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難局

 聞き覚えのない虫や野鳥たちの鳴き声が聞こえる。辺りに大きく充満している。

 すっかり暮色が濃くなった帰路に、電柱が直線に延々と続いている。真っ黒に覆われている所為か、終わりが無いように見えてしまう。

 そんな中で、薄暗く光る公衆電話のボックスが存在感をしめしている。目に立つからか、ボックスの付近には虫が大量に飛び交っている。

 この世の物とは思えない不気味な雰囲気を発している。ひとりで電話をしていたら、後ろから幽霊でも現れそうだな、と真治は思う。

 静かに佇む家々の輪郭は、ぼんやりとしか把握出来ない。室内の灯りがちかちかと点滅している家もある。

 何かを伝える暗号なのか、壊れたように独特なリズムで繰り返しており、凝視していると目が痛くなる。

 耳を傾ければ、テレビの雑音が様々な方向から微かに流れ込んでくる。食卓で一家団欒(いっかだんらん)とテレビを観ているのだろうか。

 真治は隣を一緒に歩く法子をちら見する。顔は引きつっており、真治よりも若干歩調が速い。まだ憤っているのが分かる。

「なあ」と真治が遠慮気味に声を出す。

 法子は歩調を少しだけ遅くし、こちらに一瞥(いちべつ)をくれてから「何?」と訊いてくる。

「俺が宿を抜け出して、『みんな』、心配しているのか?」

『みんな』とは言ったが、実のところ世界一嫌いな人間のことだけを指していた。

「当たり前でしょ」と法子は語調を強くしてから、「心配しない親なんて、いるわけないじゃない」とぼそりと繋げる。

 そのまま、また早足に足を運び始める。真治との距離を少しずつ広げていく。

「ごめん」

 法子に聞こえるか聞こえないかくらいの微妙な大きさで真治が言った。別に聞こえていなければそれはそれでいいや、と思っていた。

 前を行く法子の様子を伺う。相変わらず歩が速い。遠慮などという言葉を知らないかのように。

「謝るならもっと大きな声で、相手の目をちゃんと正面から見て。でしょ?」

 後方から法子の顔は見えないが、声はどことなく笑いが含まれているように聞こえた。

 ふっ。真治は口の端からついつい声が漏れてしまう。そう言えば、昔から耳に穴が空くほど言われてたっけな。

「宿に帰ったら、ちゃんと、『みんな』に謝るのよ」

 法子は『みんな』という単語だけを異様に強く発音した。

 ふぅー。今度はため息が漏れる。『みんな』、か……。


 辺りが暗闇に飲み込まれている中、一軒だけけたたましい灯りが浮き上がっている。

 田舎に存立しているのを疑ってしまう程の光度も去ることながら、それを反射している深紅色の屋根が一際目立っている。

 依然と存在感を示すそれは、真治たちが寝泊まりすることとなる宿に違いなかった。

 このど田舎な美海部村で、あんな豪華な建物があるというのは、如何なものか。周囲との格差みたいに感じるあれを、村民たちは快く思っているのだろうか。

 そんなことを真治が考えていた時、夜道の先から話し声が聞こえてきた。かなり近くにいるようだが、姿形は闇に隠れてしまっている。

「げっ」と真治は口元を歪ませ、立ち止まる。

 聞こえてきたのは、若い男女の声だった。しかし、その声質からすぐに誰かが判った。

 法子は全く意に介することもなく、そのまま声のする先へと歩いていってしまう。

 どうしようかと真治は悩む。このまま進めば、「あの二人」に遭遇してしまう。しかし、もう法子の近くから離れるわけにもいかない。また鬼を見るのはうんざりだった。

 深呼吸をする。精一杯に、田舎の澄んだ空気を肺に取り入れた。覚悟を決め、真治も前進する。


「あら」と最初に反応したのは法子だった。向こうも一瞬遅れてから気付いた。

「電車の中ではどうも」法子が一礼する。

「いえいえ、本当に何も悪いことはされていませんよ」

 黒い長髪を垂らした女性が、弱々しい声で慌てている。隣の長身の少年は、ばつが悪そうに法子や女性から視線を逸らしている。

 女性はモデルばりのスタイルをしている。ストライプのチュニックシャツにルーズネックTシャツ。下にはレギンス。

 少年も長身でモデルのようなスタイル。ドクロの黒いシャツに、ブラウンの髪。険悪な目つき。

 電車内と同じ格好のまま、二人が闇に浮かんでいる。

 清花と隼人に、こんな所で出会(でくわ)すとは思わなかった。

