妖精
ローカル電車に乗ってから数時間が経ち、ようやく田園に囲まれた美海部駅に到着した。
窓から覗く限り、ホームには数人の姿しか確認出来ない。皆の平均寿命はかなり高いことが一目で分かる。
服装もゆるゆるのズボンにTシャツといった感じで、都会育ちの真治にはある意味新鮮だった。
心地よくは無い「新鮮」に真治は溜め息を漏らす。
「お前、田舎を馬鹿にしすぎだぞ?」
何と言われようが、真治が道夫に反応する事はない。ふてくされた顔をする真治を見て、道夫は法子に目線で合図を送る。
「真治、田舎は嫌いなの?」
「ああ」
「でも、私達はしばらくここで暮らさないといけないのよ? 今からそんなに嫌がってたら、楽しい物も楽しくなくなるわよ?」
法子が真治に言い聞かせている時、道夫は網棚の上からボストンバッグを下ろし始めていた。
真治が窓の外を見ると、先程の清花と隼人が改札口を通っている姿が見えた。
何年も前の事を思い起こすように、真治は二人を寂しげに見つめる。そんな真治を見て、法子はボストンバッグを下ろす道夫を手伝いだした。
隼人は黒と白の重そうなボストンバッグを両手に下げている。逆に清花は両手に何も持っていない。
わがままな印象を受けた隼人だが、そんな姿を見てしまうと随分と印象が変わってくる。真治は心の中で少しだけ反省した。
モテる奴は顔やスタイルだけじゃないのか……。
申し訳なさそうに下を向きながら歩く清花と、下を向きながらふらつくように歩く隼人。二人は駅から出て、死角へと消えて行った。
真治は道夫と法子の方へ視線を向けた。ボストンバッグを両手に下げ、歩き始めようとしている。
声を掛けようと真治は口を開きかける。
「真治、あんたも手伝いなさい! 私のバッグをひとつ持つのよ」
法子の怒声に真治はがっくりとうなだれる。
美海部駅の改札機を通り抜ける時、白髪の駅員が客を気にせずにテレビを観ている姿があった。
無人に近い駅に驚かされた真治だが、改札口から出た途端更に愕然とさせられた。田んぼと山によって風景は眩しい緑に満たされていた。
駅のすぐ近くに鼻面を突き出した古びれたバスが停まっていた。都会では見ないデザインと会社名だった。ちょうど清花と隼人がバスに乗り込む姿が真治から見えた。
真治がバス停に向かおうとした時、バスは砂埃を巻き起こしながら陽炎の中へ去っていってしまった。
一瞬、左肘を張って窓に寄りかかる隼人の姿が目に映った。隼人の方はこちらの存在に気付いていないようだった。
真治は、バス停で次のバスを待とうと法子に提案した。しかし道夫は「バスは一日に四往復しかないから、次は三時間近く来ない」と言った。
不本意ではあったが、ひたすら遠くまで続く道路を歩く事となった。空は曇っており、真治は美海部に冷たく出迎えられたような気がした。
道路は先程電車で通った線路に沿っており、向こう側には深緑の山並みと村落が見える。
「そっちに宿があったら楽なんだけどな、俺んちの宿はあっちだ」
山辺にある村落を見つめる真治だったが、道夫は真っ直ぐに延びた道路の先を指差す。陽炎の所為で道路の少し先までしか見えず、いつまでも目的地に辿り着けない気がした。
道路を歩き始めて二十分くらいが経った頃。空を覆ってた雲が何処かへと流れ去り、先程まで黒く見えていた道路が突如灰色の姿を露わにした。と同時に、強烈な日差しが真治たち一家に差してきた。
「暑ー!」
「あちー!」
踏み切り前で立ち止まり、真治と道夫が同時に声を出した。自然とお互いの顔を見合わせる。
道夫は歯を剥き出してせせら笑っている。真治は舌打ちをして法子の方へ顔を逸らす。法子の口元も笑っていた。
真治は何事も無かったかのように、踏み切りを通り抜け、そそくさとひとりで先頭を歩き出す。
しばらく先頭を早足で歩き続けた真治だが、疲れてきた所為で足取りが段々と遅くなってきていた。
遥か遠くまで真っ直ぐに続くアスファルト。陽炎が立ち、その境界線が歪んでいて分からない。
直線に並ぶ電柱、青々と稲を実らせた田んぼ、深緑の山々、雲一つ無い青空。大自然ばかりが視界に入る。快晴の所為か風の音すらせず、相変わらず辺りは虫の鳴き声ばかりが響き渡っている。まるで人気が感じられない。
真治は今頃になって右肩に下げたボストンバッグを重く感じ始める。ボストンバッグその物はそれ程重くはないが、重さで肩にぐいぐいと食い込んでくる。
真夏の陽射しと、終わりの見えない焦燥感と、右肩の痛みに耐えられなくなり、真治はアスファルトに座り込む。座り込んだは良いが、日差しによって温められたアスファルトの熱さに耐えられなくなり、真治はすぐに飛び上がるように立ち上がった。
