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模索

 案の定、沢木に連れられ宿に帰った真治を出迎えたのは、法子のビンタと道夫の拳骨だった。流石の真治も今回ばかりはそれらを甘受した。

 悦子はただ寡黙にせっせと仕事を続けていたが、時折、野卑な俗物を見るような目をこちらに向けてきた。真治にはかなり(こた)えた。

 沢木は先程真治のことを殴ったが、まだ物足りないらしく、もう一発殴らせろと言い出した。怒り狂う沢木を、鴨井が必死になだめてくれた。

 道夫たちの話によると、真治を捜索する為に従業員を割き、宿の営業がまともな流れに乗らなかったらしい。法子の指示により、真治は皆の前で土下座をして謝った。

 鬼の形相となっていた法子だが、真治が無事で本当に良かった、とせきを切ったように泣き崩れだした。純が法子にハンカチを渡し、肩をさすってやった。真治は心の底から反省した。

 こうして真治失踪の件はどうにか収拾がついた。しかし、真の問題はその後にあった。


 今日は精神的に疲れてしまったらしく、法子が早めに就寝することとなった。それを心配してか、道夫も夕飯を済ませずにさっさと部屋に引き上げていった。

 また前日と同じよう、真治はこざっぱりとした小規模な宴会場で夕食をすることになった。不幸中の幸いか、今日は宿泊客の数が通常よりも少なく、手の開いた純と鴨井が同席するらしい。

 昨晩はじっくり観賞できなかったこともあり、真治は宴会場に行く途中、中庭に接したガラス張りの渡り廊下で立ち止まった。ガラス越しに中庭を眺めてみる。柏の木の根元付近には、高輝度の畜光素材の石が撒かれている。田舎の宿とはにわか信じがたい幻想的な光景だ。

 昼間、悦子が使ったのと同じ庭木戸を開け、真治は中庭に出てみる。庭木や光る庭石を観賞する客を考慮したのか、渡り廊下付近は石畳が敷き詰めてあり、座る為の小さな段差もあった。

 真治はその石段に腰を下ろし、ポケットを膨らませていた小さなフェイスタオルを取り出し、額や耳の後ろなどの汗を吸い込ませる。やはり外も暑かったが、通風性の悪い蒸した室内よりは幾分か心地よく感じた。

 真治はタオルをうちわのように扇ぎながら、夜陰の中で蛍のように儚げに浮かぶ庭石たちと、鈴虫のものらしき流麗な音色に感覚を溶け込ませた。

 真治は意識を完全にそちらの世界に浸からせていたので、開いた庭木戸をのんびりと通り抜けてくる貞義の存在に気付いてなかった。

「真治君、何してるんだい?」貞義が背後から声を掛けてきた。

 思いがけない出来事に仰天し、真治は突如石段から立ち上がる。間近でそれをやられ、貞義の方もたまげる結果となった。

「体の方、大丈夫なんですか?」真治は表情を改めてから尋ねる。

「いいや、俺も歳だからな。まだまだ体に鉛をくくりつけられてる気分だよ。でも一日中寝てたお陰か、昨日よりは少しだけ楽になったんだ」マスクをした貞義の声は籠もっていて聞き取り難い。

「そうなんですか。良かったですね」真治はどこか他人事のような口調で言う。

「部屋から抜け出してきたこと、悦子には内緒にしといてくれよ」貞義がいたずらじみた表情で唇と鼻に人差し指を重ねる。

 それから貞義も真治の隣の石段にそっと腰を下ろし、無言で暗がりにぽつぽつと浮かぶ庭石を観だした。集中力を削がれた真治はもはや庭の観賞をする気が失せていた。

 現実という名の地から僅かに浮遊している場合は、時間というものが空を渡る雲のようにあっという間に流れていく。しかし、現実という名の地に足がしっかりと着いている場合は、そうはいかない。真治は逃げ出す機会を窺っていた。

