお誘い台無しにしちゃって…。」

 彼は腰を屈めて優しく微笑んだ。

「いいや、今日は楽しかったよ。またデートしてくれるかな?」

「デート?」そうかこれはデートだったんだ。ナオミは少し赤くなって俯いたところで、ピエールはチュッとナオミのおでこにキスをした。 

 カチカチとウインカーの音が聞こえたかと思うとタクシーは車が流れる道の中をスイスイと走っていた。ナオミの頭にはいろんなことが浮かんで消えた。スタジオ、監督、女優、チェルト、ピエール、大きな鍋、おばさん…いや、ババヤガ。そう、長い一日だった。

 

 タクシーを降りて建物を見上げると窓の灯りはついていなかった。リビングにも誰もいない。今日はみんなもう寝たのかまだ帰ってきていないかのようだった。部屋に入って灯りとつけると、すぐに窓際にいつもの子猫がストンとやってきた。ナオミは窓を開けてヒョイっと子猫を抱いてベッドに座った。

「今日はすごいことあったよ。」

 頭をナオミの体に擦り付けていた子猫は、え?とナオミを見た。

「ババヤガに会ったの。変なレストランをやっているのよ。おかしいでしょ?」子猫の体温で暖かい柔らかいふわふわの毛が心を癒した。

「おとぎ話とおんなじで、大きな鍋で何かを煮込んでいるの。今晩はいたずらっ子のカモだったかしら。それがスープ。」子猫は目を細めてニャーと言うと曲げた手首で顔を掻いた。

「お前は可愛いね。」ナオミは子猫の頭を優しく撫でた。「あとはみんな夢の中。お客さんは皆んな魔法にかかっちゃって何も食べないでお腹いっぱいになっちゃうの。」

 子猫は黄色い目を丸くしてナオミをジーッと見つめた。

「あれ?と言うことは、実はとってもいいダイエットってことか。」と言うと子猫を抱き上げてナオミはゴロンとベッドに横たわった。

「本当にババヤガだったのかなぁ。でもあそこあの値段だったら以外と稼いでるかも。」 

 子猫はナオミの胸の上で両手を交互に動かし始めた。

「きっとそうよね。だって、私がいるんだもん。うーん。」

 ナオミの瞼は急に重くなってゆっくりと無意識に閉じ始めた。

「ルチフェールに言っておいてね。ババヤガのこと。」と言うか言わないかのときにはもう意識がなかった。子猫もナオミの胸の上で小さく丸くなって気持ち良さそうに目を閉じた。

 

 ナオミは厨房に続くであろう洞窟を小走りで掛けていた。わかっている。後ろからあのミロシュが追いかけてくるのだ。灯りが漏れている穴に入ると、そこには大きな鍋が釣り下がっていた。グツグツと煮立っている表面はなぜか映り込みが鮮明で、鍋の前に立ってかき回している人の顔が見える。どこかで見た顔だ。

「あ、シモナさん?」と声をかけて目線を上げると顔が見えたはずなのにその人はフードをかけていてよく見えなかった。

「ナオミちゃんだね?」とガラガラ声でフードを外すと、それはひどく醜いババヤガだった。

「ピエールの出汁の効いたこのスープいかがかな?」と大きな柄杓で表面に浮かんできた手首らしいものをバシンと叩いた。足音が迫ってくるのが聞こえる。ナオミは慌ててその穴を出て、走って少し先にある別な穴に入った。 

「あ、おかえり。」小さなテーブルを囲んでいるのはおとうとおかあ。それぞれがチェルトと天使の格好をしている。それとスーツ姿のアンディー。そしてもう一人。大きなマントを着ている紳士が後ろ向きに座っていた。ナオミは更に目を凝らして周りを見ると、そこにはエヴァ、ペトラ、デイビット、テレサ、フランチシェック、ルカーシュ、そして、アダム、トマーシュ、さらには、オルガ、居酒屋のマスター。みんなの顔が浮かんでいる。

「さぁ、紹介しよう。とても大切なお客様だ。」とおとうはいつになく真剣な眼差しでナオミを見た。その紳士はスーッと後ろ向きのまま立ち上がると、マントをばさっと大きく翻した。ナオミの目の前にはフワンと暗黒が広がったかと思うと、急に強い風が吹いてきた。ナオミは目が開けられなく、吹き飛ばされそうになった。その風の中から声が聞こえてきた。 

「私は、ルチフェー…。」

「ルチフェール!」ナオミはガバッと起き上がった。気がつくと窓のカーテンが揺れている。

「なんだ、夢か。」ため息をついて時計を見ると帰ってきた時間とほとんど変わっていない。ほんの一瞬の夢だった。子猫がベッドの上で小さな紙袋を見つけて前足でかまっている。

「そうだ。それババヤガからのお土産なの。」ナオミは袋に手を入れて中身を取り出すと、それは半球状のガラスの中に入った雪だるまだった。上下に振ると白い雪がガラスの中で優雅に舞っている。

「可愛い〜。ほら、香りも素敵!」と子猫に見せたが、黄色い目を釣り上げ、更に牙をむいてフーッと唸った。

「嫌いなの?」とナオミがそのガラス玉を覗き込むと、その雪だるまが少し動いたような気がした。「あれ?」と子猫を見下ろすと、ほらね?と言っているように見えた。確かに雪の舞うその中にいる雪だるまをよーく見ると、それはあのデザートの白いクーゲルが縦に重なっているように見える。しばらくあらぬ方向を見てから素早く向き直ってじーっと雪だるまを凝視すると、やはり、ピクッと動いたように見えた。

「なるほどね。そういうことか。」ナオミは子猫にウインクをして小さな台所からビニール袋を持ってきた。雪だるまの入ったガラスの置物をその中に入れて、窓の下の部分から外に突き出している物干しレールに吊り下げた。

「ここからの眺めは…、まぁ、そんなに素敵でもないか。」そう呟いて窓を閉めた。

「お前が嫌いなわけだ。でも?」

 ベッドの上にちょこんと座っている子猫は首をかしげた。

「だいたいお前は誰なの?」

 そんなナオミの問いかけに子猫はどきっとしたようにも見えたが、自分の前足をペロペロ舐めて顔を拭き始めた。

「シャワー浴びてくるね。」ナオミは帰ってきてから脱ぐのも忘れていたジャケットを椅子の背もたれにかけて、タオルと大きめのバスタオルを持ってバスルームに駆け込んだ。自宅のようにバスタブがあれば、ゆっくりと浸かりたい気分だったが、あいにくここにはシャワーしかない。素早く化粧を落とし、さっと裸になって蛇口をひねった。最初の冷たい水滴にキャッと声を小さくあげたが、すぐに暖かくなった。流れ落ちてくる熱いお湯がいつになく気持ちよかった。うーんと背伸びをしながら羽根もいっぱいに伸ばしてみると、全身の疲れが流れ落ちて体が軽くなっていく。 

 頭と体にタオルを巻いてぽかぽかの湯気を体から立てながら部屋に戻ると、子猫は窓のサンに座って外を見ていた。

「遅くなってごめん。もうおうちに帰る?」と声をかけて窓を開けてやると、ニャアとナオミを見て外に出た。バイバイと窓を閉めてそそくさとパジャマに着替え、鏡の前でドライヤーのスイッチを入れた。湿った焦げ茶色の長い髪をゆっくり櫛で梳かしながら暖かい風を優しく当てた。ナオミは自分のストレートな長い髪が好きだった。しっかりと芯のある強い髪だが、決してごわごわではない。鏡に映っている自分と目があった。目の色は茶色だ。お母のように青い目もいいなと思ったりもするが、自分は自分。おとうはエスプレッソ・マッキャートのようないい色だって言っていた。ルチフェールの目の色は何色なんだろう。と思いながら、自分に向かってベーっと舌を出した。ちょっと長めの舌は小さい頃からだけど、やっぱりチェルトだからかなぁ? といろんな変な顔をして見たら、結構バカらしいなとは思いつつも、意外と面白くていつの間にか自分自身で笑っていた。携帯での自撮りも面白いが、こうやって鏡を見るのも悪くない。そう、自分が誰だって深く考えなければ…。 

 乾いた髪を撫でながら、おかあとアンディーに『おやすみなさい。』とメッセージを送ると、すぐにおやすみと帰ってきた。ベットに潜り込んで目を閉じたが、浮かんできたのはレストランでのピエールのバツの悪そうな表情だった。ナオミは少し複雑な気持ちになった。ピエールはいい人だ。ただ、人が良過ぎるような気がする。彼が連れて行ってくれたお気に入りのレストラン。しかし、彼はまんまとババヤガに騙されている。よく刑事として勤まっているなぁと感心するけれども、逆にそんな人が警察にもいるというのはもしかしたら素敵なことなのかもしれないとも思う。そうだ忘れてた。と、ナオミはガバッと起きて机の上で充電している携帯をとってピエールにメーッセジを打った。

『無事にアパートに着きました。ありがとう。』送信してから少し待ったがすぐに返信はなかった。まぁ、レストランでは彼をがっかりさせてばかりだったから仕方ないか。ナオミは携帯を机に戻して再びベッドに潜り込んだ。でも、なんでこんな都会にババヤガがいるんだろう? 改めて考えてみると不可解だ。おとぎ話では彼女は森の中に住んでいるはずだ。住むところを追いやられた野生動物のようなことなのだろうか? いや、きっとここにいるのは親戚かなんかなのかもしれない。ナオミは枕の柔らかさを感じながら、ハァっとため息をついて窓から見える雲がかかったりかからなかったりしているほぼ満月に近い月をぼんやりと眺めた。もっとも、彼女の素姓などはナオミにはどうでもいいことだった。それより、ババヤガらしき人が実在するということは、自分が存在していてもちっとも不思議なことではない証と言える。天使とチェルトのハーフはまぁ珍しいだろうけど…。ただ、普通の人が知らないだけ…というか、実在することを信じていないだけなのだ。それがプラスかマイナスかはまた別な話だけど…。ナオミがベットで丸くなってもう一度軽くため息をつくと、携帯のメーッセジを知らせるチャイムが鳴った。ピエールだった。

『こちらこそ。無事に着いてよかった。今日は楽しかったよ。』

 ナオミはすぐに打ち返した。

『せっかく誘っていただいたのに、あんな風になってごめんなさい。』

『気にしないでいいよ。また誘ってもいいかな?』

『私でよければ。』

『次はもっと素敵で落ち着いたところを考えておくよ。それじゃ、もう遅いし、おやすみ。』

『楽しみにしています。それじゃぁ、おやすみなさい。』と送信してから、素早く打ち足した。『あ、ピエールさん?』ナオミは思い切ってピエールに聞いて見た。

『ピエールさんは、おとぎ話を信じますか?』

 が、しばらく返答がなかった。画面を見ていると、返信を打っているマークは出るのだが、何度となく消えては現れて、また消えた。それは答えを探しているようでもあった。  

『ごめんなさい。変な質問をして。今日は本当にありがとう。おやすみなさい。』ナオミはピエールの返事が帰ってくる前に自分からそう打って送信すると、携帯をデスクの上に戻して羽毛にくるまって目を閉じて石のように固まっていた。意識が自分の体の深い奥の一点にゆっくりと落ちて凝縮していくようだ。

 …もしかしたら、家族以外で自分を認めてくれるのはあの嫌なミロシュしかいないのかもしれない。彼は、ナオミという存在を疑っている。それは逆説的に言えば、ある意味何かの個体として認めようとしているのではないか…。もう一度会ってみるのがいいのかもしれないのだろうか? …いや、それともただの興味本位での詮索でしかないのか。確かに冷静に考えてみれば、認められたとしても、その先に美しい未来なんてないように思える。危険だ。でも、自分の中には、自分が誰かに認められたいという気持ちがうずいているを感じている。丸く包まった羽毛ぶとんの穴から顔だけ覗いているナオミのゆっくりと開いた目はどこか哀しげだった。素敵なおとうやおかあ。アンディー。そして友人たち。みんながいる。でも…。夜の青味がかっていた白い壁の部屋がホワンと明るくなった。ガバッと起き上がって携帯を取り上げた。

『ナオミくん。私は、君が誰なのか、きっと本当のことを知らないと思う。でも、今の私は君が誰であろうと、君のそばにいられることをすごく嬉しく思うし、何かの力になってあげられればと思っている。考えても見てくれ給え。おそらく、今こうやって受けた質問だって実は至極普通の女の子の質問だったりする。みんなが悩むことのうちの一つだ。実際は人によってそれぞれ違うだろうけど、その答えを一緒に探せればと思う。…とはいえ、ご存知のように、私はまだ駆け出しの刑事であり、人間的にも人が良すぎるところがある、とよく言われる。でも、人に負けないなにかも持っていると自分を信じている。それは、自信というほどのものではないけれど…。そう、何かあったら、どんなくだらないことでもいいから、話をしたいと思ったら、まず私に連絡をくれ。ナオミへ。』 

 ナオミはカーテンを少し開けて窓から夜の空を眺めた。人のいいピエールが月に輝く雲に写っているようだった。ナオミはクスッと笑い携帯をぎゅっと抱きしめてからそっと机の上に置いてベッドに戻った。

 程なくナオミの柔らかい吐息が部屋の高い天井を優しく漂った。 


「そこだ。そこからもう一度コマ送りしてくれ。」ミロシュは再生されている画面に食いつくように見入っていた。

「どう思う?」

「どう思うって、私の意見は最初から同じですよ。ミロシュさんが言うように見れば確かにそう言う風にも見えなくもないですが、その羽根のように見えるのはほんの3フレームですから、やっぱりこれは光の陰影で一瞬そう見えるだけかと思いますね。まあ、映画とかテレビのVFX風ですが、それならもっときちんと描くだろうし。」一緒に画面を見ているオペレーターは納得がいかないと不満そうなミロシュの横顔を見た。

「どいつもこいつも…。」ミロシュは小声でそう言うと大きくため息をついた。「とりあえず、この3フレーム分の画面をキャプチャーして印刷してくれ。もちろん、前後を含めた30秒をカードにコピーしてくれ。それで今日は終わりだ。」

 かれこれ3時間以上も同じ動画を行き来させていたオペレーターはやれやれと言う表情でパソコンを打ってプリンターの方へ席を立った。一人残ったミロシュはボソッと呟いた。

「待ってろよ。必ず暴いてやる…。」 


 次の日の夕方近くのオーガニック8は、昼食どきとは打って変わって閑散としていた。今日はみんながここの奥の小さなテーブルを囲んでいた。オルガはそんな若者たちのさえずりをBGMのように聞きながら夕食どきの準備をしていた。 

 傾きかけた日が入る光を浴びてエヴァは少し興奮気味だった。

「舞台はクレメンティヌムと言いたいところだけど、あそこはなかなか許可が下りないの。で、ストラホフ修道院の『哲学の間』。教授がなんとかしてくれるって。」台本のコピーを皆んなに配った。   

「すごい。あそこも相当素敵よぅ!」デイヴィッドの声は相変わらず甲高い。

「とはいえ、撮影はたったの2日間。しかもあそこは1日だけ。まぁ予告編だからね。貸してくれるだけ御の字かな。でも一番肝心なところだし。まぁ、うまくいけば、本編の時にはそれなりに自由に使わしてくれるといいんだけど。」そう首を傾げながらもエヴァの目はキラキラしている。

「で、どんなあらすじなの?」ペトラはパラパラと台本をめくった。。

「うん、これは、ある冴えない大学の新米講師の話なの。」

「え? ダメ講師?」 

「そう。それがナオミ、あなたよ。」

 確かにエヴァから役のオファーは受けていたが、ダメ講師とは。ナオミはキョトンとエヴァを見返した。

「新米早々ゼミを持たされるんだけど、からっきしダメ。学生に舐められてばっかり。つまり、性格はいいんだけど、あまりに杓子定規で彼らの心を引き止められないの。」

「それって…。」 

「そう、ある意味今の大学を皮肉ってもいるんだけど…。でも、若い彼女はそんな空回りしている自分を何とかしなきゃって思っているわけ。」エヴァは舌を出してウインクした。

