うさぎ! ドア・イン・ザ・フェイス
ハトリは確かにウサギが好きだった。
けれどこれは守備範囲外の論外で、予想外でもって意外すぎた。
「ねえハトリ! 見て! どう? セクシー? かわいい? 食べたい? いいのよ?」
くいっと腰を突き出して、幼いバニーガールが妖艶にほほえんだ。お決まりのビスチェ型のレオタードに、ほっそりとした脚線美を惜しげもなくさらすストッキング、ちいさな足に似合うプレーンなハイヒール。そして、首元の白いカラーに品良くとめられた蝶タイ。そのすべてがぎゅっと夜を込めたような黒だった。
桜色のクチビルは口づけを求めるようにハトリを誘い、ふわふわのハシバミ色の髪をゆらしてコトリと首をかしげる。
とはいえオトナの男性向けこの上ない格好に、ぺたんこの胸がすこしさみしいのは否めない。
犯罪じみた色事が生じてもおかしくないシチュエーションながら、対する男には誘いに乗るつもりが一片もないらしかった。
「よくねぇ! 帰れ!」
「なんで! かわいくない? 交尾したいでしょ? ほら、いいんだって!」
「バカ! 出てけ!」
六畳一間、今時分風呂なしの畳敷きのアパートに若い男の叫びがこだました。
「イ、ヤ!」
一音をくっきり区切って拒絶を口にした美少女は、頭をかきむしるハトリの前をからかうようにぴょんとジャンプして横切ると、柳腰に手を当てフェイクファーの尻尾を人さし指でもてあそびながら、うらめしそうに想い人をにらんだ。
「サイアク! 男の人は、こういうのが好きだって聞いたのに! ほんっと年だけ食っててあてになりゃしないんだから、あのタヌキ親父」
バニー姿の少女は、頭の上にやけに生々しい質感で生えている黒い耳をか細い指先で引っ張り、つまらなそうに舌打ちすると、報われない恋心にがっくりと肩を落とししゃがみ込んだ。
「家に帰ったってお母さんめちゃくちゃ怒ってるし、兄弟だってあきれてる。バカにされるだけ。それに私、もうあの場所で恋なんてできるわけないんだもん……」
ぐず、と鼻をすすりながら切々と訴える色白の少女は、ハトリからの「あのさ」という呼びかけに顔を輝かせて振り向いた。
「なに、ハトリ。私のこと好きになった?」
「ならねえけど。とりあえず夢じゃないことは受け入れる。オレは確かに寝る前にウサギを家に招き入れた。で、お前がいるのはなんなんだよ」
困惑と緊張を逃がすように、染め抜いた短い金髪に指先を差し入れ、ハトリは目の前の怪奇に向き合った。
「ウサギの恩返しよ!」
平らな胸を誇らしそうに張って、少女はツンと鼻をそらした。
「恩、返してねえよ! 迷惑だろうが!」
「さっきは、あんなによろこんでたじゃないっ。『あああ、うさちゃあああん、なんだよ元気だったのかよおおお。お礼言いにきたんでちゅか? うおおおっメルヘンっ!』って」
「あああっ、やめろっ、人間の顔でオレの恥部をさらすなっ!」
売れないミュージシャンのハトリが自宅で酔いつぶれて寝ていた未明四時。突然の迷惑千万のチャイムの音に這うようにして応対した彼は、ドアを開けた先にいたハシバミ色のウサギを大歓喜で迎え入れ、口づけして頬ずりし、そのまま十二時間爆睡して今に至る。
目を覚ました時そばにいたのはそのウサギを名乗るバニーガールというわけだった。
「私ね、山で車にはねられた時もうダメだって思ったの。お母さんのいうこと聞いておけばよかったって。人間の使う道には出ちゃダメ、車とレースするなんてもってのほか! いまに危ない目に遭うって言われてたんだもん。その通りだった。あの下手くそに轢かれちゃって、足も首も痛くて、もう死ぬんだなって覚悟した。でも、」