その時、ぼろぼろの赤いバスがゆっくりと真治たちの横を通り抜けていった。
「おい、次のバスじゃんか! 一日に四往復しか来ないんじゃなかったのかよ!」道夫達に向かって大声を出す。
「いやあ、まさかこんな早く次のがあるとはなあ」道夫はそう言って、わざとらしく首を傾げてみせた。
「やってらんねぇ」そう言って真治はしゃがみ込む。
白いTシャツが体にベッタリと張り付く。真治はTシャツを引っ張り、上下させて風を起こそうとするが全然涼しくはならず、余計に汗が噴き出してくる。
「おいおい、俺はボストンバッグ二つ持ってるけど、平気だぞ? 男ならもうちょい根性出せよ」
道夫が嘆くように言ってきたが、真治は決して返事を返さなかった。そんな真治を見て、法子は小さな溜め息を吐く。
法子はボストンバッグから大きめのスポーツタオルを取り出し、真治に手渡す。
真治はタオルで額とこめかみの汗を拭った。いくら拭いても汗は収まらない。諦めたようにスポーツタオルを首に掛け、ボストンバッグを持って立ち上がる。
先に歩く道夫と法子を無言で追い抜き、再び先頭を歩き始める。そんな真治の姿を見た道夫と法子は、顔を合わせて笑った。
美海部に来てから一時間程が経ち、ようやく村民を目にした。七十がらみの老婦が、道路沿いに設置された木造のベンチで休んでいる。
長袖のシャツにゆるゆるな長ズボン、長靴、大きな日除けの帽子と軍手を装着している。見るからに田舎を感じさせる農婦に真治は嫌悪感を抱いた。
道夫は老婦に近付いて行き、一礼をして何かを話し始めた。それを少し離れた道路から、真治と法子が眺めている。
「あんな帽子被れば、この暑さに耐えられるかしら。私達もあの帽子欲しいわね」
法子がハンカチで額の汗を拭いながら、独り言のように呟いた。
「あんな格好、ダサいだろ」その言葉を聞き、法子ははたと鋭い目つきで真治を睨みつけた。
「ああいう農家の人のお陰でご飯を食べれてるの、分かってるの!」
「わ、分かったよ、ごめん」真治は顔をしかめながら謝った。法子に対しては弱腰になってしまう。
「あんた、都会生活に慣れすぎなのよ。たまには田舎に暮らして、自然の有り難みを知りなさい」
法子が真治に説教をしていると、道夫が老婦にまた一礼をしてから戻ってきた。道夫の口元がにやけていた。
「田舎は狭くて、みんなが知り合いなんだ」
それからまた、真治らは道路を歩き続けた。今度は小さなトラックが通り過ぎて行った。荷台には大量の雑草や鍬、熊手などの農具が乗せてあった。
「まだ宿に着かないのかよ。どこにあるんだよぉ」
独り言のように真治がぶつぶつと文句を漏らし始める。すると、道夫がすぐ目の前にある森林が広がった山を指差す。
「もう、そこだからな」
真治は無表情を装っていたが、自分の輪郭が若干緩んでいることに気付いていなかった。
『ごみの投棄禁止!みんなの自然を守ろう』
『猪・猿出没注意』
擬人化された空き缶とごみ箱、猪や猿の可愛らしいイラストが入ったぼろぼろの看板を、森林に囲まれた薄暗い山道で見つけた。
長い年月の所為で看板の塗装が何ヶ所も剥げており、ばってんマークの目から涙を流す空き缶とごみ箱のイラストが、余計に虚しさに拍車を掛ける。如何にも田舎らしいな、と真治は呆れた。
道夫がひとりで空き缶とごみ箱のイラストに近付き、空き缶を指差した。
「あら、どうしたの?」
「この空き缶のデコの所見えるか?」
道夫が指差した、イラストの額に当たる部分を二人は凝視する。よく見ると薄く文字が書いてある。何と書いてあるかは薄すぎて読み取れない。
「これ、俺がガキの頃に書いた落書きなんだ」自慢気に胸を張って言った。
真治は、一瞬でも気になって凝視してしまった自分を恥じた。
それから、辛うじて人が通れるようになった寂然たる山路を再び登り始めた。
固い土の道はでこぼこになっており、更には道そのものが急斜面で歩きにくい。先程まで歩いていたアスファルトの道路が恋しく感じてくる。
日差しは森林に遮られ、辺り一面が薄暗い。どこからともなく虫の鳴き声が聞こえた。この森林地帯の広さを物語っているようだった。
横倒しになっている大木や木の葉の隙間から僅かに漏れる日差しを、真治は退屈そうに見て歩いていた。
ジーーーー……
シャシャシャシャシャ……
どこからともなくセミの鳴き声が聞こえてくる。真治にふと疑問が浮かんだ。
「あのさ、セミの鳴き声ってこんなだっけ?」
