不安の先
休み時間が後一分ほどで終わろうとする頃、既に教室の外には次の授業の為に待つ他クラスの生徒たちの姿がちらほらとあった。見るからに勤勉な印象を受ける生徒を除けば、男子はそれほどいない。おおよその男子は始業の鐘が鳴ってから教室に移動してくるのだ。
真治のクラスの教室はちょうど生物の授業を行う場所であり、真治は移動する手間暇が掛からないのを幸運に思ってきた。だが今は真逆にそれを不運に思っていた。教室の中から扉のガラス越しに見える廊下には、知り合いがいないで退屈そうに壁に寄りかかっている例のブラウンの女子の姿があったからだ。もし自分も移動する側だったら、この時間、彼女に話し掛けることができただろう。
いよいよ鐘が鳴り、真治のクラスの男子生徒たちも大方は別の場所へと移り始め、廊下に待機していた生徒たちが入れ替わるように教室の中に流れ込んできた。
ブラウンの女子はその流れの後尾にいた。狭い入口のところで生徒たちがごった返すのが終わった頃に、彼女がおごそかな表情でのびのびと教室に入ってきた。左手には教科書と筆箱を抱え、右手でいまいち定まらない後れ毛を調節している。その様子を始終見ていた真治は、彼女が周りの生徒よりも幾らか大人びているように感じた。
ブラウンの女子が依然として堅い表情でポンパドールを触りながら真治の隣の席に着く。彼女は髪に夢中なのか、真治とは一切視線が合わず、挨拶もなかった。真治は待ちくたびれた三日間を想起し、この結果に納得しなかった。
「この間は解答用紙見せてくれてありがとう」真治が横から声を掛ける。
そこでようやくブラウンの女子は真治に気付いたみたいで、はっとした顔でこちらに向いた後に表情をやんわりと解いた。「あ、うん。お久しぶり―」
そこで真治は話の種がないので何も言えなくなる。ブラウンの女子は何事もなかったように自分の携帯電話を弄り始める。シルバーのボディにハート型のデコレーションが施された携帯電話だった。
「えっと、名前は何だっけ?」真治は無理やり話題を作ろうとする。
ブラウンの女子が携帯電話を開いたまま、真治の方に体を向ける。「みんなからは『片桐』って呼ばれてるよ」
「そうか。片桐さんか」真治は彼女が以前、赤いメッシュの女子に片桐と呼ばれているのを覚えていたが、素知らぬふりをする。
「皆してあたしのことを名前じゃなくて苗字の方で呼んでくるの。酷いよね」片桐は姓で呼ばれることに拒絶を示した後、真治の顔を指差す。「まだあたしも名前聞いてなかったよね」
「ああ、そうか。忘れてた。俺は真治」真治は待っていた質問に素っ気ない答え方をした。
「真治君かあ。ねえ、真治君は何か部活とかやってたりするの?」
「いや、部活は何も入ってない」真治は罪悪感があるように小さな声で答える。
「えー、勿体ない。高校の部活って楽しいよ。あたしはダンス部入ってるんだけど、みんなと苦労を分かち合うってのはとても貴重な思い出になるよ」
真治は声を口内に閉じ込めながら頷く。自分が部活に入って、皆と一緒に汗を流す姿がどうしても思い浮かばなかった。「じゃあ、考えておくよ」
片桐がうんうんと満足げに頷いた時、例の生物の教師が教室に入ってきた。生物の教師はYシャツの上に白衣を着ており、その細身の体と相まって何とも軟弱な印象を与えている。
先程まで教室のそこら中で所狭しと飛び交っていた声は教師が教卓に着くと同時にぽつぽつと減っていき、最終的には完全に消えた。そんな無音の教室にチャイムが鳴ってから動き始めた男子たちが続々入室してきた。教師は彼らに注意を促すことなく、そのまま自分の授業を始めた。
そんな時、隣の片桐が小さな声で「あっ」と言った。何事かと真治がそちらに視線を移してみると、片桐が照れ笑いしながらこちらに教科書の表紙を向けていた。
「何かあった?」真治がぼそりと訊く。
「生物じゃなくて、家庭科の教科書持ってきちゃった……」片桐が間延びした声で答えた。彼女の手に握られている教科書の表紙には、確かに「家庭科」という文字が大きくあった。「あちゃー、あたしって本当に間抜けで嫌になっちゃう」
真治は口元を緩める。「そもそも生物の教科書を持ってない俺よりは、全然マシだって」
「あ、そりゃあそうだね」片桐がアイシャドーで真っ黒くなった目を細めながら、クスクスと笑った。
「いやー、危ない危ない。今日は演習なくって良かったあ」片桐が椅子にふんぞり返りながら天井に向かって言った。真治はその際、ミニスカートから出た片桐の艶やかな太股に一瞬目をやってしまい、すぐに彼女の机に視線を外した。
「あ、そんなの気にしなくても良いのに」真治の行動に気付いたらしく、片桐がくすりと笑った。
「いや、そういうのはやっぱり……」真治は同級生を相手に段々とかしこまってくる。教室内は退屈な授業から解放された弾みで一層がやがやと騒がしくなっており、真治の小声など飲み込まれてしまいそうだった。
片桐は爪がマニキュアで浅紅色に塗られた手を使ってスカートの裾をささっと正し、椅子に座り直す。「真治君って教科書を買わなくてちょっと不良っぽい一面があるけど、根はめっちゃ真面目なんだね」
「買わないのは生物の教科書だけだって。他はしっかり買ってるさ」
「本当に生物の授業が嫌いなんだねえ」片桐がしみじみと言った。
それから二人は好きな授業や嫌いな授業についての話などをした。しかし、真治と片桐のクラスは違うのだから当然同じ授業にしても担当している教師は違うので、話題が合わないことがあった。面白い教師や評判の悪い教師、変わり者の教師の話が片桐の口から出ても真治には全く以てちんぷんかんぷんだった。真治はその度に寂しい気持ちになった。
だが、休み時間が終わる頃に片桐がメールアドレスを聞いてきたので、真治の心は嵐の後の見事な快晴のように清々しくなった。
「真治、何か嬉しいことでもあったのか?」真治は気が置けない友人と一緒に自転車で下校しており、その途中で友人が訊いてきた。
隣から覗いてくる友人とは対照的に、真治は真っ正面を見ながら自転車を漕いでいる。「いいや、別に何もないって」
「嘘だ。顔が微妙ににやけてるぞ。絶対に何か良いことがあったに決まってる」
「にやけてない、お前の目がおかしいんだって。ほら、正面に気を付けろよ」真治が顎で前方を指す。真治たちはちょうど坂を勢いよく下っているところで、友人の正面には歩いて下校中の女子高生が二人いた。
片方がブラウンの髪をしており、もう片方が赤いメッシュを入れたショートヘアーをしている。真治はそれが片桐と、以前廊下から彼女を呼んでいた活発で有名な女子だと少し後になって分かった。だが声は掛けないことにした。
友人はブレーキを軽く効かせ、スピードを僅かに落としながら真治の自転車の後ろに付く。二人の女子高生の横を通り過ぎる際、友人が首を少し捻って彼女らをちら見した。
「なあなあ」坂を下り終えて平らな道に出た時、友人がまた隣に並んで言ってきた。「さっきの女子、片桐と立川だよな」
片桐の名前が出て真治は一瞬固まるも、すぐに平然とした態度に戻る。「誰だよ、それ」
「お前、知らないのか? ああ、でも、お前はクラスが違うし、女子のことはあまり興味ないもんなあ。まあ知らなくて当然か。あの二人、結構な有名人なんだぜ」
「どういった有名人?」真治は訊く。気になって仕様がない。
目の前の踏切の遮断桿が下り始める。急げば間に合いそうだと悪い意識が背中を押してきたが、片桐について集中して聞きたかったので真治はパーキングブレーキを握った。友人もそれに連動して自転車を止めた。
