小さな終わり
真治たちが乗っている電車はあまりに古く錆びれており、頻りに激しく揺れてはその都度、鉄の擦れる音を響かせていた。
真治の隣に法子、そして正面に道夫が座っている。いつもならばよく喋る道夫だが、電車内では口に糸を紡いでいる。自分の故郷に無理やり連れていくことになった真治と法子に申し訳ないと思っているのだろうか。それに連動され、真治と法子も黙り込んでいる。
しばらくして、真治が席を立ち上がった。法子は「危ないから」と注意した。
「ちょっとトイレに行ってくるだけだって」
「すぐに戻って来るのよ」
真治は返事をせず、早足気味にその場から離れた。そのまましばらく席に戻るつもりはなかった。道夫といるのが嫌だったのは当然ながら、閑静とした空間があまりにも息苦しかった。
電車はローカル線らしくゆっくりと走るが、頻りに大きく巨体を揺らす。真治は想像していた以上に車内を歩くのに苦労した。
後ろの車両に辿り着き、ふと付近の空席の窓から外の風景を覗いてみた。窓の外に見えたのは緑色の水田。畦道で綺麗な長方形に仕切られた水田が辺り一面にただ延々と広がっている。たまに申し訳程度に車の走っていない細い車道や赤茶けた鉄橋越しに小さな川などが現れた。
ただ、それだけだった。まさに田舎の代名詞と言えた。
真治は元からそれ程の期待は寄せていなかったが、虚しい気持ちになった。せっかくの貴重な高校二年生の夏休みをこんな田舎で潰すのかと真治は自嘲にも似た笑みを浮かべる。
「美海部の風景は嫌いですか?」背後から女性の声が聞こえた。
真治はすぐに振り返る。そこにいたのは二十歳前後の背が高い黒髪の女性だった。目鼻の筋がキリッとしており、柔和で美形な顔立ち。黒い長髪がよく似合う。
ストライプのチュニックシャツとルーズネックTシャツを組み合わせ、下にはレギンスを履いている。
細過ぎず太過ぎずなバランスの整った足がすらーっと伸びている。背は真治と同じくらいで百六十台後半はあると思われる。
この女性がモデルだと言われても何ら疑う余地はなかった。
「あ、いきなりすみません。そこは私の席なので、ひとまず座って下さい」
そう言って女性は空席に座った。言われるままに真治も女性の向かいの席に腰を下ろした。椅子が先程よりもずっと固く感じた。
「美海部は田んぼだらけで嫌になりませんか?」黒髪の女性が優しく柔和な口調で訊いてくる。
「は、はい」真治は小さな声で答える。
「みんなそう言うんです。でも、私は結構好きなんですけどね、こういう風景」窓の外をずっと見つめながら黒髪の女性は言う。
真治はそんな黒髪の女性をじろじろと観察する。真っ直ぐに垂らした黒髪。胸元まであり長過ぎるのではないかと思う程だが、この女性の場合だとそれが様になっている。おそらく彼女は茶髪にして変にいじるよりも、黒髪でありのままにしている方が似合うタイプなのだろう。
鮮やかな赤い唇に目がいく。色合いも去ることながら潤い具合がやたらと気になる。メイクもナチュラルにこなしており、素顔を前面に出している感じがある。
本物の美人とは彼女のような女性を言うのかも知れない。頬を紅潮させながら真治は思った。
「あ、すみません。一方的に話してしまって」黒髪の女性は申し訳なさそうに頭を下げる。その際に艶のあるしなやかな黒髪が細かくふわりと舞い、女性の小さな肩に落ち着いた。
それが気になってしまい、女性の言葉があまり頭に入ってこなかった。ひとまず「別に良いですよ」と臨機応変な返事をしておく。
黒髪の女性が頭を持ち上げる。さらさらとした黒髪から散布されるレモンの微香が真治の鼻を刺激する。
真治は黒髪の女性の側にいることに内心喜んでいたが、自分と女性が全くの赤の他人であることが気になった。そもそも、何故この女性が話し掛けてきたのだろうか。
しかし、真治には法子と道夫のいる席には戻りたくない気持ちもあった。頭の中で二つを一生懸命に比べてみる。
見知らぬ美人と見知り過ぎな道夫。どちらが危険だろうか? 真治が答えを出すのに差して時間は要らなかった。
決まっている。見知らぬ美人の側にいよう。