 車内での短き恋の一件もあり、真治はこのカップルには会いたくなかった。

 もう今は、千夏の件があったから、尚更トラウマである清花の存在は記憶から抹消しておきたかった。

「あなた達も美海部村の出身だったの?」法子は興味が津々だった。

「はい。私は東京の大学に入学することになって四年前、あ、正確には三年半くらい前に上京したんです」清花が軽快に答える。

「あら。じゃあ、長期の休みになったら帰郷してたりするの?」

「いえ。美海部に帰ってきたのは、上京して以来、三年半ぶりなんです」

 なるほど。どうりで美海部の風景を懐かしそうに観ていたわけだ、と真治は納得する。

「都内の化粧品会社への内定も決まりました。ちょうど夏休みなので、両親が住んでいる美海部村に戻ってきたんです」

 懐旧の情からなのか、清花の声が弾んでいる。隣の隼人はやはり無愛想なままでいる。

「それで、彼氏さんも連れてきて、結婚報告もしちゃおうってことかしら?」

 そう言って法子は遠慮なく隼人に近寄る。隼人は首を動かさずに、狐に似た細い目だけで法子の方を向いている。清花はといえば、鳩が豆鉄砲でも食らったような顔をしている。

 やっぱりこいつら夫婦だッ! 真治が心の中で叫ぶ。余計なことにいちいち首を突っ込む性分は、一緒なんだ。気が合ったのも納得だ。

 隼人は煩わしそうに顔を歪めている。法子は、そんな隼人の表情を愉快そうに見ている。

「あら、私、彼氏さんには嫌われちゃったかしら?」

 やがて、隼人がゆったりと口を開く。

「俺ら、姉弟ですよ」

「え?」声を上げて反応したのは、真治の方だった。

 虫たちの鳴き声が、再び辺りに聞こえ始めた。野鳥はどこか遠方の山で一際大きく長い声を発し、それからは全く聞こえなくなった。雑草の臭いが充溢(じゅういつ)している。吐き気を催す程ではないが、昨夜嗅いだヒメヒオウギの上品な匂いとは明らかに違う。電灯の微かな明かりが四人をぎりぎりに囲っている。お陰で、辛うじて闇に飲み込まれないでいる。

 それらを認識させる程に、その時の真治の感覚は冴えていた。電灯で隔てられた空間の時間だけが、止まっているみたいだった。

「あの、そんなに驚かなくても……」

 清花のぼやき声はすぐに闇の中に消えていった。目をしばたたき、困惑を顔に浮かべている。

 同じく当惑していた法子が「ああ」と声を漏らし、「なるほどね」と自得する。「ねえ?」と真治の方に顔を向け、同意を求めてくる。

 何が「なるほどね」なのかは分からなかったが、真治は一応「ああ」と首を縦に振っておく。

「そんなに……、カップルに見えちゃうんですかね?」

 清花が若干いつもより丁寧な口調で訊く。今まで何回も勘違いをされてきて、その理由がどうしても気になったのかも知れないな、と真治は思う。

「顔が全然似てないし、とても姉弟には見えないわ。『モデルみたいな美男美女カップル』って方がしっくりとくる感じ」法子が二人に目線を配る。

「そ、そんな、隼人はとにかく、私は美人なんかじゃないです、滅相もないです!」

 清花が顔を真っ赤に染めながら、首を目一杯の速さで横に振る。謙虚だなー、と真治は内心で拍手喝采を送る。

「私なんて、都会で暮らすようになって数年するのに、全然隼人みたいにおしゃれになれないんですよ」

「ううん、あなたは今のままが良いと思うわ。変に厚化粧を施すより、素を前面に出しているのが一番」

 そう言って法子が胸を張るのと同時に、また夏山のどこかで野鳥が鳴いた。「その通りだ」と、賛同しているみたいだった。

 清花は顔をうつむけたまま、「はぁ」とかしこまった声を出す。

 一連の会話中、真治と隼人は気まずそうにそれらを静観していた。暗い風景しかなく観るものなど無いのに、目をきょろきょろとさせていた。

 二人はたまに目が合うと、何事も無かったように敏速(びんそく)に逸らし合っていた。

 それから清花は、逆に法子たちのことを訊いてきた。法子は、夫の父親が病床にあり、母親の手助けをしに美海部村に来たと説明する。

 清花は「私たちには何も出来ませんが、お父様の体調が早く治ることを切に願います」と一礼する。

 そして、二人は別れの言葉を交わし合う。法子は深紅色をした屋根が目立つ宿に向かって、清花は真治らが来た道に足を動かし始める。

 清花が別れの挨拶代わりに頭を縦に振り、真治の横を通り過ぎていく。相も変わらず、レモンの微香が鼻を刺激した。それから数歩後を隼人がのんびりと歩いてくる。真治もゆっくりと歩き始める。