友人はハンドルバーを握りながら、おもむろに口を開く。「なあ、真治。女子ってのは幾つかの大きなグループがあって面倒くさそうなのは流石に知ってるだろ? さっきの片桐と立川は、俺らの学年で一番幅を利かせてる女子グループの中心メンバーなんだ。赤いメッシュにしてた方が立川で、ブラウンの髪をしてた方が片桐。二人とも所謂幹部みたいなポジションに就いてる」
真治は絶句した。片桐の本性を突然こんな形で知らされ、しばらく頭の中が真っ白くなってしまった。
「あの二人が? 俺には全然そういう風には見えなかったぞ」真治は友人が言ったことを否定するしかなかった。三日前や今日のやり取りから、片桐が悪い人間などと信じられる筈がなかった。
そうとも知らない友人は、真治を世間知らずだとでも言うように呆れ果てた目つきで見てきた。「立川の髪を見ただろ? まともな高校生、いや、人間があんな派手な髪をするかよ。真治は顔や爪とか見てないから仕方ないけど、あの二人、かなりケバいんだぜ。いくら女子高生で色気づいてくる時期だと言っても、あの化粧は異常だ。あり得ない」
そこまで言われ、真治は何も言い返せなかった。実際、片桐が派手な色の口紅やマニキュア、アイシャドーなどをしているのを間近で見て知っていたからだ。
警報機が大きな音を鳴らしながら赤い閃光灯を光らせ続けるばかりで、電車は一向に通過しない。このまま永遠にこの踏切を渡れないような気すらした。
「おい、真治。どこか調子悪いのか? さっきまであんな幸せそうな顔してた癖に」賑々しい駅前のゲームセンターの駐輪場で友人が心配そうに言ってきた。
真治はただ黙って、鬱憤晴らししようと早足でゲームセンターの入口に向かう。
ゲームセンターのドアがひとりでに開いた瞬間、耳をつんざく巨大な雑音が封印から解かれた魔物のように飛び出してきた。真治は構わずエスカレーターに乗って二階に向かった。
途中、真治と同じ高校の制服を着たカップルがクレーンキャッチャーをやっているのが見えた。男子はごくごく平凡な高校生という感じだったが、ロングヘアーの女子の方はモデルのように綺麗な小顔とバランスのいい体型をしていた。真治はその男子と女子両方に見覚えがある気がしたが、カップルはどんどん斜めに小さくなっていき、アーケードゲームの広告が貼られた壁の中にあっと言う間に消えてしまった。
二階に着いた真治はそのカップルや片桐のことをすっかり忘れるようにして、両替機で千円札とメダルを交換した。友人を置いてけぼりにして、さっさとコインを落とすゲームの椅子に腰を下ろす。友人は「慌て過ぎだ」と文句を言った。
左右に動かせるレールを経由して、コインがゲームの中に滑り込んでいく。コインは前後に動く台の上に落ちる。そこには仲間たちがたくさん群がっている。仲間の上にピラミッドのように乗っかる不届き者たちがいるが、真治の手放した最後のコインは嬉しそうにそこに飛び込んだ。後には、奥底に潜む者の歓喜の音だけがあった。
真治は長嘆をつきながらガラスに頭を寄りかからせる。「今日は最悪だ」
「お前、相変わらずコインゲームに弱いんだな」真治の隣に座る友人の手元には、コインが溢れ出そうなケースがある。真治は「少し分けてくれ」とぼやいたが、辺り一帯に轟く機械音にかき消されてしまった。
仕方なく席を離れて両替機のあるところへ向かう。道中、ワックスで鶏冠のように髪を立たせている店員とすれ違い、無表情に「いらっしゃいませ」と言われた。その店員は監視の役割を担っているのか、店内をぶらぶらと歩いては近くに客がいると同様の挨拶をしていった。
しかし誰も返事や頷きをしなければ、店員を気にする動作すらしない。皆、目の前のゲームに意識が溶け込んでしまっている。それは当然と言えば当然のことなのに、真治は自分が直前まで彼らと同じ状態だったことを想像し、静かに身の毛をよだたせた。
真治が両替機の前で財布を開いたまま手を動かせなくなっていた時、すぐ近くのエスカレーターに先のカップルが乗り始めていた。
それに気付いた真治はどうしてか心が焦り始め、せかせかと財布に手を突っ込んでは千円札を出そうとするも、手を滑らせて小銭をばら撒いてしまう。大小様々な小銭が奏でる音はやはり轟音に飲み込まれてしまった。
気忙しく小銭を拾っていると、カップルがエスカレーターを降り、真治の目の前に立った。すると二人は急いでしゃがみ込み、床に撒かれた小銭を拾い始めた。
見える限りの小銭を全て財布に戻し終えたが、カップルは未だに周りを確認していた。真治は悪く思い、「もうこれで全部です。ありがとうございました」と丁寧にお辞儀した。カップルは両名ともかしこまった態度で「いえいえ」と一礼した。囂然たる店内の所為で、互いに声を張らした。
「あ、同じ高校ですよね?」モデル顔の女子が真治の制服に気付いて言った。
男子が目を凝らして真治の顔を見てくる。「確か、俺と同じ六組じゃなかったっけ?」
真治はそう言われてみて、男子が自分と同じ学級にいたことを思い出した。彼がいつもお調子者の男子と一緒にいる休み時間の景観が容易に浮かんだ。名前を知らなかったり意識をしていなくても、自然と視界に入っていたそれは脳の深層に根付いていたようだ。
しかし、女子の方は男子よりも見覚えがあるというのに、学級内に馴染む映像がこれっぽっちも浮かび上がってこない。映像が浮かばないのはクラスが違うということなのだろうが、どうしてこれほど鮮明に彼女に覚えがあるのだろうか。廊下か何かですれ違って、彼女の強烈なオーラが記憶の端に付着したのだろうか。
真治の固定された視線に感づいたらしく、女子がクリクリとした目をぱちくりとさせながら口元に微笑を形作る。「わたしの顔に何か付いてる?」
「いや」真治は声を籠もらせながらすぐに視線をずらす。
「えっと、名前は何だっけ? 悪い、覚えてなくてさ」男子が苦笑いする。
「俺は真治。別にいいよ、クラス同じでも話したことなければ、そんなものさ」
「そうか、真治君か。俺は勤。今日はデート中だからさ、今度話そう。ここじゃ煩いしな。それじゃあ」
そう言って勤は女子の手を握り、コインゲームの密集地に消えていった。去り際に女子が人懐っこい笑顔で真治に一礼していった。
真治は何気なしに二人を見送ったが、自分もコインゲームのところに戻ることをふと思い出し、帰ろうにも帰れなくなってしまった。
しばらくの間、突っ立っているだけだったので、真治は今の女子について考察してみた。容姿は言わずもがな、雰囲気も大変好感が持てるものがあった。当然、真治が女子に惚れることはなかったが。彼女が多くの男子から好意を寄せられているのは想像に難しくなかった。
それを踏まえると、どうして彼女は勤を恋人として選んだのだろうか。こういう言い方は至極失礼ではあるが、勤のような平凡な雰囲気の男では彼女に釣り合わないと真治は思った。きっとそれを補うだけの魅力を内側に潜めているに違いなかったが、それにしてもあれは、『何か特殊な作用が働いた』気がしてならなかった。
時間を置いてから友人のいる場所へ戻ってみると、彼の手元にはコインが溢れ出そうなケースが二つあった。これも、何かしらの特殊な作用が働いているように思えた。
「よお、遅かったな。どこをほっつき歩いてたんだよ」
「店内にはどんなゲームがあるのかなって、見て回ってた」