「そう言えば、聞き慣れない鳴き声よね。確かミンミンミンって感じよね?」
真治は法子に尋ねてみたが、しっかりとした解答は返ってこなかった。そんな中、道夫が子供のように目を輝かせていた。
「それはだな」
「まあ、どうでも良いや」真治は道夫の話を遮り、先頭を歩き出してしまう。
「なあなあ、鳴き声の事教えてやるからさ。遠慮するなって、なぁ?」
近付いてきては騒がしい道夫に対し、真治はあくまでも「無視」を貫く。首に掛けたタオルで額の汗を拭い始める。ちょうどタオルで道夫の視線が隠れる。
絶対に教えたい道夫と絶対に教わりたくない真治。まるで太陽と月のように、絶対に交じり合わない二人。
それを見て、法子はまた溜め息を漏らす。道夫も諦めたのか、先頭を歩く真治の横から離れて法子と並ぶ。
「なあ、法子ー! セミの鳴き声の事、教えてやろうかー!」
わざとらしく大きめな声で、隣の法子に話しかける道夫。地声が大きい所為で、一度は苦笑して耳を塞ぎそうになった法子だが、道夫の真意を理解して笑い出す。
「ええ、聞きたいわー!」
法子もわざとらしく大声を出す。気合いを入れ過ぎた所為か、道夫の方が耳を塞いでしまう。
そんな二人の大声を聞き、先頭を歩く真治は眉間にしわを寄せていた。
もしもここで「大声を出すな」と言った所で、どうせ道夫達は「二人で会話してるだけだ」と言い返して来るだろう。それを分かっていた真治は、ただ黙り込む事しか出来なかった。
ジーーーー……
「さっきから聞こえる『シャシャシャ』って鳴き声は何なのー!」
シャシャシャシャシャ……
法子が言ったタイミングに合わせるように、またセミの鳴き声が聞こえた。
「あれはなぁ、クマゼミって言うんだー! 俺らの住んでる東京にも生息してる事はしてるんだけどな、東京の南東の方に集中してるんだー!」
「なるほどー! 私達が住んでる所から、微妙にズレてるのねー!」
口の近くで手のメガホンを作り、わざとらしく大声で棒読みをする二人。
「じゃあ、私達が普段よく聞いてる『ミンミンミン』ってのは、何なのー!」
「あれはな、ミンミンゼミって言うんだー!」
「東京どころか、神奈川とか千葉とかでも昼間によく聞くよねー! ここら辺で聞かないのはどうしてー!」
段々と真治は苛立ってきていた。だが決して反応しないように、先頭を歩き続ける。
「ミンミンゼミってのは関東地域には沢山生息していて、関東人はセミの鳴き声と言えば『ミンミン』が当たり前だと思ってる! でもな、ミンミンゼミは生息地域が関東に特別集中してるだけで、本当は関東以外には、そんなに生息してないんだー! だから、ミンミンゼミってのは全国的に見ると、マイナーなセミなんだぞー!」
「えー、そうなのねー!」
「次いでに、豆知識だー! ミンミンゼミとクマゼミの鳴き声は、人間の耳じゃ違うように聞こえるけどな、本当はベースの音が同じなんだー! クマゼミの鳴き声を遅く再生すると、ミンミンゼミの鳴き声になるそうだぞー!」
「えー、うそー! 信じられない! 道夫さんって物知りー!」
「いやいや、俺の親父が」
「もう分かったよ!!」
道夫の話を遮って真治の大声が会話に割り込んできた。真治は立ち止まりはしたが、振り返る事はなかった。
「えらく良い勉強になった。ああ、なったなった。いつか夏休みの宿題にでも使ってやるよ」
そう言って、真治はまた先頭を歩き始める。坂道だというのに少し歩調が速くなり、後ろの二人をどんどん突き離していく。
そんな真治の背中を見て道夫と法子はお互いの顔を見合い、口を尖らせながら首を傾げた。
真夏の直射日光を遮ってくれるという美点を持つ森林地帯だったが、体力の消耗を増やす激しい坂道、倒れた大木や枝に躓かないか、と神経を研ぎ澄まさなければならない等の難点があった。
ここにきて、体に蓄積された疲労に真治が悲鳴を上げ、付近の大きな石に腰を下ろした。
「無理して早く歩くからだぞ」
息を荒くして道夫が言う。しかし、真治よりは明らかに体力の余裕が窺える。額から大量の汗が垂れてきては輪郭に沿って伝い、顎へと集まり始めている。
元から道夫の顔を見ないようにしている真治だが、道夫の顎で光り輝く雫が目に障る。逸らそうとするのだが、目線がどうしてもそこへと戻ってきてしまう。
「汗拭けよ」と言えれば……。
真治は思い切って法子の方を凝視した。法子も息は荒々しいが、額にはそれ程の汗はかいていない。真治に比べれば、こちらも明らかに元気が残っているのが窺える。
女というのは、何で汗をあまりかかない人間が多いのだろうか?
