呼び声
相も変わらず真夏の太陽がじりじりと照っている。真治の体内から次々と水分を奪っていく。しかし、訪れた時に比べれば日差しが幾分か弱まっている。
携帯電話のメインディスプレイを覗く。『15:36』と表示されている。未だ猛暑の脅威は収まらないが、日は既に陰り始めているようだ。
クマゼミの鳴き声が聞こえなくなったのはそれが原因なのかも知れないな、と真治は考える。
美海部村を訪れた時には村民を見掛けなかった。今は打って変わり、路地に人の姿がちらほらとある。
老幼問わず、すれ違う度に「こんにちは」と会釈をしてくる。ここでは知人か否かは不要のようだ。だが、幼児や老人ばかりの野暮な景観に真治の不満は募るばかりだった。
空き巣狙いに親切な、窓が全開になった民家の竿から洗濯物が消えている。その民家の石垣の影に、小学生かそれ以下かと思われる青い短パンの男の子と赤いスカートの女の子がしゃがみ込んでいる。
麦わら帽子を被った二人は玩具で遊んでいるわけでもなく、顔を近付け合ってひそひそと話をしている。辺りには真治しかいないが、存在に気付いていない。
話の中身は秘密にするほど大層なものではなく、このくらいの子供にとっては言わばひそひそ話をするという事が、一種のコミュニケーションの取り方なのかも知れないな、と真治は思う。
真治は歩を止めることなく、そんな二人に気付かなかったかのように通り過ぎようとした。今は河原の妖精が最優先なんだ、と自らの足の運びを促す。
「ジュンおばちゃん、あそべないのぉ」女の子が声をあげる。
真治は思わず足を止めてしまった。子供二人が正面に佇む真治の存在に気付き、石垣の影から小さな足音を立てながら駆け寄って来る。
「おまえ、みあまのひとかぁ?」
無垢な瞳を携えて堂々と男の子が訊いてきた。真治が小さく鼻息を鳴らしてから答える。
「いや」
「お兄ちゃんくらーい」
甲高い声の女の子からの奇襲を喰らい、真治は嘆きとも戸惑いとも取れない表情で軽くため息を零す。
子供のような大人ならば身近にいるが、本物の純粋な子供には免疫が無かった。
「なあなあ、どこからきたんだぁ?」
「東京だよ」
「トーキョーって『カッコイーひと』がたくさんいるんでしょ? おにいちゃん、ださいよぉ」
真治は込み上げてくる怒りを抑える。相手は子供だ、ここでいきり立ったら子供のような大人の仲間入りだ、と何度も念仏のように唱えて自得する。仕方なしに真実を教えた。
「ダサい人もいるんだよ」
「ああ、なるほどぉ」
屈辱と同時に憎たらしい隼人の顔が、真治の頭によぎった。この子供達が想像している「都会人」の理想像とは、ああいう人間なのかも知れない。真治にとっては不本意なことだった。
「でもジュンおばちゃんはカッコイーよねぇ」女の子のぼやきに男の子が相槌を打つ。
「ママがいってたじゃんかぁ。ジュンおばちゃんはちょくちょくトーキョーにいくんだぞぉ」
男の子から女の子へ相槌を打つ役目が交代し、そのまま二人は真治の顔を見ることなく、忙しく走り去っていった。公園までかけっこして、勝った方が家の冷蔵庫にあるスイカを独り占め出来るそうだ。
ひとり取り残されたように真治が立ち尽くす。元から小さかった姿が更に小さくなっていく様を眺めながら、目を三角にする。
「ちっ。これだから子供は嫌なんだっ!」辛辣な言葉を吐いては溜飲を下げる。そのまま何も無かったように、再び夏山へと歩き始めた。
坂道に建っている所為か、少し斜めってる小屋がある。トラックが駐車してあり、付近には細長い棒に力強く巻きついたひまわりがある。
目の先には夏木立があり、その隙間に辛うじて通れる道がある。道夫が紹介した「けもの道」の入口だ。
ここを使えば、通常二十分を要するものを五分に短縮出来る。行かない手はない筈なのだが、真治は些か躊躇っていた。
道夫が子供の頃から使っていた道、通い慣れた道、邪道な選択、道夫と同じ思考……。
いや、あいつだけが使ってると思うか? きっと、みんな使ってるんだ!
