失い、得るもの
頭の片隅からぼやけた声が聞こえてくる。
通常であれば、鮮明に聞こえるだろう言葉は分厚い扉を挟んだように良く聞き取れない。
だが、その声は段々と鮮明に大きくなっていった。
「八重田さんっ!」
突然、声のモヤが晴れ、大声で怒鳴る声に勝手に反応した身体は、そのまま声の主を確かめようとした。
目に映ったのは、此方を注目する人、人、人……。
小さな室内に狭い等間隔で机を並べ、沢山の人間が座っていた。
「……なに、これ?」
どうしてこんな場所にいるのだろう?
こんな所は知らない。
狭い部屋に人が等間隔に並んでいて、なんだか気味が悪い。
人が多いせいか、立ち込める熱気が包み込んでくるようで不快だ。
そもそも、視線をぶつけてくるこの人達は誰なんだろう?
周囲を見渡すが、知っている人など誰もいない。
皆一様に、同じような服を身につけているからか、見分けがつかない。
1人異なる服を着た人物は、紙の束を片手に私の正面に立っている。
何故、この人だけ違う服を身につけているのだろうか?
いいや、そもそも何故同じような服を着ているのか?
分からないことだらけで、頭が混乱する。
取り敢えず、落ち着こうと席を立った。
そのまま、部屋を出て行こうとすると、背後から怒りを滲ませた声が投げかけられる。
「勝手に何処へいくの?今は授業中です。教室を出るのは、休憩時間にしなさいっ!」
「授業?それが終わらないと出ちゃダメなの?」
「当たり前でしょっ!そんな事も分からないなんて…、小学校からやり直しなさい!
!」
「小学校?そこに行けばいい?」
「〜〜っ!あなたねぇ〜!!」
顔を真っ赤にして怒りの感情を露わにする目の前の人が、どうして怒っているのか理解出来ない。
言葉を発すれば発する程に、目の前の人はヒートアップする。
私は口を噤み、困り果てた結果、周囲に目線で助けを求めるが、誰一人として席を立ち、止めてくれる者は居なかった。
一言も話さずに、ただ目の前の人の言葉を聞いていると、それも馬鹿にされていると感じたのか、机の横にかけてある鞄を手に取ると、バンッと勢いよく机に叩きつけてきた。
突然の暴挙に身体が固まる。
「もういい、帰りなさい。あなたの事はご両親に報告させて貰います」
全身が凍りつくような冷たい視線を浴びせ、目の前の人は壇上へと戻って行った。
それから何事も無かったように、授業を再開させる。
(……なんだったの?ここを出て良いのかな?)
呆然と立ち尽くす私を無視したまま、授業は進んでいく。
その時、背中を背後から軽く叩かれ、背後を振り向く。
背後には、さっきの人同様、怒った顔の人が居た。
その人は小声の怒り口調で話しかけてくる。
「おいっ!出て行くなら早くしてくれ!黒板が見えねぇだろ!」
私はやはり此処から出ても良いのだと解釈し、怒りに満ちた教室を手ぶらのまま出て行った。
もう、あの部屋には二度と行きたくないと思った。
訳がわからず、ただ怒られて、嫌な場所だ。
私はその部屋から遠ざかるようにして、学校から出て行った。
当てもなくただ遠くを求めて歩く旅だが、新鮮で珍しいことばかりでとても楽しい。
何もかもがすごく綺麗で素敵。
羽を優雅にはためかせ、ひらひらと花から花へ移る生き物は、なんという名前なんだろう。
捕まえようと追いかけるが、風のようにするりするりと逃げて行ってしまう。
緑の絨毯には、気持ち良さそうに寝っ転がる生き物が居た。
その姿を一目見ただけで心を奪われてしまった。
とっても愛らしい生き物を触ろうと近づいて行く。
だが、その生き物は素早く走り去って行ってしまった。
残ったのは私一人。
残念な気持ちを胸に、緑の中へと倒れる。
仰向けになり空を見上げ、私は誰なんだろうとぼんやり考えた。
空に浮かぶ強い光が煩わしいが、その他はとても気持ちがいい。
下から生える緑は私を優しく支えていてくれるし、時々吹く風は私に心地良さを与えてくれる。
空は真っ青で、所々白いふわふわした雲が漂い動く。
見ていて飽きる事がない。
どれ位の時間だろうか。
空を眺めていると、瞼が急に重くなって行く。
流れのままに目を閉じて、私の意識は途切れた。
「……っ」
「ちょっと!?……」
「ねぇっ!しっかりして!大丈夫!?」
強く頬を叩かれた傷みと煩い大声で、私は怠い目を開けた。
(……知らない人。それに、此処何処!?私が居た場所と違う)
空は暗く、辺りもよく見えない。薄ら見える人影は見たこともない。
急に怖くなって、涙が出てくる。
前の温かな場所に戻りたい。
どうして私はまた恐ろしい場所に来てしまったのか?