「そこは、建設的というか願望ね。今の多くの教授たちはこんなもんと思っていて努力していないもんね。」ペトラがフンと鼻で笑った。

「ある時、その彼女がトラムの乗り降りで苦労しているおばあさんを助けたら、『哲学の間』に行きなさいって教えてくれたの。きっと何かが見つかるよって。」

「ふうん。」

「そこで彼女はその図書室に行くわけだ。」

「そして、そこで偶然見つけた本が彼女を変えて行く。それは…。」

 デイビットが身を乗り出した。

「昔から伝わる最新モードの秘密の着こなし方の指南書でしょ?」

 エヴァは大きく首を横に振った。そして人差し指を自分の唇の前に当てて小さな声でゆっくりと言った。

「それは、禁断のチェルトとの契約書のファイルだったの。」

 ペトラは目が点になり、デイビットは開いた口を手で塞いでいる。ナオミは目をつぶって何かを噛み締めているようだった。そんなみんなを見ながらエヴァは続けた。 

「つまり…、彼女は何かの力で魅力的になり、バラバラだったゼミ自体もどんどん変わって行くんだけど…。彼女はそのあと、現実とチェルトのおとぎ話の世界の狭間で…。」

「うがった見方すれば、ちょびっと大学の宣伝っぽくない?」ペトラはいつになく冷静だ。

「だから選ばれたのじゃないわよねぇ? でも面白そぅ!」ストローに口をつけながら瞬くデイヴィッド。

「確かに、そうもいえなくもないか。でも、それはそれ。予告編は『哲学の間』で彼女がその本を発見して…。」

「面白そうね!」ペトラの口の周りにはチョコレートアイスが付いている。

「お願いができればデイヴィッドには衣装を、ペトラには音楽を担当して欲しいの。」

「衣装ならお任せよ! 高級衣装を色々用意しちゃうわ!」

「高級の必要はないんだけど。」

「わかっている。そのシーンにあった意味ある衣装ね。ブランド物に隠れている意味で味つけしてあげるわ。任せなさいってばぁ!」

「私、真剣に作曲したことはないけれど、でも面白そうね。できるだけやってみる。まずは台本しっかり読んでイメージを固めないとね。」

「コテコテの必要はないと思うの。シンプルだけど…。」

「心に響く…。私の最新の失恋経験もちょっと入れてもいいかしら。」

「うまく合えば…。」エヴァは少し考えて言った。「いいと思うわ。面白いかもね。」

「で、ダメ新米講師は何が専門なの?」ナオミは小さい声で聞いた。

「児童心理と児童文学。わかりやすく言えばおとぎ話かな。」

 ナオミはエヴァの話に青ざめたが、さらに血の気が引いていくのと同時に脈拍が高くなる自分を制御しようとエスプレッソを飲み干した。

「それって…。」 

「さすがナオミ。もう役になりきろうとしているのね。あなたの親友のミロシュさんからインスピレーションを少しいただいたの。」

 ナオミはさらに固まって黙ったままだ。

「最近の子達、いいえ、いい若者や大人たちでさえ、なんだか新しいものばかり追っていて、昔からの話をコマーシャルベースでのみ理解しているでしょ? 私はそれに警笛を鳴らしたいの。もちろん、そんな大げさなものじゃないんだけど。ほんの少しでいいから。」

「確かに。言い伝えとかいつの間にか忘れ去られているどころか、陳腐なものに見えてきて、そう、置き去りにされているって感じよね。」いつ来たのかエプロン姿のオルガがナオミの脇に寄り添うように立って腕組みしてうなづいていた。オルガはここ最近ナオミに起きたことをピエールから何と無く聞いていた。

「みんなどこかではわかっているのかもしれないけど、楽しいことや、世の中の速い流れ、善悪がごちゃ混ぜになった大量の情報、押し寄せるものに埋もれて行くままに任せちゃっているから、どんどんおとぎ話なんかの重みがなくなっていくような気がするの。そう、いつのまにか形を変えて…。」エヴァの話は静かではあるが、どこかに忘れてはいけないものを感じさせていた。

「でも、古いままで凝り固まっているのもよくないし、それなりのアップデートも必要だとは思うけど。」とペトラ。

「あら、言われるがままっていうのもねぇ。大きい流れというか、人気のあるものだけを追いかけていると、やっぱり何か大切なものを忘れてしまうかもしれないわぁ。そう、実はうちの店なんかそんな流れの最たるものかもしれないのよねぇ。って、えぇ?」自分の口から出てきた発言に少しびっくりしているデイヴィッド。

「ナオミ?」

 ナオミはそうエヴァに聞かれてハッと我に返った。彼女のテーマとは同じようでも自分の実際の立ち場は違う。しかし、それはまさに自分に問いかけられていることに違いなかった。 逃げることは簡単だ。今ここでスパッと断ればいい。だが、今こそ立ち向かわなければいけないことなのかもしれなかった。固まっているナオミを見下ろしているオルガは、優しくナオミの肩に手を置いた。ナオミがオルガを見ると、彼女はいつになく優しい微笑みでナオミを見た。

「本当に、私がその役をやっていいの?」ナオミは深い瞳で改まってエヴァを見つめた。

「もちろん。」エヴァの眼鏡の奥の眼差しにナオミは惹きつけられる自分を感じた。それは、どこかそこに頼ってもいいという不思議な安堵感だった。ナオミはゆっくりと瞬きをしてエヴァを見つめた。 

「私、やってみるね。よろしくお願いします。」

 いや、ナオミの心はやらなければならないと自分に言い聞かせていた。それは、仲間同士の連帯感と同時にそれぞれの自分たちへの挑戦かもしれなかった。

  


 真人とラダナは手を繋いで家の近くの森を散歩していた。夕暮れも深くなりあちこちで鳥のさえずりがこだましている。多くの木々が暗くなってきた空に向かってサワサワと揺れている。どこかで二人の足音を伺っているバンビがいる。小さな丘を越えるとそこにはいつもの岩場がある。真人が先に登ってラダナを引き上げた。そしてぎゅっと抱きしめた。ラダナも顔をうずめながら真人にしがみついて彼の瞳を見つめた。

「俺たちは、間違ったんだろうか?」真人は真剣な面持ちでラダナを見つめた。ラダナはゆっくりと瞬きをしてゆっくりと首を横に振った。

「私たちの愛はどんなものよりも強い。きっと強いわ。」ラダナの瞳はいつになく碧かった。 

「それに、ナオミももう子供じゃないわ。」

「と言うと?」

「自分で悩んで、自分で解決できるはず。甘やかしてなんかいないし。」

 真人は黙ってうなづいた。

「だって、私たちの子供だもん。」ラダナは背伸びをして真人にキスをした。柔らかい風がラダナの髪を撫でていく。

「言うことを聞かないことだってあるし、意見が違って喧嘩することもある。生意気なことだって言う。」

「女同士のいざかいも?」真人は苦笑いしてラダナを見つめた。

「ふふ、そんなのもあるわね。でも…。」

「でも?」

「でも、それは、自分というものがあるからでしょ。」

 真人はラダナの髪を優しくすいた。

「それに、きっとルチフェールも気になって僕らのことを見ていると思うよ。時々ね。」二人の足元から声がした。 

「アンディー!」 

 二人が立つ岩場の根元にアンディーが買い物袋を下げて立っていた。

「今日は僕が夕食を作ろうと思ってね。どうせ、まだなんの準備もしていないでしょ?」

 ラダナがぺろっと舌を出して真人を見た。 

「先に行っているよ。下準備しなきゃ。ごゆっくり。」アンディーは笑顔を残して歩き出した。

「いつのまにか、あなたにそっくりになったわね。」

 ラダナはかかとを上げて真人にもう一度キスをすると、さっと岩場を下りてアンディを捕まえて腕を組んで歩き始めた。真人はそんな森の中を歩く二人がとても素敵に見えた。空を見上げると近くの木に止まっていた黒い大きな鳥が首を傾げてバサっと飛び立った。それを見送った真人はそそくさと岩場を下りて二人を追いかけた。 


 薄暗い会議室でプロジェクターから投影された動画がフリーズした。何人かがおおっと声をあげた。

「そうです。実在するんです。残念ながら、鮮明とは言えませんが、これはわかりやすいようにクロマとアンビエンスを多少ボリュームアップしています。しかし、最近の映画に欠かせないVFXなどではありません。」ミロシュはスクリーンの前に立ってまばらに照らされながら拳をぎゅっと握った。

「確かに、その証拠となる瞬間にいて、それを掴むのは至難の技かもしれません。しかし、目の前に存在するのです。私たちは彼らと仲良くなるか…、いや捕まえて、その生態を調べる必要があるのです。」

「ミロシュくん、君は…。」上司らしい男が何か言おうとしたが、

「ええ、捕まえて見せます。もう尻尾は、いや、チェルトの羽根は見えているんですよ。」とミロシュは今まで以上に自信ありげにニヤッと笑った。

「それは、我が国の大きな特徴であり、それが、科学の道だからです。そして、ご存知のように私たちの部署が独立していられる最後のチャンスです。おとぎ話などと呑気なことを言っている時ではないのです。そう、今でしょう?」ミロシュはきっとした表情で座っている面々に目を配った。

「だから、もう少しだけ時間を。」

 少しの沈黙の後、上司が口を開いた。

「我々の部署存続の裁定の日程は動かせない。だが、それまでは我々の自由だ。ミロシュ。」 

 小さくざわめく部屋の中にパラパラと拍手が聞こえた。



 なんとなく明るくなってきた早朝。いつもより暖かいのかカレル橋は霧に覆われてその美しさがさらに際立っていた。開店3時間前のデイビットのお店の奥にあかりが灯っていた。

「みんな、朝早くからありがとう。じゃあ、衣装合わせを始めます。じゃ、ナオミさん。」まだ眠そうなナオミはキリッとしたエヴァの前にちょこんと座った。

「シーンは3つ。トラムで1つ。大学のゼミで1つ。そして、図書館で1つ。そして…。本来ならば、本編を撮ってそこからトレーラーを作るんだけど、これは選考のためのダイジェストだから、あくまで台本からの抜粋なんだけど…。もしかしたら、服装は一つでもいいかもしれない。ただ、別日という設定の可能性もあるから、一応ね。」 

 ナオミがうなづくと、ハンガーにかかった服を整理していたデイヴィッドが喋り出した。

「基本的には1つを除いてみんなシンプルでダサい感じの服装にしたわ。そう、イケてない感じ。もちろん全部ブランドものだけど。その方がわかりやすいのよね。方向が。例えばこれ。ブランドものだからって着ても、どこかおばさん臭さが漂っている。」

エヴァがじっと見ている。

「でもねぇ、それだけじゃと思って、どこかに変われるんじゃないかっていう原石の光みたいなものは見えているようにしたの。ナオミ、こっちに着て着替えて見て。」

 ついたての後ろで着替えたナオミが出てきた。 

「ナオミはスタイルがいいから、全部似合っちゃうけど、どこかずらしてあげることによって、ほら!」

「確かに、着こなしてない感じがダサくていいね。」

「あとはアクセサリーによってその度合いを調整できる。」デイヴィッドがいくつかテーブルの上に置いた。ナオミは何着か試着したが、どれもがエヴァを満足させていた。

「もちろん、なんかあった時のために、何着か同じようなものを用意してあるから大丈夫。」

「デイヴィッド、ありがとう。イメージぴったりよ。」エヴァは彼に投げキッスをすると、彼はイエ〜イと歓声をあげた。 

「で、髪型とメイクなんだけど。」

 メイク道具を準備しているヤナが振り返ってナオミの横に立った。

「ナオミ、ちょっと座ってくれる?」

 そういうとナオミの髪を優しく掻き始めた。

「最初から後半までの髪型は事務的に後ろで束ねてるけど、最後はおろして…。そう、こんな風に。化粧は空回りして疲れている感じ。そして本を見たときに、何かが変わる感じね。そのあとの1シーンでは、パンクとインテリジェンス、そして、ちょっぴりセクシーのハイブリッド。でも、これは本番用に取っておこうかと。」 

 確かにインスタントなメイクではあったが、十分にそのイメージが伝わってきた。 

「ヤナ。あなたができるのはハードなパンクだけかと思っていたけど。」ナオミは遠慮なく聞いた。 

「私、刺青女になる前に、色々とメイクとか髪型とか勉強したの。素敵な女に変わりたいってね。結局、あいつと出会ってからこんな風になっちゃたけど、でもそれはそれ。今こうやってあの時のことが役に立つなんて思ってもいなかった。」ヤナは恥ずかしそうに、でも嬉しそうにナオミを見た。

 エヴァが黒縁のメガネを持ち上げて大きくため息をついた。

「みんな、ありがとう。出来過ぎだよ。」

「エヴァ。私のモチベーションというか、感情なんだけど…。」ナオミはエヴァを覗き込んだ。

「そう。ナオミのことだから、台本からだいたいのことはわかっているとは思うんだけど…。あなたはというか彼女はこうなの。とにかく自分のやっていることに一所懸命なんだけど、優しいのかな、彼女は周りのことに気を使いすぎて、自分の持っている輝きに気がついていない。そんな女なの。学生のみんなをなんとかしようとか、彼らの興味を見出そうとか、そんなことで空回りしている。頭が良いだけに余計ね。でも、一番大切なのは、自分を発見することなの。それに気がついていない。そうね、実はそんなことはどこにでもある普通の悩みごとなのかもしれない。この短編映画が映画たるところは、その自分を発見するにあたって、チェルトが関わってくるところ。そこが大切なお話。そう、チェコの伝統的なおとぎ話であり、モダンな映画なの。」

「自分が変わることができる…。」

「そう、変わるというより、自分に気がつく、自分のやりたいことに気がつくかな。って言ったほうがいいかもしれない。それによって全てが自然に変わっていける。そうすると、今までなかった魅力が発散される、うん、滲み出てくるのかな。」

「でも、そこにチェルトが絡んでくるんでしょ?」

「ちょっと厄介だわねぇ。」デイヴィッドは口をとんがらかした。

「あら、だから面白いのよ。」ヤナがニヤッと笑った。「人間は生活してくるといい面と悪い面の両方を知るようになる。そのバランスの危ういところにつけこんでくるのがチェルトじゃない?」 

「そう。彼女は哲学の間でチェルトとの契約書のファイルを見つけるの。それを読むと、どんな状況でチェルトと契約してしまったがわかるの。で、そこに現れるのは…。」

 コンコンとお店の入り口を叩く音がした。エヴァがみんなに首を傾げてよっこいしょっと腰を上げた。そしてレッドソックスの野球帽をかぶったちょっとおしゃれな紳士?を連れてきた。  

「紹介するわ。今回特別出演してくれる、俳優のブラジミール。」

 その男は帽子を脱いでおはようございますと丁寧に一礼した。

「まさか…。」その場の空気が一瞬フリーズして彼にスポットライトが当たっているようだった。 

「みなさん、よろしくお願いします。ほんの少しですが若い君たちの少しでも力になれればと思って。」

「ギャラなしの特別出演なの。」

 顎がガクガクしてるデイヴィッドはその男にギクシャクと寄って行くと目をかっと見開いて舐めるように見回し「本物!」と言うや否やキャーッと悲鳴をあげて床に倒れた。ヤナが慌てて彼をを抱き上げて介抱した。

「ナオミくんだね。演出のフランチシェックと女優のシモナから聞いているよ。よろしく。」

 彼はすっと手を出して、二人は握手をした。見た目より柔らかい手の平をしていた。

「あなたの役どころは…。ルチフェール。あの本を手にしたナオミに声をかける。ジェントルにね。」エヴァもまんざらではないようだ。 

「光栄だ。素敵な役どころに感謝するよ。」細身の割にはしっかりとした渋い声だ。

「台本を読ませてもらったが、とっても興味のあるものだ。なんていうか、今時のチェコに欠けているというか、欠かせない、そう、僕たち庶民が忘れてはいけないもの。そんな気がしたな。うん、ある意味難しいかもしれない。でも、やりがいがありそうだ。楽しませてもらうよ。いや、楽しめればいいなと思っている。」年甲斐もなく少し照れながら彼は頭をかいた。

 ぼーっとしたデイヴィッドが近寄ってきた。

「あの、サイズだけ計らせてください…。」

「もちろんだよ。」すくっと立ったブラジミールは彼の手を握ると、「よろしくね。」とニヤリと見つめてウインクした。

 デイヴィッドは力が抜けて夢心地で再び床に倒れ込んだ。


 マスターとピエールはそんな話を聞いて大笑いをしていた。

「しかし、それはすごいゲストだ。大物役者だね。人気もあるし、撮影の時には見学に行ってもいいかな? わしもしっかりと差し入れをするぞ。そうだ、うちがケータリングをやろう!」

「え? それって?」

「もちろんズダルマ(無料)! まぁ、今日から毎日来ていっぱい頼んでくれればだが。」

「えええ⁉」

「ガハハハ、とりあえずビールだな!」マスターが振り返ると入れ違いにいつもの面々がやってきた。

「お疲れ様。今日は朝からありがとう。」エヴァがナオミにうなづいた。

「ブラジミールの件があったから朝早くだったのね?」あっとナオミが手で口を押さえた。エヴァは苦笑いをして頭を掻いている。

「ひど〜い。私もその場にいたかった〜!」ペトラが甘い声を出した。

「まぁ、サプライズだったからみんなに言えなかったんだ。」エヴァは眉毛を上下させた。

「でも、紳士よねぇ。どうせあんな奴、素敵なのは画面上だけで鼻高々なのかと思っていたけど、普段でもあの魅力ぅ。骨抜けちゃったわぁ。」デイヴィッドの目線が遠い。

「介抱したのは、私なんだからね。重かったぁ。」ヤナがデイヴィッドを小突くとみんなの笑いが広がった。

「乾杯の前に、ハイ。ちょっと作ってみた。」ペトラがエヴァの両耳にヘッドホンをかけた。びっくりしたエヴァを見つめてペトラは指をあげて人差し指を唇の前にそっとかざして携帯のプレイボタンを押した。 

 それは、しっとりとしたテンポから始まった。細く清らかなせせらぎが小さく光りながら流れている。やがてあちこち曲がりくねって次第に力強い流れになっていく。そして最後は滔々と流れるヴルタヴァのように威厳を見せている。短くも内容のある曲だった。

 エヴァはヘッドホンをとってペトラをみた。

「感じはいいと思う。すごくいいわ。でも、もう少し何かが欲しいかも。荘厳さも大切だけど、聴いてる人と共にあるって言うか…。曲って映像には出てこないけど、映像のイメージを補完する、ううん、その映像と同等以上に大切なものだと思うの。音楽は人の心を強く左右する。つまり、まさに映像のイメージを作る。人の心に焼きつくからね。だからペトラ、まだみんなには聞かせないで。できれば、撮影前に曲を決めたいの。そして、撮影前にみんなに聞いて欲しいと思う。聞かせたいの。そうすると、きっと同じイメージを共有できる。」