「昨日今日と色々あったんだって?」貞義が首だけこちらに捻って和やかに言った。

 真治はどんな言葉で表現すればいいのか分からず、こくりと頷くだけにした。それを察したのか、貞義も声を発せずに首を縦に振った。相変わらず赤ん坊の歩行を見守る親のような、柔和な顔つきをしている。

「これから夕飯を食べるんで。それでは」真治はゆっくりと立ち上がり、木の扉の方へ心持ち早めに歩いていく。

「悦子はどうだい? 君らに対して愛想が悪いだろう?」

 貞義の言葉に真治は足の運びを中断させる。そうしたのは、話し掛けられたのを無視するのは失礼だと思ったのと、千夏とは逆の意味で動向が気になる悦子の話が出たという両方の事由からだった。

 貞義の問にどう対応しようか悩んだ。そんな簡単に肯定するのは立場上よくない気もしたが、貞義が現状を理解して言ってるのだとしたら否定すべきではないとも思った。

 真治が答えるよりも先に、貞義がにやにやしながら次の言葉を発した。「あいつは無愛想で疑り深いけどな、決して悪いやつじゃないよ」

 悦子のことをそうは言われても真治にはどうすればいいのか分からず戸惑った。決して悪い人間じゃないと頭に叩き込み、あの悦子に笑顔で馴れ馴れしく接しろというのだろうか。初対面から続く、自分たちを品定めするあのイメージが拭いきれないのだから無理だと思った。

 真治は貞義に助けを乞う目線を送る。貞義はしわだらけな目尻を余計くちゃくちゃにしながら二度顎を引いた。

「いきなり、『はい、そうですか』なんてのはやっぱり無理だよなあ。でもちょっとだけで良いから、真治君が心を開いてみればあいつも心を開いてくれる筈さ。あいつと四十年以上を共にしてる俺が保証するんだから信憑性があるだろう?」

「確かにありますけど……」真治は言い淀んでしまう。適切な受け答えの仕方が分からない。貞義の助言がどれほどの説得力を持っていたとしても、結局は同じことだった。

「真治君がどれだけの愛想を撒いた所で、最初のうちは悪態をつくだろうなあ。そこは我慢するしかないな。とにかく、執念で何度も悦子にぶつかっていけばいいんだ。好きな女にがむしゃらに体当たりするのと似た要領さ」

「はあ……」悦子とはできるだけ距離をおきたい真治にとって、その例えはしっくりとこなかった。

「引き留めちまって悪かったね」貞義に言われ、真治は口を歪に結びながら軽く一礼しそそくさと中庭を後にした。

 貞義に言われたことを実行する決心はまだついてなかった。もう少しだけ、頭の中にある曖昧模糊としたものを整理する時間が必要だった。


 案外早く、真治は選択を迫られることとなってしまった。こじんまりとした宴会場の縁の前で、悦子と遭遇したのだ。

 悦子は首元がしっかりとした無色のシャツに、脂肪がなさすぎる細い足よりも一サイズ分だけ大きいズボンを履いている。なんとも味気ない格好だがどこか威圧的な雰囲気を纏っている。

