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美音

 急な山道を下っていくと、ようやくまともな道路に出た。未だに辺りは森林だらけだが、村が近い事を実感した真治は口元が緩くなってくる。

 道路はY字型になっており、右には上り坂、左には下り坂がある。上り坂は日が当たっており、下り坂は未だ森林に日を遮られている。

 明るい上り坂と暗い下り坂。全くの対をなす二つの道だ。

「ねえ、左の下り坂を行くんでしょ?」

「いや、そっちじゃない」

「え? じゃあ、右の上り坂?」

「いいや」

「じゃあ、何処よ!」

 法子の質問に「待ってました」と言わんばかりに、道夫が口を横に広げる。

 どっちでも良いって。早くしろよ。

 道夫達のやりとりを、真治はしかめっ面で見ていた。しかし、自然といつものようなストレスは感じなかった。

 水分補給が出来て身体が落ち着いた所為か、先程の不思議な少女を見て精神が落ち着いた所為なのか。

「へへへ、俺らが行くのはそっちだ」

 道夫は、分岐点とは全く離れているガードレールの方を指差す。ガードレールを乗り越えた先は森林となっているが、人の通れる程度には道が出来ているようだ。

「ちょっと、また森林の中を通るの!?」

 先程までは寛容だった法子も、これ以上は無駄に体力を削りたくないと思った。

「大丈夫大丈夫。下り坂歩いたら二十分くらいするのが、この中だと五分ちょいで着くぞ。ガキの頃によく使った近道だからな!」

 子供のように道夫がはしゃぐ。法子は呆れ果て、鼻息を立てながらうつむいた。


 抜け道は過酷で「けもの道」だったが、道夫の言うとおり五分程でまた道路と合流した。森林から出た瞬間、真夏の日差しが再び真治らを出迎えた。

 同時に、木造の家が視界に入る。近くには小さな木造の小屋があり、すぐ隣には小型トラックが停めてある。小屋の付近には沢山の雑草が生えているが、高く伸びたひまわりが一段と目立つ。

 先程までと比較すれば緩やかな下り坂が続き、左手には同じ高さに位置する民家の屋根がある。屋根と道との間には高い段差があり、落ちたら間違いなく怪我をしそうな高さだった。

 右手には木造で古くささを感じさせる家がいくつも建ち並んでいる。背の低い石垣が道路沿いにちょこんとあるだけで、門がある訳でもないから簡単に敷地内に入れるようだ。

 道路から石垣越しに、未成熟な柿の木や物干し竿が見える。付近の窓は全開になっている。道路から簡単にそれが見えてしまっている。もしも泥棒がやって来たら、いとも簡単に金銭を持って行かれるだろう。

 そんな無防備な家が、沢山建ち並んでいる。逆を言えば、それだけ警戒心を持たずに人々が暮らしていけてる環境という事になる。

 (すだれ)を窓に垂らした家、風鈴を窓に吊した家なども何軒か見掛ける。やはりそれらの家も、大半は窓が無防備に開いている。

 真治達が歩く道は家が多く建ち並ぶが、少し遠くを眺めれば田園ばかりが、更に遠方には山々が広がっている。

 まさに田舎だな。だせえ。

 都会暮らしが体に染みついている真治には、木や石で造られた物ばかりが並ぶこの光景が、許せなかった。

 何でもっと発展させないんだ? もうちょっと、まともに出来るだろ。きっと、田舎人はセンスそのものが、ダサいんだな。

「おい、また田舎を馬鹿にしただろ?」

 顔を歪ませた真治を道夫が注意する。真治はわざとらしく鼻息を大きく立てた。

 田舎な家並みの中、場違いな程の大きな紅色の屋根が視界に入った。元々の家の大きさもあるが、特に新しく塗装したであろうテカった屋根が日の光を反射しているのが目立つ原因だろう。