「まあいいや。それよりも、さっき勤と篠ちゃんがいたよな。仲良く手を繋いでいやがった」コインの挿入口に伸ばした手を宙ぶらりんにしたまま、友人が不機嫌そうに言った。友人の口元は、こみ上げてくる不満を完璧に抑えきれていなかった。
「それって、モデルみたいな顔した女子と男子のカップル?」
「そうそう、その二人。でもな、篠ちゃんはモデルみたいじゃなくて、本当に雑誌でモデルをやってるんだぞ。大した知名度がある雑誌じゃないけど、全国にファンがいる。うちの高校には秘密裏にファン倶楽部が存在してるんだぜ」
友人に解説され、真治の頭に余計濃いもやもやが立ち込めてきてしまった。それでは尚更、篠の心を射た勤に疑念を持たざるを得ない。「勤ってのはどうしてそのモデルと付き合えたんだ?」
「そうなんだよ。お前もそう思うだろ!」友人は真治が疑問符を投げ掛けてくるのを心待ちにしていたようで、ここぞとばかりに言葉の調子を強めた。「学年、いや、学校中の誰もが不思議に感じてる。本人たちは何も教えてくれない。判明しているのは、二人が生徒会で知り合ったということくらいさ」
友人も篠のファンなのだろうと真治は理解した。そして真治はとっさに、勤に今の自分と似たところを発見した。
自分と片桐、勤と篠。そこに共通しているのは世間体という壁だ。篠との間に大差が生じているのに、それを埋めることに成功した勤。評判がすこぶる悪い片桐に恋し、苦悶している自分。
自分と勤は似ているのだ。ベクトルが違えども、二人のスタート地点は同じなのだ。そして、全くの別方向にも関わらず、行くてを阻んでくる向かい風は両者同じだった。つまり、二人は真の意味において似ているのだ。
責任感を勝手に抱き、即席の観客席を作ってはいつの間にか腰を下ろしていた人間たちの黄色い声をはねのけ、勤は前進した。ならば、自分もやってみるべきではないか? 似た者同士だ、きっと異なる方角へ進んでも、いつしか同じ終着点で顔を合わせる筈だ。
真治は勤に働いた『魔法じみた力』を少しだけ理解できた気がした。それにより、力をお裾分けしてもらえないだろうかと淡い期待を胸に宿した。
瞼を開けた瞬間、灰色に染まった天井が目についた。真治は今まで見ていた夢の残滓にしがみつくことなく、枕に載せた気だるい頭を左右にゆっくりと動かした。
部屋はほの暗い闇に包まれており、しんと静まり返っている。離れたところにある二つの布団の中に法子と道夫の姿を確認し、建物の間を通り抜けるすきま風のようにそっと息を吐き出した。
道夫の寝息が僅かに聞こえた。しかしそれは、開かれた窓の外に広がる爽やかな明け方の空気に溶けていった。この部屋の時間は止まってしまっている。些細な物音もご法度だろう。
真治はそっと枕と頭の位置をずらす。ついうっかりと布団の擦れる音を室内にさせてしまったが、両親は一切反応しなかった。
そうして邪魔を払いのけた真治は、どうしてあんな夢を見てしまったのかと考え始めた。今は千夏という輝かしい存在があるのだから、粘り気ある闇が纏綿している片桐のことを想起する必要などない筈なのだ。それでも彼女がまた現れたのは、何かしらの警鐘なのだろうか。
窓枠に収まった夜明けの向こうから、鶏の鳴き声がした。真治は思考を中断させ、枕の側にある充電器に嵌った携帯電話を掴む。時刻は五時。七時間後には、川原で待ち合わせた千夏と会っているだろう。でもそんなことがあるという実感はこれっぽっちも湧いてこない。
しかし、今はとにかく眠い。また片桐関連の夢を見ないようにと願い、真治は流されるがままに再び瞼を閉じた。
「真治、そろそろ起きなさい」寝起きにも関わらず、真治は法子の言葉をしっかりと聞き取った。
小声でうーんと唸る真治の布団を力ずくで引き剥がし、法子は強い語気を含ませて言う。「真治、いい加減にしなさい」
真治は虚ろな表情で上半身を起きあがらせ、大きく伸びをする。澄んだ朝の空気と一緒に、畳の臭いが鼻腔に押し寄せてきた。
法子は真治が起き上がるのを見届けると、自分や道夫の布団を綺麗に畳み始める。道夫はと言えば、窓際の肘掛け付きの椅子に座って寛いでいる。旭日に照らされた煙草の煙が、ゆらゆらと空を泳ぎながら開け放された窓口を通り抜けていく。
真治はとうに充電の完了している携帯電話を開き、眠気ののし掛かる瞼を指で擦ってから時間を確認する。六時。二度寝してから一時間しか経っていないのに、片桐の夢を見たのがもっと前のような気がしてならない。
道夫は足を組みながら地方新聞を広げていたが、随分と長い間一面のページで読む手を止めていた。ようやくページを捲る時、やるせない顔で「よくもまあ、いけしゃあしゃあと風邪だなんて嘯けたものだな。どう見たって、ただの酔っ払いだろ」と言った。
全員分の布団を片付け終えた法子が窓際に放置された鞄を漁り、化粧道具を手にして洗面台とトイレが付属の浴室に向かった。浴室の扉がばたんと閉められた音を聞くと、道夫はガラスのテーブルに新聞を置いた。
「真治、今日もあの女の子に会うのか?」
「ああ。美海部村で知り合えた数少ない同年代だからな。美海部をもっと案内してもらおうと思ってる。いけないか?」
「え、ああ……、別にそうすれば良いじゃんか」真治の意外な返答に道夫は言葉を詰まらせた。
今まで道夫に対しては一切無視を続ける方針だった真治がそうしたのは、昨夜の純の件に懲りたからだった。口は災いの元、言葉を発しなければ万事全て上手く行くなどというのは大きな間違いだったのだ。
「思春期真っ只中の少年よ、あんな可愛い子を連れてどこに行く気だい?」道夫が暢気に訊いてきた。
そんなところにばかり興味をそぐなと、真治はげんなりする。「さあ。まだ行き先は決まってない。そこらを適当にぶらぶらと歩くだけなんじゃないか」
「ふん、ここ二日間みたいに法子を心配させる真似だけはするなよ」真治の目をしっかりと見つめながら、道夫が真面目な顔で言った。
「そんなことは分かってる」
「本当に分かってるかあ?」
真治は仕方なしに首を前に振った。道夫個人の忠告程度だったら意に介することなく済んだのだが、法子の名前を出されたのが不味かった。法子がいない隙を狙ってきたあたり、道夫は確信犯の可能性が高い。
「法子に関わらず、女を心配させたり泣かせたりする男は最低だぜ。お前は今のところ、それを二度もやっちまってる。最低な行為を二日間に二回もだぜ? とんでもないガキだな」
道夫の言葉攻めを反撃することができない。それが覆しようのない事実だということは、真治自身が一番よく了解していた。「絶対に、もうそんな失態はしない」
道夫が惚けた顔で首を傾げる。「本当かよ。俺には信じられねえな」
「父親なら、息子の言うことを信じろ」
髭剃りがまだ済んでない道夫の口元は、真治の発言にすぐ反応を示した。瞬時に口角が斜めに向かった。「お前が『父親』とか『息子』なんて言葉を使う日が来るとは。ああ、俺はとても嬉しいぜ」
真治は自分の犯した過ちを悔いながら道夫を睨みつける。「とにかく、信じろ」
「ああ、そうまで言うならお前を信じるしかないよな」道夫はそう言って右手を前に突きだしてきた。
真治が小首を傾げていると、道夫の右手の人差し指が何度も前後に折り曲げられた。それはまるで、人差し指が腹筋をしているようだった。そこで真治は、道夫が誓いの握手を求めているのだと感知した。
「ほら、男と男の約束だ」道夫が恥ずかしげもなしに真剣な顔で言う。