真治はそう自問自答して、裏道へと力強く一歩を踏み出した。
森林に囲まれているお陰で、日照に頭を悩ます必要はなくなった。しかし、人間に容赦ない上り坂に真治は一苦労した。
ガードレールを乗り越えると道路に合流した。Y字型になった分岐点が見える。一本道の方には通行止めのバーが置いてある。暗くなった下り坂と明るい上り坂と、陰陽のように全くの対象となっている。
道夫の話によれば、陰気な下り坂は「けもの道」の入り口へと繋がっているらしい。もう一方の明るんだ上り坂は何処へと繋がっているのだろうか。
真治は河原の妖精に辿り着く為の道筋を導き出そうと、おもんみる。妖精を見掛けた石橋から河原に下りられそうな道は無かった。となると、やはり日当たりの良い坂道が妥当な選択なのかも知れない。
真治は額に貯まり始めた汗を湿り気味なスポーツタオルで拭い、ゆったりとした足取りで坂道を上り始めた。
山に沿ってカーブが続く。再び『猪・猿出没注意』と書かれた看板を発見する。丸っこくて可愛らしいキャラクターのイラストだった。
このイラストは詐欺だ、と真治は思った。先程のような小さな子供がこれを見たらどう思うだろうか。こんな可愛らしく描いてあるが、実のところは凶暴な野生の生き物なのだ。
先刻の「けもの道」だって猪やら何やらの野生動物が作りあげた「跡」なのだ。大自然の中で強く生き残ってきた動物たちのその恐ろしさを、こんな可愛いイラストで隠匿してしまって良いのだろうか。
可愛らしいイラストで描くなら、せいぜい空き缶とゴミ箱だけにしろよ。真治が心の中で愁嘆していた時、道路沿いに半鐘を見つけた。
半鐘は小型の釣り鐘で、江戸時代に火の見やぐらの上部に取り付け、火災や洪水時に鳴らし、消防団の招集や近隣住民への警報として用いられていた。
しかし、サイレンなどが存在する現代では使い道を失くし、さびれたまま今、真治の目の前に佇んでいる。
半鐘の近くには道路に対して垂直に駐車するスペースがあり、車が二台停めてある。その正面に目をやると、白色が所々剥がれた鳥居が姿を現す。
容赦なく視界を悪くする日射から眼球を護る為、真治は瞼を半分下ろしながら瞳を凝らす。額束には薄ら「御天神社」と書かれているのが分かった。
「ごてん神社?」
周辺には草木が乱雑に生えており、鳥居の台石が半分草本に埋まっている。鳥居を越えて少し行った所に小さな拝殿があるのが見えた。
小さな神社と不釣り合いな、巨大な鎮守の杜が大きな闇を落としている。
それと、真治の立っている入口からは境内に人を見掛けないのが相まってか、何とも不気味に感じた。あまり近付きたく無い、と。
ジーーーー……
ジッジッジッジッジッ……
覚えのある忙しい鳴き声が聞こえてきた。東京の方でも夏場には頻繁に聞いたものだった。
「アブラゼミ」自然と真治は呟く。
薄暗くて閑散とした境内に大きく響き渡るアブラゼミの鳴き声。それは「御天神社」の不気味さに拍車を掛けるものとして、十分な演出を為していた。
総毛立った真治は視線を境内から移した。鳥居の横に森林があり、抜け道らしきものが見える。根拠は露程もないが、ここから川へ行ける、と直感が告げていた。期待と懸念を胸に抱きながら、更なる未知の領域への一歩を踏ん切った。
数分後、真治が見たものと相違ない山川に辿り着いた。真治は自らの処決が正しかった事を知った。
しかし、「河原の妖精」の姿は見当たらない。真治はこの結果を大方是認していた。
帰するところ、「予想通り」だった。
河原の白い小石の上をつまづかないように、真治はそろりそろりと歩きながら本川へと近付く。