「純と鴨井さんが待ちくたびれてるよ」骨の上に薄皮が張り付いただけのような指が宴会場に向けられた。

 閉められた襖の先から例の騒がしい声は聞こえてこない。やけに静かだ。悦子が嘘をついていて、本当は無人なのではないかという気すらしてくる。

「どうしたんだい?」悦子が不審そうに見てくる。「純たちはわざわざ食べるのを我慢してるんだよ。これ以上待たせるのは良くないよ」

 寒心のあまり真治は口を動かせず、首を縦に振るだけしかできない。悦子は釈然としなそうな顔をする。だがそのまま何もなかったかのように歩きだす。

 悦子が自分の横を通り過ぎようとした時、真治は勇気を出して喉の奥から声を絞り出した。「あの……」

 悦子が立ち止まり、枯れ木を彷彿させる首をゆっくりと曲げる。しなる音が聞こえてきそうだった。「なんだい?」

 悦子の静かな迫力に真治はそそけ立つ。肺がぎゅっと鷲掴みにされているような痛みがあった。

「素敵な旦那さんですね」

 えっ、と悦子が聞き直してくる。耳が遠いからではなく、真治の言葉の意味が把握できてないからのようだった。

 真治の頬が徐々に紅潮していく。一呼吸してからもう一度言う。「夫の貞義さん、優しい人ですね」

 悦子が薄目になりながら口を開けっ放しにしている。完全に不審者を見る顔だ。言ってから真治は激しく後悔した。

「出し抜けに気持ち悪いこと言いだして、変な子だね。そやしたって何も起きやしないよ」

 そのまま悦子は渡り廊下を歩いていってしまった。真治は極度の緊張とじくじから解放されてひと安心するも、悦子の言葉に心くじけそうになった。

 これで本当に何かが進展したのだろうか? 真治は遅効性のこの行いが最低、悪い未来に結びつくことだけはないでくれと祈った。


 襖をそっと少しだけ開けてみれば、純と鴨井が座敷のテーブルに着いているのが微かに見えた。しかし、二人はやけに静かだ。会話が全く交わされてない。

 鴨井は性格を考えればとにかく、純が話し相手が正面にいながらも大人しく夕食を食べていることに驚いた。とても非現実的な光景だ。

 真治は襖を境目にしてあちら側は異世界であるかのような不可思議な感じを覚えた。境目を越える勇気は一応あるのに、足の神経に生ぬるくて重たい何かが纏わりついている。

 そんな時、鴨井が襖の隙間でまごついている真治に気付く。「真治君、こちらですよ」

 鴨井に言われ、真治は襖を開け、緊張した面もちで座敷に上がる。鴨井の声は当然聞こえた筈なのにそれでも純は黙々と食事を続けており、真治の方に全く顔を向けてこない。

 真治は鴨井の隣の座布団に着き、対角線にいるとても不気味な純を横目だけで窺う。純はハモの天ぷらを小皿に作った天つゆの池に浸け、口に運ぶ。紙吹雪のように微小のレタスを付着させた唇が、縦に横にと動かされる。

 隣の鴨井も箸を休めて純の様子をずっと凝視している。真治も同様に待つしか選択肢はなかった。

 純の箸が破けた箸袋の上にそっと横たえられる。箸袋に極小の黒い染みが広がっていく。純は唇に付着するレタスと天つゆの跡を人差し指と中指で取り除き、顔をゆっくりと持ち上げる。

「真治君、あたしが何を訊きたいか分かるよね?」

 真治は即、状況を理解した。鴨井の様子と純の溜、宴会場に渦巻く重苦しい雰囲気の全てが一つに集約した。

 これは、「妖精」をめぐる壮絶な駆け引きの開始なのだ。

「訊きたいことって何ですか?」真治は箸袋をゆったりと破きながら訊く。

「そんなの『妖精』に決まってるでしょ」純が言う。

「妖精? 何のことですか?」真治は惚ける。

 純が頬杖をついたまま呆れた顔をする。「真治君、よく今更そんなこと言えるよね。妖精って言えば、昼間、御天神社で会ったあの女の子に決まってるじゃん」

 真治はのんびりと小皿の縁にわさびをこすり付け、それ目掛けて真上から醤油を垂らしていく。作業を終えると、鮎の刺身を使ってそれらを丹念にかき混ぜる。

「ああ、妖精って、あの白い格好をした女の子のことですか? 知り合いでも何でもないし、先ずあの子とは今日が初対面ですよ」真治はひたすら悪あがきを続けるしかない。

「真治君、白々しいよ。いい加減観念して全部を暴露しちゃいなさい。そしたら楽になるよ」純が目力と語調を強めてくる。

「純さん、真治君は言いたくないみたいですし、問い詰めるのはよくないですよ。思春期は繊細で難しいんです。秘密にしたいことだって当然あるでしょう」傍らの鴨井が言った。真治は心の中で頷いて同意する。