真治は内心じくじたるものがあったが、ゆっくりと道夫に近付き、広げた右手を差し出す。法子が化粧を終えて浴室から出てくる前に、さっさと握手をしてしまおう。
ところが、真治の右手が触れる直前に道夫の右手が小指だけ残して折り曲げられた。その瞬間、道夫の小指が猛スピードで鎌のように振られ、真治の小指を捕らえた。捕まってしまった小指は強い力で押さえられ、逃亡を許されなかった。
突然のできごとにどきまぎする真治を後目に掛け、道夫がまんまとしてやったりという風に溌剌とした笑みを浮かべた。
「ゆーびきりげーんまん、うそついたらはりせんぼんのーます。ゆーびきったー」
真治は茫然自失してしまい、いつものため息を零す行為すらできなかった。
その後、化粧を完了させた法子と道夫は、真治に七時半頃になったら例の小規模な宴会場に来いと伝え、先に悦子たちが朝食の作業を始めている台所へと行ってしまった。
既に布団などの一式を片付けられてしまった真治は、このまま部屋で寛いでいては駄目だと分かっていた。布団が残されていたのを除けば昨暁も真治は同じ状況になっており、観れる番組のないテレビを見つめている内に段々眠気がやってきて、「少しだけなら」と瞼を下ろしてしまったのだ。八時になっても一向に宴会場に現れない真治を法子が見にきて、散々怒鳴り散らされてしまった。
その出来事を反省した真治は、いくら意識していても眠気の再襲撃にはあっさり敗北してしまうと判断し、柄にもなく早朝の散歩に出ることにした。
早朝の清涼な空気は肌に心地よく馴染むので、盛夏と言えどもあまり暑いとは感じなかった。次第に習慣となりつつある首にタオルを掛けておく行為も忘れずに、真治は宿を囲む塀に沿って歩いていた。
辺りに壮大に生える稲たちは、朝日の発する傾斜した光芒を反射させ、田んぼそのものが輝いているように見える。朝明けの空のお陰で、山々も一層豊かな緑を咲かせている。民家の塀の付近には、朝顔が立派な漏斗型の花を咲かせているのが見受けられた。
真治はふと千夏と落ち合う、御天神社や川原がある山を探し当て、回れ右をして反対側にそびえ立つ大きな山を見つめる。恐らくこの青嵐とした山の袂に五仏坂があるのだろう、と予め確認しておく。
昼間は農業にいそしむ姿以外は殆ど人というものを見なかったのだが、朝方は今までと違う人々の姿を垣間見れた。真治と同じように散歩中の中高年が数人いたのだ。中にはランニングシューズや短パン、タンクトップといった完全装備で走っている中高年もいた。
真治以外は皆、眠気というものを一切感じさせないきびきびとした活発ぶりだった。老人たちはすれ違う毎に皆しっかりと挨拶してきたが、真治には「若者のくせに情けないな」と嘲笑されているように感じられて仕方なかった。
悔しくなってきた真治は、年寄り連中には負けないようにと走り出した。そんな中、昨夜温泉で知り合った中年男性に道端で出会した。
中年男性も運動好きな老人たちに負けず劣らずな完全装備でのランニングをしている最中だったようで、額には大量の汗の玉が浮かんでいる。タンクトップや短パンからはみ出す体はやはり屈強だ。有名なスポーツブランドのサングラスやシューズなどからも、運動が慣習になっているのが窺えた。
「やあ、こんな時間のこんな場所で会うとは思ってもなかったよ。私に『運動不足』だと言われたのを気にしてしまったかな?」中年男性が真治の後方から横に付き、走る速度を落とす。
「いえ、単なる朝食までの暇つぶしですよ。運動不足とは一切合切無関係なのであしからず」
「暇つぶしが早朝からの運動とは。なかなか感心だな」中年男性はスポーツマンらしくからっと笑う。
真治は中年男性を煩わしく感じていた。千夏と二人だけで共有する筈だった思い出が、第三者に一部でも流れていってしまうのが気に食わなかったのだ。
しかし元を質せば、真治が断れるものを断らなかったからこうなったのだ。中年男性と宿の人間が、客と従業員の関係を逸しない限りは情報が漏れることは先ずあり得ないだろうと、ついつい気を許してしまったのがいけなかったのだ。
しばらく二人は、無言のまま田と塀ばかりの道を何周かし、早くも疲労と倦怠感が蓄積されてきた真治が先に引き上げることになった。中年男性は後もう少しだけ走ってくると言い、塀の死角に消えていった。
中年男性は一度たりとも、昨晩の約束の件については触れてこなかった。真治にはそれが不思議でならなかった。もしかしたら、あまりにも心ない発言だった為に言い出しっぺの彼が忘れてしまっているのではないか。それはとても無責任な話だが、真治は寧ろそうであって欲しいと思った。
予定通り七時半に宴会場へ行き、食事を済ませた。昨日は寝坊したから家族での朝食となったが、いざ計画に従ってみると、本来は宿泊客の中に真治ひとりが紛れ込むものだと判明した。手伝いをする法子たちに合わせていたら、真治があまりにも腹を空かせてしまうだろうという配慮だったようだ。
宴会場には齢六十くらいの老夫婦に、三十代後半くらいの両親に幼い子供といった三人家族がいた。まだランニングをしているので、カメラマンをしているあの中年男性の姿は当然ない。
あの中年男性には「家族で来ている」と言ってしまった。中年男性がこの宴会場に来たら、当然真治の存在に気付くだろう。同時に、ひとりでいることも。それはとどのつまり、中年男性に浅はかな嘘が見抜かれてしまうということだ。
真治は中年男性との接触だけは避けたかった。幸い宿の人間とは今日はまだ会っていないので、もう一度部屋に戻って寝てしまおうかと考えた。しかしそれはそれで法子に何と怒られるか知れないし、あの中年男性ひとりの為にそこまでするのも馬鹿馬鹿しく感じた。
真治の導き出した答は、「中年男性が来る前に食べ終えて、引き上げてしまおう」だった。今までやったことのないくらいの早さで朝食をあくせくと掻き込み、その場を後にした。一部始終様子を見ていた周りの客たちは顔に驚きを浮かべていたが、どうにか中年男性との遭遇を免れただけで真治は満足だった。
それからは、大人しく部屋で時間を過ごすことにした。千夏との待ち合わせは正午。絶対に遅刻だけはしたくない。真治はあの川原まで行くのに掛かる時間を踏まえ、十時半くらいに宿を出る計画にしている。現在は八時。残り二時間半。
どうせめぼしい番組などやってないのは分かっているが、真治はテレビのリモコンに手を伸ばす。テレビの電源が点いた瞬間に現れたのは、青ばなを垂らした坊主頭の子供だった。如何にも田舎臭い子供を前景にし、後景には古びた焦げ茶色の神社と地方らしい幾つかの小さな屋台がある。そこの神社で行われた祭りの様子を放送しているようだった。真治はまさかと思いじっと画面に食い入る。しかし御天神社とは似ても似つかなかった。少しの間それを観ていたが、どう楽しめば良いのか分からなかったのでチャンネルを変えた。
他のチャンネルを回してもこれといって気を引くものはなかったので、テレビの電源を切り、リモコンをテーブルの上に滑らせた。真治は初日と同じよう、寝転がっている座布団に蓄積されてきた熱が鬱陶しくなってくる。
起き上がって携帯電話に表示された時刻を見る。現在は九時二十四分。ここを出るまでは後一時間以上を潰さなければならない。しかし手段がもうない。
そこで真治は、下見を兼ねて五仏坂を散歩してみることにした。思いたったら早く、すぐにタオルと携帯電話を持って玄関へ移った。
