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44.これで終わり

 バスに揺られながら私は吉平さんに初めて会った日に渡された名刺を見つめていた。

 今まで一度もこの住所に足を運んだことはなかったが、まさかこんな形で伺うことになるなんてあの頃の私は想像すらできなかっただろう。


 まだ中学生だった私は急に結婚の話が出てきたときに、まったく誰かの奥さんになるイメージも湧かなかったし、とても自分に振られている話だとは思えなくて他人事のように聞いていたのは記憶に新しい。


 でも……朝陽さんと過ごした、たった7か月の間に、私の世界は大きく変わっていった。


 恋愛なんてマンガや映画の世界の話だとしか思えなかったのに、8歳も年上の朝陽さんに恋をして……

 ちゃんと想いが通じ合った時にはこんなに幸せなことがこの世にあるんだなぁなんて思いながら、毎日あったかい先生の視線の中で私はいつも包まれて、守られてきた。


『結婚』という形だけのつながりから、いつの間にかちゃんとお互いを想い合う夫婦へとなれるはずだったのに……


 一度味わった幸せが消えていくときの身を切り裂かれるような痛みも……もう十分すぎるくらい味わった。



 私はバスを降りてタクシーに乗る。

 運転手さんに吉平さんの名前をちょっと伝えただけですぐに場所は分かったみたいだった。


 目を疑うような大きなお屋敷が目の前に近づいてくる。


「ハイ、お待ちどうさま!」

 運転手さんはにっこりと私に微笑みかけてくれた。

 最近、こんな風に私に向かって笑いかけてくれる人、久しぶりに出逢ったな……

 友香も紘も樹兄ちゃんも……、笑ってはいるけど、いつも瞳の奥は私を心配している。


(みんなにいっぱい気を遣わせちゃったな……)

 はっきりとしない日々が続く中、きっと疲れ果てているのは私だけじゃない。

 もう……本当に終わらせなきゃ……


 息を止めて、インターフォンを押す。

 中からは当然吉平さんではなくて、執事のような年配の男性が現れた。


「どちら様ですか?」

 そう優しく声をかけられて、私は自分の名前を名乗る。

 大きな建物を見上げながら、このたくさんある窓のどこか奥に朝陽さんがいるのかと思うと逢いたい感情が止められなくなりそうだった。


「青木夏帆様ですね? アポイントはおとりになってらっしゃいますか?」

 私は首を横に振る。

 連絡をしたら遣いの人がきっとうちに取りに来るだろう。

 どうしても直接、吉平さんと朝陽さんに逢って話したかった。


「少々お待ちくださいね?」

 その執事らしき人は胸元から携帯電話を出して話始める。


「……分かりました」

 そう言って会話を終えて胸ポケットに携帯をしまうと、私をじっと見た。


「いま、旦那様から了承を頂いたのですが……一点だけご理解いただきたいとのことです」

 その言葉の先はなんとなく予想がついた。


「朝陽様へのご面会はできませんが……よろしいですか?」


 やっぱり……

 分かってたことだ。

 ……仕方ない……

 声に出したら震えに気づかれてしまいそうで静かに頷いた。


「では中へどうぞ」

 ニコリと優しく微笑み玄関の扉を開けてくれた。

 大きく吹き抜けた天井から大胆に吊り下げられたシャンデリアから反射した光を眩しく見つめながらゆっくりと執事さんの後ろを追って歩いていく。


 一般家庭ではありえない装飾品の数と、部屋の広さに圧倒されながら、階段を上り二階のフロアに着いた。

 上り終えて廊下を右に曲がると突き当りにまた大きな扉があった。


 執事さんはコンコンと扉をノックする。

「旦那様。青木様がいらっしゃいました」

 中から、『はい』と声が聞こえてくる。


 ガチャリと立派なドアノブを引き開けると明るい光の中に吉平さんが立っていた。


「夏帆ちゃん、ひさしぶりだね」

 そう言って吉平さんは笑顔を私に向けた。


「お久しぶりです。吉平さん。突然お邪魔してしまって……ごめんなさい」

 私は深々と頭を下げる。


「いいんだよ。さあ、こっちに掛けて」

 指示された先のソファーに一礼して腰かけた。

 応接用のテーブルをはさんで向かい側に吉平さんも座る。


「夏帆ちゃん……、色々迷惑かけたね」

 私が口を開く前に吉平さんが突然頭を下げた。


「夏帆ちゃんにも朝陽にも突然結婚なんて形で振り回してしまって……。今の私が居るのは夏帆ちゃんのお父さんである礼ちゃんのおかげでもあるんだ。彼には本当に何度もピンチの時に救ってもらってなぁ」

