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チェコっとチェルト 青春編  作者: 足立 真仁
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青春編 前編

    前編


  と ある晩秋の日曜日の朝

 小さなフライパンで優しく熱せられたオリーブオイルの匂いがキッチンからこぼれている。真人は、産毛のついた薄茶色の卵をコンコンと割ってそこに放り投げると、乾燥気味のパンにバターを塗リ始めた。階段を降りてきたカミさんのラダナの目は眠そうだ。

「朝からこの匂い?」高い鼻をヒクヒクさせている。目玉焼きから黒い煙が上がっている。トコトコとテーブルに座ったラダナは、相変わらずねぇ、といった面持ちで目の前のカップを見て言った。

「コーヒー、ありがとう。」

 そんな彼女の朝食は、小さなロールケーキ。甘いけれどカロリーは少なめのダイエット志向。今年で40代も半ば過ぎだが、見た目は20代後半といったところ。美容とファッション関しては努力している。金髪で青い目。美しい。

「ねえ、早く。いっしょに食べましょうよ。」

 眠そうな柔らかい笑顔はなんとも愛くるしい。真人が冷蔵庫を開けてマヨネーズを取り出してパンの上のハムとチーズにかけた。

「重そうね。」

「しっかり朝を食べれば、昼を抜いたって構わない。特に仕事中はね。」 

「わかるけど、私には無理。まだ胃が眠ってるの。」軽く肩をすくめている。「ねえ、ビタミン取ってくれる?」

 真人は立ち上がってキッチンの棚に置いてある小さな瓶を取ろうとすると、洗った後の重ねてあった食器が軽く崩れて甲高い音を立てた。

「シッ! ナオミが起きちゃうわ。食器の音って上まで響くんだから!」ラダナは怖い顔をしている。

「昨日何時に帰ってきたんだ?」

「どうせ午前様でしょう。久々の友達と飲みに行くって言ってたから。」

 真人とラダナの間には二人の子供がいる。長男のアンディー24歳と長女のナオミ19歳。兄は同じ街で服飾デザイナーとして働いていて、妹のナオミはプラハのカレル大学で演劇を専攻している傍、アルバイトでチェコテレビの子供番組のモデレーターをしている。

 トントン、トンと屋根裏部屋からの急な階段を降りる音がして、パタンとバスルームの扉が閉まる音がした。ラダナは上目遣いで真人を見ている。ほらね、言わんこっちゃないって。

「若い時には十分な睡眠が必要なの。あなたみたいに無駄に早起きするオジイじゃないんだから。綺麗な肌を維持するには、たっぷりな睡眠が必要なの。」と拗ねた表情を見せた。と、テーブルに置いてあった携帯がブーンと振動した。息子のアンディーからだ。

「うんわかった。遅れないでね。お昼ご飯は12時半には始めたいわ。」

 きょうはお昼にチキンカツカレーライスを作ることを約束していた。 

「朝食が終わったら、さっそくカツを準備しないと。」真人は、昨日ラダナと買いに行った鳥の胸肉を冷蔵庫から出した。

「まだ早いでしょう? 私はまだコーヒーも飲み終わっていないのよ。もう少し付き合ってよ。朝の素敵な時間なのに。」口をとんがらせている。確かに、こういう何気ない時間、そう、二人の瞬間を大切にすることを忘れてはいけないのかもしれない。真人はうなづいてラダナの横に寄り添って座った。カップを見ると、底が見える。

「もう1杯作るよ。」とラダナにキスをして再び立ったら、

「おかあ、ちょっと来て!」と2階の洗面所から叫ぶ声が聞こえてきた。ラダナはあなたが起こしたのよっという瞳で、半分口にしたロールケーキを白い皿に置いて階段を上がって行った。が、すぐにバタンと扉を閉める音がして、トントントンとラダナは降りてきた。

「もう、勝手に私のクリーム使っているし、眉毛のペンもいつの間にか短くなってるのよ。それでいて自分のマニキュアどこにあるのとか、ストッキングはどこだって…。」

 口がふさがらない感じのラダナだったが、いつも起こる女同士の小さなバトルは真人には理解不能だった。まぁまぁとなだめてキスをして、新しいコーヒーで乾杯して素敵な時間の続きを始めた。

 しかし、10分もしないうちに今度は、キャーッと悲鳴が轟いている。真人はラダナに振り返ったが、ラダナは首を横に振っている。

「どうせ、クモかなんか出たんでしょう。バスルームに危険なものなんて何もないわ。」 

 確かにそうだと思っていると、また悲鳴が聞こえてきた。

 真人は、階段下まで行って声をかけた。

「ナオミ、大丈夫か?」 

 しばらく耳をすました。が、シンとしている。ラダナはコーヒーカップを口に当てながら平然としている。と、今度はすすり泣くような声が漏れてきた。真人はそろりと階段を上がって、バスルームの扉に手をかけてみた。が、中から施錠されていて開かない。

「ナオミ、どうした、大丈夫か?」落ち着いてゆっくりと声をかけた。しかし、返事はない。ガタガタっと取っ手を持って扉を揺るがすと、中から悲しくかすれた声がした。

「大丈夫。大丈夫だよ。でも、今はひとりにして。おとう、大丈夫。」 

「ほんとうか。何かあったら、呼びなさい。」

「うん。ちょっとびっくりしただけ。今はひとりにして。」

頼りない感じだが落ち着いている。真人がキッチンに戻ると、ラダナが瞬きしながら言った。

「若い時にはいろいろあるのよ。もしかしたら、新しい彼でもできたのかしら?」

「ボーイフレンドか?」

「彼に言われて気にしてたことが的中しちゃってたとか…。」

 ナオミは、背が高くてスタイルも悪くない。東洋的な顔立ちで美しく大人っぽい。しかし、ちょっとしたことに傷つきやすい年頃といえば確かにそうだ。 先日、ちょっと太ったねとラダナから言われたら、すごく機嫌が悪くなって一日中何も話さずにいた。身内のアドバイスだから余計にということもあるかもしれないが。

 それから、しばらくナオミは階下には降りてこなかった。バスルームからは何も聞こえてこなかった。


 真人が分厚いチキンの胸肉を3枚ほどに卸してころもをつけていると、玄関のベルが鳴った。ラダナが迎えに出ると程なくしてアンディーがドカドカとキッチンに入ってきた。何か言いたそうだ。

「お、随分早いな。まだお昼ご飯の仕込みを始めたばっかりだぞ。」もうお腹が空いたのかと言い終わる前に息子の口が開いた。

「ひどいんだよ。この前売りに出されたワンピースのデザイン料が未だに振り込まれていないんだ。おかげで…、」

「おかげで?」ラダナは息子を流し目で見た。

「家賃が払えない。」上目遣いで真人のことを見ている。ラダナがすかさず聞いた。

「所持金は?」

「飯を食うのと、多少の飲み代はある。」アンディーは、うんうんと納得したように答えているが、ラダナはあきれ顔だ。

「飲み代があるんだったら…、」

 彼は、決してズボラな性格をしているわけではない。それは、家族みんなが知っていた。ただ、お金の使い方のバランスをあまり考えないタイプなのだ。 

「そういう時のために、少しは蓄えておけといっているだろう。」と何回言ったことか。真人も呆れている。

「いや、大家とは友達みたいな関係だから大丈夫なんだけど、さすがに3ヶ月となると。」

 ラダナの空いた口がふさがらないのを真人は怖そうに見ていた。

「アンディー!」 

「いや、だからこうして頼みに来ているわけで…。明日には、当の会社に直談判に行くつもりだよ。いい加減払えって。」と言いながら、真人の隣でジャガイモの皮を剥き始めている。

「今日のカレーは、辛口?」場の空気を柔らかくする心得はある。

「もう十分辛口よ。」

「ええっと、人参もだよね。俺も今度彼女にカレーライスを作ってあげようかなと思っているんだ。」

 ラダナは、すすっていたコーヒーをプッと吹き出した。

「いつ彼女ができたの?」

 えへっ、とアンディーはラダナにウインクした。

「近い将来。」

「おちゃらけないの‼」

 爆発寸前のラダナとの間にすかさず真人が割って入った。

「ほらほら、アンディー、わかってるだろ?」彼を覗き込んだ。

 アンディーは、軽く目をつぶりながらウンウンとうなづいている。

 と、突然キッチンのドアから大声が聞こえてきた。

「ぜんぜん、わからないよ‼」

 3人が振り返って見ると、スラッと仁王立ちしているナオミがそこにいた。白い薄いタンクトップのワンピースが軽くなびいている。

「どういうこと? 教えてよ! 本当のこと、教えてよ!」

 涙声に涙目だ。マスカラが滲んでお化けみたいになっている。真人もアンディーも何が起きているのかすぐには理解できなかった。ラダナは、じーっとナオミを凝視している。まるでクリスタルのフィギュアのようにドアのところに突っ立っていたナオミだが、ふらふらと前進してガクッとテーブルの角に頭をつけて膝間づいたかと思うと、かすかに聞こえる声で泣き始めた。

「なんなの? なんなのこれ?」 

 その背中には、

「こ、これは…。」真人とアンディーは目を見合わせた。 

 ラダナは妙に冷静だ。そして、軽くため息をついて言った。

「そうだと思った。でもねー、まさか、こんなんだとは思わなかったわ。」そして、じっくりとそれを眺めた。「でも、いい色と形しているじゃない。」

 ナオミは床を見ながら枯れた声を上げた。

「おかあ、知ってるの? なんなのこれ? いったいなんなの?」

 フーッと今度は父親の深呼吸が聞こえた。 

「まさか、今日だとは思わなかったよ。ほら、アンディー、よく見て。」

「俺は、今の今まで、親父の言うことを信じていなかったけど…。」とアンディーが呟いた。 

 真人は、ラダナに真剣な眼差しを向けるとラダナはそろりと真人の横に並んだ。そして、彼はできるだけ優しく声を出した。

「ナオミ、アンディー、二人とも目をつぶって。それからゆっくりとまぶたをあけて私たちを見て欲しい。」

 アンディーは、ナオミの手を取って彼女の耳元でささやいた。 

「ナオミ、いいかい、ゆっくりと立って、それから、ゆっくりと目をつぶって、1、2、3でゆっくりと目開けるんだ。いっしょに。」

「うん。」優しいアンディーの声がナオミを素直にさせた。

「じゃあいくよ。」立ち上がったナオミには、普段のおとうとおかあが目の前にいるのが見えた。脚がなんだか震えていた。

「さぁ、ゆっくりと目をつぶって。そして1、2、3で目を開ける。」

「いち、にい、さん。」

 ナオミとアンディーは、恐る恐る目を開いた。

 そこには、父親と母親がいた。でも、いつもと違う。そう、父親の顔をしたチェルト(悪魔)と母親の顔をしたエンジェルがこちらを向いていた。

「あ、ああっ…。」ナオミとアンディーが顔を見合わせて再び両親を見ると、二人はいつもの姿に戻っていた。

「ど、どういうこと?」ナオミが半ば放心状態で聞いた。父親の真人は、頭をかいている。母親のラダナは、じっとナオミを見ている。

「ナオミ。」最初に喋り出したのは、アンディーだった。

「見た通りだよ。僕たちの両親は、チェルトとエンジェルなんだ。実は、僕もこの目で初めて見た。」

「お兄ちゃん、知っているのに見たことなかったの?」

「ああ。二十歳になった時に、親父から話を聞いたんだ。信じられないけど、そうなんだって。俺は、冗談半分かと思っていたし、見せてくれるといったけど、いやだって拒否したんだ。だって、俺には何の変化もなかったし、本当だとしても信じたくなかったからね。」

 アンディーは、ナオミの背中を見て話を続けた。

「でも、実際にナオミのこの背中を見て、認めるしかないって、今、心を決めたんだ。っていうか、それ以外ないだろう?」

 ナオミは、複雑な表情を浮かべている。

「じゃあ、私は、日本人とチェコ人のハーフじゃなくて、チェルトとエンジェルのハーフ…? 一体どういう組み合わせ? それに、なぜアンディーには何も無いの?」

 いつになく深い眼差しで真人はナオミを見た。

「ナオミ。まず言っておく。おとうもおかあも、お前たちが大好きだ。二人ともかけがえの無い私たちの子供だからね。まぁ、もはや小さな子供では無いけれど…。大切な家族だ。二人を愛している。」

「うん。」とナオミは小さな子供のように素直にうなづいた。

「おとうとおかあは、25年前のミコラーシュの日にプラハのカレル橋で出会った。いや、出会ってしまったんだ。二人ともそのイベントを見学しにこの世界に来ていた。そう、人間の世界にね。チェルトとエンジェルとして。ほら、その時は人間たちが、我々の格好をするだろう? だから、私たちもなんだか逆に人間気分だったわけだ。」

「なるほど。そこで二人が出会っちゃったんだ。」アンディーはヒューと口を鳴らした。「でも、チェルトとエンジェルのカップルなんて、組み合わせとしては成り立た無いでしょう?」

 真人はうんうんとうなづいた。

「もっともだ。だが、お互い人間だと思っていたわけだ。若かったのかな、事実よりも気持ちが先行した。しかし、キスした瞬間にわかったんだ。違うって。でも、もうひとつわかったことがあった。」

 ナオミとアンディーは黙って話を聞いていた。

「もう戻れないって。好きになっちゃったって。」

 少しの沈黙。ナオミのまぶたが輝いているようだ。

「で、私は、ルチフェールに相談した。いや、相談というよりは談判といった方がいいかもしれない。思いっきりツッパったんだ。若造の分際で。」おとうの眼差しが少し遠くを見ているのをナオミは感じた。

「ルチフェールって、あのチェルトの大王?」アンディーがおどけて見せた。

「本当にいるんだ…。」ナオミは涙声でぼそっとつぶやいた。

「あぁ。だが…、ふざけるな!」と一蹴されたよ。しかし、私は諦めなかった。何度も何度もルチフェールのところに行って頼んだんだ。そして、しまいにはこう言ってしまった。そう、人間になりますって。それほどラダナのことが好きだった。」

 アンディーが不思議そうに言った。

「そんなことができるの?」

「彼は、こう言った。いいだろう、だが、二度とチェルトの世界には戻れない。追放だって。そして…、そして、最初の子供は人間として育つだろうが、次の子供はそうはいかないだろうって忠告された。」

「だからナオミには羽根が生えてきたのか。」アンディーがうなづいた。

「でも、天使の羽根じゃない。チェルト、悪魔の羽根よ。」ラダナが目を細めて言った。ナオミは、再び泣き崩れた。 

「悪魔の羽根なんて欲しくない。私は、何者なの? あぁぁ。」

「ナオミ。」アンディーは、優しくナオミの手を取ろうとしたが、ナオミはそれを払いのけた。

「あなたは人間だけど、私は何? 女のチェルト?」

 真人は言葉を失っていた。なんと慰めたらいいのか、いや、声をかけたらいいのかわからなかった。その脇でじっとナオミを見ていたラダナが、スッと立って口を開いた。

「ナオミ、私も真人と同じなの。彼を愛しちゃったから人間になったの。あなたは女の子だから、天使の羽根が生えてくるかと思っていた。だから今ちょっとびっくりしてる。でもね、あなたのその羽根とっても素敵だと思う。」ナオミを見ておかあはパチンとウインクした。アンディーもキュッと親指を立てた。

「俺もそう思う。天使の羽根よりカッコイイよ。サイバーな感じだし、何よりシャープでモダンだな。素敵だよ。それに…。」アンディーは突然、ナオミの頭やうなじを撫で回してみたり、じーっと見回した。

「ナオミ、チェルトって言ってもお前にはツノも生えてい無いし、毛むくじゃらなわけでもない。そう、狼男みたいに変身したわけじゃない。それに、尻尾もないし脚も普通だろ。なんだか羨ましいな。俺もそんな羽根が欲しいくらいだよ。」

「確かにそうだ!」真人が突然不思議そうに声をあげた。「なぜ羽根なんだ? 普通、チェルトに羽根はないぞ。あるのは尻尾だろう?」

「これから生えてくるのかなぁ?」アンディーもナオミの臀部を注視した。ラダナはそんなアンディーの頭をペシンと叩いた。

「いろんなおとぎ話でもチェルトに羽根は生えていないし…。あれ?大王のルチフェールは?」

 真人は自分の顎をつまんで思い出して見たが…。

「生えていたようないなかったような…。覚えてない。」

「ちょっと、人ごとのように言わないでよ!」ナオミの顔は怒りながらも悲しい表情に歪んでいる。と今度は、おかあが羽根を触りだした。 

「すごい、こんなに薄いんだ。でも強そうね。ほら、色も綺麗。マット調の黒に見えるけど、光にあたるとキラキラして深い紫色の宇宙が広がっているみたい。」ラダナはうんとうなづいた。

「あなたはやっぱり私たちの子。チェルトとエンジェルのハーフなの。だからこんな素敵なソリッドな羽根が生えてきたのよ。そう、尻尾もなしに!」ラダナはナオミにすり寄って笑みを浮かべながらナオミにチュッとキスをした。

「でも、友達には何て説明したらいいの? 悪魔の羽根が生えてきちゃったって言うの?」

「いま誰か付き合っているのか? どちらにしろ、今のところは黙っていた方がいいね。俺がお前にあった服をデザインするよ。翼は広げたり格納したりできるんだろう?」

 ナオミは、翼をパタパタした後に、スッと小さく背中に収めてみた。アンディーは、再び口を鳴らした。

「ふうん。本当に自分の体の一部なんだ。背骨の両側に二本の筋か。これだけコンパクトになるんだったら、服のデザインで目立たなくはなるよ。でも、俺だったら絶対に好きになっちゃうなぁ。どこにもいないよ、こんな魅力的な女の子。」

 束の間ナオミの表情は明るくなったが、すぐにまた曇ってしまった。

「でも、これからどうすればいいの? チェルトとエンジェルのハーフって…。私は一体どうすれば。」

「ナオミ、君はどこにもいない素敵なハーフなんだ。心は人間のね。」アンディーはナオミにウインクした。真人は黙って考えていたが、ラダナの瞳には迷いはなかった。

「そんなのどうだっていいじゃないの。ナオミはナオミ。私と真人の愛の結晶なんだから。もちろん、アンディーも。それ以外の何者でもないわ。」おかあの爽やかな笑顔はみんなを安心させるだけの力があった。わかったことはひとつ。みんな、本当の人間じゃない。でも、人間として生きている。心は人間なんだ。

「だから、」真人の口が開いた。「だから、いつもと同じでいいんだよ。なんら変わることはない。今までの気持ちと一緒。ただ、」

「ただ?」

「人々を驚かせてはいけない。見せびらかしてはいけない。モチベーションはいつも通り。今までそうやって育ってきたんだから。」

 ナオミは目をつぶってゆっくりと何度かうなづいた。ラダナが、そんなナオミにそっと近づいて、ぎゅーっと優しく抱きついて抱擁した。 

「おかあ、ありがとう。私、おかあとおとう、そして、アンディーが大好き。」ナオミは笑顔の上からほっぺたに流れた涙をふいた。

 バスルームから携帯の音がしている。ナオミはいつものように二階のバスルームに駆け上がって行った。 

 温めた鍋にニンニクと鶏肉、そしてタマネギや人参のシャーっと炒められる音と香りがキッチンに広がった。

「尻尾があったほうが可愛いかな?」真人が呟いた。

「そんなこと! あなた、彼女の気持ちをちゃんと考えているの?」ラダナが呆れたように真人を見た。

「いや、そのほうがバランスがいいんじゃないかって…。」

「年頃の女の子なのよ! ちゃんと今の彼女の気持ちを考えてよ!」

「ウビジーメ。とにかく、今は優しく見守ってあげることだよ。」アンディーは両親に目配せした。 *ウビジーメ… Let 's see.

