43.涙の向こうに見えるもの
「あー!! マジでムカつく!!」
友香が教科書を机に叩きつけた。
「どうしたの? 急に?」
突然何かが爆発したように切れだした彼女の姿をポカンと眺める。
「どうしたもこうしたもないわよ!! どうして夏帆はそんなに我慢できるのよ?!」
呼吸まで荒くなってくる友香の背中を摩りながら宥めると、急に目を潤ませた。
「あのさ、夏帆。もう工藤先生なんてポイって捨てちゃえば? 言い方悪いけど、どんなにイケメンだって今私には西野先生の『犬』にしか見えないのよ」
鬼の形相で私を見て拳を震わせる。
「工藤先生の好きな人って、西野先生なんじゃない? あの二人前からコソコソしてるところ、しょっちゅうあったじゃない。だったとしたら、マジで工藤先生ゴミだわ」
友香の怒り狂うオーラに押されながら、もしかしたらそうなのかもな……って思ってしまっている自分がいる。
先生の姿を見つける度に隣には西野先生がいて……
私はそれを見なかったことにして、ここ数週間現実逃避して来たけど……
『朝陽さんを信じよう』そう心に誓った日から今日まで、本当は何度も何度も二人の姿を目にしては不安になって、そんな気持ちに必死で蓋をして今日まで来たんだ。
改めて友香に言われなくても……もうだめなのかもしれない、美男美女でお似合いの二人が目に映る度に、心のどこかでそうあきらめる準備を始めていたのかもしれない。
自分でもびっくりするくらい、物わかりの良い私が今ここに居る。
深く心の中を追求しても仕方がないのだ。
その先に見つかるのは大切なものを失った空っぽの私だけ。
嬉しい感情も、悲しい感情ももう何もいらない。
ただ、傷つきたくない……
「友香……。私さ、もう工藤先生の事諦めようかなって思ってる。今日先生の荷物を取りに、吉平さんの付き人がうちに来るんだって。明日が最後で……学校でももう、逢えなくなっちゃうし……」
朝陽さんが帰ってこなくなった日の朝、最後に交わした言葉はぎこちない挨拶だけだった。
前の日の夜に私が我儘言って、部屋に閉じこもって……
結局朝陽さんの本音を確かめることすらできなかった。
でも、きっとこれが答えだったんだよね……
今までごめんね……
そしてありがとう……
最後にもう一度……ちゃんと言葉で伝えられたらいいのに……
「夏帆……」
友香は私よりも先に泣いていた。
ずっと傍で私が笑顔を忘れないように、いつも元気でいてくれた彼女が、今日は背中を小さく丸めて震えていた。
「友香……。私は大丈夫だから。ちゃんと毎日少しずつ心の整理つけてたんだから。意外としかっりしてるでしょ? だから、もう泣かないで」
今私が泣いたら友香はもっと悲しむだろう。
彼女の背中をギュッと抱きしめながら私は必死に涙を呑み込んだ。
家に帰るまでは絶対に泣かない!!
私が泣いたら、ずっと支えていてくれた紘と友香が悲しんじゃう……!!
全ての五感に麻酔をかけたように私はバスに乗る。
何度も見たこの景色は、確かに朝陽さんの目にも映っていたはずだ。
同じものを見て、同じ何かを感じて、笑い合って……
些細なことがとても貴重な事だったんだって、離れている時間が増えて行くたびに心に深く刻み込まれていく。
でも今日は、感情を持って外の景色を見るのをやめた。
バスを降りて、自分の部屋へとひたすら足を前に放り出す。
何も見えない。
何も感じない。
目に映る全てのものが敵に思えた。
玄関を開けて顔を上げる。
目の前にはもう、朝陽さんを感じるものはすべてなくなっていた。
食器も箸も、歯ブラシも、全部自分の物だけになっていた。
(最初から……これが正常な風景だったのよ……)
私はロボットのように心の中で唱える。
自分の部屋に入り、制服を脱いだ。
クローゼットの扉に手をかけ一番に目に飛び込んできたのは、……あの麦わら帽子だった。
……そっと手に取った瞬間、海での思い出から遡り、初めて出逢ったあの日までがキラキラと蘇る。
震えの止まらない心の中から湧き上がるように、大粒の涙がボタボタと床に落ちていた。
ずっとずっと逢いたかった人に、……ほんの少しだけまた逢えた気がした。
この麦わら帽子を恥ずかしそうに私に被せてくれた朝陽さんの顔が、何度も浮かび上がっては消えていく……
「……何があっても離れないって……、言ったじゃないっっ……!!」
声にならない声は、小さく悲しく響いた。
嘘つき……
先生の嘘つき……!!
私ずっと待ってたんだよ?
いつか必ず帰ってきてくれるって……信じてたんだよ?
抱えていた麦わら帽子をそっと被ってみる。
先生が大切に想っていたお母さんとの思い出の麦わら帽子。
もう、私に持つ資格がないもの……
思う存分、先生の事思い出して、涙が出なくなるまで泣き心晴らしたら……
ちゃんと返そう。持ち主の元へ。
大きな暗闇の空に星が光るころ、私は麦わら帽子を大切に抱え、家を飛び出した……




