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10.袖元のボタン

「夏帆、相変わらず元気ないわね」

 友香が心配そうに覗き込む。


「うーん……、まぁ、色々とあってね」

 昨日の夕食以来、私の心の扉は完全に閉まってしまった。


 分かってたけど……

 私は、形式も、気持ちも、完全に朝陽さんの奥さんじゃない。

 じゃあ、私って一体何なの??


 残念なことに、頭の中に浮かぶのは『居候』この言葉だけ。

 実際、まあそうなんだけど……


「ねぇ、今日さ、帰りに紘も誘って三人で映画見に行かない? 私どうしても見たいのがあるんだけど、私が誘っても絶対二人だけじゃ紘ついてきてくれないしさ。夏帆も行くって言ったら二つ返事でOKするよ! どうかな?」

 むふふと何かを企むような友香の顔に、なんとなく不安を感じたが、楽しい時間を過ごせば少しは気が紛れるかなぁ……と快諾した。


 朝陽さんに、今日は遅くなるって伝えなきゃ……

 4時限目は生物だし、何とかチャンス見て伝えるか……



 いつもと変わらず朝陽さんは教室に入って来た。

 綺麗な字で板書されたものを無になってひたすらノートに書き写す。


「じゃ、今から配るプリント、テストの予想問題だから、各自解いて、終わったら僕のところに持ってきてください」

 そう言って、先生の机に座り、資料をめくりだす。


 教室の中には、カリカリと筆を走らせる音だけが響いている。


 ふと、朝陽さんの手元に目をやった。

(あれ……? 袖のボタン、ついてない……)


 そうだった!! 後で付けてって言われたのにすっかり忘れてた!!

 ブレザーのポケットをゴソゴソすると……あの時渡されたボタンが……やっぱりあった。


 そうだ。今日遅くなる話もしなきゃいけないし……



 プリントを解き終え、生徒たちが列を作る。

 私は列の一番後ろに並んだ。


 少しずつ前に進んで、あと一人。


「はい、次」

 そう言って見上げた朝陽さんと目が合った。


 プリントにこっそり二つに折った付箋を貼って先生の前に差し出す。

 その中身を見た朝陽さんはコクリと小さく頷いた。



『昼休み、生物実験室にきてください』

 小さな付箋にはそう書くのが精一杯だった。




 私は誰にも見られていないかキョロキョロしながら、生物実験室の扉を開けすぐに中に入る。

(鍵が開いてるってことは……朝陽さん、もう来てるのかな?)

 キョロキョロと辺りを見回し、朝陽さんの姿を探す。


「先生……?」

 すると、教卓の後ろからガタンと音がした。


「青木さん、どうしたの?」

 よそよそしい会話は誰かに目撃された時のお守り代わりのようなもの。


「先生……腕のボタン、つけてあげる。ごめんね気づかなくって」

 ソーイングセットを見せながら静かに近寄る。


「あぁ……、家に帰ってからでも大丈夫だったのに」

 ニコリと微笑む顔をみて、いつから私はこんなにドキドキするようになったんだろう?


「実は、今日友達と映画行くから遅くなるの。それも伝えなきゃと思って」


 暫く考えたような表情だった朝陽さんは、スーツの内ポケットからじゃらりと鍵を出す。

「ここじゃ、万が一誰かに見られると大変だから……、準備室でお願いしていいかな?」


 授業でいつも先生が裏でコソコソしている準備室。

 鍵を開ける姿は、授業中の姿と変わらない。

 でも、今はここに誰もいなくて……

 私だけがその先生のしぐさを独り占めしてる。


「先生のカギを開ける姿……私なんか好きだな……」

 ぽろっと口から滑り落ちた本音に気付いた時は遅かった。


「……え?」

 準備室の扉を開けて、恥ずかしそうに驚いた顔で振り返る先生の顔が可愛くて……


 あぁ、ドキドキが止まらないよ……


 中に入って、内側から念のため鍵を閉めた。

「脱いだ方がいい?」

 急な先生の言葉に、『へっ?』っと声が裏返る。


「ちょっと、声が大きいって!」

 シィと人差し指を口の前で立てる先生。


「……あ、ごめんなさい……。急に脱ぐとか言うからびっくりしちゃって……」

 『おいおい』そんな呆れ顔な表情も私は大好きだ。


「もちろん着たままでいいよ。ジャケットだけ脱いでくれれば」

 私は針に糸を通して、先生の手を取る。

 コツンと触れ合う膝小僧が、妙に恥ずかしい。


 今まで、こんなに……こんな風に先生に近づいたことがあったかな……?

 先生の静かな吐息が、私の髪を優しく揺らす。


 ドキドキしすぎて手元が震えちゃう……

 余りの緊張に手元が狂って、指先に針が刺さってしまった。


「痛っ!」

 人差し指に小さな赤い血が、ビーズのようにぷくりと浮き出してくる。


「ほら、見せてみて……」

 先生の顔がすぐ傍に……

 私の手を取って指先をじっと見つめている。


 ち……近い……

 心臓の音が聞こえちゃう……



 思わず目が合って……

 逸らせなくなった。


 だんだん顔が近づいて……

 私は金縛りにあったようにピクリとも動けない……




「先生!! いますか?」

 突然準備室をドンドンと叩く音が聞こえて我に返る。


「……ご、ごめん!!」

 磁石のN極とN極がはじきあう様に、私たちは勢いよく離れた。


「あ、青木さん、すぐに隠れて!!」

 袖に針を揺らしたまま、慌てて扉に向かう先生。



 私は扉の方からは死角になる棚の脇に必死で隠れる。

 ガチャッと扉を開けて、急いで準備室の外に出た先生は、何やら生徒たちと話をして、生物実験室の外に出て行くのをしっかりと見送り、また戻ってきた。


「はぁ……焦った……」

 額にびっしょりと汗を掻いている先生を見て思わず笑ってしまった。


「なんだよ……、もう」

 きまり悪そうに頭を掻きながら、ストンと椅子に腰かけた。


「続き……やっちゃうね」

 笑いを堪えながら、最後に糸を切る。


「はい、出来上がり!!」

 自然と、視線が合って……

 なんだか、名残惜しかった。


 私だけなのかな……?

 そう思ってるのは……


「先生、今日帰りに佐藤さんと小島君と私で映画に行ってくるから、遅くなるね。夕飯は先に食べてて」

 ソーイングセットをポケットにしまい、先生と向き合う。


「……小島……?」

 怪訝そうな顔に見えたのは気のせい?


「うん。じゃ、私もう戻るね」

 先生にお辞儀をして一足先に準備室を出た。


 廊下の窓から入って来る爽やかな風が頬を撫でる。

「……気持ちいい……」

 見上げれば雲一つない青空が広がっていた。


「なんか……凄く、ドキドキしたな……」

 もしかしたら、あのまま誰も来なかったら……キスしてた……?

 ボッと顔から火が出そうだった。


 でも、昨日の朝陽さんを思い出したら……

(ないない、絶対ないわ……)

 あっという間に現実に引き戻され、肩を落とすのだった。



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