イネス
イネスの心の叫びです。
ちょっと鬱です。
彼女はいつも穏やかだった。
美しく物静かで少しだけ悪戯好きな面もあった。
「本当に良いのか?私と結婚して」
「はい。何故そんな事をお聞きになるのです?」
私とクリスティナの婚姻は完全に政略的なものだった。
私の生家がスタシャーナの血を望んだのだ。
本来なら私とクリスティナが結婚などあり得なかったが彼女は実の両親を無くし義父と暮らしている。
それを良く思わない者達がこの縁談を進めたのだ。
「いや、私は教会の者ではないからな。拒絶覚悟で申し込んだんだ」
「それは、中々冒険心がおありなのですね?」
彼女は面白そうに微笑んだ。
正直彼女は私には勿体ないと思う。
私の様に気の利いた言葉一つかけられない気が利かない男と一緒にさせられるのだ。
しかし彼女はそんな私に恨み言一つ言わず付いてきてくれた。そして私の子供を宿してくれた時、私は何としても彼女とその子供を守ろうと心に決めた。
「イネス。済まないがクリスティナに大事な話があるんだ。少し席を外してもらえるか?」
そんなある日彼女の育ての親が訪ねて来た。
彼は両親を失った彼女を男で一つで育ててきた立派な人物だと思う。
きっと子が出来たと聞いて居ても立っても居られなくなったのだと私は間抜けにもその時、そんな事を考えた。
「構いませんよ。では彼女をお任せしても?」
私はずっと後悔している。
何故この時、彼を彼女に会わせてしまったのかと。
レイヴァンが帰った後も彼女は変わりなく平穏な日々を過ごしていた。
いや、もしかしたら私が気が付かなかっただけかもしれない。本当は彼女の中でその変化は始まっていた事を。
そしてカイルが生まれた日。私は素直に喜んだ。しかも男の子である。私の後継だ。この子は正真正銘私とクリスティナの血を引く子供だ。私は生まれてすぐ彼女に労いと感謝を伝えた。彼女は朦朧とする意識の中、微笑んだ。
「・・・女の子ですか?」
彼女が何故かそんな事を聞いて来たので私は思わず笑ってしまった。彼女は女の子が欲しかったらしい。
「いや、可愛い男の子だ」
彼女はその瞬間、何故か笑ったまま凍りついた。
そんなに女の子じゃなかった事がショックだったのだろうか?私は呑気にそんな事を考えていた。
彼女は少し身体をずらしてその子を見た。
彼女の子供は可愛らしい黒目で彼女を見ている。
彼女はそれを見て涙を流した。
「そう。そうなのね。とても可愛いい」
彼女はその子の頬に触れた。
そして彼女がカイルに触れたのはこの一度きりになった。
「クリスティナ!!!」
その数日後、彼女は突然目の前で倒れた。
苦しそうにもがきながらお腹を押さえている。
皆慌てて彼女に駆け寄った。
「医者を!!後治療魔術を使える者を寄越してくれ!」
そんな彼女に目を落とし私は自分の目を疑った。
彼女の腹部が膨らんできている。
「クリスティナ!!しっかりしろ!?今医者が来る!」
「・・・・・イネス・・・・ごめんなさい」
その時何故か彼女は私に謝った。
私にはそれが理解出来なかった。
「ごめんなさい」
そしてその日の内に、彼女は信じられない事に・・・誰の子でもない子供を産み落とした。
そして、その後の教会からの説明に私は理解した。
クリスティナは教会の道具にされたのだと。
「何故。話してくれなかった?」
私はクリスティナに尋ねた。
自分はスタシャーナ家に入った身だ。
その掟に従わなければならないことも承知していた。
だが全く自分の知らぬ所で自分の妻が苦しんでいたのに知らされないなどあり得ない。
「貴方は私を大切にしてくれるでしょう?私はそんな貴方をこれから苦しめます。自分の欲望を叶える為に」
私は耳を疑った。彼女は今、私に何と言ったのだろう。
「貴方が欲しかったのはスタシャーナ家の血を引く後継なはず。私は貴方にそれを与えました。だからそれ以外は諦めて下さい」
彼女の言葉の意味が私には理解出来なかった。
彼女はいつもの様に微笑んで、しかしその瞳からは涙を流していた。私は呆然とそれを見つめていた。
「私を決して許さないで下さい。貴方だけがこの家で唯一私にとって清廉潔白で正しい方です。もし、私を裁く者がいるとすればそれは貴方しかいないでしょう」
彼女は見たこともない様な顔で私に微笑んだ。
私は初めて彼女の事を怖いと思った。
「私をレイヴァンの下へ返して下さい。私が唯一愛する男の下へ」
多分これは悪夢だ。
終わらぬ悪い夢。
何故こんな事になったのか。
彼女は少し前まで確かに私の下で幸せそうに暮らしていた。そう。子供が出来るまで。あの忌まわしい子供が生まれるまでは。
そしてあの男がクリスティナを惑わせなければこんな事にならなかったのだ。
いつか絶対にあの男だけはこの手で殺してやる。
簡単に彼女を手放し自分は無害な振りをして、その実彼女に執着したあの男を。
そして、苦しむ彼女に追い打ちをかけた自分自身を絶対に許さない。
「愛しているんだ。クリスティナ!」
彼女の歪んだ顔を私は死ぬまで忘れないだろう。
彼女はそのまま私の手をすり抜けて奈落の底まで落ちて行った。私を置いて。
絶対に許さない。
「彼女はオルゴールの蓋を開けました。恐らくそれで飛び降りたのです」
私は彼女を失った。だが、それはお前もだ。
「最後はきっと何も考えることなど出来なかったでしょう。幸いな事に」
彼女は最後まで苦しんだ。お前のせいだ。
「良かったですね。正気を失った彼女にまとわりつかれて、さぞご迷惑だった事でしょうから」
目の前で青い顔でそれでもなお私を睨んでいるレイヴァンに私は無表情に最後の言葉を吐き出した。
「あの子供を連れて行くならご勝手にどうぞ。ただし、もう二度とカイルには会わないで頂きたい。あの子は、大事な私の後継なのです」
二度とクリスティナの面影を追えぬ様にしてやる。
そしていつかお前とその呪われた子供を殺しに行く。
「わかった。約束は守ろう」
私はあの子供のお守り袋を子供の籠の中に入れた。
「それは?」
「生前、クリスティナがこの子の為に作った御守りです。この子が成人するまで中は開けないでください。時が来た時一緒に中を開けてやればいい」
本当はこんな袋をレイヴァンにくれてやるなど御免だがアレを忍ばせる為に仕方なく持たせる事にした。
彼女の刺繍が入っているその袋を。
「そうか、ありがとうイネス」
笑うな偽善者め。お前がクリスティナをどんな目で見ていたか私はもう知っている。
「では、この子を連れて行って下さい。どうかご無事で」
お前がクリスティナを忘れ穏やかな日常を手に入れたその時、私は必ずお前を奈落の底へ引きずり落としてやる。
どんな事をしても。
レイヴァン・スタシャーナ
「すまない」
お前を絶対に許さない。