0.その男、視力と金欠につき
目崎悠人は人並み以上に目が良い少年である。
シュッ!シュッ!シュッ!
ヘッドバンドの先に伸びた短い紐に括り付けられた小ぶりのラバーボールを勢いよく打ち返し、その反動で素早く跳ね返ってくるボールを左右に頭を振って軽く避けては、再び打ち込んで勢いの付けたボールを避けてを繰り返し身体を動かす中――
既製品の携帯型パンチングボール以上にリーチが短い上に跳ね返りが早いにも関わらず、もの凄い集中力で一度もボールに当たること無く7分間その状態を続けた。
「さてと、次のトレーニングに移るか」
そう言って男はヘッドバンドを取ってテーブルの上に置くと、軽く汗を拭いてから着替えて玄関の扉を開ける。
時刻は午前10時半過ぎ。車通りの少ない早朝を避けた時間を敢えて狙い、男は外へと出る。
『【品川583 そ 49ー81】』………、『【北見331 ほ 73ー96】』………、『【国見町 に ・8 13】』………
前方から後方からと歩道の横を走るタイミングもバラバラに車道を通り過ぎて行く様々な自動車やバイク――
そこに表記されたナンバープレートに書かれた《地名》や《指定番号》諸々、一瞬でいくつもの情報をパッと見ただけで全てが頭に入り、一つも外すこと無く淡々と言い当てていきながら適当に歩いていく。
二車線の道に出ようとお構いなく、交差点に差し掛かれば右に左に走る車も合わせて視界に映る車の通りが多くなるというのに、一台一台余すこと無く的確に目で捉えていっては、連なって走行している車や積載車――
そこに積まれた複数台の車全てに至るまで、細かなところのナンバープレート1つでさえ決して見逃さず、すれ違う一瞬の間で全ての情報を把握・洞察し、容易く答えていく。
『【富士見市 あ 86ー53】』………、『【みよし市 み ・5 74】』………、『【相馬市 や 28-19】』………
つい夢中になって捉え続けてしまいそうになったが、外の屋外時計が指す時間が目に入り、男は頃合いを見て止めることにした。
「おっ、もう15分か。よし、本日の目のトレーニングはこれにて終了っと」
毎日欠かすこと無く続けているこの習慣は言うなれば、彼なりの〈ルーティン〉――日課の一環である。
思えばこの習慣を始めたきっかけは、眼科医の父親が口癖のように言っていた、とある“言葉”にあった。
『目が見えるというのは、幸せなことなんだ。世界の美しさ、色、形を感じ取れる贅沢を、決して当たり前に思ってはいけない。
見えることの幸せを忘れず、見えることの有り難みを損なわないよう、当たり前に見える力を保ち続けていくのはとても大変なことだが、親からもらった一生ものだ。死ぬまで大切にしろよ』
この何気ない言葉が子供ながらに強く感化され、当時習っていたボクシングジムに通い始めた頃ぐらいからトレーニングがてら目の運動にもなるかと始めた日課だったが、日に日に動体視力が良くなっているのが目に見えて実感している。
この日は8分間に計127台とすれ違い、その全ての車のナンバープレートを一つとして見逃すこと無く目視してしまう離れ業を淡々とやってのけてしまう、日々の積み重ねによって研鑽された広い周辺視野と高い動体視力に長けたこの男――
『目崎悠人』という人間が持つ、顕在能力の凄みである。
だが、そんな彼の目の良さが………大きな惨事を引き起こしてしまう原因になろうとはこの時――、全く思いもよらなかった。
……まさかあのような状況が明日、我が身に降り掛かろうだなんて…………
………………………
何処を見渡しても広がる白い空間の中――、目の前に佇む一人が………いや、人ならざる存在が彼に一声掛ける。
『……これより貴方には、ある『眼球』を移植して頂きます。……もう一度現世で生きる為の、命を手に―』
『それはどういう………』
…………………
……………
………
今や何処もかしこも当たり前のように、お金のやり取りが完全電子化された現代――
『NEMTDーPCは貴方の生活を支える〈必需服〉。
身体中の水分を奪っていく暑い日差し――、感覚麻痺を起こす極度の冷え――、
年々脅威を見せる気温の寒暖変化の前には、今や市販の衣服では防暑・防寒を意味成さずして、外出もままならなくなっていきました。