中流域なのか、水流が遅い。鳥瞰した時には川面が日光を反射していて分からなかったが、限りなく透明な川の底には小石が露出している。川底に付着した珪藻、魚類や水生昆虫の生息も見て取れた。
真治は全てを諦めたように長嘆する。そして、大きく深呼吸をした。目を瞑って耳を澄ます。瀬から聴こえる音が何処か心地よく、瞼の裏に清流が映し出される。
ジーーーー……
ジッジッジッジッジッ……
真治の鑑賞を妨げるように、アブラゼミの荒々しい鳴き声が飛び込んできた。
だが、真治が憤ることはなかった。何とも不思議な感覚に陥っていた。
河原付近の森の中から聞こえるアブラゼミの声が、呼んでいるような気がした。気が付けば、自ずと歩み始めていた。
ヤナギやサクラなどの広葉樹がうねるように生え混じっている。枝葉から漏れた日の光が、ほの暗い樹林帯の中を神秘的に彩る。
ジーーーー……
ジッジッジッジッジッ……
アブラゼミの声の大きさが段々と増し、けたたましくなってきた。真治には「呼び声」の元へ近付いている気がしていた。
当初からの目的だった「河原の妖精」がこんな辺ぴな森にいる筈がない。そうは思っていても、強烈な何かに導かれるようで、真治の歩が止まることはない。
響き渡るアブラゼミの鳴き声や真治の何倍も背の高い樹木たち。閑雅なそこは、仙境にでも迷い込んだかのような錯覚を引き起こす。
宛てもなくそんな別世界を歩き続けていたが、突然不思議な声がした。
『人間だ』
頭の中に直接意思が侵入してくるようで、真治には森そのものに話しかけられている気がした。
人間の言語では無かったが、理解出来た。言語を知らない外国人の気持ちを、声色のみで汲み取る感覚に近かった。
今度は多種多様な「声」が響いてくるようになる。ひとつやふたつでは無かった。真治には、「こんにちは」と聞こえた。
閑静な森の所々から届く「声」たちやそびえ立つ木々、木漏れ日が美妙に混合する。神妙なこの世界に酔いしれてしまいそうだった。
真治は覚束ない足取りで、飲み込まれるように、更に森の奥深くへと向かう。
次第に大きくなっていた「声」が、いつの間にか消えた。
「ねえ」
今度はしっかりと、人間の女声が真治の耳に入ってきた。小さな声だったが、透き通るように響いた。
振り向けば、彼女の姿があった。先程見た「河原の妖精」と何ら変わりない格好で、細長いケヤキの木陰にいる。
レースの模様が入った白い半袖のシャツに、膝元まで伸びた同色のスカート。遠方からはひとつに繋がって見えたのも合点がいった。
白い肌をしていて、顔の全てのパーツが小さい。ゆるいウェーブをかけたミディアムヘアーは少しばかり茶色っけが混じって見える。
電車内で会った清花に引けを取らない気がした。寧ろ、こちらの方が上だとさえ真治には思えた。
清花は「美人」という言葉に収まる。少女にも「美人」という言葉は使えるが、適切ではない。
何処か現実離れしていて、霊異な存在感を放っている。服装や肌などは「白」なのだが、全体的に「透明」な雰囲気だった。
特に白色の帽子の影に見える紺色の瞳が神々しく、まるで大自然そのものを宿しているかのようだ。
あっ。驚きと喜びを含み、真治は言葉に出していた。心臓の鼓動が急激に速まる。
彼女に降り注ぐ柔らかな木漏れ日が、透明な彼女に色を着けるように混ざり合い、より神秘的に感じた。雄大な大自然に見事に溶け込む少女。まさに「妖精」という呼び名が相応しかった。
妙に落ち着き払った表情で、少女が真治に近付いてくる。彼女の悠然とした足取りが、寂ばくな空間に音を加える。
俺を呼び止めたよな? 何の為に?
