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チェコっとチェルト 青春編  作者: 足立 真仁
2/3

中編

 オーガニック8のスムーティーは日に日に美味しさを増している。窓から差し込んでいる光がグラスにキラキラ反射して爽やかさを倍増させている。

「はい、ナオミちゃん。たまにはこんなものも食べなさいよ。」オルガが持ってきたのは小さな白い皿に載ったブフタ(蒸しパン)だった。 

「トラディショナルなトヴァロフのブフタ。美味しいわよ。今日のサービス。」オルガはニコッと笑ってナオミの耳元で囁いた。

「お店の奥の角に座っている若い男性。あなたのこと聞いていたわ。気をつけてね。変な人じゃないといいんだけど。何かあったら協力するからね。」オルガはウインクして厨房に戻っていった。ナオミは、言われた方をちらっと見ると、確かに若い男性がこちらを伺っているようだった。誰だろう? 昨晩も彼だったのだろうか? でも、どこかで会ったことがあるような。誰だったかなぁと記憶を辿りながらパクッとブフタにかぶりついた。

「!」

「オルガさん! これ美味しい!」思わず口からパンカスをこぼしながら厨房に向かって妙な声で叫んだ。オルガは厨房から顔を覗かせるとニカッと笑った。角の若い男性もプッとおかしく吹き出した。

 ナオミはお昼用に2つブフタを買った。ひとつは同じトヴァロフ入り。もうひとつはケシの実入りだ。オルガは1+1は3とか言ってひとつおまけしてくれた。茶色い紙袋を手にしたナオミにオルガは目で”気をつけてね”と合図した。ナオミが店を出て行くと、若い男性もすぐさま支払いにカウンターに来た。オルガは小銭がないわとか言って時間を稼ごうとしたが、彼は、もういいです! と店を飛び出していった。ナオミちゃんに何か起きなければいいけれどとオルガは少し心配になってそわそわしながら彼が座っていたところを片付けに行くと、小さな黒い手帳が椅子の下に落ちていた。 

「警察…。」オルガはわけがわからなくなって思わず自分も店の外に出て2人の行く先を見送った。

 停留所でトラムを待っていると、若い男が追いかけてくるのと同時に、17番のトラムが2両編成でやってきた。ナオミは先頭車両の後ろの乗車口から、男はそれを確認して後ろの車両の真ん中の乗車口から乗り込んだ。朝の通勤時間帯ということもあり、車内は結構混んでいた。男はナオミを確認するためにゆっくりと車両の前の方に進んだ。旧型トラムの車両はそれぞれが独立しているので車両間の移動はできないが、前後左右は大きな窓で囲まれているため、どちらの車両からもそれぞれがよく見える。混んでいる人の合間から、先頭車両の後ろで長いこげ茶の髪をした女の姿がちらちら人の間から確認できる。トラムはいくつかの停留所に停車して、ヴルタヴァ川を渡るところで大きく左に傾いた。一瞬男は女を見失ったかと思ったが、確かにまだ乗っている。降りるのはこの先、ルドルフォルムの大学前のはずだ。 

 と、男の肩をぽんぽん誰かが叩いた。うるさいなぁと手で払い、知らんふりしていると、また肩を優しく叩かれた。

「こんにちは。」と声をかけられた。男は振り返るとびっくり仰天して

「わぁ!」と大声をあげた。目の前にいるのは、追跡しているはずの女、前の車両に乗っているはずの女、ナオミである。 

「さっき、オーガニック8にいましたね。何か私に用があるんですか?」

 男は恥ずかしそうに頭を掻いている。

「最近、どこかで一度お会いしたような気がしますが…。」ナオミは男に目線を合わせようとすると、男は外を向いて首を横に振った。

 ルドルフィルムの交差点を過ぎてから、トラムは停留所に停車してドアが開いた。 

「後をつけられるのって、気持ちいいもんじゃないわ。」とナオミはキッとした眼差しで強く言ってトラムを降り早足で歩き出した。取り残された男は一瞬どうしようかと戸惑ったが、閉まり始めた扉を力づくで抑えて下車してナオミを追いかけた。

「ナオミくん、待って。」

 ナオミは、振り返って彼を見直したところで、それが誰なのか思い出した。 そう、地下鉄の一件でナオミにカバンを渡してくれた彼だ。

「私は、こういうものだ。」と言いながら、男は自分のジャケットを弄っている。と思ったら、ズボンのポケットにも手を入れて何かを探している。

「あれ? ない…。」男の顔はみるみる青ざめていった。


「警察手帳はオーガニック8に落ちてたそうです。」ナオミはオルガにありがとう、大丈夫だよと言って携帯を切った。

「ありがとう。お恥ずかしい。」その刑事は頭を掻いた。2人はコンサートホールの前の大階段に座っていた。

「今日は私服なんですね。だからわからなかったんです。ついこないだだったのに。」

「実は、今日から刑事として任務に就いている。だけど、しょっぱなからこれじゃぁ…ね。」面目無さそうに頭をかいた。

「私、変なストーカーかなとも思ったんですけど、刑事さんだったんならちょっと安心しました。あれ、でも変か。だって、普通だったら警察に尾行されるのって悪い人か怪しい人ですよね?」苦笑いと疑問の混じった複雑な表情で続けた。「でも、私はないも悪いことしていないから…。」とナオミは彼を見た。若い刑事は所在ない感じで階段に目を落としている。

「あの、このブフタ食べませんか? オルガさんとこのこれ、すんごく美味しいんですよ。」ナオミは自分が朝食べたトヴァロフの方を差し出した。男は情けない表情を見せながら思わず受け取ってほうばった。

「あ、本当だ、美味しいなこれ。」思わず彼女に見せた笑顔は若々しく素敵だった。

「どうして私を尾行したんですか?」ナオミの目線は鋭かった。

「それは、職務上言えない。でも、決して悪い意味じゃない。大丈夫。」

「大丈夫って言われても、よくわからないわ。それに、もう尾行しないって約束してくれますか?」

 グフっと男はブフタを喉に詰まらせて、咳をした。

「私から提案があります。私の電話番号を教えます。だから、あなたの名前と電話番号も教えて。必要な時はいつでも電話してくれていいわ。もちろんメッセージでもいい。だから、後をつけるのはやめてくれますか。」

 ふう、と男は額をぬぐいながらため息をついて携帯を取り出した。 

「僕の名前は、ピエール。見えないかもしれないけれど、フランス人との混血だ。」

「ピエール…。」

「その通り。じゃ君の携帯に電話してみるよ。」

 ナオミは自分の電話番号を教えると、彼はすぐにダイアルした。ナオミの携帯が鳴った。

「確認オッケー。ちょっと待ってね、連絡先に追加するから。」

 そんなナオミを見ている彼は、自分がなんで彼女を尾行しなければならないのか疑問に感じていた。彼の心の印象が違うと言っているのだ。が、それもまだ確かなものかどうか、自分でも自信がなかった。

「ピエールさん。」ナオミの呼びかける清々しい表情に彼はどこかときめきのようなものをを感じた。

「もう一度言いますけど、私が悪いことをしていないんだったら、大丈夫っていうんだったら、もう尾行しないって約束してくれますか?」ナオミはどこか困った顔をしたピエールの目の前に小指を突き出した。

「これ、指切りっていうんです。お父さんから教わったの。」

「指切り?」

「そう、約束の印。本当は指切りゲン…なんとかっていうんだけど、小指と小指で握手するの。守らないと…、」

「守らないと?」と言いながら、二人の小指が絡み合った。

「大変なことになるって…。」

 二人は上下する小指越しにじーっと見つめ合って指を離した。

「なんだか不思議な力がありそうだ。」ピエールは顔を赤らめているようだった。そういうナオミもなんだか少し上気している自分を感じた。時計を見ると、あ、やばい。もう授業が始まる時間だ。 

「じゃぁ、またね。」と軽く手を上げて駆け出した。また? ナオミはなんとなく微笑んでいた。ピエールにしてみれば仕事の遂行ができなかった…わけだが、何故かその必要はないと感じていた。だが、なんと報告すればいいのだろう。ふうっ、とため息をつきながら、階段から見える交差点に目をやった。多くの人に紛れて歩く姿を追っているとなんだか不思議な気持ちがわいてきた。彼女を守ってやらないと。小さく見えるナオミのシルエットが建物の陰に消えると、いやっとピエールは首を横に振って真剣な表情に戻った。


「そうね、今日のお昼は冷凍のエビとコリアンダーで…。」ラダナが冷蔵庫を覗いている。

「OK。タイ風パスタだね。」真人は棚からスパゲティーを取り出した。大きめの鍋に水を入れてコンロのスイッチをひねった。と同時にピンポーンと玄関の呼び鈴が鳴った。お皿の準備をしているラダナが玄関に足を運んだ。扉を開けると、そこには若い見知らぬ男性が立っていた。二冊の本を持っている。あぁ、最近多い新興宗教の勧誘か。

「あの、うちは興味ありません。」と扉を閉めようとすると、

「ナオミさんのお母さんですね?」と爽やかに尋ねられた。「実は、彼女から頼まれた本を届けに来たんです。」

 え?と見直すと、目は優しくインテリジェンスで紳士的だった。

「大学の授業で必要だって聞いたもので。あ、私、リベレッツの図書館で司書をしていますミロシュ・ノイマンと言います。」

「あ、失礼しました。母のラダナです。わざわざありがとうございます。その本ってナオミがオーダーでもしたのですか?」

「いえ、私が大学で講義した時に彼女が必要だって言っていたのでお持ちしたんです。」彼は本を差し出した。

「ご足労ありがとうございます?」と挨拶すると、いえ、と言いながら、彼は既に玄関に入って来た。ラダナはどうぞとリビングに通すと鍋に塩を入れてかき混ぜている真人に声をかけた。

「ナオミの彼氏かもしれない人がきてるわ。わざわざ本を持ってきてくれたの。ほら、アンディーが言ってた。」

 彼はエプロンをつけたままリビングに行って軽く会釈した。

「ナオミがお世話になっています。父の真人です。コーヒーにしますか? 紅茶にしますか? それとも緑茶?」

「あ、お構いなく。じゃ、緑茶で。」 

 少し妙な感じもしたが、受け答えはさっぱりしてた。真人は、パスタを沸騰した鍋に入れてお茶の準備を始めた。すると、ピンポーンとまた玄関のベルが鳴った。ラダナが玄関の扉を開けると、今度は、眼光の鋭い壮年の男と制服姿の警官が立っていた。

「ナオミさんのお母さんですか? お父さんもいらっしゃいますか?」 

 なんだか不吉な予感がした。

「ナオミに何かあったんですか? マヒト! マヒト!」ラダナは大声で呼んだ。キッチンにいたマヒトは沸騰しているケトルの音でかすかにしか聞こえなかったが、パスタの入った鍋をかき混ぜると、玄関に向かった。警察手帳をかざされたラダナの顔は青白くなっていた。

「あぁ、真人さんですか。ちょっとに警察に来てもらえませんか? 不法滞在、或いは、スパイの疑いがあります。」

「はぁ? 私に?」

「いえ、お二人ともです。事情聴取したいので。すぐに。」

「なんのことかわかりませんが?」真人とラダナは顔を見合わせた。

「それに、いますぐって言われても…。お客さんもいるし。」真人はラダナの肩を自分に引き寄せた。

「言うことを聞け。公務執行妨害になるぞ!」男の態度が急変した。

「わかりました。準備します。」と真人はくるりと向きを変えて歩き出すと、若い警官がおいっと言いながら真人に飛びかかるようにかぶさって、真人の両手を締め上げた。

「何するの?」ラダナが声を上げると男は言った。

「逃げようったってそうはいかない。」

「何言ってんだ。台所のパスタの火がかけっぱなしなんだよ!」真人はもがきながら前進した。壮年の男は鼻をこすり合わせるように真人の前に立ちはだかった。

「火はきちんと止めておくよ。その二人を車に乗せろ!」顎で支持すると、男はキッチンへ行ってグツグツ茹っているコンロのダイアルをゼロに合わせた。

「ふん、なかなかセンスのいいキッチンだな。」あたりを見回しながら独り言を吐くと充電中のスマートフォンを手に取って、客に目配せをすると車に向かった。リビングにいたミロシュは一人取り残された。

 ラダナと真人は手錠をされてパトカーに押し込められていた。壮年の男が戻ってくると、パトカーは、黙って遠目に見ている近所の人たちの中を駆動輪をスリップさせながら発進した。誰もいなくたったキッチンのサイドテーブルの上にあるハンドバッグのポケットから顔をのぞかせたラダナの携帯が振動していた。

「警察の連中は、雑な奴が多いな。」その携帯をミロシュは取り上げてさらに辺りを見回した。「確かに、このキッチン悪くないかもな。」

 車が少し進んだ所で前に乗っている男が後ろの警官に目で合図すると、真人とラダナは紙袋のようなものを頭から被せられた。

「何するの?」

「警察に行くのになんでこんなもの必要なんだ?」

 二人の声には誰も反応しなかった。真人はもがいてみたが、その袋はガサガサと音がするだけだった。


 大きなスーパーマーケットの駐車場についたアンディーは何か入り用はないかとマミンカに電話してみたが、出る気配がないのでそのまま車を後にした。そういえば、コショーがないとか言っていたのを思い出して、買い物かごには幾つかのスパイスを入れた。アパートに帰る途中にそれを渡していこうと家のある通りの角を曲がると、向かいのおばさんが犬を散歩しているのが視界に入った。挨拶をしようと車の速度を緩めると、気がついたおばさんが突然車の前に立ちはだかるように車道に出てきた。犬ではなくておばさんが。思わず彼は急ブレーキを踏んだ。

「危ないじゃないですか。びっくりしたぁ。」 

 が、彼女はそんなことは構わずに、慌てた様子で運転席に身を乗り出してきた。

「アンディー、今家に行っちゃダメ。警察がいるわ。」

「え? 警察? どこに?」 何を言っているのか理解できなかった。

「あなたの家にいるのよ。真人とラダナが連れて行かれたの。」

「どういうことですか?」

「わからない。でも、私はあなたたちが警察に連れて行かれるなんておかしいと思う。だから…。」

 おばさんは、慌てている。でも、僕らを守ってくれようとしているとアンディーは直感した。

「ありがとう。」アンディーは静かに車のドアを開けて、おばさんと家が見えるところまで歩いて行った。確かに、家の玄関前にはパトカーが止まっていて、扉の前には警官が立っている。近づかないほうがいい気配だ。しかし、どういうことなのだろう。思い当たる節はない。確かに尋常ではない。しかし、そんなこと、チェルトとエンジェルのことは誰も知らないはずだ。いや、たとえそれが知れ渡ったとしても、なぜ警察沙汰にならなければいけないんだろう?

「あなた、何か心当たりはあるの?」おばさんがアンディーの顔を心配そうに覗き込んだ。

「何もないよ。きっと何かの間違いだよ。」と家の方に進もうとすると、おばさんはアンディーの肩をぎゅっとつかんだ。

「アンディー、私はあなたたちを信じている。でも、今は行っちゃダメ。何か嫌なものを感じるわ。巻き込まれないようにして。で、みんなを助けないと。もしかしたら、あなたのアパートにも警察が…。気をつけてね。」

 アンディーは、おばさんの真剣な眼差しにその勘の鋭さを感じた。こういう時のおばさんのパワーが強く正しいのはどこの国でも不偏である。さらにおばさんの目の奥が光った。

「そうだ! ナオミちゃんは? 彼女にも連絡しないと。早く!」

 確かにそのとおりだった。アンディーはズボンのポケットを弄ったが、携帯は車のダッシュボードに置いたままだった。

「ありがとう。」とおばさんにお辞儀をすると、早足で戻って通りの角に止めておいた車に乗り込み、携帯を手にしてナオミに電話した。が、授業中なのかナオミは出なかった。『至急連絡したい』とメッセージを打ってどうしようかと考えながらエンジンのキーをひねろうとしたが、キーが刺さっていない。あれっ? とまたポケットを弄ると

「お探しものはコレかい?」と薄笑いを浮かべた警官が指先にキーをぶら下げて窓からこちらを覗いている。万事休す。ハァとため息をついてフロントウィンドウの先を見ると、おばさんがこちらを見て小さくうなづきながら、くるっと向きを変えていくのが見えた。

「アンディー君だね。ご同行願えますか?」

 随分と紳士的な対応だった。そりゃそうだ! 悪いことなんか何もしていないんだから。それにしても、一体どういうことなんだろう。アンディーは、警官に挟まれながら自分の車の後部座席で考えていた。



「だいたい警察の人が警察手帳を落としていくなんて。いくら新米でもそんなの基本中の基本でしょ?」ピエールはそうとうに小ちゃくなってオルガの前に座っていた。いや、正確には、オルガを中心に店の人と常連のお客さん数人に囲まれていた。

「どういうことなのか私に言わないのなら、手帳は返してあげないわ。」

「いや、そう言われても…。私自身は、ナオミさんが何かを仕出かしたなんてこれっぽっちも思っていないんです。実のところ、私もどうして彼女を尾行しなければいけないのか、よくわかっていないんです。」

「はぁ? あなたねぇ。」オルガを始め、みんな呆れた顔をしている。

「それに…、」

「それに?」オルガはアンティーク調のテーブル越しにさらにぐいっと身を乗り出して彼を覗き込んだ。

「実は、さっき彼女と話したんですけど、彼女はとっても爽やかで素敵で…。もう一度言いますが、自分でなぜ尾行しなければいけないのか私自身、とっても疑問を感じたんです…。」ピエールはなぜか言葉が続かなかった。

 オルガはバンと立ったかと思うと、エスプレッソマシーンの前まで行ってキメの細かい泡のたったエスプレッソを作ってきた。 

「私のとっておきだよ。」

 ピエールは砂糖を入れてくるくるっと小さなスプーンでかき回すとクイッと飲んだ。そして、溶けずに残った砂糖をスプーンですくってペロッとなめた。

「美味しい。こんなに美味しいエスプレッソを飲んだの久しぶりだ。」周りの人がうなづいている。

「あなた、悪い人じゃないね。エスプレッソの飲み方を知っている。美味しいって言ったのもお世辞じゃないね。」

 オルガは警察手帳を机の上に置いて彼に差し出した。

「あなたにはあなたの仕事上の都合があるだろうけど、ナオミちゃんはね、」とオルガはピエールの瞳の奥を見つめた。

「ええ、私は、彼女を守らないといけないって思いつつあるんです。ちょっと私の行動と矛盾していますが。なんだか、彼女には不思議な力を感じるんです。でも、それはまだまだ弱いっていうか…。」 

 ピエールは地下鉄のことや、今日のトラムでの出来事を話した。オルガはふうん、そうなんだ。とうなづいた。 

「オルガさん。安心してください。私はほやほやの新米刑事ですが、職務以前にそれが善なのか悪なのかはわきまえているつもりです。」ふにゃふにゃだったピエールは、少ししゃっきりして立ち上がった。

「仕事に戻ります。」そう言うと、くるっと身を返して、カランカランと扉を開けて出て行った。が、すぐに戻ってきた。 

「エスプレッソ代払うの忘れてました。おいくらですか?」

 オルガはニカッと笑って首を横にふった。


 午前中の授業が終わってメンサの扉を開けるといつものテーブルにエヴァが座っていた。ナオミが手を振ると、彼女は親指を突き出して嬉しそうな顔をした。ナオミはチャイ(お茶)とトラチェンカ((フロマージュ・ド・テート)をトレイにとるとエヴァの向かいに座った。

「おめでとう。審査に通ったのね!」

「ありがとう。ナオミの言った通りに自信を持ってしっかりと脚本の内容を説明したら三つのうちの一つに入ることができたの。」

「時代遅れの教授も大丈夫だったんだ?」

「それがね。こう言うの。”私は君のプランには全面的に賛成するわけではない。しかし…、“」

「しかし?」ナオミはお皿の匂いを嗅ぎながら口を尖らした。

「そう、”しかし、面白そうだから、賛成に票を投じた。君の今日の説明と台本にはそれなりの自信と裏付けを感じるよ。迷わないでやってくれ給え。期待している。”だって。」

「昨日の敵は今日のなんとかね。そうか、興味をそそったわけね。さすが、エヴァ。あなたはそうでなくっちゃ。」

「ナオミ!」エヴァは怖い顔をしてナオミをぎゅっと睨んだ。

「え?」ナオミはパクッと物にかぶりつきながら目をパチクリさせた。

「あなたが主役なんだからね。ヨロシク!」エヴァは目の奥で笑っている。ナオミはトラチェンカの酢に浸かった玉ねぎを喉に詰まらせてゴホンゴホンと咳をした。その背中を優しく撫でたのはペトラだった。

「ナオミったら子供みたい。」今日はなんだか一段と大人っぽくて艶っぽい。思わずナオミとエヴァは顔を見合わせた。コクンと首を傾げたペトラは嬉しそうに昨晩のことを話し出した。 