「ところで、チェルトって普通はなに食べてるの?」アンディーが菜箸を鍋に突っ込みながら真人に聞いた。

「はぁ?」真人はトンととぼけながら「いや、なんだっけな。忘れた。すっかり。でも、ドラキュラじゃあないよ。にんにく好きなんだから。」と肩をすくめて笑いながら最後のチキンカツの衣をつけた。

「みんな私と真人のおいしいもので育ったんだからね。もっとも、真人が料理すると食費がかさむけど…。」話がまた現実的になってきた。 

「アンディー、後でホスポダ・クラコノーシュからビール買ってきてね。やっぱり、同じ銘柄でも缶ビールからよりはサーバーからでしょう? そう、そこのピッチャー持って行ってね。目一杯よ。」 

「うん。」と言いながら、アンディーは想像していた。天使がビールを飲んでいる様を…。

「何か?」ラダナの問いにアンディーはチュッと投げキッスをした。


 * ホスポダ・クラコノーシュ… ホスポダとは、チェコでは一般的なビール酒場のこと。ピブニツェとも呼ぶ。クラコノーシュは、チェコでは山を守る仙人として語り継がれている。


「本当にチキンカツカレーは美味しいね。」

「真人の作るチキンカツは薄すぎない? やっぱり、カツは厚い方が肉っぽいわ。」

「今日のカレーは、辛口にしたんだけど、辛すぎないよね?」

「ライスもちょうどいい硬さだね。おかわり。」

会話が弾んでいる。と、みんなの口元にはカレーが付いている。

「いやだぁ、これからデートなのに。」ハッとナオミは口元を押さえと同時にみんなの声がハモった。「誰と?」

「…いいじゃないの、誰だって。」

「変な人じゃないでしょうね。問題ある人とかいやよ。奥さんがいたり、子連れもダメ。」

 おかあは釘を刺しているのか、探りを入れているのか…。

「大丈夫。街の図書館で働いている好青年なんだから。たぶん。」なんだか嬉しそうだが、アンディーが口を尖らした。

「インテリか。まぁ、性格がよければいいか。でも、気をつけろよ。二重人格ってこともあるからな。」

「だから、それを確かめるの。」ラダナはナオミにウインクした。

「いや、デートってそんなものじゃないと思うけど。」アンディーはカレーの付いた皿を舐めながら、ラダナを見た。

「アンディー、女の方がしたたかなのよ。気をつけなさい。ところで、あなたの方はどうなっているの? だいたい、いつ彼女を連れてくるの? ねえ?」とラダナは真人を見た。

「いや、ねぇって言われても…、なぁ?」と真人はアンディーを見返した。ナオミはすでに食べ終えた皿を食器洗い機に入れている。

「お兄ちゃん、どんな洋服がいいか見てくれる?」ナオミもそこそこのファッションのセンスはあるが、やはり、専門のアンディーに観てもらうと安心するようだ。 

「ごちそうさま。美味しかった。」

二人は二階に上がっていった。

「とりあえず…。」とラダナが真人に寄ってきて抱きついた。真人はラダナの額にチュッとキスして強く抱きしめた。

「ああ、第一段階は無事通過かな。いい兄弟だ。」

「そう願いたいわ。ミルイーチェ(愛してる)、真人。」

 二人は安心しながらも、二階に続く階段に目をやった。



 「へぇ。ナオミちゃんは、今度大学生なんだ。」

男はアルコールの入っていないモヒートのストローをくわえていた。少しボサッとした長い髪に黒縁のメガネ、少しよれっとしたジーンズでできたジャケットに薄黄色のシャツ。少し長めの白のハーフパンツにかかと止めのついたサンダル。頼りないアーティストに見えないわけでもないが、どこかにインテリジェンスを感じなくもない。それよりも、外の気温からすると寒くないのか心配だ。

「すごく大人っぽいね。」彼のにこっと微笑んだ笑顔にナオミは自分の体が少しこわばるのを感じながら、エスプレッソをひとすすりした。

「ノイマンさんは図書館に務められてどのくらいになるんですか?」

 男はストローから口を外しコップを机に置くと、少し苦笑いをした。

「何年も働いているように見える? それはいい意味かそれとも…。」

「あ、あの、ノイマンさん…。」緊張している自分がなんだか歯がゆい。

「ミロシュでいいよ。確かに、みんな僕のことを落ち着いているって言うよ。だから、もう何年も図書館勤めしているように見えるけど、本当は一年前から。大学院を出てからすぐにあそこに務め出したんだ。」

 なるほど。笑顔の端にはまだ青さが残っているように見える。

「図書館で働いていると、本のことはもちろんだけど、人間観察も面白い。だま〜って一日中同じ席で本を読む人。片っ端から雑誌をめくる人。文献を拾いあさってコピーしていく人。みんな、それぞれの目的を持って来ているのだろうけど、その仕草も面白かったりするね。ずーっと鼻くそほじくっている人や、本を読んでいる間薄笑いを浮かべていたり、本棚の隅っこにうずくまったままの人とか。」

 ナオミは笑いながらも少し疑いの目を投げかけた。

「いや、誤解されちゃ困る。僕本来の仕事は司書であって、人間観察ではないからね。ただ、静かなところにいるとそういう人たちが浮かび上がって見えるんだよ。それに、たまに本の貸し借りのところにいると、声をかけてくる女の人がいる。例えば、返却する本の間に電話番号やメールアドレスを書いた紙切れを挟んできたり、今度何時にどこかで待ってますって、勝手に言っていく子とか…。でもね、僕はそういうの好きじゃないんだよ。古風っていうか、最初に女の人が男を誘うのが好きになれないんだよ。」

「じゃあ、ミロシュさんには彼女いないんですか?」 ナオミはさらに疑いの目をむけた。まるで自分はモテるんだけどそんなに軽い男じゃないよって自慢しているようではないか。

「あ!」ナオミはスラリとした手で口元を押さえた。早くも聞きたいことを自分から聞いてしまった。ミロシュは、ちょっと困った顔をして首を軽く横に振って話題を変えた。 

「ここのカフェは、ナオミちゃんのお気に入り? いい雰囲気だね。」

「ええ、家からそんなに遠くないし、できた時からよく来ています。」 

 ミロシュ越しに見えるカウンターにいる若いマスターが笑顔でナオミにウインクした。カフェができた当時は客がほとんどいなかったが、おとうとおかあは、お気に入りの店ができたといってよく通っていた。

「ここのエスプレッソ、とても美味しいんですよ。一杯いか…」

「あ、僕はコーヒーを飲まないんだ。カフェインがどうもね。」とハハッと頭を掻いている。

「え、あ、ごめんなさい。あ、あの、司書という仕事にも専門があるんですか?」ナオミは自分のことをフォローするように話題を変えた。

「うん、本が好きでね。と言っても、シェークスピアとかキルケゴールとかじゃなくて…、」

「エドガー・アランポーとか、エラリー・クイーンとか?」

「アガサ・クリスティーでもない。」彼はまた頭をかいて恥ずかしそうな笑顔を見せた。

「ナオミちゃんは探偵モノが好きなのかい? 僕も嫌いじゃないけど、僕の専門は、」と言いかけたところで、マスターの手がすっとテーブルの上に割り込んできた。

「ナオミちゃん、おかわりはどう? 新しい豆のエスプレッソ。ちょっと苦いけど大丈夫だよね? こちらの方も?」ミロシュは笑顔で首を横に振った。

「今年から大学生だって? ほんと、大きくなるのが早いねぇ。あ、そうだ、最近お父さんとお母さんがあんまり来ないから、来てねって言っておいて。新しいパニーニもあるし、ね。」マスターは軽く手を振りながら自分の定位置に戻っていった。 

「優しくて、感じのいい人だね。」ミロシュはマスターを見送るとくるっとナオミに向き帰った。「で、なんだっけ?」

「え? あ、あなたの専門の話。」

 ミロシュはパチンと親指を鳴らし、ナオミを見つめて話を続けた。

「あぁ、僕の専門は…、とてもわかりやすくて身近。そう、みんなが小さい時から知っている童話とか、おとぎ話が専門なんだ。昔から伝わっている話とかね。おじいちゃんやおばあちゃん、或いは、お父さんやお母さんからよく聞かされるあれ。」

「え?」ナオミは一瞬凍りついた。「ボドニークとか、ババヤガとか?」

「チェルトとか、みんなに馴染み深いおとぎ話。僕の見た目に合わないだろう? みんなにそう言われるよ。でもね、おとぎ話とかって身近に感じるぶん歴史があって相当奥が深いんだ。」ハハッと照れ笑いしながらナオミを見たが、すぐに真顔に戻った。ナオミの顔色がすごく悪く見えたと思ったら、彼女はタンと席を立った。 

「どうしたんだい?」

「ごめんなさい。今日は帰る。なんだか気分が良くないの。」ナオミの目には今にもこぼれ落ちそうな雫がいっぱいたまっていた。

「ごめんなさい。」もう一度そう言うと、小さなカバンを手にカランと扉のベルの音を残して出て行ってしまった。机には黒いモレスキンのノートが置いてある。忘れたんだ。ミロシュがマスターを見ると、彼はアゴで追いかけろ、と言っている。えーっと、といくらだっけと財布を探していると、マスターがすでに傍に来ていた。

「お金なら後でいいよ。それよりも…、」

「また来ます。」そう言ってミロシュは適当にお金をおいてノートを掴むとチリンと扉のベルを鳴らして出て行った。

「お似合いのふたりなのかどうか…。」マスターは、テーブルを拭きながら窓の外を見送った。

 街の中心から少し離れた小高い丘にそっと立っているカフェの前は少し緩い坂道になっている。ナオミはもう随分遠くを歩いている。まいったなと言いながら、ミロシュは駆け出した。

  *ボドニーク… チェコに昔から伝わる、川に住んでいる水仙人。 

  *ババヤガ… 魔法使いのおばあさんというよりババア。

「ナオミ、忘れ物だよ。」ハァハァと息を切らして自分の膝に両手をついてナオミを見上げると、彼女の頰は涙で濡れていた。

「ありがとう。これ大切なの。」とノートを掴むとナオミはまたスタスタと歩き出した。

「お、おい。」とナオミの少し無礼な態度に戸惑いながら声をかけると、ナオミはくるっと向き直った。

「ごめんなさい。素敵なお仕事ですね。でも、なんだか嬉しいような、怖いような…、あなたのせいじゃないわ。今日は本当にごめんなさい。」

 コツコツと去っていくナオミのシルエットは冷たくもどこか素敵で愛らしかったが、ミロシュは複雑な表情でそれを見送っていた。 



 「バカだなぁ。それじゃ、余計怪しいじゃないか。」呆れた顔をしながらアンディーは冷えた缶ビールを開けた。

「だって、びっくりしちゃったんだもん。専門はチェルトなんだって言っているも同然でしょ?」グビッと飲んだ金色の液体は乾いた喉と少し歪みかけていた心に染み込んだ。 

「確かに、自分がチェルトの羽根を持っているってわかったその日にそう言われれば、どうしたらいいのかわからないよなぁ。親からと更に好きかもしれない人からとドッピオ攻めだね。」

「うん。」ナオミは透明なグラスの中で立ち上がる炭酸ガスを虚ろに見ていた。

「大切なのは動揺しないことだよ。誰もお前がチェルトだなんて思っちゃいない。羽根が生えているなんて想像もできない。そうだろ?」 

 グラスの水面上では綺麗な泡がゆっくりと揺れている。

「問題なのは相手ではなくて、それを意識してしまう自分にあるんじゃないかな。ほら、今まではそんなこと気にもかけなかったんだから。無知でいたほうが楽だったかもしれない。でも、知ってしまったからには、それに正面から向き合ったほうが精神的にはすっきりしていられると思うな。もちろん、困難がたくさん待っていそうな気はするけど。でも、後ろめたさはないはずだよ。だからというか、むしろ彼にはチェルトについてどんなことを知っているのか聞いてみるのもいいかもしれない。攻めは最大の防御だとも言うだろう?」

 ナオミはハァと軽くため息をついてアンディーを見た。

「お兄ちゃんはどうだったの?」

「俺の場合は、理解できないことのほうが多かった。いや、お前の羽根みたいに具現化したものがなかったからね。だから、親父がチェルトでお袋がエンジェルだと言われたところでピンとこなかったよ。ふざけた家族だぐらいにしか思わなかった。ただ、感受性の強い思春期だったから、変な夢はたくさん見たよ。なんかお尻が重いと思ったら、ヤジリのついた尻尾が生えていたりとか、なんか今日は軽快に走れるなと思って足を見たら、蹄が付いていたりとかね。つまり、理解できないものを常に背負ってきてしまったわけだ。今の今まで。」

「そういった意味でいうと、お兄ちゃんのほうが気分的には晴れないでいたのね。」ナオミはアンディーに同情した。

「ああ、だから、今まで彼女を作ろうとしても中途半端な自分と向き合うことになって、またそれが曖昧なアンディーになってね。そんな男を好きになる女はいないだろう?」

「適当なやつってこと?」

「まぁ、基本的なアイデンティティーが欠落している男っていうか…。でも、俺的にはお前のツヤツヤの羽根を見たことによって、自分をゲットしたような気がしてる。こんなに素敵な妹の兄貴なんだっていうことを含めてね。」チーンとビールの入ったワイングラスを指で弾くアンディーを見てナオミは彼の瞳の中に凛々しさを感じた。

「自分から逃げちゃダメなんだ。」うなづく兄の前でナオミはグラスに残ったビールをグイッと呑み干した。

 アンディーは、真人とラダナの自宅からそう遠くないマンションの一室を借りていた。だから、両親との行き来は簡単にできたし、時々こうして兄弟だけでの時間を持つことも容易だった。1LDKでそこそこ広いリビングとキッチン。ナオミはソファーから立ち上がってそばの作業デスクに散らばっているスケッチ画を幾つか手に取った。

「あ、これなんだか素敵。」

「軽くスケッチしてみたんだ。お前向けの新しいジャケット。そう、アイディアが湧いているうちにね。まあ、イメージだけど。よく見て。この背中の二つの盛り上がり。ほら、車のボンネットのパワーバルジみたいでかっこいいだろ? 今まで背中のデザインってただのつるんとしたものばっかりで、あってもせいぜい絵や刺繍の文字ぐらいだったからね。こういう立体的なのものも新しいなぁと思ってね。これは、お前の羽根隠しからの発想なんだけど、なかなか素敵だろ?」

 ナオミは複雑な表情を浮かべながらも、そのデザインに魅了された。

「うん、なんだか新しいね。出たら流行りそう。」

「まぁ、流行るかどうかはわからないけど、悪くない。早々に仕上げて会社に提案しようと思うんだ。ただ、弱小メーカーだからなぁ。」

「これ、本当にいいと思う。」

「うん、大所帯じゃないから小回りが効くっていうこともある。宣伝次第かもしれないけど。」

「雑誌とかに取り上げられれば流行ること間違いなしよ。早く着てみたい!」

 ナオミはジャケットを着る真似をしてファッションショーのモデルのように歩いてみた。

「ほら、ネックのところに指をかけて背負って持っても素敵。まるで、妖精のスポーツジャケット見たい。」窓のところまで行くと、くるっとターンしてしゃなりと歩いてきた。その仕草は、あたかも出来立ての本物の色や仕立てまで見えるような錯覚を感じさせた。

「お兄ちゃん、色々とありがとう。」

「ところで…。」少しマジ顔になって兄は聞いた。「ミロシュとやらはどんな男だった?」 

「悪い人じゃないと思うけど、まだよくわからない。あっという間にカフェから出てきちゃったから。」

「図書館で働いている、イケメンの新しい司書だよね。」

「それほどイケメンとは思わないけど、何か?」

「ああ、ちょっとした噂がないわけではない。」

「うわさ?」

「まぁ、かすかなものだけど…。」

「それなりに雰囲気があるということで結構モテるらしいんだけど、実は、両刀使いか、おかまちゃんじゃないかって。いや、確実な根拠はないんだけど。どこかの持てない男のひがみかもしれないしね。まぁ、こういうのって、本物のおかま同士ならすぐに分かるみたいだけど、あいにく俺はちがうし、そういう友達もいないんでね。」

「確かに、雰囲気があって男も女も興味をそそる人かもしれない。第一印象でしかないけれど。どちらにしろ、今日は失礼しちゃったからもう一度デートしないと。」

「別に気にすることでもないと思うけど。それぐらいの方が、相手にとっては魅力的かもよ。まぁ、気にしない。」

「うん?」と机の上に転がっていた腕時計を見てナオミはハッとした。と同時に携帯のメッセージのチャイムが鳴った。

 『今日の夕食会を忘れないように! 場所はいつものところ。』

「あちゃーっ。すっかり忘れてた。」ナオミは慌ててプラハ行きのバスの時間を携帯で調べて予約した。「お兄ちゃん、バス停まで車で送ってくれる? その前に家に寄って…」と、そそくさと靴をはきだしながら自宅に電話した。「おかあ、ホールに準備してある私の荷物! 今からアンディーの車で行くわ。時間がないの。」

