8.満月の下で
「工藤先生! 今日よかったら一緒にご飯食べませんか?」
上品に長い髪を後ろで一つに纏めた西野先生の後姿を目撃する。
話していた相手は……やっぱり朝陽さんだった。
「……いや……今日もちょっと……」
頭をポリポリと掻きながらきまり悪そうに断り文句を探しているように見えた。
「そうなんですか……。お忙しいんですね? じゃ、今度、昔みたいにご飯作りにお家に伺ってもいいかしら!」
一見おとなしそうなイメージだった西野先生は見た目とは真逆にグイグイ朝陽さんを押していく。
「いやいや、それは本当に無理です!」
慌てて顔の前で両手を振る朝陽さん。
そりゃそうだよね。
帰ったら私が居るんだから……
「ねぇ工藤先生。私達、婚約するってところまで行った仲じゃないですか。本当は、今だに突然工藤先生が婚約できないっておっしゃった理由が理解できてないんです。だって私達、お似合いだったと思いません?」
吸い込まれそうな黒くて大きな瞳。
きっと、あんな目で見つめられたら……
世の中の男性、みんな西野先生の虜になっちゃうんじゃないかな……?
ってか、婚約って……?!
一体どういう事?!
「西野先生、婚約する話がなくなった時にお話ししたように、私はもう結婚してるんです。こういう事されると……正直困ります……」
朝陽さん……
私に気を遣ってるの?
朝陽さんは……西野先生のこと本当はどう思ってたの?
吉平さんに私と結婚しろって言われたから……西野先生と無理やり離れたの……??
「疑うようで申し訳ないんですけど……、工藤先生、本当に結婚なさってるんですか? 私は父から直接聞いて知ってましたけど、他の先生、誰一人工藤先生が結婚したこと知らないじゃないですか。言えない理由でもあるんですか??」
グイグイ詰め寄る西野先生に押されながら後ずさりをする朝陽さん。
「別にいいでしょう? 公にして騒ぎになるくらいなら黙ってたって……。とにかく、西野先生とはもう私はお付き合いすることはできないんです。お願いです、そこは、理解して欲しい」
真剣な眼差しの朝陽さんはじっと西野先生を見つめる。
なんて絵になる二人なんだろう……
私も西野先生みたいに綺麗で、大人だったら……
自分の気持ちに自信を持てるのに……
なんだかどんどん惨めになって、その場にいられなくなって二人に背を向け走り出した。
だいぶ大回りをして昇降口まで辿り着く。
「あーあ……もう真っ暗か……」
下駄箱に上履きをしまい、すっかり人気のなくなった校舎を出る。
いくつかの運動部は片付けて帰る準備をしている様だった。
(私、こんな時間までのぞき見みたいなことして……何やってんだろ……)
一歩足を前に出すたびにため息のような吐息が漏れる。
幸せが……どんどん外に吐き出されちゃうな……
真っ暗になった空を見上げると、煌々と満月が光を放つ。
私にも……あんな輝きが全身から出ていたら……
きっと、こんなちっぽけな自分の事も朝陽さんにちゃんと見てもらえるのかな……
誰もいなくなったバス停のベンチでバスを一人待ち侘びる。
大体このくらい遅くなると、保護者が学校まで迎えに来る人がほとんどだ。
周りを歩いている生徒は誰もいない。
「はぁ……」
きっと……恋……なんだろうな……
西野先生と朝陽さんの会話が頭から離れないよ。
私と朝陽さんが出会う前から、西野先生と朝陽さんは婚約寸前までお付き合いしてたなんて……
どれだけヤキモチ妬いたって勝ち目なんかこれっぽっちもないのに。
なんで……なんで私と結婚なんかしたのよ……
そんなに吉平さんに逆らえなかったの??
苦しいよ……
私のせいで……
私の存在がなかったら、西野先生と朝陽さんは上手くいってたのかもしれない。
あんな素敵な人とお付き合いをしていたのに、この先私の方を振り向いてくれることなんてあると思う?