「彼がよりを戻したいって言ったの。一緒に来ないかって。」

「来ないか?…て、それって!」

「プロポーズ!」ナオミとエヴァのオクターブ高い大声がハモった。 

「そう解釈してもいいかも。」ペトラは落ち着き払ってうなづいた。

「でも…。」

「でも?」

「断っちゃった。」

「え〜!」ナオミとエヴァは思わず顔を見合わせて抱き合った。 

「彼は、私に振り返ってくれた。それだけで満足なの。それ以上は必要ないの。そう、彼とは別れる運命なの。そう決まっていたの。」

 ペトラの強い表情に潤んだ瞳から雫が一つ頬を伝った。

「ペトラにハッピーエンドは似合わないのかも。」とエヴァはこぼした。

「そんなことはないと思うけど。」と言ったナオミもしくしくと泣いているペトラを見ているとエヴァの言ったことが間違っていないような気もする。が、なんと言って慰めていいのか、希望をもたせたらいいのかすぐに言葉にはならなかった。 

「ペトラの選んだ道は、きっと自分の将来を見極めたから。と解釈するべきね。」エヴァの分析は奥が深い。うんうんとナオミもうなづきながら、ふうっとため息をついて頭を上げると、メンサの入り口にはデイヴィッドが立っていた。あぁ、このいつものタイミング。もちろん、何かがあるに違いない。さぁ、極め付け。ところが、彼はカウンターでコーヒーを受け取ってからみんなのいるテーブルにしゃなりとやって来た。それなりの騒動を期待した3人にはちょっと拍子抜けだった。そして、落ち着き払って砂糖とミルクを入れてコーヒーをすすった。そんなデイビットの口がゆっくりと開いた。

「皆様に、ご報告があります。」

いつになく神妙だ。それは、まるでレディー・デイヴィッドだ。

「私、来月より店長を任されることとなりました。ですから、みなさんとはこれまでの付き合い方を変えないといけないと思いまして…。」  

 エヴァは後ろに仰け反り、ペトラは目が点になり、ナオミは開いた口がふさがらなかった。

「今度からは、くれぐれも店長って呼んでくださいな。」

沈黙が漂った。デイビットは鋭い目つきでみんなを見回した。そして、ラテンダンサーよろしく艶やかにくるっと一回転した。

「なーんて! な訳ないでしょう!。」デへへへと笑っている。 

「信じた? 信じたぁ?」デイビットはみんなを指差しておちゃらけている。

「あぁ、いつものあなたでよかった!」3人はため息を漏らした。

「で、どこまでが本当なの?」エヴァがデイビットの肩を小突いた。

「店長の話は本当! だから、来月の中頃にはスーパーセールをやるつもり。みんなにはさらに特別にしてあげるから絶対来てねぇ〜!。」と大きくウインクした。

「絶対に行く!」ペトラが手を挙げた。「だってあのドレス、効果抜群だったもん。」

「え? よりが戻ったの?」デイヴィッドの目が瞬いた。

「ううん。私が彼を振ったの。」ペトラの瞳はウルウルしている。

「え〜! そりゃ、効果ありすぎたのね〜!」デイビットの反応はみんなのテンションをさらに上げた。

「じゃあ、今日の夜はポハートカでお祝いね!」ナオミは予約を入れようと自分の携帯を取り出した。

「あれ? 電源が落ちちゃってる。」電源を入れようとしたが、うんともすんとも言わない。「いつの間にかバッテリー切れみたい。」

 それを見て、エヴァが代わりに素速く電話した。

「じゃあ、開店の時からよろしくね。」あいよーという店長の大声が携帯のスピーカーから聞こえてきた。あ、そうだ! とナオミがすかさず、エヴァの携帯に向かって叫んだ。

「もしかしたらもう一人プラスね!」

 みんなが、ナオミに振り返った。

「私の友達も呼んでいいかな。ちょっと新しい感じの子だけど。」

「もちろん、ナオミのお友達なら、ねぇ〜。」みんながうなづいた。

 ナオミは財布の中からタトゥースタジオの名刺を取り出して、エヴァの携帯を借りて電話した。

「ヤナっていう中学時代の友達なの。この前、バスの中でばったり会って。…あ、アホイ! 突然だけど、実はね…、」

 みんな聞き耳を立てている。ナオミはみんなを見ながらうなづいた。


 ピエールが警察手帳を手にしてオーガニック8を出てからしばらく歩いていると、携帯が鳴った。ミロシュからだった。

「はい。ピエールです。何か?」

「ヤァ、お疲れ様。ところで、ナオミの様子はどうかな?」

 ピエールはなんて答えたらいいのか躊躇した。

「もしもし、聞こえてるのか? ピエール?」

「あぁ、ちょっと聞こえづらくて。大丈夫です。で?」

「だから、あの女、ナオミの様子はどうかって?」

「ええ、あぁ、ナオミちゃんですか? ええ、いたって普通です。できのいい学生っていうか、なかなか頭の切れる娘みたいですね。」雰囲気もいいし、というのは喉の奥でせき止めた。

「そんなことはわかっている。何か挙動不審なところはないか?」

 もちろん、ピエールが昨晩巻かれたことやトラムでのことだが、 

「いいえ、本当に普通の女学生ですよ。友達との問題もないみたいですし、喫茶店のおばさんや、大学の警備員にも好かれてるみたいです。」と答えた。しかし、しばらく返答がない。

「もしもし、ミロシュさん?」

「ピエール。実は、ナオミの両親が警察に連行された。兄のアンドリューは逃走中だ。」

「なんでっすって?」ピエールは自分の表情が青ざめるのを感じた。

「いや…。私にもよくわからないのだが、どうやら現状、そういうことらしい。」

 電話の向こうのミロシュは、心配しているというよりは薄笑いをしているようにピエールには感じられた。

「どうだろう、ナオミにうまく接触して、それを伝えてくれないか?」

「いや、私は彼女には面識がないんですが。」ピエールは思わず嘘をついた。

「なに?」ミロシュは訝しげに言った。

「あ、いや、地下鉄の時にちょっと話しただけで、多分私のことなんて覚えていないと…。で、ミロシュさんからは連絡したんですか?」

「ああ、携帯にかけてみたが、繋がらなかった。メッセージは送ってあるから、彼女が見れば返信してはくると思うのだが。」

「で、伝えてどうするのですか?」彼は何気なくその先を探った。

「あぁ、すぐにリベレッツに帰ってきてもらって、私と一緒に警察に出頭して事情を聞こうかと。その方が安全だろう?」

「わかりました。やってみます。すぐに返事が出来るかどうかはわかりませんが。それでは。」と言って電話を切ろうとしたときにスピーカーから大声で何か言っているのが聞こえた。ピエールは慌てて携帯を耳元に戻した。

「ミロシュさん、な、なんですか?」

「ピエール、やっぱり、お前が連れてきてくれ。逃げられたら困る。」

「逃げられる?」どういうことだろう? 最初は行動調査とか言って彼女の尾行と周辺を調べるということだった。理由も機密ということで告げられていない。だが、ナオミが悪党だとは聞いていないし、挙動不審という訳でもない。

「あ、安全にという意味だ。わかったな。できるだけ早く。よろしく頼むよ。」

「…なんとかしてみます。」 

 とは言ったものの、ミロシュの言っていることのつじつまがどうも合わない。ナオミは確かに不思議なものを持っている女の子には違いないが、警察沙汰になるような子ではない。むしろ、協力してくれる立場にいるんじゃないのだろうか? ピエールはすぐにナオミから教えてもらった連絡先をタップした。心が穏やかではなかった。気持ちがせいた。ツーという最初のトーンが聞こえてくるのにすごく時間がかかったように感じた。あ、通じたと思ったら、圏外か電源が落ちているとの案内が無機質に流れている。そして、留守電になった。

「あ、ナオミくん。ピエールだ。早速でなんだが、すぐに僕のところに連絡してもらいたい。いいかい、ミロシュより先にだ!」

 ブルタバの川面が光に反射してキラキラしている。そして、その先にはプラハ城のシルエットが揺らいでいる。いつもなら、綺麗な景色なのに今日のピエールには哀しく映った。そうだ、メッセージも送っておこうと道路を渡りながらパチパチとすると、カラカラカランとトラムが大きな警笛を鳴らして目の前を横切って行った。

 ピエールは、自分がどういう立場にいるのか理解できなかった。



 ラダナと真人は灰色の壁の冷たい部屋にいた。手錠も外されて縛られているわけでもない。小さな窓が高いところについているが日の漏れはなかった。天井からクリアーな白熱電球が下がっている。二人の座っている椅子の前には小さな机があった。ラダナは真人に寄り添っている。真人は気を静めて考えていた。何でここにいるのか? 不法滞在と言っていたが、そんなわけはない。すべての書類は整っているのは先月の外国人登録証の更新で確認済みだ。ラダナのオブチャンカ(身分証明書)も新しい。何かの間違いに決まっている。しかし、そんなことならば、こんなところに監禁される必要もないだろう。だいたい移動の際に頭から袋を被せられるなんておかしいではないか。真人は耳を澄まして見たが、何も聞こえない。本当にここは警察署なんだろうか? 地下の取調室という感じではあるが、人の気配を感じない。シーンという聞こえない音が耳の奥で鳴っている。真人は怯えているラダナを抱き寄せた。

 突然、ゴゴと音がして壁の一部が開いたかと思うと、頭に袋をかぶった若者が部屋に押し込まれてきた。手錠が外されてすぐにその壁扉は閉まったが、誰が連れてきたのかわからなかった。若者は自由になった手で頭に被された袋を取って投げ捨てた。

「アンディー!」ラダナはすかさず駆け寄って、彼に強く抱きついた。

「どういうことなのか、さっぱりわからない。決して乱暴な扱いではないけれど。こんなの無礼極まりないよ。ただ、誰も僕の質問にはこれっぽちも答えてくれなかった。ここがどこなのかもわからない。」アンディーはラダナを抱いて父親の真人を見た。

「ああ、僕らもそうだ。あまりにも突然のことで、何が何だか。」 

「家族が揃わなければいけないって、どういうこと?」ラダナがアンディーの胸元から真人に憂いの眼差しを向けた。

「まさか…。」

3人は目を合わせて首を傾げた。

「そんなこと…。」


 旧市街広場のティーン教会の上にかかる雲は綺麗に赤く焼けていたが、プラハ城にかかる水平線に近いところはどす黒い雲で覆われていた。ホスポダ・ポハートカが開店してまもなく、ナオミを除く3人は入り口前に立っていた。

「時間を約束したのに、ねぇ。」不満げなデイビット。

「先にビールでも頼んでおこうか。」冷静なエヴァ。

「遅くなるのなら、連絡してくれればいいのに。って、ナオミの電話バッテリーが切れてるって言っていたっけ。」ペトラも呆れている。

「こっちから連絡つけようがないね。」

「大丈夫。いつものこと、もうすぐ来るって。入ろう、入ろう。」と店に入ると早速マスターが気がついた。

「はい、いらっしゃ〜い。おや、きょうは3人?」相変わらずとぼけている。

「言い出しっぺが遅れてるの。」

「はぁ〜、ありがちだね。でも、新人さんが先に到着しているよ!」

 いつもの奥のテーブルに行くと、ダークな感じの女の子がポツンと座っていた。が、紫色のオーラを放っているように見えた。

「今晩は、ヤナね。私は演出専攻のエヴァ。」笑顔でメガネを鼻からずり上げた。

「私は、ペトラ、ヴァイオリンの専攻。」大人っぽく首を傾げた。

「あたしは、デイヴィッド。中古衣料店の…、あら?」デイヴィッドはヤナの肩の刺青に反応した。「それってあのパンクバンドの」

「こんばんは。初めまして、ヤナです。」見た目に反して丁寧な返事だ。

「あなた、あのパンクバンドのファンなのねぇ?」

「有名なの?」ペトラがキョトンとして聞いた。

「メジャーというわけじゃないけど、ここのところいい感じなのよぅ。新しいっていうか、ただ叫ぶだけのバンドじゃないの。えーと、ボーカルは…。」

「ボーカルは、私の彼なんです。」

「きゃーっ!」デイヴィッドは震え上がった。まぁ、まぁ座りましょうとエヴァがなだめた。そんなところに、店長がどんと今日のスペシャルメニューを書いた黒板を掲げた。 

「さてと、今日のお祝い用のスペシャルメニューだ。」

「お祝いなんて、何でわかるの?」ペトラが不思議そうに聞いた。

「そりゃ、みんなが笑顔だもの。お得意さんの変化には敏感なの。」ガハハと唾を飛ばしながら大笑いしている。「で?」と4人を覗き込んだ。

「デイビットの店長就任祝い。」とエヴァ。「これはこれは。」

「エヴァの台本選考祝い。」とペトラ。「さ〜すがぁ。」

「そして、ペトラの逆振り祝い〜!」とデイビット。「逆転ホームラン!」

「みんな、すごいな。そして、新しい友人祝いと。」店長はヤナに向かってウインクした。

「じゃ、とりあえず、ビールでもどうかな? きょうは、特別にハラホフのガラス工場に併設されているブリューワーのチェルトビールがあるぞ。しかも、生だ。ちょっとビターで強いんだぞ〜!」

 4人は顔を見合わせた。

「じゃ、とりあえずそれで!」と声を合わせたところで

「ごめんごめん!」とナオミが息を切らしてやってきた。「私もそれ!」とマスターの肩に顎を乗せて注文した。 

「ほうら、おいでなすった。乾杯には間に合ったな。すぐに準備だ!」とナオミのほっぺたにキスすると黒板を渡して嬉しそうに身を返した。

「ちょっときょうの午後は校外での特別授業だったの。トラムがすごく混んでて帰ってくるのに時間かかっちゃった。あ、ヤナ! みんな、」

「既に自己紹介は終わっているわよ! ねぇ。もう少し遅れたら、みんなの分おごりだったのにねぇ〜。」デイヴィッドが甲高い声をあげた。 

「携帯のバッテリーが落ちたままなら、連絡つけようがないでしょ?」

「え?」ナオミは慌てて自分のポケットとバッグを弄った。

「あれ! 携帯どっかに忘れてきちゃった。いや、待って、もしかしたら、混んでたトラムですられたのかも…。」あぁ〜っと、もう1度ポケットとカバンを底まで見てみたが、携帯は見つからなかった。額に手を当ててどんと両肘をテーブルの上に付いた。とほぼ同時に渋い黄金色に輝く中ジョッキが頭の上から降ってきた。

「はい、お待ち〜。チェルトビール5つ。」

 しかし、テーブルの雰囲気は少し曇っていた。

「あら、どうしたのかな〜? きょうはお祝いだろ〜?」

「ナオミが携帯落っことしたか、すられちゃったんだって。」

「あややぁ。」マスターはがっくりしているナオミの横にしゃがんだ。

「今の時代、携帯が大切なのはわかるがな、それが全てじゃないだろう? ここにナオミちゃん、君がいるんだから、健康でいるんだから、それが最も大切なことだ。忘れちゃったか、取られたかは知らないけれど、そんなことが起きても不思議ではないよ。大切なのは、携帯じゃなくて君自身だ。ほら、気を取り直して。」マスターがナオミに優しく呟いた。

「そうよ。ここにナオミがいる。何か大変なことが起きなくてよかった。それが大切。」ペトラもお姉さんのように慰めた。

「聞くところによると、きょうはお祝いだろ? ほら、言い出しっぺが沈んでどうする?」マスターはナオミの肩をポンと叩いた。それまで下を向いていたナオミはぐいっとジョッキを持ってすくっと立った。

「みんな、ありがとう。携帯の事なんかで心配させてごめん。これって、私の不注意だもんね。きょうはみんなのお祝いだね。エヴァ、ペトラ、デイビット、みんなそれぞれおめでとう! そしてヤナ、よろしくね! ナズドラビー(乾杯!)。」 

「そうだよ、我らがナオミちゃん! そうこなくっちゃ。」とマスターもジョッキを持って乾杯している。

「あれ?」泡で髭を生やしたナオミがマスターに聞いた。「マスター持っているジョッキって誰が払うの?」

 ニカッと笑ってマスターが口を大きく開けた。

「最初の乾杯は、俺のおごりだ! その代わり、ダイエット無視でどんどん頼んでね!」と一気にそれを飲み干すと厨房に向かって行った。

「マスターといると悪いこともプラス思考で考えられるわね。なんだか不思議。」ナオミはウフッと軽いため息をついた。 

「たまには、携帯に縛られていない自分もいいかもよ。」とエヴァ。

「確かに。私も何時から何時までは見ないって決めてないと、お店のことなんかが常に入ってきてうるさいうるさい〜。」光沢のある付け爪を撫でているデイヴィッド。

「彼のことを気にしている時は、いつ彼からメッセージや電話があるかってそればかり気にしていたわ。それに、そのメッセージで一喜一憂したり、変に深読みしたり…。」ため息をついて目線が遠いペトラ。「もちろん、役に立つこともたくさんあるんだけどね。飲み込まれないようにしないと。」

「ついこないだまで携帯なんかなかったんだから〜ねぇ。」

「でも、私たちにとっては安い物でないのも事実。」と分析するエヴァ。

「だからぁ〜。」デイヴィッドが黒板の前に立ち上がった。

「面白そうな食べものばっかりね。」ヤナも興味津々な感じだ。

「はいはい。早く、メニューを決めよう!」

 黒板には料理が癖のある文字で書かれている。

 牛肉のごま塩揚げわさび風味ストリップ。鶏胸肉の蜂蜜漬け串焼きコプル巻。シンプルなたんぽぽサラダ花びら添え、ブルーチーズソース付き。ウォッカきのこソースの豚の片肉ステーキ、ブルーベリークネードリキ付き。セロリ入りブランボラークのイチゴ添え。

 確かに、ここの日替わりメニューはいつも想像力を掻き立てるものばかりだ。値段だって高くない。早速、マスターがメモ帳とペンを持ってやってきた。

「さて、とりあえず1品ずつと。」

「ヤダァ〜! 勝手に決めないでぇ。まさか、それもおごり〜?」

 マスターはデイヴィッドに向かって怖い顔できっぱりと言った。

「まさか! おごりは最初のビールだけだ!」

 キャーっとデイヴィッドはその人相に悲鳴をあげた。すると、その脇から店員がテーブルの上に人数分の小皿をそれぞれの目の前に置いた。マスターはくるっと向き直って、今度は満面の笑みを浮かべた。

「これは、お通しだ。」

「お と う し ? お と お し? なあに?」と皿を覗き見ると、ちょこっとした料理が飾られている。

「日本の居酒屋、まぁ、ここみたいなパブにある習慣で、いわゆる、テーブルチャージの代わりに前菜1品を提供するわけだ。」

「イタリアのコペルトってことね。」

「ああ、イタリアの場合は席代として金をとるだけだが…。」

 その1品はカラマリのリングの中に二つのオリーブに挟まれたシャケの小片が入っている。

「で、そのコペルトいくらな訳?」エヴァがメガネの縁をあげた。

「20コルナ。どうかな?」

「高くな〜い?」

「でも、なかなかよくできてる。工芸品みたい。」ペトラは感心している。確かに丁寧に造ってある。 

「美味しい!」ナオミは既にほうばって、ヤナは匂いを嗅いでいる。

「今日から試用期間だ。君たちだから、これも提供するが。」

「美味しければいいかも。」ペトラも手を伸ばした。 

「変わったメニューが多いこの店だから、最初のお客さんのメニューを見たときのイメージのヒントとしてはいいかもね。」エヴァもすでにもぐもぐしているかと思ったら、親指を立てた。

 マスターは、髭を撫でながら可愛らしく首を傾げた。

「さて、注文は?」と言いかけたところで、また店員が割り込んできて、マスターに耳打ちした。ふと彼の顔がこわばったかと思うと、

「まずは今日のスペシャルの注文が入ったということで!」と言うやいなやくるっと向きを変えて「失礼」と言葉を残して入り口の方へ消えた。店員は、ちょっと待っててくださいね。とマスターの後を追った。どうしたのだろう。

「じゃあ、再びカンパーイ! みんなおめでとう!」とナオミは勤めて明るく振る舞った。

「このチェルトビール少し苦いけど、ちゃんと味があって美味しいね。」

「うん、これはガラス工場で働く人たちの熱さ対策なんだって。」 

「お水じゃないところが、さすが私たちのチェコねぇ〜。」

 程なく料理が運ばれてきた。どのお皿も素敵な色合いだ。店員は小声でナオミに何か耳打ちした。

「なんか店長に呼ばれたの。みんな、私を待たないで食べててね。ヤナ、みんないい人達でしょ? 気兼ねなく!」とナオミは席を立った。

 お店の入り口には大きな店長の向こうに一人の男の人が立っていた。

「ピエール! こんなところでなにやっているの? 普通に入ってくれば良かったのに。」ナオミは目をパチクリさせた。

「なんだ、知り合いか? 警察だっていうから心配したぞ。」ナオミとの間にガードしているように立っていた店長の横からピエールが顔をのぞかせた。

「いや、緊急に連絡が取りたかったんだ。携帯に電話してもでないし、学校の中にもいなかっただろ?」

「ええ、携帯はバッテリーがなくなっていたし、おまけにどこかに落としてきちゃったみたいなの。でも、よくここが…。」

「警備員のおじいさんが教えてくれたんだ。多分ここだって。」

「しかし、なんで警察だってわざわざ名乗ってここに来るんだ?」店長が両手を開いておどけた。

「一刻も早く、いや、おじいさんは、店長なら店にいなくてもどこにいるか知っているかも知れないって。」

「知っていても、そう簡単には教えたくないかもしれないぞ。お客さんのプライバシーを守るのもわしの仕事だ。」

 そう言う店長をすり抜けて、ピエールは真顔でナオミの前に立った。

「ということは、まだ、誰からも連絡を受けていないわけか。」

「ええ。」ナオミはキョトンとしてピエールを見た。

「実は、君の家族が警察に拘束された。」彼はナオミの耳元で囁いた。

「はぁ? どういうこと?」

「いや、私にもよくわからない。ミロシュも連絡を取りたがっている。」

「え? ミロシュさんが?」ナオミは少しドキドキしたが、なぜミロシュまで? ピエールはナオミの腕をぎゅっとつかんだ。それを見て、店長も素早くピエールの腕をつかまえた。