「大至急ね。」彼女はエヴァの真剣な眼差しにごくんと唾を飲み込んだ。

「ハァイ! 音楽監督さんの作った曲はどんなのかなぁ〜。うちのビールも負けていないぞぅ!」マスターがジョキにビールを持ってきた。 

「茶化さない、茶化さない!」

「よし! みんなの成功を祈って、乾杯だ! ナズドラビー!」マスターが先導して奇声をあげた。ぐびっとみんなでいっぱい飲んだ後、ピエールは普段のナオミにないどこか緊張している表情に気がついた。

「ナオミちゃん、いつになく気合が入っているのかい? それとも?」

「うん。みんなに迷惑かけられないし、それに…。」

「それに?」

「このテーマ、とても自分にあっているような気がするの。それだけに自分の意識以上に何かが働き出したっていうか。」

「?」

「うまく説明できないけど、そんな感じ。」不安と期待と決心が混じったその表情はまるで幼い頃のナオミをみているようでピエールは思わず抱きしめたい衝動に狩られた。が、

「も、もう一度乾杯しよう。」そう言うのが精一杯だった。 

 ナオミはコツンとピエールのジョッキをぶつけた後にピエールに抱きついて彼のおでこにチュッとキスをした。

「だ、大丈夫。君ならできる。」僕がついているという言葉はビールとともに飲み干した。

 デイヴィッドがエヴァに何かを提案している。

「ブラジミールには、ジェントルで素敵な衣装を用意しなきゃね。さっと見繕って店にあるもので組み合わせてみたんだけど。」タブレットで撮った写真を何枚か見せた。

「彼にはやっぱり威厳を感じさせないとね。押し付けがましくない、そう、シックな。」

「でも、やっぱりどこかおしゃれな方がモダンなチェルトよねぇ。」デイヴィッドは目をくるりんと回して一考した。

「そうだわ! この私のスカーフを2番目の写真のジャケットに合わせると、ほら、ス、テ、キ。」

「いつも一緒に居られるしね。」ヤナがまた口を出した。

「やダァ! わかっちゃったのぉ?」顔が真っ赤になっている。

 エヴァはメガネのツルにてをかけながらイメージした。

「確かに、どこかモダンでおしゃれなルチフェールね。いい感じ。」

 デイヴィッドはキャーとまた歓声をあげてヤナとハイタッチをした。


 居酒屋ポハートカから二人の男が出てきて近くの車に近寄ると運転席の窓がスーッと降りた。

「まるでガキどもの学芸会ですな。本当にあんな奴らを見張ってて意味があるんですか?」

「ご苦労様。まぁ、今は盛り上がるだけ盛り上がらせておけばいい。とにかくあの女を見失うな。」

「どちらかというと、あのバカマスターの方が低脳なチェルトって感じだな。」タバコに火をつけながら車に寄りかかって男は鼻で笑った。

「ピエールというあの若造警官も完璧にいかれてますな。あんな隙だらけな奴、同業者として恥ずかしい。」

「程度が低いだけだ。あいつにインテリジェンスなどないよ。あと数日だよろしく頼む。」

 スルスルと窓が上がるとその車は発車した。二人の男は別な車に乗り込むと居酒屋の入り口付近を注視した。 

 しばらくするとエヴァを先頭にみんなが出てきた。

「じゃあ次の日曜日の朝。そう、日曜日の朝はトラムの客が少なくて撮影には都合がいいわ。」

「日曜日なのに朝早いのねぇ。」デイヴィッドが目をこすりながらおちゃらけた。

「撮影よ! 彼のミュージックビデオの時は3日間徹夜だったわ。」 

「任せておけ。なんなら朝ごはんから用意するぞ! 夜食もか?」マスターは腕まくりしてドンと自分の胸を叩いた。

「徹夜にはしたくないけどね。うまくいくように頑張ろう。」エヴァが冷静に言ってペトラに振り返った。

「わかっている。大至急曲を仕上げるね。」

ナオミが手を挙げた。その笑顔の表情には強い意志が見えた。  

「みんな! 頑張ろう。」そうナオミが声をあげると、イエーイと声をあげながらみんながその手にハイタッチしてそれぞれの帰路に着いた。そして、最後にピエールがナオミの手を握った。

「送っていくよ。大切な女優さんに何かあったら大変だからね。」 

 マスターが笑顔でウインクしている。

「ありがとう。」そう言って二人は歩き出した。

 ナオミの住んでいるレトナーに行くにはこの旧市街広場からパリ通りを通って橋を渡るのが近道だ。プラハの中心街は観光客が多い。それでもさすがにブルタバ川の辺りまで来ると日中とは違い人がまばらになってきた。橋の上からはライトアップされたプラハ城や聖ビート教会が見える。2人は川を渡るとそのまま大きなメトロノームの立っている丘に登る階段を黙って手を繋いで登った。広場になっている頂上からは市内一望を俯瞰で眺めることができる。あちこちの尖塔がライトアップされて街が宝石のように輝いて見える。

「綺麗ね。」

「ああ。」

 二人は肩を並べてそんな街を見ていた。ナオミはピエールの方を向くと何も言わずに突然両腕をピエールに回して、ぎゅっと強くきつく抱きついた。 

「ナオミ。」彼は突然のナオミの抱擁にどうしていいかわからなかった。 

「お願い、何も言わないで私を抱きしめて。」

 ピエールはゆっくりとナオミを強く抱きしめた。 

「あぁっ。」とナオミの吐息が漏れた。二人の顔が近づいて、二人の唇が触れそうになった瞬間、ナオミは静かにピエールから離れた。 

「ありがとう。もうここから一人で帰れるわ。大丈夫。」ゆっくりと瞬きをしたナオミの表情は優しくもどこか研ぎ澄まされていた。ピエールはその美しさに吸い込まれそうになりながら黙って彼女を見つめた。

「気をつけて。」そう言うとピエールはナオミをぐいっと引き寄せておでこにキスをした。

「必ず休みを取って応援しに行くからね。」

 ナオミはピエールの腕の中でこくんとうなづいた。


 アパートのある緩い下り坂の通りを歩いていると建物の入り口に2人の男の影が見えた。まるで、誰かを待ち伏せしているようだった。ナオミは足を緩めて注意深くゆっくりと近づくと、それは見覚えのある2人。しょうがないといったポーズで両手を広げている。

「あぁ、ナオミ! いいところに帰ってきた!」

「助かったよ!」トマーシュとアダムだった。

「いや、俺たち今日に限って鍵忘れちゃって! どうせ誰かが早く帰ってきているだろうってタカくくっていたら、ほぼ同時刻。」呆れた顔で見つめあって苦笑いしている。

「2人とも同時に忘れるなんて!」ナオミはやれやれと二人に軽くキスをして入り口の扉に鍵を差し込んだ。

「あれ?」扉が開かなかった。

「どうした?」

 ナオミは刺した鍵をさらに回すと扉は開いた。

「ここに住んでいる住人でしっかり鍵をしていく人なんていたっけ?」

「さぁ、俺は知らんな。」

 建物の入り口の扉はオートロックで外出する住人は内側の電磁ボタンを押してジーとベルが鳴っている間に出ていって鍵などしない。鍵をするとその機能は使えなくなる。

「まぁ、そんな用心深い奴がいないわけではないだろうが、めんどくさい奴だな。内側からも鍵が必要になる。」

「でも、それだったら鍵の忘れ物はしなくなるけどね。」 

「確かに!」二人は向かい合って笑った。

 今まではこんなことはなかったということは、新しい住人が引っ越して来たか、あるいは…? ナオミは少し違和感を覚えて薄暗く高い天井の冷たい廊下をカツンカツンと歩いて自分たちのアパートの扉を開けた。あれ? こちらは外から鍵をかけた形跡がない。扉は普通に開いた。

「不用心よ。最後に出たのは誰だっけ?」という間も無く2人は中に入っていた。 

「いやぁ、助かったよナオミ。」アダムはそう言いながら玄関の電灯をつけた。靴があちこちに散らかっている。

「おい、なんだこれ? アダム、お前、そんなに慌てて出て言ったのか?」呆れているトマーシュに首を横に振るアダム。ナオミは小走りでリビングの扉を開け電気をつけた。めちゃくちゃに荒らされている。

「泥棒か!」アダムとトマーシュは自分の部屋に掛けて行った。

「あれ?」「おや?」同時に聞こえて来た。二人が部屋から顔を出して首を横にふった。

「大丈夫だよ。俺の部屋は。」

「ナオミ、お前の部屋は?」

 ナオミは自分の部屋の前に立っていた。曇りガラスの向こうには点いているはずのない灯りが灯っているようだった。 

「ナオミ、灯りを消し忘れたのか?」トマーシュが聞いた。ナオミは首を横に振った。アダムがしーっと人差し指を口に当てながらそっとナオミの部屋の扉を開けた。暗い部屋の中の真ん中にほんのりとスポットライトが当たっていた。そこには可愛いチェルトのぬいぐるみが首吊りの縄がかけられている状態でポツンと椅子に座らされていた。

「なんだこれ?」と言いながらアダムは部屋の電気をつけた。照らされた部屋はこれでもかというくらい荒らされていた。ナオミは声が出ないままそこにひざまづいた。

「ひどいな。ナオミの部屋だけ。それにしても。」

「あぁ、なんなんだ? このチェルト?」

「何かのメッセージか?」

「泥棒が?」

「ちょっと待った!」トマーシュがカバンから変な機械を出して起動した。何も喋るな!とその小型の機械を持って部屋の中をうろうろし始めた。ナオミの部屋、リビング、キッチン、バスルーム、アダムの部屋、そして自分の部屋。全ての部屋を回って携帯電話を少し大きくしたような箱をいくつか集めてきた。そして、キッチンのシンクに水を貯めてそれらを沈め2人に目配せした。

「これは泥棒なんかじゃない。僕たちは監視されている。」

「ハァ? またどうして?」アダムは理解できないと両手を広げた。

「多分それは、ナオミが知っている。」トマーシュはナオミを伺った。

「その前に、なんだその機械は?」アダムが不思議そうに聞いた。

「ああ、初めて役に立ったよ。盗聴、盗撮器探知機。うちの会社のボスが臆病者でね。デザインやアイディアを盗む産業スパイがそこここにいるからって会社の会議の始まる前に必ずチェックするんだ。まぁ、ギーク好きのオタクっぽいところもあるけど。え? 会社では一度もこの機械が反応したことはない。だけど、今、ピーンときたんだ。」

 トマーシュとアダムはナオミを見つめた。

「ナオミ…。」その声は優しかった。 

 ナオミはゆっくりと立ち上がって2人を見つめた。その立ち姿はなんとも神秘に満ちていた。と、ピンポーンとベルが鳴った。

「あっ、」とアダムが玄関に向かうと、一人の老婆が既にドアの内側に立っていた。

「ナオミはいるかい?」ここにきて更に変な客だ。あっけに取られているとその老婆は勝手にズカズカ進んでナオミの部屋に入って行った。

「ナオミ、誰だこのばあさんは? 知り合いか?」

 ナオミはそれが誰だかすぐにわかった。

「その人は…、ババヤガよ。」

「? ババヤガって? あの?」

 ナオミは無表情で首を小さく縦に振った。

「そ、そんなの現実にいるのか?」トマーシュは何が何だかわからないといった表情をしている。

「どういう関係なんだ? ナオミ、君は魔法使いなのか?」アダムは冷静に事を伺っていた。いや、すでに半分は理解しているようだった。

「違うよ! あたしとは違うんだ!」ババヤガは渋い声で薄ら笑った。 

「でも、どうしてあなたがここに?」アダムが聞いた。

「心配になったんだよ。同胞として。」

「同胞?」

「じゃぁやっぱりナオミは、魔法使い?」

「違うって言ってるだろう!」ババヤガは2人の男たちをギロリと見た。そして3人はナオミの方にゆっくりと振り返った。ナオミはすくっと立ったままだった。ババヤガの声が漏れた。

「感じるんだよ。同じところ。そう、おとぎ話の世界をね。」

「おとぎ話?」アダムもトマーシュも体がゾワゾワしてきていた。

「どういうことなんだ、ナオミ?」 

 コンコンと今度は窓から音がした。黄色い目が光っている。窓の隙間から黒い子猫が入ってきた。ババヤガはウンウンと軽くうなづいた。子猫はナオミの足に体を擦り付けてババヤガを見て軽くフーッと毛を逆立てた。その場の空気が一瞬凍ったようだった。

 ナオミは下を向いて硬直しているように見えたが、顔を上げると、意を決したように口を開いた。

「みんな! 私、私は、人間じゃないの。」

「えぇ?」

 トマーシュとアダムは驚くと同時に困ったような表情を見せた。

「人間じゃないって…。」

「う、宇宙人?」

 二人にはナオミがとても大きく見えた。そんなナオミは首を横に振った。ババヤガは黙ってナオミを凝視している。

「ううん、実は…、チェルトと」

「チェ、チェルト?」

「チェルトってあの?」

 ナオミは軽くうなづいた。

「最後まで聞いて。」真剣に2人を見つめ、ゆっくりと瞬きをして今までにない微笑みを浮かべた。。

「私はハーフなの。チェルトとエンジェルの。」そう言うと、黒紫に光る薄い羽根をパッと広げて床から少し浮かんで見せた。二人は目を見開いて、信じられないと言う面持ちでゴクリと唾を飲んだ。

「なるほどねぇ。コリャ新しいね。」ババヤガはさもありなんという表情でペシンと膝を打ってナオミをニヤリと笑顔で見つめた。

「あたしゃ、あんたの味方ではないけど敵でもないよ。ただ、あんたのこと嫌いじゃないからね。相談することがあったらいつでもあたしのレストランに来な。」そう言ったかと思うとくるっと向きを変えて部屋を出ようとしたところで再び振り返って右手を振りかざした。いつのまにかビニール袋を持っている。

「この前渡したお土産は持って帰るからね。」袋の中の目玉が苦笑いしているようにナオミには見えた。 


「相当びっくりしているようだな。ハハハ。ありゃ? なんだこの調子悪いモニター。いや、カメラか? 全部写りが悪いぞ。フリーズしたと思ったら真っ黒だ。おい、受信状態がいけないんじゃないか?」 

「デジタルになってから砂嵐はありませんが、受信状態が悪いとこうなんですよ。ブロックノイズか闇か、或いはフリーズか。ちくしょう。」

 運転席に座っている男はエンジンをかけて車を建物の角からそろりと表通りに出して坂になっている建物の入り口の前にハザードを出して止めた。

「これならトランスミッターの信号を遮るものはないはずですが。」 

2人でモニターの写り具合を見ていると、コンコンと何者かが窓をノックした。スルスルと窓を開けるとそこには見慣れない老婆が馴れ馴れしい笑顔で立っていた。

「地下鉄の駅はどっちかね?」

「うるさいな! 今それどころじゃないんだ。あっちへいけ、ババァ!」中指を立てながら窓を閉めた。老婆はしばらく車の中の2人を覗き込んでいたが諦めて坂をトボトボと下り出した。そして、車の方を少し振り返りながら持っていたステッキで地面を軽く叩いた。復帰しない映像にああだこうだと囚われている2人はサイドブレーキのインジケーターがスッと消えたのに気がつかなかった。車はゆっくりと坂を滑り出し、男たちが異変に気がついた時には、先の交差点に駐車している車に猛スピードでぶつかる直前だった。

「ウワァー!」ドカーンという音と共に煙が上がった。

「今の車はたいそう安全にできておるのう。」大破した車のエアバッグが膨らんだ様子を見てババヤガはくくっと笑った。


「どう言うことなんだ? チェルトとエンジェルのハーフって。」

「まさか、君のお父さんがチェルトで、お母さんがエンジェル。ってことか?」

 ナオミはスッと足を床に降ろしてうなづきながらお辞儀した。

「ごめんなさい。今まで黙っていて。私…、」

 そのどこか凛々しい立ち姿とは対照的に哀しいナオミの表情に2人はしばらく黙っていた。が、顔を見合わせて思い出したように同時にキッチンに掛けて行ったと思ったら、ドタドタと慌てて帰って来た。トマーシュはビールを、アダムがグラスを持っている。

「と、とりあえず、乾杯しよう!」

その2人の滑稽な行動。ナオミの表情にクスッと笑顔が漏れた。 

 とくとくとくと金色の液体がグラスに注がれた。ちょっと不思議な時間だった。

「僕らのナオミに乾杯!」

「この瞬間と永遠に乾杯!」3人はグラスを重ねた。

 ぐいっと飲んだ後、ナオミのまぶたから透明な涙がキランと光った。

「おい! 誰だ! ナオミを泣かせたのは!」

「ナオミ、俺たちはお前の味方だ!」

「絶対に君を泣かせない!」

「もう一度、素敵なナオミに乾杯だ!」

「ああ、チェコの宝物に乾杯!」

「いいかい。俺は、いや、俺たちは、ナオミ! 何度も言うが、お前の仲間だ。そうだ親友だ!」トマーシュがアダムを見て同時にハイタッチした。

「ただ、もう少し話を聞かせてほしい。友人として!」

 ナオミは自分で自覚するようになってからの経緯をかいつまんでしかし、端的に話した。そして、妙な政府の機関に追われていることも。

「それは、のっぴきならないなぁ。」

「奴ら自分たちのことしか頭にないな、見世物にしようって魂胆だ。」

「今まで以上に気をつけないといかんな。」

 だが、ナオミは首を縦に振ってから横に振った。

「うん。それに関してはね。ただ、普段は普通でいることが大切なの。だって、これまで育って来たメンタリティーはみんなと同じなのよ。確かに個体としては違うけど、基本はみんなと同じなの。」