「あの場違いな大きい家が、俺の両親の宿だ」

 自信に満ち溢れた顔で、道夫が指差す。

「なあ、俺らがしばらく泊まるのって」

「ああ、俺の両親の宿だ。ちゃんと寝泊まりする部屋を確保してくれてんぞ」

 真治は法子に尋ねるつもりだったのだが、道夫が横から勝手に答えた。

 眉間にしわを寄せる真治だが、内心ほっと安堵していた。鍵すら存在していない可能性のある田舎の家々。自分の泊まる寝所もこんな田舎だったら。そんな不安があった。

 まだ遠くに宿の一部が見えただけだが、想像していた「最悪な寝所」からは遠くかけ離れているのがすぐに分かった。

 俺達の泊まる所だけでも、まともな所で良かった。

 宿を目前にすると、やはり周りとは全く違う文化だな、と真治は感じた。

 予め道夫からは小さなオンボロ民宿だと聞かされていた。しかし、それは嘘だとしか言えない程の立派な宿だ。

 土地が広いだとか二階建てだとか、田舎なのだからそれには別段着目する必要は無い。しかし、造りが凝っている。

 土や流木、丸太をふんだんに使った外装。庭には多彩に沢山の花が咲いている。

 入り口までは、足下に丸く平べったい石が斑点のように続いている。その上を歩きながら、雲の絵が描かれた赤い暖簾(のれん)を掻き分け、玄関へ着く。

 小さな天井には、電球が正方形を描くように四隅に配置されている。今は真っ昼間だからだが、電気は点いていない。夜になれば、玄関を明るく華美に演出してくれるのだろう。

 枕木の踏み板などにもこの宿のこだわりを感じられる。まるで、料亭の入り口のようだ。

 ボロっちい田舎の家とは、雲泥の差だな。あっちは強風ひとつで、畑の野菜みたいにすっぽりと抜けちまいそうだもんな、と真治は思う。

 道夫が先頭になって、横移動式の扉を開ける。ガラガラと勢いよく滑った。

 すぐに、吹き抜けのロビーとラウンジが現れた。やはり、中もほとんどが木造の物ばかりであった。様々な種類の木材にバラエティ豊かな塗装がされている。所々に動物の形をした置物がある。中でも、流木と馬車の車輪らしき物を使った照明器具が一際目立つ。

 真治は(つや)のある木造ロビーの中に、椅子に座る人影を見つけた。どうやら、新聞を両手に広げて読んでいるようだった。

「おい、お袋ー!」

 道夫の大声が室内に響き渡る。それと同時に、ロビーに座る人影は新聞を閉じ、こちらへゆっくりと腰を曲げながら歩いてきた。半袖のTシャツを着た七十歳くらいのしわだらけで白髪の老婦だった。

