⒊ 視忍(3) 小さき中学教師
十六時三十分 【布都部南中学校】にて――
ここは悠人の妹、柴乃が通っている中学校である。
すでに放課後は過ぎて多くの生徒が部活動をしている中、家計の心配をして一切入部をしていない柴乃は、何故か第一理科室へと足を踏み入れていた。
「先生、今日は何の実験を見せてくれるのですか?」
「教室に入る時はいつも挨拶をしろと言っているだろう」
「そうでした。ボンジュール、先生」
この挨拶で何を意味するのか、それは外見だけで何となく分かってしまうことだが、今はこの様子からして帰宅部の柴乃がここに来た理由は、こちらの先生に会いに来たとみえる。
だが、問題はそこではない。柴乃が先生が呼ぶこの人物が見たところ、白衣を着た子供だという点だ。
未成年が教師の仕事に就けないのは、この時代においてもそれは変わらないこと。学校教師になる為には各都道府県にも依るが、決められた一定の年齢を満たしていないといけないという決まりが存在する。
これは布都部島も例外では無い。だとしたら、可能性は一つ。この先生は、ある病気を患っていると考えられる。
~ハイランダー症候群~ 目魂主のように、いつまでも変わらぬ容姿を保ち続ける奇病。
大人の女性が羨むハリのあるお肌に、くりんした大きな瞳。中学生の柴乃に比べて、圧倒的な低身長。これらを持ち合わせた教師がいるのも、その奇病と考えれば話は別だ。
金髪碧眼の女性化学教師ー『Bouchra・Braille』は、流暢な日本語で柴乃に厳しく挨拶の指導を行っていた。
先生の外観といい、柴乃のあの挨拶といい、大方察しが付くだろうが、何を隠そう彼女は歴としたフランス人である。しかしわざわざフランス語で挨拶をせずとも、あの語学力からして日本語で『こんにちは』と言っても全然通用するだろう。
だけど柴乃がフランス語であいさつしたのは、その場のノリというものだろうか。それすなわち柴乃のフランス語挨拶には特に理由がなく、とはいえ彼女がブシュラの元を訪れたのには理由があった。
学校生活がつまらないから――………。それが何を意味するのか、それには二人の関係性について説明する必要がある。
一年前、ブシュラは紫乃のクラスの学級担任をしていた。新しい環境に慣れない新一年生たちは月日を重ねて次第に部活等を通じて友達を作っていき、ブシュラのクラスの生徒は各々が誰かしらと一緒に話す姿を見せるようになっていった。
だが、一人だけクラスで孤立する少女がいた。その彼女こそが目崎紫乃。部活は無所属であった。
聞くところのよればこの年で両親を失っていて、未成年の一人の兄と二人だけで暮らしているという。何とも波乱の人生を送っていて、そのせいで流行り物を手に取れず周りの子と話すネタもない。おまけに帰宅部ともなれば、人と会う機会も少ない。
多からず少なからず、どの部活においても部費が掛かってしまうからと言うのが彼女の部活に入部しない理由だった。
ならばこの子の担任として、せめて自分が出来ることは一体何か?少しでも学校生活が楽しいと思える時間は作れないものか?ブシュラは一つの答えに行き着いた。
《―そうだ!何か彼女が楽しくなる為の面白い実験でもしてあげよう!》
それは普段の授業で行っているものとは違い、見て触れて楽しいと思えるショーやマジック的な実験。始めは先生の呼び出しで仕方なく第一理科室へと足を運び、ただただ見ているだけの様子だった彼女。
けれども紫乃は次第に心を開いていき、今ではこうして毎週放課後になると、この時間が楽しいと思うばかりに訪ねてくる始末だ。
「この中にヨウ化カリウムを加えてやると――」
厳重に安全メガネとゴム手袋を装着して行う今日の実験。
紫乃はハラハラドキドキしながら、これから何が起こるのか楽しみで仕方なかった。
ブシュラは液体の入ったメスシリンダーにヨウ化カリウムと呼ばれた無色立方晶系結晶を入れると、それはすぐに反応を起こした。
メスシリンダーから溢れ出てきた大量の泡。
天井に付きそうなぐらい泡が高く上がり、その下に敷かれたトレイからはハミ出るかハミ出ないか、ギリギリのところまで泡が広がると、そこには泡風呂のような空間が広がっていた。
「先生、今日の実験はまた一段と派手ですね」
紫乃は目をキラキラと輝かせ、この現象に興奮が冷めきれない様子だった。
「これは《象の歯磨き粉》と言って、過酸化水素が急速に分解して起こる反応だ。
大量の泡が生み出される原因は、分解されたことで酸素と水が生成され、その酸素がメスシリンダーの容器から逃げ出そうとする力で、過酸化水素と一緒に入れた洗剤から発生した泡を押し上げているのさ」
「つまりこの泡は酸素と水と洗剤の集合体であると言うことですね。それならこの泡は触っても大丈夫……」
紫乃は手袋を外し、直接手に取り泡の感触を堪能しようと手を伸ばそうとするが、それを見かねたブシュラがすぐに紫乃の行動を制止する。
「止めんか!ついさっき実験した後では、万が一に反応が終わっていない過酸化水素が残っていることもある。触れると痛みを感じ、炎症を起こす危険性があるってことを忘れるな」
「ちぇ~、先生のけち」
「それより用意して欲しいと言った品は持って来たか?」
「あっ、はい。それはもちろん」
すると紫乃はブシュラの手のひらに何かを置いた。
紫乃の手の甲に隠れて良く分からないが、それは小さめの密閉袋に入っていた。
手渡した彼女の手が離れると、ブシュラは中身を確認することなくすぐにその手を軽く握りしめた。
まるで手の平に伝わった重み・形状等からそれはなんなのか、一瞬で理解したかのように。
「また頼めるか?」
「そんなのお安い御用です。今日も楽しかったです、また来ますね先生」
そう言って、教室の扉の引手に手を伸ばそうとする。
「あ、ちょっと待て、紫乃」
「何ですか?」
「実は備品のマグネシウムの粉末が入った瓶が何処にも見当たらなくてな。何か知っていたりはしないか?」
「いえ、知りませんが……」
「そうか………呼び止めてしまって悪かったな」
「悪いだなんてそんな………では、明日見せてくれる実験も楽しみにしてますので!」
そうして紫乃はブシュラ教師に会釈すると、そのまま教室を出るのであった。