「そこいらへんは、クールにならないといけないな。」アダムが冷静に話し出した。「つまり、人間の部分とそうでない部分の使い分けをわきまえながらシームレスにやるってこと。」

「そう、というか、多分ナオミはできていると思うけど。な?」トマーシュはもっともだという表情をみせた。 

「これは、俺たち3人に言えることだ。俺たちも今までと同じにって意味だよ。」

「うん。私もわかっている。ありがとう。実は私、今こうして自分のことを理解してくれる人が身近にできたことで、すごくホッとしている。それをどこかで欲していたの。だから、とっても気持ちが落ち着いた。ある意味、これまで以上に普通でいられるような気がする。」ナオミはぐびっとビールを飲み干した。

「お互いのことを認め合い、それぞれの個人を尊重することが大切だ。」トマーシュはナオミのグラスにビールを注いだ。それを見ていた子猫がナオミの膝に乗って来てゴロゴロと喉を鳴らしながらスリスリしだした。

「おとぎ話の世界があるなんて素敵だね。しかも、目の前で!まさしくロマンだよ。ということは、ボドニークもいるってことか?」トマーシュは少しおどけて見せた。

「私はいると思うわ。ババヤガだっているんだもん。」

「た、確かにそうだ。しかし、お互いそういうことってわかるんだ。」少し、真剣な顔つきになった。

「うん。やっぱり違うってわかるの。」

 アダムはほぼ空になったグラスを持ってうなづいた。

「そうだな。神学にも新しい解釈、いや分野が必要なのかもしれないな。しかし、チェルトがいるっていうことは理にかなっている。と俺は思う。」

「お前は特別な子だけどな。素敵だよ。アンジェルとチェルトの…。」

「ハーフ。」

 アダムとトマーシュがかざしたグラスにナオミも自分のグラスを差し出した。

「ナズドラビー!」

 みんなが幸せで笑顔だった。不思議と違和感などコレッポッチもなかった。むしろみんなが満たされていた。そう、泥棒が入ったというのに。


 散らかった部屋を片付けたあと、このことは警察には届けないことにした。誰がこのような事をしたかは、盗撮カメラやそのチェルトの人形が自ら語っている。なんとも遣る瀬無い気持ちに心が潰されそうになる反面、シャワーのノズルから吹き付ける熱いお湯がいつになく気持ちよかった。アパートの同居人が自分を認めてくれたことへの安堵感がそれ以上に嬉しかったからだ。ナオミは渋く輝く羽根をいっぱいに伸ばして体とそして心を洗った。部屋に戻ると子猫がベッドの上でうとうとしていた。ナオミはその脇に座って携帯を打ち始めた。

『お兄ちゃん。大ニュース! 私の秘密がバレちゃった!』

『バレちゃったって?』

『同居人の2人についさっき。』

『なに! 大丈夫なのか?』

  画面ではアンディーが何か必死に書いているのがわかる。ナオミは少し間をおいて返信した。

『みんなで乾杯したよ。』とビールで乾杯の絵文字をつけて送った。

『!』

『みんな、私の味方だって! 素敵な事だって!』

『それはよかった。とりあえず安心だけど…。』

『でも…。』

『?』

『…部屋の中が誰かに荒らされていた。』

『なんだって? すぐにそっちに行くよ!』

『大丈夫。誰かはわかっている。』

『あいつか?』

『多分。というかきっとそう。こんなのがあった。』ナオミは縛られたチェルトのぬいぐるみの写真を送った。

『ひどい。間違いないな。…というより、挑戦っていう感じだな。』

『でも、ここの2人が守ってくれるって。すぐに盗撮のカメラも見つけてくれた。』

『心配だよ。』

『大丈夫! 私は強いわ! それより、そちらは?』

『ああ、今の所平和だよ。みんな元気だ。』

『よかった。』

『とにかく、何かあったらすぐに連絡しろよ!』

『ありがとう。お兄ちゃん。おやすみなさい。』ナオミはキスマークをたぁくさん送った。子猫を見るとコロンと転がってナオミを見ながら小さな両手をパタパタさせている。 ナオミは両手で子猫を持ち上げておでこをゴッツンコさせた。

「ルチフェールに合わせてねって約束したよね。お前も私のお友達でしょ?」 

「ニュアー。」愛くるしい表情や仕草はいつもと同じだ。

 ナオミは窓を開けて子猫を外に返した。ベッドの上に転がっている携帯が点滅している。

『全て大丈夫だよね…?』ピエールからだった。

『ごめん。ちょっとしたことがあったけど…』と打ったが書き直した。『ありがとう。全てOK!』

『明日の夕方デートしないか?』

『いいよ。で、どこに行くの?』

『ペトジーン。新しいカフェができたらしい。生ビールもあるよ。』

『それじゃぁ、15時半に校舎の前で。』

『申し訳ないが、私はそれには間に合いそうにないので、17時半にカフェで。ケーブルカーの頂上駅から展望台に向かうとその麓にある。カフェ・ラ・ボン。新しいからすぐにわかるよ。』

『了解! じゃ、明日!。』

『おやすみ。』

『おやすみなさい。』

 ナオミは携帯にチュッとキスをしてパジャマに着替えた。窓を見ると、子猫がまだこちらを見ていた。軽く手を振ってベッドに入るとパチンと電灯を消した。子猫は羽毛にくるまったナオミをじっと見ていた。一度はくるっと向きを変えたが、もう一度ナオミを見てカツンカツンと窓を引っ掻き出した。うとうとしていたナオミはその音に気がついて目をこすりながら窓を見た。子猫と目があった。そろそろと窓に近づいて窓を開けると、子猫はナオミにジャンプしてしがみついた。 

「そうか。今日は私のところで寝たいんだ。」

 ナオミは子猫を抱いて再び羽毛にくるまった。子猫も気持ち良さそうにナオミの首に頭をすり寄せた。 

「うふふ、くすぐったいよ。」

 ナオミは安心したこともあってか、あっという間に睡魔に襲われた。

 携帯がテーブルの上で光っていた。

『おやすみ ナオミ。ピエール。』

 

 ナオミはパジャマのまま裸足で窓の外側の狭いサンに立っていた。そよ風が裾を優しく撫でている。子猫がニカッと笑いながら見上げて

「さぁ、いくよ。」と言った。そしてナオミの肩にぴょんと飛び乗って首筋をぺろっと舐めた。キャッくすぐったいよと身を縮めたらバランスを崩して窓から落ちた。が、ナオミは無意識のうちに体制を立て直して建物の上空にいた。  

「どっちにいくの?」と左肩に乗っている子猫に聞くとフンと澄ましている小さな顔の割には大きな目をカッと開けると、そこから黄色いビームが照らされて行き先を示しているようだった。

「あ、そっちなのね。」ナオミはヒューンと夜のプラハの街並みを超えていくつもの町や村、川や森を超えた。遠くには汽車が走っているのも見えた。

「あ、あそこに見えるのはトロスキー。チェスキーラーイね。」

 子猫のビームはそびえ立つ奇岩の合間を指している。地面からそそり立つ不思議な岩を見下ろしそしてすり抜けて、スイッと降りたところは、虫の鳴き声が響くフルバースカーラだった。

「ここ、知ってる。ミシジーラ(切り立った細い岩の谷間。ネズミの穴と呼ばれている)でしょ? 小さい時に家族で来たよ。」

 子猫はストンとナオミから降りて「こっちだよ。」と言いながら狭く切り立った岩の間にある階段をかけ登って行った。そういえば、チェコの昔の映画に出て来たペクロの入り口はこんなところだったかもしれない。いくつもの筋が刻まれている岩が所狭しとそびえ立っている。

「待って。」ナオミは狭い岩の間の階段を駆け上がる子猫を追いかけた。なんだか、記憶よりも長い岩の回廊だなって思っていたら、突然ボワンと煙に巻かれた。

 ゲホンゲホンと咳をして顔を上げると、そこはいつのまにか上下左右と大きな岩で囲まれた洞窟の広間だった。そして地面は柔らかい砂場だ。足元には子猫がいる。目があって子猫が笑ったかと思うと、ボワンと今度は子猫から煙が上がって黒い人影になった。それは、どこかで見たことのある…、

「マ、マスター?」ナオミはびっくりして目をパチクリした。

「あんまり会いたいっていうから連れて来てあげたんだ。うちのお得意さんだからねぇ。」

 確かにマスターだけど、その格好はまさしくチェルト。頭には小さいツノまで生えているし、毛むくじゃらの尻尾もある。

「ナオミ、このことはみんなには内緒だぞ。君の友達にもだ。いいね!」いつもの調子でウインクをした。 ビールのジョッキを持っていないのが不思議な感じだ。と広場に通じるいくつもの穴から炎が吹き出した。

 正面の大きな祭壇のような岩の前にいつのまにか大きなマントが背中を向けて立っていた。

「誰だ! わしの大切なプライベートの時間を邪魔する奴は!」低音のダンディーな声が響いた。マスターは見たこともない真面目な顔になってその場にひざまづいた。

「ルチフェール様!」

「ル、ルチフェール?」ナオミはその凛々しい後ろ姿にドキンとした。 

「時間を考えろ!」ルチフェールは向こうを向いたまま言った。

「も、申し訳ありません。」マスターは改めて最敬礼した。

「こんばんわ。私は…。」

 マントの男はナオミの言葉を制止するように向こうを向きながら片手を上げた。

「ナオミだな。知っているぞ。おまえの生まれた時からな。」ふふっと笑っているようだった。ナオミが一歩近づこうとすると、今度は手を横に開いてナオミを制止した。 

「しかし…」ルチフェールの声が響く。

「しかし?」思わずナオミとマスターはハモって声が出た。

「お前はここに来るべきではない。」

 マスターはナオミを見て両手を広げておどけている。 

「ここはチェルトだけの世界だ。或いはチェルトに捕まったものたちだけが足を踏み入れることができるのだ。そうだろう?」ルチフェールがちらっとマスターに振り返った。その横顔には鋭い目つきが伺えた。マスターは、アチャーという顔つきで地面を見ている。 

「そんな。私はずっとあなたに会いたかったのに。」ナオミはルチフェールの首筋を見ながら悲しい顔をした。歓迎されると思っていたのに。なんだか少しがっかりした。

「残念ながら、お前の父はチェルトでいることを捨てた男だ。」ルチフェールの声が洞窟中にこだましている。

「確かに、私はその娘だけど。」広間の周りがざわざわとしてきた。いつのまにかチェルトたちがのぞいているらしかった。

「そう、私は純粋なチェルトではないわ。それは知っているの。でも。」

「でもなんだ?」

「おとうはチェルトがいやになってここを出たんじゃないわ。うちのおかあを愛したから。」

「物は言いようだな。」フンと肩で笑っているのがわかった。

「でも、それを許したのはあなたでしょ? 私にはチェルトの血が流れている。それは確かなの。」ナオミは輝く羽根をバッと広げて少しばかり宙に浮いた。オォーと押し殺した歓声が洞窟にこだました。 

「お前はチェルトになりたいのか? そうであるならば、望み通りにしてやるぞ!」

 ナオミはゆっくりと地面に足をついてから首を横に振った。

「私は私。チェルトとエンジェルのハーフなの。それは変わらないし変えるつもりもないわ。」

「…」ルチフェールのつり上がった口元から牙が見える。

「私は、ただ憧れのあなたと知り合いになりたいだけ。」 

 ルチフェールがビクッと動くと前の炎が大きく燃え盛った。

「ファハハハハハハァ! 頑固なところは父親譲りだな。ナオミ。お前を気に入ったぞ。だが、今日はここまでだ。帰るがよい。」 

 ルチフェールはナオミに向かって大きくマントを広げた。ナオミの視界は一瞬で真っ黒になった。

「イタァい!」

 気がつくと、ナオミはベッドから落ちて床に寝そべっていた。もともと寝相はいい方ではないが、ベッドから落ちたのは久しぶりだった。

「夢?」 

 全身のあちこちが痛い。ぼーっとしている向こうに一緒に落ちたであろう目覚まし時計が見えてきた。

「いけない! 授業に遅れる!」 

 ナオミはガバッと起きて洗面所に急いだ。既に同居人たちはいなかった。そして子猫も。

 


 ケーブルカーの始発駅で切符を購入しようとしたら、駅員さんが街の乗車券を持っている人は必要ないわよと声をかけてくれた。見たらわかるわよ、カレル大の学生さんでしょ? と。トートバグからはみ出た図書館の本が見えたのだろうか。ナオミが笑顔で答えると気持ちよく手を振って応えてくれた。

クリーム色で緑のラインが入った階段状のワゴンは、それほど混んでいなかった。チンチンとベルを鳴らしてなだらかに高度を上げていく小さなケーブルカー。もう終わりそうな夕焼けに照らされているプラハの街並みが眼下に紅く輝いているのが見えて来た。そんな美しい街を見ながらナオミは考えた。あれはやっぱり夢だったのだろうか? それとも…。残念ながらルチフェールの顔はしっかり見えなかったけど、間近にいた。そうだ、話もしたんだ。あそこはきっとペクロ(地獄)だったに違いない。まるで映画に出てくる熱波が渦巻く洞窟そのものだった。でも、あの子猫がマスターでチェルト? 現実の世界では居酒屋の店主? それらが本当だとしたら、現実はおとぎ話より奇怪だというのは本当だ。プッと吹き出しそうになって一人でニヤニヤしていると、周りの人が怪我んな顔をしてナオミを見た。 

ケーブルカーは上昇しながらもググッとスピードを落としてゆっくりと駅に滑り込んだ。駅から少し坂を登るとエッフェル塔を小型にしたようなグレーの鉄塔が見えてくる。ここに上るとプラハの街を一望できる。新しいカフェはその麓にあった。モダンな四角い板張りの建物だ。大きな窓が光っている。入り口の自動ドアを入ると豪華なケーキのショーケースがあり、その奥の店内はアイボリーとホワイトのコンビネーションでテーブルの間隔もゆったりとして落ち着いていた。ナオミは綺麗に並べられたケーキに気を取られながらも店の奥に目を配ってピエールを探した。客はまばらだったが、ピエールはまだ来ていないようだった。仕事が長引いているのかもしれない。窓際の席に行こうと歩き出したところで声がした。

「ヤァ。」向こうを向いて手を挙げている人がいた。

「待っていたよ。ナオミくん。」そう言ってその男は振り返った。ナオミは自分の目を疑った。

「ミロシュさん!」背中の羽根に強い寒気が走るのを感じた。「どうしてここへ?」

「いや、僕が呼んだのだよ。」ゆっくりと立ち上がって手を差し出した。「君のことを。」

「え?」

 ミロシュは強い眼差しで薄ら笑っていた。

「昨日の夜約束したのは僕だったんだ。わからなかっただろ? ふふ。」

「ひどい。ピエールになりすましたの?」

「あぁ、そんなことは朝飯前だ。」

 ナオミは拳をぎゅっと握りしめた。

「君に聞きたいことがあるんだ。いいだろ? 少しの時間。」 

「理解できない。ひとの心を弄んでるのね!」ナオミがくるっと向きを変えて歩き出すと、入り口付近から屈強な男が二人ゆっくりと行く手に立ちはだかるように向かって来た。ナオミは反射的に歓談している客のテーブルからコップをとって素早くその男たちの顔めがけて水を撒いてその間をすり抜けた。 

「追い駆けろ!」ミロシュが叫ぶのが聞こえた。男たちはガタイの割に走るのが速かった。ナオミはカフェを出て駅の方に向かったが、男の手がもう届くというところで駅前にある館に飛び込んだ。 

 そこはなんと鏡の迷路だった。柱と柱の間の鏡に自分の姿が無限大に映っている。前にも横にも後ろにも。なんだこりゃぁと言いながら、足音が近づいてくるのが聞こえる。あちこちにぶつかりながら少し奥まで進んで鏡の壁に寄りかかった。と突然、館内アナウンスが鳴った。

「ナオミくん、ナオミくん。君は誰なんだ? 自分をよーく見るがいい。そう、よーくね。ゆっくりと落ち着いてカフェで話をしたかったのに。逃げるからこんなことになるんだ。まぁ、どちらにしろ時間の問題だがね。」

 たくさんの自分がそこここに映っている。いつもの自分だ。少し息が切れている。自分の横顔も見える。ゆっくりと進むとナオミが迷い込んだのは変な鏡があるところだった。顔が伸びたり縮んだりしているかと思えば、体が太ったり細くなったり、極端に足が長くなったり、自分の全身がが上と下から潰されたようになったり。普段だったら楽しめるだろうけど、そんな気持ちにはなれなかった。