「いや、実は私の任務は、ミロシュからなんだ。」

 ナオミの瞳孔が大きく開いた。

「どういうこと? よくわからない。だって…。」

「そのミロシュとやらが、ナオミを見張っていろって命令したわけか?」

 店長はピエールの腕を更にぎゅっと握り直してナオミの目の奥を見て尋ねた。

「ナオミちゃん、君は何か…。」

 彼女は店長を見据えて首を横に振った。うーんと店長は瞼を閉じながらうなづいてピエールの方に向き直ったかと思うと、今度はカッと鋭い眼差しで彼を凝視した。

「お前の上司の命令とはなんなんだ?」声にはドスが効いている。

「いや、命令っていうか…。」ピエールは戸惑っていた。 

 ナオミはピエールを見て言った。

「ちょっと待って! ミロシュさんが警察? 上司? どういうこと? 彼は司書でしょう? だいたいあなたと彼の関係はなんなの?」ナオミの目が少し潤んできた。素敵だなと思っていたミロシュが私の行動監視なんてどういうことなのだろう。

「いや、彼は警察の人間ではないけれど、警察を利用できる立場の人間なんだ。」 

 さらに不可解だ。

「警察をも利用できる立場の人間って? そりゃぁ、政府関係ってことか?」

 店長はピエールを離してうーんと考えるポーズをして大きな目玉をぐるりと一回転させた。そして、「もしかしたら!」と人先指を立てて囁いた。

「ナオミは政府も怖がる女スパイってことか?」

「あのね!」ナオミがバカじゃないのという顔で店長を見つめた。

「そうよ! そんなわけないじゃないの。一体どーなってるのかしらねぇ〜! 美人のわりには、男を寄せ付ける愛嬌もすごくあるわけでもないし、ねぇ?」 

いつのまにかデイヴィッドがそばに来ていた。

「ちょっと、愛嬌がないってどういうこと?」

「うっそ〜! なんの話をしているのかと思ったら、全く! 今日のお祝いはどうなるの?」

「私もよくわかんないんだけど、とりあえず、大至急家に帰らなければいけないことになったの。きっと、何かの誤解だろうけど。」ナオミはニコッと笑っておどけてデイビットの肩を抱いて「私、色気ないのかしら?」などと言いながらみんなの座っているテーブルに向かった。

 

「ピエールとやら、もう少し詳しい話を聞かせてくれないか? どうしてナオミの行動を監視しなければならないんだ?」優しく奥ゆかしい表情で店長は聞いた。

「そ、それは…。」

「おいおい、今更、なにを言ってるんだ。君はもう半分話したも同然だということに気づいていないのかね?」

 ピエールは、ハッと気がついて口を押さえた。

「私は、ナオミと君の味方なつもりだ。君は…。」

 ハァっとため息をついてピエールは店長を見た。

「実は、政府の秘密機関の中に、世の中、というか、チェコ国内で起きた超常現象とか超能力を研究している部署があるんです。」 

「あは? ということは…、」

「超エリートと言われる精鋭が集まったグループということで、新米刑事の私など足元にも及ばないのですが…。」

 妙に納得している店長にピエールは少しむかっとしたが、

「どうやら、そのチームは予算の削減とやらで来年早々別な部署に吸収されるという噂が立っているのです。」

「ふうん。我々庶民には関係なさそうだな。だが、そいつが解体されないためには、何かの事象の実証かあるいは手柄になるものが必要ってことか。存在意義のために。まぁ、面白そうではあるがなぁ。」

「いや、純粋にそう思っている人たちがどれ位いるか?」

「というと?」

「給料が相当いいらしいんです。独立していられないということになると…。」

「…なるほどね。ミロシュとやらは、そのエリートの一人か。」

「ええ、そういうことかと。」

「しかし、なんでナオミがターゲットに? しかも、家族まで。」 

「どうやら、ナオミさんには超能力があると見ているらしいんですが。」

「ハァ? ナオミに…。」店長の片方の眉毛がつり上がった。「君はどう思うんだ?」

ええ、と声を上げずにピエールはうなづいた。

「私もナオミさんには、普通の人以上の能力があるのではないかと感じています。本人が理解しているかどうかはわかりません。」

彼は、地下鉄のことやトラムでの出来事を簡単に話した。店長は黙って聞いている。

「でも、納得できないことがあるんです。」

「というと?」

「なぜ尾行しなければいけないのか。なぜ家族が監禁されているのか?それに…。」

「それに?」

「ミロシュさんの雰囲気というか、やり方についていけないというか、本来ならば、温かく見守ってやるべきだと思うんです。だから、ナオミさんのことを守ってあげたいというか…。」

「もし、そのミロシュとやらが性急な感じだとしたら、確かに、ことを荒立てている感じだな。自分の手柄のために。」

「立場上、私の口から言ってはいけないことかもしれませんが、私も、そう思うんです。あ、それから…。」


 ナオミとデイヴィッドがテーブルに戻ると、エヴァとペトラ、そしてヤナはすっかり打ち解けていて楽しそうに話していた。

「今、エヴァの短編映画のコンセプトを少し聞いたんだけど、めっちゃくちゃ面白そうね!」楽しそうなヤナの笑顔。

「ヤナの理解力も相当なものよ。」エヴァは、彼女の見た目との違いに感心しているようだった。

「ナオミ、温かいうちに食べた方がいいものもあるから、早く。みんな結構いけるわよ。」ペトラもいつになく楽しそうだ。

「みんな、せっかくのお祝いの時にごめん。私、急用でちょっとリベレッツに帰らなきゃいけなくなっちゃったの。だから、今日は早退するね。ゴメン。」

「え〜そうなの〜? せっかく連れ戻して来たのにぃ〜。でも、ヤナちゃんがいるからいいか。」

 ナオミは、デイヴィッドのほっぺたにチュッとすると、みんなに手を振って出口に急いだ。エヴァがデイビットに聞いた。

「なにか不幸でもあったの? それとも…。」

「なんだか、家族のことみたいだけどぉ。」

「悪いことじゃないといいわね。」ペトラも不安そうだ。

「ナオミは大丈夫。彼女は強いもん。何かあっても私たちがいる!」ヤナがジョッキを持った。

「そうよ〜。いつも私たちが応援してるもんね〜。ナズドラビー。」

 みんなで乾杯した。


 ナオミが戻ってくると、マスターとピエールは、それまでの二人の間の緊張感は消えていて、友人同士のように見えた。 

「ナオミ、ピエール。ちょっと奥に。」マスターは二人をプリバートと書かれた扉を開けて別な部屋に招き入れた。

「ナオミ、これからどうする?」ピエールはそわそわしている。

「とりあえず、リベレッツに戻ってみんなに合わないと。まずミロシュさんに連絡を取って…。」

「それはどうかな? だめだ。」ピエールが首を振った。

「どういうこと?」

「おそらく、これは、ミロシュが画策しているに違いない。」マスターもうなづいている。「君を捕まえようとね。」

「私を捕まえる?」

「そう、君の超能力を一刻も早く手に入れたいんだ。」

「ピエールさん、私の超能力って…。」

「隠さないでくれ。君自身、わかっているんだろう? 確かに僕は新米だけど、地下鉄といい、あの夜の尾行といい、トラムのことだって。君にはいくつかの超能力がある。そうだろう?」

 ナオミの表情から血の気が引けていくのがわかった。 

「ナオミ君?」と聞いたところで、ナオミの目からは大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちて来た。マスターはナオミを優しく椅子に座らせた。 

「ナオミ、ピエールは君を守りたいって言っている。」

「いや、誤解のないように言っておくけど、実際のところ、君がどんな能力を持っていてどんなことができてなんていうのは関係ないんだ。変に感じるかもしれないが、ミロシュは少し焦っている。僕はただ、君を守ってあげたいんだ。」

「私、ミロシュさんを好きではないけれど、悪い人じゃないと思う。」

「だが、君を尾行するように僕に命令したのは彼なんだ。」

「もう少し聞かせてくれないか? 展開が早すぎるな。」マスターが割って入った。ナオミは顔を背けて黙っている。

「地下鉄の停電の時に、署に帰ってからすごい子がいるって君のことが話題になったんだ。それから、新人刑事のお祝いのパーティーの時に、また君のことが話題になった。その時にミロシュが来ていた。そこで、彼がその子の資料、つまり、君のことや、家族のことなどが知りたいって僕に言ってきた。」

「とにかく、リベレッツに行きましょう。」ナオミは手で目頭を抑えながらすくっと立った。

「ナオミくん。」

「私ひとりでも行くわ。」

「どうやって?」

「バスで。今から予約すれば、9時のバスには間に合うかも。」ナオミはポケットを探った。

「アヒヨ。携帯落としちゃったんだ。」ナオミは大きくため息をついた。

「ピエール、ポンコツだが俺の車を使え。一緒に行ってやれ。」マスターは壁にかかっている鍵棚から車の鍵を取ってピエールに投げた。

「大丈夫、保険には入っている。」と大げさにウインクをした。

「ナオミ、一緒に行こう。行きながら作戦を考えるんだ。」ピエールはすでにドアのノブに手をかけて扉を開けた。ナオミはその勢いにつられるようにピエールの後に続いた。

「マスター、ありがとう。面倒なことに巻き込みたくないんだけど…。」

 マスターはすぐに寄り添って来てナオミの肩をポンと叩いた。

「大丈夫、全てがうまく行く。そうだろう? 何かあったら、すぐに連絡しろ。きっと力になれる。」そう言って、ピエールにウインクした。

 ポハートカを出てマスターのいう石畳の通りに行くと、高級車に挟まれて随分と色が褪せこけた薄緑色のシュコダ・ファボリットが止まっていた。二人は黙って乗り込んで、夜のプラハの街に駆け出した。

 二人を見送った後、マスターはポケットから携帯を取り出した。 

「警備員のおじいさんから受け取ったんです。多分ナオミの携帯です。メンサに忘れ物としてあったそうです。バッテリー切れのようですが、僕らがここを離れたら、充電して復帰させてください。そして、開封通知をオフにしてください。そうすれば、ミロシュの…。」

 マスターが携帯をテーブルに置いて充電用ケーブルを挿すと、しばらくしてチェルトの待ち受け画面が浮き上がった。



 車は夜のプラハの街を抜けてリベレッツへ向かう高速道路D5に入った。スピードをあげると遮音性のよくない車内にはエンジンの音が大きく侵入した。多くの車が二人の乗ったファボリットを追い越して行く。ナオミがボソッと言った。

「わからない。初めてのデートの日に…。」

「デート? 君とミロシュは恋仲なのか?」ピエールはヘッドライトに照らされている流れる白線を見ていた。

「ううん。まだそんなんじゃないわ。だって、知り合ってからまだ数日よ。そんなことが重要じゃないの。それより…。」

「それより?」

「実は、私が自分の変化に気がついた日に初めてデートしたんだけど、ミロシュは私のそんな能力にもっと前から気がついていたってこと?」

「うん、確実に狙っていたわけではないだろうけど、何かを感じて予想してたっていうか。彼は非常に頭脳明晰で繊細だ。それに偶然が重なれば…、閃くことがあるだろう? 何かなかったのか? 君の超能力が発揮されたことが? そう、君自身が自覚する前にね。」

 ナオミは腕組みをしてしばらくウーンと考えていた。と、ピエールがプッと吹き出した。「君のそのぶすくれた感じも素敵だね。フフ。だいたい、君とミロシュはなんで知り合ったんだ?」ふと薄汚れたメーターナセルを見ると、ガソリンのリザーブタンクのインジケーターがオレンジ色に光っている。先ほどサービスエリアが2Km先という看板を過ぎたばっかりだ。ファボリットはガソリンスタンドに滑り込んだ。ピエールがベンジンを入れている間、ナオミも車から降りて来て窓を拭き出した。

「おいおい、そんなことをしなくても。」

「いいの、うちのおとうはガソリンスタンドに入るたびにいつもやっているの。それに、この車汚れていて前がよく見えないでしょ。」

 じっとしていられない。ピエールにはそう感じられた。タンと給油口に刺さったピストルが自動的に止まると、ピエールはキュキュとキャップを閉めてガラス張りの店舗に支払いに行った。ナオミはビニールの手袋をゴミ箱に捨てて、ぺらぺらのドアを開けて助手席で待っていた。家族連れが楽しそうに目の前を横切って大きなSUVに乗った。 

「お腹空いてるだろ?」振り向くと、ピエールがパーレック・フ・ローリックとミネラルウォーターを差し出した。 

 *パーレック・フ・ローリック…チェコの伝統的なホットドッグ。細長いパンに茹でたソーセージが刺さっている。

「こんなもんで申し訳ないが。」 

 確かに少しおなかが空いていた。パクッとカブつくと同時にひと筋の涙が頬を伝わった。

「ありがとう。」片手でそれをぬぐいながらナオミは食べた。

「さぁ、行くよ。」

 エンジンをかけて走り出したその時にピエールの携帯が鳴った。

「ミロシュだ。」

  ピエールはすぐにガソリンスタンドの脇にある駐車場に車を寄せて、ナオミを見ながら人差し指を唇に当てて、携帯のスピーカーをオンにした。 

「どうも、ピエールです。」

「その後どうだ?」

「実は今、ナオミちゃんとリベレッツに移動中です。ちょうど今、連絡しようと思ってました。」

「なに? そばにいるのか?」

「ええ、疲れているのか隣で軽いいびきをかいて寝ています。起こしますか?」

「いや、なんと言ってさそいだしたんだ?」

「家族のことで急用があるからと言って連れて来ました。」

「私の名前は出していないだろうな。」

「とりあえず、ミロシュさんには好意を抱いているようですから。」

 ナオミはピエールを訝しげに見た。

「どういう意味だ。」

「いえ、彼女は、何も知らないということです。」

「そうか、ふふ、今どの辺だ?」

「ムラダー・ボレスラヴのだいぶ手前ですが、ちょっと渋滞というか車が多くて時間がかかりそうです。」

「わかった。15分後に電話する。彼女を起こしておいてくれ。」

ピエールは電話を切った。

「確かに、声は彼だけど、私の知っているミロシュさんとは違う。」

「適当に渋滞だって言ったから、急ぐ必要はないが…。」

 ピエールは車を出発させて空いている本線に合流した。

「そういえば…、」

「何か思い出したかい?」

「図書館で本を借りて横断歩道の前で車の通過を待っている時に何か強い視線を感じたの。秋にしては太陽の光が強い暑い日だった。」

「?」

「図書館の入り口を振り返って見たら、忘れ物だよって彼が飛び出してきたわ。でも、私は、何も忘れていなかった。その時、彼はすごい顔してた。びっくりしたような。」

「で、そこで君はデートに誘われた。」

ナオミは黙ってうなづいた。

「彼は、その時すでに、君の何かを偶然に見たか、感じていたんだ。超能力を発揮しなかった? 例えば、横断歩道で車に引かれそうになったおばあちゃんを間一髪で助けたとか?」

「そんなことだったら、絶対覚えているわ。」

「そうだよね。」ピエールは両肩を上げ下げした。

「歩道にいる時に、直射が当たって暑くてちょっと背中が痒かったかな? 暑くて上着脱いでいたし。」

「汗かいてたか。」

「背中?」ナオミはハッとした。もしかしたら…。

 ピエールは黙って運転していた。あいかわらずエンジンの音がうるさく響きお世辞にも快適な乗り心地とはいえないが、車は快調だ。

「とりあえず、私のお兄ちゃんのアパートに行ってくれる?」と少し大きめの声で話した時に再びピエールの携帯が鳴った。

「もう15分か?」ピエールが携帯をとった。

「ピエールです。ええ、起きていますよ。」

 携帯をナオミに渡すと、彼女はスピーカーのボタンを押した。

「もしもし、ナオミです。」

「ああ、ミロシュだ。ピエールから聞いていると思うけど、君の家族が警察に拘束されているらしい。何でも、不法滞在とかいうわけのわからん理由らしい。」

「どうして、ミロシュさんが?」

「いや、たまたま警察に知り合いがいてね、ま、ピエールもその一人だけど。別な用で行った時に小耳に挟んで、いても立ってもいられなくなってね。何か手助けができないかと。」

「ありがとうございます。でも…。」

「できるだけ早い方がいい。そう、ことが大げさになる前にね。だいたい連中なんてどこまで信用できるかわからないからね。少しでも君の力になりたいんだ。」

 落ち着いて優しそうなミロシュの声だ。

「あとどれくらいでリベレッツに着く?」

 ナオミはピエールをみると、彼は、片手をあげた。

「50分くらいかかるかと。」

「随分ポンコツの車に乗っているんだな。まぁ、ちょうどいい。」

「え?」

「いや、うん、それじゃぁ、街が近くなったら連絡してくれるかい? ランデブー場所はその時に。」

「ミロシュさん!」

「じゃあ、気をつけて。そうだ、ピエールに変わってくれるかい。」

ピエールがそれを聞いて携帯を受け取り声をあげた。

「はい、ピエールです。」

「いいか、とても大事な女だ。余計なことは何も喋らずに来るんだ。じゃぁ。近くなったら連絡しろよ。」電話はプチッと切れた。

「アヒヨ。何だか、ジギルとハイドね。あんな人だとは思わなかった。」ナオミは少し悲しそうに口を詰むんだ。

「実際、今彼が何を企んでいるのかは皆目検討がつかないな。」ピエールはナオミに振り返った。「もしかしたら、君をまずいことに引きずり込んでしまったかもしれない。」

「ううん、あなたのせいじゃないわ。もしかしたら、私の方があなたを巻き込んじゃったのかもしれない。」

「それも、悪くないさ。」ピエールはまんざらでもないという表情でナオミを見返した。

「それよりも…。」ナオミは視線を外して暗い窓の外を見た。

「そうだ、君のお兄さんのアパートに寄るんだっけ?」

「ええ、市内。私の家の近く。そこでピックアップしたいものがあるの。ミロシュに会う前に。」

 リベレッツはイェシュタッドという山の麓にある街だ。トゥルノフを過ぎると高速道路もアップダウンが増えて来る。ファボリットの唸るエンジン音が山にこだましている。 長い上り坂をを過ぎてゆるく下り始める。次に大きな右カーブとともにその下り坂は勾配を増す。ピエールはギアをニュートラルに入れた。車は空走してタイヤのノイズがエンジン音よりも高まった。長い下り坂の先にはリベレッツの街の明かりが見えてきている。

「とりあえず、ハルツォフに向かって。」ナオミの目には遠い街の明かりが反射していた。

「ああ、と言いたいが、実は、リベレッツの地理には詳しくないんだ。」

「あ、そうね。じゃぁ、私がナビるわね。」真剣な笑顔だった。

「待てよ、もしかしたらアンディーのアパートも監視されているかもしれない。いや、そうに違いない。」ピエールも真面目な顔つきだ。

「そんな…。」

「ミロシュは、君のお兄さんは逃走していると言っていた。」

「逃走? そんな。彼が容疑者みたいな言い方ね。」

「あぁ、まるで、捕獲作戦だ。君の家族を人質に…。」

 ピエールとナオミは向き合ってお互いの目を見合わせた。

「君は、飛んで火に入る何とかってことになる。」

「…。」

「ちくしょう、俺はその手助けをしているってことか…。」ピエールは突然ハザードランプのスイッチを押して再び軽く登りだした道の路肩に車を止めた。

「ナオミちゃん。行っちゃダメだよ。何でこうなってしまっているのか、僕には皆目見当がつかないけれど、今のところ、ミロシュの作戦通りに事が運んでいるような気がする。」

「でも、家族が拘束されているわ。このままどうなるかわからない。何とでも理由がつけられるでしょ。」

 ピエールは頭をかいてうーんと唸った。パパーンとクラクションを鳴らして何台かの車がすぐ脇を通り過ぎて行く。その度に車内がハイビームの光に照らされて揺れた。ナオミの瞳がキランキランと光っているようだった。

「ピエール。私にとって、おとうやおかあ、お兄ちゃんもとっても大切。私は逃げたくないの。そう、今の状況からも、ミロシュからも。そして、私自身からも。」

「しかし…。」

 ナオミはピエールを見ながらシフトノブをつかんでいる手を上から優しく握った。

「だから、車を走らせて。最初のセンターってかいてある標識の出口で降りて。」ナオミの目の奥には強い意志が読み取れた。唇を軽く噛んだピエールはブロンとアクセルをふかしてから1速にシフトしてウインカーをだした。 

