誤謬
五仏坂は先が見えながらもなかなかそこまで辿り着けない、距離の間隔が掴みにくくて焦れったい坂道だった。登っている間は坂道をはじめ、辺りの木々はごく平らに佇んでいるようであまり坂道という実感はなかったが、ふと自分たちが来た道を振り返ってみれば、地蔵や看板が随分と下にあった。
そんなことを千夏と一緒に話して、二人で驚嘆の声を上げたりした。千夏は「不思議な坂道だね」と微笑んだ。
ようやく下から見えていた直線が終わってカーブに差し掛かる。辺りには様々な種類の木々が色鮮やかに聳えている。ここはちょうど、入口からは死角になっていた。いよいよこれからは未知の領域で、坂が一本道とは言え、今までみたいにそう簡単には引き返せない場所に踏み込むのだと思えて、真治は落ち着きがなくなってくる。
しかし、そんな気掛かりを胸に抱いてるのは真治だけだったようで、千夏は悠然とした足取りで更に進んでいってしまう。
「真治君、どうしたの?」千夏が立ち止まる真治に気付いた。
「いや、何でもない」真治は再び千夏の横に追いついて前進しはじめる。
一度目のカーブを経てからまたしばらく直線が続いた。先程の直線に比べると、横切っては後ろに遠ざかっていく樹木たちは、太く立派なものばかりだった。
千夏と初めて言葉を交わした、あの仙境のような森とはまた違った種の霊妙な雰囲気が漂っている。あちらを「ぽかぽか」と例えるなら、こちらは「じめじめ」と言った感じの、それでいて両方が透明な霊気を纏っている、そんな言葉で言い表しにくい不思議な雰囲気なのだ。
そんなじめじめな森でも、日射はしっかりと真治たちに到達していた。あちらの森は木漏れ日程度だったが、こちらは頭上で枝が絡み合うこともないので直に太陽光を通してしまう。
そうすると、なだらかな傾斜すら体内を温める要因となってくる。真治は千夏の前では常に格好をつけていたかったので、スポーツタオルは首に引っ掛けておらず、腰に小さなタオルを忍ばせているだけだった。それすら使用せずに、汗を額やこめかみに浮かばせたままにした。
千夏はと言えば、まるで冷房の効いた部屋にいるかのように、これっぽっちも暑そうな素振りをしない。汗も全くかいていない。
いくら真治よりも涼しい格好をしていて更に男女での発汗量の違いがあると言っても、これを見せられては真治も汗を払拭しづらかった。
「真治君、額の汗が凄いよ。何かで拭かないと体に悪いよ?」千夏が真治の異変に気付いて言った。
千夏に指摘されたことよりも、自分の額だけに視線を注ぐ彼女の瞳の方が気になって仕様がなかった。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
真治はズボンと腰の隙間に差し込んでおいたタオルを取り出し、ゆっくりと丁寧に額の汗を吸収させていく。視界はタオルの生地の水色に染色され、その間に千夏がどのような瞳を携えているのか気になった。
額のぬめりを取り除き、再び外の世界が現れると、そこには至って今まで通りの千夏がいるだけだった。僅かに様子が確認できなくなるだけで、これほどのものが煮え立ってくるとは。真治は自分に兆した不確かな不安に背を向けるように、早足で千夏を追い越し、彼女をリードするように前方をずかずかと進みはじめた。
中年男性のカメラマンによれば、五仏坂は豊饒な自然に囲まれており、見好い花畑があるとのことだった。いくらのほほんとした散歩を目標にしているとは言え、流石に緩急を織り込みたい真治にとって、その素敵な花畑の存在は必須だった。
それにもかかわらず、なだらかな坂を登り始めてから大分経つが、花畑らしきものを全く視界に捉えることが叶わないでいた。これではまずい。
しかしながら真治のその心配は、坂の道幅が増してくるにつれて、霧が薄れていくように徐々に存在を霞ませていった。どこか威圧的だった山林は木と木の間隔を次第に広げていき、湿り気を帯びていた枝葉は雨天後の空のように明るい色調になっていった。
緑に濃緑、深緑、うぐいす色、黄緑、萌黄色、浅葱色。とりどりな葉たちの作り出す不規則な模様は、真治たちの視線を強烈な魅力で引き寄せ、歩行する足を大きく鈍らせた。
次第にそれら葉の芸術が下に沈んでいき、辺りに殆ど樹木を見掛けなくなり、道の左側が崖に面してきた頃、二人はどちらから言い出すでもなくほぼ同時に足を止めた。
「わあ、あんなに小さくなっちゃった」
千夏が指差した先には、十円玉ほどにまで縮小された芸術があった。先程まで自分たちを高みから見下ろしていた木々だが、今は自分たちが見下ろす形になっている。五仏坂の入口に至っては、もう目で捉えられないくらい小さくなったのか、木深い山林の中に紛れ込んでしまったのかすら判別がつかない。
真治たちが長時間歩いてきた五仏坂の道のりは今やジオラマのように縮小され、手を伸ばせば触れてしまいそうな雰囲気だ。正直、坂道を上がっていたと感じさせないほど極小な角度の坂だったので、その変わり果てた姿が真治にどれだけの距離を登ってきたかを実感させた。
徐々に沸いてくるその現実感からふと目線を移すと、小さな丸木を連ねて作られた段差に、いつの間にか千夏が窮屈そうに座っていた。
「これだけ登ってきてたなんて、全然気付かなかったね。びっくり。どうりで足が疲れてきてるなって思ったんだ」
そう言って千夏は両手でふくらはぎを包み込み、指にぐっと力を入れて揉みはじめた。弾力性の高いふくらはぎは、様々な角度からの力に何度もグニャグニャと変形した。まるでゼリーのようだった。
「ごめん。女の子には少しきつかったかな」
「ううん、まだまだ大丈夫だよ。ちょっと一休みすれば、すぐに出発できるから」
真治も丸木の段差に腰掛ける。列になっている丸木はひとつひとつの背の高さが揃っておらず、その高低差が尻の部分に丸木を食い込ませる。「千夏、ここに座ってるとちょっと痛くならない? どこか別の場所を探そう」
「そうだね、ちょっとお尻が痛いかも。でも、ざっとそこら辺を見渡しても他に座れそうな場所がないし、わたしはここでいいよ。それとも地面に座る?」
代赭色の土と千夏のベージュのズボンに目をやって真治は答える。「いや、千夏の服が汚れるだろうから地面に座るのは止めておこう」
ふふ。千夏が口元にだけ微かに笑みを浮かべる。「そんなにわたしを気遣ってくれなくてもいいのに。こんなズボンの一着くらい、洗濯すれば済むわけだし。真治君は優しいね」
「俺は優しくなんかないって」
「ううん、優しいよ。美海部を観光したい、なんていうわたしの我が儘をしっかりと聞いてくれたし。きっと東京の方では、女の子から人気あったでしょ?」
何でそんなことをわざわざ訊くんだ。真治は心の中でそっと嘆いた。それはつまり、自分には男女としての感情を抱いていないということなのだろうか? やはり自分は、また茶番劇を演じていただけなのか?