「でも鴨井さん、『妖精』が自分と後ろ姿がそっくりだったことは気になってるんでしょ?」

 真治は純が気軽に妖精という単語を出すことに不快感を覚えた。

「ええ、確かに気になりますよ。解答を教えて頂けるというのならば、是非とも教えて頂きたいです。でも、その為に真治君が害を被るというのならば、私は遠慮しておきます」鴨井が真摯な顔で言う。

「鴨井さん、真面目過ぎぃ。もうちょっと肩の力を抜きなよぉ。元彼にも『お前は真面目過ぎるんだ』って別れを告げられたんでしょ?」純が茶化す言い方をする。

「ちょっと、純さん」鴨井が苦虫を噛み潰した顔になる。

「その元彼って確か、京都のコンサルティング会社に勤めてる人だっけ? うなじや耳たぶを愛撫するのが好きで――」

「純さん、止めて下さい。それについては触れないで!」鴨井が興奮して言った。

 あの冷静な鴨井が頬をピンク色に染めて純に屈している。真治は改めて純の情報網の恐ろしさを痛感した。

 鴨井はこれ以上自分の過去に踏み込まれたくないらしく、主役の座を真治になすりつける。「真治君は、純さんや道夫さんに追及されると思ったから、嘘をついてるんですよね? 別に、あの女の子とは友達ってだけでしょう? それくらい言っちゃってもいいじゃないですか。隠しごとは良くないですよ」

 鴨井の裏切りに真治は眉をしかめる。鴨井は真治にだけこっそりと目で詫びをいれてくる。

 真治は精神の安定を図り、にんじんやパイナップルの入ったヴィネグリット使用のコールスローに箸を伸ばす。何度も何度も時間を掛けてキャベツを噛む。

「真治君は、初対面の女の子をいきなり全力疾走で追いかけ回す人間だったの? ちょっとがっかり」塩焼きにされた鮎を箸で崩しながら純がため息を漏らす。

 千夏を追いかけた件により、初対面では筋が通らなくなってしまった。ここは千夏とは知人だと、事実のみを打ち明かした方が良いかも知れない。

「そうですよ」真治は箸を動かす手を止め、肯定する。「あの女の子とは昨日にも会ってます」

 純の唇が笑みを作る。達成感が溢れ出た笑い方だった。やはり内緒にしておいた方が良かったのではないかと真治はすぐに後悔した。

「真治君は昨日初めて美海部に来たから、妖精とは昨日初めて会ったんだよね?」

「はい。そうですよ」

「宿を勝手に抜け出した時に出会ったんだよね?」

「いや、違います。でも、正確に『対面した』という意味では宿を抜け出した時ですけど」

 純が意味不明だと言いたげに小首を傾げる。「まあ、正直そこはどうだっていいや。問題は……」

 真治の表情が強張ってくる。次に純の口から出てくる言葉が直感で分かってしまったからだ。

「真治君。問題はね、真治君があの子とどこまで進展してるかってことなの」

 遂に純の専門分野に突入してしまい、真治の心に諦観が滲みだす。もう純を欺くのは不可能に近いだろう。

 突っつかれることは分かっているが、それでも真治には言い訳をするしかなかった。「進展って、ちょっと不適切な言葉ではないですか? 可愛い子と仲良くなっただけで恋愛関係がどうのこうのはおかしいです」