 尖った表情をした隼人が、真治とすれ違う。全くこちらには目線を向けてこない。

 ただ、一言、「マザコン」とだけ小声を残していく。

 真治の頭の中に猛烈な怒気が蔓延(はびこ)る。すぐ様に「シスコン」と小声で言い返してやる。

 そこで背を向け合う二人の歩がぴたりと止まる。

 しかし、お互いに振り向くことなく、また同行者の後を追っていく。


 庭にある丸石の斑点模様を踏み鳴らしながら真治たちは歩く。目前に現れた雲の描かれた赤い暖簾(のれん)を掻き分ける。

 昼間に見て予想していた通り、正方形を描くように小さな天井に設置されていた電球の明かりは、しっかりと点いている。淡いオレンジ色が玄関を丸ごと包み込み、暖簾が薄くて赤い光を落としている。

 真治は自らのオレンジ色の手などをじっと見続ける。明るく華美に演出された玄関に、ついつい見取れてしまう。これは立派な芸術だな、と。

 真治がそうこうしている内に、法子がさっさと横移動式の扉を滑らせる。がらがらと(たくま)しい音を響かせながら開いた。

 吹き抜けのフロントとロビーも、昼間とは別の顔を見せた。暗闇の至るところにぼんやりと灯りが浮かび上がっている。高輝度な畜光素材を使用した置物が室内に色を着けているようだ。西欧を意識した、ろうそく型の物やガラスで出来た小鳥型、提灯型、招き猫型などが、光の色で個性をアピールしている。昼間にも気になっていた流木と馬車の車輪らしき物を使った照明器具は、唯一直接電気を採っていて、一際強い光を撒いていた。

 それらがバラエティ豊かな漆塗りの壁や柱に模様を描き、また、反射した色たちが混ざり合っては新たな色を創造している。

 真治は思わず賞嘆のため息を漏らしていた。隣の法子も足を止め、その芸術に見入っている。

 そんな光の芸術の中に身を委ねていた二人に、大きな木造テーブルの方から声が送られてくる。

「おーい! 真治、法子ー!」

 道夫の声だった。やはり、現実世界に引き戻す仕事は、道夫の本分だった。この時ばかりは、法子も口を歪めていた。

「へへへ、なかなか立派だろ?」道夫が口を横に広げたまま、二人の前までやってくる。

「ええ、なかなか」と法子はすねた声で応える。

「あれ? もう少し良い反応してくれると思ってたんだけどな」

 道夫の太い首が横に傾く。何故、道夫に冷めた視線が集中しているのか、全く分かっていない。

「それはそうと、真治」こちらへ体を向けてくる。真治は矢庭に顔をうつむける。

「お前、こんな遅い時間まで何をやってたんだ?」

 やっぱり来たか、と真治は舌打ちをする。絶対に、道夫や純には千夏のことを知られたくない。

「ちょっと美海部村を散歩してきただけだ」と真治は答える。僅かな動揺も見せてはならない。

「本当にそれだけか?」道夫の片眉が上がる。

「ああ、それだけだ」

「どうかなー」道夫が歯を剥き出しにする。

「お前さ、また女絡みじゃないのかー?」

 やばいな、と真治は生唾を呑み込む。なんて勘の鋭さだ。

「あ、そう言えば」突然法子がぼそりと口にしては、続きの言葉を嚥下(えんか)する。

「法子、どうしたんだ?」

「あ、いや、そんな大したことじゃないんだけど……」

 真治はぎょろっとした目で法子の方を見ていた。止めてくれ、「ヨウセイ」の件を出さないでくれ。

「何言おうとしたんだ? 遠慮なく教えてくれよ」

 こんな時の道夫の笑顔は清々しい程で、全てを受け入れる態勢を明示していた。

 ダメだ、教えるな、ヨウセイを教えちゃダメなんだ、千夏とのことは秘密にしたいんだ。

 法子の唇が微動する。真治は全てを覚悟し、目を瞑った。

「さっき、電車内での若い男女にまた会ったわ」

 違った。真治は口から不安を吐き出す。だがそれでも、道夫はせせら笑っている。

「へぇー。じゃあさ、やっぱり電車内みたいに凝視してたんだろ?」

 真治を見てくる道夫の顔は確信に満ちている。やはり真治は返事をしないでおく。道夫の場合は、何を言おうが「図星」にされてしまうのだから。

「まあ、高校生じゃそんなもんだろ。思春期だもんな。女のことばかりに興味が湧いて当然、健康な証しだ! 綺麗な女の子がいたらずっと目で追っちまうんだよ。いやー、健康健康」