「あの、美海部の人ですか?」滞在を長引かせたいが為に自然と真治の口から漏れた言葉だった。
「美海部は四年ぶりなんです。懐かしいなぁ……」女性はまた窓の外の広大な田園を眺めながら誰に言ったかも知れない言い方をした。おそらく、四年ぶりに帰る美海部の思い出をゆっくりと振り返っているのだろう。
そうなると、黒髪の女性の目の前にただ座っている真治は居心地の悪いものだった。やはり戻ろうかと思う。
「あ、すみません」黒髪の女性がまた真治に謝る。その際にまた黒髪が揺れ、レモンの微香が鼻を刺激した。真治は居心地の悪さを忘れ、またここに滞在しようと決意する。
その時、真治の背後から男の声が聞こえてきた。「おい、清花」
後ろへ振り返ると身長が百八十センチはある長身の少年が不機嫌そうな顔で立っていた。真治と大体同い年くらいのようだ。しかし、少年はモデルのような体型と顔をしている。
ドクロがプリントされた黒いシャツに、じゃらじゃらとした重そうなペンダント。ブラウンに染めた髪をワックスで立たせており、険悪な目つきをしている。
ひとつひとつのパーツに注目してみれば、夜の都会を徘徊していそうな若者だった。しかし、全体で見てみると何故か美形な少年に感じてしまう。とても不思議な格好良さだ。
「おい、清花。このチビ誰?」長身の少年はそう言いながら座席にきょとんと座る真治を見下ろした。
真治は同い年くらいの少年にチビと言われたことが気に食わなかった。長身の少年を真下から見上げる形となっている真治にはそれが余計に嫌悪感を生む行為となっていた。
清花と呼ばれた黒髪の女性は長身の少年と真治の事を同時に見ながら困ったようにあたふたしている。「えっと……名前はまだ知らないんだけどね」
「はあ? 何それ?」長身の少年が眉間にしわを寄せながら言う。その際にまた真治の方へ視線を下げた。真治は目を合わせないようにうつむく。
「美海部の風景を嫌々そうに見てたから……。つい、ね」清花は自分よりも明らかに年下の少年に向かって気を使っているようだった。真治に対しての態度を考慮すれば、元からそんな性格なのかも知れない。
寧ろ、年上の清花に向かってため口を利く少年に問題があるのではないか。真治はうつむいたまま密かに頬を膨らませた。
「おい、お前」長身の少年が真治に対して言ってくる。
ゆっくりと顔を上げた真治は無表情な顔をしており、至って冷静な様を装っていた。だが、鼓動は凄まじい勢いで乱れていた。
真治は強気な発言をしたかったが、口を通り抜けた時には言葉は自然と敬語に変換されていた。「はい、何ですか」
真治は無表情だが自然と体が小刻みに震えている。それを見てか、長身の少年は小さく「ちっ」と舌を鳴らした。「お前さ、いくら清花が緩いからって、何でいつまでもここにいるの? 清花があまりに綺麗だからって、狙ってるのか?」
「ちょっと、隼人!」清花は急いで隼人という長身の少年に注意する。だが清花のか細い声の所為か元々の温厚な性格の所為かあまり迫力を感じられない。
「いえ」真治は申し訳なさそうに小声でそれだけしか言えなかった。
「まあ、違うなら違うで良いんだけどさ。邪魔だから退いてくれよ」隼人はつり目を更に細めながら真治のことを指差した。右手の人差し指にはめられたシルバーリングが光る。「そこさ、俺の席」
真治は下を向いたまま座席から立ち上がる。立って並んでみると隼人の長身に改めて驚かされた。
席から退くとすぐに隼人が空席に座った。もう真治の顔など見てはいない。
清花はまごまごしながら隼人の顔を見る。隼人は「文句あるのかよ」と言いたげに目を細めて口元にしわを作った。
清花がうつむき気味に真治に眼差しを向ける。「すみません。私の――」
「真治!」
清花の声を遮るように真治の背後から甲高い声が聞こえてきた。声の主は法子だった。なかなか帰ってこない真治を探しに来たのだろう。
「真治、何やってるの!」
「いや、ちょっと気晴ら――」
「良いから、来なさい!」
法子の怒鳴り声は普段から聞き慣れているのに真治はいつも体が震えるように反応してしまう。