 真治の発言を聞くや否や純が突然立ち上がる。真治と鴨井は何事かとその動きを目で追う。

 すると純は真治の隣の誰もいない席にミニスカートであるのもお構いなしに勢いよく座り込んだ。同時に強烈な香水の匂いが落ちてきた。

 相変わらず胸元が大きく開いたノースリーブを着る純が間近で真治の顔に目線を固定する。

「ううん、真治君はあの女の子を好きになってる。一日中あの子のことばかりが頭の中を所狭しと飛び交っているに違いない。賭けてもいいよ」

 真治は目線をどうにか豊潤な胸の谷間から外そうと顎を浮つかせる。「どこからそんな自信が沸いてくるんですか」

「女の勘よ」

 これは駄目だ、と真治は思った。そんな不確かでしかも偶発的ではあるが見事に的を得てしまっているものは、どんな理論を用いても崩しようがない。

 それからの真治は一言たりとも喋らず、夕食のみに口を使うことにした。隣の純が何と言おうが無視を徹底した。

 流石の純も反応されないと大層辛いらしく、途中から話の種を鴨井に戻した。鴨井は元恋人の性癖についてあれやこれやと純に追及され、顔を茹で蛸のように真っ赤にしていた。


 真治には早く終わらせないとならないノルマがあった。それはとても厄介で他人の力が必要不可欠だ。しかし、純ではその役目は無理だと思った。

 道夫と法子も危険だ。悦子は不可能ではないだろうがあまり安全とは言えなそうだ。沢木や貞義も別の意味で厄介になりそうだとすれば残るは鴨井だけになる。

 しかし、鴨井も危険な気がしてきた。今回のやり取りを見たことで「裏切り」が発生する可能性が出てきたのだ。

 真治はいよいよ困り果ててしまう。つい数時間前、山の中をさ迷っては行き止まりの看板に突き当たったのと似た感覚だった。

「ねえねえ、真治君」純がまた話し掛けてきた。彼女の手にはビールの缶とまだ未使用のコップが握られている。

「もう話すことなんて何一つないですよ」真治は突き離すように冷淡な口調で言う。

 真治の前に未使用のコップが置かれ、缶にぽっかりと開いた穴からビールが滝のように降ってくる。泡がコップの最上辺まで登ってきて、数秒すると何者かに足を引っ張られたように下にずり落ちていった。

「真治君も飲まない?」そう言った純の顔は少し赤くなっている。

「いや、結構です。そもそも俺は十七歳ですよ? 未成年なんだから、例え飲みたいと思ったとしても飲めないんです」

「真治君も堅いなあ。好奇心ってものはないの?」純がコップの縁を真治の口元に無理やり近付ける。「ほら、試しに一口だけで良いからさ」

 真治はそっと手でコップをはねのける。「お断りします」

「つまんない男」純が畳に大の字に寝転がる。ぴっちりとしたノースリーブとミニスカートの隙間からへそが覗いている。ちょうど腰の所に座布団が当たっているので、腹が山のように佇んでいる。

 鴨井が「はしたない」と注意するも、純はとっくに深い眠りの世界に引きこもっていて無意味だった。宴会場の中には微かな寝息と香水の匂いと酒気が漂っていた。


 従業員専用の部屋には冷房はないが小さな浴室は付いている。高級ホテルみたいにシャワーが固定されてないのが自慢な、チンケな浴室だ。

 真治は昨夜、ここで汗ばんでいた体や髪を洗った。懐旧の情からでもあるのだろうが、家の浴室の方が何倍もマシだと虚しい気分にさせられた。

 だが、そんな真治に吉報が訪れた。鴨井の粋な計らいにより、宿の温泉に入らせてもらえることとなった。ただし、「他の人にバレない」という条件の下でだった。

 鴨井が浴場の入口まで親切に案内してくれるらしい。腹をもろに出し、足を大きく広げ、口から涎を垂らした酷い寝相の純を置き去りにし、宴会場を出る。

 ロビーとは別の方向に伸びた渡り廊下を進む。渡り廊下はガラス張りなので、ロビー付近を徘徊してる悦子や貞義に発見されないかと真治は心配で落ち着けなかった。

 浴場の入口はひとつで、宿の入口と同じ赤地に雲の絵が描かれた暖簾が垂れ下がっている。真治は改めて周りに注意を向けてみる。人の気配はない。

「シャンプーやトリートメント、ボディシャン、ドライヤー、バスタオルなどもちゃんとありますよ。手ぶらでも安心して入ってきて下さい。中でお客様に遭遇したとしても、自分も宿泊客だという振る舞いをしていれば大丈夫です」