 門の前には既におかあが荷物を持って立っていた。

「また週末に帰ってくる。ありがとう。おかあもおとうも大好きよ。」とキスしてアンディーの車に乗った。おとうが出てきた時には、道の向こうに走り去るのが見えていた。

「ありゃ、もう行っちゃったのか?」

「あなた、ノロノロしているからよ。慌てて行っちゃったけど、今日のこと大丈夫かしら?」ラダナは真人に寄りかかった。真人はラダナの肩をキュッと軽く握ってひたいに軽くキスをした。

「お前と俺の子だ。信じていいと思うよ。アンディーもついている。」


 日曜日の夕方のプラハ行きのバスは満席だった。リベレッツから終点のプラハ東端にある地下鉄B線の駅チェルニー・モストまではノンストップで約一時間の旅だ。ナオミの席は後ろから3列目の通路側だった。隣はスウェードのフードをかぶった若者のようで、小柄だが男か女かよくわからなかった。 

「ドブリーデン(こんにちわ)」と声をかけたら、コクンと頭を下げた。悪い人じゃなさそうだ。

 満員の巨大なバスは重そうに定刻に出発した。街の信号を3つほど過ぎて大きく左に曲がると高速に入る。 

「本日は当社のバスをご利用いただきましてありがとうございます。」とアナウンスが始まったと思ったら、ポケットの携帯が震えた。

『心配することは何もない。いつもの笑顔で! 道中気をつけて。 おとう、おかあ。』  

『はいはい!』と返信すると、アンディーからもメッセージが入った。

『悩みが無い奴何ていない。自分で解決しないとね。俺はいつもお前の味方だ!』

『お兄ちゃん、大好き!』と打って送信ボタンを押したところで、バスのスチュワーデスの声が耳元で聞こえた。

「ヘッドフォンはいかがですか?」とバスケットを差し出している。

ナオミは首を横に振ったが、窓際のパーカーの人がそろりと手を伸ばしてきたので、一個とって手渡した。「ありがとう」とボソッと言ってシゲシゲとナオミを見ている。それは、同世代の女の子のようだったが、ナオミは愛想笑いをして携帯に視線を戻した。

「あなた、ナオミ、ナオミだよね?」

え? と振り返ると、その子はパーカーのフードを背に返して少し虚ろな暗い顔を見せた。真っ黒く光るボブの髪にきつい青緑のアイシャドー。ボールペンが載りそうな長いつけまつ毛。顎の下に見える首には薔薇とバラ線の刺青が見える。鼻には渋く光るピアス、唇は真っ赤なルージュで、長く伸びた爪は真っ黒のマニュキア。手の甲にもバラ線の刺青が見える。それが身体中を這っているのは容易に想像ができた。こんな知り合いはいないと思ったが、どこか聞き覚えのあるような声・・・? 

「あたしよ、ヤナ。9年生の時に同じクラスだった。ほら、覚えてない?」となんだか不敵な笑いを浮かべている。

「ヤナ…? え?」ナオミは合点がいかなかった。

「私が知っているヤナはガラガラ声の太っちょヤナと小さな泣き虫ヤナ。まさか…?」

 バラ線女は冷たい笑みを浮かべて自分の喉をさすっている。

「びっくりした? フフ、みんな驚くんだよねぇ。私の変わりように。ナオミ、あんたはちっとも変わらないね。」

「すごい、久しぶり! 私の知っているヤナとは違っちゃったけど、なんだかすごく嬉しい。」とナオミは合点がいって笑顔で答えた。その雰囲気はヤナの暗い表情を少し変えたように見えた。

「私、変わったでしょ?」とまた不敵な笑みでヤナはナオミの目の奥を見た。

「うん、ちょっとね。それより、本当に久しぶり。その方が嬉しいわ。で、どしたの? そんなになっちゃって?」ナオミは久しぶりに会えた友人に嬉しくてしょうがなかった。

「ナオミ…。普通、みんな私の変わりように絶句して、あんまり話そうとしないわ。近寄りたくないみたいなの。」

「でも、友達は友達でしょ? みんな成長することでアップデートするのよ。そりゃ、みんなそれぞれ違うけど…。でも、同じじゃないから面白いんじゃない? で、どうしてそんな風になっちゃったの?」

 ヤナは一瞬きょとんとしたかと思ったら、アハハと笑い出した。

「ナオミ。あなたには心が許せる。あなたには境が無いのね。」

「あら、善悪の境はあるつもりだけど。」

「そうじゃなくて、友達の、というか、人付き合いの。」

「だって、長いこと会っていなくても、友達なのは変わらない。こういう偶然て素敵じゃない?」 

 ナオミのあっけらかんな対応にヤナの心は幼い頃に戻っていた。 

「私って、ひ弱な泣き虫だったでしょ。だから、悪い強さに憧れがあって、高校の時にちょっと不良っぽい男の子に惹かれたの。そいつはパンクバンドのボーカルでピアスや刺青がすごかった。だから…。」

「ふうん。」

「そうしたら、自分も変わったと思ったけど、もっと変わったのは周りの人たちだった。なんだか、私のことを畏敬の念を持って見るようになったの。だから、私もある意味いいたいことが言えるようになった。それが本当に正解かどうかはわからないけど、泣き虫だった頃よりはずっといい。そうでしょ?」と鋭い視線の先には、またスチュワーデスがドキッとして立っていた。

「あ…の、あの、飲み物は何になさいますか?」

「チョコラーダ。」ヤナはすかさず答えた。  

「私はブラックコーヒーを。」ナオミはニコッとオーダーした。

「ナオミって変わらないね。ミス9年生に選ばれた時にすごくうらやましかったけど、鼻高々になるわけじゃなく、みんなといつも一緒だった。ほら、そんないやな奴って多いじゃない?」

「うん、私も普通だよ。自分でもいい気になっている時があったもん。でも…。」

「でも?」

「チヤホヤされるのは気持ちいいけど、どこか寂しいの。本当の自分を見てくれているのか不安になるっていうか、そのうわべだけが大きくなって、自分が取り残されていくような。最初はいいんだけどね。だんだん疲れちゃう。自分じゃなくなっていくような気がして。それでも、いい友達がたくさんいたから、ナオミ!っていろんなことを修正してくれたし、バランスが取れていたんだと思う。人付き合いって、自分を映す鏡みたいなところがあるでしょ?」

 ヤナはしばらく自分の足元を見ていた。頼んだ飲み物を受け取ったナオミは、ハイっとヤナに温かいチョコラーダを渡した。

「ナオミ。ずっと私の友人でいてくれる?」 

 きょとんとしてナオミは言った。

「うん、いつも友達だよ。もちろん、あなたはあなた、私は私だけど。」一瞬ナオミは冷たかったかなとも思ったが、すかさずヤナが答えた。

「ありがとう。ナオミの答えらしい!」フフッと笑っていた。

「そうだ、私の友達の夕食会に来ない?」ナオミも笑顔でヤナを見た。

「きょう? きょうはダメ。デートなの。」なんだか半分残念そうだが嬉しそうでもある。

「あは〜。じゃ、次の時に連絡するね。そうだ、連絡先を交換しないと!」 

 積もる話をしているうちに、バスはゆっくりと右にカーブして高速を降りた。終点到着のアナウンスが流れ始めている。バスが滑り込んだチェルニー・モストの駅は日曜日の夕方だからかいつになく人で溢れていた。バスを降りると、ヤナは、スラッとしたモダンなパンク風の若者に抱きついた。 

「ナオミ、会えて嬉しかった。あなたは私のエンジェルね。連絡してね。アホイ。」と彼と雑踏に消えていった。

「エンジェルって、半分はね…。」とため息をつきながらヤナを見送った。時計を見ると約束の時間までは45分ほどだった。そのパブレストランは旧市街広場にそびえ立つティーン教会近くの脇道を入った少しわかりにくいところにある。地下鉄でムーステック駅まで行って歩いて丁度くらいの時間だ。できれば、シェア・アパートに荷物を置いて身を軽くしていきたいところだったが、その時間はなさそうだ。ふうっと軽くため息をついてヨイショっと荷物を持ち上げたナオミは、少し混雑する地下鉄に乗り込んだ。 

 車内は、子供達を連れて帰る家族連れが多かった。楽しそうな子供達から少しベソを書いている子供。そうかと思うとお母さんに甘えていたり、それぞれのきょうの思い出が垣間見えるようだ。3つか4ッつ目の駅を出て少し走ったところで、電車は突然ガクンと揺れて急ブレーキで止まり、バンという音とともに車内の電灯が消えた。キャーッと数人の悲鳴が重なって聞こえたが、すぐにアナウンスがあった。

「点検中、点検中。」何人かの子供達や大人が倒れたようだが、大事には至っていないようだった。真っ暗なはずなのに、ナオミは車内の様子がよく見えていた。そう、灯りはトンネル内に設置されている等間隔の数少ない蛍光灯の漏れだけだった。車内の非常灯は点いていなかった。みんな暗闇に右往左往していた。が、ひとりだけ違った動きをしているおっさんがいた。子供達や、母親、婦人たちの手提げやリュックをすごい速さで漁っているのだ。

「?」まさかとナオミは様子を伺ったが、確かに腕がカバンの中に入っている。そして、もう片方の手には幾つかの財布のようなもの…。 

 停電は5〜6分だっただろうか。パパッと明るくなると、また車両はゆっくりと走り始めた。車内には安堵が広がり、みんな自分のカバンや荷物の事よりは子供達の安全を確かめていた。電車がゆっくりとホームに入っていくと、例の男はススッと扉に近寄って行った。ナオミは、どうしようと迷ったが、男がドアを開けるボタンを押す前にスッと扉の前に割り込んで叫んだ。

「皆さん、お財布とか貴重品は大丈夫ですか?」

 行く手を遮られた男は、突然ナオミの胸ぐらを掴み、電車が止まったと同時にボタンを押してドアを開けた。その勢いで、彼女は車両から投げ出されてホームに倒れこんだ。持っていた荷物が散乱した。 

「痛い!」と叫んだナオミを男はまたいで素早く逃げた。が、それを追うように若い男女が飛び出して数メートル追いかけたところで男を捕まえた。チクショーという声がホームにこだました。

 なんだか悔しくて、起き上がれないナオミを優しく抱きかかえてくれる人がいた。

「大丈夫かい? 怪我はしていないよね。」 

 彼女は恥ずかしくなって、その人から離れてスクッと立った。

「あ、だ、大丈夫です。」散らかった荷物を何人かが拾ってくれている。

「ありがとう。奴はスリの常習犯でね。車内を見張っていたところに、たまたまあんな停電事故が起きてね。そう、我々にとっては待ってました、だったんだよ。」ニヤリと笑いながら眉間にしわを寄せた。

「君のお節介な勇気に感謝だ。」

 ひどい、お節介だなんて。私は、と口に出そうと思ったところで彼はすかさず「それにしても…、」とナオミを見つめた。

「それにしても?」  

「よくあの暗闇の中で彼の行動が見えたね。」

 確かに、ナオミにはしっかり見えていた。   

「ええ、なんだか、どうしてなのか…。」

「君のいた位置からいい明かりが差し込んでいたというわけか。」

 ナオミは思わずうなづいた。

「多分、そうです。財布が5つと携帯が2つ。それに、腕時計が1つ。」

「そう? 君のすぐ後ろには私の部下がいたんだが、そこまでは見えなかったようだったが。」

 警官が男の取ったものを検証している。

「どさくさだったから、いろいろ弄っていたようですが…。」

 確認されたものは、ナオミがつぶやいたものとぴったりと一致した。犯人はまさかという顔でナオミを見ていた。

「まぁ、いいか。君も無事みたいだし、犯人も捕まったし、ね。」

 若い部下と女性警察官がナオミに近寄ってきた。 

「あとは、君の名前と連絡先を聞いて終わりだ。」

 終わりだって、私が悪いわけではないとナオミは少しぶすくれた。

「いや、協力ありがとう。」とその初老の刑事は去って行った。婦人警官がメモを取ったあと若い警官がカバンを渡してくれた。 

「ホームにはもう何も落ちていないので全てあると思います。」と言いながら、ありがとうと言ったナオミをジロジロと見回した。

「怪我はありませんね? しかし、あの暗闇、しかもちょっとしたパニックの中でよくわかりましたね。すごい目をしている。」

 ナオミは、その若者の目をキッと見つめた。

「あ、いや、他に何か気がついたことでもあれば、警察に連絡をください。一応これをお渡ししておきます。」と言って名刺らしきものを渡すと彼は敬礼して出口の方に歩いて行った。

 ナオミはなんだか納得が行かないといった表情でホームに立ち次の電車を待っていた。約束の時間には間に合わない。でも、どうしてあんな暗い中全てが見えたんだろう。これってやっぱり…。

 トンネルからホームに風が吹いて電車が入ってきた。



 日が暮れて間もない藍色の空。オレンジ色の灯りのついたティーン教会の黒い尖塔が天空に突き刺さって見えるほど空気は澄んでいた。石畳の小道からロウソクの灯篭のある入り口をくぐって階段を下っていくと、そのパブレストラン「ポハートカ」がある。最近のチェコのトラディショナなホスポダもずいぶんモダンに小綺麗になっていく中で、ここは昔ながらの民家のような作りになっていた。薄暗いとはいえ清潔で派手な加飾があるわけでもなく、芸術系の若い人が集まるちょっとした隠れスポットだ。奥のテーブルに行くといつものメンバーが既に夕食会兼飲み会を始めていた。

「ナオミ、遅いわよ。もう我慢出来なくて、乾杯しちゃった。」

「さ、もう一度やろ!」

 ナオミの頼んだ黒ビールが来るとみんなでもう一度乾杯した。

「ナズドラビー!」

「プハァ。ここの黒ビールは変な甘さがなくて美味しい! これこそビターね。」

 クーッとなっているナオミに演出を学んでいる黒縁のメガネをかけたエヴァが覗き込んだ。

「ナオミ、どうして遅れたの? 新しい彼氏でもできた? いやまさか忘れてたとか?」

「ナオミならありえるな。」フフッと笑いながら「ナオミらしい。」と付け加えたのは、ヴァイオリン弾きのエキスパート、ペトラ。

「ナオミはちゃんときたじゃないの〜。アホーイ! でも、遅れたから一杯づつゴチね。」とウインクしたのは、ブランド物セカンドショップで働くおかまのデイヴィッド。女の子たちのなりよりもエレガントなのは言うまでもない。みんな高校時代の友人だ。ナオミは早速、地下鉄での出来事を話した。

「あは、いかにもナオミらしいね。でも、気をつけないと。最近は突然刃物で襲ってくる奴とかもいるらしいよ。触らぬ神にたたりなし。」

「怖い。気をつけないと。」

「かっこいいー。でも痛そー。だから、さっきのゴチの発言撤回!」

と高々と上げた腕の向こうから、ペトラとエヴァの強い視線をデイヴィッドは感じてペロンと舌を出した。

「さて、ご注文は決まったかな? ウチの有望なご贔屓さん?」とどデカイ図体に真っ黒なあごヒゲの笑顔が可愛いマスターがやってきた。今日のオススメと書かれた黒板の横から真っ赤なエプロンに描かれたチェルトが覗いていた。ナオミは少しドキッとしたが、マスターの笑顔は十分にそれを癒やすだけの力がある。

「今日のウトペンカとトラチェンカは伝統的な新鮮さのうまさ。それにライトなディープフライドのサクサクブランボラーク。オッと、ちょっと漬けのグリーン・ヘルメリンもいいぞ。」

「なんか、よく分からないけど、一つずつ。」エヴァがクールに言った。

「それだけ?」マスターはおどけている。

「いちおう私たち年頃なんだから、それなりに体型気にしているの。予算もあるし。」ペトラがみんなを見てよと目で訴えている。

「じゃぁ、レディース・サービスしておくか。」

「なにそれ?」 ナオミはちょっとお腹が空いていた。大盛りかディスカウントか…。

「いや、チェコの伝統的なお母さんたちは、みんな恰幅がいいからカロリー高めにしておこうと思って。ハハハ。」

「ひどい、自分の好みで言わないでよぅ。」デイヴィッドが声を上げた。

「あ、ビールをみんなにもう一杯ずつ。」ナオミは人差し指をあげた。

「お嬢さん、実はビールが一番カロリー高かったりして…。でも気にしない。飲んで飲んで! ま、昔からビールは飲み物でなく食べ物だってこの国では言っているからね。」マスターはハイハイと気前がよかった。他のお客の注文を取りに行く途中で振り返った。

「うちのお得意さんには特別なもの持ってきてあげるよ。毎度あり〜。」

「いっつもあんな感じ〜。調子がよすぎない?」フンと笑いながらデイヴィッドが肩をすくめた。ナオミには黒ビールの泡がヒゲのように付いていた。きゃははとエヴァとデイヴィッドが笑っていると、突然ペトラが泣き始めた。少し残っているビールのグラスを持った向こうの顔には大粒の涙がこぼれている。三人が声が同時にこだました。

「どうしたの?」

 ペトラの泣き声が引きつっている。彼女はビールと一緒にもう一方の手で携帯の画面をみんなの前に刺し出した。

『君とは終わりだ。もう会わないでくれ。』エヴァが棒読みした。

「誰と付き合っていたの?」ナオミがペトラを覗き込んだ。

 ペトラはどこか気品のある金髪のお嬢様だ。でも、鼻高々で近寄りがたい嫌味な感じなんて全くない。むしろ、その素直な感じが魅力の一番大人っぽい娘だ。しかし、ぐずぐずの泣き顔からはそのペトラは想像できなかった。

「あは、若い指揮者だったんだ。そいつ、自分が他のところに行くからあなたはもう用無しってことか。ありがちなシナリオね。」エヴァの分析は冷静、いや冷徹でもある。

「まさか、初めてのカレ〜なんて?」デイビットが甲高い声でおどけて見せたが…。ウワーンとペトラはさらに泣き声をあげてビールを前に掲げたままナオミに寄りかってきた。ナオミは二人と目を合わせたが、どちらもどうしようもないという表情を見せている。