真治に接近し、何処までも霊妙な瞳で見つめてくる。やがて、少女がおもむろに小さな口を開いた。
「色々と驚かせちゃって、ごめんなさい」
少女が頭を小さく下げる。申し訳なさそうにではなく、傲慢な態度という訳でもなく、謝る姿でさえも言葉に表せない神異な雰囲気があるな、と真治は思う。その声音は、楽器から発せられたかのように美麗なものだった。
何を謝られたのかは分からなかったが、真治は無言でこくりと頷いておく。
「ここに来るのは、初めて?」少女が訊ねてくる。凛とした表情をしている。
「あ、ああ」遠慮がちに真治は返事をする。
「都会の人?」
しとやかな少女が、少しばかり遠慮した口調になった。それが、真治を余計に緊張させる。
「東京から、来た」やや間を空けてから真治は答えた。
ああ、と少女が頷く。それから何も話さなくなった。しばらく沈黙の時間が訪れる。
ジーーーー……
ジッジッジッジッジッ……
アブラゼミの鳴き声が森閑な空間に響く。ふたりは互いを見つめ合ったまま、言葉を紡ぎ出せずにいる。少女の視線は真治から外れ、宙をさ迷っていた。
何と声を掛ければ良いんだ。話し掛けてきた少女が言葉を詰まらせていては、真治にはどうしようもなかった。
えっと、と真治は小さく言い、自分側に会話の主導権を移す。
「あ、はい」
少女が倉皇として真治に視線を戻す。だんまりむっつりとしたこの空気に、ちょうど嫌気がさしていたんです。そんな反応だった。
「名前は?」踏ん切りをつける為に、勇気を出して、言葉を力強く発していた。少し声が裏返っていた。「あ、俺は、真治」慌てて付け足す。
「私は」そこで少女の言葉が詰まる。何か考え事をしているようだったが、すぐに言葉を繋げる。
「私は、ちなつ。数字の千に、夏休みの夏って書くの」
照れ笑いする。千夏の頬が赤らんでいる。透明感のある肌だから、それが顕著に現れていた。
また、真治は次の言葉が途絶える。千夏も僅かに口を開けたまま、マネキン人形のように動かない。
俺は、一体、何をしてるんだ……。真治は不意に、自分の立ち位置が分からなくなっていた。
何故こんな森の奥深くへ来たのか。千夏に会う為だ。
彼女に会ってどうするつもりだったのか。ただ何となく、話してみたかったのだ。
何の接点も無いのに、何を話すつもりだったのか。それは、全く考えていなかった。
過去にもこんな失敗があったのに、片桐の件を反省した筈なのに、何も成長してないんだ……。今までの所業の全てに真治は嫌気がさしていた。恣意的な行動をしてばかりで、自分は本当に最低な人間なんだ、と。
「よろしくね」
綺麗な声が心の中に染み込んできた。鬱々とした気分を、浄化してくれた。うつむき気味で小さな声だったが、透き通ったそれは海のようで、自分は無抵抗なまま、中をひたすら漂っている。真治にはそんな気がした。
「あ、ああ。よろしく」弱々しい声で、真治がゆっくりと言った。なるがままになれば良いんだ、と思っていた。
「ここに、何をしに来たの?」千夏は特に訝る様子も無く、純粋に質問をしている顔だった。
「会いたかった」
意思が制御するよりも先に、口が勝手に動いていた。体の熱を感知し始めたのも、また静閑としてからだった。
「わたしに?」少女は戸惑った表情を浮かべ、自分の顔をゆっくりと指差す。真治は細長くて華奢な指に見とれた。その先に見える頬は、赤色というよりは、桃色に近い染まり方をしている。
うん。真治は閉じた口の隙間から声を漏らし、こくりと頷く。こめかみから汗が垂れる。
真治は自分自身が信じられなかった。初対面の人間に、こんな赤裸々に打ち明けるなんて。俺は、どうなっちまったんだ……。
千夏からの返事は聞こえない。無音のままどれ程の時間が経ったのか、分からなくなっていた。