「どんな自分が見えるかな? 君が誰なのか? 私は知っている。だから話ができるんだ。それに、君が孤独なのはわかっている。そうだろ? 素直になりたまえ。」 

 ナオミは心を落ち着けるように深呼吸をした。扇動されてはいけない。自分にはたくさんの友達がいる。そう、本当の私のことを知っている僚友だってできた。ゆっくりとしゃがむと地面の鏡と壁の鏡の境目があることに気がついた。それをずっと辿っていけば出口に繋がるはずだ。しかし、このまま出口にいけば、相手の懐に飛び込むことにもなりかねない。天井を見ると、いくつかのカメラがある。要所要所の場所を映し出しているに違いない。ここで自分の超能力を使うという手もあるけれど、それはまさに彼の思うつぼ。万事休す? いや、どこかに必ず死角はあるはず…。ナオミはいくつかのカメラの向きを見据えて映っていないであろう小さな角っこに身をすくめた。男たちの声が近づいてくる。ナオミはさらに身を細くして固まった。すると、向かい側の細い鏡の壁がカチリと開くのが見えた。そして、その中の暗がりから誰かが手を拱いている。選択肢はなかった。ナオミがそこに入るとパチリとまたその細い壁は閉じた。

「あなた、大丈夫?」それは、下の駅にいた駅員さんだった。

「ありがとう。どうして私を?」

「ここの建物はね、私たちの休憩の場所にもなっているんだけど、突然、なんの説明もなく政府関係とかいう奴らに占拠されて。モニター見てみたら、さっきのあなたじゃないの。」

「はぁ。」

「私にはわかるの。あなたは絶対悪い人じゃないって。」

 ドカドカドカと男たちが鏡の向こう側を鏡ににぶつかりながら歩いているのが感じられる。

「どこに行きやがった。あの出来損ない! くそ。出口はどこだ! お前は入り口の方へ戻れ!」       

「あんなやつらにいい人はいないわ。」

 ナオミは思わずおばさんにギューっと抱きついた。 

「さぁ、こっちへいらっしゃい。」薄暗いバックヤードを通って階段を下るとそこは建物裏の地下から外に出る扉だった。

「ここをまっすぐ行くと、ケーブルカーの中腹の駅よ。気をつけてね。」

「ありがとうございます。」

「悪い人たちもたくさんいるけど、人を信じることも大切よ。いい人たちも必ずいるわ。」

 ナオミは坂を小走りに下った。そして、振り返って小さくなった駅員さんに大きく手を振った。そう、世の中には素敵な人もたくさんいる。でも、その真逆にいるミロシュは全然諦めていない。どうしたらいいんだろう…。このままこんなことが続くのだろうか。ナオミは中腹の駅からケーブルカーに乗るのをやめて、丘をそのまま下って行くことにした。

 夜の帳がプラハの街にかかり始めていた。


「はい、いらしゃ〜い。」といつもの笑顔のマスターがそこにいた。

「ありゃ? 今日は元気がないじゃない。どうしたのかなぁ?」とナオミを覗き込んだ。それは子猫がナオミを見上げる仕草と似ていた。そんな元気なさそうなナオミのおでこにごつんとひたいを当ててニカッと笑った。 

「心配するな。みんなナオミの親友だ。撮影に向けて頑張ろう!」 

 マスターの笑顔はいつも不安な事を吹き飛ばしてくれる。ナオミは小さく苦笑いした。マスターはやっぱりチェルトなのかもしれない。…な訳ないか。

「よし! いつものビールだな!」ガハハハと笑いながらマスターは注文をカウンターに入れた。いつもの奥の席に行くとエヴァとペトラがもう乾杯を済ませた後だった。

「曲ができたよ。いい曲よ!」エヴァは満足そうだ。ペトラはどういうわけか舌を出してえへへという感じだ。とりあえず、乾杯してごくっとしてからナオミはヘッドフォンをつけた。

「行くわよ。」ペトラが携帯のプレイボタンを押した。 

 …それは、彼女が想像したものとは全く違った。なんと、ラテン調。

「?」

 初めはゆっくりで落ち着いている。訳がわからない感じもする。が、テンポが上がるに連れて、自分も踊りたくなるほどに。ノリがある。

「これ…。」ナオミはヘッドフォンを外して2人を見た。

「私もびっくりした。この前聞いた曲の焼き直しかと思ったら、全く違うしっとり面白ろラテン系」エヴァが笑いながらビールをグビッといった。「でもね、文句言う前に好きになっちゃった。ともすると真面目すぎて暗くなりそうな脚本だけど、この曲が私たちの心の奥にあるユーモアを盛り立ててくれる。」

 ナオミも賛成だった。この乗れる感じはストーリーに反しているようで、その根底にある可笑しさを表現している。そしてどこからか勇気が湧いてくる。 

「思い切って前のものを捨てて、新しくしたの。」ペトラの成長が見れる、いや聴き取れるようだ。 

「ペトラがこんな曲を作れるなんてね。」エヴァが嬉しそうに言った。 

「もう一度聞かせて!」ナオミはヘッドフォンをもう一度かけた。不思議だった。心がだんだん暖かくなっていく。いつの間にか体がリズムを刻んでいる。マイナスの気持ちを超えるプラスの力が湧いてくるようだった。

「チャ〜オ!」そこにデイヴィッドとヤナがやって来た。

「なんだか楽しそうじゃなぁい?」

「あ、新しい曲ができたのね!」

 二人は片耳ずつにスピーカーを当てて聞いた。曲が進むにつれて、二人の笑顔が弾けそうになった。

「素敵!」

「やっちゃったのねぇ〜! ペトラの失恋が…、実ったのねぇ!。」

「ちょっと!」ペトラはデイヴィッドに肘鉄を食らわした。

「兎にも角にも、あとは撮影あるのみ!」エヴァがジョッキを持ち上げた。

「ナズドラビー!」 

 そんなみんなをマスターは腕を組みながら見ていた。そして、その横にはいつのまにかピエールが来ていた。 

「素敵な仲間ですね。」

「あぁ。物事を前向きに考えられる年頃だ。」

「いやだなぁ。僕らもまだそうですよ。」

「おっと、そうだった。まだまだ奴らには負けられん。ビール?」

 とりあえず彼らの笑顔を背景に2人で乾杯した。

 


 2人はナオミのアパートのエントランス前にいた。

「僕の電話を乗っ取るなんて。油断も隙も無いな。」ピエールは呆れると同時に怒りで顔が上気していた。

「私もすっかり信じちゃって。だって、何もかも疑っていたら…。」

 ナオミは彼に優しく抱きついた。

「それはそうと、明日からの撮影頑張って。哲学の間には必ずいくよ。」

「うん。ありがとう。」ナオミはピエールの胸に埋めた顔を持ち上げた。

「ピエール。ひとつだけ聞きたいことがあるの。」

「?」

「どうして、いつもそんなに優しいの?」

「どうしてって…。それは…。」ピエールは苦笑いした。

「本当に私のことが好きなの?」

「…。」突然のナオミの問いに困惑した。なんと答えればいいのだろう。

「どんな私でも?」

「?」意味がよく理解できずにピエールは首をかしげた。 

「例えば、私が人間でなくても?」

「え? おかしな質問だな。君は宇宙人だとでも言うのか?」

「…」

 ナオミは首を横に振った。ピエールはナオミの両肩に優しく手を乗せてナオミをじっと見つめた。

「僕の答えは一つだ。」ピエールは大きく息を吸った。

「…。」

 ピエールはナオミの髪を優しく撫でた。

「何があっても。君を守る。」ピエールはナオミを抱き寄せた腕に力を込めた。ナオミも回したその腕に力を込めた。

「ありがとう。」そう言いながら彼の胸に頬ずりした。そして、ゆっくりと彼から離れた。ピエールはとても大人びたナオミの表情の中に強い意思が見えるような気がしたが、瞳の中の潤いには何か迷いがあるようにも見えた。 

「じゃ、おやすみなさい。送ってくれてありがとう。」心惹かれる笑顔を見せながらカチリと開けた扉の中にフェードアウトするようにナオミは消えた。古い扉はまるで宝石箱の蓋のようにパタンと閉まった。コツコツとくらい冷たい廊下に靴の音が響く。本当は自分が誰であるか言いたいのに言えない自分に腹が立つやら情けないやら。自分はピエールが好き。だからこそ本当のことを言って嫌われたらどうしようなんてどこかで考えている自分。でも、ピエールも『好き』とは未だに口に出していない。身近な人にこそ本当の自分をわかってもらいたいのに。

 外に残されたピエールは片手をかざしたまま閉ざされた扉を見ていた。多分彼女はわかっているとピエールは思いつつ、好きだの一言がいえない自分が歯がゆかった。と後ろから声がした。

「同じ行政の人間として情けないよ。残念だ。」

 ピエールがハッとして振り返ると同時にわき腹にドスッと強い一撃を受けた。怯んだ隙にもう一撃。そして今度は後頭部から一発。自分がどこにいるのかわからなくなった。  

  


 デイヴィッドが2つの大きなスーツケースをゴロゴロと運んで来た。 

 ナオミは既に朝早くからオーガニック8でメイクを始めていた。

撮影の開始はすぐそばのトラムの停留所だ。オルガが準備場所としてカフェを提供してくれたのだった。 

「あら、素敵なナオミちゃんが、どこかの田舎もんみたい。」

「オルガさん!」 ペトラも手伝いに来ていた。

「でも、そう見えるってことは、メイクも女優さんもいいってことなんでしょ?」

「もちろんです!」ヤナが目を輝かせて返事した。

「これ、ナオミちゃん用に特製スムーティー。みなさんにはクロワッサンとチーズとソーセージ。卵もあるから、そこのカウンターから好きなだけとってね。そっちの台にはコーヒーと紅茶。オレンジジュースはその隣だからね。」

「オルガさん。ありがとうございます。」エヴァは素敵なコーヒーの香りに感謝した。

「私も参加してるって気分になりたいのよ!」ウインクをして腕まくりしながら楽しそうに朝食を勧めるオルガの姿がみんなの緊張感を高めながらも気持ちをほぐしていた。

 スタッフは朝食を掻き込んでオルガに挨拶をしたかと思うと機材を持って現場に出かけた。

「30分程で準備ができると思います。ウォーキートーキーで連絡しますね。じゃ、監督、行きましょう。」そう言ってエヴァと助監督も出て行った。鏡の前の携帯にはマスターから、フランチーシェックやクリシュトフそれにシモナから。そして、アンディーから、おとうやおかあからメッセージが入ってくるのが見えた。だが、ピエールからは今の所何も連絡がない。忙しいのだろうか。 

 グレーのアルマーニのツーピースは似合ってはいたが、よく言えばクール、悪く言えばつまらない事務的な雰囲気を醸し出していた。オーソドックスな黒の短い踵のパンプス。黒い革の腕時計。黒縁のメガネ。小さな少し黒ずんだシルバーのピアス。10歳以上年齢が上に見える。ナオミは普段から大人びて見られることが多いので、さらに老けて見えるかもしれない。加えて金属でできた時代遅れの花のブローチが胸元に光っている。

「あら? ナオミちゃんはもう行っちゃったの?」オルガはキッチンから顔を出して店内を見回した。

「すいません。今日は貸切なんです。」と目の前の場違いな婦人に声をかけた。がそれは、

「あぁ、そうですか。でも美味しい朝ごはんをありがとう。オルガさん。」ナオミだった。

「ありゃ〜!」と驚いたオルガ。みんなの笑いがオーガニック8の店内に響くと同時にウォーキートーキーのスピーカーが唸った。

「それでは、監督がこれからそちらに向かいます。現場は狭く、一般の人もいるのでそちらで説明します。」

 エヴァがカメラマンと助監督と共にやってきた。

「それでは説明します。」絵コンテを見せながらイメージと撮り方の香盤を手短に話した。「本来ならば、トラムは貸切でお客さんは全てエキストラというのが理想ですが、そんなわけには行かないのが我々学生の辛いところ。でも、今は日曜の朝で人出も少ないし、トラムでの撮影の許可は取ってあるので、なりではあるけど…まぁ、心配はいらないです。」助監督が状況を説明した。 

「3つ前の駅から乗っているのは、ナオミとブラジミールの代役。彼にフォーカスは合わないのですが、絵の中にはいると言う具合。後の哲学の間と同じ衣装。ちょっと派手なダンディーなね。」 

 デイビットはエヴァにウインクで答えた。既に代役くんも準備OK。 

「その続きで、停留所でおばあさんとナオミのくだりを撮ります。」

 カメラマンの口が開いた。

「安全第一ですから、危ないと思ったら演技は続けないでください。それ以外はカットがかかるまでよろしくです。慌てずゆっくりと。」

 エヴァがうなづいた。

「アドリブもあり、セリフは多少間違えても大丈夫。時間はないけど、落ち着いて。楽しく行こう!」と言うと、衣装を着て佇んでいるナオミに気がついた。

「ナオミ、いい感じでダサいわね。よろしくね。」

 ナオミは役柄よろしく、慎ましくハイッと声をあげた。

「さぁ、行こう。」スタッフとキャストがミニバスに乗ってオーガニック8を出発した。オルガは手を振って見送った後、エプロンを外した。

「さてと、停留所でのエキストラっと。」用意して置いた買い物かごを持ってスキップしながら店を出た。 

 

 駅に向かうミニバスでナオミはエヴァに質問した。

「そういえば、トラムの駅で助けるおばあさんって?」

「うん。実は、一昨日まで私のおばあちゃんがやる予定だったんだけど、風邪引いちゃってね。」

「え?」

「でも大丈夫。強力な助っ人がもう現場にいるわ。トラムを降りればわかるから。」エヴァはいつにない薄ら笑いを浮かべた。 

「ナオミ、トラムの中で欲しいのは3カットだけど、何か起きたらそれはあなたとカメラマンに任せるわ。そこは適宜に。」

ナオミとカメラマンはうなづいた。

「その後は降りておばあさんとの下りだけど、そこはできるだけカットしたくないの。一応台本はあるけれど大事なのは臨場感。降りる駅でカメラが一台待っている。それだけ気をつけて。あとは成り行きよ。」

 脚本とセリフはもう自分に入っている。自分はその人になって演技するのじゃなくて、その人になればいい。

「ここは、なるようになれなの。」

「…。」エヴァってこんなに大胆だっけ? ナオミは不安と同時に、見えない面白さがどこかにあるかもしれないと感じていた。そう、自分は冴えなくて人のいい大学教員一年生なのだ。ナオミの表情がスーっと変わっていった。 

 停留所前に到着すると、スタッフは素早くカメラのセッティングを開始した。

「監督、いつでも大丈夫。すぐに乗り込めます。」

「ナオミ、代役くん、いけるね?」

 髪をかき分けたナオミは眼鏡の奥で爽やかに相槌を打った。

「監督、古いタイプの2両編成が来ます。」助監督が先の角から叫んだ。

「じゃぁ、いくよ。後ろの車両に乗ったらナオミは一列に並ぶ座席に座って。代役くんは最後部に立って乗る。」

 チリリーンと警笛を鳴らしながらクリームと朱色のツートンカラーのトラムが到着した。キャストとスタッフが乗り込むと車内は空いていた。ナオミはカメラマンが決めた席について撮影が始まった。 

 流れる街並みを背景に窓に写るナオミの顔。その表情はどこか憂鬱だ。ポツンと座っている車内には明るい日差しが差し込んでいる。チチーと車輪がレールとこすれる音がする。停留所に到着して横のドアが開いた。ふと見ると、何人かのお客さんの中にベビーカーを押している妊婦さんがいた。ナオミはファイルを座席に置いてすぐに一緒に車両に載せるのを手伝った。古い車両は低床式ではなく急な階段を2段ほど上がらなければならない。妊婦さんは少し苦しそうだった。ナオミはファイルを置いていた自分の席を彼女に譲ってつり革とベビーカーを握って立った。

「ありがとうございます。」妊婦さんはふうっとため息をついた。すると、背中から声がした。 

「邪魔なんだよ! ベビーカーは後ろのスペースがあるところに置いてくれよ!」と中年の男が声をあげた。それを支えていたナオミはきっとその男を睨み返したが、眼鏡をかけ直すと笑顔を見せた。

「ごめんなさい。次の駅に止まったら移動しますね。と優しく返した。

「ったく! 偉そうにするなよ! 俺たちも同じ客なんだから!」

 ナオミは頭を下げながら妊婦さんに聞いた。

「大丈夫、私が移動しておきます。ところで、どちらまでですか?」

「4つ先までです。」

「あ、私と同じところまでですね。任せてください。」

「ありがとうございます。」

 次の停車駅で、ナオミはベビーカーを後部の少し広いところに移動しロックした。そこでも人が乗って来て、車内はそこそこ混んで来た。 

 エヴァとカメラマンは小さくなって邪魔にならないように車内で撮影していた。助監督が客を装ってナオミに次ですと耳打ちした。

チンチンとトラムは停留所に滑り込んだ。扉が開くと、今度はおばあさんがよいしょっと乗るのに苦労している。やはり高い段がきつそうだ。ナオミは、おばあさんの手を取って乗るのを手伝っていると、オレンジ色のブザーが光ってビリリリとドアが閉まる合図がした。慌てたのか、おばあさんの買い物袋からいくつかのものが停留所にこぼれ落ちた。ナオミは慌てて降りて、トラムのボディーをパンパンったきながら、  

「まだ出発しないで! おばあさんのものが落ちちゃったんです!」と叫んで車両の前方に行った。運転手が手を挙げるのが見えた。と、おばあさんはまた降りて来たので、ナオミはすぐに引き返しておばあさんに寄り添いながら落ちたものを拾い出した。が、その間に、トラムのドアは閉まって発車してしまった。ナオミはおばあさんをかばうように抱いて車両が通り過ぎるのをやり過ごした。