 スッとペトラの持つ空に近いグラスが泡の綺麗に立ち上がる新しいビールに入れ替わった。透きとおった金色のピルスナーだ。

「ほら、失恋も人生の大事な1ページ。君の光っている歴史のひとつだよ。相手がどうであろうと、君が真剣だったのなら、それはこれからの君次第でいくらでも素敵なものに変わるはずだ。」

「マスター。」エヴァが目をパチクリさせた。「そんなセリフ、どこで仕入れたの?」

「いや、俺だって伊達に歳をとっているわけじゃないぞ。己の苦い経験を若者にアドバイスして、トラディショナルなものを守り、新しいメニューを考える。少し食べ物をお腹に入れて。ほら、美味しいものを食べると悲しみも怒りも少しは落ち着くだろ。」

 テーブルには頼んだ物が揃っていた。美味しそうだ。が、見慣れない皿が一つ混じっていた。

「この黒いツルツルの物体はなあに?」ナオミが聞いた。

「あれ、ナオミちゃんならわかると思ったけど?」マスターはきょとんとしている。

「まさか? おにぎり?」

 マスターはウンウンと首を縦に振っている。エヴァとデイヴィッドは早速手にとった。クンクンと匂いを嗅いだのはデイヴィッド。

「なんだか海の匂いがする。」

「すんごいツルツルでまんまる。」確かにそれはソフトボール程ある大きい球体だった。ナオミもこんなまんまるなおにぎりを見たのは初めてだ。おとうの作るおにぎりは、いつも三角形だった。マスターはフフンと得意げだ。ベソをかいていたペトラも不思議そうに見ていた。

「食べてもいいかしらん?」デイビットが聞いた。が、マスターは首を横に振った。

「どうして?」不満そうなエヴァ。

「うむ。それは、新しいデザートなのじゃよ。だから最後に…ね。」とナオミにウインクした。

 ま、まさか…。ナオミは嫌な予感がしてつい声が出た。 

「たぶん、最初に食べたほうがいいと思う。」とナオミが言った。「だって、美味しかったらいいけど、そうじゃなかったら…。つまり、デザートとして食べたらもうリカバリーできないでしょ?」 

 みんなそれぞれ黒い球体を持っていた。確かに外見はおにぎりと言えないこともない。 しかし…。

「じゃあ、1、2、3で食べよう。美味しいんだよね?」とナオミがマスターに聞いた。

「たぶんね。俺は食べたことがない。でも、うちきっての料理人が作ったんだ。ナオミに味見させてみろって…。ウビジーメ。」

「アイディアが爆発したのかもしれないけれど、そのまま味も木っ端微塵になっていないといいんだけど…。」ナオミはマスターをちらっと覗き込んだ。

「1、2、3。」みんな一斉にかぶりついた。口の中には、驚き、哀しみ、絶句、落胆が一度に来て広がったようだった。

「うわ、ご飯の中にアイスが…。」

「私のは、マンゴとキウイが…。」

「なにこの緑色? 渋い!…って抹茶?」

「もう、フォンダンショコラじゃないんだから!」

 マスターは、クククくっと肩で笑っていた。

「人生には、失敗して悩むことのほうが多い。その経験を糧にすることが地盤を固め、新しいものを生み、より高みに進むことができるんだ…。うちのメニューのように。だよね?」とナオミにウインクした。

「わかるけど、まずいものはまずい。この組み合わせのセンスはどうかと思うよ。探究心の大胆さは評価するけど。」苦笑いを浮かべてナオミは思わずビールを口にした。ペトラは泣いているのか笑っているのかわからない表情だったがうなづいていた。 

「他のお皿がさらに美味しくなるわね。」と冷静なエヴァ。確かに、目の前の皿がいつになくうまそうに見える。

「実験台のギャラは高いのよ〜。」と雄叫びをあげたのはデイヴィッドだった。ペトラの涙とみんなの笑いがパブの中の喧騒とかき混ざった。


 ペトラの失恋話もひと段落したところでナオミの今日のデートのことに話が回ってきた。

「へー、イケメンの司書ね。しかも、おとぎ話が専攻だなんて。なんかロマンチックじゃな〜い?」デイビットの目が輝いている。

「どちらかというと、エヴァにぴったりなんじゃないかしら?」ペトラも他人事だとあっけらかんとしている。

「でもそれなりにおしゃれよ。」とナオミはおどけて見せた。

「ちょっと、 どういう意味よ?」いつもザクッとしたものを着ているエヴァが反応した。 

「ねえ、おとぎ話といえばだけど、チェルトとかエンジェルって本当にいると思う?」とナオミは自分の親友たちに恐る恐る聞いてみた。みんなの反応は早かった。

「チェコのおとぎ話には必要なキャラクターというか欠かせない登場人物ね。そう、ボドニークも。」台本を書くようなエヴァの答え。

「子供の頃は信じてたわ。ミコラーシュの時、チェルト怖かったもん。」

「でも、それはポハートカ。おとぎ話よ。サンタクロースと同じ。」とペトラの答えに呼応するエヴァ。

「私は…、」とナオミが口を開き始めるや否や

「私はいる派。その方が素敵よね〜。おかまだっているんだから。」

 ぎろっとみんなに睨まれたデイビットは投げキッスで返したが、その目の前に鷲掴みにされた次のビールのジョッキの塊がワイプした。

「マスター、チェルトっているわよね〜?」とデイヴィッドはその運んできた腕に絡みついた。

「おい、こら。なに? そりゃぁ、この国にはいるだろう。チェルトは俺たちにとって一番身近な存在だ。チェコ人の心だ。そうじゃなきゃ、うちの商売がというか、看板が成り立たない。」当たり前だろうという顔をしている。

「商売といえばぁ、最近は、ミコラーシュも商品化されているみたい。」 

「どういうこと?」とペトラが聞いた。

「1軒いくらで回るんだって。ほら、今までは、みんながというか、有志同士で知り合いの子供のいる家を回ったり、希望を募ったりしていたでしょ、行く方も訪問される方も楽しんでいたのに。ねぇ。」デイヴィッドは喋りながら自分の指先のネイルを見ている。

「今や、おとぎ話までカネカネカネか。」エヴァがため息をついた。

 そうだ! とナオミが口を開いた。

「去年だったかな? うちのお兄ちゃんがミコラーシュ、おかあがエンジェル、私がチェルトをやって、何軒か回って家に帰ろうとしていた時に、知らない人から突然声をかけられたの。頼むからうちに来てくれないか?って。子供が待っているんだって。」 

「で?」

 ウトペンカのソーセージを切りながら、ナオミは話を続けた。

「二つ返事でOKしたわ。予定してた人たちが来られなくなって、街に出て徘徊しているミコラーシュたちを探していたんだって。だから、その人の家に行ったの。怖がった子供がとっても可愛かった。本当に子供の頃は純粋ね。」

「素敵なハプニングね。」エヴァは切られたソーセージを口に入れた。

「で、そこのうちの人たちもすごく喜んでくれたんだけど、帰りにコレって、お金渡されそうになったの。」

「いくら?」ペトラは酸っぱいソーセージに目を細めながら聞いた。

「2000コルナ。」

「2000!ちょっとぅ、ふざけないでよ。ここの飲み代2回以上は払えるじゃないのう?」デイヴィッドの目がつり上がっている。

「もちろん、そんなのいやだった。お金のためにやったんじゃない。私たちは子供の嬉しい気持ちとあの怖がった顔で十分だった。ミコラーシュと天使とチェルトが忘れずに来たんだって。君のこといつも見ているんだよって。」ナオミの瞳はどこか潤んでいるように見えた。

「で?」

「もらったのは、気持ちだけ。」

 マスターが嬉しそうにしゃがんで割り込んできた。

「よし、その心意気に乾杯しよう。この一杯は俺のおごりだ!」

「ナズドラビー!」みんななんだか暖かくなっていた。

「やだぁ〜。本当にチェルトが出てきたらどうするの〜?」とデイヴィッドがおどけた。

「怖くないわ。だって、私たちはきっと友達でしょ?」ペトラが明るく言った。

「もしかすると、私たちの良き理解者かもしれないわね。」とエヴァ。

「素敵。そうだとすごく嬉しいね。」

 ナオミはみんなが本当にそう思っていることを祈った。空のジョッキを持ってカウンターの方へ立ち上がったマスターを見ると、彼はみんなの方に振り返ってパチンと音が聞こえるくらい大きくウインクした。 


 「じゃあ、またね。」時計はもう少しで日が変わる時間を刻んでいた。

ナオミの住んでいるアパートは旧市街から歩いて12〜3分程のブルタバ川を渡って少し坂を登ったレトナーという地域にあった。街の中心から近い割には静かな街並みで便利が良く人気のエリアである。建物自体はアールデコ調、共同の入り口は古臭いままだが、中に入ればそれなりの歴史を感じさせる雰囲気がとても気に入っていた。エレベーターのない3階(日本でいう4階)の3LDKに3人の若い住人が部屋と家賃をシェアしていた。一人は草食系男子で宗教学のなりたて大学講師。近づきがたい人間ではないし、大学の調べ物で質問をするとそれなりに真剣に答えてくれる。しかし、どこか人間の種類が違うというか…。もう一人は、いつも部屋にいない。広告デザイナーと言う肩書きだが、毎日、毎晩どこかの女子と飲み歩いているタイプで、たまにいるかと思うと、だらしない格好で部屋に閉じこもりっきり。聞こえてくるのは大きないびきだ。そんな連中となぜシェアしているかというと、大学が決まり、金銭的に選択肢としては安い寮生活しかないと諦めていたところに、何回か撮影で一緒だったカメラマンからオファーを受けたのだった。彼は結婚するに当たって、ルームシェアーを解消するつもりだった。見に行くと、部屋は広く窓は中庭に面していて静かで日当たりもいい。もちろん、共同の部分はあるにしても4人部屋の寮生活よりは格段に快適だ。予算オーバーではあったが、カメラマンは大家さんと話してくれて、住居の清潔さをきちんとみるという条件で、家賃をいい感じで割り引いてくれた。知らない男たちとのシェアだったが、それぞれが、プライベートには口出ししないということで以前から了解があるというカメラマンの話は本当だった。 

 入口の扉を入り、小さなホールで靴を脱いでリビングのすりガラスの入った両開きの扉を開けると、珍しく2人がソファーに座ってグラスを傾けていた。

「おう、ナオミ、おかえり。」とデザイナーのトマーシュがグラスを上げた。「美味しいワインをもらったんだ。ちょっと味見しないか?」 

 向かいあって座っているアダムは、これいけてる風な表情で相づちしながらナオミを見た。

「今日のデザイナー会議で、俺のポスター案が通って責任者を命じられた。」なんだかいつもより素直で嬉しそうだ。

「おめでとう!」と言いつつも、いつにない雰囲気に少し戸惑ったが、空のグラスに美しいグラデーションの赤ワインを注がれたナオミは、くるくるっとワイングラスを回して匂いをかいだ。 

「へぇ〜。」と言ってひとくち口に含むと、芳醇な味と香りが口の中から鼻に抜けた。「美味しい! もう一度おめでとう。」と3人で乾杯して高い天井にこだました音がそんなぎこちなさにヒビを入れた。

「でも…、」

「でも?」二人はハモってナオミを見た。

「どうしたの? 打ち上げかなんかなかったの? 担当祝いとか。たくさんいるガールフレンドと2次会とか、普通なら…、」と言いかけたところで、コホンとトマーシュが咳払いをした。

「いや、いつもの俺ならそうかもしれない。でも、初めて責任を持たされたんだ。そう、いわば、デビュー作になるわけだ。最初が肝心だ。一次会で引き上げてきた。」嬉しさと緊張感が目の奥に感じられる。いや、それともいつもみたいに羽目を外したくなかったか…。

「これを成功させて、次の仕事も軌道に載せられれば、ステップアップは確実だ。きっと全てがアップグレードしてさらに素敵な夜の世界、いや、お付き合いが待っている。」

 まぁ、基本的な性格は変わらないようだが、それでも少しは自分をコントロールしているように見受けられる。

「部下は何人いるんだい?」アダムが聞いた。

「いや、部下というか、俺を中心としたチームだ。同期が2人に先輩が1人。そして、そこそこ年配が2人。つまり年上が3人もいる。だから、隙は見せられない。」

「でも、いつもの不健康な行動はバレているんだろ?」

「ああ、多分。でも、この世界は最初にセンスありきだ。そして今、新しいことが俺に問われている。」

「新しいって?」ナオミは二人に目線を送った。

「統率力や牽引力、みんなの意見を吸収しながらベクトルをまとめて同じ方向に不満なく向かせること。」アダムはキッとワイングラス越しにトマーシュを見つめながら薄笑いを浮かべた。ゴクッとつばを飲むトマーシュの緊張した喉の音が聞こえたようだった。

「見た目よりも真面目だったのね。」とナオミのあっけらかんな言葉に二人は吹き出した。

「でも、やりがいはありそうだね。作品として残るのならなおさらだ。同居人として応援する。」再び3人でチーンと乾杯した。なんだか今日は2人を見直した。 

「で、ナオミちゃんは、友達と飲んでたの?」

「ええ、いつものところで。失恋話とかいろいろ。そうだ、チェルトがいるかいないかっていう話もあった。」ナオミはまたなんとなく同居人に話を振ってみた。

「チェルトって、あのチェルトか?」トマーシュがナオミを見つめた。

「ハハハ、いるけどいない。つまり、俺たちの心の中、そう、おとぎ話の中にはいるけど、実在はしないな。ミコラーシュやサンタクロースをみればわかるだろ? 俺も小学校2年生の時までは信じていたけど、ある日、親父がこっそり扮装しているのを見ちゃったからね。」

「うん。アダムはどう思うの?」

「うーん…。宗教学的には、神が存在するわけだから、悪魔もいる。ただ、」

「ただ…?」

「基本的にはそれは対局であって、チェコのおとぎ話のような関係ではないかもしれない。僕的にはいわゆる子供の頃からのチェルトの話、すなわち、チェルトが庶民のそばにいて見守っているというか、悪い奴が出てきたら、そいつをペクロ(地獄)に連れて行こうと知恵を働かせているっていうのが…。」

「なんだ? お前は、硬いだけのつまらん男かと思っていたが…。いや、逆説的に言うとだ、宗教学の講師がそんなこと言っていいのか?」トマーシュはボトルに残っているワインをアダムのグラスに注いだ。 

「いや、こういうことだ。悪魔が人間をそそのかして悪いことをさせているという人たちもいるが、そうではなくて、実はそういうこと全ては人間の欲求や憎悪から出ているのであって、それを悪魔が嗅ぎつけてくる。だから、聖職者の中にも悪い奴はいるんだよ。」

「なんだかわかりやすいが、結局どっちなんだ?」

「だから、神がいればいるよ。」

「ナオミちゃんはどう思うのかな?」とアダムが問いかけた時にすくっとトマーシュが立った。

「明日の朝の会議の準備をしないと。方針演説だ!」という声にナオミのいると思うというささやきはかき消されたが、アダムは聞いていたようだった。

「うん、もしいたら、それはそれで素敵なことかもしれないね。」と言いながら、アダムも立ち上がった。 

「アダム。まぁ、ないと思うが、わからないことがあったら、ノックしてもいいか?」とトマーシュが自分の部屋の扉の前に立ったアダムに聞いた。

「いつだっていいよ。」と言って、アダムは部屋に入っていった。トマーシュもナオミに軽くうなづいて扉を閉めた。

 ナオミは残ったワインを飲み干して、フウと軽くため息をついたが心のどこかに温かさを感じていた。今までいつもはみんなバラバラな他人付き合いで冷たいのかなと思っていたが、今日はなんだか家族みたいなつながりがあるようだった。それこそひとつ屋根の下みたいな。 


 パチンと部屋の電灯のスイッチをひねった。昔からの白い陶器製で回して入切できるやつだ。高い天井からぶら下がっている裸電球は、がらんとした広い部屋を照らすには役不足ではあるが、慣れればそれなりだ。煌々と明るい必要はない。部屋にある大きめの窓にうっすらと月明かりが差しているのが二重ガラスのサンに感じられる。と携帯が震えた。おかあだ。

『もう寝るね。おやすみ。』

 ナオミはすぐに打ち返した。

『いま、おうち。私もこれからシャワーを浴びて寝る。おかあとおとうが大好き。おやすみ。』と送ったら、すぐにハートマークが帰ってきた。 

 共同の洗面所もそれなりに広い。白い立体的なタイルに大きな洗面台。少し歪んで見える等身大の鏡。そして、洗濯機。角に安っぽいアクリル板で仕切られた少し広めのシャワーがあるが、バスタブはなかった。ナオミはそそくさとメイクを落としてシャワーを浴びた。自宅とは違ってすぐに温かいお湯が出てくるのが嬉しかった。フウっとため息をついたら、バシャッと水しぶきが上がった。キャッと小声をあげて、向かいの鏡を水滴でいっぱいのアクリル越しに見ると、そこにはあの羽根が映っている。自分はチェルトとエンジェルのハーフとは理解しつつもすっかり忘れていた。そう、びっくりしたはずの羽根のことを。でも、もはや嫌じゃなかった。こいつとはこれからずーっと付き合っていかなければならないんだから。ヨロシクと言ってお辞儀して羽根をパタパタ震わせてみたら、結構滑稽でプッとおもわず吹き出した。でも、まだわからないことはたくさんある。この羽根がこのままなのか、もっと大きくなるのか、それとも…。 

 部屋に戻ってきたナオミは、タオルを巻いたままの姿で窓から深い藍色の空を見上げて中庭の屋根越しに見える星を眺めていた。自分は何者なんだろう。きっと誰もわからない。そう、自分でもなんだかよくわからないんだから…。ふっと目を落とすとニャーと黒い子猫が窓のサンに這いつくばってナオミのことをじっと見ている。まさか…。おとぎ話でいうチェルトの使いじゃないよねと思って、黄色い瞳にウインクしたら、子猫もパチンとウィンクした。ゾクッとして思わず振り返ったが部屋には誰もいない。いる気配もない。また窓を見るともうそこに猫はいなかった。思わず二重窓を開けて辺りを見回したが、その子猫は見当たらなかった。 