真治は緊張のあまり、千夏の表情を確認できずにいた。何処までも不思議なあの瞳に睨まれるのが怖かった。その時の陰湿な空間は、容易に想像できるものだった。
もはや意識をするしない以前に、勝手に、真治の脳裏にそれは映写される。千夏と寸分違わない真っ白な服装や肌なのに、何故か睨みつけてくる顔だけは違っていた。
赤みがかかった茶色の髪を水色のゴムでアップにし、大きく露わにした額。綺麗に描かれた眉毛がその中で、真治の全てを否定するように角度をつける。
「いい加減にして。あんたなんか、大嫌いなんだから」
片桐が当時と同じように、柳眉を逆立てて真治に言う。それは、思い出すのさえ辛いトラウマだった。
「嫌い……?」自分の勘違いだったと受け入れているのに、片桐にとっては全てが「無駄」を超えて「害」になり果てていたと理解しているのに、それでも真治は小さな抵抗をしている。
「聞き取れなかった? じゃあ、もう一度言うわよ」
億劫そうに言う。それでも片桐の目つきは相変わらず鋭い。
止めてくれ、もう聞かせないでくれ。心の中でそう祈る真治だが、当時の彼はまだ愚行を続ける。
二人の間でだけ、時が止まっている。その静寂を破るように、濃いグロスを塗った唇が、おもむろに開かれる。
「気持ち悪いんだよ。あたしに近寄るな!」
「あの、大丈夫?」
真治を現実世界へ引き戻したのは、馬鹿でかい声の義父や、声の掠れた義祖父でもなく、妖精の奏でる優しい音色だった。
眼前の少女は、元通りに、霊気な妖精の顔になっていた。少女の瞳が、心配そうに真治の顔面を映している。
「あ、ああ。大丈夫」
シャワーを浴びた直後みたいに全身が汗だくなのは、辛辣な記憶の所為なのか、盛夏の所為なのか、今の真治には分からない。
「なんか、辛そうな顔、してた」
「ごめん」と真治は謝る。
「わたしこそ、なんか、ごめんね」千夏も謝る。
お互いよそよそしいだけだな、と真治は後悔する。結局は片桐と同じで、俺の独りよがりだったんだ、と。
大概の病気は、気付くのが遅ければ遅いほど、悪化する。取り返しのつかない事態となり、「あの時、気付いておけば。ああしておけば」などと終末には嘆き苦しむ。自分の病気は「恋の病」と呼び、早期治療として、ここで妖精にさよならと言わなければならない。
「あ、あのさ」
「え、何?」
千夏の顔が若干怯えている。まるで、いじめっ子に呼び止められたかのように。
大丈夫だから、俺はいじめっ子じゃないから、と真治は心の中で語りかける。そして、「もう帰るから」と、言葉が口を通り抜けた。
「う、うん。分かった」
千夏が言葉を発した時には、真治は、彼女の横を早足に通り過ぎていた。
顔を合わせないように枝垂れながら、前へ前へと真治は歩を進め続ける。後方の少女とは、どれだけ距離が開いたのだろか。確認は出来ない。もう、今更、振り向けない。
「わたしも」
背後からあり得ない声がした。そんな色好いな事が起こる訳がない。幻聴だろう、と真治は我が耳を疑う。
それでも足は停止して、真治はしりえに振り向いていた。そこには少女が、相変わらず神異な存在感を放ちながら、立っていた。我が目を疑う。
わざわざ追ってきたのか、そんな事は絶対にあり得ない。耳と目が同時に腐ってしまったのか。
「どうして」真治がしどろもどろに言葉を発した。
「また、明日も会える?」千夏が言う。
「え……?」とっさに言葉が漏れ、それからまた、だんまりとしてしまう。
ジーーーー……
ジッジッジッジッジッ……
アブラゼミが、真治の解答を催促するみたいだった。実は、ふたりの会話を分かっているのかも知れないな、と真治は思う。
「ああ」そう答えるのが、精一杯だった。心臓の鼓動は、急速なままでいる。
「うん、また明日」少女は照れながらも、にっこりと笑っていた。