 出口を降りて最初の交差点の信号が赤で車は止まった。

「アンディーのアパートに行く前に家に寄ってもいい? 途中なの。」 

「それはダメだ。絶対に管理下に置かれている。」

「じゃ、前を通るだけ。この車誰のだかわからないでしょ? お願い。」

「ふう、仕方ないな。通過するだけだぞ。」信号が青に変わった。

「この先の交差点を10時の方に曲がって坂を登って。その道のどんつきがホスポダ・クラコノーシュ。」

「で?」

「その先の右の細い道を下って最初の曲がり角を左。」 

 車はゆっくりと左折した。

「右側の5軒目。」

 パトカーはいないが見知らぬ車が家の前に止まっている。そして、2階の寝室の電灯がついている。

「誰もいないはずだよね。家宅捜索? それとも、もう帰ってきたのかなぁ?」

「わからない。とりあえず、近づかない方がいい。僕が聞きに行くのも変だしね。」

 車はそっと前を通過した。50mほど行くと小さな公園がある。そこからシェパードを連れているいる大柄な人が出てきた。

「ナオミ、隠れて! 鑑識みたいな人がいる。」

 ナオミは一素早く身を沈めたが、その人が車の前を横切ろうとした時に小さな声で言った。

「止めて。向かいのサムさんだ。」

 ナオミはクルクルと窓を開けて彼を呼んだ。

「おぉ、ナオミ。大丈夫か? うちのおかんの情報によると、アンディーも捕まったそうだぞ。どういうことかわからんが…。とりあえず、わしらはお前たちの味方だ。家が変なことにならないように見てるからな。」と言ってサムさんは犬と一緒に離れて行った。

「やっぱり、君のお兄さんも。ということは、彼のアパートももはやアンダーコントロールだ。行かない方がいい。」 

 ナオミは首を横に振った。

「必要なものがあるの。右に曲がって坂を下って。」

 それは、隣の小高い丘の中腹に立っている集合住宅だった。ナオミは丘の下にあるレストランの駐車場にピエールを誘導した。

「ここで待っててね。すぐに戻ってくる。」

 カチャッとシートベルトを外す音がした。

「いや、僕もついて行くよ。」

 ナオミはピエールに向かって首を振った。

「正面玄関、あるいはそこを見張っている奴らがいるぞ。当然、アパートの前や中にもいるかもしれない。」

 ナオミはニコッと笑って車を降りた。

「アドバイスありがとう。私もそう思う。だから一人で行くの。私のこと少しは知っているでしょう?」

「ちょとね。」ピエールは首を傾げて不安げに微笑んだ。

「すぐに戻るから。」そう聞こえた時にはナオミの姿は消えていた。 

 アンディーの部屋は、南向き斜面の下側の通りから見ると、地上4階にある。小さなベランダの隣には寝室の窓があるが、やはり灯りがついていた。と、ベランダに人影が出てきてタバコをふかし始めた。時折り室内の誰かと話しているようだ。ナオミは近所の猫屋敷と呼ばれる変わったおばあちゃんの家から黒い子猫を2匹ほど拝借してきていた。ベランダにいた男が一服し終わって中に入ると、「いこ。」と子猫に話しかけて背中に力を入れた。そして、渋く黒光りする紫色の羽根を広げると、サッとベランダの前まで飛んで子猫たちを離した。ナオミは、ベランダのガラス扉をコンコンと叩いて寝室の窓の上の壁に張り付いた。すぐに中のひとりが出てきて子猫を見つけた。

「あれ? おい!」もう一人を呼んだ。黒い子猫2匹は、愛くるしくニャーと鳴いている。「気がつかなかったなぁ。こんなところに」と言いながら、二人は子猫を抱いて撫でた。

「癒されるよなぁ。」

 その間にナオミは寝室のワードローブの中を覗いた。すぐにアンディーの言っていた新作のジャケットがどれだかわかった。 

「素敵。」

 試作とはいえ完成度は高くセンスのいいものだった。表面を撫でていると、ワードローブの扉がバタンと閉まって音を上げた。

「おい!」とベランダにいた1人が部屋に戻ってきたが、窓のカーテンが風邪で揺れているだけで誰もいなかった。その男はベランダに戻ると子猫を抱いているもう一人の男に聞いた。

「今、誰かその窓から…、なわけないか。ここは4階だ。」

 子猫たちが2人を見て愛くるしく鳴いた。 


「お待たせ。」

 車に戻ってきたナオミは、新しいジャケットを羽織っていた。

「まさか、それを取りに行っただけ?」ピエールは目を大きく開いて信じられないといった様子だった。

「そう! 素敵でしょ? アンディーオリジナル!」

「あきれた。それを取りに行くために、危険を犯してまで…。」

「うん、部屋には2人ほどいたわ。」

「ええ? しかし、いったい、君はどうやって…、」

 ウフッという笑顔とウインクが返って来た。その姿にピエールは思わずドキンとした。

「それより、ミロシュに連絡しないと。」

 ナオミの冷静な言葉を聞いて、あっとピエールは我に返った。

「確かに、いい時間だな。」ピエールは携帯を取り上げると程なくしてミロシュが出た。 

「随分時間がかかっているな? 今どこだ?」 

 ナオミがすかさず答えた。

「あ、もしもし、ナオミです。今リベレッツの街に入る前のスーパーの横を通り過ぎるところです。どちらに伺えばいいですか?」

「ああ、ナオミ君か。とりあえず、FXシャルディー劇場の前で待っているよ。気をつけて。」プチッと電話は素っ気なく切れた。

「言葉遣いが全然違うな。」

 ブロンとエンジンをかけて、駐車場の出口に車を進めた。

「左折してあとはまっすぐ。5分くらいで着くわ。」

 ナオミは道に灯る街灯の先を見ていた。ピエールは黙って運転している。

「ナオミ。」「ピエール。」と二人は同時にお互いを呼んだ。 

「これから、何が待っているのかわからないけど、何かあったら呼んでくれ。」ピエールはナオミに携帯を渡した。「これは、僕のプラーベートのものだ。もちろん君は大丈夫だと思うけど。君の力になれれば嬉しいよ。」

 ナオミは断ろうと手を広げたが、ゆっくりとその携帯を受け取った。 

「ありがとう。何かあったら連絡するね。」

 

 車は、劇場の裏から回って正面についた。なぜか、タキシード姿のミロシュが大きなガラス扉の前に立っていた。クラクションを鳴らして初めてこちらに気がつき、近寄って来た。

「ほんとうにボロボロのクルマだねぇ。こりゃ時間がかかるはずだ!」薄笑いをしながら助手席のドアを開けて、まるで淑女をエスコートするようにナオミを車から下ろした。そして、バタンと閉めると窓からピエールを覗き込んだ。

「ご苦労さん。君のミッションは終わりだ。帰りたまえ。」 

 バンバンとボンネットを叩きながら振り返った。そして、ナオミの手をとって劇場の入り口に向かった。ナオミは歩きながらピエールに振り返ると、彼は舌を出して、あっかんべーをした。ナオミも舌を出しすとピエールはうなづきながら親指を立てて車を出した。

「今日は君と観劇でもと思って携帯に連絡したんだが…。」

「え? ごめんなさい。学校が忙しくて…。それより、私の両親とアンディーが警察に捕まったとか。」

 ミロシュは、深い笑みを浮かべてうなづいた。

「ああ、だが心配しなくて大丈夫。全ては僕が話してある。全く、警察も手柄を立てたいもんだから、何もかも焦って間違えたりするんだよ。問題ない。もうすぐ解放される。今、ちょっとしたその手続きをしているはずだ。君が行って混乱させることもないだろう。」

 ナオミは、誰が本当のことを言っているのかわからなくなった。でも、自宅にもアンディーのアパートにも見知らぬ人がいたのは確かだった。そんなナオミの考えをよそにミロシュはまくしたてた。

「それまでの間、今日の公演を楽しむことにしよう。今からちょうどインターミッションのはずだ。まぁ、最初からではないけれど、せっかく切符も買ってあるし。ほら、今日はドイツからのホストで、最近人気のある『ハメルーンの笛吹きの最後』なんだ。後半が見逃せない。」

 劇場に入って赤じゅうたんの階段を上がるとホールがある。まさに扉が開いて人々が休憩に出て来たところだった。ミロシュはサッとバーの方に歩んでシャンパンをオーダーした。ポンッとコルクの抜ける音がした。

「ナオミ君、君もシャンパンでいいだろう?」ナオミがカウンターに近づくと、白金色の液体をグラスに注いでいるのは、いつものダニエラおばさんだった。

「あらこんばんは、ナオミちゃん。お久しぶり。今日はデート? いつのまにかすっかり大人になったわね。あら、そのジャケット…、劇場用ではないけどねー。でも、素敵よ!」 

「時間がなかったの! おばさまこそ、お元気そうで。」とナオミはニコッと笑ってグラスを受け取った。

「ハメルーンの笛吹きの話は知っているだろう?」

 ナオミは華奢なシャンパングラスでチンと乾杯した。

「街中の子供達が二度と帰ってこなくなっちゃう話。」

「そう、これはその続きのストーリーなんだよ。子供達を誘拐したピエロが最後には…。」と言ってミロシュは思わず手のひらを口に当てた。

「おっと、ネタバレしちゃいけないな。前半は僕らが知っている通り。これから後半にクライマックスが待っている。」 

 ミロシュがぐいっと残りのシャンパンを飲み干すと1ベルが鳴った。すぐに2回目のベルも聞こえた。さあ、行こう。と左腕を腰に当てた。ナオミが腕を組んで歩き出すと、ダニエラおばさんが自分の入れたシャンパンを口にしながら二人に目配せをした。

 劇場の案内係に通されたのは、ステージ脇上手のボックス席だった。深いワインカラーのベルベットの壁に覆われた個室には3つの椅子が手摺り越しに並んでいた。 

「僕らだけだ。お好きなところへ。」とミロシュはナオミのジャケットを脱がそうとしたが、ナオミは少し寒いのっと言ってそそくさに一番左側寄りの椅子に座って観客席を覗き込んだ。

「満員だろ? この公演は決して安くないけど人気があるんだ。まぁ、平均年齢層は高いだろうけどね。」

 確かに、ざわざわと響く客席は多くの高齢者で埋まっているようだった。ナオミはこの劇場に来るといつも天井の壁画を見る。フレスコ画調の淡い色使いは不思議と気分を落ち着かせる。そして、その中央から下がるシャンデリアの付け根にはいくつかの小さな窓がある。子供の頃からそこにはファントマスがいていつもそこから彼がのぞいているのだと思っていた。と3ベルが鳴って場内がその小窓の暗闇と同じくらい暗くなった。ゴワーンとジャンが響くと、太陽の光が差し込むように徐々に舞台が明るくなってきて、ピッコロで始まるオーケストラのおどけた演奏で幕を開けた。ミロシュはナオミの隣に腰を下ろして優しく微笑んだ。

 舞台は、秋の収穫祭が行われている小さな町の広場。失われた子供達のことを忘れようとみんな勤めて明るく振舞っている。演劇はテンポよく、リズミカルに、時に哀しく進行した。ドイツ語での演技だったが、高校時代にドイツ語も勉強していたので、難しい言い回しでない限りは緞帳の上に表示される字幕を見なくても楽しむことができた。    

 舞台のダンスが終わると夕立とともに激しい雷が轟いた。そして、その閃光に映し出されたのは、さらわれた子供達の姿だった。泣き叫ぶ親達。怒る町の住人たち。人々は新しい市長を囲んで話し合った。あの不思議な笛を吹いていたのは、ピエロではなく悪魔だったのではないかと。だから、契約を果たさなかったその怒りによって子供達を奪われたのだと。そして、その悪魔を再び呼び寄せる計画を立てた。 

 そして、サーカスが街にやって来た。テントの中で色々な出し物が繰り広げられた。そんな中、市長はピエロに話しかけ、今度は街に蔓延っている野良猫を退治してほしいと頼んだ。そう、満月の夜に。 

 深い透き通った藍色の舞台の空に大きくまん丸な黄色い月が降りて来た。アオーンと遠吠えが聞こえる。ボックス席の前の手すりを軽く掴んでいるナオミのしなやかな手にミロシュの手が重なった。

「いよいよだよ。」ミロシュはナオミの耳元で囁いた。

 笛吹きピエロが月明かりの下、冷たく光る石畳の道を長く伸びた影とともに軽やかにやって来た。そして、時計台の下で笛を吹き始めた。すると、猫達の声があちこちから聞こえ始めた。ピエロは笛を止めて耳を澄ますと、くるっと回ってまた笛を吹き始めて歩き出そうとした瞬間、闇に隠れていた市長が立ち上がって手を挙げた。

 すぐさま数多くの白い羽が時計台から、舞台いっぱいにピエロに降り注いだ。ピエロは悲鳴をあげてその場に倒れ、悶えながら悪魔に姿を変えた。即座にその上から羽で飾られた鉄格子が落ちて来てその悪魔は捕まってしまった。

 ナオミは思わず「キャッ」と震えながら声をあげた。体全体に悪寒が走った。ミロシュは触れているナオミの手が熱くなっているのを感じていた。ゆっくりと彼女を見ると肩のあたりが小刻みに揺れている。

「なんだか寒い。」来ているジャケットにさらにくるまったナオミは少しづつ気分が悪くなっている自分を感じていた。

「大丈夫かい? 顔色が悪いし、熱があるようだ。」

 ミロシュはナオミの肩を優しく抱き寄せた。ナオミは熱い吐息をはいてミロシュの胸に頭をつけた。

「大丈夫。少し気分が悪いだけ。風邪ひいちゃったかな…。」

 ミロシュは薄笑いを浮かべて舞台を眺めていた。

 捕まった悪魔は自由になることを条件に子供達を返すことに同意した。そして、真夜中の鐘とともに、子供達が街に帰って来た。もちろん、ネズミ達も。 

「わかっているな。なぜ子供達がいなくなったか。それはお前達が報酬を支払わなかったからだ。」

 悪魔は月明かりの空に飛び上がった。

「今日は満月。これは私からの贈り物だ。」そう言って大きな黒い羽を広げて輝く月を覆い隠した。舞台は闇になり歓喜とも悲鳴とも聞こえる町の住人達の声でエンディングを迎えた。 

 しばらくの静寂。そして喝采。カーテンコール。

「面白かったかい?」ミロシュがナオミを見ると、彼女はひどくぐったりとしていた。

「うん、迫力があって…。でも、ごめんなさい。なんだか 疲れちゃったみたい。」

 ミロシュはおいおいとナオミの頭を撫でると、コンコンとノックの音がした。 

「ナオミ君、少し待っていてくれるか?」ミロシュは含み笑いでそう言い残すとボックス席から出て行った。劇場内は明るくなって観客達はそろそろと帰り出している。ナオミはビロードの貼ってある手すりに寄りかかって思わずウトウトとした。 

 

 ナオミがハッと気がついて頭をあげると、黒い子猫が手すりに座っていてニャーと鳴いている。劇場には誰もいなくなっていて、ぼんやりとステージの緞帳が照らされていた。ほんの少ししか時間は経っていないはずだが。 

「ミロシュさん?」

 ミロシュはその照らされている緞帳の明かりの際に立っていた。ナオミもそちらに行こうとボックス席から出ようとしたが扉には鍵がかかっていて開かなかった。手すりの方に戻って、演技から帰りそびれたであろう子猫を撫でてステージ上のミロシュを見た。

「いいものを見せてあげよう。」彼の声が響くと、ドンと緞帳が動く音がしてゆっくりと上がって行った。と、ステージの中央にはクライマックスで使われた羽で覆われた檻が照らされてホワンと浮かんでいる。ミロシュは白くオーラを放っている檻にそっと近づいた。「ナオミくん、君へのプレゼントだ。」 

 ナオミは目をこすって檻の中を見たがそれが何を意味するのかよくわからなかった。フーッと子猫は毛を逆立てている。

「ほら、こっちへ来て。」 

「ナオミ〜?」おかあの声がした。

 ナオミは舞台袖にせり出しているボックス席の手すりを跨いで舞台に降りるとその檻に近づいた。そして中を覗くと、そこには、おとうとおかあ、そして、アンディーが目隠しをされて並んで座らされていた。

「おとう、おかあ、アンディー!」ナオミは思わず叫んでミロシュを見た。「ミロシュさん、これはどういうこと?」

 ミロシュはそれまでの優しい彼とは違っていた。嫌な優越感に浸っている。

「わかるだろう? 君が本当の姿を見せてくれれば、家族を解放してやろう。」

「本当の姿? あなたがみんなを?」

 まさか、誰も知らないはずなのに…。と声に出しそうになった。と、 

『ナオミ。』アンディーのささやきが耳の中から頭に響いた。ナオミはアンディーの心に話しかけた。

『お兄ちゃん、ありがとう。このジャケット、とっても素敵だわ。でも、これはいったいどういうこと?』

『ナオミ、何も言っちゃダメだ。親父もお袋も僕らは大丈夫。だから、あいつの誘いにのるな。』 アンディーの返事が聞こえる。ナオミは自分の羽根が震えだしてその震えが強くなっていくのを感じていた。今にも爆発しそうだ。しかし、何かがそれを優しく包み込むように抑えていた。それは、アンディーのジャケットだった。

「どうした!」ミロシュの刺さるような声。

「君の本当の姿だよ!」ミロシュのいつになく太い雄叫びが舞台上に何度も響いた。

「なんですか、それ?」ナオミは口を尖らせて普通に、ケロッととぼけて見せた。ミロシュはナオミのそんな返事にあきれたようにハハッとそっぽを向いたかと思うと、再びナオミを睨みながら不敵な笑いを浮かべた。

「シラを切るのかね? それなら…、私が教えてあげよう。」

 ミロシュが檻についている大きな羽をシュッと一本抜いてナオミにゆっくりと近づいて来た。

「ナオミ君、ほら、これが怖いんだろ?」ミロシュはその羽をナオミの首筋から耳元までゆっくりと撫で回した。フーッという子猫の声が小さく劇場内に聞こえる。

「逃げるのか、それとも本性を見せるのか?」

 ナオミは思わず、ワァクションと大きなくしゃみをして、その唾がミロシュに飛び散った。思わずミロシュは顔を覆った。

「ミロシュさん、あの、私にはなんのことだかさっぱりわかりません。だいたい、なんの目的でそんな羽で私を撫で回すの? 素敵なインテリさんかと思っていたのに、こんなところでこんな仰々しいことして。あなたはただのいやらしい変態ね。」 

 周りの暗闇には誰かがいるのだろう。ククッと笑い声が聞こえた。

 だが、ミロシュの不敵な笑いは消えなかった。

「強がりとか、やせ我慢をする必要はないんだよ。僕は君が誰だか知っている。まさに今その正体を明かそうというわけだ。この素敵な舞台でね。」ミロシュはさらに別な羽をとって、今度は黒い羽と白い羽を一緒にナオミの顔面の前ににかざした。

 が、それはただただナオミの目の前で宙を舞うだけだった。キョトンとしたナオミは、「いやだ、くすぐったい。」といってまたくしゃみをした。

「き、君は羽が怖くないのか?」ミロシュの額には少し冷や汗が浮かんで来て舞台上にある照明の明かりに反射して光っている。 

「どうして?」ナオミは鼻をすすりながらもキョトンとしている。

「公演を見ていた時には怖がっていたじゃないか?」

「あれは、ちょうど風邪の引き始めっていうか…。そういう時があるでしょう?」ナオミはあきれて物も言えない感じでミロシュを見た。「それに…。」

「それに?」

「私は小さい時から羽毛の布団で寝ているわ。どうして羽が怖いの? 私が悪魔だとでも言いたいの?」ナオミはとても悲しい顔をしてミロシュの目の奥を哀しそうに睨んだ。

「あなたのこと好きになりかけていたのに…。」と言いかけた時にバンとステージと客席の照明が点灯して劇場全体が明るくなった。 

 観客席の両開きの扉が開いていた。そこには恰幅のいい人物ともう一人のシルエットが浮かんでいた。 

「ミロシュくん、いい加減にしなさい。」 

「署長!」ミロシュが叫んだ。観客席の中央まで警察署長とピエールが歩いて来た。

「ミロシュくん、私に断りなく何をやっているのかね。私の部下を勝手に使っては困るな。たとえ、それが政治的超法規だとしてもね。断りがあるのが礼儀だろう? どちらにしろ、過ぎた行為は許されないぞ。」

 ピエールが舞台に登って大きく手を振って合図すると、羽の檻はするすると天井に上がっていった。制服の警官たちがおとうやおかあの元に走っていった。子猫も手すりから飛び降りて舞台の上を走ってきた。 

「一般市民を助けるのが我々の仕事だ。君の無謀な詮索に付き合うつもりはないぞ。」署長が声をあげた。

 すごい形相でナオミを睨みつけていたミロシュはナイトのようにお辞儀をして唇を噛み締めながら、署長にも一礼すると素早く舞台の下手に消えていった。目隠しされて縛られていた家族の縄が解かれてナオミに近寄って来た。子猫もナオミにすり寄ってきた。いったんしゃがんで子猫を抱き上げたナオミは、緊張感が緩んだのか、みんなの方に向いて微笑んだ途端に目の前が暗くなり、アンディーとピエールの腕に崩れ落ちた。ピエールとアンディー、そして子猫の声が暗闇の遠くに聞こえていた。