法子は鬼のような形相で真治のTシャツの袖を引っ張った。「どうも、うちの真治がご迷惑をお掛けしました」清花と隼人に頭を下げる。その際に真治の頭を掴み、無理やり頭を下げさせた。
「いえ、そんな。私が話し掛けたからで……」
「いえ、どうせうちの馬鹿息子が変なことを言ったんですよね。本当にご迷惑をお掛けしました」法子は再び頭を下げ、真治のTシャツを凄まじい力で引っ張り、最後尾の車両を後にした。
足をばたつかせながら法子に引っ張られていた際、真治の眼は嘲笑う隼人の姿を捉えていた。清花はやはり気まずそうに隼人を注意していた。
「もう良いから!」清花や隼人が見えなくなった頃、眉間にしわを寄せながら真治が言った。法子は真治のTシャツから手を離す。
「もう子供扱いするなよ。それと、どんな馬鹿力してるんだよ」
「あんた、まだまだ十分子供よ。それと、あんたが力無さ過ぎなだけだから」法子は淡々とした口調で真治を負かす。真治はそれきり黙り込んでしまう。
やっぱり、美人は美青年としか付き合わないんだな……。向き合いたくなかった現実に直面し、真治はうつむく。
こうして真治の小さな恋は終了した。
元の席に戻るまでの間、真治は車内の乗客達を観察していた。真治と同年代の若者などいない。若者と言えるのは親に連れられた幼稚園児くらいの子供だけだった。これから行く美海部村がどれだけの田舎なのかを物語っているのだろう。
覚悟だとかいうものがあればこの苦痛に耐えられるのかも知れない。しかし、そんなものは自分にはない。僅か一夜の間に襲ってきた強制参加の出来事。悩み考える時間すら与えられなかった。
ならば、せめて楽しいことを見つけよう。恋などすれば信じられない程に田舎生活が充実したものになるかも知れない。そう思っていた真治だが、世の中はそんなに都合よくは回っていないと思い知らされた。
「よお、どうしたんだ?」先程まであんなに別人のように黙り込んでいた道夫が元の快活な声で言ってきた。
「真治が後ろの車両で遊んでて、見知らぬカップルに迷惑掛けてたのよ」そう言うと法子はまた真治を睨みつける。
「へえ。真治、お前がか?」
真治は返事をしない。道夫からの問いには徹底的に答えないつもりでいた。
「ちぇ、やっぱり俺には返事なしかよ」
「そう言えば、珍しいのよ。そのカップル、かなり若かったわ。大学生と高校生くらいかしら。二人ともモデルみたいだったのよ」
まるで井戸端会議でもしているかのように法子はスキャンダルな話題を持ち掛けた。
「こんな田舎に、そんな若いカップルが来るとは。随分と老けた若者カップルだな」道夫がげらげらと哄笑する。
真治は日本茶の入ったペットボトルを口に含み、ずっと窓の外を見ていることで会話に参加しない意思を暗示する。
「真治。お前、そんな若者カップルに何してたんだよ?」
一番触れられたくなかったことを道夫に訊かれた。真治は飲み終わったペットボトルを口から離さないようにした。
「私が見た限りだと、真治が若い女の子の前に立ちながら、その子のことだけを――」
「うるせえ!」真治は大声で掻き消そうとする。
「真治、お前その女の子のこと好きになって凝視してたんだろ?」全てを察した道夫が子供のように無邪気に笑って真治を問い詰める。
真治は、本来の「無視」を徹底して貫こうとする。
「お前さ、そうやって黙ってたら俺の言ったことが正解だった、で決まりだからな?」道夫は実に愉快そうににやついている。
「ちげぇーよ!」真治が無我夢中に大声を出す。
それと同時に、車内の乗客達の話し声が一斉に途絶える。道夫と法子は口をぽかんと開けながら二人して顔を合わせる。そして、にやにやと笑い出した。
「ああ。真治、悪かったな」
道夫が謝る姿など初めて見た。あまりに不意の出来事だった。どうすれば良いか分からず、真治はただ道夫に視線を集中し続けた。
「お前、図星だったんだろ? 顔が照れてるぞ! 別に恥ずかしがることないじゃんか! なあ? その女の子、すげえ可愛かったのか? いやあ、青春だな!」
ひとりでマシンガンのように話す道夫に真治は目を剥き、思った。
てめえ、うぜえ、だまれ。