「ルチフェールに会ってみたいなぁ。」とこぼしながら窓を閉めた。そして、そろりとベッドに戻ってパジャマに着替えた。部屋の明かりを消して月明かりの中でゴロンと横になって天井を見てぼんやりと考えた。そう、いままでの自分とは違う自分がここにいる。何が違う? 決定的に違うのは、自分はチェルトとエンジェルのハーフと言うこと。黒光りする羽根が生えている。じゃあ、チェルトとどのくらい違う? どのくらいなのか、自分にもよくわからない。そう、まだわからないのかもしれない。ハーフだから、いいとこばっかり受け継いだかもしれないし、逆に悪いところばっかりっていうこともある。いや、もしかしたら、よく混ざっていなくて中途半端だったらどうしよう…。出来損ない? おとうとおかあは、いままでのままでいいよと言うが、気持ちはそうでもフィジカルには違うんだし…。いけない、なんだか天井の高いところで堂々巡りが始まりそうだ。

 ナオミは手を伸ばし壁際で充電している携帯をとってメッセージを打った。

『お兄ちゃん、起きてる?』

 少し間があってから携帯が光った。

『ナオミ、考えすぎていないか?』

 アンディーには自分の心が見えているのだ。

『いつものお前でいれば大丈夫』

『だって、もういままでの私じゃないもん。』

『ナオミはナオミだよ。それは変わっていない。でも、みんな成長することで変わっていく。これはアップデートだと思えばいいだろう?』

『アップデートどころの話じゃないわ。まるで新しいOSよ。』

『自分に飲み込まれてはダメだ。マイナスに考えてはダメだ。冷静になって全てを受け入れる。そして、プラス思考で考えること。たとえそれが負の要因であってもだ。慌てて答えを見つける必要はない。大学に一発で合格した才女だろ。美しさだって平均以上だ。』

『合格したって言っても、第二志望だよ。』

『それもひとつの魅力。完璧なのは面白みに欠ける。』

『ものは言い様ね。』

『行き詰った時は、そこに停滞しないで考え方の視点を変えてみる。 そう、間違えればピンチが取り返しのつかないものになったり、或いは、大逆転のゲームチェンジャーになったりする可能性がある。』

『…』

『どんな時でもお前を応援してくれる人は必ずいる。 俺を含めてね。』

『…』

『とにかく、変化を味方につけろ。そうすれば、開けてくるはずだ。』

『お兄ちゃん…。』

 部屋に差し込む月の明かりが強くなって家族の写真に少し漏れている。ナオミはしばらくそれを見ていた。少し間をおいてからまた携帯が鳴った。

『ずいぶんわかっているようなことを書くってか? いや、恥ずかしながら本当のことを言うと、自分にも言い聞かせながらなんだよ。』 文章の後のスマイルマークからは舌が出ている。 

 ナオミはクスッと笑った。

『ありがとう、お兄ちゃん。』と打つと、おやすみのキスマークと親指を立てたグッドマークが帰ってきた。ベッドに戻って羽毛をかぶるとなんだかとても安心した。目をつぶってハァっと軽くため息を着いた時には深い眠りに落ちていた。 

 窓からさっきの子猫が、首をかしげて覗いていた。


 朝起きると、もう同居人の2人はいないようだった。ナオミの授業は午後からだったので、少しのんびりして近くの喫茶店でブランチをしようと決めていた。朝ごはんとお昼が一回で済む。節約にもなるしダイエットにもなる。アパートからすぐのところにオーガニック8というフランス風の洒落た喫茶店がある。店名のように健康志向を前面に押し出したカフェで今時の若い人たちに人気が出始めていた。店に入ると、中途半端な時間なのにほぼ満席だった。別なところに行こうと今閉めた入り口の扉をまた開けると、チリンチリンとベルの音に混じって声がした。 

「あ、ナオミちゃん、今そこが空くから!」とエプロンをした可愛らしい赤毛のおばさまオーナーに声をかけられた。 

「あのね、あなたをどこかにやりたくないの。」机の上を拭きながら、ナオミのことを見てウインクした。

「は? オルガさん、どういうこと?」 

「あなたがここに来るようになってからお店が繁盛しだしたのよ。あたしは、元を担ぐ方じゃないけど、こればかりは本当なの。」

「そんな…。嬉しいけど。」ナオミは苦笑いをした。不思議なことだったが、確かにそうだった。彼女が空いているレストランやカフェに入ると、いつの間にか混雑して来ることが多かった。 

「なんでもいいから時々アドバイスしてね。よくあるじゃないの、繁盛した途端にダメになっちゃうところ。そうならないようにと思っているんだけどね。忙しくなると、いろんなことに手が回らなくなって内側からじゃ見えなくなっちゃうのよ。だから聞く耳だけは大きくしておかないとねって思うわけ。で、いつものやつ?」

 ナオミがウンとうなづくと、オルガはカウンターの向こうに早足で消えた。すぐにトレイに載せて運ばれてきたのは、マグカップのブラックコーヒーとさらに大きく長いグラスのスムーティーだ。名刺大ほどの紙にはかわいいイラストが描いてある。いちご、キウイ、ほうれん草にブルーベリー、そしてミントの葉っぱ。ブルーベリーの色が強いので、透き通って見えるグラスは紫っぽい。どちらも液体状だが、ナオミにしてみれば、コーヒーは飲み物でスムーティーは食べ物だ。太めのストローをくわえてズズッとスムーティーをすすった。ミントの香りがして爽やかさを感じたかと思ったら、ピリッときて目がさめるようだった。 

「今日のはいつものとは違ってちょっと刺激的でしょ?」とオルガがキッチンの扉のところから人差し指をあげている。 

「この優しいアッリオのアクセント、とってもいいかも。私はすごく好き!」

 半ば実験台にされているようでもあるが、オルガの味覚のセンスがいいのはわかっていた。 

 今日の午後最初の講義は、チェコの人形劇の歴史についてだ。多くの学友はアルバイトとか劇団の練習とか理由をつけて、歴史学とか演劇学の座学にはあまり顔を出さなかった。確かに退屈なこともあるし、読まなければいけない本も想像以上にあった。しかし、ナオミは人生に直接は役に立ちそうにもないことがなんだか大切なような気がしていた。それが、学生の特権にも思えていた。きっとどこかで役に立つことがあるかもしれない。何かを判断するときか、何かを見極めるときか、何かを発想するときか、いつかは自分でも自覚できないのかもしれないけれど、それはまるでスムーティーに溶け込んだ材料の一つとしての風味となるに違いない。ズーっと思いっきりすすったら、急にカーッと熱くなって咳をした。

「オ、オルガさん、これ、よく混ざっていない部分があるかも。」ナオミは涙目になっていた。 

「ごめんごめん。ちょっと急いで作っちゃったから。」

 オルガはアハハと招き猫のような仕草をして台所から顔を覗かせて笑った。ナオミはクションとくしゃみをしながら彼女にグッドと親指を立ててブラックコーヒーをすすった。

 

 17番のトラムウェイをスタロミェスツカー(旧市街)で降りて振り返ると、信号の向こう左側にはルドルフォルムいう有名なコンサートホールがある。そのとい面右側がナオミが学んでいる大学の建物である。観光客をかき分けて交差点を渡り、入口の大きな扉をヨイショっと開けて入り、2階にある200人ほどの中ぐらいの階段教室に着いた。学生はまばらな感じで点在していてナオミは中段窓際に席を取った。講義の長さは120分。淡々と教授が話している。つまんなくはないが、面白くもない。まぁ、どちらかというと退屈だ。教授は時々ジョークを交えてはいるが、もう何年使っているかわからないすり減ったウィットだ。辺りを見回すと、何人かは必死に書き取りをしているようだったが、ナオミにとっては全てが復讐にすぎなかった。優秀な友人たちが来ないのも納得できる。机上にタブレットを取り出して次の撮影の台本を読み出した。4ページ目にスワイプしたところでスピーカーからの音がいつになく大きく教室にこだました。

「ナオミさん。」

 びっくりして目をあげると、教壇には教授と共に知っている顔が。

「ミロシュ!、いえ、ミロシュさん…。」 

「ナオミさん、じゃあ、ちょっと降りてきて説明してくれるかな。今話していたこと…、わかるよね。」と少し意地悪そうに言った。 

「…はい。」と答えて席を立つと、ゆっくりと教壇に行くまでに黒板に書かれた文章をすごい速さで読んで分析した。

「こんにちは。演劇科のナオミです。で、なんでしたっけ?」ナオミは可愛くとぼけてみせた。

「ナオミくん。だから、チェコにおける人形劇の歴史とおとぎ話の関係、そう、登場人物に関しての考察だ。」ミロシュはしてやったりという表情だが、老教授は何も期待していないと言った面持ちだ。

「えーっと。」カエルがあっちを向いたような目をしてナオミはコホンと咳をした。

「それでは、」頭にはすでに大体のシナリオができていた。あとは、どう面白くするかだ。話し出すと自分でも止まらないくらいになった。チェコの伝統的な登場人物の歴史に沿った変化の話から始まり、人形劇場における役者と人形の関わりや、人形アニメーションの話、そう、トゥルンキやブロウチツ、さらに、ベチェルニチェックからは日本のアニメまで発展し、ついにはオタク文化まで。まるで全てが関連しているかのようであった。まぁ、どこまでが本当なのかは話している本人にも確信はなかったが、それまでの澱んだ空気の教室は、笑い声が漏れたりして新鮮で闊達な空気と入れ替わっていた。 

「さて、」とナオミが次のことを話そうとすると、 

「ナオミさん、面白い考察をありがとう。少し求めていたこととは違ったが、君の視点はなかなかユニークだな。」と縁台のマイクを掴んでミロシュが割って入った。

「このまま話が飛躍していくとこの授業中には終わりそうにないね。ところで、その豊富な知識はどこから得たのかな?」ミロシュは片方の眉毛をあげながらナオミを覗き込んだ。

「あ、もちろん、教授の授業と本の選択がいいのと、家が…、いえ、あとはやっぱり興味があるからです。」笑顔と冷や汗を浮かべながらチラッと教授を見ると、彼もまんざらではなさそうにうなづいていた。

「じゃ、席に戻って。これは、僕からのお礼だ。」とチェコのおとぎ話と第された小型本を渡した。ナオミが席に戻って硬い表紙を広げてみると、それは本ではなく本の形をした小物入れで、中には赤いチェルトのキーホルダーとメモが入っていた。 

”授業後にメンサで”  

 

 メンサは学食だ。最近改装したばかりで今までの安っぽい学生会館のそれではなく、まるで博物館にあるインテリジェンスを感じさせる内装、照明を備えてたおしゃれなカフェよろしく学生たちには人気があった。今までより食事や飲み物の単価が若干上がったようだが、それでも街の流行りの店に比べれば十分安かった。ナオミは大きな柱の脇に座っていた。グレーの丸テーブルにはダブルエスプレッソと緑色のライムの載った白いチーズケーキ。しゃべりすぎたのか少しお腹が空いていた。サクッとデザートフォークをケーキに入れて、それを口に運んだ時にミロシュがやってきた。

「驚いただろ?」

 ナオミはすらっとした手を口に当ててモグモグしながら彼を見て軽くうなづいた。対面に座ったミロシュの手には湯気が出ている大きいガラスコップの紅茶があった。

「僕も驚いたよ。昨日の今日でこんな形で会えるなんてね。」講師というよりすでに友人の顔になっていた。

「でも、話は何も聞いていなかった、だろ? 何か別なことに夢中になっていた。いや、それでも、あれだけ話すことができれば優秀。教授のくだらん話以上に面白かった。」

「ありがとうございます。私もびっくりしました。あ、このキーホルダーありがとう。可愛いですね。」

「それね、ほら、腰の部分を引っ張るとUSBフラッシュになっているんだ。確か、2ギガぐらいあったと思うよ。」

「あ、全然気がつきませんでした。ちょうど欲しいなと思っていたんです。」ナオミは恥ずかしげな笑顔でミロシュを見た。

「ミロシュさんのお仕事は、司書だけじゃないんですね。講演や講師としても活躍されているんですか?」

「いや、活躍しているかどうかは別として、僕みたいな専門家って実は最近少なくなっているんだ。そう、おとぎ話の専門家。だから…、」 謙遜しているようだが。

「だから、図書館にいるだけじゃないんですね。」

「そう、その方が、健康的だしね。しかし、」

「え?」

「いや、さっきの君の話、実はずっと聞いていたかった。」

「ありがとう。でも…。」

「そう、半分はハッタリだったとしてもだよ…。いや失礼、ハッタリは言い過ぎか。」とミロシュは声を上げて笑った。

 やっぱり、バレていたんだ。彼は想像以上に頭がいいに違いない。どこかにちょっとした棘も感じる。とりあえず今は嫌じゃないけれど。

「基本的に見えない部分では、大学の教授も政治家も実業家だってどれだけハッタリが効くかということも重要な能力ということだよ。その時はハッタリでも後でつじつまを合わせてくる。そこまで計算しているんだ。退屈な教授の話って単なる知識だけだろ。だから面白くないし、学生の自由な思考が絡んでいく隙がない。」

「あの、私はそこまでは…。」

「ハハ、まだそこらへんは純粋なんだね。失礼。何かいやらしい話になっちまったかな。」

 ナオミは小さなカップを持ち上げてクイッとエスプレッソを飲んだ。

「あの、ミロシュさん。ミロシュさんはどう思いますか?」

「どう思うって?」

「おとぎ話の登場人物のこと。」

「登場人物?」

「ええ。いつもの人たち。ボドニークやチェルト。チェコのおとぎ話やその映画には必ず出てくるでしょう?」

「ああ、伝統的には欠かせない僕らの友人てとこだね。」

「そう、そうですけど、…本当にいると思いますか?」

 ミロシュはナオミの質問に少し驚いた表情を見せた。

「ま、まさか、ナオミちゃんは実在すると思っているの?」

 ナオミは少し慌てて手で口を塞いた。なんだか恥ずかしさがこぼれ出ている。

「いや、いたらいいなぁと思っているというか…。」

「そうか。わかった。」ミロシュはクスッと小さく笑った。「その子供らしさ、すなわち、ナオミちゃんの見た目と釣り合っていないところに魅力があるんだ。」

「どういうことですか?」

「その美しい大人びた容姿と対照的な子供のような純粋な心。そこだな。」目の奥が輝いているようだ。

「茶化さないでください。私はミロシュさんが専門家としてどう思っているのか聞きたかっただけです。」

 ミロシュはナオミが少し機嫌が悪くなっているのを察した。またどこかに行ってしまうかもしれない。きゅっと真面目な顔になってコホンと咳払いをした。 

「僕の見解はこうだ。少なくともチェコ人の心のどこかに彼らは存在する。しかし、現実にはいない。いや、もっと言うならば、いて欲しいとは思うけど、いないんだ。残念ながらね。」

「ですよね。」ナオミは少し遠くを見て相づちを打った。

「何だか悲しそうだね。」ミロシュはナオミの目が潤んでいるのを見逃さなかった。本当はいるのになぁと言ったナオミの声は彼には聞こえていなかった。

「ミロシュさん!」何人かの学生が彼の後ろに立っていた。

「やあ。」と立ち上がったミロシュたちからの漏れてくる話を聞いているとどうやら彼の後輩らしかった。 

「ナオミちゃん、じゃまた。今度はもっと落ち着いたところでね。」とウインクしてミロシュは彼らとメンサを出て行った。   

「まさかデートじゃないでしょうね?」

「いやいや。」なんて声をついでに落としていった。

 ミロシュは素敵な人で惹かれるところはあるけれど、なんだか100%好きになれないなぁとナオミはチェルトのUSBキーホールダーを指先で弾いて自分のカバンの取っ手につけた。そして残ったチーズケーキを咥えたら、今度はどかっと目の前に座ったのはエヴァだった。

「なんでわかんないのかなぁ、ロートルめ。頭が固すぎるんだよ。」メガネの縁をつまみながら遠くを見ている。彼女の学んでいる校舎は専門が違うので少し離れていたが、居心地のいいこのカフェに来ることが多かった。

「どうしたの?」 

「私の書いた台本が面白くないって。」

「なにそれ?」ナオミの目はキョトンとしている。

「今期の卒業制作短編映画の台本。その第1回のコンペがあってね。応募は7つで、選択されるのはそのうちの3つ。そして、その予告編が撮影されて、そのうちから1つが表彰後に本編として制作される。今日は、そのプレゼンで教授たちがそれぞれに意見を述べるわけ。それを考慮して本を修正して再提出。その後、まずその3つが選ばれる。」

「じゃぁ、チャンスはまだあるわけだ。」

 エヴァはメガネを外して少し曇ったレンズをナオミのチーズケーキの皿の下に引いてある紙ナプキンをとって拭いた。メガネをかけないエヴァはなかなか精悍な顔をしているが、負けず嫌いの表情に涙がうっすらと見えた。

「何年やっているんだとか、よく大学に合格できたねとか、こんなつじつまが合わないこと中学生でもわかるだろうとか…。ひどい…。ナオミに主役やってもらおうと思っていたのに。」

 ウッウッと静かな嗚咽をあげて目頭を抑えているナプキンがみるみる濡れてきていた。エヴァがこんなに感情的になったのは初めてだ。

「でも、まだオミットされたわけじゃないじゃないでしょ。」

「時間が、時間がないわ。」

 ナオミにはわからないこともたくさんあったが、エヴァのセンスは悪くないと思っている。きっと何かが不足しているだけなのだ。

「エヴァ、こんなこと言うのは偉そうに聞こえるかもしれないけど、あなたには才能があると私は思う。もっと自信を持って自分の意見や考えを押し通さないと。」

「だって、こんなのは前例がないって。」

「え? だから素敵なんじゃない? 新しいものが生まれるときにはそれなりの…」と言っているところに、何かが飛んできて座っているすぐ脇の柱に当たってテーブルの上にガチャンと落ちた。それは、ツルが切れたヴァイオリンの弓だった。ナオミとエヴァがびっくりしてその弓が飛んできた方に視点をゆっくり移動させると、そこにはペトラが天井を突き抜けるぐらいの勢いで立っていた。

「ひどい! ひどい! こんなに死ぬほど練習したのに。」

 彼女は突然アーンと大声で泣き始めた。

「最後にあいつを感動させようとひたむきだったのに。”君は僕の指揮を無視しているね”だって。そんなの嘘よ。ひどい〜!」ペトラはよろよろと前進して背もたれのない椅子にぺたんと座って縦肘をついてわんわん泣いた。 