 真治はマシンガンのような言葉の乱射を食らった。千夏の事を知られなかったのは喜ばしいが、これはこれで悲劇だった。

「じゃあさ、さっきもあたしの胸が気になって仕方が無かったのかなー?」

 一階の渡り廊下から声が飛んできた。真治は耳を疑った。まさか、よりにもよって、純まで会話に参加してくるとは。

 純がきらびやかで多彩な光の中から現れる。昼間と同じで肌の露出が高い服装をしている。

「おお、純ちゃん、当たり前じゃんか! きっと真治の奴、その胸しか見てないぜ。もしかしたら、まだ顔覚えられてないかもな」

「ははは。思春期だもんね。仕方ないよねー」

 二人でげらげら笑う。

「いやー、でもね、胸がどうかは知らないけど、顔を覚えられてないってのは、当たってると思うよ」

「純ちゃん、どういう意味だ?」

「昼間部屋に遊びに行ったんだけど、真治君、無理やりあたしから視線逸らしてた」

 何かを確信したように道夫の口元が下品に歪んだ。

「真治、何で純ちゃんから目を逸らしてたんだ? なあ、黙ってたってどうしようもないんだから、さっさと吐いちまえよ!」

 とうとうと言いながら、道夫は真治に顔を寄せてくる。それに合わせて純まで間近にやってくる。露出の激しい服装が真治の視線の端に入る。

「あたしに怒鳴ったよね。あたしのこと嫌い? どこがいけ好かないの? ねえ、教えてよ!」

「あ、そうそう」法子が静かに口に出す。それに連動し、道夫と純の視線が法子の方へ移動する。

「真治、『ヨウセイ』って何なの?」

 遂に言われてしまった。何故か両肩が重く感じ、真治は呼吸を乱し始める。自分でもしっかりと分かった。

 道夫と純の二人は、目を爛々(らんらん)とさせている。

「ヨウセイ? それって、森なんかにいるって言われてる、あの妖精?」

 純が眉をしかめる。道夫も懐疑を浮かべている。

 もう、ダメだ。千夏との恋も終わりが見えた。ベルの音が真治の脳内に鳴り響いた。試合終了、と。

「妖精、妖精」と、二人はぶつぶつ発音を繰り返している。

「あんたら、何やってんだい」

 ぶっきらぼうな言葉が飛んできた。悦子が呆れた顔で、純の後方に立っている。

「あんたら、こんな玄関でサボってないで、手伝っておくれよ」

「あ、ああ。お袋、わりい」道夫が申し訳なさそうにしている。

「とにかく、夕食の手伝いをしておくれ」

 そうして、道夫と純は悦子の後を追って厨房の扉の中へと消えた。悦子に救われた。

「そう言えば、こんな田舎なのに客なんて来るのか?」

 真治の問いに、法子はしっかりと胸を張って答える。

「ちゃんと来てるわよ。三組」

「三組も? 物好きな連中だな」

 はたと法子の顔が強ばる。鋭い眉毛や目つきが、余計に迫力を感じさせた。真治はしかめっ面になる。

「ああ、そうだな、良い趣味を持った人たちだな」


 真治は改めて宿の中を見回してみる。少し立派な家を宿屋として改造したみたいで、高級とは言えないがど田舎の景観とは完全に不釣り合いな造りだ。

 宿の一階にはロビーとフロントが一緒にある。扉がいくつか見当たるが、ひとつひとつの間隔の狭さからして宿泊する部屋とは思えない。おそらくは、二階だけに客室を置いているのだろう。

 後は小さな厨房、どちらかと言えば大きめな台所があり、階段の裏には廊下が長く延びている。中央がライトアップされた中庭を覗ける廊下の先には、小さな宴会場らしきものがいくつか見える。

「真治、私たちは後から夕飯貰えるそうだから、部屋で待ってて」法子は片眉を吊り上げ、「もう抜け出しちゃ駄目よ」と付け加える。

「ああ」と真治は頷く。「もうこんな夜なんだし、出掛けようがないって」

 真治は法子と一緒にオープン型のかね折れ階段を上り、二階に行く。右には大きなガラスの窓があり、宿周辺の田んぼが眺められる。白昼は緑色がわっと広がっていたが、今現在は真っ黒い海面のように静かに存在している。左側は手すりとなっており、一階の幻想的な灯りたちが見下ろせる。ふと真治の足が止まる。