 鴨井に一礼し、真治は暖簾を潜る。先には更に二色の暖簾が下がっており、真治は青い方を通り抜ける。すると脱衣場が現れた。

 大きな鏡がひとつあり、そこにドライヤーや安そうな櫛、未開封の小さな袋がある。袋の中にはカミソリが入っている。他に体重計や部屋にあったのと同じ扇風機が置いてある。

 真治は脱衣場を覆う湿気からなるたけ早く解放されたい一心で次々と服を脱いでいく。籠に入れられた衣服たちは生気を抜き取られたように虚しく萎れていた。

 スモークガラスの戸を開けると大量の湯気がダムの決壊のように解き放たれて真治の裸体を撫でた。浴場には温泉が三つあった。小さくてシンプルなものに湯気がひときわ強く舞っているもの、角度が九十度くらいの扇状になったものだ。

 真治は平等に三つの温泉に入っていく。そして一番浸かり具合がしっくりときた扇状の温泉に深く身体を沈めた。

 真治は気持ちよさに体を預けながら辺りをのんびりと観察する。浴場には曇り気味な鏡とセットで背の低いプラスチック製の腰掛けと取り外し可能なシャワーが四つずつある。その近くにはシャンプーやトリートメント、ボディシャンなども完備されている。

 今この広い空間には裸の自分ただひとりしかいない。初めて来た場所だという新鮮味が拍車を掛けているのだろうが、シャボン玉の中を魚となって優雅に泳いでいる気分になった。

 考えてみれば、昨日の昼間に美海部に来たばかりだというのにやけに頭に馴染んできている。それはやはり、千夏という存在が過ぎゆく時間の感覚を濃縮してくれたからだろうか。

 いつまでこの村にいるのだろうか。千夏とはあと何回会えるのだろうか。

 誰にでも等しい「時間」は残酷だ。もしも魔法なんてものがあるのならば、二人の時間を止めたい。

 シャボン玉のように虹色で半透明な幕が二人を優しく半球型に包み込む。その幕は不規則に、川のように穏やかで精美な流れを繰り返している。でも実はその流れの正体が「時間」だなんて二人は知らない。

 馬鹿らしいのは分かっているが、真治はそんな魔法の存在を願った。

 真治はふと外に通じるらしきスモークガラスの扉を発見した。この手の場合は恐らく露天風呂があるのだろうと思った。真治は温泉から上がりスモークガラスの方へ歩いていく。自分ひとりしかいないとは言えタオルで下半身を隠した。

 重めのスモークガラスを横にスライドさせる。少々腕に力を込めないと動かない代物だった。開けた瞬間、外への脱出を求める大量の湯気が真治の背中を押してきた。背中をすり抜けた煙たちは今度は真治の前方を半透明な白で霞ませた。

 真治はその湯気の間を、針に糸を通すように熟視してみる。すぐ近くに温泉とそこから立ち上る若干弱気な湯けむりがあった。しかし、そこには温泉に肩まで浸かる先客の人影もあった。

 湯けむりの中の人影は段々輪郭をはっきりと持ち始める。こちらに後頭部が向いていることから、真治はこのままそっと引き返そうかと思いつく。

 だが、岩盤のようにがっしりとした肩や後頭部が横に回転し始めたのでその選択肢はなくなってしまった。

 こちらに向けられた顔は四十がらみのものだった。見事な弧を描いた眼と綺麗に揃えられた顎髭が目立つつややかな中年男性だ。

「おや、君も宿泊客かい?」その中年男性が訊いてきた。低音でありながらとても澄んだ声だった。

 真治は焦燥感にかられながらも、鴨井にアドバイスされたことをとっさに思い出す。「はい、宿泊客です」

 中年男性は知的な雰囲気を秘めた眼で真治の全身を見つめてくる。やがて右手で整えられた顎髭を弄り始め、左手で手招きをしてくる。「とにかくこちらに来なさい。そこにいたら寒いだろう」