「ナオミ、ナオミくん。」



 電気ポットの湯気が窓に勢いよくあたっている。 

「アンディー、私、あなたの声が聞こえたの。何も言うなって。それに、このジャケットが私の羽根の広がるのを抑えてくれた。」

 彼はバターをたっぷり塗ったパンをガブつきながらうなづいた。

「そうだろ。俺のデザインには愛があるからね。でも、ある程度の力がかかると羽根も出せるようにしたつもりだったんだけど…。ま、いいか。あーっ、でも昨日はドキドキした。どうなるかと思ったよ。」

 ラダナはマヒトの胸にもたれかかっていた。とにかく、自宅で朝を迎えていることにホッとして気が少し抜けていた。。

「しかし、ミロシュとやらはなんでナオミの秘密に…。」とマヒトが言いかけたところで玄関のベルが鳴った。 ナオミがリビングの窓から見ると、門のところにはピエールともう一人の見覚えのある影が見えた。玄関を開けると、そこにいたのはポハートカのマスターだった。

「ピエール。え? マスター⁉」ナオミは二人を台所に招き入れた。

「署長から、くれぐれもよろしくと。」ピエールが頭を下げた。

「いや、ことを大きくするつもりはありません。」真人がそう挨拶している間にアンディーは二人に椅子を用意した。ラダナも急なお客にきゅっと引き締まりながら、どうぞっとホワンと湯気の立つコーヒーを差し出した。

「あ、この人は、私のよく行くホスポダ・ポハートカのオーナーでマスターの…。」マスターはすくっと立ってガハハと笑いながらおとう、おかあ、アンディーと分厚い手で握手をした。

「この人が車を貸してくれたの。あれ? でもどうしてここに?」

「いやぁ、あの後すごく心配になっちゃってね。店は任せて最終バスでリベレッツまで来たってわけ。もちろん、君の友達は大丈夫。すっかりうちのおつまみを堪能していたからな。その後にピエールと連絡を取ってだな…。しかし、ミロシュってやつはなんなんだ?」

「僕から言わせると、典型的な勘違いインテリ野郎だね。」アンディーは自分の頭を指先でつつきながら目をひっくり返した。

「彼は、肩書きは司書ですが、その実、政府の機関である超常現象を扱う部署に属していて、常に何かを嗅ぎ回っている嫌なエリートです。」とピエールが簡単に説明した。

「そんな彼が、何をナオミちゃんに見つけたというんだ?」マスターはコーヒーをぐいっと飲み干した。と、一瞬そこには白い空気が流れ込んだ。ナオミはピエールとマスターに目配せして口を開いた。

「多分、彼は何かを勘違いしたんだと思うの。」 

「僕が許せないのは、たとえ、そう、例えばだけど、君に何か特別な能力があったとしても、いかにも自分の発見のように振舞ってそれを独り占めしようという態度が許せない。まるで手柄でも立てたような。もしそうだとしたら、つまり、何か超能力でもあるんなら、君はまず、守られるべきだろう。いくら、部署の…。」ピエールは同意を求めるようにみんなを見た。

「でも、もし私が悪者だったら?」ナオミがいたずらっぽく言った。

「なわけがない!」と2人は声をあげてハモった。

「いや、お2人にはご心配をおかけしてしまって‥。」と、真人はマスターを見ながら首をかしげた。「マスター。以前どこかでお会いしたことがありませんか?」

 マスターは大きな手をあげて頭を横に振った。

「いえいえ、今回が初対面ですよ。今度、プラハにいらした時には、是非うちの店にきてくださいな。歓迎しますよ。」

「さっきも言ったけど、マスターは旧市街広場のちょっとしたところで、居酒屋ポハートカをやっているの。すごくクリエイティブないいところ。私と友人の行きつけなの。」ナオミがフォローした。マスターは、ガハハと笑いながら胸に手を当てると、オッと声をあげた。

「ナオミちゃん、これ。」と差し出したのはナオミの携帯だった。

「あー。落としたかと思っていたのに。」 

「いや、大学の警備員の人が店に届けてくれたんだ。いちおう充電だけしておいたよ。」マスターはそっとピエールにウインクした。

「ありがとう。」ナオミがすぐに履歴をチェックすると、ミロシュのメッセージと電話の履歴があった。さらに、ピエールのものも。

「そうか。これ、怪我の功名ってやつね。」

「なんだそれ?」

「無くしたから、ポハートカに行って、ピエールに先に会えたのね。」 

 少し間を置いてナオミがまた言った。

「そのまま、ミロシュに呼び出されていたら、もっと慌てていたかもしれない。そうしたら…。」

 その先がわかっているのは、家族だけだった。 

「でも…。」ピエールが真面目な表情で口を開いた。「ミロシュがこれで諦めるとは思えないんだ。」 

「どういうことだ。」マスターがギロリと彼を見つめた。

「奴は、エリート中のエリートだ。おそらく、絶対に自分が正しいと信じている。」

「だから?」

「そう、何か別な手を考えているかもしれない。」

「クワバラ、クワバラ。」マスターは大きくおどけて見せた。

「と言っても、昨日の今日ということはないと思うけど。」

 と、ナオミの携帯のメッセージを伝えるチャイムが鳴った。みんなに少し緊張が走った。ナオミが携帯を覗き込むと、それはエヴァからだった。思わずフウッとため息が出た。

『ナオミ、昨晩は大丈夫だった? もしかしたら、私の短編映画のトレイラーを早々に撮影しなければならないことになりそう。時間ができたら連絡してね。』

「学校もあるし、どちらにしろプラハには戻らないと。」

「じゃあ、一緒に帰るか?」とマスターが誘った。

「ううん。もう少し家族といたいの。だから、夕方のバスで帰るわ。ありがとう。」ナオミはマスターにウインクした。

「じゃあ、ナオミさん、またプラハで。僕らが長居してもなんだし。」

 ピエールが席を立って、車のキーをマスターの前に出した。マスターもそれを受けて立ち上がった。  

「昨日は、本当にご迷惑をおかけ致しました。」ピエールは頭を下げた。

「あなたのせいじゃないわ。」ラダナが柔らかく返事した。

「朝食の時間に邪魔しちゃったな。それじゃあ。」マスターは大きな体の割には猫のような軽い足取りで玄関に向かった。

 ブロンとファボリットのエンジンが唸ると二人は笑顔を残して走って行った。

「やっぱりどこかで会ったことがある。」おとうはそう言いながらダイニングに戻った。

「彼らは、どこまでナオミのことをわかっているんだろう?」アンディーはナオミを見た。

「私たちの味方には違いないと思うけど。本当のことはわからないわね。」

 おかあの気が抜けるのがナオミにはわかった。そして、マスターの最後の笑顔を、どこかで見たことがあるような気がしていた。


 車は街を出て郊外の高速道路の長い坂をエンジンを唸らせながら走っていた。

「おい、若いの。」ぼんやりしているピエールにマスターは声をかけた。「昨日はなんですぐに帰らなかったんだ?」

 ピエールは横目でマスターに返した。

「ええ、ナオミさんを劇場に届けた時に、ミロシュから、お前の任務は終わりだと言われてカチンときたんです。だいたい、あんな、」

「やり方許せない…か。それで、署長に?」

「ええ、なんだか、ナオミさんを守らないといけないって感じたんです。もちろん、署長が了解の上でのことであったなら、それまででしたけど。ダメ元で確認しに行ったんです。そしたら違った。」ピエールは前方を凝視していた。「それに…、」

「?」

「ミロシュは、ただ単にナオミさんに超能力があるというふうに見ているんじゃないと思うんです。何かもっと別なものを感じているような。そんな気がしてならないんです。」

「だから?」

「だから、あんな変な舞台を用意した。」

「変な舞台?」

「ええ、まるで、悪魔祓いのような…。それが何か私も知りたいんです。いや、それ以上に、彼女のそばにいてあげたいんです。もっと言えば、彼女を理解してあげたい。」

 ハハァンとうなづくようにマスターは頭を軽く上下させながらピエールを見た。

「例えばの話だが、」と切り出して今度は目をぎょろぎょろさせた。「例えばもしナオミがチェルトとか何かだとしてもか?」

「え?」振り返ったピエールの顔はポカンとしていた。マスターはにんまりしている。「え、マスター、面白いこと言いますねぇ。さすが…。」

 ゴーッと舗装面が荒くなった地面を蹴るタイヤの音が二人の間に侵入した。しかし、なぜかそれは無音の瞬間が続いたようにも感じられた。ピエールはナオミの笑顔を思い出していた。

「もちろんです。たとえ彼女がチェルトだとしても。」

 マスターはアヒャっとおどけてガハハと大声で笑った。

「いかれてるな。」

 坂の頂上付近はさらに急勾配になって車のスピードが落ちた。マスターはギアを一段落してアクセルを目一杯踏みつけた。

「え?」ピエールはハッと何かに気がついたようだった。

 エンジンの音が一段と高くなり悲鳴をあげた。

「恋しちゃってるなってこと。」マスターの大声がかすかに聞こえた。ピエールは窓の外に流れていく針葉樹林を見ながらうなづき、小さくつぶやいた。

「ええ、不思議な彼女に。」 


 「多分。」アンディーはナオミを見つめながらコーヒーをすすった。「ミロシュはお前が誰なのか疑っている。」

「まさか?」ラダナは困った顔をしている。「だから、あんな演出の演劇にさそったのね? しかも、あんな檻まで。」

「それはどうかな? 完璧にはナオミが誰だかはわかっていないと思うけど。」

「僕もそう思う。試してみたんだ。チェル…。」と言ったところで、アンディーは、シッと人差し指を唇に当てた。そして、みんなの顔を寄せるように合図して、小声で喋った。

「もしかしたら、僕らの話は筒抜けかもしれない。」 

 突然、アンディーは大声をあげた。

「あーっ、なんだか今日の朝食美味しくないよ。」

「そんなことないわ。いつもとおんなじよ。」ラダナは言葉を真に受けてアンディーをキッとにらんだ。

「そうだね、いつもとおんなじだから、美味しさを感じないのかな。」 

「ひどい。真人まで。本当にそう思ってんの?」

「じゃあ、たまには一緒に喫茶店でブランチっていうのはどお?」

 ナオミはアンディーのひらめきを言葉にした。

「あら、もうそんな時間?」ラダナはキッチンの時計を見た。

「昨日は、いい加減、いろんなことで参っちゃったからね。」

「じゃ、散歩がてら行くか。」真人が立ち上がった。

「すぐはダメよ、それなりに準備しないと。ねぇ。」ラダナはナオミと目を合わせた。

「そうよ、この寝ぼけた格好でなんて。」当然といった感じのナオミ。

「はい、はい。じゃ、素早くお化粧してね。」 

「俺らは外で待っているから。今日は気持ち良さそうだもんね。」

 15分程で、2人はカジュアルな装いをして前庭にやってきた。 

「あぁ、いつもながらのお美しい。どう? 少し散歩しながら行こう。」

「最近は、なかなかこうやって家族揃って歩くこともないもんね。」

 マヒトが門の鍵を閉めていると、向かいのおばさんが犬を連れてやってきた。

「あぁよかった。みんな無事だったのね。ホッとしたわ。昨日はなんだか大変な日だったわよね。」

「ご心配おかけしました。ちょっとした間違いだったようです。」

「きちんと確認してからにして欲しいわよねぇ。適当すぎるにもほどがあるわ。何か疑いがあるとすぐにこれだもの。その前に自分たちのことをしっかりチェックしてほしいわよねぇ」

「気配りをありがとうございます。」

「ううん。近所にはしっかり誤解のないように言っておくからね。」ニコッと笑って犬と自宅の門に入って行った。

「おばさん、いいヒトだね。この通りのゲネラル。」アンディーは手を振った。「昨日もうちには警察がいるよって教えてくれたんだ。」

「アンディやナオミのことを赤ん坊の頃から知っているからね。」

 家の前の通りを歩くと、すぐに小さな公園があり、その先は森になっている。その森の道を右に下って行くと喫茶店までは近道となるが、

「まっすぐ行こう。」と真人はみんなの先頭に立って少し遠回りをすることにした。道は木々の中、多少のアップダウンが続く。

「それにしても、昨日最初に隔離されていたところは、劇場の下の倉庫だったてことになる。」

「だから、あんなに殺風景だったのか。でも、なんであんなところに。」

「そう、やっぱり警察がメインで動いていたわけではないんだ。」

「ミロシュは、警察じゃないのよ。それよりも組織は上。でもピエールによると、予算の関係でその部署が別なところと統合されるらしいの。だから、」

「それを阻止するために、何か手柄が必要か。」真人が小石を蹴った。

「たまらないね、そんなのに利用されたら。」

「でも、半分は当たっていわ。それにかなり計算高い。彼の予想はまんざら嘘じゃないということは当の私たちが、ねえ。」

「それに、あいつのことだから、これで喰い下がらないだろう。気をつけないと。」アンディーは注意というポーズをとってみんなを見た。 

 木々の間を通る細い道を過ぎると少し広い空間にでる。そして、その先には奇妙な岩の塊が鎮座している。マヒトはラダナの手を取って、その岩の上によいしょっと登ると抱きついてキスをした。 

「僕らは、昔から散歩するたびにここでハグするんだ。喧嘩した時も、ここにくれば、心のざわつきが治るんだよ。だからここは二人の大切な場所なんだ。」

 ラダナはぎゅっとマヒトを抱きしめた。

「ほら、ここから見えるそこの二本の大きな木も僕らみたいだろ。」

「いつも、アンディー、ナオミのことを見ているわ。」

 ざわざわっと木の枝が風に揺れてそんな二人に応えたように見えた。

「さぁ、下って行こう。」

 その岩からは小さなダムのある人造湖まで一気に下る。ダムといっても石積みでできた水をせき止める壁の上は橋のように機能して、湖の周りは格好の散歩やジョギングコースとなっている。いわば市民の憩いの場である。夏は泳げるし、冬は凍って自然のスケート場になる。

今日は平日なので人はまばらだが、乳母車を押すお母さんやゆっくりと散歩する老夫婦、カモや鯉に餌をやる人などが数人いる程度だった。 

「ここ大好き。いつも時間の流れがゆったりとしている。」ナオミは背伸びをして大きく深呼吸をした。広大というわけではないが、眼前に広がる水面と奥に広がる山々。反対側にはリベレッツの象徴とも言える山頂ホテル兼電波塔のイェシュタッドも見える。 

「あの二人、いい人みたいね。」ラダナが口を開いた。「でも、どこまでナオミのことを理解しているというか、知っているのかしら。」

「多分、私が普通の人とは違う、つまり、何か特別な能力を持っているってことはわかっていると思うんだけど。」

「超能力って言っていたよ。」

「うん。」

「でも、チェルトなんかだとは思っていない。」

「多分、それに気がついているのは、」

「そう、あのミロシュ。そうじゃないかって疑っているんだ。だから昨日、あんな風に羽をかざして見たんだ。」

「確かに、伝統的なポハートカではチェルトは羽を嫌っていたよね。ドラキュラがにんにくを嫌うように。」

「でもなんで?」ナオミはおとうを見つめた。

「うーん…。わからない。」

「羽は、平和の象徴だからじゃないかしら?」ラダナは自分の方を見ながら言った。

「ハト?」

「それとも、ほら、天使の羽根は羽からできているけど、ほら、悪魔の羽根ってコウモリみたいなのだから、嫌い…とか。」

「ありえるかもしれないけど、ナオミには通じないよね。ハーフなんだから。」

「でも、おかしかったよ。昨日ナオミが羽毛布団のことを言った時は。コントみたいだった。」

「だって、気持ちいいんだもん。」

「ミロシュのやつ、ヘッ?て顔し固まっていたもんな。肩透かし食らったように。」

「ということは、本当のナオミを知っているのは、やっぱり僕ら家族だけだよね。」

「今のところ。」

「でも、何だか寂しいなぁ。」ナオミの足取りが少し重くなった。

「?」

「やっぱり、本当の自分を誰かに知ってもらいたいって思う。」

 その気持ちがわかるだけにみんな言葉に詰まったが、ラダナがさらりと呟いた。

「普通のチェコの人たちは、チェルトのこときっとどこかで好きなのよ。だから、みんながあなたを好きなはず。」 

 ダムを通り過ぎて少し坂を登ると、大学のある少し広い並木通りに出る。その通りを学生寮の方に歩くとカフェがある。大きな窓の外から覗くとお客さんはまばらだった。カランカランと扉のベルが鳴った。

「いらっしゃいませ。」

 知らないアルバイトの店員が2人いた。明るい窓際の席を陣取って、何種類かのブランチセットを頼んだ。ラダナとマヒトは久しぶりの訪問だ。オープン当時はとても雰囲気がある店だったが、2−3年して知名度が上がると、忙しさとともに好感度は落ちてしばらく疎遠になっていたのだが、白いトレーに載ってやって来たブランチはそれぞれがとても美味しそうだった。

「カプチーノの方は?」ナオミとアンディーが手を挙げた。ラダナは普通のコーヒー。真人はダブルエスプレッソだ。

「きょうは、マスターは?」真人が聞いた。

「ええ、何かお約束でも?」と丁寧な対応だ。

「いえ、久しぶりなもので、ご挨拶ができればいいかなと。」

「なんでも、街の飲食店主の朝食会らしくて。でも、もうすぐいらっしゃるかと。ドブロウフーチ。」と店員は軽くお辞儀をした。 

「このクロワッサン、結構おいしいよ。」

「私のパン・オウ・ショコラもあったかくてふわふわ。」 

「僕のサンドイッチだって、ボリューム満点。」

 カランカランと入って来たマスターは、スタスタとカウンターに向かいアルバイトの女の子と話していた。えー?とかキャー!とかいう声が聞こえた。 そんな彼がこちらを振り返ると、「あっ!」と声をあげてこちらに来た。

「ナオミちゃん! もう知っていると思うけど。」

「なんでしょうか?」

「あのノイマンさん。どうやら、今日付で図書館をクビになったらしいよ。いや、どこかに移動って言ってたかな。とにかく、リベレッツからいなくなるって。どうしたんだろう。」 

 噂は本人の行動より早い。みんなは顔を見合わせた。

「彼はコーヒーを飲まなかったけど、うちのアルバイトの子たちにはかっこいいって人気があったんだけどねぇ。いや、ナオミちゃんとお似合いかと思ってもいたけど…。」

「ナオミとはなにも関係ないですよ。それにしても、どこからそんな…。」アンディーはカプチーノをすすりながら上目遣いで彼を見た。

「あぁ、図書館にあるカフェのオーナーの情報だよ。」オーナーは、ナオミの周りの家族にやっと気がついた。「あらまぁ、みなさん、お久しぶりです。新メニューのブランチはいかがですか?」 

 ラダナとマヒトは笑顔で答えた。

「ごゆっくりどうぞ。」そう言ってマスターはカウンターの方に身を返した。お客の少ない午前中は以前のよく来た時のような雰囲気が漂っていた。真人はぐいっと残りのドッピオを飲み干した。

「ということは、しばらく静かってことかな。」

「もう、昨日みたいなことはないといいけど。」ラダナは半信半疑だ。 

「そう考えたいね。でも、なんだかスッキリしない。」アンディーも腑に落ちない様子だ。

「ううん。多分、大丈夫よ。私は彼の定義にはハマらなかったんだから。」当のナオミはあっけらかんとしている。 

「マスター!」ナオミが明るい声でカウンターに叫ぶと、 

「はいよ!」とエプロン姿に着替えたマスターが答えた。

「コーヒーのお代わり。みんなにお願いね。」

 一番嬉しそうなのはコーヒーマシーンから立つ湯気の向こうにいるマスターだった。


 背中にパワーバルジのついた新しいジャケットは夕暮れのバス停で少し目立っていた。背の高いナオミが着ているからなおさらだ。

「お兄ちゃん。このジャケット大好き。試作品なのにこのまま着て帰っていいの?」

 見送りに来たアンディーは少し膨らんでいる背中を優しく撫でた。

「ああ、お前をと言うか、僕らを守ってくれたんだ。ナオミ以外に着る人はいないだろ。」彼は優しく微笑んだ。

 大きな山吹色のバスが滑り込んで来ると、車体中央のドアが開いてステュワーデスが切符の点検を始めた。 

「じゃぁ、行くね。おとうとおかあをよろしくね。」

「ナオミ、気をつけろよ。何かあったら必ず連絡するんだぞ。」

「うん。おかあとは毎晩メッセージしているよ。」

 二人はほっぺたでキスを交わした。バスは定刻に発車した。隣の席には誰もいなかった。ウインクしたセルフィーを撮ってマミンカにメッセージを送った。すると、おとうとおかあの2人のおどけた写真が返って来た。エヴァからは、”ここ数日は都合が悪いのでまた連絡するね。”と連絡が入った。 

 バスは色づいた山の中の高速を快走した。 


 晩御飯は簡単に済まそうとナオミはアパート近くのスーパーで新鮮な野菜サラダのパックと出来立てのフレバ(黒いパン)、それにチーズを買った。がっつりと食べたい誘惑にも狩られたが、これで十分と自分に言い聞かせた。ハミングしながら建物の前に到着。バッグのポケットから鍵を出して建物に入り、ポストを確認して玄関の扉を開けると、奥のリビングから大声が聞こえて来た。

