35.新しい住人
私は相変わらず悶々とした気持ちで帰宅した。
こんな気持ちであとどのくらい過ごせばいいのか先が見えない毎日を想像するだけで、ため息が出る。
(今日は会議ないから早く帰るって言ってたっけ……)
昨日交わした会話を思い出しながら、私は夕飯の支度にとりかかった。
(今日は先生の好きなサバの味噌煮だから喜ぶかな?)
なんだかんだ言いながらも先生の喜ぶ顔を想像すると自分も嬉しくなってしまう。
やっぱり私の方が好きの気持ちが大きいのかも……
自分が先生の事を想うのと同じくらい、私の事も好きになって欲しい……
本音はそう思うけど、現実自分を鏡に映すとこればっかりは仕方のない事かと悲しくも納得してしまう。
あんな素敵な人に『好きだ』って言ってもらえるだけでも、ホントはもう十分なんだよね。
結局そうは思っても、どうしても理想と現実の差の中でもがいてしまう。
オートロックのベルが鳴り、もうすぐ先生が返ってくる。
玄関のドアが開き、彼の姿が見えた。
私はモヤついた心を打ち消すように彼に飛びつく。
「おかえりなさい!!」
そのままギュッと背中に手を回す。
ただ、抱きしめてもらいたかった。
自分が愛されてるんだって肌で感じたかっただけなのに……
「夏帆! いい加減にしろって! 今はまだそういう時間じゃないだろ?」
やっぱり今日も私を突き放した。
ポンと普段と変わらず脱いだジャケットを渡してくる
「……先生……」
なんだか涙が出てきた。
どうして、そんなに冷たいの??
愛されてるって確かめたいだけなのに……
「……ごめん、ちょっと言い過ぎた」
気まずそうに視線を逸らして呟いた。
「……なんで? なんでそんなに私の事避けるの?? 嫌いになったの??」
こんなつもりじゃなかった。
ちゃんと向き合って、先生の話を聞いて……
私の気持ちも冷静に伝えるつもりだったのに。
「ち、違う!」
慌てて私の方に向きなおした時だった。
ピンポンとインターフォンが鳴る。
私は涙を懸命に拭ってモニターに向かった。
『あ、ここの下の階に引っ越してきた遠野と言いますが、ご挨拶に参りました』
インターフォンのカメラに写っていたのは……
「樹兄ちゃん?」
涙でぼやけて見間違えたかと思った。
もういちどゴシゴシと目をこすりモニターを凝視する。
(間違いない……。 なんで??)
先生の事と、樹兄ちゃんの事と、なんだかパニックを起こしそうだった。
「今開けるから、待ってください」
私は玄関に向かい、そっと重たい扉を開けた。
樹兄ちゃんは私を見るなり、とんでもなく驚いたような表情で瞬きを忘れている。
「……なっちゃん……?? 何でここに??」
「あ、あはは……私、ここに住んでるんだ」
上ずった声が全く動揺を隠しきれていない。
「夏帆、誰だ?」
先生が部屋の奥から近づき、玄関の扉をガバリと開けた。
「あ、あんた……!!」
樹兄ちゃんの先生に向けて差した人差し指が、方向を指し違えるくらいに震えていた……
おい、ちょっと待て!!
なんでなっちゃんがここに居るんだ??
ってか、西野美野里が好きな奴ってまさかこいつじゃないよな???
あ~!! もうどうなってんだ一体!?
ええと、確かなっちゃんはこいつと一緒に住んでるって駅で言ってたよな。
確かに一緒に居た……うん、間違いない。
ん? 二人は一体どういう関係なんだ??
同棲??
調べによると、たしか西野美野里の好きな奴ってのは教師をやってるって聞いたが……
夏帆ちゃんって、まだ高校一年生だよな?
え? マジでどういう事だ?? 全く理解が追いつかない!!
でもあんまり幸せそうな顔はしていなかったし、本当にただ一緒に住んでるだけなんだろうか?
もしかして虐められてる??
俺はプチパニックを起こし、冷静さを装えそうになくなってしまったので、とりあえず引っ越し蕎麦に変わる高級ブランドのタオルを渡して『じゃあ、また』と扉を閉めた。
なんだ? なんだかとんでもない臭いがするぞ??
なっちゃんとその……工藤って奴が一緒に住んでいることに関していい気はしないが……
西野美野里を追い詰めるための材料がたくさん見つかりそうだ……
俺は一人含み笑いをしながらエレベーターのボタンを押した。
「夏帆……今のって……」
さっきの事はなかったかのように話しかけてくる先生にほんの少し苛立った。
「そう、幼馴染だよ。下に引っ越してきたんだって」
私はつんと先生に背中を向ける。
「……そうか」
少し考えたようにそんな私を追い越してリビングに入っていく。
「もう!!!」
ずっと心の中に溜め込まれた不安や不満が一気に爆発したように、さっき渡された思いっきり先生のジャケットを壁に投げつける。
パサリと床に落ちる服を見つめながら、これを着て板書している彼の姿を思い出していた。
先生の匂いがして、思わずジャケットをギュッと抱きしめる。
傍で朝陽さんが私を包んでくれている感覚になり、涙が滝のように溢れ出した。
一部始終を見ていた先生は驚いて私の肩を掴む。
「どうした?? 夏帆」
まるで子供を窘めるように振り向かせようとする先生の手を振り切り、私は自分の部屋へと逃げ込んだ。
「おい、夏帆!! どうしたんだ!!」
扉を叩く音が暗闇の部屋に響き渡る。
「……何でもないから……、お願い一人にして……」
鼻水をすすりながら懸命に訴える。
「ご飯……できてるから……。先に食べてて……」
嗚咽が混じった声で、本当にみっともない私。
「夏帆……」
そう私の名前を呟く声が聞こえてからは、扉の外の先生の気配はもう消えていた。
私はそのまま疲れ果てて、先生のジャケットを抱きしめたまま眠ってしまっていた……