「あら、お嬢さん方、そんなに取り乱しちゃってどうしたの?」と次にやってきたのはデイヴィッドだった。いつものようにおしゃれではあったが、びしょ濡れだった。そこここのボタンが取れたりして争った跡まである。息もいつも以上に上気している。

「教授に理解されないのよ。」涙声のエヴァ。

「ひどい、あいつったら、ひどい!」アンアンと泣くペトラ。 

デイビットが二人からナオミに視線を移すと彼女は肩をすくめて苦笑いをしている。それを見て安心したのか、デイビットの目からもボロボロと大粒の涙が溢れてきた。

「私も今日はひどい仕打ちにあったのぅ。同じ職場で働いているお姉が、あんたみたいなおかまとは働きたくない。店が汚れるとか言い出して喧嘩したのよ。あっち行けとか言って突かれたわ。だから、バカって言ったら、花瓶の水を頭からかけるのよ。だから取っ組み合いの喧嘩になってぇ…。」

「だ、大丈夫?」ナオミはゴクンと唾を飲んだ。

「もちろん店長はわかっている。誰がいちばん売上がいいかって。誰がいちばん顧客に好かれているかって…。」ナオミのいるテーブルは鳴き声の三重奏になって、まるで見世物のように、いや、周りの学生や教授たちの冷たい視線に囲まれた。

 ガチャッとメンサの扉を開けて入ってきたのは、白髪で体格のいい警備員だ。コツコツとナオミたちの方へ近づいてくる。ナオミはすくっと立って目で挨拶をし、もう行きますからとジェスチャーをした。彼は、ウンウンと手をあげとくるっと向きを変えて出て行った。

「みんな、外の空気でも吸いに行こう! ほら、いくよ。」

 ナオミはみんなを起こしてハイハイと後を押した。建物の出入り口の扉のところには、さっきの警備のおじさんがいた。

「なんだか迷惑かけちゃって。」とナオミは一礼した。彼はナオミの背中に手を当てて優しく言った。

「本来、あそこは誰が居てもいいんだよ。学生のうちはいろいろあるだろう。ただ、静かにいたいという人もいるんでね。ありがとう。」 

 ナオミはニコッと笑ってみんなと回転扉から外に出た。初老の警備員は笑顔で送りながら自分の手に感じたものがなんだったのか不思議そうに見ていた。

 建物を出て目の前の石畳の交差点をわたり、小さな広場を超えるとブルタバ川に沿ったプロムナードがある。正面にはプラハ城とビート教会そびえ、そして、左側奥にはカレル橋が見える。川には大小の遊覧船が何艘かゆっくりと行き来していた。柔らかい日差しの外の空気を吸ったせいか皆の気持ちはひと段落したようでもある。

「ふう、なんだか今日はみんなの災難がまとまってきた日だね。」

 エヴァがバイオリンの弓を川に向けてぶらぶらさせている。

「いいなぁ、ナオミには悩みがなくて。」とペトラは鉄の手すりに寄りかかって色づいているリーパの葉っぱを見ていた。

「私にだって悩みはあるよ。それは、みんなのよりもっと大きいかも。」

 誰もが、えっ?と振り返った。ナオミはハァと大きなため息をついた。

「言わないだけ。っていうか、まだ言いたくないの。」

「強いのね。」エヴァが感心している。

「そんなんじゃないんだけど…。でもあまり溜め込むのもどうかな。ほら、なんだかすっきりしたでしょ。みんなで泣いて。」ナオミはクスッと笑った。

「ハハハ、まるで漫画みたいだったわよねぇ。」デイヴィッドもやれやれという感じで背伸びをした。 

「確かに。」エヴァがうなづいた。と、ナオミの携帯が鳴った。CTチェコテレビと表示されている。

「ナオミ、どこにいるの? まさか、忘れていないでしょうね?」助監督のテレサだった。慌てている。

「今日は何もないと思うけど…。」

「スケジュール前倒しにしたナレ取りがもうすぐ始まるんだけど。メッセージ見たの?」

 慌ててメッセージを確認すると、確かに未読がひとつあった。

「今からすぐに行きます。」と切ろうとしたところで電話が叫んでいた。

「ちゃんと読んだ? 今日はイレギュラーだから場所はCTのスタジオじゃなくて…」

 えっ?とナオミは慌ててもう一度メッセージを確認した。

「わかりました。ロズハラス(ラジオ局)ですね。すぐに行きます。待っててね!」

 電話を切ると黄昏ている3人に向き直った。

「ごめん、急用。またね。みんな元気出して!」とナオミは劇場の横から出てきたトラムを追いかけるように走って行った。プラハ城をバックにみんながナオミの後ろ姿を見送った。

「さてと、台本の手直しでもするかな。気楽にいこう気楽に。あ、そうだ!」と何かに気がついたようにエヴァは薄笑いを浮かべたかと思ったら、弓をデイヴィッドに渡してカレル橋の方に歩き出した。 

「ペトラ、新しいドレスが入ったんだけど見にこない? 今度のコンサートにどうかと思ってとってあるの。サイズも多分ぴったりなはず。オケの前でソロなんでしょ? シックだけどショックな感じのブランドもの。きっと気にいるわ。高くないし新品同様よ。」デイヴィッドはヴァイオリンを弾く真似をしてペトラを誘った。ブゥルタバ川を背にゆっくりと二人が歩き出すと、遠くの汽笛が夕陽にこだました。



 トラムの停留所イタルスカーから少し下るとラジオ局だ。入り口のガラス扉の前に助監督のテレサがそわそわして立っていた。ナオミを見つけると手を振ってホッとしたようだった。

「5階の13番スタジオよ。入って右のエレベーターで行ってね。はい、これはゲストカード。」カードホルダーをナオミに渡すと早くと大げさにゼスチャーした。いかないの? とナオミが首をかしげると、

「もうすぐ、プロデューサーが来るの。」と道路の方に掛けて行った。

 ガラスの自動ドアを入るとチェコテレビと同じようなゲートがある。ピッとカードをかざして回転バーを通って右に曲がるとエレべーターホールがあった。エレベーターは2機、いや、3機あった。あれ?

 右側のは普通のシルバーな扉の中型機。その左側は…。四角い穴の中を1人乗りのカゴというか、箱が上に移動してる。でその幅の壁の更に左側にもも同じ穴があり、そこのカゴは下に移動している。とにかく、扉がなく、とめどもなく右左で上下に移動しているのだ。あっけにとられていると、下に移動している方から足が見えてきた。そのカゴの中には掃除のオバさんらしき人が乗っている。と思ったら、ひょいと降りてきた。なんだ、掃除用かと思っていたら、次のカゴ、次のカゴと人が降りてきた。じっと見ていると、声をかけられた。

「ナオミさんですね? こんにちは、ロズハラス(ラジオ)のエンジニアのホンザです。これから録音スタジオに行くんだよね。」 

「はい、あのこれ…私も乗っていいんでしょうか?」とカゴを指さすと彼はケラケラ笑い出した。

「もちろんだよ。上に行くカゴに乗っていけばいい。これね、改装した時に新しいのにする計画だったんだけど、勤めている人たちが残してくれって懇願したんだ。面白いだろ?」

 ナオミは目を輝かせていた。

「もう時間だよ、僕が先に行くから、同じように乗って。カゴは止まらないから躊躇しないで乗ること。」と彼は、ピッタリのタイミングで歩いて乗った。 

「いいかい、穴と穴の間の壁に数字が書いてある。それは次の階を示しているから、5の次に降りるんだよ。5階で待ってる。」と言いながら天井に消えていった。面白い…。ナオミはそろりと進んでひとつ、ふたつやり過ごしてタイミングをとってヒョイっと乗って180度方向転換した。グラグラと揺れながら上昇しているかと思ったらすぐに視界がシャッターされて1という数字が通り過ぎたかと思ったら、1階の地面が見え、止まらずに上昇していく。早くも遅くもない。でも、もたもたしていると挟まれそうでもある。ゴトゴトと上に進む1人乗りのトロッコか。なんだか楽しい。まるで昔の漫画に出てくる機械の一部になったようだ。5の数字が過ぎると、ホンザが待っていた。 

「ほら、降りるよ。」と手を差し伸べてくれた。

「キャ。」と思わず声をあげて飛び降りた。ホッとする。

「最初はみんなそうなんだ。」とニコニコしている。「でも、これいいだろ? 待たなくていいし。一人乗りだし。オナラをしても気を使わなくてもいい。」

 確かにそうだ。でも、挟まれそうでちょっと怖い。

「慣れれば大丈夫だよ。さ、13番スタジオはこっちだ。」

重い扉を開けて入るとそこはサブコンでソファーにディレクターのクリシュトフと相手方のルカーシュが座って打ち合わせをしていた。

「アホイ」とナオミが声をかけるとクリシュトフはギロッと冷たくナオミを見てからサブコンの時計を指差した。

「5分遅刻だ。俺のカプチーノは? 普通、お詫びに何か用意するだろう? 今日はこの録音スタジオをレンタルしているんだ。自分たちのところを使うのとはわけが違うぞ。」

 なんだかとても怒っている。ナオミはルカーシュの方をちらっと見ると彼は目をそらしてあらぬ方向を見ている。まずい雰囲気だ。下を見ながらミキサー卓の方に振り返るとクリシュトフが怖い顔をしてナオミの正面に立っていたが、自分の顔の前にミネラルをーターのペットボトルをゆっくりとシャッターさせたらニカッと笑った表情になり肩で笑っている。背中のルカーシュもアハハと声をあげた。

「もう、びっくりしちゃったぁ!」ホッとしたら涙が出てきた。

「俺がこんなことで怒る訳ないだろう。さ、水を飲んで喉を潤して! 新しい原稿があるから一度目を通して。よかったらブースに行って。」

 ルカーシュはナオミよりもひとつ若かったが、役者としての経験が長くそれなりに有名だった。そんな彼のことを会う前は鼻高々な感じだろうと思っていたが、実際は、気さくで息があった。だから、コンビを組んでからの二人のやりとりはいつもいいテンポで時々アドリブも入るような自然な展開を見せていた。

「ナオミ、1度本読みしてみる?」

 うなづいたナオミはすぐにしゃべり始めた。軽快な感じだ。歯切れもいい。

「あ、そこ。そこだけ1拍開けて。で、あとは僕がキューを出すから。うん、OK。」クリシュトフがウインクした。

 二人はアナウンスブースに入り、ヘッドホンをして吊り下げマイクの前に立った。ガラスの向こうで二人が何か話している。タリーランプが光ってホンザの声が聞こえてきた。

「じゃ、いきます。」

 赤いランプがいちど消えて、もう1度ついた。ナオミはルカーシュに目配せをして喋り始めた。そのテンポ、軽快さ、感情の伝わり、わかりやすさ。全てのテイクがクリシュトフを満足させた。ホンザも親指を立てて上出来という表情を浮かべている。彼は立てた親指をガラス越しの2人にむけた。 

 二人がブースを出て戻るとプロデューサーがソファーに座っていた。

「あ、おはようございます。」

「お疲れ様。もう終わっちゃったの?」

「全部一発オーケーですから。うちの子は優秀でしょ?」クリシュトフはご機嫌だ。

「いや、打ち合わせのついでにウェブ広告の写真とってくれって言われてね。」

 ソファーのテーブルにはデジタル一眼と三脚が置いてあった。

「とりあえず、二人でもう一度マイクの前に立ってくれないか? 何か適当に話してくれる? そうだな、じゃ、ミコラーシュのことなんかどう? もうすぐだし。」 

 二人が再びヘッドホンをしてマイクの前に立つと、すぐに赤いランプが点灯した。クリシュトフは、ホンザに指を回して録音の指示を出した。

「ナオミ、もうすぐミコラーシュだけど、なんか思いである?」

「うふ、私ね、小さい時にはチェルトになりたかったの。」

「女の子なのにチェルト?」

「そう、普通女の子はやっぱりエンジェルだけど、なんでだか、チェルトが大好きだったの。」

「ふーん。でも、ナオミの性格からするとわかるような気がするな。」

「ちょっとぅ、それ褒め言葉? それとも何か?」

「え? あ、いやどちらでも」

「まぁいいわ。でね、普通はミコラーシュ、エンジェル、チェルトが来るのを待っているでしょ? じーっと。そのじーっとが耐えられなくて、両親に頼んでチェルトの格好にしてもらったの。小さな角のある赤いチェレンカをして、炭で顔を黒く染めて、ボロボロの黒い服を着てね。」

「えー? そりゃ掟破りだ。でも、きっと可愛かったんだろうなぁ。ちっちゃいナオミのチェルト。チェルチックだね。」

「自分で言うのもなんだけど、鏡に映った私、相当可愛かったわ。」

「あのね、小さい時は、み〜んなかわいいの。」

「ひど〜い。で、ミコラーシュが来た時にその3人組びっくりしていたわ。だって小さいチェルトが聖人とエンジェルとチェルトを迎えたんだからね。」

「そりゃ奇妙だね。ぶったまげるわ。だって、ミコラーシュが小さい悪魔にこの一年はいい子だったかって聞くんだろ? 矛盾してる。」

「私、何年かそんなことを続けていた。ミコラーシュの日には朝からチェルトの格好をして学校に行ったりしてたんだけど、ある日、やっぱり…うん、」

ルカーシュはパチンと親指を鳴らしてナオミを指差した。

「天使になりたくなった。」

 ナオミは両手で自分の頰を押さえてキャーと言う顔をした。

「そう、どうしてわかるの?」

「そりゃ、ナオミが女の子だからだよ。成長したんだ。可愛くてやんちゃから美しくやんちゃに。」

「ありがとう。でも やんちゃだけ余計よ。」ナオミがベーと舌を出したところでタリーランプが消えた。

「はい。ありがとう。これも録音させてもらったよ。」 

写真を撮っていたプロデューサーが撮ったものを見せてくれた。中にはとんでもない顔をしているものもあったが、それもライブな感じで嫌じゃなかった。


 「お疲れ様。じゃ次回のスタジオ収録まで。」

 そう言ってクリシュトフとプロデューサー、アシスタントのテレサは街灯がついたラジオ局前のゆるい坂を登って行った。

「ナオミはどうやって帰る? 俺はそこのナーミエスティー・ミール(平和の広場)から地下鉄に乗るけど…。」

「じゃ、そこまでいっしょに行く。」二人はゆっくりと坂を下り始めた。

「どお? 大学は?」

「わからない。思い描いていたのとちょっと違うかなぁ。なんか、もっと創造的かと思っていたけど、昔の知識ばっかりほじくり返しているようで。」

「ふうん、つまんないか。でも、ちょっと羨ましい気もするな。」

「なんで?」ナオミは彼を不思議そうに見た。

「いや、ほら、俺たちはいろんなことを台本上で演技したり話すだろ? 役によってはそのためにいろんな調べ物をしたりするけど、忙しくなるとそんなこと言ってられなくなって、ただセリフを覚えただけで本番!ってなったりする。それがとても不安になることがあるんだ。」

「不安に?」

「そう、その役に成りきれてないっていうのがわかっちゃうっていうか。深みを感じさせることができないっていうか。」

「うん」

「だから、何かを学んでいるっていうことは、それが全てにあてはまらなくてもどこかに強みがあるんじゃないかなって思うんだよ。」

「…。」

「イメージの根元がしっかりしてるっていうか、応用が効くっていうか。僕らは専門家ではないけれど、いろんな人にならなければならないし、その心持ちを理解し自分なりに消化しなければいけないだろう。」

 ナオミはなんとなく考えながら歩いていた。

「この前、自分の役を終わって帰ろうとした時に、監督にちょっと待ってって声かけられて、3カットぐらい死人の役やってくれない?って言われたの。表情のある死体をって。」

「は? 死体の役?」ルカーシュは、ハハと苦笑いした。「やったのか?」

 ナオミはうんとうなづいた。

「でも、なんだか難しかった。もちろん、本来の私の役とは違うから、金髪のカツラかぶって違うメイクをして、あくまでその場限りの一過性の死体なんだけど、バサって布をめくられて、明かりを感じた時、どんな顔つきでいたらいいのか…。」

「確かに、場合によっては喋るよりも難しいかも知れないな。」ルカーシュはニコッと笑いながらナオミを見た。

「いろんなことが僕らの経験になる。面白くなくても、もう少し大学に通うと少し違ってくるかもよ。1年、いや2年くらいかな、とにかくやってみて変わらないようだったら他のところに変わったっていいじゃないか。」

「ありがとう。迷っていてもダメね。元気出てきた。」自分では納得していたつもりだったが、ルカーシュの言葉はナオミを力付けた。

「いや、こちらこそ。今日の収録楽しかったよ。ナオミといると不思議と喋るのが止まらないんだ。これからもよろしくね。じゃあ。」

 彼は笑顔で手を振ると地下鉄の入口の階段をタタタンと降りて行った。ルカーシュは癖のあるやつだと噂されてもいたが、そんなことはこれまで少しも感じたことがなかった。ナオミはゆったりとした坂をさらに下りバーツラフ広場の方に足を進めた。この辺りは交通も激しく多くの車が信号に引っかかっている。プラハで一番の空気の悪いところと言ってもいいかもしれない。ふうとため息をしながら横断歩道を渡っていると、クラクションの音が聞こえた。排気ガスだけでなく騒音も! あーあと呆れながら道を渡り終えようとした頃に、さらにパパーンと言う音と同時に「ナオミ!」という声が聞こえた。えっと振り返ると、車の窓から乗り出して手を振っている人がいる。