 光の芸術の中に混ざり込んでいた時とは違い、上から俯瞰(ふかん)してみたそれは、満天の星たちを連想させる。地上の星空だ。

 法子の足音が止む。真治は母親の顔を見ずとも、瞬時に音の変化だけで状況を判断し、また足を動かし始める。

 そのまま真っ直ぐ進んでいくと、右側にいくつかの客室が現れる。静閑な廊下に、室内の音が僅かに漏れている。だが、テレビなのか客の話し声なのか判断出来ない程度の微々たるものだった。

 先頭を静かに歩く法子が肩越しに真治の方へ振り返ってくる。右手人差し指を鼻の頭に載せ、声にならない声で「しっ」と言う。

 そんなことくらい分かってる。いい加減ガキ扱いするな、と言ってやりたかったが、真治は素直に首を縦に振る。

 突き当たりを左へ曲がり、また左手にある地上のプラネタリウムを尻目にし、直線を進む。二階に上がってきた階段のちょうど反対側に、真治らの部屋は位置している。

 法子が赤いプレートのついた鍵をポケットから取り出し、鍵穴に差し込む。ガリガリと物が擦れ合うような鈍い音がしたが、真治は忘れておくことにした。

 先に上がり端に入った法子が素早くスイッチを押し、室内に明かりを与える。

 そのまま入れ替わるように真治が入り、縁側に上がる。法子はそれをしっかりと確認し、廊下に出て扉を閉める。

 また、室内には真治ひとりとなった。

 座敷の奥のガラス窓はしっかりと鍵が掛かっているが、カーテンの方は全開になっている。ゆっくりと一歩一歩を踏みしめながら近付き、窓を開け、カーテンをシャーっと軽快な音で滑らせる。

 すると、真治が鼻歌を鳴らし始める。口元に深いしわが作られる。

 部屋の中央にあるテーブルへ、陽気なステップで向かう。足がとてつもなく軽く感じた。

「ふふふ」と、誰もいない室内に真治の笑い声だけがする。

 テーブル横に、プールへ飛び込むかのように真治は勢いよく倒れる。寝転がり、座布団に抱きつく。そのまま、畳の上をごろごろと横に往復する。

「千夏、千夏」と何度も裏声混じりで、連呼する。

 誰もいない部屋は、あまりにも開放的だった。普段は他人に胸の内を話せないから、だから今、真治の心の中の全てが解き放たれている。

 真治は瞼を塞ぎ、千夏との出来事を想起する。木々を掠めて降り注ぐ陽光、存在を示そうと忙しなく鳴き続けるセミたち。その中に千夏がいて、二人が向き合うと、場の空気を察したようにセミたちはだんまりとしてしまう。

 千夏は、同じ人間とは思えないほどの霊異な存在感を持っていて、そんな彼女の神妙な瞳が、自分の事なんかを見つめていたのだ。

 真治は自分でも分からない内に舞い上がっていて、千夏に会いたかった、とまで伝えた。それなのに、あろうことか、彼女の応えを待たずしてそそくさと逃げてしまった。

 過去の失恋を引きずり、もうそんな辛い経験をしたくないと考えて、真治は現実から逃避してしまった。その先には更なる虚無の深淵が待ち構えていると知っているのに、わざわざ自分から足を突っ込んでいた。