「そんなことはわかっているよ!」そこそこの剣幕だ。 

「?アダム??」

 靴を脱いだナオミはキッチンに買い物袋を置いてそっとリビングを覗いた。仁王立ちしているトマーシュの背中の向こうに座っているアダムが少し見える。テーブルの上にビールとそれぞれのグラスがある。

「だから、何度も言っているだろう!」またアダムが叫んだ。

 二人に何かあったのだろうか? タイミングが悪い時に帰って来てしまった。ナオミの部屋はそのリビングを通り過ぎなければならない。

「ただいま。」と小声で言うと、二人はナオミの方を振り返った。

「あ、おかえり。」トマーシュの声は落ち着いていた。彼は、顎でアダムの方を見ろとナオミに合図した。なるほど。2人が喧嘩していたのではない。アダムは携帯に叫んでいた。

「わかってくれないかな? 僕はね!」アダムは大声を出したあと、しばらく沈黙して相手の話を聞いているようだった。

「そう。そう言うことなら…、考えてみる。じゃぁ。」と言ってハァと大きなため息をつきながら携帯を放り投げて、ソファーの背もたれにドカッと寄りかかった。

「穏やかじゃないな。いつものアダムらしくない。」トマーシュは半ば呆れた感じだった。

「どうしたの?」ナオミも目を点にして聞いた。

「親父からだ。優しすぎるんだよ! ちくしょう!」アダムはソファーを叩いた。

「落ち着けって。」トマーシュは両手をかざしている。

「私、とりあえず、シャワーを浴びて来てもいいかしら?」ナオミはササッとリビングを通り越して自分の部屋に入った。今日一日暖かかったのか部屋の空気が重く感じる。新鮮な空気を入れようと反射的に二重窓を少し開けた。そしてバスタオルと着替えを持って再びリビングを通過した。アダムはそっぽを向いていて、トマーシュは向かいに座ってビールをグビッと飲んでいた。

「ごゆっくり。」

 ナオミは首で返事をしてつま先走りでバスルームに向かった。扉を閉めるとおもむろに服を脱いで鏡に向かい化粧を落とし始めた。そして、シャワーをひねって暖かいお湯が出るのを待った。が…。いつものタイミングでお湯が出てこない。あれっと思ってしばらく待ってみたが、冷たい水のままだ。すると、扉をノックする音がした。

「ナオミ! 言うの忘れてた。」トマーシュだ。

「お湯が出ないの。」

「そう、建物のボイラーの交換工事が今日だったんだ。1日で終わるはずだったんだけど、不足の部品があるらしくてね。明日は大丈夫って言っていた。」

「もう、早く言ってよ!」

「ごめんごめん、忘れてた。」 

「昨日は昨日で今日は今日。もう!」ナオミはブツブツ独り言を言って震えながら絞った冷たいタオルでささっと体を拭いてパジャマに着た。洗濯物を自室に放り込んで、リビングのソファに座った。実のところ、雰囲気の悪いところに身を置くのはあまり乗り気ではなかったが、普段はクールなアダムが沸騰しているのが少し気になっていた。アダムはナオミとは目を合わせなかったが、先ほどよりは幾分落ち着いているようだった。が、リビングの空気は沈んでいた。

「どうしたの? あなたらしくないわ。」

「親父からの電話らしいんだ。」トマーシュが説明した。アダムは黙っている。「本当の親に会えって言われているらしい。」

「あは。」ナオミはアダムが話していたことを思い出した。

「普通は嬉しいだろ。そう言う境遇の人はよく生みの親を探すよね? 多分。」トマーシュはどっちつかずな感じで思うことをそのまま口にした。「それとも、自分を捨てた親には絶対に会いたくないってことか? うん、それもわかる。」

「とてもデリケートなことね。」

 トマーシュはいつになく大人っぽいナオミを感じた。

「どう言う経緯なの?」

 ナオミの問いにアダムは目を合わせずに重い口を開いた。

「ああ。両親のところに孤児院から問い合わせがあったんだ。本当の親が一度だけでいいから成長した息子の顔を見たいって。」

「それで両親はなんて言ったの?」

「息子に確認しますって言ったから、僕に連絡して来た。」

「勝手にハイって言ってないんだからいいじゃないか。お前のことを尊重している。」

「でも、親父は、会った方がいいんじゃないかって勧めているんだ。」

 ナオミは、この前のアダムの話から想像してみた。

「あなたは、本当は、お父さんが何も言わずに断ってくれたほうがよかったって思っているのね?」

 アダムは黙ってどこか一点を見つめている。

「そんなお父さんでいて欲しかったんでしょ? 頑丈な壁のような。だから、優しすぎるなんて言ったんでしょ。人が良すぎるって。生みの親は子供を捨てておいて今更なのに。」

 ナオミの気丈な態度にトマーシュは少し驚いた。

「調子が良すぎるやつの言いなりになることないって、そう言いたいわけね?」

 ナオミの言葉にアダムはピクッと反応して彼女を見返した。

「ああ、僕には記憶がないし、生みの親と言う記憶は抹消されている。優しすぎる親父は物事をこんがらからせているだけだ。」アダムの鋭い眼差しの奥には哀しみが見える。

「確かに、めんどくさいことになるかもしれないよな。いや、此の期に及んで調子良すぎるよなぁ。」トマーシュの言葉にアダムはゆっくり目をつぶってうなづいた。 

 が、今度はナオミが大きな声を出した。

「違う。私は違うと思う。」 

「おいおい。」トマーシュは慌てたそぶりでナオミに手を振った。アダムは目をカッと見開いて再びナオミを凝視した。

「あなたを育ててくれたお父さんとお母さんは、優しい以上にきっと強い人よ。」

「強い人?」アダムの眉毛がつり上がった。

「そう、強い人。育てたあなたに絶対の自信があるの。そうに違いない。だから、あなたがどんな状況になってもこれまでの親子関係は変わらないって信じていると思うの。あなたに生みの親がいるって明かした時に、もしかしたら、こうなる時が来るかもしれないって思ってたの。それは、避けて通れれば通れるかもしれないけど、あえてそうしなかった。」

「…」

「あなたを試しているって言ったら言い方が悪いけど、あなたはもう小さな子供じゃないわ。自分のことは自分で判断できるでしょ? 自分自身の力で乗り越えて欲しいと思っているのよ。きっとそう。違うかしら?」

 トマーシュはなるほどと大きくうなづいた。

「そうだ。これはアダム、お前のご両親の問題じゃないんだよ。お前が自分で消化解決しなきゃいけないことなのかもしれないぞ。」

「ご両親は、なぜあなたが捨てられたのか知っているの?」

 アダムは首を横に振った。

「と言うことはお前も知らないのか。」

「でも、そんなことはどうでもいいことよ。そんなことを追求しろって言っているんじゃない。」

「そうだよ。今の自分がどれだか立派かって言うことだろ。育ての親が間違いなく育ててくれたってこと。」

「もしかしたら、そんなことも口に出す必要もないかも。同じように、生みの親になんで捨てたんだって聞いたところで今更何もプラスにならないわ。」ナオミは自分自身に言い聞かせるように言った。

「自分のこれまでの歴史はあなた次第でいかようにも解釈できる。悲劇のヒーローになるのもよし。全てをプラスに考えて先に進むのもよし。でも…。」

 アダムはどこか一点を見つめている。壁にかかっている時計の音がリビングに響いている。

「あなたの元気である顔さえ見れれば…、」と言ったところで、ナオミのお腹がぐーっとなった。

「素晴らしいタイミングだ。」トマーシュは目をこすりながら思わず吹き出した。ナオミはダイニングに走って行って、買って来たサラダのパックを取って来た。

「ごめん。お腹すいちゃってたの忘れてた。」

 アダムの目には涙が浮かんでいた。ナオミも知らないうちにサラダとパンをかじりながら目が潤んで来ていた。

「おい、やめろ。急に家族が恋しくなってきたぞ。」それを見てトマーシュがオロオロし始めた。

「会うか、断固として断るかは、あなた自身の選択。」

「まるで、ポシュタ・プロ・テベだな。」

 そうおちゃらけたトマーシュをナオミはきっと睨んだ。


 * ポシュタ・プロ・テベ チェコテレビの番組。 長年会っていない人に手紙を送り、スタジオで再開する。ただし、手紙を受け取った人はスタジオに来るまで誰からの手紙かわからない。


「もちろん、私にはどちらがいいかなんて言う資格ないわ。だって、」

「たしかに、俺たちが知っているのは、今のこの状況だけだ。それだけで論じてしまっている。しかし…。」トマーシュは、頭をかいてナオミとアダムを見比べた。

「ええ、そんなことを承知で、あえて偉そうなことを言わせてもらえば、この機会は育ての親からの素敵なプレゼントのような気が私にはするけど。」

 突然、アダムは携帯を取って立ち上がった。 

「おい、早まるなよ。」思わずトマーシュも立ち上がった。

「外で電話して来るだけだよ。」アダムの声は落ち着いていた。「恥ずかしいから。」

 玄関の閉まる音がした。フウッとため息をついてトマーシュは腰を下ろした。

「ナオミ。お前は見た目と違って本当に冷静で強いな。」

「何よ、その見た目って?」キッとトマーシュを見たが、表情は曇っていた。「私、偉そうにわかったようなこと言っちゃったかな? アダムのこと、立場とかどうやって育ってきたかとか考えずに。ちょっと無責任だったかも…。」

「いや、大切なのは、あいつがいろんな意見を聞くことだ。確固たるものがあれば別だけど、アダムはどこかで迷っているだろ?」

「うん。」

「ナオミが言うように、最終的に判断するのはあいつ自身なんだから。」

「私、今の自分の状況をどこかで照らし合わせていたかもしれない。」

「何? お前も孤児院育ちなのか?」

「違うわ。でも、ちょっとね。」ナオミも軽くため息をついてサラダに刺したフォークを止めた。

「自分の心を制御できるのは最終的には自分しかいないけど、それだけじゃ寂しいのかもしれない。」

 トマーシュは黙ってナオミを見つめてビールを飲み干した。

「ボイラーの他に、もう一つ大事な報告がある。」

「いいこと? 悪いこと? 悪いことだったら聴きたく…。」トマーシュの目の奥には暖かい深みがあるように見えた。

「この前の会議。楽しくできたと思う。感謝するよ。」そう言いながら親指を立てた。ナオミは素直に嬉しく微笑んだ。

「さてと、俺も久しぶりに両親に電話してみるかな。」と言って彼は少し恥かしそうに自分の部屋に入って行った。


 ナオミが部屋に戻ると、窓のカーテンが夜風に揺れていた。中庭からアダムの電話の声が聞こえる。窓を閉めようと近くによると、サンの所にまた黒い子猫がいた。じっと下のアダムを見ているようだった。

「盗み聞きはよくないぞ!」っと子猫に顔を近づけて小声で言うと、びっくりしたように黄色い目をパチクリさせてこちらを振り返った。 

「お前は人の話がわかるのね。」子猫は”うん”と首をかしげてまた下を見下ろした。聞こえてくる話はよくはわからなかったが、アダムの声のトーンは普段に戻っていた。いや、不思議と爽やかに聞こえた。 

 子猫は小さくニャーと鳴くとストンとナオミの部屋に飛び込んだ。部屋の真ん中で今度はゴロンと寝転がると、ナオミはすぐそばにしゃがんで顎の下を撫でた。

「お前には、本当のこと言っちゃおうかな。」気持ち良さそうにゴロゴロとナオミの手を小さな両腕でかく真似をしている。ナオミはそのままつかみ上げて、子猫と顔を見合わせた。

「私はね、本当は、”チェルトとエンジェル”のハーフなの。」チェルトとエンジェルの所は口パクだった。ナオミと子猫はじーっとにらめっこしているみたいだった。子猫はまたニャーと鳴いた。

 携帯が振動している。テレサからだ。

「プロッシーン。」

「あ、ナオミ? 今大丈夫?」

「ええ。」

「明日の撮影は、2時間遅れて11時からいつものスタジオで。だからメイクもあるし10時には控え室に入ってね。」

「2時間も遅れるんですか? 朝遅いのはいいけれど、終わるのが遅くなるのはなぁ…。」 

「監督の都合なんだって。お昼は簡単につまめるものを用意しておくつもりだから。」

「あは、そう言うことですか。」

「大丈夫、あなたとルカーシュのコンビだから心配していないわ。いつも通りの時間で終わるわよ。」

「予習ちゃんとしておきまーす。」

「じゃ、伝えたわよ。明日ね。アホイ。」ナオミが電話を切ろうとしたら、テレサの声がまだ聞こえていた。「ナオミ、それからね、」

「なあに、まだ何か?」

「そう、明日はゲストであの女優が来るので、ヨロシクね。」

「了解。」電話を切ったナオミにとってはそれが有名人でも、素人の人でも同じだと思っていた。そう、楽しくできれば。

 電話を机の上に置いて子猫に振り返ると、キョトンとした顔をしてナオミを見上げていた。

「さぁてと、明日の撮影のテキストの準備、準備。」と子猫を窓のサンに戻して机に向かった。テキストは1週間分でそこそこ厚いが、ナオミの場合、1、2回読めばほとんどのことが頭にインプットされる。既に軽く目を通してあったので、もう1度読めばいい。

「そうだ、窓を閉めようと思っていたんだ。」と窓を見ると、子猫がじっとこちらを見ていた。ナオミはそろりと子猫に近づき小さな鼻に指先を当てた。

「ルチフェールと約束できた?」 

 子猫は小さな赤い下ベロをペロッと出して前足でナオミの指を爪を立てずに引っ掻いた。

「ウフッ、可愛いねお前は。よろしく言っておいてね。」と子猫のお尻を軽く叩くと、ニャと声をあげて暗闇に消えて行った。中庭にアダムの声はもう残っていなかった。窓を閉めてカーテンを引くと携帯のメッセージのチャイムが鳴った。

『ナオミはナオミ。大好きだよ。おとう、おかあ。』 嬉しかった。

『私も、家族みんなのこと大好き。』



 綺麗な四葉のクローバーが泡で描かれたカプチーノと暖かいクロワッサンがピエールの目の前にやってきた。

「ナオミちゃんこの時間だと来ないと思うけど、確か今日は1日中撮影だから早朝からスタジオだと思うわ。」

 ピエールは残念そうな表情を見せたが、ニコッとオルガに微笑んだ。

「いえ、オルガさんの所の朝食が食べられるだけで幸せです。」

「あら、あなた刑事さんなのに随分とお世辞がうまいのね。」

「いえ、お世辞だなんて。あちちち…。」口元に泡のヒゲを作っていた。オルガはピエールにウインクすると奥に戻って行った。オーガニック8は朝から活気がある。コーヒをテイクアウトする若者。朝食を楽しむ近所の年配の人たち。いい雰囲気が漂っている。

 カランカランとドアベルの下にいたのは来ないはずのナオミだった。

「あら! ナオミちゃん! 今日はスタジオじゃなかったの?」カウンターにいたオルガがびっくりしている。

「うん、開始時間が遅れたの。ついでに私も寝坊しちゃって。」ナオミは肩をあげて下ベロをちょろっと出した。

「だから、結局あんまり時間がないんだけど、いつものスムーティーすぐできる?」 

 オルガは笑顔でうなづいて、親指で店の奥のテーブルを指した。

「ピエールさん!」ナオミはオルガに目で相槌を打つとピエールの前に座った。

「おはようございます。」

「おはよう。ここの朝食は美味しいね。昨日は…。」

「はい。昨日は夜に戻ってきました。今日は、これから撮影なんです。」

「どこで?」

「ええ、CTのスタジオで。子供番組なんで。」

「一緒に行って見学してもいい?」

「ええ、ピエールさんなら喜んで。でも、今日は忙しくなりそうなんでそんなにお相手できそうにないですけど。」

「あら、彼はほっぽいても大丈夫よ。尾行で慣れてるんだから。ねぇ。」オルガが大きなグラスを持ってきた。「ちょっとミントを強めにしておいたわ。はい、それとドッピオ。眠そうだからね。」

 ナオミはズズッと太めのストローをすすった。

「あれ? なんかまたいつもと違う。」 

 オルガはニヤニヤしている。ナオミはもう一回すすった。

「これもしかしたら、コリアンダーが入っている?」

「正解! よくわかったわね。ほんのちょっとだけどね。」

「うん。不思議。タイ風なんだけど西洋風っていうか。美味しい。」

「目がさめるでしょ? 今日も頑張ってね。」

 ピエールが僕にも味見させてと乗り出してきたので、ナオミはグラスを差し出した。同じストローでピエールもすすった。

「うわ! なんだこれ! 僕には無理だこんなの。」

「あら、とっても健康的なのよ。ありがとうオルガさん。」ピエールを見ていたオルガはフンと顎を返してカウンターに戻って行った。

 全て飲み干すと、ナオミは席を立った。 

「もう行かないと。あと2分でトラムが来るわ。」カウンターでささっと支払いを済ませた。

「あ、僕が払うよ。」とピエールが慌ててついてきた。

「もう二人分払っちゃった。今度おごってね。じゃ、行かないと! オルガさんまた!」と店から出て行った。

「おい、ナオミくん!」と追いかけようとしたピエールの襟をオルガが掴んだ。

「はい、これ、スバチナ。モタモタしてるとついていけないよ。」 

 オルガから大きめの紙袋を受け取ったピエールもトラムの停留所に駆けて行った。

「あの2人、大丈夫かねぇ。」常連のおじいちゃんがヨーグルトを食べながらオルガと共にガラス越しの2人を見送った。

 停留所にやってきたのはピカピカの新型のトラムだった。古い車両は車両ごとの行き来ができない独立した車両が連結されているのだが、新型は少し短めの車両がいくつか繋がっていて車両間を移動できるような構造になっている。2人は中頃から乗車したが、空いている後方に移動して並んで座った。 

「スバチナだって、オルガさんが。」ピエールは紙袋をかざして見せた。「まるでプラハのお母さんだね。」

 ナオミが中を覗くと、まだ暖かいコブリハ(ジャムの入った揚げパン)がたくさん入っていた。

「ピエール。今食べちゃダメよ。あとでみんなと食べるんだから。」ナオミは携帯を取り出してオルガにメッセージを送った。

『ありがとう。スタジオのみんなといただきます。』

 トラムはヴルタバ川を渡り、パリ通りの手前で右折した、

「大学の前で18番に乗り換えるわ。」

 停留所の手前の交差点が赤信号でトラムは止まった。窓からは車や人のたくさんの往来が見えた。ナオミはリベレッツのゆっくりとした感じも好きだが、プラハの街並みと雑踏はそれ以上に好きだった。ガタンと動き出したトラムは道の中島にある人で停留所にゆっくりと停車した。車道から一段盛り上がった狭い停留所は人でごった返している。乗っていた17番のトラムが発車するとすぐに18番のトラムがやってきた。今度は古いタイプの電車だった。そこそこ人が乗っている。降りる人も多いが乗る人も多い。流れに任せて2人は後方のワゴンに駆け上がって川側のつり革につかまった。18番は、カレル橋を経由して国立劇場の前を通っていく。ナオミは古い車両が好きだった。時として大揺れするが、街の中をゴトンゴトンと走るリズムと感覚がその街の住人なんだということを認識させてくれる。 

「私、プラハの街が好き。」

「ああ、僕もこの街並みの雰囲気は大好きだ。」

 改装中の建物もいくつかある中、窓越しに流れていく古い街並みは素敵だ。 

 旧市街を抜けてトラムが小高い丘を登り始める頃には車内は幾分空いてきた。途中、ピエールが乳母車の乗り降りを手伝ったり、ナオミが老人の座席に座るのを手伝ったりしていると、プラズスキー・ポヴスターニーのアナウンスがあった。チェコテレビはここから少し歩いて登った小高い丘の上にある。 

 建物正面のガラス張りの自動ドアを通るとゲートがある。ナオミはレセプションに話をしてピエールの来客用のカードをもらってきた。 

「はい。わかっていると思うけど、帰るときには返却してね。」

 2人はスタジオのある別棟の3階に向かった。 

「撮影開始までは1時間弱あるけど…。このホールで待つか、この先にはカフェテリアがあるからそこにいてもらってもいいかも。スタジオに入るときに呼びにくるね。私はこれからメイクと衣装なの。じゃ。」

 ピエールは少し戸惑いながらも親指を立てた。ナオミの後ろ姿を追っていると、テレビや映画で見たことのある人々が目の前を横切った。 

 


 サムさん夫妻が犬の散歩から戻ってくる途中、青いサイレンを屋根につけた黒塗りの車が追い越して真人とラダナの家の前に停車した。運転手が車のドアを開けると偉そうな人物が降りるのが遠目に見えた。 