そんな現代の環境下から我々人類の身を守る為、我が社は画期的な防護服の製造に成功。
全世界に向けて試供服を提供したところ、今となっては誰もが必要とする日用品として広がりを見せており――』
通学路に置かれた電子看板がそのような広告を流していると、白髪の青年は電子マネー端末機:電子財布(要は電話機能が無いおサイフケータイ)を覗き込みながら、そこに表示された『所持残額:350円』という、あまりに心許無いその小さな数字を見て途方に暮れながら、その横を通り過ぎていく―――……。
「はぁ……この制服高過ぎて馬鹿にならないんだよなぁ。おかげで出費がかさんでしまって、今月発生する固定資産税諸々の家計費を差し引いたとしても、私用電子金がこれだけって………。
つーか、今日から高校生になるって人間が家の存続に頭を悩ませるって、普通ならありえねぇぞこんなの。
クソッ!あんな……あんな事故さえ起きなければ、父さんと母さんは………」
思わず感情的になって、はした金がチャージされた電子財布を持つ手に力が入り、青年は一人苦しんでいた。
今日は高校の入学式。
通学路を歩いていたその男の周囲には若い男女が同じような藍色の制服を身に纏い、そこはかとなく新たなスタートに期待を寄せる新入生らしき人達も見受けられた。
だが、彼にはそんな余裕が無い。
何故こうも一高校生になる者が、お金の……それも家の存続などと、大それた費用問題を抱えているのか?
単純な話である。彼の元には既に頼る親が存在しないのだ。
そう――、彼の両親は既に他界してしまっているのである。
あろうことか他に頼れるような大人の存在が彼のいる環境におらず、それもある出来事によって同日に二人を亡くしてしまったことで、この歳にして親が残した一戸建ての家計をやりくりするような次第にいる。
しかし、そうまでしてこの家に拘る必要が一体、何処にあるのだろうか?
その答えは彼には支えるべき、一人残された家族の『存在』が偏に大きかった。
長男という責任も然る事乍ら、何よりそんな自分を頼りにしている唯一の家族に辛い生活はさせたくない。
たったそれだけ……否、充分すぎる理由だ。
幸いにも両親は共に高収入だったこともあり、遺してくれたお金で一年近くどうにかやりくりすることが出来た。
だがお金は減りに減り、年齢的な制限もあって一向に増えない現実。
それも、今日でおしまい。
高校生になった彼は、ついに稼ぐ時が来たのだ。
「だーもう……止めだ止めッ!いつまでもシミったれたことを言っていても仕方が無いだろッ!気持ちを切り替えろ、俺ッ!」
思わず日頃の弱音を吐いてしまった自分自身に喝を入れようと、思いっ切り自分の両頬を叩いた悠人。
「中学も卒業し、今日から俺は高校生の身だ。これで労働基準法に縛られること無く、ようやくバイトが始められる!
……どれだけ、待ちわびたことか。よっしゃ、今日からバンバンお金稼ぐぞー!」
現実に目を向けて少しでも今の生活を支えるお金を増やしていき、後々の将来的な給料のことを考えて高校卒業を必ずモノにすべく、学業とのバランスはしっかりとしよう。
天に向かって高らかにバイト宣言すると、周りでそれを聞いていた高校生たちがクスクスと笑い出す。
男は人がいる前で何をやってんだ、と赤面しながら、早足で高校へと向かって行った。
そうして彼が走る最中――、一人の女子高生の横をすっと通り越して行く。
先へと行ってしまった彼の後ろ姿を見るなり、彼女には何か思うところがあったのか、その女子高生は唐突に不思議なことを呟き出す。
「……あれは…………そう、貴方が………………」
これよりあの男に降り掛かるのは、幸か不幸か。
何処かその言葉には、謎の前触れを予感させる響きがあった。
この時は――、思いもしなかった。
今日という日が彼にとって、人生終末の日になるとは…………
「……おい、やばいぞ。誰か、撥ねられたみてぇだ。ありゃあ、助かるのか?」
「そんなこと、言っている場合じゃないだろ!救急はまだなのか!」
「えっ!なになに、事故?マジヤバない?」
事故現場に居合わせたギャラリーがガヤガヤと騒ぎ立て、非常に嫌な空気が辺りを包む。
その中心には――身体から多量の血を流す………、今にも死にそうな姿で横たわる白髪の青年がいたのだった…………。