ジーーーー……
ジッジッジッジッジッ……
アブラゼミが、祝福している。ほの暗い森は確かな存在感を示しながら、ただ黙って、ふたりのことを優しく見守ってくれていた。
夏だというのに、村落はすっかりと、蒼然とした暮色に包まれていた。人影もあまりない。ぼろぼろの家屋たちは暮色の魔術にかかり、異次元への扉のように怪しく佇んでいる。
そんな暗闇の中、石垣の影に二つの小さな人影が蠢動するのが見えた。何だろうかと、真治は熟視する。
昼間に会った小学生くらいの青い短パンの男の子と、赤いスカートの女の子だった。
スイカの種を意味ありげに地面に並べて遊んでいる。二人は作業に没頭していて真治の存在に気付かない。
そろりそろりとしゃがみ込んだ二人の間近に行こうとする。だが、女の子が先に真治の気配に気付き、仰視してくる。
「あ、ダサいおにいちゃんだぁ!」
開口一番に出てきたのがそんな言葉で、真治はがっくりとうなだれてしまう。
「おまえ、まだそとにいたのかぁ?」男の子も相変わらずだった。
「まだ、夕方だしね」真治は優しい口調を心掛ける。今ならば容易に出来る。
「はやく、いえにかえったほうがいいよぉ」女の子がくりくりした目で言ってくる。
「何で?」
「くらいじかんになると、ガキがでるんだぞぉ」男の子が真摯な表情で言う。
真治はその単語を聞き、子供たちの発言の意図が分からず顔を横に傾ける。ガキはお前らだろ、と心の中で指摘する。
「ガキに会ったら、ヤバいの?」
「ヤバいよぉ」女の子も真剣そのものだ。
二人は実際に体験したというよりは、臨場感溢れる語りで誰かに怪談を植えつけられたようだった。そんな事をするのは誰か。真治には大方推測ができた。
「それは、誰から聞いたの?」
「ジュンおばちゃんがいってたんだよぉ」
やはり真治の推理は的中した。しかし、ミステリー小説と違って充実した解放感はなかった。
「そのガキに会ったら、どうなるの?」
「おなかがペコペコになっちゃうんだぞぉ」と男の子。
「スイカのたねがあれば、セガキなんだよぉ」と女の子。
「ドクロなんだぜぇ」
「ガキだなぁ」
こいつら、一体何を言ってるんだ? それが、押し寄せる言葉の荒波を越えた真治の感想だった。支離滅裂で、怪奇譚の本筋が見えてこない。
「ガキって、どんな感じなの?」
「ちいさくてね、ひょろくてね、おなかだけポッコリしてるんだってぇ」そう言って、女の子は自分の腹部の上に両手で半球を描いてみせた。
ああ、と真治は小さく頷く。ようやく理解が出来た。子供という意味のガキでなく、妖怪の一種である「餓鬼」を言っていたのだろう。まだまだ謎は残されているが、一番重要だった箇所が解決したのは大きかった。
真治はつい顔をほころばせてしまう。妖精に餓鬼。田舎はやけに非現実的な所なんだな、と。
「おまえ、なにわらってんだぁ」男の子に気付かれる。真治は返事をしない。
「おにいちゃん、なんかいいことあったのぉ?」子供ながら勘が鋭い。
「うん。まあね」
真治は具体的に答えるつもりはなかった。子供はこの程度の受け答えをしておけば、満足してくれるだろう、と。
「おんなのこにあってたんだろぉ!」男の子が言った。根拠など無い筈なのに、やけに自信に溢れている。
「いいや」気持ちを混ぜないように、こんなガキに悟られないように、と真治はゆっくり否定する。
ふふふ。女の子が何かを悟ったように口元を緩ませる。真治には嫌な予感がした。
「おにいちゃん、ホッペがまっかっかぁ」
しまった、と瞬時に思った。口筋ばかりに神経を集中させていた。真治は、考えている事が顔に出やすかった。
「おまえ、うそつくのヘタクソだなぁ」
「テレちゃって、かわいい」
二人とも他人の色恋沙汰に興味津々だ。純の影がちらつく。とんでもない教育をしたものだ、と真治は不満を募らせる。