「道夫かい」(しゃが)れ気味な声で、老婦は言う。どうやら道夫の母みたいだった。

「よお、手伝いに来たぜ!」

 真治と法子は、道夫が喜んでいるのを声から察した。興奮していつも以上に腹の底から出た道夫の声が、木造の室内にやたらと響き渡る。

 久々の母親との再会に喜んでいる道夫を見て、真治は少しばかり羨ましそうに見つめていた。

「何しとったんだぁッ!」

 突如、道夫の母親が、丸めた新聞紙を我が子の顔目掛けて放り投げた。

「うがぁッ」勢いよく新聞紙が顔に当たり、道夫は後ろへよろめく。三、四歩で踏みとどまり、自分の母親を睨み付ける。

「てめえ、何しやがるんだ!」

「馬鹿者がぁ! こんな時間まで何処をほっつき歩いとったぁ!」

 道夫の大声に負けじと、道夫の母親も怒声を響かせる。真治と法子は呆気にとられていた。

「あ、あの」法子が右手を少し挙げながら、遠慮がちに言う。

「ああ、法子さん、よく来たね。一ヶ月前に結婚式で会って以来だね。挨拶遅れて悪かったねぇ。で、何だい!」

「あ、お久し振りです。それで、えっと……」

 道夫の母親の威圧感に圧され、法子は言葉を詰まらせてしまう。真治は「我関せず」の精神で、ただ静観していた。

悦子(えつこ)ばあさん、そんな大声出したら体に響くよぉー」

 二階の方向から朗々とした女性の声が、聞こえてきた。

 すぐに二十代後半くらいの茶髪でウェーブをかけた女性が、木造のかね折れ階段(踊場で九十度向きを変える階段)を降りて来た。

 階段はオープン型で筒抜けになっている。左手は手すりを掴み、右手には雑巾を引っ掛けたバケツを持っているのが、一階の真治たちから見えた。

 女性が一階に到達する。青地のショートパンツに、透明なオレンジ色の上着。その下には、辛うじて水色のタンクトップを着ている。胸や肩の露出がかなり多い。

 この猛暑を考えれば、特別違和感は無い。しかし、田舎という事を踏まえると、真治は違和感を感じざるを得なかった。

 だが真治が何よりも気になったのは、人一倍大きな胸だった。視線が胸元から離れない。

「よお、(じゅん)ちゃんじゃんか! 相変わらず元気そうだな」

「うん。道夫さんこそ元気そうだね! そこにいるのは子供? 道夫さんと正反対そうだねぇ。てか、目つき悪いし、なんか生意気そうな顔してるねぇ」

 真治は純と呼ばれる女性へ嫌悪感を抱き、口元に大きなしわを作りながら睨み付けた。もう胸元に目線はいっていない。

 真治の事を生意気だと言ったのもその一因だが、初対面でこれだけマシンガンのようにどんどん言葉を吐き出す純に、「どこかの誰か」が被った。

「ん? 何かあたしのこと睨んでる? 嫌われちゃったかなぁ」

 そう言うと、純が目を大きく見開きながら真治の目の前にやって来る。セミショートでリッジの強いウェーブだが、ほど良くラフに仕上げてあり、個性的でありながらも大人な上品さを両立させている。

 かなりヘアアレンジが上手いのが窺える。とても田舎に住んでいる人間の髪型とは思えない。

「こんにちはー!」

「……こんにちは」

 道夫並みに声の大きい純に、真治は一歩後退りながら対応する。背は真治よりやや低めだが、威圧感を感じていた。

「ねえねえ、名前は? 高校生? 何年?」

「真治、高校二年生、です」

「へぇ。ねえねえ、バンプァイアって知ってる?」

「いや、知りません」真治は弱々しく返事する。

 何故純から威圧感を感じていたのか、真治は漸く理解した。香水が臭いのだ。

「バンプァイアって、今時の若者に大人気じゃん。巷じゃ、『ロックの新星カリスマバンド』って言われてるよぉ。あんた、年を鯖読(さばよ)んでるでしょ」

 純の強烈な香水の臭いが気になり、真治はなるべく鼻での呼吸を止める。純のアヒルのような口が、残念そうに窄んだ。

「同じ話題で仲良くなりたかったのになぁ。でね、バンプァイアはV系ロックバンドでさ、良い曲多いんだよぉ。ジュードって呼ばれてるボーカルの声が良いの! 強さの中に優しさがある感じ! 若者なら、流行に乗り遅れないように今度聴いてみなぁ」

 何故そんなに都会の話題に詳しいのか。真治は訊かない事にした。何処かの誰かと同じで、厄介事になるのが目に見えているからだった。

 触らぬ神に祟り無し。ことわざの偉大さを知る。

 純が好き放題に喋って場を静まり返らせた所為か、道夫と悦子は袖手傍観していた。

「あれぇ? もう喧嘩終わった?」

 純本人は、親子喧嘩が解決した主因が自分にあると、素で気付いていなかった。悦子は軽く咳き込む。

「もう昼過ぎだからね。道夫、さっさと父さんに挨拶して準備手伝いな」

 悦子が場を取り仕切ろうと、道夫に指示する。道夫も「ああ」と素直に頷く。

「じゃあ、あたしが部屋に案内しまーす」

 やけに舞い上がっている純に案内され、真治らは階段を上り出す。その時、真治は気付いた。

 悦子が、険しい顔つきで真治と法子を見据えている。

 ああ、そういう事か。真治は納得する。悦子も真治みたいに新しい親族が気に食わないのだろう。

 そもそも自分たちと悦子が最初に会った時、法子に対してしっかりと挨拶してこなかった時点で、真治はおかしいと思っていた。

 自分の息子と結婚したばかりの女が目の前にいるというのに、あの雑な挨拶だ。義娘への挨拶よりも、道夫の寄り道などを優先した。それが何を意味するのか。


 悦子はここ数年美海部村から出ていなかった。道夫と法子が結婚式を挙げると聞き、漸く美海部村から出て来た。

 道夫が法子との結婚について、最初に悦子や貞義(さだよし)に話したのは、挙式の直前だった。

 本来ならば、縁談が出た頃に道夫と法子が悦子らと会って挨拶をしておくべきだった。しかし、道夫が主任を務めるプロジェクトがちょうど大事な仕上げ期間に入ってしまい、美海部村に行く時間が無くなってしまった。