「ミロシュさん!」と近寄って車の窓から覗き込むと、信号が青に変わった。

「早く乗って。動かないと。」

 ナオミは、急かされて何も考える間もなく車の助手席に滑り込んだ。

「リベレッツまで帰るのなら、このまま乗っていけばいい。」ミロシュは前を見据えながら運転している。街の明かりとテールランブが顔を交互に照らしている。

「あの、私、図書館に行って本を借りないといけないんです。今週中に読まなきゃいけない本がたくさんあって…。」

「あぁ、あの教授の宿題だろ。全て本だよりだ。悪いとは言わないが量を読めばいいってもんでもないよな。」再び信号に捕まったミロシュは、ナオミに振り返った。

「で、どんな本がご所望で?」

 ナオミはノートの間に挟んでいたメモをミロシュに渡した。彼はさっと目を通すと人差し指と中指にその紙片を挟んでナオミに返した。

「ご希望の10冊のうち4冊はうちの、そう、リベレッツの図書館にあるよ。そして、他の4冊はプラハの国立図書館に、もう2冊は僕が持っている。」ミロシュの赤い照り返しの顔が緑色に変化した。彼はギアを1速に入れて車を旧市街広場の方に向けた。が、すぐに次の信号に引っかかった。彼は前を見ながら右手で自分の顎を撫でていた。

「今日は何曜日だっけ?」

「月曜日」

「ということは、図書館は休みだよ。だから僕はここにいるんだ。忘れてた。」といったかと思うと、さっと携帯を取り出してどこかに電話した。車はトラムウェィの後を追ってカレル橋の袂、旧市街側の狭い建物のアーチをくぐってから一本目の道を右折した。  

「ラッキーだ。空いている。」

 ミロシュは、新市庁舎前広場の路上駐車場に車を滑り込ませた。

「知り合いがいるから、彼に用意させることにした。おいで。」

 二人はプラハ国立図書館 クレメンティヌムに入っていった。裏口とも表口とも見分けがつかないこぢんまりとした入り口の呼び鈴を押すとジーと鍵が開いた。入って行くと、うす暗く広い図書館の受付にはポツンとひとりの男性が立っている。ミロシュは彼に必要な本を告げるとナオミの方に向き直った。

「ここの芸術的な17世紀の図書館は知ってるよね?」

「ええ、でも恥ずかしながら、本とネットの写真だけで実際には…。」

「そうだと思ったよ。ついておいで。今の時間ならもう人はいない。」

 ナオミは早足で歩くミロシュについていった。図書館の閲覧室を抜けて、狭い扉をくぐり、薄暗い廊下を通って、階段を上り下りした。ミロシュが突き当たりの階段を数段登り半ドーム状の扉を開けると、そこにはうす暗い巨大なトンネルのような少し重い空気感が漂っていた。

「ちょっと待って。」そう言って暗闇に彼が見えなくなるとパチンパチンと電灯のスイッチを入れる音がした。すると、奥から手前に明さが迫ってきた。

 ナオミは思わず声を上げた。そこに広がったのは世界で最も美しいとされるクレメンティヌムの図書館である。木の香りと色。天井に広がるフレスコ画。そして、膨大な書籍。その全てが調和してひとつの空間として生きているようだ。まるで広大な宇宙に取り残されたようなナオミにはその息が聞こえるようだった。そして、自分の羽根が背中で震えているのがわかった。今にも開きそうだ。背中にぐっと力を入れた。

「圧倒されるよね。この空気感。色、そして艶。残念ながら、ここは現在、観光名所のひとつとして公開されているが実際には利用はされていない。あ、いや、それだから、保存状態がいいとも言えるが。」 

 苦笑いしたミロシュは何気に萎縮しているナオミに気がついた。

「どうしたのかな、この壮大さに圧倒されたかな? 大丈夫、大丈夫。」と言いながら、ナオミに近づいてきた。ナオミは背中のうづきを抑えるので精一杯だった。ミロシュがナオミの震えを抑えようと彼女の肩に手をまわそうとした瞬間、ナオミは一瞬で自分の居場所を変えた。

「え?」と彼が意思に反して肩透かしをくらい不意をつかれたその時、低く渋い声が部屋にこだました。

「困りますな。」

 図書室の中央にあるいくつかの大きな地球儀の間に黒いタキシード風の老人が立っていた。

「勝手に入ってもらっては困りますな。ミロシュ様。」

 声の方に振り返ったミロシュは軽くため息をついた。

「あぁ、スマンスマン。今日はちょっと有望な学生がいてね。この場所を是非見せてあげたかったんだ。丁度鍵もかかっていなかったし。」

 老人はナオミに視線を合わせて目の奥で笑って軽く会釈をした。

「ナオミさん、ですね。」

 自分の名前を知っている? しかも、その老人の眼差しには自分の全てがさらけ出されているような気がして心臓の鼓動が早まるのを強く感じた。だが不思議と羽根の振動は止まっていた。 

「今日はもう鍵をかけます。またゆっくりいらしてください。ミロシュ様、次にいらっしゃる時は必ずお声をお掛け下さるよう。」低く渋く響き渡る声とともに入ってきたドアまで二人は戻された。

「では。」

 閉じられた扉の反対側からガチャンと大きな鍵のかかる音が暗闇に響いた。

「ふう、いつもあのジジイに邪魔されるんだ。」ミロシュは舌打ちした。 

「だが、ひとつだけお土産がある。」フフッとジャケットの中から出したのは、かなり古い皮の装丁の本だった。 

「ミロシュさん、それ!」

「大丈夫。盗んだわけじゃない。ちょっとお借りしただけだ。まぁ、僕の特権とでも言おうか。これまでにも何冊か…。」

 ナオミは暗がりの扉に振り返った。

「あの人どうして、私の名前を知っていたんだろう?」

「それは、さっきの受付にいた奴から聞いたんだろ、そうに違いないよ。さ、もう頼んだ本の準備ができているはずだ。」

 二人が入り口に戻るとカウンターには本が4冊積み上げられていた。ミロシュがありがとうと本に手をかけると、それを用意した知り合いが彼の手を押さえた。

「ミロシュ、行き過ぎな行動は謹んでくれよ。いくら君が…。」と言ったところでミロシュはその言葉を遮るように言った。

「ありがとう。僕も仕事なんでね。」素早く本を抱えると彼はもう出口の扉に向かっていた。ナオミは彼に軽く会釈をしてミロシュを追った。

 車のボンネットの上には黒い子猫がうずくまっていた。ロックをリモコンキーで外す音がすると、猫は黄色い目をゆっくり開けて車からサッと飛び降りた。彼は、乗れよと顎で示したが、街灯に照らされた建物の入り口に立っていたナオミは首を横に振った。

「明日も授業なんで、リベレッツには帰りません。」

「だったら、アパートまで送っていくよ。」どうぞと優しい仕草になった。ナオミはニコッと笑ってもう一度首を横に振った。

「本のことありがとうございます。すごく助かりました。それと、荘厳な図書室の見学も。一瞬だったけど、なんだか懐かしいっていうか、癒された感じがしました。今日はここから歩いて帰ります。水曜日にはお家に戻るので、その時にそちらの本をピックアップさせていただいてもいいですか?」

 ミロシュはふうんと口を尖らした。

「もちろん、準備しておく。」彼の携帯が唸っている。彼はくるっとあちらを向いた。「ああ、すぐ行く、今近くにいる。そこで待っててくれ。」

「じゃ、これ。」ナオミに4冊の本を渡して車に乗り込んだ。そして不敵な笑いを浮かべて車を発進させた。ナオミはしばらく彼の車を手を振りながら見送ったが、50mも行ったところで誰かを乗せるのが見えた。忙しい人なんだ。 

 

「ミロシュさん、話した娘の写真を持ってきました。素敵な感じの娘ですよ。」

 助手席に乗った若い警官は封筒をかざした。

「いちおう、家族の写真も入ってます。お母さんも美人ですよ。」

 ミロシュはヴルタバ川にかかる橋に車を進めながらライトアップされ正面にそびえ立つプラハ城を見つめていた。

「誰も信じないだろうが。推測の域とはとはいえこれが本当なら大発見だ。しかも、女だ。どうなっているのか俺にもよくわからんが。」

「…」若い警官はミロシュがなにを言っているのか理解できなかった。

「感じるんだよ。すぐそこにいるって。」

 車が詰まって止まった間にミロシュは封筒から写真を引き出して見た。現場での写真。そして、身元から引き出されたデーターによる写真。ミロシュは一瞬目をつぶって大きく深呼吸した。若い警官が彼を覗き込むと、まるで泣き笑いしているような表情で顔がくしゃくしゃになっているように見えた。

「今の今までこの娘と一緒にいたよ。」

「!」

「待っている時間がめんどうくさいな。周りからという手も…。」とミロシュはボツボツと小声で独り言を言った。

「え? なんですか?」 警官は彼が何を言ったか聞き直した。

「いや、なんでもない。それより、ひとつ頼まれてくれないか?」

 車は川を超えて、並走するトラムウェウィを追い越しながらS字の坂を登って行った。


「おも〜い。こんなに重いんだったら、かっこつけないで素直に車で送ってもらうんだったぁ。」

 旧市街広場の隅にあるカフカ博物館。その隣の建物の地上階にある高級中古衣装屋LUXAはもう目の前だった。店の前でタバコを吹かしているデイヴィッドがナオミを見つけて駆け寄ってきた。

「なぁにこの分厚い本。持ってあげる。ひ弱に見えても結構力強いんだからぁ。」タバコを踏み付けて力こぶを作りながらパチンとウィンクした。

「店内においで。この時間はもうお客もほとんどいないし、暇なのよ。コーヒーご馳走するわぁ。」店に入るとバサッと本をカウンターに置いて、カップの準備を始めた。

「ナオミ、ネスプレッソなんだけど、どれがいい?」

「カプチーノの強いやつ。ぎゅっと力を入れたいの。できる?」

「だよねぇ、こんなに重い本…。じゃ、ベースをリストリットにしてと…。」ウンウンとうなづきながら、シュシューッとミルクを温めた。

 セカンドハンドの店とはいえ、高級な感じが漂っている。そのほとんどがブランド品だ。ダークでツヤのあるフローリングの店内をコツコツ歩き回ると素敵なものがたくさんある。

「ねえ、これってみんな本当に中古なの? 新品みたい。」

「全部そうよ。うちは、厳選しているっていえばそうだけど、それでも値段は新品より30パーセント以上は安いはずよぅ。」

 確かにそうかもしれない。しかし衣服もバッグも靴も普通の学生が気軽に買える値段ではない。たとえ中古でも。

「ちょっと前まではね、こんなセカンドハンドの店は成り立たなかったのよ。だいたい物が揃わなかった。あってもそれは高価な大切なものだったから、手放したくなかった。人からの贈り物だったらなおさらだし、それがたとえ気に入らないものでもね。でも、今は違う。もので溢れかえっているから、好き嫌いが言えるの。」

「確かに、お金持ちはそうかもね。」

「もう、いわゆる中産階級以上はそうよ。いろんな選択肢があるわ。気に入らなければ、うちみたいなお店に売ればお金になる。でもねぇ、やっぱり大切なのはその人のセンス。以外とセンスない人たちってたくさんいるの。」

 ナオミにもデイヴィッドの言うことがわかるような気がしたが。

「例えば?」

「例えば、雑誌やテレビで見たもの全てが自分に似合うと勘違いする人とか。」

「自分に合うかどうか、バランスとか?」

「ナオミのお母さんなんかは、センスあると思うよ。大抵のあなたの着ているものや持っているものってセコハンでしょ。言っちゃ悪いけど、うちのような高級品じゃない。でも、センスあるから、下手するとうちのものより素敵に見えるのよねぇ。組み合わせや、その時のトレンドや流行り。」

「下手するとじゃなくて…。」ナオミはちょっとぶすくれた。

「あは、ごめん。上手だから、センスがいいからよねぇ。ナオミ、あなたもセンスいいと思うけど、お母さんから得てるものも多いかもよ。」

 ナオミは、奥の鏡に映っている自分の姿をちらっと見てうなづいた。 

「私、いちおう売り子だから、お店のためにお客さんにはそれなりのお世辞を言うけれど、時々、どんなセンスしてるのっていう人もいる。それじゃなくてこっちの方がってやんわり言うようにしているんだけど、大抵そういう人は自分に自信があってセンスとか関係なく自分の好きなものだけを選んで買っていく。」

「でも、それはそれでいいんじゃないの?」

 デイヴィッドはナオミを見つめながらまばたきを二回した。

「もちろん、そう。でも、程度によりけりかなぁ。個性って呼べる範囲だったらOKだけど…。はい、強めのカプチョ。」強いエスプレッソとミルクの泡、そして、シナモンの香りがどこか疲れた心を癒してくれるようだ。

「あ、これ強くて美味しい。」

「ほら、ペトラに用意したドレス。いい感じでしょ?」デイヴィッドは携帯で撮った写真を何枚か見せた。

「本当だ。彼女の優しさとシャープさがいい具合に際立っている。これならペトラを泣かせた鼻高指揮者に後ろ髪引かせられるね。」

「さすが、ナオミ! わかってる!」デイヴィッドはポンと机を叩いた。ナオミはウフッと笑って嬉しそうにカプチーノをすすった。携帯を見ると、メッセージが入っていた。ホスポダ・ポハートカからだ。

『ポゾール!(注意!)今日はレディース・デイ。2品頼むと1品半額。1ドリンク無料。』

 デイビットがそれを覗き込んでアハァとナオミを見た。

「二人で行けば2品半額ね。当たり前か。」

 ウフフと笑って鼻歌を歌いながらデイヴィッドはそそくさと閉店の準備を始め出した。 


 ホスポダ・ポハートカの夜の営業は午後7時半からだ。ナオミとデイヴィッドが入り口の前に立ったのは開店時間5分前だった。中からは少しの明かりが漏れていたので取手に手をかけると、ギィーッと渋い音を立てて扉が開いた。思わず、2人は顔を見合わせた。店内には煙が湧いている。それはまるで…。デイヴィッドが声を上げた。

「火事。火事よ!」叫びながら、降りてきた階段を引き返そうとしたが、ナオミは店の中を凝視しながらそのコートの裾をぎゅっとつかんで踏ん張ったので、デイヴィッドの足は空回りした。すると、煙の中から現れたのは、マスターだった。

「いらっしゃい。今日は一番乗りだね。メッセージの効果ありありだ。」

「この煙…。」

 マスターが指を鳴らすと、煙はスルスルと奥に消えていった。

デイビットが口をぽっかり開けてフリーズしている。

「厨房で、炭焼きやっていてね、換気扇の調子がどうもいまいちなんだ。でも、ほら、心配いらんよ。治ったみたいだ。」

 どうぞっ、とお辞儀をしながら二人に声をかけた。

「今すぐメニューのボードを持っていくから。」

「相当強力な換気扇なのねぇ。」とつぶやくデイヴィッドと奥の席に向かいがてら振り返ると、マスターはナオミに大きくウインクをした。

 ドンと机に置かれた小ぶりのブラックボードには大きくレディースデイメニューと書かれていた。アボガドと塩昆布のサラダ。タコのカルパッチョにサーディーン。マッシュルームのチーズフライ。豚肉超薄切り焼肉チョビ辛セロリソース。…などなど。

 確かにどれもが健康志向風のメニューだ。ナオミはいつもの黒ビールと若鶏のシソ巻き揚げとフィットピンチョスの盛り合わせを。デイヴィッドも適当なものを注文した。 それにしても、ここにはチェコのトラディショナルなものがあるかと思えば、日本の居酒屋やスペインのバールみたいな品もある。グローバルで挑戦的と評価してもいい。 

「若いうちは、いくらでも食べられるからね。」マスターは得意そうだ。「美味しいものは、若いうちに食べておかないと。自分の舌を肥やすのも良い経験の内のひとつだ。」

「でも食べ過ぎないように気をつけないとねぇ。自制心がダイジ。」

「そう、いつの間にか…だからね。」ナオミはペロリと舌を出した。

「うちのは、特にカロリーには気をつけているから大丈夫だ。予算の許す限り満足するまで飲み食いしてよし。女の子たちのボディーコントロールもうちの仕事だと自負している。」

「ホント、典型的な商売人よねぇ。」デイヴィッドは手の甲でシッシとマスターを追い払った。「ところで、ナオミの彼氏。えーと、イケメンの司書だっけ?その後どおぅ?」 

「まだ彼っていうわけじゃないわ。」

 昨日の今日で、その後もクソもないが、ナオミは、今日起きたことを話してみた。

「クレメンティヌムに行ったの? 羨まし〜い。うちのショップから近いけど、まだ入ったことないのよね〜。ロマンチック〜。で?」

「彼は、相当頭がいいわ。キレるし、行動力もある。おまけに今時のイケメン。」ナオミはついさっきまでのことを思い出していた。

「いうことないじゃないのぅ。」

「確かに。私にはもったいないくらい。私も嫌いじゃない。」

「嫌いじゃないって…。」

「ううん、好きかもしれない。でも、何かが引っかかるの。」

「あら、最初は、それぐらいが丁度いいのよ。だんだんいろんなことがわかってくる方が興味が尽きなくていいでしょ。すごく優しいようで、反面すごくワイルドだったりして。キャーッ!」デイヴィッドは顔を両手で押さえて震え上がって見せた。「で、彼の方はどうなの?」

「え、彼? あ、私のことをずいぶん気にかけてくれているみたい。」ナオミはちょっと嬉しくなった。

「ナオミ、少し顔が赤いかもぅ。まだ飲んでいないのに。ねぇ。」

「あ、いやだ。」

 そういうことって、自分の気持ちよりも先に進むこともあるのかもしれない。

「お待ちどう。黒ビールとピルス。なんなら俺も立候補しようかな。相手に不足はない。」マスターは自分のことを親指で指差してニカッと笑った。

「自分の歳を考えて言っているのぉ?」デイヴィッドは呆れ顔だ。

「ありゃ、愛があれば年齢差なんてなんでもないだろう?」

「何言っているの、立候補するとしたら、私の方よ。そんな秀才ほおっておけないわ。」落ち着いた声がした。

「エヴァ!」

 マスターの背中からにゅっとおどけたエヴァの顔が出ている。

「あれからいろいろ考えて、読み直して、指摘されたところを真摯に検討して自分なりに納得できる範囲で台本を少し練り直した。そして、今度はなんと言われようと、自分のイメージでいこうって決めたわ。それで説明する。それでダメだったら、潔く諦める。」