真治は高校の体育の授業で女子を見るたびに疑問に思っていた。しかし、そんな事を口にしたら、無駄に知識のあるうるさい人間が割り込んでくるだろう。
「どうして女の事までそんなに詳しいんだよ」と道夫に言っては、「お前が疎すぎるんだよ」と茶化される自分の姿までもが、容易に想像出来てしまう。
真治は、込み上げてくる疑問を胸の中に留めた。
しかし、真治に熟視された法子は目をぱちくりとさせ、顔を見てくる。
「喉渇いた」そう言いたかったんだ、と言い訳するように真治は嘆いた。
「そうね。喉渇いちゃったわね。こんな事なら、もっと余分にペットボトル買えば良かったわ」
水田近くを歩いていた時には、まだ真治らは温かくなったペットボトルを所持していた。しかし、真夏の陽射しを直接受けて大量の汗をかいた所為で、三人ともペットボトルの中身を飲み干してしまった。
ここまでの道中で、コンビニや自動販売機は見掛けなかった。今、真治らには水分を補給する手段が無い。
「もうちょっと我慢しろ。後少しなんだ」そう言って、道夫は先頭を歩き始めた。
真治は肩で息をしながら、法子と並んで道夫の後に付いていく。
少し森を進むと、道沿いに高さ三メートル程の小さな滝が見えた。
檜で造られた懸樋からは、音もなく水が流れ落ちては浅川に合流している。
ふらふらになりながらも、真治は早足で小さな滝に近付いた。間近に行くと、滝の音が僅かに聞こえるようになった。
金属の蛇口を伝ってくる水とは違う、自然を伝う水の音色。
静寂で薄暗い森の中、四方八方から聴こえる虫の音、浅川のせせらぎ、滝の音、それらが静かに交響曲を奏でる。
それは、昨晩真治がやった花と月明かりによる「癒やし」に通じる所があった。
真治は倉卒な呼吸をしながらも、静かに懸樋の先端と浅川を繋ぐ水の垂線に両手を入れた。水の垂線は断たれ、両手で作られた盆へと入っては小さく水飛沫を飛ばす。盆を溢れた水は盆の外を伝って、浅川へと垂れていく。
美海部に来てから初めての「冷さ」を掌が感じる。真治は勢いよく水を口に含んだ。
喉を通って体全体へと広がっていく冷さ。体が喜んでいるのが分かる。
真治は無我夢中で、水を飲む作業を何度も繰り返す。
「この小さな滝は、『ゴクリ滝』ってみんなが勝手に呼んでるんだ。まあ、本名は知らないけどな」
真治は道夫の話を聞かずに、顔から出た汗を水で洗い流している。洗い終わり、顔から垂れる水を腰に引っ掛けていたタオルで拭き取った。
次いで、道夫と法子も水を飲み始める。
「ふぅ」小さく溜め息を吐き、高く聳える木々を見上げる。
真治達よりも何倍も背の高い木々。日を遮る木の葉達は明るく光りながら、清風に吹かれ、小さく揺れては木漏れ日の形を頻りに変化させる。
ジーーーー……
シャシャシャシャシャ……
クマゼミの鳴き声が極自然と入り込んでくる。真治は耳を傾けては目を閉じる。クマゼミの鳴き声が、綺麗な音色に聴こえ始める。
結構良いかもな。こんなのも。
「おい、ボーっとしてないで、そろそろ行くぞ! 後は下り坂ばかりだ!」
自然の中に「癒やし」を感じては意識を溶け込ませていた真治を、道夫が現実へ引き戻した。
「ちっ」真治は顔を歪ませ、舌打ちをした。
しばらく下り坂を進むと、壮大に広がった田園を俯瞰できる、立派な石橋に差し掛かった。どうやら山麓近くまで来ているようだ。
「ほら、あそこが美海部村だ。目的の宿もあの中にある」
道夫が指差した先には、小さな村落があった。