 同じ東京都内だったならば、何とか会える時間は作れた。現に、東京に住む法子の両親には挨拶を済ませていた。だが、齢七十を超える道夫の両親に美海部村から東京へ出て来てもらうのは酷だった。それは結婚式の一回だけにしたかった。

 両親に連絡を入れれば、その瞬間から両親は行動を開始するだろう。道夫の方から実家に行けないと言えば、無理矢理に上京してくるのは、目に見えている。

 最終的に道夫が出した結論は、「じゃあ、挨拶も連絡もしないで良いや。直前に結婚式やるって呼び出せば大丈夫!」だった。

 結局、法子と悦子らの初対面は結婚式となった。父の貞義(さだよし)は息子の愚挙に対して、「馬鹿なお前らしいな」と顔をしわくちゃにして笑っていた。見た目と合致して、温厚な性格だった。

 しかし、悦子はそれを許さなかった。別段礼儀作法に煩いタイプの人間では無い。だが、結婚の挨拶に来なかった事だけは、どうしても悦子の許容範囲に収まらなかった。

 笑いながら法子を祝福する貞義。その隣で値踏みするかのような眼光を放つ悦子。真治は結婚式での修羅場を、今でも鮮明に覚えている。

 その時は、衝動的な怒りに駆られているだけかと真治は思っていた。しかし、事態は想像以上に複雑化していたようだった。

 あの婆さん、気まず過ぎだ。やっぱ、家帰りてぇ。

 真治は肩を落としながら、小さく溜め息を吐いた。元気も一緒に吐き出してしまったのか、少しばかり体が重くなった気がした。


「真治君、どうしたかねぇ」

 回想世界に浸っていた真治を現実へ引き戻したのは、道夫ではなかった。布団に寝込んだ道夫の父親である貞義だった。顔を少し持ち上げながら、心配そうに真治に訊いてきた。

「あ、はい。大丈夫です」

「そうか、そりゃあ良かったなぁ」

 体を小さく震わせながら、やつれた顔を上げる貞義。頭に霜雪をおいているが、髭はまだ黒い。目元が薄紫色に変色している。純が慌てて枕へ頭を戻させた。

「親父、もう年なんだから、無理するなよ。ちゃんと寝てないと」

「ああ、分かってるさ。俺も、もう年だからなぁ」

 道夫が珍しく落ち着いた声で喋った。病気で床へ就く実父への気遣いなのかも知れない。

 真治は和室の中を見渡す。部屋の中は綺麗に掃除されており、掛け軸や生け花、旅行先で集めた提灯(ちょうちん)などが置いてある。

 和の風情を大いに感じる部屋だ。和室だからではなく、布団や畳が敷いてあるからとかでもなく、和の情趣が自然と色濃く滲み出ている。

 真治はそういった(たぐい)には、すこぶる興味がある。だが、田園や田舎の家には美を感じられなかった。

 間接的に触れる物であれば美の鑑賞として意義を持てる。だが、直接的に触れる物となれば美の鑑賞は好ましくない。そこでは実用性が最もな意義を持つ。

 要するに、自分が見るだけの場合には見た目を綺麗にしろ。自分が使う場合には便利にしろ。それが真治の価値観であった。それは場合によっては多種多様な例外を生み出す。

 ご都合主義だと世間は呼ぶが、真治はこの価値観こそが個性の証だと信じている。価値観に対して善悪の値札をつけることこそが、群れるだけしか脳のない奴らのご都合主義なんだ、と。

「親父、そろそろお袋の手伝いに行ってくるからさ」

「ああ、道夫、悪いなぁ」貞義の声は低くて少し掠れた声だが、穏和な雰囲気が入り混じっている。

 どうすればこの親から、こいつみたいなのが生まれるんだ?