「お〜、頼もしいな。」マスターがあごひげを撫でながらうなづいた。

「エヴァ、男らしい〜って、女だあんたは。でも、男なら惚れちゃう。」

「とりあえず、ビール。」エヴァはナオミの向かいに座った。

「ほいきた。メニューは置いていくよ。」マスターはくるりと向きを変えた。

「なんだか、こうと決めたら、お腹が空いちゃった。」

 エヴァにもう迷いはないようだ。

「で、ナオミ、あなたのボーーフレンド候補、どんな感じなの?」

「キャーッ!」とまたまたデイヴィッドが黄色い声を上げた。


 気をつけていたつもりなのに、美味しいし話も弾んで結局ずいぶんと食べてしまった。マスターは本当に商売上手だと関心納得だけど、少し後悔しながらもナオミはトラムウェイではなく歩いて帰ることにした。そう、早足で。食べ過ぎの食後には丁度いい距離だ。気持ちいい夜風に当たりながら信号のある最後の交差点を曲がった時に、どこからか強い視線を感じた。振り返ってみたが誰もいない。見当たらない。だけど、やっぱり感じる。誰かがジーッと伺っている。見張っている? どうして? 強盗? いや…。ナオミは、自分のアパートの入り口をわざと行き過ぎて建物の角を曲がり暗く細い路地に入った。上を見上げると、3階あたりにちょうどいいくぼみがあった。背中の羽根を感じながら飛び上がると1階2階を飛び越して難なくくぼみに身を潜めることができた。ヒューっとそんなことができる自分にも驚いたが、下を伺うとナオミを見失った人影がキョロキョロして路地を走っていくのが見えた。なんだか、スパイ映画みたいっと妙に客観的に見ている自分にふうと気を許すと目の前の窓には歯を磨いている男の子がびっくりしている。お母さ〜んと歯ブラシを口にしたま慌てている間にナオミは近くの空いている廊下の窓から建物に入った。階段で掃除をしているおばさんがこれまた驚いてナオミを見た。今晩わと苦笑いしながら、階段を駆け下りた。ナオミは変な帰り方してきちゃったと歩きながら舌を出した。 

部屋に戻ると、他の二人もすでに帰宅しているようだったが、とても静かだった。洗面所で化粧を落として、シャワーを浴びた。そこそこ広いバスルームは羽根を伸ばすには十分だった。暖かい粒となって一斉に落ちて来る水滴が気持ちいい。翼にはたくさんのお湯がまるで防水加工したように玉になって湯気を上げながら流れ落ちていく。そういえば、さっきはあっという間に3階まで飛び上がった。別なことに気を取られていて、あんまり意識していなかったけど、この悪魔のような深い紫色の黒光りする羽根で飛ぶこともできるに違いない。それは、気持ちいいかもしれないけどけど…。と誰かが扉をノックした。 ナオミは慌てて羽根を震わせて縮めた。

「誰?」

「ナオミ、後で俺の会議での説明文をチェックしてくれないか? 明日は、クライアントへの説明なんだ。女性にも受け入れやすい文章かどうか検証して欲しい。」 

 トマーシュだ。が昨日の元気が感じられない。

「もちろん、喜んで。10分後に部屋をノックするわ。」

「ありがとう。」すりガラス越しに見えた影が去っていった。

 ナオミは、再び羽根をゆっくり広げて意識的に羽ばたくと、足はタイルのフロアーから浮いていた。 

「やっぱり。」ウフッと微笑んでそっとつま先から着地した。だが、ツルッと滑ってドスンと尻餅をついた。テヘヘと苦笑いしながら今度はいっきに不安が湧いてきた。いったい自分は誰なんだろう…。今度は尻尾が生えてきたらどうしよう…。朝起きたら毛むくじゃらになっていたら、もうみんなとは一緒に入れなくなる…。ゆっくり起き上がって壁にかかっている少し歪んだ鏡に写っている自分の姿をじっと見つめてゆっくりと目を閉じた。おとうとおかあの顔が浮かんだ。アンドリューの声が遠くから聞こえる。全てを受け入れろ。マイナスに考えるな。私はナオミだ。たぶん素敵な女の子。ちょっと羽根が生えているだけ。鏡の向こうにいるのも、こっちにいるのも同じナオミ。足元からその姿をなぞって最後に自分の顔までくると、その目の奥をじーっと見つめた。お尻が少し痛かった。

 

 パジャマ姿のナオミはトマーシュの部屋をノックした。

「入っていいよ。」

「ううん。リビングにいるわ。」

 ナオミがソファに腰を下ろすとトマーシュの部屋の扉が開いた。

「ほら、これ。」と原稿を渡されると、すぐに目を通して数点指摘した。

「ここ。この言い回し。男の人たちは、女の人たちがイチコロになると思っているらしいけど、そんなのは迷信よ。それに、もう古いわ。これ資料で配るの? それとも…。」

「俺が口頭で喋るんだよ。」

「じゃあ尚更ね。ここで読んでみて。」

 トマーシュは読み出そうとしたが、資料を下ろしてため息をついた。

「実は、今日の社内のグループ会合で方針演説したんだけど…」

「あ、昨晩頑張ってたやつね? どうだったの?」

「わかりやすいけど、事務的で無機質だって。」 

「それって、面白くないってことでしょ。」

「面白くない? これは真面目な…。」

「興味がわかないってこと。私、あなたのような専門家じゃないけれど、広告の世界って、想像力が大事じゃないの? その一枚から出てくるイマジネーションっていうか。」

「いや、十分あると思うけど。」

「うん、だから、あなたのその説明にもそれが見えて欲しいんじゃないかしら。その発信元から湧き出るイメージの源泉があなたやあなたのチームでしょ? 面白さがあれば、そのイメージっていろんなところから湧いてくるし、どんどん大きくなるんじゃないかと思うけど。」

「なるほど。」

「だから、わざと突拍子なことを言っても大丈夫だと思う。自信があればだけど。」

「そう、重要なところを押さえていればね。まず、リラックスすることが大切だ。」 とアダムも自分の部屋から出てきて、ナオミの隣に座った。

「聴衆が多い方が実践的だろ?」冷たそうな缶ビールを3本テーブルの上に置いた。 

 いつも偉そうなトマーシュだが、どこか頼りげない。緊張している。

「トマーシュ、自信を持って。時々、聴衆の目に語りかけてね。」

「それとゆっくり。早口は禁物だ。不安が垣間見れることになる。」

 トマーシュは、振り返って文章を訂正しているようだった。そして振り返ると、ごくんと喉を鳴らして二人にお辞儀をして喋り始めた。

「みなさん、本日は私のポスターのテーマを聞きに来ていただき感謝いたします。」

 決して長くはない演説だったが、簡潔端的でその目的は達していた。ナオミとアダムのささやかな拍手がリビングを埋めた。

「トマーシュ、自信を持っていいよ。それから、よく自分の緊張をほぐすのに、聴衆は木偶の坊だと思えとか言うけれど、それは違う。相手も人間だし、お前が各々の目を見て自分の主張をとけば、君の心は伝わりやすい。ただ資料を配って読んでおけというのとは違うんだ。君の誠意と情熱が伝わることが大切だよ。例えば、聴衆がどこかに君の弱さを見つけたとしてもそれは構わない。同じチームの人間で、幅はあるだろうが同じ方向のベクトルを持っていれば、きっと助けようという気持ちになるはずだし、良いクライアントならば、親近感を感じてくれるはずだ。」

「悪いクライアントだったら?」トマーシュの目は真剣だ。

「おそらく、その後に待っているのは、次から次へと発生する問題だけだ。」アダムは彼の瞳に返答した。

「演説は、目的を説明する場であると同時に、自分の魅力を出すチャンスの場ってことね。」

「そう、大切なのは、そのバランスだ。自分の中のそれと相手とのバランス。だから、君が話しながら、相手の反応を伺うことも大切だよ。」

 トマーシュは突っ立ったままうなづいている。

「で、修正点はあるか?」 

 ソファーの二人は首を横に振った。

「合格! あとは度胸と愛嬌のみ! さあ、一杯やろう。」

 プシュッ、プシュッ、プシュッ、とビールを開けて乾杯した。

「美味しい! あー。実はなんだか今までとは違う。この緊張感が思いもよらずに心地いい。」トマーシュは少し顔を赤らめていた。「ありがとう。俺は今までこんな身近にこんな素敵な仲間がいるとは思っていなかったよ。アダム、お前はもっと堅いやつかと思っていた。」

「おい、この前もそんなこと言ってなかったか? いくら神学をやっているからって全くの堅物ではないよ。俺だってそんな輩とは付き合いたくないし。」

「私のことはどう思っていたの?」ナオミはすかさず聞いた。

「どうせ、自分のことだけ考えているような、今時の女の子かと思っていたよ。だって、テレビにも出ているんだろ? 鼻の高いとっつきにくいタイプかと。」トマーシュは人差し指で自分の鼻の下をさすった。

「ひどい。自分のことを棚に上げていない?」

「ハハハ。俺もそう思っていた。」アダムもトマーシュに同意している。

「ということは、みんなそれぞれをかいかぶっていたわけね。」ナオミは両手を天秤のように広げて、おどけながら上下させた。

「というか、マイナスのメガネをかけてお互いを見ていたってことだ。」

「まぁ、知らない者同士がこの狭い空間で自由にやっているわけだから。そう、接点といえば、このリビングですれ違うぐらいだからね。」

「でも、今、いえ、昨日から違うわ。」明るい声が響く。

「そう、プラスに向いている。」

「でも、全てを知っているわけじゃないわ。」

「いや、全てを知る必要はないよ。」

「全てを知っちゃうと、今度は深い部分に入っていってしまう可能性がある。それは、ある意味プライベートな領域だろ。」

「あぁ、個人的な好き嫌いも入ってくるとややこしくなる。」

「だから、お互いを尊重しあってバランスが良ければ…。」

「それぞれのマイナスに落ちそうな部分も、プラス視点で、そう、別なアングルで考えることを提案できる。」

「ちょっと!」ナオミはビールのグラスを高々と上げた。「能書きはもうおしまい。頭でっかちになっちゃうよ。」

 トマーシュが立った。二人も続けて立った。

「二人とも付き合ってくれてありがとう。明日は嬉しい報告ができるように頑張るよ。」

「友情に乾杯! ナズドラビー!」 

 みんなそれぞれに目を合わせてグビッと飲むと、トマーシュは自分の部屋に帰って行った。アダムはまだビールあるよっと目で合図してまた腰掛けた。

「ナオミ?」アダムが見ている。「きょうは、僕からの質問だ。性善説と性悪説、どっちを信じる?」 

「え? それって。」

「説教じゃないよ。」 

「私はどちらかというと楽観的に考えたい方だから、性善説と言いたいけれど…。」ナオミはアダムを覗き込んだ。

「あは?」

「生まれた時は、そのどちらでもないと思う。」

 アダムは黙ってナオミを見ている。

「確かに、親から受け継いだ性格はあるかもしれないけど。でもそれ以外の部分は、最初はきっと真っ白なんだと思う。生きていくというか、生活していくことによってだんだん人間のキャラクターってできていくんだと思う。」

「なるほど。」 

「でも、これも楽観的な味方かな?」ナオミは淡々と続けた。「私のある大学の友人は養子なの。確か、5歳の時にもらわれてきたって言ってたかな。その子のうちに遊びに言った時にそこのお父さんがこう言っていた。本当にうちの娘はお母さん似なんですよって。そう、見た目は全然違う。でも、仕草や性格がそっくりだって。」

「だが、カエルの子はカエル。いや、血は争えないとも言うだろう? 自分の本当の親を探したくなる子だっている。」

「確かに。でも、その呪縛はきっと自分でコントロールできるんじゃないかって思うの。それに縛られることはないわ。」

「ナオミちゃんは強いんだね。」

「そんなんじゃないわ。」

 ナオミはなんだかムキになっている自分に気がつくと同時にどこかわからない深いところからたくさんの哀しみが湧いてくるのを感じた。

「そんなんじゃないと思う。」と柔らかく繰り返した。

 アダムは優しい目をしているがいつになくポーカーフェイスだった。

「実は、僕も本当の父母を知らないんだ。」

「え?」ナオミは驚いて目を大きく開いた。

「でも、育ての親はいる。大好きなお父さんとお母さんだよ。性格も似ていると思う。ハハ、変なところまでね。」アダムは苦笑いした。「ただ、時々わけのわからない時がある。こんな性格持ってたかなぁって。自分は誰なんだってね。」アダムは天井を見上げていた。

「18歳の時に突然言われたんだ。お前の本当の父母は別にいるってね。でも、誰だかはわからないって。」彼はぐびっとビールを飲んだ。

「真実を話してくれた両親、そう育ての親には感謝している。でも、その必要があったかどうかは僕の中では未だに疑問だ。もちろん、自分のわからなかった性格がおそらくそのルーツからきているというのは理解できた気がするけどね。その必要があったかどうか。今の時代だから、おそらく突き止めることはできるだろう。でも、それが何になるって思っている。僕の場合、それは自分の慰めにもならないんじゃないかって思うんだ。」

「自分のルーツを突き止めたい人はたくさんいると思うけど。」

「確かにそうかもしれない。でも、僕はそんなことに時間を費やすのなら、そんなことで疲労困憊するのなら、育ての親からもらったものを原動力に、多くの弱い人たちの力になってあげたいと思うんだ。そして伝えたい。前を向いていこうって。」

「ポジティブな発想ね。」ナオミはビールのグラスを掲げた。

「そんなの綺麗事だよっていう人もいる。」

「…」

「そうかもしれないけど、それを実践しようと努力するのには、強い意志が必要だよ。実際は。」そう言いながらアダムは大きく首を振った。

「ハハ。いかん、いかん。ナオミちゃんが言ったように頭でっかちな話になちまった。」

 ナオミも首を横に振った。

「ううん。なんだかすごく力をもらったような気がする。さっきも言ったけど、あなたのことただの神学マニアかと思っていたけれど、そんなことないのね。」

 二人はもう一度乾杯した。

「そういえば、性善説の話だったっけ。」

「あぁ、そこから始まったんだ。僕の意見も生まれた頃はきっとみんな真っ白な白紙状態じゃないかと思うんだ。でも、そのうちに、いろんなことが影響して性格が作られていく。確かに、生まれ持ったキャラクターがその性格を作る上でも大切だろうけどね。」

「ということは、生まれた時は、善でも悪でもないってことね。」

「まぁ、そういうことになるかな。ところで、ナオミちゃんは、悪魔は人をそそのかして悪の道に誘うと思うかい?」

「私は、チェコのおとぎ話で育ったから、こう思う。悪魔、すなわちチェルトは普通の人は狙わない。悪い人というか、悪い心を持っている人を嗅ぎつけてそそのかすのよ。人間みんないろんな側面を持っているわ。いい人だって、100%いい人じゃない。どこかに悪い心も持っているの。きっと。でも、それがどこかでうまくバランスしている。でも、ダークサイドの強い人がいて、どうしてもその誘惑に負けちゃう人がいる。そこにチェルトは付け込んで来るんだと思う。」ナオミはアダムのことを少し伺った。「きっと、宗教はそれを防御する盾か、攻撃する槍なんじゃないかって。或いはバランスさせるフォースというか。もちろん、それを必要としない人もいる。でも、それを悪く利用する人もいて…。」

「うん、実のところ複雑な話だな。」

 ちょっとした沈黙。気がつくと二人のグラスは空になっていた。

「さて…と。部屋に戻るかな。」アダムはよいしょっと立った。

「ビールをご馳走さま。」ナオミの声に振り返って彼は笑顔で手を挙げた。そして、おやすみと言って自分の部屋に入っていった。

 ナオミはしばらくリビングにポツンといたが、グラスをキッチンの流しにおくと自分の部屋に入った。ドアを閉めて、パチンと電灯のスイッチをひねると、今まで待っていたかのようなタイミングでメッセージを知らせる携帯のベルが鳴った。アンディーだ。

『可愛いチェルトちゃん。もう寝ちゃったかな? いや、夜更かしやさんはまだ起きているかな? たぶん…。』

『まだ起きてるよ。』とナオミは素早く返信した。

『今、チェルトジャケットの試作品が9割がたできたところだ。』

『もう? 見たい!』と打っている間に何枚かの写真が届いた。 

『すごい、クールでカッコイイ!』

 それはブラックをベースにグレーのアクセントラインが入っている。背中にはクリームグレーのパワーバルジのような膨らみが優しい感じで二つ付いている。とってつけではなくきちんとデザインされて素敵なアクセントに見える。フロントのジッパーは斜めに切れ上って…。

『まだ完璧とは言えないけれど、プロトタイプとしては上々かな。』

『早く着てみたい!』

『もちろん試着1号はナオミだよ! 柔らかめと少し硬めの皮をうまく配置できたと思うけど、着心地をチェックしてもらわないとね。』

『ありがとう。私って本当に幸せ者だわ。こんなに素敵なお兄ちゃんがいるなんて!』

『おいおい、試着する前にそんなこと言っていいのか? もしかしたら、期待はずれっていうこともあるぞ。写真と本物は違うことが往々にしてあるからね。POZOR(注意)!』

『私、お兄ちゃんのセンスを知っているつもりだけど。』

『とりあえず、いつものワードローブに入れておくよ。わかりやすいようにカバーかけておくから、帰ってきたらいつでも試してみて!』

『ありがとう。とっても楽しみだわ。』

『徹夜でやっていたから結構疲れちゃった。あと少しでいちおう完成だ。それが済んだら今日はもう寝るよ。おやすみ。』

『お兄ちゃん、ありがとう。無理しないでね!』

『おやすみ。』

 ナオミは両手で携帯を持って軽く抱きかかえるようにして暗い窓の外を見ると、昨晩の黒い子猫が小さな前足で窓のサンをこすっている。ゆっくりと窓に近づいて行くと、目があった。ミャーとガラス越しに鳴いている。そっと窓を開けると、ピョンとナオミの胸に飛び込んできてゴロゴロと喉を鳴らした。

「名前は何ていうの?」と頭を撫でるとザラザラした舌で手を舐めた。 

「ちっちゃいときはみんな可愛いいね。」頭同士でゴッツンコしてにらめっこすると、子猫はまたミャーと泣いて後ろ足をバタバタさせた。

「もう帰らないと、お母さんが心配するよ。」ナオミは子猫をサンに戻して窓を閉めた。そして、バイバイと手を振りながら

「ルチフェールによろしくね。」とウインクすると、子猫はまた窓をこすってニコッと笑ったように見えた。

「誰だったかなぁ?」誰かに似ているなと天井を見上げて顔を戻すと、もうそこには子猫はいなかった。

  

中編に続く

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