一昨日は外出するのに部屋の窓を使ったが、今日は堂々と宿の中を経由して出れた。真治はかね折れ階段を降りてる際、水色のエプロンをして雑巾入りのバケツを運ぶ純に出会すも、「夕方にはちゃんと帰ります」と一言伝え、「ねえねえ、これから誰と会うの」と探りを入れてくる彼女を無視して急ぎ足で宿を抜け出した。
五仏坂はその名が表す通りずっと斜面が続く、山の麓に位置しているだけのことはある場所だった。とは言っても気に障らない程度の非常に緩やかな坂なので、千夏と二人で歩き回るのに弊害を伴いそうな雰囲気はなかった。
御天神社の周辺に比べれば樹木の生えている密度はやや小さく、木そのものが質素にやせ細っている。坂から転げ落ちないよう根だけは太く張っており、必死で地面にしがみついている。しかし枝葉は色鮮やかな薄緑で、夏日を神秘的に吸収して見事に坂を美麗に彩っている。
真治の立っているところは斜面が始まるちょうど手前であり、近くには「五仏坂」と書かれた、空き缶やゴミ箱のイラストを彷彿させる色の掠れた古びた看板が佇んでいるので、ここから五仏坂に当たることは明瞭だった。坂道は複雑に揺らめく炎のように数多もの曲線を描いているので、いくら緩い傾斜と言っても真治のいるところからでは五仏坂の大部分は見通せなかった。
それでもここが素晴らしい場所であるのは間違いがなさそうだ。あの中年男性のカメラマンがこの坂を推薦したのも納得がいった。
真治は本日何度目か知れない携帯電話の時刻確認をする。現在九時五十七分。今から移動したとしても、しばらく何もない川原で待つ羽目になるのは目に見えている。しかしながら、余裕綽々(しゃくしゃく)と道草を食っていた所為で時間に間に合わなくなる、とだけはいきたくない。千夏が遅刻を咎める性格ではないにしても、真治本人が自尊心からそれを許せる筈がなかった。
ではここは中間をとり、岩に座って数分間だけ休憩しよう。今日は美海部村生活の中で一番長い距離を歩くだろう。太ももがぱんぱんに張って悲鳴を上げるに違いない。そういう考慮をし始めると早朝のランニングがすぐさま思い出され、あれは失敗だったかも知れないなと反省した。
五仏坂の看板の近くに腰を下ろせる大きな石を発見し、歩み寄る。すると、石の影に隠れた小振りな地蔵が足元にあるのに気付き、真治は足の動きを止めることなくすうっと避ける。
目的の石に座り込むと上半身だけ前に突き出し、踏んづけてしまいそうな場所にある地蔵を斜め上から覗き込んでみる。娑婆の平和を心から祈る神聖なる菩薩の尊容がそこにあった。真治ははなはだしく恐懼し、覗き込むのを止めた。それ程までにこの地蔵には言い知れぬ慈愛が溢れているのだ。
清浄なる地蔵の目前には供え物が幾つかある。万が一にもあり得ないだろうが、地蔵や供え物を踏んでしまったら大変だ。真治は直ちに立ち上がり、地蔵から離れる。
ふと五仏坂の名前の由来はこの菩薩から来ているのではないかと思った。「五体の仏がいる坂道」だから「五仏坂」というのはどうだろうか。菩薩と仏はそもそも別物ではあるが、鴨井の説明にあった「神仏混淆」のような入り乱れた事情があってこうなったのかも知れない。美海部村や御天神社の由来を念頭に置けば、この推測は全くの見当違いではない筈だ。
しかしそうなれば地蔵は五体あることになる。ここにあるのはたったの一体。後四体はどこにあるのだろうか。恐らくは、この長い坂道のあちらこちらに点在しているのだろう。
千夏と歩き回りながら一緒にそれを探してみるのも悪くない。地味ではあるが話題に困らない素晴らしきイベントができた。機嫌を良くした真治は、鼻歌を奏でながら五仏坂を後にした。
昨日一昨日と続けて通った迷うことなき安全な山道を行き、真治は御天神社の前まで辿り着いた。額束に書かれた「御天神社」の文字に一瞬目をやったのち、鳥居の脇にある木陰濃き小道に入る。携帯電話の時刻は十一時二十分を示している。ここまで思ってた以上に時間を消費している。五仏坂から寄り道をせずに直接ここまで来て正解だった。
もう後僅かで千夏との長い時間が始まる。それを考えると心臓の鼓動が高まってきて、額や首筋に汗が浮かんでくる。もう三度目なのに、千夏と会うことに緊張しているのだ。彼女が神秘的な雰囲気を纏っていて、自然とガラス細工を扱うように慎重になってしまうのを踏まえても、この不安は尋常ではない。
それは喜ぶべき未来で、寧ろ期待を抱いて鼻歌混じりに歩み寄るものの筈なのに、自分は徐々に迫りくる選択肢なき現実を恐れているのだ。片桐の件から学んだ、忘れかけていた感覚が澱んだ沼の底から顔を覗かせている。もうすぐ、全身が現れてしまう。
ジーーーー……
シャシャシャシャシャ……
日射が差し込む山林のどこかでクマゼミが鳴き立てている。大概の場合はアブラゼミだったが、蝉の声はいつも真治の心に底知れぬ温みを与えてくれている。それは母なる温かさとは異なる、自然そのものに抱擁されているような体温を用いない温かみだ。
傷みの底なし沼に足を突っ込んでしまった真治を、今回も助けようとしてくれているのかも知れない。そう意識することによって、真治は心の中にちらつく黒い汚れが払拭された気分になれた。
例え誤解だとしてもいいから、後先など考えずに千夏と一緒にいれることだけを喜んでいよう。そうしないと散歩を快く承諾してくれた千夏に失礼だ。真治は先程よりも断然軽やかな足運びで、険しい山道を下り始めた。
不安の先には、いつだって脆い希望がある。過去に身を以て学んだ、その教訓を記憶の一隅に追いやるように。
川原に着くと、千夏が既に大きな石に座って待っていた。今日はレースが入ったピンク色のノースリーブに茶色いタイトのハーフパンツを着用している。真治を助けようとして紛失してしまった帽子は当然ない。昨日まではサンダルだったのに、今日はカジュアルなスニーカーを履いている。山などを歩き回るのに適した格好だ。
真治が懸念していた、全身真っ白い格好ではない。結局あれは、単なる早とちりだったのだろうと自得する。連日同じ服装だなんて不思議過ぎるし、何よりそんな奇行に走る理由がないのだから。
千夏は手で口元を覆いながら、抑えきれない興奮を静かに漏らす。「凄い楽しみにしてたよ」
「たくさんの候補の中からようやく決定したんだ。五仏坂ってところに行こう」
「五仏坂?」千夏が小首を傾げる。美海部の地を紹介する為に今日の企画が立てられたのだから、当然の反応だった。
「特別面白い場所がある訳じゃないけど、凄く自然が豊富なんだ。のんびりと散歩するにはもってこいかなって。それで良いかな?」
「うん。わたし、是非そこに行ってみたい。今日はずっと、真治君に従って付いていくからね」
千夏が自分に全てを委ねてくれている。昨日会った時もそうだった。千夏は美海部という地に長くいながらも美海部についてあまり詳しくない。真治は思った。言わばそれは、籠の中の鳥のようなものだと。
飼い主の自室で一生を過ごした鳥の内、その部屋のことを正確に把握できていた鳥は何割くらいいるのだろうか。放し飼いされていた鳥ならば、机の裏にどのような埃があるか、どのような物が落ちているのかが分かるかも知れない。だが籠の中の鳥にそれはできない。
飼い主やその家族が机の裏に物を落としてしまう瞬間は目撃できても、その落ちた物が長い年月を経てどのような状態になっているかは分からない。それを知る為には、現物を見る他ない。籠という狭い範囲しか移動できない鳥が、どうしてそれを成し遂げられようか。