 道夫は、真治が眉を(ひそ)めながら横目で見てきている事に気付いていなかった。道夫や法子は、顔色悪く床に就く貞義ばかりに集中していた。

 純だけが、真治の聞こえない程の小さな舌打ちにまで気付いていた。しかし、何一つ反応を示さすことはなかった。


「真治、私達は宿の手伝いで忙しいから、この部屋で大人しくしてるのよ。絶対、ふらふら何処か外に行っちゃダメよ」

 五度目。法子に「外に出るな」と五度言われた。真治は座布団ふたつを連ねて座敷に寝転がりながら「ハイハイ」と片言のような返事をした。こちらも五度目。

 真治は家族三人分の荷物番という名目を付けられ、寝泊まりする和室での暇つぶしを強要されていた。

 座敷から僅かに段差のある縁側へ降り、玄関で靴を履き、入り口のドアを開けようとする法子。直前に肩越しに真治の方へ顔を向けてきた。

 真治は頭の乗っている方の座布団を下から軽く手で持ち上げ、法子に目線を合わせた。法子の口元が微かに動き始めようとしているのが見えた。

「真治、ちゃんと部屋の━━」

「ハイハイ」

 六度目はぎりぎり阻止された。法子は不服そうに口を突っ張らせながら「感じわる」と言い残して廊下へと消えて行った。

 部屋には自分ひとりとなった。真治は何処となく安らぎを感じる。

 横たわっている少し反発性の低い座布団の感触。体の軸を座布団の上に載せているが、腕や足は畳の方にはみ出している。その所為か、真治は腕や足が若干宙に浮く感覚を(わずら)わしく思った。

 腕に畳の(かす)が僅かに付いている。真治は畳の上で眠りたくはなかった。布団はまだ引いておらず、座布団の上で眠るしかないようで、ため息が出てくる。

 次第に、部屋の中が暑く感じてくる。窓を全開としているのに、風が全く入ってこない。せっかく吊されたガラス製の風鈴も、風物詩たる由縁の美音を聴かせてくれない。

 真治は意識を違う方向へ向ける事にする。改めて呼吸をしてみると、畳の独特な香りが鼻を刺激してきた。くっせぇな。でも、これくらいなら我慢出来そうだな……。

 一面ガラスの窓に木漏れ日が反射し、真治のすぐ目の前の壁に薄らと斑な模様が出来る。不思議な感じだな。何か気になっちまうなぁ……。

 シャツ一枚だというのに、熱を体に感じる。シャツが自然と熱を吸収しているようだ。

 段々と座布団にも熱を感じ始める。触れている背中や後頭部も温かくなってくる。気にするな。他の事、考えろ……。

 山路を歩いていた時には頻りに聞こえていたクマゼミの鳴き声が、今は全く聞こえない事に真治は気付く。あれ、ここら辺にはいないのか?

 額に溜まった汗を我慢していたが、遂にこめかみに伝ってきた。我慢だ……。首筋からも汗が出始める。

 タオル……。テーブルの上を一生懸命に手探りする。

 真治が手を動かして何かを掴もうとする度に、物の擦れる音が静かに聞こえてくる。タオルらしき柔らかな繊維の感触を、見つけられない。

 タオル……。胸元や背中から汗が噴き出し、シャツに染み込んでくる。汗が汗を呼ぶ無限連鎖が生まれる。真治はもどかしそうに体を揺らした。

「あー、やってらんねぇー!」真治が座布団から勢いよく腰を上げた。テーブルの上にタオルは無かった。

 真治は八畳くらいの和室を見渡す。古臭いテレビの横に沢山のボストンバッグが置かれており、その中のひとつにタオルが載せてあった。

「何々だよ、宿なのにクーラーねぇのかよ」

 真治は既に湿り気味なタオルで額や首筋の汗を拭う。あまり清潔感が無い所為か、また汗が出始める。

 シャツの中にタオルを突っ込み、胸元や背中の汗を拭う。汗は止まらない。

「マジかよぉ。タオル、かなり湿っちまったぞ」

 その時、洋服箪笥の開き戸から少しだけコードらしき物がはみ出しているのに真治は気付いた。

 もしかして、と真治は戸を開ける。ハンガーには何も引っ掛けてはいない。しかし、それで空いたスペースに扇風機が収納してあった。

 真治は余計に噴き出してくる汗など気にせず、重い扇風機をテレビの横のコンセントまで運ぶ。

 何かに急かされるように、プラグを勢いよくコンセントに差し込む。埃が貼り付いた扇風機のプロペラが、間髪入れずに動き始める。静寂だった部屋を、風の起きる音が支配する。

 扇風機の首を振らせないようにしてから顔を近付ける。あまりの涼しさに体中の汗の感覚が吹き飛んでいくようだった。シャツを脱ぎ、上半身に直接涼風を当てる。真治は目を瞑って安堵の深呼吸をする。その時、入口のドアが開く音がした。