「おい、またか?」注意深く見ると、菓子折りのようなものを持っている。

「謝りにでもきたんじゃないの?」

「直々にか?」 

 2人は犬と一緒にそろりと自宅の前の門から真人の家をうかがった。

「この度は誠に失礼いたしました。もちろん、私の部下がしでかしたわけではないのですが、なんとも言い訳のしようがなく。このことは内々にお願いできればと。」

 菓子折りを差し出したのは劇場で取り計らってくれた警察署長だった。隣には政治家らしき人物が黙って座っている。

「もちろん、騒ぐつもりはありません。ただ、どういうことだったのでしょうか?」

「いや、娘さんのナオミさんが少し特殊な能力を持っておられると勘違いしたようで。」

「もし、そうだとしても、なんであんな風に…。それを説明して欲しいのですが。」

 ラダナはコーヒーを差し出した。署長はかしこまっているが、隣の人物は相変わらず憮然としている。

「詳しく調査して、ご説明できればと思います。」と署長は約束したが、

「もし、ナオミが超能力か何かを持っていたら、家族ごと軟禁されるんですか? それとも、昨日の感じだとまるでナオミを悪魔扱いにしていた。」と真人は少したてついた。

「いや、なんでそうなったのか、皆目見当がつかないのでして…。」

「例えばですが、今の世の中にチェルトがいたら、あなたたちはどうするんですか? 警察をあげて悪魔祓いでもするんですか?」

「いや、チェルトはおとぎ話の世界の話でしょう。もちろん、我が国のチェルトは可愛いもんですが。はぁ。」署長のひたいにはうっすら汗がにじんでいた。「いや、チェルトでも悪事を働かない限り警察には関係ありませんな。そう、人間の方がよっぽど悪いですからな。」と言って苦笑いをした。すると突然、隣の男がイラつきながら大声をはいた。

「いいか、庶民が口出しするようなことじゃない。こうやって署長直々お詫びに来ているんだ。それでよしとするんだ。十分だろう。」その男は冷徹にそう言い放つとすくっと立って真人を指さした。

「これ以上ことを大きくすると君たちの生活の安全保証はないぞ。そう覚えておくように。」

 肩を震わせながらその男は出て行った。

「なに!」と反射的に立った真人をラダナはしっかりと強く掴んでその場に止まらせた。ラダナの眼差しは、真人の怒りの爆発を寸前で押さえ込んだ。

「署長さんも大変ですね。ご足労感謝します。」とラダナは署長をねぎらった。署長は難しい顔をしながらお辞儀をして、家を後にした。 

 玄関で真人とラダナは車が出発するのを見送った。

「署長さんなんだか間に挟まっちゃっている感じね。それにしても…。」

「ああ署長は多分悪い人じゃないだろう。もう一人のあいつだろ。奴はなんなんだ。自己紹介もなしだ。」気分は晴れない。とサムさん夫妻がやって来た。

「直々に謝り来たんだしょ? ねえ。でもあの最初に出て来た背広の男。憮然として嫌な感じねぇ。」

「役所の上の連中なんかあんなもんだよ。自分の立場を勘違いしていやがる。」

 サムさんの犬が去って行く車の方を見て大きく吠えた。

 


 オレンジ色をして腰がキュとしまってスカートがかぼちゃの様に膨らんでいるコスチューム。オレンジ色の口が裂けたような口紅に、どぎつい黒のアイシャドー。ピエールを迎えに来たナオミはすごい格好をしていた。 

「うわ! 誰かと思った。」

「いつもはもっと普通な感じなんだけど、今日は新しい監督なの。ちょっとねーとは思うけど、子供にはうけるわね。」とおどけて見せた。ホラーっぽいがどこかコミカルで間抜けな感じだ。ピエールは思わずプッと吹き出した。

「ひどーい! ヴェーだ。」とおどければおどけるほど可笑らしい。 

 スタジオに入ると相方のかぼちゃお化けが既に監督の前にいた。 

「監督、初めまして。ナオミです。よろしくお願いします。」とどこかの貴婦人の様にエレガントに挨拶した。監督もまるで舞踏会に招かれた紳士の様にお辞儀した。

「これはこれは、演出のフランチシェックです。」 

「あ、それと、監督、ルカーシュ、これは友人のピエールです。刑事さんなんですけど、今日は見学させてって。」

「刑事! やばい。」とルカーシュは2、3歩逃げてこちらを向いた。「って、俺はなにも悪いことしていないんだ。」

「はっはは、調子いいな、さ、段取りと行こう。」監督はピエールにスタジオ脇のソファーを勧めて2人と照明の当たっているセットに行った。カメラはフロアーに3台、クレーンに吊るされたカメラが1台。2本のブームマイクを持っている人。照明のあたりを調整してる人。フロアにはアシスタントディレクターのテレサもいる。さらに、モニターの周りはちょっとした人だかりになっている。

「よーい、スタート。」の合図で2人の可笑しいコントが始まった。

 真剣にモニターを見ていた監督が、思わずククッと笑い出した。

「ストップ!」と おもむろに席を立って舞台のところに駆けていき、みんなに指示を出している。

「ナオミ、ボケのタイミングをもう少し遅くしてみてくれるかな。そこでの2カメさんのサイズはもう気持ちタイト。3カメはその時クローズアップでルカーシュの表情を狙って。クレーンはその後にワイドで今とは逆にローからハイにアップ。じゃ、そんな感じでテスト。いいかな?」監督はテキパキと楽しそうだ。ピエールもそっと人の合間から覗き込むことにした。

「じゃ、テスト。よーい、スタート。」 

 なるほど、モニターで見るとこうなるのかとピエールは感心しながら、思わずその滑稽さに吹き出した。監督が振り返ってピエールを見ながら眉毛を釣り上げてうなづいている。「ストップ。時間は?」

「ジャストです。」

「オッケー。じゃ本番。面白いよ、その感じで!」

「はい。じゃあ回りました。」サブコンの声がスピーカーから聞こえてくると同時にスタジオの要所要所の赤いランプが点灯した。空気が少し引き締まった感じがする。監督の声が響いた。

「よーい、スタート。」

  隣にいたメイクの人がピエールに向かって人差し指を唇に当てている。スタジオの空気が一つになっている。 

「ストップ。オッケー!」監督は再生チェックするとまたセットに駆けて行った。

「普通はカメラテストの時が一番良かったりするんだけど、このチームは違うね。どんどん良くなっていくよ。クリシュトフから聞いていた通りだな。さてと、その調子で次のシークエンスに行こう。」 

 撮影は順調、いやそれ以上にうまく進んで1つの番組にある8つのシークエンスを予定時間より早く終わった。休憩は20分その間に衣装とメイクのチェンジだから忙しい。次の週の分の撮影は普段の装いで落ち着いた感じで進んだ。みんな緊張の中にもリラックスしているのが伝わってくる。こちらも順調以上に進み、ずいぶん時間をゲインしている。監督が助監督のテレサを呼んだ。

「いつもこんな感じなの?」

「ええ、スケジュールがきつい割にはこの2人だと大抵時間通りに終わります。で、」

「で?」監督は次の言葉を待った。

「で今日は、監督の雰囲気もいいのでさらに調子がいいですね。お世辞じゃないですよ。実は皆んなどんな監督がくるのかちょっと心配だったんですよ。クリシュトフが脅かして言ったからからなおさら…。」 

「おいおい。みんなが楽しくないと俺も楽しくないし、きっと視聴者も楽しくないだろう。特にこういう番組はね。」

 確かにそうだ。この監督は重要なポイントを押さえている。ピエールはそう感じた。

「次はまたコスチュームとメイクがあるので30分後に再開でーす。」フロアのアシスタントがアナウンスした。モニターのそばにいるピエールにナオミが近寄ってきた。

「ピエールさん。大丈夫ですか? もし退屈だったら他のところも見学できますよ。」

 ピエールは首を横に振った。

「いや、こんなに楽しいとは思わなかったよ。いや、こういうと失礼か。すごく興味深いし、素敵な仕事だね。」

「えへ。実はできないこともたくさんあるんだけど、それはうまくごまかして…。なんて。」ナオミはテヘッとウインクした。

「それも大切なことだ。」監督はウインクしてナハハと笑った。 

 あっと気がついてナオミはピエールの持つ紙袋を高々とあげた。

「みなさん、差し入れのコブリハ。お腹の空いている人はどうぞ。プラハで一番美味しいの!あんまりないから早い者勝ちよ!」と大きく手を振ってアナウンスした。

「さぁ、気を許していると時間が経つのが早いわよ。着替えて着替えて。」とナオミはテレサにお尻を突かれた。 

 次の週のテーマは秋と冬の話。それは、落ち葉になるルカーシュと初雪のナオミの話だ。夏時間から冬時間に変わるこの頃は山の方ではすでに晩秋。雪もちらつく。そんな二人の話である。アンバーな大きな楓を連想させるルカーシュにホワホワの柔らかい雪のボンボンに見えるナオミ。その淡い感じはどこかセクシーでもあった。二人の掛け合いと話のテンポはそんな季節の変わり目にぴったりのしっとりとした落ち着いたものだった。

「オッケー。テレサ、だいぶゲインしているかな?」

「ええ。少し長めに休憩入れますか?」

「そうだね。で、ゲストの役者さんはもう入っている?」

「はい、すでにメイクが始まっています。」

「そう。じゃ、この調子で行くか。」監督がモニター前から腰を上げた。

「みなさーん。30分休憩です。その後、午後の分も少しお昼前にやっちゃいますね。よろしく!」テレサは大声でみんなに伝えた。 

 ナオミは控え室に戻った。ハンガーにはチェルトの衣装がかけてあるはずだが…。見当たらない。朝、確かあったはずだったのに。次のプログラムは、目前に迫るミコラーシュの行事の前振りである。聖ミコラーシュにはルカーシュが、天使は今回のゲストである女優が扮する。ナオミはチェルト役である。コンコンとノックが聞こえると扉が開いた。

「ナオミ、早くメイク室にきて。チェルトのメイクしないと。」

「あの、衣装が…。」

 伝えにきたテレサの目が丸い。 

「あ、伝わっていなかったのね。今ね、ちょっと手直し中。だから、まずはメイク。大至急よ。」

 鏡の前のナオミは赤い小さなツノのついた天然パーマのカツラを被らされて、炭を顔から首筋まで塗られ、汚れたチェルトの顔になった。だが、どこか可愛らしさが残っている。と、テレサと衣装の人が息を切らして入ってきた。

「お待たせ〜。」

 それは衣装というよりは手足がすっぽりと入る毛むくじゃらのスウェットスーツだった。手元にワイヤーが入っていてそれ操作すると、尻尾が動くようになっている。ナオミはすぐに羽織って見るとぴったりのサイズだった。

「色が明るすぎるって言われてね。」確かに即席でスプレーしたような匂いがするが、まだらな感じがむしろ自然に見える。手首を動かして尻尾を動かしてみたが、少しコツがいるようだ。 

「可愛くて、ちょっとワイルドね。いい感じ」メイクさんは満足そう。

 ナオミも姿見に映る自分を見て、まんざらでもない気分だった。子供の頃から大好きなチェルト。それをこうやって演じられるなんて。たとえそれが小さなTVプログラムとはいえ。

 しかし、突然、それとは別な感情がどこからか強くこみ上げてきた。 

 自分は本当のチェルトなんだ。いや、半分がチェルトで…。もし、この先こんな風に毛むくじゃらになったり、尻尾が生えてきたらどうしよう。青白くなって行く自分を感じていたが、他の人にはメイクで黒くなってるナオミにしか見えていない。

「そういえば、羽根がないわ。」鏡を見て思わず呟いた。

「え?」テレサとメイクさんが振り返った。

「羽根が。」

「何を言ってるの? チェルトに羽根なんかないわよ。小さい時からちゃんとおとぎ話読んできた? チェルトに羽根はないの。」テレサは目を丸くしながら瞬いた。

「だって。」

「そりゃぁ、カラスになって飛んだりはできるけど。おとぎ話や映画に出てくるチェルトに羽根はないわ。」

「ルチフェールにも?」

「うーんどうかなぁ、ルチフエールにはあったっけ? 多分なかったような、あれ? あったかも…。」誰もがうる覚えだ。 

 ナオミは改めて自分が写っている姿見を見てみた。確かに、こんな毛むくじゃらに悪魔の羽根は組み合わせとしてはあまり素敵ではない。しかし、そうなると、自分はいったい…。おまけに人間でもないどっちつかずの中途半端。急に気持ちが沈んできた。自分は誰?。

「まだ時間ある? ちょっと台本の確認をしたいの。控え室に行くわ。」

「台本なら取ってきてあげるけど。」

「ううん。一人になりたいの。ごめん。」そう言ってナオミはメイクルームを駆け足で出た。

 バタンと扉を閉めるとその扉に寄りかかって大きなため息をついた。そして、トボトボと歩いて小さな丸椅子に所在無げに腰を下ろした。携帯に入っている写真を昔のものから今のものまで色々と見てみたくなった。子供の頃のミコラーシュの時の写真。家族旅行の写真。現在の友人たちとの写真。どれも自分が人間として生活している楽しい時の写真だ。正面の大きな鏡に映っている自分はチェコ人がイメージするトラディショナルなおとぎ話のチェルト。でも、自分はそのどちらでもない。もう一度写真を何枚もスワイプして見ると、携帯の上には涙がポタポタと落ちてきた。止まらない。不安や悪い妄想が勝手に膨らんで止まらない。

「いけない、メイクが…。」もう一度鏡を見ると、せっかくのメイクがドロドロになってしまっている。 

「ナオミ、始まるよ。」扉をノックする音が聞こえる。ナオミは力なくドアを開けた。

 ナオミを見たテレサの目がまたまん丸くなっている。

「ナオミ、どうしたの? 泣いていたの?」

 ナオミは黙ってうなづいた。

「もう少し、時間が欲しい?」

 ナオミは目をつぶって首を横に振った。

「じゃあ、とりあえずすぐにメイクし直して。私は監督のところに行って時間稼ぎしているわ。」 

「うん。ありがとう。」

ナオミはメイク室に向かった。メイクの人は、あららと言いながらすぐに直してくれた。お礼を言って舞台に行くと、テレサが何かみんなに説明をしていた。 

「ということで、みなさんよろしくね。あ、ナオミも来たし、再開!」 テレサがウインクしている。 

「まず、ご紹介します。ミコラーシュの回から、特別に参加していただく女優のシモナ・ニェムツォヴァさんです。」大きな拍手が湧いた。彼女はそこそこ名のある最近やり手の女優だ。 

「よろしくお願いします。」ナオミもルカーシュもお辞儀をした。

「じゃ、段取りから行くよ。」監督の声が響いた。

 ひと通りやってみたが、どうも監督は納得していない様子である。何かが不満なのだ。ルカーシュが聞いた。

「よくないところがあったら、遠慮なく言ってください。」

「うーん、なんだか何にも伝わってこないな。さっきまではよかったんだけど。とりあえず、カメラテスト。じゃ、行くよ。」

 ひと通り終わって見たが、監督はモニターの前でじーっと黙っている。みんなが監督の声を待っていた。

「ナオミ。何か迷っていないか? だいたい、楽しそうじゃないし。」

「あ、あの。」

「役になりきっていないよ。セリフは間違っていないけど、棒読みに聞こえる。」

「…。」ナオミは唇をくわえて黙ったままだ。

「悪くはないんだけど。でも、今日ここまでのナオミじゃないな。」

 ナオミはぺこんと頭を下げた。

「ごめんなさい。もう一度、本番テストでお願いします。」

 監督は、軽くため息をついた。

「OK。じゃ本テスで。いちおう回していこう。じゃぁ、行くよ。」

 スタジオ内のタリーランプがついた。ルカーシュと女優がミコラーシュの準備をしているところに既にチェルトの格好をしているナオミがやってくる。二人を驚かすためだ。が、ナオミの演技には精彩がない。何かが欠けている。ピエールもそれを感じていた。チェルト、ナオミ、悪魔。何か関係があるのだろうか。

「カット。」監督が声をあげた。 

「ナオミ、どうしたんだよ?」ルカーシュも納得していない。 

「はい、もう一度。きっと本番に強い子なのね。」女優は少しいやみったらしくナオミを見た。

「ごめんなさい。もう一度お願いします。」ナオミは下を向きながら舞台裏に戻って行った。

 監督はモニターの前に座ったままで手をあげた。

タリーランプが点灯した。セットの裏ではテレサがナオミに寄り添っていた。

「どうした? いつものナオミじゃないぞ。頑張って!」ナオミを見ると、涙がこぼれ落ちている。キューが来て出て行ったナオミだったが、出た途端にカットがかかった。

 女優の呆れたため息が聞こえる。

「素人と仕事してんじゃないのよ。もう。」

 すぐに監督の声が聞こえた。

「とりあえず、お昼休みにしよう。再開は1時間後。」

 監督はしょぼんとしたナオミの前に立っていた。その脇でテレサに向かって女優が焦った様子で話している。

「時間どおりに終わるんでしょうね? いくら子供向け番組だからって遊んでいるわけじゃないのよ。私はこの後もスケジュールが詰まっているんだから! お願いね。」ナオミのことを睨んで控え室の方に消えた。そんな女優を見送ったテレサが監督のところに走ってきた。

「少しですが、簡単につまむようなものを用意してありますけど。」

「ありがとう。でも、きちんと昼休みを取ろう。」

監督の言葉には迷いがないように見えた。テレサは、口をキュッと結びながらうなづき、くるっと方向転換してスタジオから出て言った。

「お昼ご飯、一緒に行こう。」監督は優しくナオミを誘った。「ルカーシュ、あ、ピエールさんもよかったらどうぞ。」

その声に誘われて、4人はカフェテリアに向かった。混んでいる時間帯はすぎたのかトレイを持って順番を待っている人の列はそれほど長くなかった。

「監督、ナオミ、先に席についてください。僕とピエールさんが運びますから。えーとナオミ何がいい?」ピエールはそう言うルカーシュを見てうなづいた。

 ランチAはグーラシュにクネードリキ(グーラッシュと蒸しパンのスライス)。ランチBはスビチコバにブランボロバークネードリキ(牛肉の煮込みスライスにジャガイモベースの蒸しパンのスライス)。それぞれに小さなグリーンサラダがついている。

 監督はナオミと明るく大きな窓際の席についた。遠くに少し霞んでプラハ城が見えている。「ほら!」ルカーシュがぷっと吹き出しながらピエールに窓際を見るように促した。向かい合って座っているのは監督とチェルトのシルエットだった。それは滑稽な風景だった。

「大丈夫かな、ナオミちゃん。」とピエールはナオミが気になって彼女と同じ様に気が沈んでいた。

「何か迷いがあるみたいだけど、そんな時はとことん迷ったほうがいいと思うんです。」ルカーシュは時間のことを考えているのだろうか。ピエールの方が心配している。

「そんなこと言ったって仕事だろ? 時間の制約もあるだろうし。」

 だが、チェルトを見ているルカーシュの眼差しは暖かかった。  

「今までいっしょに仕事をしてきて、こんなことは一度もなかったんです。いつもナオミはほぼパーフェクト。でも、そうじゃないところが見えて、むしろ僕はホッとしています。だから逆説的だけど、多分彼女は大丈夫だと思うんです。もともと強いし明るいし。前向きに考えることができるはず。」ルカーシュはナオミを信用しているようだ。

「そうだといいけど。」ピエールは2人分のトレーをとった。

 監督は優しくナオミに話しかけた。

「ナオミ。体調が悪いのか?」

 ナオミは首を横に振った。

「ごめんなさい。みんなに迷惑をかけて。」

「じゃぁ、好きな男の子にフラれたメッセージがきたとか?」

 ナオミはべそをかきながらも笑って首を横に振った。

「若い時は感受性が強いからな。でもそれは悪いことじゃない。むしろ素敵なことだ。恨まやしいくらいだよ。まぁ、よく言うけど自分のアイデンティティーが確立するまでは多かれ少なかれみんな不安定なんだ。でも、そんな時期がとても大切だと思う。焦ることはないよ。」

 ナオミはこくんと小さくうなづいた。 

「お待たせ!」とランチのトレーが運ばれて来た。湯気がたっていい匂いがする。

「まさか、ただ単にお腹が空いていたんじゃないだろうな?」ルカーシュが茶化した。ナオミは美味しそうな匂いを嗅ぐと喋りだした。

「私、チェルトのことが大好きなんです。だから、今日それが演じられるってすごく嬉しかったんです。いつも以上に楽しくできるなって思っていたんです。でも、衣装を着て鏡の前に立った途端になんだか急に自分のことがわからなくなって。」

 ピエールは先日の悪魔扱いされたことが少なからず影響しているのだなと感じた。  

「ナオミ。私の印象では、今日の最初の君がナオミ、君自身だと思う。すごくいい感じで素敵だったよ。でも、今の君は、頭の中でチェルトを演じようとしているからギクシャクしているんだ。」フランチシェックはスプーンでナオミを指した。

「?」

「つまり、作られたチェルト。いや、もちろん演技と言う意味では作られているんだけど、僕らが見たいのは君なんだよ。作り物のチェルトじゃなくてナオミの中のチェルト。それが自然に出てくれば、そう、楽しめればそれでいい。そうだろ? 今日の朝はそうだっただろ? こうじゃなきゃいけないってものは、基本的なこと以外は何もない。」

「…」

「以前、キャリアの長いある有名な役者さんに聞いたことがあるんだ。なんでそんなにいろんな役をすることができるんですかって。そうしたら、演技しないからだよって答えが返ってきた。演技しないって、役者でしょう?って聞き返したら、そう、それが役者なんだって。」

「わかるような、わからないような。」ピエールは狐に包まれたような顔をしている。

「そうだよ。ナオミはナオミだよ。お姫様の時も、スポーツマンの時も、歌のお姉さんの時も、もちろん、今のチェルトの時だって、ナオミはナオミ。」ルカーシュは感じるところがあるようだ。