付近には水田や棚田などが多くあるが、緑色だらけの今までと違って、しっかりと多彩な色が見受けられる。真治はほっと胸を撫で下ろす。
真治はふと、村落からは少し離れた田園の方角を見た。
「ん?」今まで見てきた田園との違いは一切分からない真治だが、ひとつだけ見覚えのある物を発見する。
「真治、どうしたの?」法子が尋ねる。口を半開きにしながら、一点を眺め続ける真治が気になった。
「あれ」
「あれ?」
真治が指差した先に、地平線と重なりかけて分かりにくいが、線路が僅かに見える。それを辿って行くと、見覚えのある駅が姿を見せる。
「ちょっと、あれって、もしかして」
真治に次いで、法子も口を半開きにして呆然とする。それに気付いた道夫が、二人の背後から近付いてくる。
「おいおい、お前らどうしたんだ?」
真治と法子は、道夫の方へ素早く振り向き、鋭い目つきで睨みつけた。
「ちょっと、あれはどういう事?」真治に代わって、法子が強い口調で尋ねる。
「あちゃー」道夫の口から声が漏れた。
「ああ、あれはさっき電車で来た美海部駅だ!」自棄になったのか、道夫は堂々と胸を張った。
「じゃあ、美海部村って、線路沿いの道から見えてた麓の村落の事だったの?」
道夫は村が見えた時には、「あれじゃない」と否定していた。
「いやあ、だって、宿に荷物置いてから観光しようって言っても、真治とか来ないだろ」
そう言って見てくる道夫に対し、真治は歯を見せてから舌打ちをしてみせた。
「それにしたって、中身少ないけどボストンバッグを持ってるのよ! 真治だって喉が渇いて倒れそうだったのに! もう、あなたには常識ってものがないの!!」
法子が顔を真っ赤にしてまくし立てた所為か、道夫は親に叱られた子供のようにうつむいてしまった。
法子が先頭になってずかずかと歩き出した。無言になりながら道夫が後を付いて行く。
真治はふと、麓とは逆の方向を見下ろした。木の葉の隙間から小さな川が見える。ちょうど川の真上には木が無いのか、川面が日光を反射して、ダイヤモンドのように光り輝いている。
そんな川の岸辺には白い小石と混ざるように、白い衣服を身に纏った人影があった。
女の子?
全身が白く、膝元の辺りまで伸びた裾が風に合わせて靡いている。恐らくは白いワンピースだろうか。年齢も真治に近い少女だと推測する。
風に飛ばされないように右手で白い帽子を、左手でワンピースの裾の辺を押さえている。帽子から肩にかけて黒髪が出ており、こちらも風に合わせて靡いている。
真治のいる所からだと角度が急なのか、少女の顔は帽子の影に隠れてしまっている。
あの雰囲気だから、顔も可愛いかも……。
真治は頬を赤く染めながら、小さく見える少女の姿をぼうっと眺めていた。
川や白い小石、斜めに差し込む木漏れ日、虫の鳴き声、視界に入り込んでくる木の葉。自然の中に溶け込むかのように少女がそこに立っている。
あの子は、川原の妖精? いやいや、俺、何考えてるんだ。
そう思いながらも少女から目を離せず、魅せられる真治。
「おい、真治! とっとと来いよ! 俺が怒られちまうじゃんかー!」
そんな真治を現実へ引き戻すのは、やはり道夫の仕事だった。真治は道夫を数秒間見据えて「ああ」と生返事をした。
最後に少しだけ、と思い再び川原を見下ろす。少女の姿が無い。
あれ? ちょっと目離しただけなのに。はは、やっぱり川原の妖精だったりしてな。
ジーーーー……
シャシャシャシャシャ……
セミの鳴き声にタイミングを合わせたように、真治は苦笑しながら早足に下り坂を歩き始める。