「真治君ヤッホー。あら、上半身裸じゃん。でも、貧弱な体だね」

 純が断りも入れずに、座敷に上がってくる。相変わらず、肌の露出が激しい服装をしている。真治は急いで湿ったシャツを着た。

「仕事良いんですか」真治がわざらしく口を突っ張らせ、嫌み口調に言う。

 純はそれでもニヤニヤと笑いながら、間近までやって来る。真治は頬を赤めながら、扇風機の方へ体の向きを変えた。

「良いの良いの。ちょっとくらいサボっても、バレないし」

 真治は、悦子が道夫に手伝いを頼んだ理由が分かった気がした。

 純が扇風機の頭を真治から自分の方へ向けた。すぐにまた、真治が自分の方へ頭を戻した。

「あたしも暑いのぉ。ちょっとくらい、良いでしょー!」

 しばらく、二人で扇風機の取り合いが続いた。最終的に、扇風機の首を振らせることに落ち着いた。

「ねえねえ、道夫さんのこと嫌ってるでしょ? 貞義じいさんの部屋でそんな顔してた」

 顔を見ながら話してくる純。不意に的を得てきた純が気になる真治だが、顔を見ずに扇風機だけを見続ける。

 純の性格が苦手なのと、強烈な香水の臭いがするのもその一因であった。しかし、一番の要因は大きく露出した胸だった。

 純は足を外に曲げ、体ごと真治の方を向いている。純の顔を見ようとすると、視界の隅に大きな胸が入ってきてしまう。

 真治は純の顔だけを見て話せる自信が無い。高校生で思春期の自分が無意識の内にどんな表情や視線になってしまうのか、それが怖い。

 貞義の部屋での事をふまえれば、恐らく純はすぐに視線に気付くだろう。そして、立派な賢察をしては何を言って来るか、真治には容易に想像が出来た。

 真治は体を小さく震わせながら、無理やり今の体勢を維持する。

「あ、やっぱりあたしの言った通り、道夫さんのこと嫌いなんだね?」

 人の顔色だけで判断出来てしまう洞察力に真治は舌を巻いた。顔に出したつもりは無いがそれすら察したのか、純は「凄いでしょ」と自慢げに言ってきた。

 口数の少ない消極的な性格の真治にとって、一番厄介な相手なのかも知れない。

 純が突拍子もなく扇風機に顔を近付け、無邪気に息を吹き掛けて遊び始める。すぐに純が()せる。扇風機にへばり付いていた埃が取れて純の口に入った。

 隣で行われた一連の動作に不意に反応し、口を押さえながら噎せている純を見てしまう。良い大人なのに子供みたいで苦手だ、と真治は再確認する。

 噎せ終わり、真治の顔を見る純。目からは涙が溢れており、恥ずかしそうに「へへへ」と苦笑する。真治は瞬時に扇風機の方へ視線を外した。

 突如、真治の右肩に純が無理やり腕を回してきた。純の体が密着したことで真治は顔を赤め、一瞬体を震わせる。しかし、純の方向へ顔を向けることは無かった。

「ねえ、あたしなら親身になって相談乗ってあげるよ。この宿の中ではあたしが一番年が近いもんね。あたしとは仲良くやろうよぉ。あたしを真治君のお姉さんだと思って、ねえ?」

 体を密着させたのは、性的な物などを一切切り離した純なりのコミュニケーションだったのだろう。しかし、思春期の真治にとって女の体が触れるというのは逆効果で、警戒心を抱く物だった。