少女は、はち切れんばかりの幸せを笑顔に込めて言葉をつないだ。
「ハトリが来てくれた」
目の前の青年の名を大切そうに口にして、少女は半年前の夜の出来事を、指を組み合わせて熱心に語った。
ハトリが山奥のちいさなレストランに演奏に呼ばれたあの夜だ。
峠の下り、帰り道。初心者丸出しのスポーツカー乗りの通ったあとに、ちいさな野ウサギが横たわっているのを見つけた日のことだった。
「ただ助けられたから恋したんじゃないのよ。私、半端な車には負けないつもりでいたから。あの山を下るのに私の足にかなうヤツなんているわけないって。でも、私を病院に運ぶために峠を下るあのスピード」
意識朦朧の子ウサギに「死ぬなよ」と声をかけ続け、古びた軽自動車で唸りをあげてひた走り、救ってくれた人間。それがハトリ。幼い顔をうっとりさせて、少女はほほえんだ。
「しびれちゃったの」
艶然のひと言に思わず鼓動を跳ね上げて、ハトリは壁際まで後ずさる。
それを逃さず、美しい少女はひたひたとハトリに迫り、困惑の極みの青年の顔を見上げた。あたたかな黒いウサギ耳が、するりとハトリのアゴをくすぐる。
口づけせんばかりの距離を、ハトリは壁に張り付きノドを逸らして必死に逃げを打つ。
「気づいてないけど、ハトリも私のこと愛してると思う。病院の先生に、野ウサギですかって聞かれた時も『オレのウサギです!』って堂々と言ってたじゃない。退院まで毎日お見舞いに来てくれたでしょ? 山にそっと放してくれたよね? こんなこと愛がなきゃできない」
「……いや、それはこう、ウサギへの愛で」
「そう思ったから、狐狸化け学スクールにたっかい学費払って入学して、人間のことめちゃくちゃ勉強して、お嫁さんになるために修行してきたのにっ! ガキには興味ないなんてあんまりよっ。いいじゃない、すぐ育つもんっ!」
「いや、ムリ。お前ウサギ……」
「私、かわいくない? 好きじゃない? ウサギ、ダメ?」
ぐいぐいと迫る美少女をどうにか押し戻しながら、狭い部屋に逃げ場をなくしたハトリは敷きっぱなしのせんべい布団に安住の地を求めて飛び込んだ。
こんもりと膨らんだ布団を、ポンポンと上から叩かれる気配に身を縮めて青年はうなる。こんなシチュエーション、天国のようで地獄に近い。
「うう。いや、ウサギは好き。ホント好き」
「人間の女は?」
「好き」
「じゃあ、私と結婚したら幸せまちがいなし!」
「ウサギ、美人……。あああ、やめろ! 犯罪だ」
「だからぁ、身体はすぐ育つってば。ほんの数ヶ月よ。大丈夫、キツネ先生に戸籍も身分証明書も作ってもらってきたから! 準備万端、結婚可!」
「は? 動物すげえ。いやいやいや、そういうあれじゃ……」
「しょうがないなあ、決心つくまでウサギの私を飼うってことでどう?」
大きなため息をつきながら少女が譲歩を示すと、青年はおそるおそるといった風情で布団の端から顔を出した。
「ウサギ?」
「かわいがってくれるなら。私、ちょっとガマンする」
「ウサギ……」
ウサギを愛する青年の心の揺らぎにするりと入り込み、少女は満面の笑みを浮かべた。
「オーケー、ハトリ。ゆっくり知り合いましょ。じきにいい女ってわかってもらえると思うから」
大勝利にパチンと片目を閉じて、少女はタヌキ大先生仕込みの宙返りをキメ、しゅるりと元の愛らしさこの上なきウサギの姿に変化すると、布団の中で困ったように背中を丸めるハトリの横へいそいそともぐり込んだ。
恋い焦がれた想い人と、幸せな夢を見るために。
そして、まんまとフット・イン・ザ・ドア