……あるわけないよ。
「夏帆ちゃん!! どうしたの、こんなに遅くまで」
はぁはぁと息を切らして走り寄ってきてくれたのは……朝陽さんだった。
「……どうして……? 私がここにいること分かったんですか……?」
声、震えてる……
もう、こんな姿見られたくないよ……
「さっき、西野先生と話してた時、夏帆ちゃんの後姿が見えたんだ。あれからすぐに追いかけたんだけど見つからなくて……。もしかしたら、もうバス停まで来てるかなって思って、走ってきた」
なんで、そんなに優しい笑顔なの……?
泣けてきちゃう……
涙が零れ落ちる所を見られないように私は俯いた。
「……朝陽さん……、私と結婚する前、西野先生と付き合ってたんだね……。ごめんなさい、立ち聞きしちゃった」
悲しい顔が何とか表に出ないように笑って見せる。
「あぁ……。まぁ、婚約をするかって話が出たくらいで特に何もなかったけどな」
私の隣に腰かけて、暗く静かな空間を見守っている。
「……そうなんだ……。西野先生美人なのに……勿体なかったね。……なんか……ごめんなさい、私のせいで……」
ポタリと涙がスカートに落ちる。
どうか……朝陽さんに気づかれてませんように……
「夏帆ちゃんのせい……? なんで?」
『全く意味が分からない』そんな呆れたような声音で朝陽さんは私を覗き込む。
「あの……、私だってこれからもしかしたら好きな人ができるかもしれないし……、気にしないで、西野先生のところに行ってください」
あぁ、また心にもないこと言ってる。
「夏帆ちゃん……好きな奴……いるの?」
驚いたような、低く暗い声……
「あの……その……気になってる人位は……」
朝陽さん以外にいるわけないじゃない!!
なんでそんな事言ってんの? 自分!!
「……そっか……、そうだよな……。夏帆ちゃんだって好きな奴位いるよな……。ごめんな、気づいてあげられなくて……」
重そうにゆっくりと話をする。
「……実はさ……、まだ婚姻届け……出してないんだ。俺は良くても、夏帆ちゃん、やっぱり好きな奴が出来たり、俺と一緒に居るのが嫌になったりする時が来るかもしれない……って思ったらさ、夏帆ちゃん、バツイチになっちゃうだろ? そんな風にはさせたくない……って思ったら、なんだか出せなくてさ。でも、これで正解だったみたいだな……」
嘘……
私、まだ先生の奥さんじゃなかったの……?
どうしよう……
もう一緒に居られないの……?
我慢していた涙がボロボロ流れ出す。
「夏帆ちゃん、どうした? ごめんな、黙ってて……。俺は夏帆ちゃんが一番幸せになるようにしてあげたいんだ。父さんに黙ってこんな事したら恐ろしい事になりそうだけどさ……」
ハハと力なく笑う朝陽さん。
「あの、勘違いしないでな。結婚してないなら、はいさよならとかは絶対ないから……。西野先生との事は、もう済んだことだよ。彼女には悪い事をしたけど……俺はこの選択でよかったって、心から思ってる」
そっと私の肩に朝陽さんの手が触れる。
「……え……? いいの……? このまま続けて……」
鼻水をズルズルさせながら朝陽さんを見る。
「あぁ。もちろん。……夏帆ちゃんが恋愛したいなら……仕方ないよな。だから、気にすんな! 俺は、夏帆ちゃんが笑っててくれればそれでいいんだから」
なんで……?
なんでそんな神様みたいなこと言うの……?
先生だって恋愛したいでしょ……?
自由になりたいでしょ……?
私なんかに大切な朝陽さんの時間をくれちゃっていいの……?
「ほら、もう泣くな……。夏帆ちゃんの生活はちゃんと俺が守るから。お願いだから笑っててくれ」
スカートの上で握りしめられていた私の手をそっと朝陽さんの大きな手で掴む。
ほんの少しだけ触れ合った肩に寄りかかりたかった。
でも……それは今の私には出来ない……
いつか……寄りかかれる時がくればいいのにな……
明るい満月の光に包まれながら、私は朝陽さんの手の温もりがなんだか悲しいほどに切なく感じていた……