 そして何より、間近にいる事で強烈な香水の臭いが鼻を強く刺激する。鼻を押さえられないだけに、我慢するのが辛い。

 小さな親切、大きなお世話。また、ことわざの偉大さを知った。

「ねえねえ、顔真っ赤になってるよぉ。あ、もしかして大人のお姉さんは初めて? 真治君、あんまモテなそうな顔してるもんねっ!」

「余計なお世話だ」と言いたい衝動を抑え、真治は尚も扇風機の方へ顔を向け続ける。ペースに乗ったら負けなんだ、と自分に言い聞かせる。

「ねえねえ、今誰か好きな女の子とかいるの? お姉さんが恋の悩みを解決しちゃうよ」

 我慢だ。返事するな。

「同じクラスとかに好きな娘いないの?」

 我慢だ……。

「あのさ、もうちょっと笑ったり愛想良く出来ないの? そうしないと女の子が避けて行っちゃうよ」

 純の言葉が真治の胸に深く突き刺さった。どうしても触れられたくない所だった。

 真治の頭に抑えられない熱が込み上げてくる。無意識の内に言葉を吐いていた。

「純さんには関係ないだろ」

「え?」

「良いから、部屋から出てってくれ!」

 顔を真っ赤にした真治の怒鳴り声を聞き、純は目を丸くする。そして、不愉快そうに目を細め、アヒルのような唇を窄めた。

「感じわる」と言い残して部屋を出て行く。これで二度目だ。

 玄関のドアが閉まる音を聞き、真治はほっと溜め息を吐く。

 真治は扇風機をテーブルの横まで持っていき、鞄から出した携帯電話の電源を入れる。

 待ち受け画面は設定されておらず、メインディスプレイには初期設定の向日葵の絵と、大きな文字で『14:18』と、いつものアンテナマークの代わりに『圏外』が表示されている。

「ちっ。これだから田舎は嫌なんだ!」

 真治の愚痴に反応したかのように窓際の風鈴がチリリーンと、微かに綺麗な音を鳴らした。扇風機の風が届いたようだった。

 携帯電話のアプリケーションを開き、ダウンロードしてあったゲームで遊び始める。

 最初こそはテーブルにうつ伏せになりながら夢中で遊んでいた真治だが、時間が経つにつれて木のテーブルの固さが気になり出す。

 胸部と肘と指に痺れを感じ始め、電源を切った携帯電話をテーブルに置き、テレビのリモコンを持ちながら座布団に再び寝転がる。

 テレビを点けてみるが、見慣れないチャンネルナンバーと番組に真治は戸惑う。

 如何にも三流な華の無い女性タレントが、如何にも三流な華の無いぼろぼろの中華料理店を訪問している姿が画面に映る。

 画像編集やカメラワークの荒さからも、ろくな技術を持たない製作班だと読み取れる。

 冴えない顔の店主が差し出した餃子を女性タレントは箸で掴み、醤油とラー油につけ、視聴者に見せつけるようにゆっくりと口に含む。滑舌悪く「美味しいです」と言い、わざとらしく目を丸くしながら笑う。

 大根だな。全然食欲が湧いてこねぇ、と真治は呆れる。次々にチャンネルを変えていくが、興味をそそられる番組は何も無かった。

 テレビの電源を切り、リモコンをテーブルの上の死角に滑らせる。天井を見つめながら、真治はぼうっと(こうべ)をめぐらした。

 まだ始まったばかりの田舎生活について。道夫や法子、悦子、貞義のこと。電車内での清花や隼人との出来事。長い時間アスファルトの道路や山路を歩いたこと。

 そして、純の言葉。『あのさ、もうちょっと笑ったり愛想良く出来ないの? そうしないと女の子が避けて行っちゃうよ』

「畜生っ!」扇風機と風鈴の音が微かにするだけの空間に、空に向けた真治の怒声が響き、そしてすぐに消えた。

「……恋か」頭を軽く捻って、窓に吊された風鈴を見つめながら、独り言を呟く。先程と違い、今は扇風機の風が当たっているから、座布団に寝転がっていても何処か心地良い。

「……河原の妖精」目を閉じ、山の中で見掛けた不思議な少女の事を思い出す。

 ダイヤモンドのように光り輝く川面。岸部に佇む白いワンピースの少女。

 今でも、あの神秘的な画趣が、鮮明に瞼の裏に蘇る。

 耳を澄ませば、あの時の清風の()が聴こえてくる。もう、真治の耳には風鈴の音など入ってきてはいない。

 清風に合わせ、揺れるワンピースの裾と帽子を押さえる黒髪の少女の華奢(きゃしゃ)な姿。

 木漏れ日が、セミの鳴き声が、木立の臭いが、その他にも様々な要素が、あの異質な空間を作り上げていた。

 あの女の子と話してみたいな。自然とそう思った。何でかと問われれば、しっかりとは答えられない。ただ、心の奥底から沸き上がってきたものだった。

 寝転がっていた座布団から腰を上げ、日差しの強い窓の外へと顔を出す。飛び移れる距離に木があることを確認する。

 その際に、髪が風鈴に当たり、今までで一番大きな美音を鳴らした。

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