 真治は指示されるがままに藍色の露天風呂にゆっくりと足から順に身体を沈めていく。中年男性から少し距離を置いた。煙で霞む水面にはいくつもの湯玉が沸き立っているのが見えた。

「君はあまりスポーツをやってないな。そういう人間の体つきではない」中年男性が言った。

 唐突な言葉に面食らいながらも真治は応える。「はい。体育会系と文化系のどちらかと言えば、文化系に違いないですね」

「私は昔、ジムのインストラクターをやってたことがあってね。一目見れば大体その人の運動習慣が分かるんだ」再び右手で顎に触れながら中年男性が言った。

 中年男性を改めて近くで見てみると、湯からはみ出した右腕には練磨された立派な筋肉が付いていることに気付く。

「じゃあ、今は何をやってるんですか?」

「今はしがないフリーのカメラマンだ。たまに記事を書いたりもするけど、基本的には雑誌のコーナーを担当したりする。この仕事もかなりの体力がいるから、筋トレなんかは毎日欠かさずにやってる」

 そう言って中年男性は右腕をくの字に折り曲げ、上はく部に(こぶ)を隆起させた。

「美海部村には仕事で来たんですか?」

「『ひなの風光』って特集をやるつもりでね。実際訪れてみて良かったと思ってる。ここは本当に風情に富んでいて素晴らしい場所が多い」

 その時、真治の頭にひとつの着想が浮かんだ。「美海部の色々なところを見て回ったんですか?」

「ああ、かなり回ったよ。お陰で今日はくたくただ。だからこうやってのんびりと温泉でくつろがせてもらってるという訳さ」

 そこで真治はひとつの決心をする。「どんな場所がありましたか? 何かお薦めの場所はありますか?」

「お薦めの場所?」中年男性の太くてがっしりとした首が横に傾く。

「はい」真治は口調が段々強まってくる。「例えば、デートするのに最適な場所とか」

 中年男性が目を細める。「君、美海部村に来たのは初めてなのか?」

「はい、初めてです。昨日来ました。だからこの村については全然無知なんです」

「親と来たのか?」

「はい」

「昨日来たばかりなのに、近いうちにデートをすると?」

「はい」もう真治には隠し立てなどする余裕はなかった。今目の前にいる中年の男性だけが真治にとっての希望だった。

「ははは」中年男性が笑いだす。二人きりの空間に低くてよく通る声が響いた。「君はなかなか面白そうな子だな」

 それから中年男性は顎髭に触れながら無言になった。表情は真剣そのもので、記憶の中の風景を一生懸命手繰り寄せているようだった。

 真治はその間何も話したりすることができず、辺りを観ているしかなかった。温泉のすぐ近くにはつやつやした狸の置物がある。麦藁帽子を被った狸がタオルを三個詰めた籠を左の(わき)に挟んでいる。これから温泉に向かうというデザインのようだ。

 他には塀があり、高低差のお陰で山の中腹と山の麓の森が見える。湯けむり越しに見る夜の田園風景は白昼とはまた違う芸術になっていた。

「美海部村で長時間潰せる場所というのは難しいな。そもそも君くらいの年のカップルが遊べる場所がない。そういうのは田舎の短所だな」

 中年男性からようやく出てきたのがそんな言葉で真治はがっかりする。「別にテーマパークみたいに遊べる場所じゃなくていいんです。その子に美海部の地を紹介できさえすれば、それでいいんです」

「その言い方だと、デートする相手も初めて美海部に来たのか? 田舎というものを知らない初心者同士だと尚更この地はつまらないだろうな。厄介だ」

「いえ、相手は美海部の子です」

 中年男性が訝しげな顔つきで真治を見てくる。「美海部在住のくせに、昨日美海部に来たばかりの奴に美海部を案内してもらうと? 奇妙奇天烈な話だな」

「その子、ちょっと世間知らずな箱入り娘みたいなものなんです」

「これはまた面白いカップルだな」中年男性が顎髭を掻きながらにやける。何かを閃いたような表情だった。真治はそれに淡い期待をしたのだが、中年男性の口からは特に何も出てこなかった。