千夏もそれに似ている。美海部という地に住んでいた経歴はあっても、鳥籠に入っていた彼女は美海部についての知識が乏しいのだ。今日、自分は鳥籠を開けて彼女を外に放す。真治は己の役割を理解した。
「ねえ、早く行こうよ」千夏が石から勢いよく立ち上がった。
川面から反射してやってきた日差しが彼女の細やかな栗色の髪ではじけた。真治は光の残滓でより一層輝く彼女の透明な微笑みに目が眩みそうになった。
二人はすぐに来た道を逆戻りした。御天神社に面した道路に出た時、千夏は鳥居や半鐘に目を配り、避けるように早歩きになった。真治は気になりながらも、その理由を問い質すことはしなかった。彼女は今さっきまで自分がいた鳥籠を振り返りたくなかったのだろう。
当初から案じていた千夏の体力に関しては至って問題がなかったみたいで、彼女はちゃんと真治の横に並んで山道を下った。その途中で真治は、自分が身を置いている宿について色々と語って聞かせた。田舎とは不釣り合いな外装なのに、金には貪欲な部分がそこかしこにあること。でもそのお陰で見ることができた「地上の星空」。
真治は何の飾り気もなく真顔で、それらの出来事を誰がどうしてこうなったと忠実に報告していったが、千夏は所々で些細なことにも笑みを浮かべていた。いよいよ山麓まで来たという頃、どこが楽しいのか尋ねてみると、千夏は「個性豊かな人たちに囲まれていて楽しそう」と軽快に答えた。
例のY字型の分かれ道のところに着き、ガードレールを跨いだ先に待ち構えるけもの道を時間短縮として普通に使おうと考えたが、千夏があまりの急斜面に足を痛める可能性があったので止めた。代わりに木陰が濃厚な下り坂の方を進んだ。
真治もこちらの道を使うのは初めてだったので言い知れない不安に駆られたが、殊の外、複雑に絡まる頭上の枝葉によって辺りがどんより暗くなっている以外は何の問題もないただの一本道だったので、取り越し苦労に終わった。寧ろ真夏の日射を幾分か妨げてくれるその場所は、真治に冷静な頭で会話するのに一役果たしてくれた。
「真治君はお父さんのことが嫌いなんだよね?」千夏が和やかな表情で訊いてくる。喋ってる内容の深刻さとは不釣り合いな表情だった。これでは真治が、『大好きな父親』について語っているみたいだ。
「いいや、あいつにそんな感情を抱く筈がないだろ。ひと様に『俺の父親はこんな人です』と自慢できる箇所がない。威厳がこれっぽっちもないんだ。最低だろ?」
千夏は鼻柱に折り曲げた人差し指を当ててほんのり笑う。「なんでお父さんが好きか嫌いかの話になってるの? わたしはただ、真治君がどうしてお父さんを嫌ってるのか理由を聞こうと思っただけなのに」
「千夏の目が、『本当はお父さんが好きなんでしょ?』と言っていたから」
「なにそれ」千夏がおどけるように目を細める。「わたしはそんな目をした覚えないなあ。真治君の勘違いでしょ」
もうその件についてはどうでもよくなった真治は、話の焦点を変えることにした。「千夏の親はどんな感じ?」
千夏は答えずに、うつむいたまま歩き続けている。服や透き通るような肌に施された明暗の斑な化粧は、千夏の表情をより暗澹として見せた。真治が冷や汗を書き始めた時、場を取り繕うように千夏が嬉々とした口調で言った。
「とても素敵な親だよ」
微量の陽光を漏らしていた緑色の網の天井がなくなると、二人の前に美海部村の大半を一望できる開けた丘陵が現れた。千夏がわあっと言って充溢する光の中を駆けていく。真治も歩調を早めてそれを追い掛ける。
先行する千夏の髪は無造作に波をつくり、先端は彼女の晒け出された白い肩をくすぐるように陽気に跳ねている。太陽光線を浴びながら動くそれは、濃艶な海原だった。美海部が喪失してしまったものがそこにはあった。
立ち止まるのと同時に、千夏の髪に宿っていた光輝がすっと抜けた。鴨井と被る華奢な後ろ姿にやっと辿り着き、真治は声を掛ける。「千夏、はしゃぎすぎだって」
こちらへ振り返らずに村落を見つめながら、千夏が囁くように静かな声を出した。「こんな風景、初めて観た」
「あ、そうか。御天神社や川原からじゃ、こんな光景は観れないのか」千夏の激昂に合点がいった。
およそ五分間、二人は美海部の村落を眺めて過ごした。民家の隙間に道や田んぼなどがあるというよりは、広大に敷かれた道や田んぼなどの隙間にかこしこまった感じで家々が置かれているようだった。田んぼや畑に視線を注いでみると人らしき小粒を確認できた。そんな中でも、でこぼこな土の上を走る車の姿は目立っており、真治は車の軌跡を目で追い続けた。
存分に満足したらしく、千夏が振り向き様に「お待たせ」と言ってかぶりを縦に振った。垂れ下がる前髪の隙間から覗く目には、泣き腫らした跡が残っていた。
坂道に合わせて倉庫らしき小屋が緩い傾斜で立っている。小屋に接する形で立派に咲くひまわりの花壇が設置してある。有り余るほどの農具を積んだトラックが近くに停めてある。例のけもの道との合流地点に着いたようだ。
更に進んでいき、傾斜が段々なくなって道にタイヤの跡が見受けられるようになりだした頃には、ひなびた家屋がぽつぽつと現れ始めた。改まって見てみれば、民家はそれぞれ個性を持っている。今し方、丘から俯瞰した際にはそれらに気付くことなどなかった。
あの丘からだと、今の自分たちはどのように見えるのだろうか。真治が考えていると、千夏が清涼とした顔で尋ねてきた。
「さっきの綺麗な風景の中のどこかに当然、ここも入っていたんだよね。もしも今、あの丘から村を見渡してる人がいたらさ、その人の瞳にわたし達はどう映っているのかな?」
「きっと胡麻程度にしか見えてないと思うよ。たとえ俺や千夏の知り合いだったとしても、きっと俺たちだって判別できない」
「どんな人だろうと、例外なく同じものになっちゃうんだね」千夏の瞳が物悲しそうに陰りを帯び始めた。
時間が突然停止してしまったように、真治の顔から数秒の間表情が消えた。千夏の言わんとすることを自分なりに解釈し、真治は彼女と視線を結ぶ。
「うん、そうなる。ただし、それだけ高い場所から見れた場合に限ってさ。きっとそれは不可能に近いと思う」
夏の清爽とした輝きが、千夏の瞳に再び宿った。「うん。そうだよね。余計なこと言っちゃってごめんね」
千夏が頭を枝垂れさせて重い空気になるのを防ぐため、真治は矢庭に先手を打つ。「いいや、間隔の違いはあれど、誰だって物憂くなることはあるさ。そうじゃない人間がいたりしたら、怖くて近寄りがたくなると思う」
うん。千夏は自分に言い聞かせるように先細りな顎をそっと引いた。
湿っぽい空気が二人の間に渦巻いている。何か明るい話題を提供しなければと不安が真治に兆した時、見覚えのある小さな姿が二つ、路地からこちらへとことこと迫ってきた。
形が次第にはっきりと見えてきはじめ、それが二日前に会った小学生くらいの男の子と女の子だと気付いた。真治はこめかみをひきつらせて周章した。
ふと千夏の様子を確認すると、何故か彼女は真治よりも居心地が悪そうに、まるで因縁の相手に出会したかのように眉をしかめていた。その訳は分からなかったが、子供たちとの遭遇が二人にとって、予期せぬ苦境以外の何ものでもないのは間違いがなかった。しかしその場から逃亡することは叶わず、子供らが接近してしまった。
「ダサいおにいちゃん!」女の子が初っ端から酷いことを言った。真治は冷静を装ってやあと返事をした。千夏の前では極力恥をかきたくなかった。