 礼ちゃんとは私の亡くなった父である礼侍れいじの事だ。

 吉平さんは懐かしそうに目を細めている。


「礼ちゃんの持っている発想やアイディアは私の想像を遥かに超えるものがあってね。酒の席でよく行き詰った時に彼に相談すると、目から鱗の回答が返ってきて、その度にこの学園だけではなくて、うまくいっていなかった事業もどんどんと軌道に乗り始めてなぁ。早くに逝ってしまった礼ちゃんにどうやったら恩返しができるかって考えたんだが……大事な一人息子の伴侶に礼ちゃんの可愛い娘さんを貰えれば……なんて思ったんだけど……」

 伏し目がちに吉平さんは続けた。


「今までずっと入籍してなかったなんて、きっとよっぽど夏帆ちゃんも朝陽も合わなかったのかな? そんな思いもあったし、以前朝陽との縁談話があった……西野先生分かるだろ? 一度お断りをしたにも関わらず、また話を振ってくださってな……」

 言いづらそうな表情ではあるけど、瞳の奥は真剣だった。


「夏帆ちゃんと朝陽がどんな関係だったのかは私は分からない。でも結婚に踏み切れなかったくらいの仲だったんだろう? 西野さんが一度破談にした失礼に目をつぶってまで、うちの朝陽と一緒になりたいと言ってくださってるなら、会社のためにも朝陽と西野さんの縁談話を進めていきたいんだ。これからうちの跡取りになる朝陽にとって、絶対的に有利ないいお話だからな……」


 吉平さんの言っていることはちゃんと理解はできた。

 確かに朝陽さんと出逢った時は……夫婦とは縁遠い生活だった。

 少しずつ距離が近づいて……やっと夫婦になろうって話してくれたけど……

 どうしても朝陽さんが帰ってこなくなった付近の彼の様子が余りにも自分を避けていただけに……『私達だって愛し合ってるし、11月に入籍する予定だったんです』なんて言い返せる自信がなかった。


 何よりも朝陽さんにとって、私と結婚するよりも西野先生と一緒になった方が絶対的に得になるんだってことは分かった。


「……そうですか……」

 それしか言えなかった。


「夏帆ちゃん、朝陽の事……」

 聞きづらそうに吉平さんは私を覗き込んだ。


「……私にとって……朝陽さんは『先生』ですよ……」

 最後の力を振り絞って口角を上げる。


「そうか、よかった」

 ホッとしたように吉平さんは微笑んだ。


「あの……今日はこれを返しに来たんです」

 紙袋に入れた麦わら帽子を吉平さんに渡す。


「ん? これは……!」

 紙袋から引き出した吉平さんの手が、一瞬止まった。


「朝陽さん、とっても大切にしてたから……。私に使って欲しいって言ってくださったんですけど、私の手元にあるよりも朝陽さんが持っていた方がその帽子も幸せでしょうから……」

 早くここを立ち去らなきゃ……

 もう……限界……


「夏帆ちゃん……」

 何か言いたそうに私を見る。


「じゃ、吉平さん。お忙しいのに時間を取らせてしまってごめんなさい」

 私はスッと立ち上がった。


「……朝陽さんに……どうか、お幸せにって伝えてください」

 大きくお辞儀をして、駆け足で部屋を出る。


「夏帆ちゃん!!」

 そう吉平さんの声が聞こえたけど……

 立ち止まったら、泣いているのがわかってしまうから……


 勢いよく階段を駆け下りて玄関に向かう。

 途中思いっきり執事さんにぶつかってしまった。

「青木様……?」

 私の泣き顔を見て表情が固まっていたけど、『ごめんなさい』と小さく頭を下げて、振り返らずに玄関を飛び出した……



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