「どうしたの?何処か痛い?」
「……帰りたい。ここは、嫌なの」
「君の家は何処?良ければ送って行くよ?」
手を差し出す人に、どうすればいいのか首を傾げた。
「家……?分かんない」
「……えっと、帰りたくないって事?」
「帰りたいよ」
私だけじゃなくて、目の前の人も混乱しているようだった。
困惑しながらも、私に質問してくる。
「うーん、君の名前、聞いてもいいかな?」
「分かんないよ……。何にも分からない。怖いよっ」
「取り敢えず、警察に行こう?そうすれば、きっと帰れるよ」
優しく髪を撫でられ、少し心が落ち着く。
「うん」
溢れる涙を拭い、立ち上がって優しい手に飛び付いた。
優しい人は驚いていたが、直ぐに笑顔を向けてくれる。
嬉しくなって、自然と私も笑顔になる。
優しい人の手を一緒にぶらぶらと揺らしながら、静かな夜道を歩く。
あんなに怖かった暗闇が全く怖くなくなるから不思議だ。
「そういえば、自己紹介がまだだったね。俺の名前は村上ハジメ、高校二年だよ。よろしくね」
「……村上ハジメ高校二年?」
「ああ、ごめん。紛らわしかったね。苗字が村上で、名前がハジメだよ」
「ハジメ……?」
名前を呼ぶと優しい人は嬉しそうに顔を綻ばせる。
もっとハジメを喜ばせたくて、私は名を呼び続ける。
「ハジメ、ハジメ!ふふっ、ハジメ」
ハジメの笑顔が見たいだけなのに、呼び続けるとハジメは急に立ち止まり、繋いでない手の方で顔を隠してしまった。
途端に不安になる。
あの部屋での事を思い出した。
ハジメを気付かない内に怒らせてしまったのだろうか?
「……ハジメ?」
「あんまり、そうやって名前を呼ばないで、欲しいんだけど……」
「どうして?ハジメ、怒ってる?」
あの部屋で怒られた事は嫌だったが、ハジメに怒られるのは比でないほどに嫌だ。
ハジメには嫌われたくなかった。
「ごめんね……。もう、名前呼ばないから、嫌わないで……」
収まっていた涙が頬を伝い流れる。
「ち、違うんだっ!怒るとか、嫌とか、そういう訳じゃなくて……、ただ、なんか無性に照れ臭くなってっ!……っ、ああ、何言ってんだ、俺……」
「ハジメ、顔真っ赤」
「ああっ!もう!だから、隠してたのに……!」
ぐしゃぐしゃとハジメは自分の髪を乱雑に掻き乱すと、繋いだ手に力がこもった。
安堵からホッと息を吐く。
ハジメとこうして歩いて行けるなら、帰れなくてもいい。
ずっと、二人でこうして歩いて居たい。