「ありゃら、行っちまった。」おばあさんはポカンとしている。 

「おばあちゃん、怪我しなくてよかったです。ちょっと危なかったかもですよ。」ナオミは少し潰れたバターとローリックを買い物袋に入れて渡して気がついた。「あれ、私のファイルもベビーカーと一緒に…。」

 おばあさんはナオミを見上げて肩をすぼめた。

「ありがとうね。歳をとるとなかなか自分の思うように体が動いてくれないんでねぇ。」とナオミをジロジロと品定めするように見回した。

「ところで、あんたは、哲学の間に行ったことがあるかい?」

「哲学の間って、あのストラホフ修道院の?」 

 おばあさんは目をつぶって何度か相槌を打った。

「あそこは気持ちが落ち着くんだよ。そう、小さな宇宙がある。」

「…」突然何を言い出すのだろう。彼女は目を見開いてナオミを見た。

「あそこの空気を吸うと、自分がどれくらい小さな存在かがわかる。」

「はぁ。」小さいおばあさんがなんだか大きく見えるようだ。

「面白いことに、それで見えてくるものが色々とあるんだよ。何が大切かってね。」買い物かごの中から薄緑色の洋梨を一つ取り出してナオミに渡した。

「見た所、あんたは優しいけれど何か悩んでいるだろう? 行ってみるといいよ。いい子ほど悩みが多いもんだ。特にあんたの年頃だとね。」 

 次のトラムが停留所に滑り込んで来た。再びおばあさんが乗るのを手伝いトラムが発車するのを見届けてから気がついた。そう、自分が乗り忘れたことに。あぁ、最低。2両編成のトラムが揺れながらブルタヴァ川の方に消えて行くのを呆然と見送った。

「カット!」エヴァの声が響いた。そして、エヴァは笑っている。 

「面白かった。すごく自然で、臨場感抜群。技術的にも問題ないわね?」

 カメラマンはまぁまぁとうなづいた。そして、エヴァとともに建物の角で2台のカメラで撮ったものをチェックした。

「カチッとしてはいないけど、物語の始まりとしては動きがあって面白いと思う。いい感じでアップも撮れてるし。」

「あと、いくつか役者さんなしのカットを撮っておこうと思います。」カメラマンが提案した。

「私的には挟む必要も感じないけど…。そうね、尺の問題が出て来たときにあった方がいいかもね。そこは助監にお任せ。ありがとう。」

「じゃあ、皆さんはとりあえずオーガニック8に戻ってください。」 


 香りのいいコーヒーがひとときの安らぎを与えていた。 

「初めて撮影ってのを見たけど、いつもあんな感じなの?」エキストラで停留所にいたオルガはエヴァに訪ねた。

「いえ、いつもはもっとワンカットずつ丁寧に撮るんです。」

「丁寧?」

「ええ。まず、段取りって言って役者さんの動きを見て、それからカット割りをして、あるいは直して、それからカメラテストをして、照明を見て、さらに本番テストをして、それで本番って。計算づくに。」

「じゃあ、今のは、ぶっつけ本番? イレギュラーな感じなのね。」

「ええ、トラムを借りきるわけにはいかないし。だから、みんなの緊張度はとても高い。まぁ、そんな撮り方だと全てがうまく行くってことは本当にまれ。でも、それだから撮れるものもあるって思うんです。」

 達観したエヴァの喋りはまるでベテランのようだったが、そんなことを言った本人はペロンと舌を出した。「でも、スタッフもキャストもみんな初めからよくやったと思います。」 

 チリンチリンとエントランスの扉がなった。そこにはあのおばあさんがいた。振り返ったナオミはびっくりして立ち上がった。

「シモナさん! 全然気がつかなかった!」

 シモナはウインクして笑いながらナオミと抱き合った。 

「ということは、今日は私の勝ちね! でも、実は私もナオミに見えなかった。」

 エヴァが眼鏡をずり上げながら説明した。

「おととい困ってブラジミールに電話したの。そしたらシモナに連絡してくれてね。二つ返事でオーケーもらったの。」

「そう、驚かせようと思ってね。自分でメイクして現場に入ったの。この前の仕返しよ。」ウフフとシモナは笑った。

「さすがシモナさん。昨日の今日で。」ナオミは目をパチクリさせた。

「若いあなたたちに負けたくないっていうより、一緒に仕事をすることが私の力にもなるわ。楽しくやらなきゃね。」

「ありがとうございます。」エヴァが頭を下げた。

「ううん。それはこっちのセリフ。でも、ここの朝食本当に美味しい!」   

「ここのオーナーシェフのオルガさんです。」ナオミはシモナにオルガを紹介した。

「監督、先発隊の準備ができました。」 

「じゃぁ、先に行ってるね。ヤナ、次の準備をお願いね。」

 監督と助監督、デイヴィットとアシスタントは先に出発した。

 次の現場はカレル大学のゼミ室だ。ナオミはここでメイク直しをしていく。 

「今度は、落ち着いて撮るでしょうから、細かいアラも目立たないようにしないとね。向こうに行ったら学生さん役のメイクも軽くしなくちゃいけないから忙しい、忙しい。」とはいえ、ヤナは嬉しそうだった。

「私はここまでだけど、とにかく気負わないで頑張ってね。ブラジミールによろしく。」

 シモナと鏡ごしに目が合ったナオミは輝く瞳で返事をした。


カレル大学フィロソフィーの校舎はブルタバ川に面した音楽公会堂のルドルフィヌムのとい面に立っている荘厳な建物だ。その3階にコンパクトな階段教室がある。エヴァが到着すると、数人の学生エキストラが待機する中、もう照明のセットはほとんど出来上がっていた。カメラマンとエヴァがカット割りの整理をする中、セリフのあるエキストラが助監督を教員のナオミに見立てて練習を始めていた。

「もう少し、意地悪な感じでもいいかな。とにかく、君たちは面白くない講義にうんざりしている。ただ、やりすぎると、いかにもって感じになっちゃうからそこは気をつけて。」

「廊下のシーンは少しシルエット気味で望遠レンズで狙ってね。」

「カメラを高めにして、廊下の床がテカるようにします。」

「教室ではドリーをそれぞれ3段階ずつにできるかしら?」

「というと?」

「まずは学生のずっと後ろから正面向けに下手から上手に。次に学生の背中を舐めて上手から下手に。最後はナオミだけでまた逆向きに。そして、その反対側を同じように。」

「じゃあ、いちばん広い絵の正面向けのドリーを準備して。その間に廊下を撮っちゃおう。」

「その後に、セリフのカットバック。タイトめにね。あ、それと、追加で階段を撮りたいの。講義が終わってダメな自分にうんざりしながら階段を下って行くところ。」

「いい場所がありますか?」

「ええ、さっきここに来るときに見たんだけど、一緒に見てくれる?」

 カメラマンはうなづいてエヴァと照明さんと現場を見に行くことにした。そこは、天窓のある大きな吹き抜けで階段と手すりは昔からの石造りだった。

「時間によってはいい光がさしこむかもしれませんね。」 

「ちょうどお昼過ぎぐらいかな。廊下を撮って教室がうまくいけば、いい時間ってことだね。」

 そう話しているところに、ナオミとヤナが階段を上がってきた。

「ナオミ、ここでも撮影するよ。この階段で哲学の間に行ってみようって決める。」

 ナオミはあたりを見回した。いろんな空気が漂っているようだ。 

「控え室は撮影する教室の2つ隣。先に行ってて。でも、すぐに撮影開始だから。まず廊下からよ!」エヴァがテキパキと説明した。

「教室のみんなのメイク、すぐに終わらせまーす。」ヤナはそのままかけて行った。


「よーい、アクション!」

 エヴァの声が廊下に響いた。薄暗く長い廊下の突き当たりはステンドグラス。そこからは外の明かりに色がついて漏れている。奥の角を曲がってナオミがカツカツとシルエットで近づいて来る。まるで虹の花を背負っているようだ。ナオミの体全体がちょうど入るサイズのところで教室に入るべく横向きになった。ドアに手をかけて、小さくため息をついた。もう一台のカメラはその横顔をクローズアップで狙っている。ドアに反射した明かりと抜けのステンドグラスの溶けた色味がナオミの頑張らなきゃと自分に言い聞かせている表情のディーテールを少し浮かび上がらせていた。

「カット、オッケー!」 

 収録マテリアルをチェックした後にエヴァが説明した。

「次は講義の撮影だけど、まずは広い絵から撮っていきます。台本的には、この廊下のシーンの後に、黒板にチョークで書き込むナオミの手元のアップが入ります。じゃ、準備しよう。」


 一見、それは普通の大学の授業のように見える。だが、教室は白けていた。ナオミは一所懸命に講義し、大きな黒板に書き込んでいるのだが、生徒たちにそのエネルギーは伝わっていなかった。講義途中でナオミもその反応のなさに嫌気がさしていた。教壇の上でバンと音を立てて本を閉じた。

「あなたたち、わかっているの?」ナオミは生徒たちに問いただした。

 学生たちはナオミの表情に憂いがあるのを読み取っていた。

「先生、なんていうか、面白くないんです。」中段にいた男子学生が少し大きい声で言った。

「面白くないって…。どういうこと?」

「知識の羅列だったら、図書館やネット上でいくらでも調べられるし。」 

「そんなつもりはないんだけど。」

「例えばですが、この教室をを劇場に例えると、先生は壇上の役者、私たちは観客というふうには言えませんか?」

「残念ながら、講義はエンターテイメントではないわ。」

「でも、観客の反応がない、あるいは希薄ってことは、やっぱり訴えるものがないってことですよね。」

「…。」 

 男子学生の後ろにいた女学生がガタンと立った。

「それに、私たちが学んでいるのは児童心理学であり児童文学なのに、そこに広がるであろうユートピアというかイマジネーションを全く感じないんです。ここで感じられないのなら、それを学んでも奥深めることはできないんじゃないかって。」

 授業の終わりを告げる鐘が鳴った。生徒たちは無機質に立って教室から出て行った。ナオミは一人残されて教室の遠くを見ていた。

「私も同じ気持ちのはずなのに…。」 

 ハァッとため息をつくと、背後から小さな声が聞こえた。

「先生。先生はそれでもいい方です。」 

「?」ナオミが振り返るとそれは最前列にいた小柄な女学生だった。

「ほとんどの教授たちは、私たちをコレッポチも顧みない。先生は、少なくとも私たちに問いかけてくれた。確かに、私たちだってもう子供ではないんですけど。でも…。」

「でも?」

「私たちは、先生を通して何かを感じ、イメージしたいんです。」ぺこんと頭を下げてその子は廊下に消えた。

 

 全てが本番一回でOKが出たわけではないが、カットを重ねる撮影の進み具合は順調だった。 

「階段、もう少しでいい明かりになります。」状況を見てきたカメラマンが準備をするようにみんなを促した。

「少しお昼ご飯は押しちゃうけど、やっちゃおう。」エヴァが号令をかけた。


「セリフはないよ。それだけによろしく。」 

 カメラは斜め下より階段を煽ってゆっくりとドリーしている。天窓から光が筋になって差し込んでいる。うっすらと埃が漂っているのが見える。考え事をしながら踊り場にやってきたナオミ。登ってくる学生たちとは反対にゆっくりと階段を下っていく。もう一台のカメラはそんなナオミをウエストショットでフォローしている。ナオミは階段の途中でポケットに入っている洋梨を取り出して止まった。そこでカット。OK。 

 吹き抜けの角をゆっくり真俯瞰で垂直降下してきたドローンがナオミに近づきつつゆっくりと旋回しだした。 

 洋梨をじっと見つめるナオミ。『哲学の間に行って見なさい』というおばあさんの声がどこかで聞こえる。ナオミは何かを決心したように前方を見据えると階段を駆け下りて行った。ドローンは横打ちになって少し追い掛けながら次第に離れ、石の柱をシャッターしながらナオミが大きな扉から外の光の中に出て行く姿を捉えていた。

「ウワァオ! 素敵なカットだ。想像以上!」エヴァが思わず叫んだ。

「監督! ドローンとはいえ、いちおう音撮っていますから!」録音さんが叫んだ。

 エヴァは「ごめん!」と頭を掻いた。「チェック!」

 みんな再生画面に釘付けになった。 

「すごい! ハリウッド並み!」ペトラがゴクンと唾を飲み込んだ。

「彼は普段ドローンレースをやっているんです。腕は確か。」助監督がパイロットの肩を叩いた。

「レースより緊張しました。やりがいがありますね。自分ものめり込んじゃいましたよ。カメラマンとのコンビがいいから撮れたんです。」

「光の具合もメイクも最高!」ヤナも口をとんがらせている。

「あぁ、レフの返し具合もいい感じだ。」照明さんも満足そうだ。

「見て! あんな面白くない服なのに、裾が綺麗にフレアーしてるでしょ!」デイヴィッドは自画自賛で両手を合わせている。

「じゃあ、音のオンリーを撮ります。ナオミの吐息と周りの人たちの動きを別々に! みなさん、お静かに願います!。」 

「そのあとストラホフ修道院に迅速に移動して食事です。あちらでケータリングの準備ができています。」

 助監督が合図した。 

「よーい、アクション!」

  

 ストラホフ修道院の前の広場には、すでにマスターのケータリング車が店開きしていた。

「朝食はあちらに任せちゃったからな、こっちもいろんなものを用意しておいたぞ。さらに、ストラホフ特製黒ビールも出していただけることになった!」メニューの黒板に特製黒ビールと大きく書いている。

「みなさん! ビールは撮影終了後におねがします!」助監督が慌てて訂正した。先乗りしていたブラジミールは、そそくさと黒ビールのジョッキをジャケットの下に隠して建物の方に消えた。マスターはそんな彼にウインクしながらいつものようにガハハと笑った。「今日は、俺のおごりだから、どんどん食べてね。」 

「修道院さんのご厚意で、食堂と会議室が使えます。会議室はメイクとフィッティング。ケータリングのものは食堂で食べてください。よろしくお願いします。」

「マスター、ありがとう。」エヴァが頭を下げた。

「こちらこそいい宣伝だ! うちの店のさらなる繁盛間違いなーし!」

 エヴァ、デイヴット、ヤナとそれぞれが好きなものを選んで食堂に移動した。自分の番になったナオミがそっと聞いた。

「ところで、ピエールからなんか連絡ありました?」

「いや、昨日の夜からさっぱりないな。何か事件でも起きたのかな? 仕事が仕事だからね。」

 マスターは寂しそうなナオミの表情を逃さなかった。

「ほら、美味しいものを食べて元気出して。これからが大切なシーンなんだろ?」

 ナオミは暖かいスープをもらった。ニンニクの効いたじゃがいもスープだった。少しすすると心も体もあったまっていくのがわかった。

「終わったら、絶対黒ビール飲みにくる!」ナオミはマスターに投げキッスをしてスープを持って食堂に向かった。 

 入り口を入ってそこそこ広い食堂を見回すと、真ん中の長テーブルの端にブラジミールが座っていた。ナオミを見つけると嬉しそうに手を振ってこっちだよと呼んでいるようだった。ナオミはちょこんとお辞儀をしてブラジミールの横に座った。

「ナオミくん、今日はよろしく頼むよ。」

「朝、シモナさんと一緒だったんです。」

「ああ、突然だったけど、楽しそうだっただろ?」

「ええ。実は全然彼女だとわからなくて…。」

「あは。そりゃ相当入れ込んだな。」

「え?」

「いや、相当楽しかったってことだよ。私も遠慮なくいくのでよろしくね。」

「いえ私こそ、ブラジミールさんとご一緒できるなんて夢にも思っていませんでした。よろしくお願いします。」

「まぁ、堅い話はこれくらいにして…。」ブラジミールは少し周囲をうかがって小声で言った。

「あそこの黒ビールは、相当美味しいな。」

「え? もう飲んじゃったんですか?」

 ブラジミールはナオミに顔を近づけながら、シーっと人差し指を口に持っていった。

「私も後から必ず飲みにいくって言っておきました。」とナオミも小声で言った。 

「ところで、ナオミくん。」

「はい。」

「君は、おとぎ話を信じる方かな?」

 ナオミは突然の質問に目をパチクリした。そんなこと、いいおじさまに聞かれるなんて。いやそれより、それは今までは自分がしていた質問だ。逆にこうやって自分に問われると不思議な感じがした。それに、そんな質問するなんて可愛らしいというか…。 

「もちろん…、私は信じています。」ナオミは自分に語るように答えた。  

「実はね、私もなんだ。」 

 ヤナが化粧ブラシを振り回しながら食堂に駆け込んで来た。 

「ブラジミールさん! もうとっくに時間過ぎていますよ!」 

 あっとブラジミールは時計を見た。

「ナオミくん。後で黒ビールのみながら、一緒に話をしよう!」頭を掻きながら彼はヤナと会議室の方へ消えて言った。果たして、これはおじさん特有の甘い口説き文句に聞こえなくもない。が、そんな気持ちを持っている俳優さんは、どこか信頼できるような気がした。 


「ナオミさん、そろそろ現場の方へお願いします。」

 ストラホフ修道院に続く坂道を登ってくるシーンだ。 

「これは、いわゆるインディアンカットです。坂の上から見えるプラハの街並みをバックにナオミが坂を登ってくる。ということで、まず、テストからいくよ。」エヴァが説明した。