 千夏は、そんな自分に手を差し出し、救ってくれた。降りかかる木漏れ日は、妖精の微笑みをより一層眩しく演出した。

 つい先程起きたばかりの思い出の中に溶けていくように、真治の意識は深く深くへと沈んでいった。


「真治くーん」

 明朗快活な声が、真治を夢の世界から(すく)い上げた。

「ほらほら、起きてー。真治君、夕飯だよー」

 千夏のピアノのような繊細な声音に比べると、純の場合は、攻撃性を帯びたギターのように思えた。さしずめ、本人の好みと一致してパンクロックといった所か。

 とても心地よい夢から無理やり覚まさせられた所為か、真治は不機嫌そうに起き上がる。

 体が重たく、節々が言うことを聞かない。室内の明かりに妙な違和感を覚えては、じんじんとめまいがする。一度倒れそうになり、壁に寄りかかった。

「ほらほら、ダルくても頑張れー」と言って、純は先に縁側へ降りる。僅か数秒間だが、純の尖らせたアヒル型の唇に真治は見惚れてしまう。

 服に付いた畳の粕をやや乱暴にはたき落とし、純の後を追う。

 真治はふと携帯電話の存在を思い出し、踵を返す。テーブル上に放置されている携帯電話を拾い上げる。その近くに、中身を失ったせんべい類の袋がいくつか散乱していた。

 悪寒戦慄がした。電光石火の早業で、携帯電話を開いてみる。プッシュボタンにせんべいの粕が付着していた。それが純の仕業である事は、明々白々だった。

「真治君、何のんびりしてるの! 早くあんたを連れてかないと、あたしが怒られちゃうんだからねぇ!」

 純が縁側から呼号してくる。わざと可愛らしく振る舞おうとしているのか、頬を風船のようにぷっくりと膨らませている。

 まだ体中にこびり付く眠気の所為か、気骨が折れてしまいそうだったからなのか、真治は大息した。

 そう言えば、道夫(あいつ)も山路で同じような事を言ってたな。やっぱり似た者同士ってことか。

 肩がぱっかりと開いた純の背中をなるべく熟視しないようにして、後を追う。


 一階の渡り廊下は大きなガラス張りにしてあり、中庭が一望出来るようになっていた。庭石にも畜光の塗料が使われているみたいで、ぼんやりと優美に光っている。

 真治はひとたび立ち止まっては鑑賞をしたかったが、厄介事は御免なので素通りした。帰り際に寄って、好きなだけ観ていけば良いだけの事だ。

 客の夕食後にすぐ掃除を済ませたらしく、小さな宴会場はこざっぱりしていた。座敷の横長テーブルには、既に道夫と法子の姿がある。

 明かり障子を開けた途端に、「あ、来た」と法子が反応し、テーブルの反対側に座る道夫が「真治、遅いぞ」と茶にしてくる。

 真治は片脇の純に鋭い眼差しを向ける。純は唇をにっと広げ、「あら、また思春期の反動なの?」と自分の胸を指差す。

 純の顔しか見ていなかったのだが、妙な羞恥の念が湧き上がり、真治は視線を外す。

「あたしの勝ち」強烈な香水の匂いを撒き散らしながら、自慢げに耳語(じご)された。

 座敷に上がり、真治が法子の隣へ座る。純は真治の真っ正面、道夫の隣に着く。

 テーブルには既にいくつかの夕飯が雑然と置かれている。

「真治君が来るまで待っててくれたんだよ」純が密かにウィンクを送ってくる。

「優しい両親だねぇ」

「こんなの、常識だろ」

「もう、何でそんなにツンツンとするかなぁー」

 純が呆れ果てたような表情をする。人差し指で空を突っついている。

「真治は、昔からツンツンしてる所があったわ」

 箸で山菜を口に含みながら、法子がしみじみと喋る。

「でも、芸術家タイプなのかも知れないわ。高校一年生の時、コンクールで受賞してるし」

 へぇー。道夫と純が同時に頷く。

「真治君にそんな才能があったとは、驚き。いやぁ、本当にすごいなぁ」

 冷やかす訳では無く、ただ純粋に、純が褒め称えてくる。真治はこそばゆくなって鼻の頭を掻く。

「なるほど、天才は難しくて面倒臭い奴ばかりって言われてるもんな。ひねくれた真治見てて妙に納得だ」

 道夫は賛してくれず、早速冷やかしてくる。

「でもね、コンクールでの受賞は高校一年生の時だけなの。小学校だとか中学校の時は、芸術なんかとは程遠い子だったのに」

 法子に連動されて純も首を傾げる。

「不思議ですねー。高校一年生の時、真治君に何か特別な出来事があったってこと……、かな?」

 真治は耳を傾けずにただ黙々と、テーブルに並べられた夕食を喉に通していく。

 脳裏では、古めかしい校舎の屋上が、新鮮な映像として蘇りそうになっていた。「食べる」という行為に全意識を向けなければ、辛辣な過去が蛆虫のように湧いてきたかも知れない。

「そう言えば、純ちゃん、お袋はどこに行ったんだ?」

 道夫が別の話題に切り替えた。真治は、この時ばかりは道夫に感謝の念を抱いた。

「悦子ばあさんなら、貞義じいさんの所だよ」

 純がすぐに返答する。

「悦子ばあさん、貞義じいさんにだけは甘いんだよねぇ。あたしには、『サボってないでしっかりと働け』とか口うるさく怒ってくるくせにさぁ。ちょっと部屋のお菓子を拝借しただけなのに」