本来の真治ならば、千夏のことを教えるなどあり得なかったが、今はすこぶる機嫌がよかった。
「会ったよ」
やっぱり! 二人の目が輝く。真治に向かって一歩前進してきた。それくらいに好奇心が露骨に表れていた。
「どんなカオなんだぁ。カワイイのかぁ?」
「おにいちゃんよりとししたぁ?」
「なまえはなんていうんだぁ?」
あれやこれやとマシンガンのように言葉を放ってくる。どこかの誰かに似ている。次々に受け継がれているのだろうか。ウィルス並にたちが悪いな、と真治は頭の中で罵る。
しかし、今は嬉しさの方が勝っていて、真治の口はなめらかに動いた。
「妖精に会っていたんだ」
二人がぽかんとした表情でいる。顔を合わせては、「ヨウセイ?」と小さな頭を横に垂らし合っている。真治は、ひとり勝ち誇ったようになっていた。
「そう、妖精」と自慢げにまた言う。その響きが気に入っている節があった。子供たちが悩んでいる様が小気味よかったりもした。
「真治!」
後方で甲高い声が響いた。真治は振り返る。鬼のような形相をした法子がいた。薄く漂う暗闇は、母をよりいっそう鬼らしく見せ、心胆を寒からしめた。
「真治、勝手に外出して何やってるの!」
「いや、ちょっと気晴ら」
「良いから、来なさい!」
相変わらず真治は、法子の怒鳴り声に体をぴくりと反応させてしまう。この癖は一生抜けそうにない。
法子は左手で真治のTシャツを、もう一方の手で頭を掴み、謝辞を述べた。
「うちの真治が迷惑掛けちゃって、ごめんね」
法子はまだ小さな子供たちに頭を下げる。その際、強引に真治の頭も下げさせた。男の子と女の子は困惑した表情を浮かべている。
真治は羞恥心のあまり二人の顔をしっかりと見れずにいた。母親に怒られ、自分たちに頭を下ろさせられている「おにいちゃん」をどう思ってるのだろうか。情けなくて顔向けなど出来やしない。
「メーワクじゃないぞぉ」
真治は男の子の言葉に感動し、目を輝かせる。よし、偉いぞ。俺の無実を証明してくれ!
「別に無理しなくてもいいのよ。どうせ、真治があなた達をずっと振り回してたんでしょ」
法子は真治の行為全てを疑ってた。前科を持った人間が、事件があった際に真っ先に警察に取り調べられては犯人扱いされるのに似ている。
結局、過去の汚点ひとつに全てをなすりつければいい。間違ってたならば、汚点があるのがいけないんですよ、と言い逃れ出来る。真治はそう思った。
「この子らと会ったのなんて、ついさっきだから」
「そうなの?」法子は二人に確認をする。
「そうだよぉ。おにいちゃんはさっきまでヨーセーにあってたんだよねぇ」
余計なことを言うな。真治が顔を不細工に歪ませて子供らに合図する。当人たちは気付いていなかった。
「妖精?」法子は真治を訝しげに見ながら、首を大きく傾げる。
「真治、どういう意味?」
「お袋には関係ないだろ」真治は視線を合わせないようにする。
法子は「妖精」について想察していたが、早々と諦めたみたいであった。再び子供らに頭を下げ、真治のTシャツを異常な力で引っ張り、その場を後にした。
法子に引っ張られてじたばたしていた際、暗闇が充満する中で、真治のことを指差し笑う子供たちの姿があった。
真治は次に起こりうる事態に焦りを覚え始めていた。勘の鈍い法子には「妖精」の意味が分からなかったが、厄介な人間が他に二人も残っていた。
恋愛話に敏感な道夫と純ならば、ある程度の事を把握してしまいそうな気がした。
そうしたら、どうなるだろうか。下手をすれば、「どれくらい可愛いかチェックする」などと言って千夏に会いに行く時に同行するかも知れない。
真治はぴりぴりとした悲惨な空間を想像しては、長嘆息する。
全く、田舎ってのは面倒くさい所だな、と。