そんな真治の気掛かりとは裏腹に、男の子と女の子はあっと言う間に口をつぐんでしまった。若々しい頬に桃色を浮かべた二人の視線を辿ってみると、千夏に行き着いた。これはより一層厄介な事態に発展してしまいそうだと粟立つのとほぼ同時に、女の子が言った。
「ねえねえ、おにいちゃん。このひとがヨウセイ?」
その言葉に最も早く反応を示したのは千夏だった。かしこまった感じに声を落として尋ねた。「ヨウセイって?」
「いや、それは――」
「こいつがこのあいだ、ヨウセイにあったっていってたんだぞお」
横からすかさず言い訳をしようとしたが、男の子が真治を指差して言ってしまった。千夏は意味が飲み込めず、怪訝な顔で真治を見る。「真治君、どういうこと?」
氷結したように真治は表情を固まらせた。しかしすぐに、千夏の耳元で囁いた。「何故か知らないけど、子供たちは勝手に勘違いしてるんだ」
「そうなの? だったらこの子たちに教えてあげようよ」千夏も小声で言う。
「いいや、いちいち解説して納得させるのは面倒くさい。適当にそうだよとか言って、そのまま話を流してしまおう」
「ねえねえ、ふたりでなにをこそこそはなしてるのー?」女の子がうぶな瞳で真治と千夏を見つめている。
「この間言ってたヨウセイってのは、彼女のことだよ」真治は強引に話の軌道を戻し、千夏の方に顔を向ける。こっそり顎を引いて彼女に合図を送る。
「うん」千夏がやや歪んだ表情で頷く。
「ねえちゃんがヨウセイってことかー?」男の子が生意気な言葉遣いで尋ねる。
千夏はこっそり真治の顔を見た。目は心の窓とはよく言ったもので、唇を窄める真治の目には、千夏に対する懇願が染み入っていた。「うん、わたしがヨウセイだよ」
「やっぱり!」子供たちの甲高い声が見事に重なった。二人は真治の存在などすっかり忘れてしまったように、千夏に寄り添っては離れなくなった。
「ねえねえ、ヨウセイさんはどこからきたのー?」
「ヨウセイってなにをたべるんだあ?」
「ダサいおにいちゃんとはどこでであったのー?」
「あのだせえにいちゃんのことをどうおもってるんだあ?」
子供たちの純真無垢な質問の嵐が千夏を襲う。千夏はそれらにひとつたりとも答えず、ただ明らかな混乱を顔に浮かべてあたふたするだけだった。
自分もまだ知らない、千夏の詳細な情報が出てくるのではないかと内心期待を寄せる真治だったが、流石にこれはまずいと思った。子供たちの小さな肩を掴んで、千夏から無理やり引き剥がす。
「おまえ、なにするんだよお!」
「おにいちゃん、どういうつもり?」
「ごめん、今日は用事があって忙しいんだ。また今度暇な時に遊ぼう」
「べつにおまえがいそがしくたって、おれたちはどうだっていいぞお」
「え?」男の子の言葉に真治はきょとんとする。
女の子がにやりと子供らしからぬませた笑い方をする。「おにいちゃんはいなくなっていいから、ヨウセイさんだけおいてってー」
なんて非情な奴らなんだ。子供に対する免疫を持ち合わせていない真治は、頑是無い二人についつい苛立ちを覚えてしまう。拳の中で所狭しと暴れ回る怒りを必死に抑止し、外に逃げ出さないようにする。
「ごめんね。用事というのは、わたしがなの。おにいちゃんには無理やり付き合ってもらってるだけなの」
柔らかくて優美な口調で言うと、千夏は子供たちの頭を順に繊細な手で撫でていった。その動作は、子供を愛でる母親とはまた違った、神秘的な温かみを孕んでいた。
あんな風に触れられたら、いとけない子供だろうと観念するだろう。真治は羨望の眼差しでその様子を見守った。とうとう男の子と女の子は諦めたらしく、千夏に「わかった」と頷いた。
相好を崩しながら、千夏は再び子供たちの頭を撫でる。「今度、いっぱい遊ぼうね」
うんと答え、子供たちは満足そうな表情で「バイバイ」と言った後、来た道を戻っていってしまった。途中、千夏に向けて手を振ってきた。千夏もそれに応える。
剥き出しになった白く華奢な腕が大きく宙を動き、夏の日溜まりを撹拌した。千夏の痩躯も右に左にと揺れ動き、ピンクの服が肌と擦れ合っていた。真治は子供らを見ているつもりだったが、千夏の後ろ姿に目を奪われてしまった。
子供たちが更に小さくなっていくのを見届け、千夏が真治の方へ振り返る。ゆっくりと一歩一歩、真治に近寄ってくる。納得させられる弁解が思いつかず、真治は顔を伏せる。
「ねえ、子供たちと仲良くなっちゃったよ!」
「へっ?」
「今度、あの子たちと何して遊ぼうかなあ。その時は真治君も一緒だよ」
ヨウセイの件について早速問い詰められると焦っていた真治からすれば、千夏の無邪気にはしゃぐ様はあまりにも不意を突かれるものだった。まして真治の頭の中には、あの二人を発見した時の千夏の焦る顔が強く根づいている。今の一変した態度に疑問を抱かない訳がなかった。
「ねえねえ、楽しみだね」
「あ、ああ……。楽しみだな」
疑問符だらけの現状に納得のいかない真治だが、ヨウセイの件に触れてこないのは不幸中の幸いなので、もうこの件については言及しないことに決めた。
しばしあの子供らを話の種にして、千夏との会話を持続させた。都会に憧憬を抱いていることや自分が都会人として烙印を押されてしまったこと、自分のいる宿の従業員に余計な入れ知恵を吹き込まれてどこかマセてしまっていること。千夏をくすくすと頻りに笑わせられたので、取り敢えずは成功だった。
そして遂に、五仏坂の入口に辿り着いた。延々と伸びた緩い坂と古ぼけた看板を見て、千夏が口元を弛緩させる。「ここが五仏坂?」
「うん、今日存分に散歩する五仏坂」真治はわざとらしく声を上げる。「あっ、そう言えば足元に地蔵があるよ」
「わっ」千夏が寸前のところで地蔵を交わす。躓いたように体が跳ねた。そんな仕草が可愛らしく、真治の心をくすぐった。
「ちょっと、そういうのは予め言っておいてよ。後少しで踏んじゃうところだったよ」千夏が眉根を寄せながら言った。
「ごめん、うっかり忘れていたんだ。今度からは気を付ける」
「そう。気を付けてね」千夏がふてくされた顔で外方を向いてしまった。真治はそんな彼女の仕草すら可愛いと感じた。
「五仏坂って、どうして五仏坂と言うと思う?」
「え?」
昨日、千夏に「美海部村と御天神社」について質問したように真治は再び振る舞った。千夏は前件のように素っ頓狂な声を上げはしなかったが、やはり意外なタイミングで来たものだから驚いたみたいだった。
先程真治が使用した大きな石に千夏が腰掛ける。「美海部村と御天神社のことなら有名だけど、それについては全然知らないや。どんな由来なの?」
「坂ってのはそのまま目の前にある坂のことで、五仏ってのは五つの仏があるという意味なんだ。だから五仏坂。美海部村と御天神社の由来のように神仏混淆が関わってるから、菩薩と仏はごちゃ混ぜになってるけど」そう言って真治は坂と地蔵を交互に指差した。
「なんだ、そのまんまだ。単純だね」
「うん、何の捻りもないことに。それで、この坂を散歩しながら後四体の地蔵を探そうかなって思うんだ」
「うん、楽しそうだね。一緒に探そうよ」
よし、軌道に乗った。真治は心の中でガッツポーズをとった。後はのびのびと散歩をするだけだ、それで万事全て上手くいく筈だ。
「ところで、真治君は自分のお薦めを紹介するって感じに言ってたけど、実はここに来るの初めてでしょ? わたしと同じで」
「え? いや、そんなまさか。前に一回来たことがあって、とても印象深かったから千夏を連れてきたんだよ」