 トラムを撮った朝から大学でのシーン、そしてこちらに移動してくるまでは、日が眩しいくらいにいい天気だったのだが、昼食を終えて外に出ると、どんよりとした雲が横たわり爽やかな感じはすっかりなくなっていた。

重く厚い空気の向こうに見える街並み。細い光線がいくつかの尖塔に漏れていてむしろ印象的だ。そこに浮かび上がってくる急ぎ足の女のシルエット。立ち止まったところでゆっくりとフォーカスが合うと、それは丘の上の白い修道院を見つめるナオミだ。ハァッと白い息をつくと、フレームからアウトした。

「カット! じゃ次本番!」エヴァが叫んだ。するとカメラマンがエヴァに耳打ちした。 

「今のいい光で収録していますが、いかがでしょうか?」

「え? 回っていたの? じゃ見せて。」 

 エヴァ、ナオミがチェックした。

「いいんじゃない? 背景も演技もいいと思う。ナオミは何かある?」

 ナオミは微笑んで首を横に振った。

「じゃあ、外観の移動ショットはさっき撮っちゃったから、修道院の中に移動!」

 

 哲学の間。いつもなら荘厳な空気が漂っている。そこに来る者を見下ろすように広がる天井全面に広がるフレスコ画。壁にそそり立つ渋く艶やかな本棚に立ち並ぶ古い蔵書から漂う妖気。それは、まさにひとつの立派な宇宙空間だ。

 ただ今は、撮影隊が慎重に持ち込んだ簡易クレーンや照明セットで、スタッフの注意や緊張感の方が強く感じられた。養生シートの上に引かれたレールの上に細く長く伸びる大型ジブアームの先にはカメラが三軸ジンバルにつけられてリモートコントロールできるようになっている。まるで、探査装置の様だ。何回かカメラのみでのリハーサルが行われていて、監督をはじめスタッフが隣の部屋に設置されたモニターの前に釘付けになっていた。そこに映し出される絵からは、現場の雑然とした雰囲気は微塵も感じられず、いつも以上に荘厳な感じを醸し出していた。カメラはゆっくりと移動している。 

「すごぉい! 想像以上にステキィ!」デイヴィッドが震えながら感嘆の声をあげた。

「ここに漂う空気感が見えるみたい。ぞくっとするわ。」ペトラも興奮気味だ。

「ここで撮影できることに感謝ね。」エヴァが思わず口にした。

「みなさん! 何度も言いますが、ここは私たちのチェコがまさに世界に誇る図書室です。尊敬の念を持って、傷などつけない様に十分に注意して行動してください! 走るのも厳禁です! よろしく!」制作担当の学生の叫び声が図書室の中から聞こえてきた。

 

 「では、シーン5のカット1からカット3まで明かりのいいうちに始めます!」助監督の声が響いた。

 フィッシュアイに近いワイドレンズで目高でゆっくりと主観移動するカメラ。窓からは柔らかい外光が漏れている。 OK。

 同じレンズで床すれすれに思いっきり煽ってドリーバック。ゆっくりと流れる本棚。まるで無限の空に抜ける天幕の様なフレスコ画。そこにフレームインするブラジミール。しばらくカメラと共に歩く。漏れている外光で顔が見える様な見えない様な。 OK。

 窓向けの横向けワイドで立ち止まるシルエット。何かを見つけた様だ。 OK。 

 監督が図書室に入ってきた。

「じゃあ、これから演技の段取りをします。まずはここまで。」台本を見せてキャスト、スタッフに確認した。ひと通りの演技のチェックの後、エヴァは役者の動きや立ち位置を直して、用意してきた絵コンテを再考した。カット割りを決めてカメラマンと照明に説明した。 

 カメラテストを重ねて本番となる。カメラは一台、カットごとにカメラの位置が代わり、照明のセッティングが変わる。場所が場所だけに慎重に行われるのでそれなりの時間がかかる。

 主観移動で本を探している女に近づいていくと、カメラの横から手が出てきてその肩に触れた。ハッとして振り返るナオミ。 

 「あなたは?」ナオミは見覚えのない紳士に失礼のない表情で訪ねた。明るめのカジュアルなパンツにアンダートーンなジャケット。そして少しだけ色を感じさせるスカーフ。上手に着こなしていて嫌味どころか爽やかさえ感じられる。

「こちらはあなたのものかと?」紳士はいくつかのファイルと本を差し出した。

「あ、それは…。」

「トラムにお忘れになったでしょう?」 

「え? …あ、ありがとうございます。あなたは?」

「私は、よくここを利用する者です。何か…お探しですか? 学生さんではない様ですが。」

「ええ、私は、恥ずかしながら、新米の大学講師なんです。児童文学心理という。」

 紳士は気品ある微笑みを見せた。

「あぁ、おとぎ話ってやつですね。それならここにぴったりですよ。ステキな歴史ある蔵書がたくさんある。」滑らかなバリトンの声だ。

「でも…、」ナオミは渡された自分のファイルに目を落としているほんの少しの間にその紳士はどこにもいなくなった。

「?」 

 あたりを見回して見たが図書室には凛とした空気が漂っているだけだ。と天井から声が降ってきた。

「ここらあたりかな? 君が探している本は。」

 ナオミが声のする方を見上げるとその紳士はいつのまにか本棚の上、床からは5m以上高いところにある細い回廊に立っていた。そう、二階部分に当たる本棚のところだ。見まわしたところ、そこに上がる階段などはない。ナオミは移動階段を使おうと反対側の本棚にかかっているそれに向きを変えた。

「それではここに届かないよ。それはこの回廊の下までの本棚用だ。ここに来るにはあの扉を出たとこにある階段を使いたまえ。」

 上からの紳士越しのワイドの俯瞰ショットの絵の中でナオミは扉を出ていった。

「カット。 OK。ちょっと休憩しよう。」エヴァは満足そうな笑みを浮かべた。そして、ブラジミールが監督のもとにやってきた。

「監督、いかがでしょうか? 何かあれば遠慮なく言ってください。」

「どのカットも私の想像以上に素敵でした。台本をよく理解してくださっていると思います。」

「それはよかった。ホッとしました。」フゥと小さなため息をついた。

「ブラジミールさんの様なベテランでも? いろいろと気になることが?」ナオミが質問した。 

「いや、いつも始まる前はドキドキなんだよ。カットって聞こえて監督のOKが聞こえると小心な自分に戻るんだ。恥ずかしながらね。」

 ナオミはびっくりしながらも、その気持ちがわかるような気がした。そして、今でもそのフレッシュさを忘れていないことに感心した。

デイヴィッドがそばにやってきてブラジミールのスカーフを少し直してやった。

「あぁ、このスカーフがなかなかいいね。今日の僕のお気に入りだよ。」 

 デイヴィッドはカーッと上気して顔が真っ赤になった。

「あの、一緒に写ってもらってもいいですかぁ?」

「もちろん!」

 パシャっと撮った写真を見て、またもや気絶しそうになっていたが、

「この写真、お店に飾りまぁす!」とよろけながら会議室の方に足を運んで行った。

「まだ時間があるかね?」ブラジミールは助監督に聞いた。

「今機材のセッティングをし直しているのであと15分くらいは。」

「じゃあ、外の空気でも吸って来るかな。」彼はみんなにウインクして出て行った。ナオミは、彼がビールを飲みに行ったのがわかったが追いかけなかった。それよりも、ピエールが現場に来ないのが寂しかった。きっと突然の仕事なのだ。 


 「じゃ、後半の段取りを開始します! ナオミが上の回廊の本棚で例の本を発見するところからです。」

 「よーい、アクション!」エヴァの声が図書室に響いた。

 図書室の2階の正面の扉が開いた。ナオミは細い回廊をさっきの声がしたところあたりまでゆっくりと歩いた。脚を進めるたびにギシギシと回廊の床の軋む音がする。2階とはいえかなり高く、しかも狭い。天井のフレスコ画が迫って感じられる。しかし、そこの本棚も高いところは背伸びだけでは届かない。 

「ここら辺だったかしら?」と周りを見回すが、あの紳士はいない。棚には確かに昔からの伝統のおとぎ話の書物がぎっしりと溢れるように詰まっている。と、足元に古びた大きな本がせり出している。いくつもの古く破れかけた紙が挟まりのぞいている。手すりを掴んでバランスをとりながらゆっくりとしゃがみ、その本を取り出した。ボロボロの装丁には薄れた文字で「チェルトとの契約書」と記されているのが見える。見てはいけないものを見つけてしまった。そんな気がするけどそれだけに興味をそそる。だいたいそんなものが本当に存在するなんて。見た目よりも重い表紙をゆっくりと開いて見ると、そこには数多くの不思議な書類があった。 何枚かめくって見た。

「これは…、」

「それは、そう、装丁どおり。チェルトと人の契約書だよ。君はよく知っているだろう?」後ろの耳元で甘くあざ笑うような声がした。

「?」 

 セリフが違う。台本にはなかったはずだ。ナオミは振り返ろうとしたが、その前に紳士が覆いかぶさってきた。

「ほら、よく見るんだ。」開かれた本の上に携帯がポンと置かれた。どこかで見たことのある待ち受け画面だ。

「え? …これはピエールの携帯! どうして?」

 背中にかかる重みを押しのけながら振り返ると、そこにはブラジミールの衣装を着た…。

「ミロシュ! どうして。」

「ブラジミールには眠ってもらっている。ここが君の最後の場所ということだ。」

「どういうこと?」

 ミロシュは、薄笑いを浮かべてナオミを見下ろしている。

「観念しろということだ。ピエールも我々の手の中にいる。」

 助監督や制作の学生たちを押しのけてガッチリとした2人の男が現場に入ってきた。真ん中には両脇を抱えられたピエールがいた。

「撮影の邪魔をしないでください!」助監督が叫んだ。 

「ちょっと、どういうことですか? なんなんですかあなたたちは。」エヴァが彼らの前に立ちはだかった。 

「警察、警察を呼んでぇ!」デイヴィッドも図書室に駆け込んで来て大声を出した。

「その必要は全くありませんよ! なぜなら、我々は政府関係のものだからです。」ミロシュが大声で叫んだ。そう、自信満々と。

「ミロシュさん!」エヴァはそれがブラジミールの格好をしているミロシュだということに気がついて思わず叫んだ。「ミロシュさん、どういうことなんですか? なぜ、撮影の邪魔をするんですか?」 

 ミロシュはナオミの胸ぐらを掴みながら演説をするように階下に向かって話し始めた。

「今回のみなさんの撮影でここが使える様に交渉したのは、この私だ。」

「…」

「それは、私の舞台としても最適だったのだよ。」

「舞台? いったいどういうことですか?」納得のいかないエヴァは声を荒げた。

「この女の正体を公に暴く舞台としてね!」

「ナオミが何かしたっていうのぉ?」デイヴィッドの声が響いた。 

「ハハハ。」ミロシュは勝ち誇った様にナオミを見て陰湿な笑い声をあげた。その声が天井いっぱいに響き階下の一同に降り注いだ。

「犯罪というわけではない。もっとすごいことだ。そう、君たちが想像もできない様な!」

「ミロシュさん! ナオミを離してください。」エヴァが叫んだ。

 だが、ミロシュはナオミの胸ぐらをさらに強く締め上げた。

「さぁ、ナオミくん、みんなに白状するかい? 君が誰だって?」

 ナオミの目からは涙がボロボロと溢れてきた。

「ピエールを離して。あの人はなにも悪くないわ。」ナオミは、そう頼むのが精一杯だった。

「お前はみんなを騙してきたんだ。仲のいい友人たちやピエールを。そうだろ?」

「ナオミ! 僕は君を信じている。」ピエールが雄叫びをあげたと同時に、ヤナとペトラとマスターも図書室に飛び込んで来た。マスターの手にはフライパンが握られている。マスターはそのままピエールを支えているガタイのいい二人のうちの一人に飛びかかったが、あっという間に投げ飛ばされて本棚の角に頭をぶつけてグゥと気絶した。

「マスター! マスター!」デイヴィッドが彼の頬を叩くとマスターは虚ろに目を開けた。

「面目無い…」と目を薄く開けてなんとか答えている。

「さぁ、自分の口から白状しろ!」ミロシュはナオミの顔に自分の目元を思いっきり近づけて、いつにない形相で睨みつけた。ナオミは止まらない涙の瞼をゆっくりと閉じて深呼吸をした。そしてカッと目を見開いて、自分の持っている本を思いっきりミロシュの頭にぶつけた。

「くそ!」二階の細い回廊でミロシュとナオミの取っ組み合いが始まった。ギシンギシンと音を立てている。それと同時に2階の本棚の本たちが震えだして鈍く低い音が降り注ぎ出した。  

「俺は知っている! 俺が暴いてやる! 本当のお前が誰だかな!」

古い本たちの揺れが小刻みに速まっているのがわかるほど騒がしくなってきた。 

「やめなさい!」その中に響くエヴァの叫び声。

「見せろ! お前の本当の姿を! ここでみんなに見せるんだ!」ミロシュの慟哭とも取れる雄叫びが再び天井から落ちてきた。数々の本が出たり入ったり唸り声をあげて本棚全体が振動しだし、部屋の気圧が急激に高まったようにみんなの耳がツーンとなった。

 上から押さえつけられているナオミは、腰から上が手すりの外に乗り出していた。長い髪の毛がだらんと垂れ下がっている。伸びた足先のパンプスが本棚に突っかかってなんとか落ちるのを食い止めていた。そこにギギ〜ッと扉の開く音がかすかに聞こえた。頭を抱えたブラジミールが2階の扉の前に立っている。ほとんど裸同然だ。彼は2人を見つけると落ちそうなナオミの手を掴もうとドタドタドタと細い回廊を走って慌てて2人に寄りかかった。ギギーっと床が歪んでいる音がする。

「このやろー!」と三つ巴の中でブラジミールが叫んだその瞬間、

「危ない! 気をつけろ!」誰かの声が響いた。

 それと同時に手すりの一部が渋い音を立てて割れ、崩れ落ちてきた。 

「キャー! お、落ちるぅ〜!」デイヴィットが目を覆った。

「何をする! じじい!」ミロシュが叫んだ。

「う、うわァー!」ブラジミールの声が天井にこだました。

「キャー‼︎」 

 契約書と書かれた本に挟まれた古い書類の数々が図書館の空間いっぱいに舞い、同時に2階の数々の本も本棚から飛び出した。そして、手すりが崩れ落ち、悲鳴とともに3人のシルエットが宙を舞った。

 エヴァ、ペトラ、デイヴィット、ヤナ、マスター、そしてピエール。その現場にいた学生たちの息が止まった。時間がゆっくりと経過していく。まるで、スローモーションのように。ある者は目を覆い、またある者は目をつぶって耳を覆った。 

 ツーンという無音の長い瞬間。

 そこにドサドサっと数多くの本の落ちる音が重なって、ドスンとひときわ装丁の重い本が落ちる音が響くとともにほこりが舞い上がった。それは、恐ろしい一瞬だった。ハラハラと舞い落ちる紙の中、誰もが恐る恐るゆっくりと目を開いた。

 数々の本と崩れ落ちた手すりの一部が床に散乱している。

 しかし、彼らの姿はその中にはなかった。皆が目を凝らしてみたが、そこには…、

 えっ? と見上げると、部屋の真ん中に三人が浮いていた。

 いや、正確にいうならば、ナオミが2人を右と左に抱えていた。ブラジミールは彼女にしがみついているといってもよかった。

 誰も言葉を発しなかった。何が起きているのか理解できなかった。

「…。」

 ナオミの背中からは紫色に黒光りするソリッドな羽根が生えている。

 その羽根が一回大きく羽ばたくと三人はゆっくりと滑らかに降りて来た。それはまるで天使が降臨するようだった。ナオミのつま先が床につくと、ブラジミールは彼女から離れてドスンと尻餅をつき、そのままあお向けの四つんばいで後ずさりした。ミロシュはゼーゼーと息をしながら一歩離れ、ナオミを指差しながら凍りついているみんなに振り返った。

「見たか? みんな見ただろう?」半べそをかきながら笑っている。「飛べるんだ。ナオミには悪魔の羽根が生えているんだ。ついに、ついに本性を現したな! お前は、そう、チェルトの子だ。アハ、アハハハハ!」

「ナオミ!」ピエールが叫んだ。ナオミの薄く大きく広がった羽根がバサっと一回羽ばたいてホコリが小さい渦を巻いた。

「地下鉄の事故の真っ暗闇で全てが見えたのも、お前がチェルトだったからだろ?」勝ち誇ったようなミロシュの声が響いた。

 ナオミは黒紫に光る羽根を広げたまま俯いて立っていた。頬には涙が光っている。その姿はチェルトというよりは不思議と天使に近いオーラを放っているようにみんなには見えた。