 純の目に不満の色が浮かぶ。叱られて当然だろ。真治は眉をしかめる。

「はは。純ちゃん、そりゃあ叱られて当然だろ」道夫がけらけらと笑う。

 真治は衝撃を受けていた。道夫と思考が被ってしまった。

「だって、とっても美味しそうだったんだよぉ。甘党のあたしに我慢しろなんて、いくらなんでも酷だって」

 からりとした声で純が言い訳をする。それから彼女は、東京に行った時に立ち寄ったスイーツ屋の話を始める。

 銀座のアンジェリーナのモンブランが何たら、今は自分の中でフワンボワーズ(ラズベリー)がヒットしている、マンゴーのタルトやプリンが増えてきている、などと熱心に一人で語る。

 とあるスイーツ屋で修羅場を迎えている二人のOLを見掛けた事についてまで喋りだす。知的な雰囲気を出している美人が、もう片方の地味な女性にフォークを突きつけていたとか。

 実は地味な女の方が圧倒的にモテてるなーって思ったの。古臭いゴムで髪をゆわえたりしてわざとダサく見せてるけど、あれは百戦錬磨の猛獣よ。何で分かったかというと、それは女の勘よ。とにかく遊び歩いてたら、知的な女の意中の人かなんかを横取りしちゃったんだと思うんだよねぇ。だから、あんな修羅場になっちゃったと。まあ、これも女の勘だけどね。

 法子と道夫は、スイーツについて熱弁されていた時には相づちを打つ程度だったが、OL二人の話になった途端に饒舌をふるうようになった。

 その、脳ある鷹は爪を隠す的な女性がどれほど男たちを弄んでいたか。その後の二人はどうなったか。恐らく二人は水面下の戦いをしたんじゃないかな。先に直接手を出した方が負け。女の根比べ。でもやっぱりどちらかが手を出しちゃって、とんでもない暴力のふるい合いに発展しちゃう。結局、警察沙汰にまでなる。下手したら、死者が出たかも。ああ、女って怖いね。