「ううん、それは嘘だよ」千夏は静かに、しかし確実な発音で言い放った。坂道に縫われた森の樹木たちが微かに、身を揺さぶった。「だって、ここに来たことがあるんだったら、五つの地蔵がどこにあるか分かる筈でしょ。今更一緒に探そうなんておかしいよ」
頭の中を必死に手探りし、ようやく指に引っ掛かった言い訳を区分なくさっさと拾い上げる。「その時は地蔵探しをしなかったんだ。ただ単に、五仏坂の坂道をぶらぶらと歩いただけで。でも帰り道にそこの地蔵を発見して、地蔵が他に四体あることを知ったんだ」
「じゃあ、さっき言ってた五仏坂の由来って、真治君の推測に過ぎないんだね」千夏が恐ろしく無表情な顔で言った。
「確かにそこまでは憶測だった。でも、その答が気になって気になって仕方なくなってきて、それで宿の従業員に訊いたんだ。鴨井さんって人でさ。そしたら、大正解ですよって言われて、確信に変わった」
千夏は未だに合点がいかなそうに真治を見つめる。「本当に? 真治君、別に格好つけなくてもいいんだよ。誰かに教わったんだったら、それでいいから。そもそも、美海部に住んでいながら土地を詳しく知らないわたしがいけないんだから。わたしはただ、嘘をついてほしくないだけなの」
葛藤が真治の頭の中を掻き乱す。千夏が許してくれると言ってるのだし、正直に全てを打ち明けてしまおうかと思う反面、だからこそ千夏にだけ『嘘』と認識されないよう、このまま嘘を突き通そうかという気持ちがぶつかり合っている。
「千夏、俺は一度も嘯いてなんかいない」結局、英断のできない弱虫な口は、嘘を貫くことを選択した。
「本当に?」
「うん、本当に」
「本当の本当だよね?」
「大丈夫。心配は要らない。俺は嘘をつかないから」
「そっか。嘘じゃないんだね」一瞬間、千夏の瞳が霞んだが、たちまち彼女は頬を服と同様のピンク色に染め、微笑みながら頭を枝垂れさせた。茶混じりな黒髪が、暖簾のように垂れ下がった。
「疑ってごめんなさい。とても反省してるから、許して」
耳の後ろの髪を掻きながら、「謝らなくていいよ。最初から怒ってなんかいないし」と真治はやや早口に言った。
「ありがとう。真治君は優しいね。わたしなんかとは大違い」千夏は頭を上げ、肩でそわそわと落ち着かないでいる、陽光を先端に吸い込むまばらな髪の毛たちを手であやした。
こうして二人は、眼前に延々と伸びた緩やかな坂道を、地蔵がないかと足元に細心の注意を払いながら、のびのびと進みはじめた。
坂道はくねくねとたくさんのカーブを描いている。素直に一直線に進めるなどと言った、都合のよいものにはなっていない。それは自分たちが進むべき道のようでもあると真治は思った。
限りなき不安を抱えた自分が後先考えず強引に進んだところには、果たしてどのような未来が待ち構えているのだろうか。胸を這い上がってくるほの暗いものを払いのけ、真治は進み続ける。
葛藤が純の頭の中を掻き乱していた。今、宿を抜け出したとしたら、悦子はどれだけ憤激するだろうか。しかし、真治たちのことが気になって気になって仕方なくなってきている。
真治の恋物語の行方は当然、あの妖精のような少女と鴨井の後ろ姿が被る理由が知りたい。このまま放置していたら、かゆいところを掻けないような苦しみがやってきて、悶えて死んでしまう気がした。
純は雑巾をバケツに放り込み、ロビーの時計に視線をやる。つい先程正午を指したと思われた針は、既に十三時を指していた。
大丈夫、夕方くらいまでに戻ってくれば大した影響はなくて、悦子ばあさんにそれ程怒られないで済む筈だ。
濡れた雑巾が入ってることなどお構いなしに、純は身に着けていたエプロンもバケツの中に放り込み、ちょうど誰もいないロビーを素早く通り抜け、宿を後にした。
いざ探索を始めたはいいが、純は真治がどこに向かったのかを知らなかった。おそらくは、御天神社やその周辺だろうと予想できていたが、もしもそれがハズレだったとしたら、大きな時間ロスになってしまう。ここは、慎重に行動しなければ。
しかしながら、真治の行動範囲を思慮すれば、他に行きそうな場所など見当がつかない。昨日一昨日と真治を迎えに行った法子や沢木から教えてもらった話だと、彼は宿の近くの路地と御天神社の周辺で発見された。法子から詳しく聞いたその路地と言うのも、御天神社のある山と宿を結んだ線上に位置していたのだ。
御天神社で妖精が現れ、逃げた。それを真治はひとりで追った。その後、沢木が真治を発見したのはゴクリ滝。かなりの時間、行方不明になっていたにも関わらず、いたのは御天神社からそれ程離れていない地点だった。それはとどのつまり、御天神社の周辺でずっと妖精と時間を潰していたということだ。
しかも昨日、宴会場で真治は「妖精とは昨日にも会っている」と言った。
以上を踏まえれば、二日間とも真治は、御天神社のある山の特に神社周辺で妖精と会っていたことになる。だが会うにしても、わざわざあんな辺鄙な場所に二日連続で行く理由とは、何なのだろうか?
妖精の家とか真治のいる宿の付近、または中間辺りで会えばいいものを。それとも、中間がちょうど御天神社のある山に当たってしまっているのだろうか?
からきし答は導き出せないが、何にしろ、そこまで御天神社の周辺に繁々通っているのなら、きっと今日もそこにいる筈だ。
純はスキップ混じりの軽やかな足取りで、御天神社へ向かいだした。
「あ、ジュンおばちゃん、なにやってるのー?」
路地で子供ら二人に出会した。純はたびたび子供らと一緒に遊んであげているが、今日ばかりはあまり二人と関わりたくなかった。
「なあなあ、きょうはなにしてあそぶんだあ? またスイカのタネでガキやるかあ?」男の子が飛び跳ねながら訊いてきた。
「ごめんね。今日は忙しい用事があってさ。また今度遊んであげるから」
すると二人は、「えー」と甲高い声をハモらせ、騒ぎだす。「やだやだ、あそぼうよー!」
「いやあ、本当にごめんね。今しかチャンスはないの」
「さっきのヨウセイとにいちゃんみたいに、おまえもうそついてあそびにいくんだろ!」男の子が透明感のある若々しい頬をぷっくり膨らませて、怒声を上げた。
「えっ、ヨウセイ?」
「なんだ、ジュンおばちゃんしらないのー? おにいちゃんといっしょにいるヨウセイさんのこと」
純は片方の眉をがくっと落として尋ねる。「そのお兄ちゃんの名前は分かる?」
「ううん、わからない。ジュンおばちゃん、ごめんね」
「ううん、別にいいんだよ。分からないものは仕方ないもんね」純は優しく女の子のおかっぱ頭を撫でる。
「あっ、そういえば……」男の子が何かを思い出したように口をぽかんと空けている。「ヨウセイが、にいちゃんのことを『シンジくん』ってよんでたぞお」
それを聞くと、女の子は「あっ」と言って首を縦に振った。声が突然大きくなる。「そうそう、シンジくんだよ!」
ふふふふふ。純はこみ上げてくる笑いを抑えられず、口から大量に漏らす。「なるほど、なるほど」
純はそのまま山へ行こうと一歩を踏み出したが、あることが引っ掛かって振り返る。「そう言えば、真治君と妖精が嘘つきってどういう意味?」
「これからようじがあるっていってたのに、こっそりあとつけたら、イホトケザカにはいったんだぞお」
「ママがあぶないっていってたから、わたしたちはいりぐちでひきかえしたんだよー」
「ありゃ、危ない危ない。全然逆の方向に行っちゃうところだった。とにかくありがとう」純は子供らの頭を交互に撫でてから、五仏坂に向けて歩きはじめる。
「じゃあね、達哉、千夏」