 真治は仕方なく温泉から出て室内に戻る。長い間入浴してた所為で夏の夜風に体を震わせた。

 もやもやだらけの室内に戻り、シャワーのある所に向かう。あまりに低いので失敗して尻餅をつかないようにと、プラスチックの腰掛けにそっと足を曲げながら座る。しゃがみ込んだように足を深く折り曲げた形となる。腰が僅かに浮いている奇妙な感覚があり、心がどうも落ち着かない。

 曇り防止された鏡の中には白い霧に包まれた不安定な世界がある。そちら側に住む自分の顔を見つめる。憂いを帯びた目には期待を裏切られて失望している千夏の顔が薄らと映っていた。

 それを忘れようと真治は顔面にシャワーのお湯をぶつけた。ノズルから慌てて飛び出てくるつぶてたちは深憂を一時的に弾き飛ばしてくれた。このまま延々とこの動作を続けられればと真治は思う。

 そんな折、室内に渦巻くある一定の流れを保持していた空気が突如として変わった。開けられた扉から外の寒気が雪崩れ込んできたのだ。

 真治はそちらに一瞥もくれずにシャンプーの容器に手を伸ばす。元々自分よりも早くから露天風呂にいたのだから、そろそろ戻ってきたって何もおかしくない。

「いい場所があった」胸の大きく割れた、岩を想起させる硬質な体が霧の世界に紛れ込んでくる。

「いい場所って、どこですか?」タオルを一切巻かない体から視線を外すようにして真治は訊いた。

五仏坂(いほとけざか)という場所はどうだろうか」中年男性が真治の隣の腰掛けに座る。

「五仏坂ってどんな場所なんですか?」

「御天神社のある山とは村を挟んで正反対に位置する山の麓だ。特別に面白いものがある訳ではないが、とても豊饒(ほうじょう)な自然に囲まれている。いちおしの見好い花畑もあるから、二人でのんびりと散歩するにはうってつけだ」

「それはちょうど良い」真治は頭の上でシャンプーを泡立てながら頷く。「そういうのを求めていたんです」

「そうか。それは良かった」ボディシャンをつけたタオルをはちきれんばかりの力で体に擦りつけながら中年男性が言った。

 中年男性は全身を三分ほどで全て洗い終え、そのまま浴場を後にした。最初のシャンプーすら洗い流せていない真治には驚愕の早業だった。

 しかし、すぐにまた扉が開かれ、中年男性が真治の背後に立った。「報恩という言い方は些か卑怯で躊躇してしまうところなんだが……。とにかく、明日のデートがどうなったか私に教えてくれないか?」

 真治はトリートメントを髪に馴染ませながら答える。「どうしてまたそんなことを?」

「また言い方が悪いんだが、君らは何とも珍奇なカップルだからね。ある意味、美海部の取材よりも君らの方が面白そうに思えたんだ」

 真治は鏡越しに中年男性を見ながら、目をしばたたかせる。「まさか、俺らのことを雑誌に書いたりしませんよね?」

 中年男性が顎を引きながら低く笑う。「まさか。流石にそれはないよ。私が担当しているのは旅行雑誌であって、女子高生用の雑誌やゴシップ誌のような他人様の色恋沙汰の需要なんてない。ただ単に、記者というよりは私個人として興趣を感じただけさ。約束する、決して君らのことは私の胸の内だけに留めておくと」

 真治はそれを聞いて仕方なく納得する。「はい、分かりました。どこに行ってどれくらい進展したかを教えます」

 中年男性は「ありがとう」と言って、勇ましい足取りで浴場を去っていった。真治は今度こそ本当に浴場でただ一人となった。もうこれ以上は客と逢着しないのを祈願し、また先程の扇型の温泉にゆっくりと浸かり、明日の風景を霧の世界にパステル色で描いていく。

 花畑を見ながら、満面の笑みを浮かべる千夏と自分の姿がそこにあった。

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