「不思議だけど、そんな時にその役は自然になるし感じることができるんだ。もちろん、君はセリフを始めそれを十分消化していなければならないだろうけど、それはできているじゃないか。あとは自分で感じるままでいい。無理やり作る必要はない。」

「私は、わたし? 私は…、ナオミ。」

「加えて、その役者さんはこうも言っていた。たまに自分でもわからない時がある。でも、そんな時は、流れに任せるって。そうすると、自然にわかってくることもたくさんあるらしい。」

「自分を自然の流れに任せるか。うちらの仕事とはまるで逆だな。」ピエールは羨ましい感じがした。

「刑事さんはいつも疑ってかかるからね。何事にも。くわばらくわばら。」ルカーシュはピエールを覗き込んだ。

「とはいえ、うちらも捜査の時には自然の流れを観察したり、その時の状況に任せる時がある。」

「それと同じとは言えるかどうか。」ルカーシュとピエールはにらみ合ってククっと笑った。 

「もちろん、僕たちには見えない、いや、見せない部分もあるだろう。それはそれだ。全部をひけらかす必要はないし、思いっきり背伸びする必要もないし、そう、卑下する必要もない。第一、ここにいる事自体がすでに君の一つの挑戦だろ?」監督は優しくナオミを見た。

 ルカーシュとピエールはうなづいた。そして、いつの間にかもう一人うなづいている大きな影がそこにあった。テーブルの前に仁王立ちして腕を組んでいる白衣を着た恰幅のいいおばちゃんだ。

「あんたたち。能書きばっかりたれてないでさっさと食べな。あそこの配膳のところからのぞいていたら、今日はチェルトが来て美味しそうに食べるのかと思っていたのに、なんだか知らないうんちく話ばかりじゃないか。」背景に炎が出るくらい怒っている。

「わ、わかりました。さ、みんな食べよう。」と監督はナイフとフォークを持ったが、ソースの表面には薄い膜が張っている。そう、既に料理は冷めていた。

「ほら、わたしの心を込めて作った一品が冷めているってどう言う事だい?」顎を突き出しているおばちゃんの形相は下から見上げると相当怖い。鼻息も相当荒い。おばちゃんが太い腕をこまねくと湯気を立てた新しいお皿がやって来た。 

「特別に温かいものをもう一度用意してやるから。そう、子供達のために力つけないとね。いいかい、黙ってすぐに食べる!」 

 ナオミはハイっとかしこまって、熱々いいながらグラッシュを口にした。温かいパプリカと牛肉のソースの深い味がしみる。

「すごく美味しい! おばちゃんのグラッシュ、うちのおかあのとおんなじ。」口の中はホクホクだ。

「当たり前だよ。ここではわたしがあんたたちのマンマだよ。それにね、今日はあたしの一番の得意料理なんだからね。」 

 ナオミはもう1さじ口にしておばちゃんの腰に抱きついて尻尾を振った。涙は止まっていた。「がははは。チェルトも認めるくらいうまいんだよ!。で、スビチコバはどうだい?」

 監督はおばちゃんを怪訝そうに見上げながら「微妙」と首を横に振った。おばちゃんは、ンなはずないだろと監督の皿のソースを指先で絡めて舐めると、ありゃまと声をあげた。

「あの新入り肝心なところを間違えやがった。こりゃ失礼。」と行ったかと思うと「こらー!」と厨房にかけて行った。 

 グラッシュは自分の悩みが溶けて行くように本当に美味しかった。 

「おばちゃん、なんだか今日は気合が入っているな。いつもより数倍うまい。」ルカーシュも相槌を打った。 

「それって、いつもは手を抜いているってことか?」ピエールは笑いながらグラッシュをほうばった。

「確かにいい味しているね。」監督も結局同じものを口にした。いつのまにか重い雰囲気は消えていた。涙で落ちたメイクでひどい顔のチェルトもすっかり今朝の笑顔に戻っていた。と、テレサが4人のテーブルに小走りでやってきた。 

「あと20分で開始です。それにしても、あの女優…。」少し苛立っている。

「テレサ、ありがとう。君のおかげでうまくいっている。」監督はテレサを労ってウインクした。「お昼は食べたのか? 少し遅れてもいいからきちんと食べないと。」

「いえ、さっきナオミが持ってきた美味しいコブリハ2個食べちゃったんで大丈夫です。」 

「ダイエット中なんですよ。」ルカーシュが口元に手を当てて小声で言った。

「しっ!」テレサはきっと睨み返した。

「なるほどね。」と監督はパチンと手を打って立ち上がった。「さぁ、続きを頑張ろう!」

 ナオミがみんなの皿をまとめると、ルカーシュがさっさとトレイ棚に片付けた。そして、ナオミは配膳している窓のところまで行って、おばちゃんにチェルトの尻尾を振った。

「すごく美味しかったよ! ありがとう。」 

 おばちゃんは盛り付けをしながら力強い投げキッスを返してくれた。 

 

 ナオミはメイクルームに飛び込んだ。直してもらっている間に鏡に映っている自分をじーっと見ていた。そして、牙のマウスピースをつける段になってメイクさんに耳打ちした。

「あのう…。」

 鏡にはメイクさんの悪戯っぽい笑顔が写っていた。 

時間どおりに午後の撮影が再開した。女優がマネージャーと一緒に監督のところにやって来た。口を開いたのはマネージャーだ。

「あの娘大丈夫なんでしょうね? うちの女優、忙しい時間を割いてこの仕事に来てるんですよ。そう、メインキャラクターでもないのに。わざわざ子供たちのためにってね。夜は大事な生のインタビュー番組があるんです。スタジオへの移動もあるし、間に合う様によろしくお願いしますよ。」それとなくプレッシャーをかけている。 

「監督さんは大丈夫よ。ねえ。」女優は監督の肩に手をかけて口を尖らせてキスをする真似をしたが、すぐさまテレサが割り込んで来た。

「はいはい。すぐにカメラテストしますよ! 位置について!」

 照明で照らされたセットの上は一瞬の沈黙と緊張感が漂った。

「よーい。」監督の声が響く。「スタート!」

 セットは倉庫のある一室。いろんな衣装や道具が置いてある。ルカーシュと女優は雑談をしながらミコラーシュの準備をしている。聖ミコラーシュの帽子と長い杖、そしてマント。天使のコスチュームに金髪のカツラ。そして、美しい羽根。二人とも楽しそうである。そこに、ドブネズミ色のフードのついた長いコートを羽織ったナオミが背中から扉をあけてやってきた。

「お待たせ、お待たせー。外は寒いよぅ。」

「遅いよナオミ。早く準備しないと。そっちにチェルトの衣装はあるよ。」ルカーシュは優しく急き立てる。

「早くしてちょうだいよ。ね。3人いないといけないんだから。ミクラーシュ、美しい天使、そして醜いチェルト。頼むわよ!」半分現状の気持ちが入っている。ナオミは後ろ向きでうなづきながらコートを脱ごうとしたところでカットがかかった。

「オーケー。じゃ本番。」監督は悠々としている。

「監督、いいんですか? 最後までカメラテストしなくて?」テレサがセットから掛けて来た。

「今度は監督まで! できないのをうやむやにしてるんじゃないの? いい加減ねこのチームは。本当にもう。」女優は不満そうだ。 

「いや、この調子だ。行くぞ本番!」監督は大声で叫んだ。テレサは監督を睨みつけるとセットに走っていった。 

「じゃ、回ります。」サブコンからの声がスピーカーを通してスタジオにこだますると同時に赤いタリーランプが点灯した。一瞬の沈黙。監督の声が響く。 

「よーい、 …スタート。」スタートの声はジェントルだった。

 作業している2人。

「お友達、本当に来るの? 間に合わないわよ。」エンジェルは白く輝く羽根を背負って鏡を見ながら真っ赤なルージュを引いている。

「いやぁ、いつもマイペースだから。でも、そろそろ来るんじゃないかと。」ルカーシュは聖人の帽子と白いあごひげを合わせている。

「こんなんでどうでしょうか?」

「うふふ、なんだかとっちゃん坊やの聖人ね。」天使は屈託なく微笑みを浮かべた。

「そういう言い方はないでしょう。これでも一応…。」と言ったところでカチャっと扉の開く音がした。カメラリハーサルと同じようにフード付きのコートをかぶったナオミが後ろ姿で入って来た。何か抱えているようだ。

「お待たせ、お待たせー。外はとっても寒いよ〜。」

「ナオミ、早くしないと間に合わないよ。そこにチェルトの衣装をまとめておいたから。」

「そのままの汚い格好でもいいんじゃない? それに麻袋持ってれば十分よ。」

 ほっかむりをしたコートのナオミがくるっと振り返ると、確かに麻袋を抱えていた。フードの中の顔はよく見えないが、確かに口元はナオミだ。 

「これのことかな?」低い声のナオミは持ってい手を離すと麻袋は宙に浮いている。

「あれ?」

「どうして?」 

 とナオミは思いっきり両手で麻袋を叩いた。すると、まるでものが爆発したように灰色の煙が吹き出した。一瞬暗くなり、稲妻のような閃光が走った。

「うわぁ!」

「キャァ!」と悲鳴をあげる二人の前に煙の中からニョキっと出て来たのはナオミのチェルトの顔だった。黄色い縦割りの目、鋭い牙、モジャモジャの髪にツノ。そして、開いた口からは真っ赤な舌が出て来て、天使を今にも食べそうな勢いだ。

「今年一年、お前はいい子だったのか〜?」

「キャー‼」天使は大きく口を開けながら目を白黒させて腰を抜かしたようにソファに倒れ込んだ。涙がこぼれている。ナオミを指差して言葉が出ない様子だ。ルカーシュは杖を持って聖ミクラーシュよろしくドンと床を叩くと、煙はどこかになくなって、くるっと回ったチェルトはいかにも扮装しましたというナオミに戻っていた。

「何してんの? 私はもう準備できているのよ。早く行きましょう?」ニコッと可愛らしく笑うとさっさとドアから出て行った。

「カット! OK!」

「ああ、びっくりした。すごいチェルトだったよ。」ルカーシュが戻ってきたナオミの肩を叩いて喜んだ。女優はソファに座ったまま胸を押さえて大きく息をしている。マネージャーが走り寄って少し何か話したかと思うと、監督のところにやって来た。

「少し休憩をください。こんなにびっくりさせるなんて。ちょっとやりすぎですよ。とにかく、ちょっと休憩です。それに、あんな醜態見せられないんで、もう一度だと思います! 全く。」と吐き捨てるように言って女優を立たせるとゆっくりと控え室に行った。 

 テレサがアチャーっとひたいに手を当てて肩を落としている。監督は御構い無しに「再生チェック。」とサブコンに合図した。みんながモニターの前に集まって来た。

 カメラはそれぞれの表情をしっかりとらえていた。ナオミの恐ろしいチェルト。ルカーシュのびっくりした顔。女優の驚きと泣き出しの顔と腰が抜けた所…。  

「ガハハ、こりゃ面白い。しかし、あんなに驚くとはなぁ。ナオミ、少しやりすぎたかな? アハハ。オッケー。」

 ピエールもナオミの変わりようにびっくりした。チェルトの怖さが半端じゃなっかったのには思わず息を飲んだ。が、テレサは浮かない顔をしている。 

「でも、女優さんが嫌っていうかも。」とナオミを見た。

「テレサ、彼女の控え室に行こう。謝ってくる。」ナオミはテレサの気持ちを察していた。

「謝る必要はないと思うが。」と監督はおどけて見せたが、ナオミはテレサの手を取って控え室に向かった。

 ノックして最初に控え室に入ったのはナオミだった。メイクを直してもらっている女優の脇にはマネージャーが立っていた。鏡ごしに女優と目があった。

「あの、先ほどは失礼いたしました。」ガランとした控え室に控えめの声が響いた。

「君ねえ、彼女を誰だと思っているんだ。え? 謝ればいいってもんじゃないだろ? 全く演技ができないかと思えば、こんなにびっくりさせるなんて、程度ってものを知らないのか。素人にもほどがありすぎる。」とナオミに詰め寄った。

「ナオミちゃん、こちらへどうぞ。」女優は優しく彼女をソファに招きナオミの方を向いた。

「ごめんなさい。」とナオミはもう一度謝った。

「私ね、あんなにびっくりしたのすごく久しぶり。とっても怖かったの。本当よ。あの一瞬で子供の頃に帰ったような感じだった。まるでタイムスリップしたようにね。だから涙がこぼれ出て来たし、思わずこけちゃったの。」 

「え?」

「さっきね、再生されたのをこっちで見てたけど、あんな顔したのも久しぶり。自分の顔見てプッて吹き出しそうになっちゃった。」女優はフフッと微笑んだ。

「あ、しかし、撮り直しで…。」マネージャーは慌てている。シモナはいいのよっと手を上下させてマネージャーを落ち着かせた。

「ナオミ。朝はあんなこと言ってごめんなさい。実は、私ちょっと時間のことで焦っていたの。でも、今のすごくよかったわ。そう、なんだか楽しくなって来ちゃった。そう、みんなよかったじゃないの。こんな感じだったら、みんなでもっと面白くできそうね。」

 テレサがぽかーんとして目をパチクリさせた。

「あ、あの、それじゃ…。」

「ええ、直しが終わったらすぐに次のシークエンスをお願いね。」

「わかりました。みんなに伝えます。」テレサは軽やかに控え室を出て行った。女優はナオミにすっと手を差し出した。

「これからは、お友達よ。」天使とチェルトのナオミが握手した。

 それからの撮影は順調に進み、結局予定より早く終わった。女優は手を振りながら笑顔でマネージャーとスタジオから去っていった。


「お疲れ様。今日は本当にありがとう。いちばんドキドキしたのは君だろう。次も僕がやりたいけど、今度はクリシュトフの番だからね。またよろしく頼むよ。」監督がテレサをねぎらった。

「はい。今日は何回も心臓が飛び出すかと思いました。でも、その分面白かったかも。監督の采配しっかりと拝見させていただきました。」ぺこりと頭を下げた。

「私も、初めての見学というか経験でいい意味で心拍数が上がりました。」ピエールもいつの間にか友人のようになっていた。ナオミとルカーシュが駆け足でやってきた。

「お疲れ様〜。」ルカーシュの明るい声がチェコTVのエントランスに響いた。監督は笑顔を2人に返した。

「監督。今日はご迷惑おかけしました。」ナオミの言葉も爽やかだった。

「迷うことは悪いことじゃないよ。いや、君たちの年頃なら、当たり前のことだ。で、そんな中でみんなと一緒に仕事する。それぞれの役割は仕事上あるし、各々みんな違う。でも僕らは仲間だから、お互い持ちつ持たれつみたいなところがあるだろ? だから大丈夫。みんなで前進できる。」そんな監督の言葉にルカーシュはドンとナオミの背中を叩いた。

「えへ。」ナオミの頰がほんのり赤くなった ピエールはそんなナオミがとても愛おしく感じた。 

「やば、地下鉄の時間が。」ルカーシュは皆なに「アホイ!」と手を上げて駆け出した。 

「次の収録の前にいつものようにメッセージを送るからね。」テレサはナオミの頰に軽くキスをした。ピエールとナオミは監督と握手してバス停の方に歩き出した。

「あの2人、恋人同士かしら?」テレサは監督を見た。

「今の所、そうは思えないな。まぁ、ピエールとやらはなんだか彼女に気がありそうだけどね。」

 監督はテレサに軽く微笑んだ。

「お待たせしたな。」そんな二人の後ろから落ち着いた声がした。

「ちょっと収録部分の一部をコピーしてもらった。」その男はきちんとしたスーツの身なりだった。

「ああ、紹介するよ。政府関係の仕事をしているミスターノイマン。昔からの友人だ。」

 テレサは差し出された手にテレサですと握手を交わしたが、少し強面だった。 

「あの、収録のコピーって、まだ放送前なので公にはしないで欲しいんですけど。用途はなんですか?」

「いや、今政府の広報でもミコラーシュの行事を世界的に広めようと案じていてね。その資料としてなんだ。大丈夫。そこらへんはわきまえているつもりだ。」

「そうですか。それなら…。」

「いや、彼がサブコンに入ることはプロデューサーにも話していたから問題ないよ。」監督はテレサに向かってうなづいた。

「テレサ、じゃあ、次回もよろしく。」監督とノイマンは歩き出してすぐ目の前の駐車場からノイマン所有の車で去っていった。テレサは手を振りながらそれを見送っていたが、素敵な撮影の終わりとしては何かが心に引っかかった。


「あの女優、随分強気で鼻高々かと思っていたら、こけた後はみんなと楽しくやっていたな。」

「ああ、俺も最初は様子見でどうしようかと思っていたよ。」フランチシェックはヤレヤレという表情を見せた。

「ナオミちゃんもチェルトの時は要領を得ていなかったみたいだし。ディレクターとして彼女のことをどう思う?」

「え? シモナのこと? それともナオミ?」

「ナオミちゃんのことだよ。」

「あぁ、彼女。まだ色々と迷っているようだけど、前向きの姿勢はいいと思うし、喋りは歯切れがあってとてもいい。女優としてはこれからだけど、その素質は十分あると思うよ。第一、仕事をしていて楽しいし。みんなのことをとても思っている。シモナはどちらかというとその対極に位置する女優だな。それはそれでカリスマ的な魅力というか周りを従える力はあるけど、今日のナオミは結局、そんなシモナも取り込んじゃったからね。」

「その力はどこから来ると思う?」

「?」

「あの子がハーフだから?」

「どうかな? 見た目はあるだろうけど、それは関係ないだろう。」

「じゃあ、人間じゃないとしたら?」

「バカなこと言うなよ。全く普通の娘だよ。年頃のね。」

 ノイマンは薄笑いを浮かべている。

「いや、いくらお前が…。」

「じゃあ、この映像をどう思う?」ノイマンは、タブレットをフランチシェックに見せた。そこにはスローモーションでナオミが煙から飛び出して来る様子が写っている。

「ほら、この背景に写っているのは悪魔の羽根だ。」

 フランチシェックはおどけながらノイマンの目を覗き込んだ。

「何いってんだよ、これは煙がそう見えるだけだ。だいたいそんな衣装の用意はしていない。」

「そうだろ。だから、よく見てみな。」

「確かに、そう見えなくもないが…。」フランチシェックはナオミのチェルトが出て来るところまで再生を戻してもう一度見たが、首を縦には降らなかった。「やっぱり、これはそういう風に見えるだけの錯覚だ。」

「それに、彼女の羽織っていたジャケットを見たか?」

「ジャケット? あぁ、ちょっと新しいデザインの?」

「背中にコブがついていただろう? あそこに羽根が隠れている…。」

 フランチシェックはノイマンの話がなんだか馬鹿らしくなって外を見た。いつの間にか窓と路面が濡れている。そして、ノイマンの方に振り返った。

「お前の仕事もわからない訳ではないが、だいたい何を詮索しているんだ? あり得ないことをでっち上げない方がいいと思うけどな。」

「俺には感じるんだよ。」ノイマンは前方を見つめていた。

「じゃあ、もしそうだとしたらどうするんだ? 彼女を捕まえて見世物小屋にでも売り飛ばすのか? いつの時代だと思っているんだ? だいたい、彼女は何も悪いことをしていない。」

「わかっていないな。俺の仕事は超常現象や常識ではあり得ないことを発見してそれを研究することなんだ。そういうものはわりと身近に実在する。用心していないと気がつかないけどね。」

 ノイマンが片方の眉毛をあげて得意そうな顔をしたのを見てフランチシェックは反射的にタブレッットを後ろの座席に放り投げた。

「多分、わかっていないのはお前の方だよ。確かに、恐れるものもあるだろう。でも、歓迎するものや、僕たちの生活や歴史と共に育ってきたものだってあるだろう。もしそうだったら、それらは受け入れて守るべきじゃないか。俺はそう思う。」

 ノイマンは大きくため息をついた。 

「芸術をかじっている奴らの言うことは、わけがわからん。」

「俺は芸術家ではないが、芸術は生活を豊かにするものの一つには違いない。そうだろ?」

 フランチシェックをちらっと見たノイマンは鼻先でフンと笑った。

「お前らの言うことは科学的じゃないんだよ。」  

「曖昧で割り切れないってか? それも大切だぞ。」いや、彼は、それこそが大切なことだと言いたかった。「そこで止めてくれ。」 

「怒ったか?」

「そう言うわけじゃないが、今日のこのテーマは平行線だ。いや、真逆だといってもいい。」

 ノイマンは車を地下鉄の駅前に止めた。フランチシェックがドアを開けて右足を下ろすと、そこはちょうど水たまりだった。

「くそ!」

「俺はこれから研究室に行って分析する。いずれ本当のことがわかるさ。」ノイマンは薄笑いを浮かべていた。

「送ってくれたのは感謝する。まぁ、せいぜい無駄な時間を費やすんだな。」フランチシェックはバタンとドアを閉めて歩き出した。ノイマンの車が数多くのテールランプの中に消えていくのを見てテレサにメッセージを送った。

『あのノイマンという男。二度と我々のTV局に入れるな。Pには俺から連絡しておく。』

 そう打って送信すると、プロデューサーの電話番号をタップした。



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