「お前はそれを黙っていたんだろう? この嘘つきめ!」

「私は嘘つきなんかじゃないわ!」ナオミは小刻みに震えていた。 

「じゃあ、なんで黙っていたんだ?」

「それは…。」ナオミの震えに合わせるように床に落ちた本が再び小さく震えだした。誰もがその振動に怯えているようだった。

「そうだ。本性がバレてみんなから嫌われるのが怖かったんだろ?」

「…」

「ピエールに嫌われたくなかったんだろ?」

 大粒の涙がポタポタと床に溢れるのがわかった。

「この世で普通に生きていけなくなるのが怖かったんだろう?」

「いい加減にしろ!」2人の大男に抵抗してピエールが叫んだ。「ナオミ、そいつの言うことに耳を傾けるな! そうだ! 俺は、君がなんであろうと…。」 

「ピエール!、ピエールを離して!」ナオミの声が天井に反射して和音のように聞こえる。

 そこにアダムとトマーシュそしてオルガが駆け込んできた。

「どうしちゃったの?」

 彼らは、現場がおかしな雰囲気なのをすぐに察知した。ナオミが羽根を広げて立っている。そして、それを見ている学生たちが息を飲んで緊迫している。

「ナオミちゃん!」オルガが思わず叫んで息を飲んだ。

「みんなはこの女に騙されていたんだ! そうだろ?」ミロシュは再び勝ち誇ったように皆を見回した。

 目を合わせたアダムとトマーシュがうなづいた。

「ナオミ! 安心しろ! 俺たちだ!」アダムが手を挙げた。

「お前だな。俺たちのアパートに無断で侵入したのは!」トマーシュは閃いていた。指先はミロシュを指している。  

「さあね?」ミロシュは2人を無視するそぶりでにやけている。

「みんな! うろたえるな! ナオミは僕らの大切な親友だ。そう、彼女はまさしくチェコ人の心なんだ! 僕らのかけがえのない宝物だよ。」アダムはキュッとナオミに投げキッスをした。 

「僕らは君が大好きなんだ!」思わずハモった2人の言葉が天井のフレスコ画に刺さるように響いた。 

「そうだ。ナオミ。君は、僕らの大切な仲間だ!」ダンディーなブラジミールの声だった。尻餅をついていた彼は毅然と立っていた。

「そうよ! 私たちは騙されてなんかいないわ! ナオミは私の親友よ! ねぇ!」今度はデヴィッドの声が甲高く響いた。「みんな、そうでしょ!」 

 図書室の空気の密度がものすごく重く厚みを増していた。そして、それまで騒がしかった本の振動はゆっくりと収まっていった。

 エヴァがミロシュの前に一歩踏み出した。

「ミロシュさん。ナオミが誰であれ、彼女は私たちの大切な親友です。だから…。」その眼差しはいつになく真剣だった。

「ハハハハハ。何を甘っちょろいことを言っているんだ。私が彼女の正体を暴いたんだ。彼女はもうこの世界では生きていけないんだよ。君達はこのチェルトの子と生活を共にするというのか? 馬鹿げている。そうだろ?」

 ミロシュが自分の顎に手を当てながらニヤリと笑った。

「よし、交換条件だ。彼女の望み通りピエールを解放しよう。その代わり、ナオミは我々が連れて行く。研究材料としてな。それが一番みんなのためだ。」

「なんですかそれは?」オルガが呆れている。

「最初からそのつもりだったんだろ?」トマーシュが吐き捨てるように言った。

「ナオミ、それでいいだろ? いや、どう考えても君の選択肢はそれだけだ。」ミロシュはナオミを睨んで言った。ナオミは下を向いて羽根をたたみながらがくんと膝をついた。ミロシュはナオミに近づいて手錠のようなものをしてその鎖から伸びる紐を引っ張った。アダムとトマーシュは、おい! とミロシュの前に立ちはだかったが、ナオミは2人を見て首を横に振った。

「皆さん、気をつけたほうがいいですよ。いいですか! 私に盾を突くことになるとブタ箱行きになりますよ。」ミロシュはフンと鼻で笑って周囲を伺った。そしてガタイのいい2人に命令した。

「いいか、俺がここを離れたらピエールを自由にしてやれ!」 

 ミロシュはナオミを引っ張りながら図書室を出て薄暗い回廊を妙に優しく歩いた。まるで繋がれた淑女をエスコートするように。 

「素敵なものが待っているよ。」

 外に出る大きな扉を開けると、そこには真っ白く巨大なロールスロイスが停車していた。

「粋な車だろ? この日を祝うために特別に用意したんだ。」

 彼は満面の笑みを浮かべながら精一杯の背伸びをしてナオミを見下ろした。黒い制服のショーファーが観音開きのドアを開けると、内装は真っ赤なレザーシートに覆われていた。 

「まぁ、座りたまえ。」

 2人が深く柔らかい革のシートに腰を下ろすと大きく開いた重いドアがカチリと閉まった。室内はしんと静かだった。スーッと運転席と後部座席の間仕切りが下がった。

「どちらまで?」

「馬鹿者! 作戦通りに大統領官邸だ。聞いていなかったのか?」

 運転手は黙ってうなづいた。ミロシュは前の棚から葉巻を取り出して火をつけると足を積んでくつろいだ。

「ファハハハハ。」と笑いながらフーッと深く煙を出した。

 窓の外にはエヴァをはじめとして後を追ってきたみんなが車を囲んでいた。アダムとトマーシュ、そしてデイヴィッドは車の窓を叩きながら扉を開けようとしたが、マスターが首を横に振りながその二人を制止した。車内にはカーテンが引かれていて何も見えなかった。ミロシュが首を縦に振ると、車はスルスルと動き出した。ピエールが大声で叫んだがその声は車内には届かなかった。


「それにしても…。」エヴァは車を見送りながら冷静に呟いた。「ナオミがチェルトだとしても…。」

「チェルトだとしても?」ペトラが怪訝な表情を見せた。

「羽根はあったけど、尻尾はなかったわ。」エヴァはあくまで冷静だ。

「確かに。角も見えなかったわよぉ。」デイヴッドがあっそうだ!とうなづいた。「それに、なんで羽根なのぉ?」

 呆然とした表情でオルガが呟いた。

「じゃぁ、ナオミちゃんはなんなの?」

 アダムとトマーシュが顔を見合わせ再びうなづき、

「みなさん! 私たちは、ナオミとルームシェアーしているものです。」と声をあげた。一同が二人に注目した。

「ナオミは…、ナオミはチェルトとエンジェルのハーフなんです。」

「ええ⁈」

「実は、先日、僕らのアパートが荒らされて…。」

 彼らは何が起きたかをかいつまんで話した。

「そこで彼女は、私たちの目の前で告白したんです。」

 一同が静まり返った。


 対向車のヘッドライトに照らされながら車は滑るように走っている。

「さすが、ロールスロイス。まるで重厚な絨毯の上を滑走するかのようだ。僕らの門出には最適だ。そうだろう?」 

「僕らって一緒にしないで。これからどうするって言うの?」

「さあね。まずは大統領にご面会だ。それから…。」

「それから?」

 ガタンと車が大きく揺れた。 

 ミロシュはまた不敵な笑いを浮かべた。

「フン、所詮車には変わりないか。」コンコンとまたショーファーを呼んだ。スーッと小窓が下がった。

「おい、丁寧に運転しろよ。高い借り物なんだから。ハハハハ。」 

「へい!」という運転手をミラー越しに見たナオミは急に背中がゾクゾクしてくるのを感じた。…その眼差しには見覚えがあった。そのミラーを見続けると彼と目があった。運転手はニヤリと笑いながらウインクして、何かを促したようだった。ナオミは窓のカーテンをそろりとめくって外を眺めると、ミロシュに振り返り、彼の両手にそっと手をかけた。 

「ミロシュさん。」とご満悦なミロシュに優しく語りかけた。

「? なんだ今更。何か最後の願い事でもあるのかな?」フンと鼻で笑っている。

「良い旅を。」ミロシュに向かって微笑みながら投げキッスをした。 

「?」ミロシュはなんのことかわからず思わず自分の側の窓を覗いた。

「…?」顔を戻したミロシュはすぐに理解できずに、もう一度窓の外を覗き込んだ。

「おい! なんだ? どうなっているんだこれは?」

 見えるのは空から見下ろすように流れる夕焼けに輝くプラハの街並みだった。

 突然車内に強い風が吹いてきた。葉巻が一気に燃え上がった。振り返るとナオミ側の扉が開いている。ナオミは夕焼けをバックに羽根を伸ばして車の外に浮いている。

「おい!」という間も無く、ナオミのウインクと共にバタンと扉が閉まり、カチッとロックする音が優しく聞こえた。

「なに、なんだこれは?」いつのまにか彼自身の手首にナオミを拘束していたはずの手錠がかかっている。「どういうことなんだぁ!」拘束された両手で運転席のパーテーションを激しく叩いた。

 スッと小窓が開いて振り返った運転手には、立派な角が生えている。

「!」ミロシュはギャーと声をあげた。

「あなたにぴったりの素敵なところにお連れ致しますよ。フファファファファ。」スーッと滑らかに小窓が閉じていった。

 ナオミは車と並行して飛ぶとクルンと反転して運転席の男に声をかけた。 

「ルチフェール、ありがとう。」

 彼女が手を伸ばすと彼は優しくその手を握ってキスをした。

「ナオミ。今度はゆっくりとペクロに遊びに来るがいい。歓迎するぞ。」

 ルチフェールは笑いながらナオミに長い舌をベロンと出すと車の速度を上げて閃光の中に消えて行った。


「みんな、ナオミを取り返しに行こう!」アダムが叫んだ。

「彼女は僕らの魂だ。まさに現代のチェコのポハートカなんだよ!」トマーシュも声をあげた。

「そうだ。僕らの宝物だ! チェコの新しい希望なんだ。」ブラジミールも腕をあげた。

「大統領官邸、そう言っていたよな。みんなで行こう! ここから遠くないぞ!」

 マスターは黙って夕焼けに染まる天空を見ていた。そして、歩きだしたみんなを制止して紫色の空を指差した。

「え?」

「よく見るんだ!」マスターは笑顔になっている。「ほら、あそこ!」

「あ、あの白い車! あんなところに? どうして⁉」ペトラが涙を流しながら口元を押さえている。 

 夕日に染まってピンク色に輝くロールスロイスはプラハの街上空をゆっくりと旋回してプラハ城の上空を通過したと同時に閃光に包まれてフッと消えた。

「…」

「あれは…、あれは、ミロシュが用意した車なんかじゃない。」エヴァがメガネを掛け直した。

「きっと、チェルトの車だったのね。」ヤナが放心したように呟いた。

「間違いないわ。」ペトラの言葉にアダムとトマーシュがうなづいた。

「私たちは、真実のおとぎ話を見ているのよぅ。」デイヴィッドの顎がずれそうだ。

「新しいポハートカの始まりだな。」マスターが拳を叩いた。

「おいマスター。乾杯の用意だ! ありったけの黒ビールだ。」ブラジミールが手を挙げてマスターに声をかけた。

「あいよ! そうこなくっちゃ。」腕組みしていたマスターは、気が付いたようにテントに走って、ぼーっとしているアシスタントを小突きながら片っ端からジョッキにビールを注ぎ始めた。

「でもナオミは? ナオミはどこにぃ?」デイヴィッドが空を見つめている。 

「絶対帰ってくるよ。」マスターが大きくうなづきながらウインクした。 

「それまでに乾杯の準備しなくちゃね! あたしにも手伝わさせて!」オルガがマスターの横で腕まくりをして手伝い始めた。「私は、あの子のプラハの母なんだから!」

 キャスト、スタッフの全員にジョッキが渡った。紫色からだんだんと沈んでいく街を見ながら皆がまた静かに放心状態になっていた。 

「とりあえず、みんなで乾杯しよう。それしかないだろう。」ブラジミールが苦笑いをしながらため息をついてみんなを励ました。

「そうですね。じゃ監督。」

「我々のポハートカに! そして…、」エヴァは促されるままに声をあげた。みんながジョッキをかざした時にピエールが飛び上がった。

「ちょっと待った!」 

 女のシルエットが夕焼けに染まった街の間から見えてくる。ゆっくりと坂を登ってくる。長い髪が尖塔をバックになびいている。

「ナオミ!」ピエールはマスターのビールを奪って両手にジョッキを持って走り出した。

「ナオミー!」揺れるジョッキから黒ビールがこぼれ落ちている。 

 みんなが後を追いかけてきた。

 トボトボ歩いてきたナオミが顔を上げた。 

「ナオミ!」ピエールが半分空になったビアジョッキを両手に持って立っている。ナオミはその滑稽さにくすっと笑いながらもどうしたらいいかわからないとゆっくりと瞬きをした。ピエールの心臓は今にも破裂しそうだった。ナオミを見つめた。彼女の瞳は深く輝いている。

「ナオミ。僕は、君のことが大好きだ。そのままの君が大好きだ。それが、それがずっと言いたかった。」 

 ピエールは、ジョッキを持ったままナオミに優しく近づいて強く抱きしめた。

「こんな私でも?」ナオミの頬はまた涙で濡れてきた。

「ああ、そのままの君だ。そのままの君が大好きなんだ。」

 ピエールはナオミを見つめ、キスをした。そして、ゆっくりと離れてジョッキを渡した。

「ナオミ!」エヴァがナオミを見てうなづいた。

「みんな、私は、私は…。」  

「ナオミぃ、あなたはいつでも私たちの親友よ。決まっているじゃないのぅ。」デイヴィッドも涙を拭いている。 

「そう、ずぅっと!」ペトラもヤナも笑顔だった。 

「毎朝、あなたを待ってるわよ!」オルガのウインクは音がなるようだった。

「いつもいつも。いつでも一緒だよ!」アダムとトマーシュがジョッキを手にステップを踏み出した。藍色になり出した空にオレンジ色の街灯が点灯して深く美しいコントラストが街に広がっている。

 コホンとブラジミールが咳払いをした。

「それではみなさん。こんな坂道の途中ではありますが、ね、プラハいや、チェコをあげて今日は聖ミコラーシュの日。我々プラハの街を眺めながら乾杯といきましょう。」

「おー!」と言う声がこだました。

「チェコの新しいポハートカに。我々のチェルト・ナオミにナズドラビー! 乾杯!」

 ビールを飲みながら道いっぱいに広がってみんなが踊り出した。

 そんな不思議な集団の乾杯を横目で見ながら聖ミコラーシュとエンジェルとチェルトに扮したグループが坂を下りてきた。 

        

 そう、チェコッとチェルト。


   

  終わり


チェコ人にとってチェルト(悪魔)は、昔から神様よりも身近な存在だ。水の妖精であるボドニークと共におとぎ話に出てくる代表選手である。

 チェルトは悪い人間を嗅ぎつけて、そいつらをペクロ(地獄)に連れて行ったり、人の弱みにつけこんで、無理な契約をしてその代償に地獄行きを用意したりする。

 チェルトの王であるルチフェール以外はどこか間抜けなところがあり、時々人間の知恵に負けてしまったりもする。それだけに、なんだか憎めないところがあり、庶民も近しい感じを持っている。だから、それらが登場するの映画も人々の娯楽として色々と制作されてきた歴史がある。

 クリスマスのアドベントが始まる12月の最初の日曜日は、ミコラーシュと言って、聖人ミコラーシュ、エンジェル、そしてチェルトの3人組に扮するいろんな有志のグループが街中を徘徊し、子供達に1年間いい子だったかを訪ねて回る。ピンポーンと訪ねてくると、チェルトがこう叫ぶのだ。

「俺はお前の悪いことを知っているぞ! どうだ? 本当なのか? そうだとしたら、この麻袋にお前を入れてペクロに連れて行くぞ!」とツノが生えた真っ黒の恐ろしい顔で子供達に問い正すのだ。真に受ける子供達は涙を浮かべたりしながら、聖ミコラーシュの質問に答えたり、バースニチカ(伝統的にチェコに伝わる詩歌)を謳ったりする。そうすると、天使が、いい子だったのねとプレゼントを渡してくれるのだ。それは両親があらかじめ用意したお菓子袋だったりするのだが、その中にジャガイモが入っていると、それは、気をつけろ! 悪いことをしたってことを知っているぞ! という注意であるとも言われている。

 だいたい、その3人組が1つのユニットになっていること自体が滑稽なことでもあるが、当日は若いグループからそれなりの年齢のグループがそれぞれの志向を凝らして扮装しているので、それだけでも楽しい行事である。もちろん、何歳までそれを信じているかは個人差があるだろうが、チェコ人にとっては一年の大切な行事の一つである。

 しかし、残念なのは、ここ数年そんな手作りの伝統がなんとなく薄れてきたようにも感じる。経済が発展し、庶民が以前より裕福になると共に便利な環境を築き上げる社会。それは素敵なことかもしれない。しかし、それに伴って、何か欠かせないものを忘れてしまっていることに気がつかないこともあるのではないか。 

 確かに、ミコラーシュ当日にはスーパーマーケットや地下鉄の中で企業が用意したそんなグループを見かけたりするのだが、今までのように自作自演の者たちを街で見かけることが少なくなったように感じる。それは、自分たちが自らが参加するものでなくなてきてしまっているのではないかということだ。そうなると、伝統の言い伝えなどが子供達の心の中に響くのだろうかと危惧してしまう。コマーシャライズされた催事の一つとなり、情報過多の中では現実が最重要視されるに連れて、心の余裕や豊かさを育むチャンスがなくなってきてしまっているのではないかと。

 そう、おとぎ話を子供達に伝えることは、とても大切なことに違いない。それは、心を豊かにし、人の話を聞いて、お互いのコミュニケーションを構築することができる心を育てるのになくてはならない基本的はことではないかと。

「子供達がなにを考えているのかわからない。」と嘆く以前に今の大人たちが気をつけなければいけないことはたくさんあるのではないかい? とチェルトが困った顔をしながらこちらを見ているような気がしている。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