 真治はもう、うんざりだった。

 醜い戦いをしている本人たちよりも、被弾しない高台から面白そうに傍観している人間たちの方が怖いと思った。

 そんなこんなをやっている内にかなりの時間が過ぎていた。携帯電話の画面に表示される時刻は、部屋を出てから二時間経過したことを告げていた。

 いくら宿泊客が夕食を済ませているとはいえ、こんな所で茶話をしていて良いのだろうか。真治は疑問を抱く。

「純、雑談はそろそろ終わりだ」

 見覚えのない五十がらみの中年男性が、どこからともなく現れては純の肩を強く叩く。ばちんと綺麗な音が響いた。

 純は突然の出来事に「きゃっ」と小さな悲鳴を上げた。振り返って中年男性の顔を見ると唇を窄める。

沢木(さわき)さん、女の肌に触るなんてセクハラですよー」

「そんなに肌を露出してる女が、何言ってるんだ」

「でも、別に叩く必要は無いでしょ。暴力だよー!」

「お前は腑抜け過ぎなんだ。気合いを入れてやらんと」

 沢木と呼ばれる中年男性は、純の勢いにうろたえる事なく堂々としている。坊主頭や太い眉毛、角張った輪郭と一致して厳格そうだ。

「沢木さん、鴨井(かもい)さんはどうしてるの?」

「お前と違って、ちゃんと厨房で皿洗いをしている。お前も今すぐ手伝え」

 純は仕方なさそうに立ち上がり、弧影悄然としながら縁側へ歩いていく。一度こちらに振り向き、「沢木さんの意地悪、頭でっかち」と舌を突き出した。

 沢木はそれに反応する事なく、腕を組んで純が出ていくのを見ている。真治としては、沢木のような人間の存在がとても有り難かった。

 純がいなくなったのを確認すると、先程まで彼女がいた座布団に沢木が腰を下ろす。

「よお、お前が真治か」

 沢木が厳しい視線を真治に送ってくる。嫌な予感が走った。

「道夫から聞いてるぞ。かなりひねくれたガキらしいな」

 沢木の顔は強張っている。眉間と目尻に並大抵ならぬ深さのしわが作られている。どうして、そんな顔で見られなければならないのか。全く理解出来なかった。

「道夫、こいつ全然喋らないぞ」

「そいつは口数少ないけど、沢木さんの顔見たら、初見の人間は誰だって黙り込んじまうって」

 道夫が笑う。沢木は堅い表情のまま、歯がゆそうに鼻の頭を掻く。

「ちっ。相変わらず失礼な奴だな。言っとくが、俺は怒ってないぞ」

「沢木さんがそのつもりじゃなくても、顔が怒ってるように見えるんだって」

 道夫が自分の額を指で小突く。道夫とのやりとりに気骨が折れたのか、沢木はまた真治の顔に視線を向ける。やはり怒っている顔にしか見えなかった。

「お前、勝手に宿を抜け出したらしいな」

 沢木の魂胆をちらりと覗き見た気がした。沢木は味方としては頼りになりそうだが、敵にすると尚厄介な人間のようだ。

「はい」一先ず頷いておく。

「まあ、これくらいの歳ってのは遊び盛りだからな。遊びたいだけ遊べば良いんだ。でもな、親に心配掛けるのは良くねえぞ」

「はい」分かりました、と真治は付け足す。

「沢木さん、その顔じゃなかったらすげえ好かれるのになあ」道夫がにっと笑う。

「どいつもこいつも、いちいち人を顔で判断し過ぎだ」

 沢木の顔は依然として怒気が感じられる。声色から、これは憤っているというよりは嘆いているのだろうな、と真治は判断する。

「さて、俺も夕飯をいただくとするか」

 沢木がまだ破れていない箸の袋を掴む。

「そう言えば、沢木さんは戻らなくて良いのか?」

「純と交代したから大丈夫だ」

 それからは沢木の話が延々と続いた。貞義はかなりの頑張り屋で、熱が出ても仕事を続けようとしたと語り、いつの間にか最近の若者は気合いが足りないという話題に変わっていた。

 沢木は、まるで若者の代表だとでもいうかのように真治の顔を頻りに睨んできた。少なくとも、自分みたいなタイプが現代の若者の多くを占めているとは思えなかったので、真治は当惑した。

「そうだ真治」と法子が呼んでくる。

「明日、みあま神社に行きましょう」

「神社?」なんで神社に行くのだろうか。真治には皆目見当がつかなかった。

「とても有り難い神社らしいの。あんたも何か祈ってみれば良いわ」

 法子の口の両端が吊り上がる。「例えば、今の恋が叶いますように、とか」

 真治はとっさに道夫の顔を窺う。道夫は未だ沢木の長話に付き合わされ、くたくたになっている。幸い、今の法子の言葉は聞いてなかったようだ。

「鴨井さんが、私たちを案内してくれる事になってるわ」

 法子が言った「鴨井さん」とは誰だろうか。真治は、先程沢木も同じ名前を出していた事を思い起こす。厨房の方で皿洗いをしているらしいから、おそらくはこの宿の従業員なのだろう。

「あ、そうだ」法子が何かを思い出したように声を出す。真治の心臓がどくんどくんと脈打つ。

「もしかたら、純ちゃんも来るかも知れないわ」

 純と道夫がセット……。皿に載せていた箸が、ひとりでに落ちた。真治の産毛が逆立つ。不吉な事が起きる前兆なのだろうか。

 千夏と会う約束もしている。どちらを優先するか。悩む必要など無かった。真治にとっては不毛な選択肢だった。

 明日、神社に行くのを拒否しよう。

「真治、またどこかに行ったら許さないわよ」

 法子がむっとした表情で、真治の退路を塞いでしまった。

「宿泊客がいなくなって余裕の出来る二時頃に行くわ。余裕って言っても少しだけだから、すぐにお参りは済ませるけど」

 暗闇の中にまだ一縷(いちる)の光が指していた。真治はほっと胸を撫で下ろす。

 神社の件をさっさと済ませ、その後、千夏に会いに行けば良い。

「その神社って、どこにあるんだ?」

「山の中よ。私たちが村に来る途中でY字型の道路があったでしょ? ほら、道夫さんがガードレールを乗り越えた方が近道だって言った所」

 真治の頭の中で何かが引っかかった。そちら方面の神社には覚えがある。

「村へ繋がってる暗い下り坂と、明るい上り坂があったでしょ? あれの上り坂の方へ進んでいくのよ」

 真治が今日の白昼に通った道のりだ。

「しばらく山道を登って行くとみあま神社に着くそうよ」

 それは、近くに古びれた半鐘がある、あの神社の事だろうか。真治は焦り始める。

 あの神社の付近には、千夏がいた川がある……。

 いや、あの神社は「ごてん神社」だから大丈夫だ、と自分自身を励ます。額束に書いてあった「御天神社」の文字を思い返してみる。

「あっ」真治はたまげた声を出してしまう。

「何、いきなりどうしたの?」法子が目をしばしばさせる。

「みあま神社の『みあま』って、どういう漢字なんだ?」

「ああ、美海部村とは違う漢字なのよ。御前とかの『御』に、天使の『天』と書くの」

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