千夏と片桐は別人だ。性格だって全くと言って良いほど似ていない。なのに真治は、千夏の言葉の裏に片桐の心理を絡ませてしまう。
「あれ、真治君大丈夫?」気付けば、千夏が真治の真っ正面にしゃがみ込んでいた。足が折り畳まれ、ふくらはぎと太ももが圧迫し合って横に広がっている。
「ごめん、ちょっと考えごとをしていてさ。足はもう大丈夫?」
「うん、ありがとう。もうばっちりだよ。それよりも、真治君が心配。森で会った時も途中でそんな感じになっていたし、もしかして熱中症じゃない?」
そんな馬鹿な。熱中症な訳がないし、それじゃあ散歩が強制終了となってしまうではないか。「まさか。自分の体調の変化はしっかりと分かる。今は至って健康さ」
森の件も千夏の姿にいつの間にか片桐が重なってしまったのが原因だった。
一刻も早く、頭の中に霧のように霞んで、しかし確実な存在感を持って現れる片桐を抹消しなければ。
それから十分ほど、真治と千夏は眼下に縮こまる村と自分たちの歩いてきた長途を指差しながら、どこの方角から来たとかあそこを通ったなどと言った他愛もない話をした。
ここまでの道中、落ちがなく地蔵を探していたのだが、未だにそれらしきものを一体も発見できずにいた。しかしそんなものがなくても、千夏との散歩は順調に行われている。寧ろ問題なのは、花畑の方だ。
よいしょっ。千夏が勢いよく座っていた段差から立ち上がる。「待ってくれてありがとう。もうそろそろ進まないと、日が暮れちゃうよね」
執拗にひりひりと体を焦がしつける光の放射の中を二人は再び進み始めた。夏木立からは、セミの鳴き声は一切聞こえてこなかった。
尾の上らしき広い場所に出ると、今まで登っていた坂道は途切れ、茶色い土と樹木も唐突になくなり、青草と岩ばかりになった。雑木林はようやく視認できるくらいの隅っこに、お情け程度に居座っているだけだった。
千夏がひとり先行して、崖に接した小高い丘にぽつりと佇む巌に早足で向かっていく。真治も後ろから追い掛ける。
清明な青空と雲の峰に千夏のピンク色の衣服や剥き出しの白い太ももや肩、そこに戯れる髪が重なり、お互いの存在がより映えた。まるでどこかの巨匠が描いた絵画を目の当たりにしたようで、真治は恋愛とは別種の感動を覚え、立ち尽くして体を震わせた。
「わあ、ここからだと風景がよく見渡せるよ!」
巌の上から千夏が楽しそうな大声を上げた。真治も岩根にある小さな岩を踏み台にして、大きな岩をよじ登る。巌の天辺に手を掛けると、千夏が座る位置をずらして場所を空けてくれた。
「ほらほら、これ見て」
急かされるがままに巌の天辺に座って前方を見ると、美海部の村が真下に敷かれていた。先程の眺望とは全然角度が違い、どちらかと言えば鳥瞰しているような、まるで鳥になって空から村を見下ろしているような気分になった。
体がしっかりと地に存在している感覚がない。上も下もそこにはなく、宙で何の抵抗もできずにただされるがままに浮いているようだ。後数歩進んだら、この風景の中に吸い込まれるように落ちていってしまいそうだった。そのあまりの迫力に真治は息を呑んだ。
「素敵。凄く長い道のりだったけど、ここまで頑張って登ってきた甲斐があったね」体育座りをした千夏が感嘆の声を出した。
「気に入ってくれてよかった。俺は二度目だけど、やっぱりここは飽きさせない場所だよ」
没個性的となった民家の屋根の中で、唯一紅色の屋根だけが己を主張していた。真治が世話になっている宿だ。「あの無駄に目立つ紅色の屋根が、俺がいる宿だ」
「本当だあ。話してくれた通り、やたら目立ってるね」千夏の声が宙に溶け込む。
「ねえ、今度、真治君のいる宿に遊びに行ってもいい?」
純や道夫のことが頭によぎり、真治は首を横に振る。「ごめん。流石に両親とかがいるし、それは難しいと思う」
そっか……。
千夏は残念そうに、折り曲げられた膝に顔をうずめてしまう。彼女の髪がふっくらとした太ももに覆い被さる。それはとても儚げで、彼女の落胆ぶりを顕著に表していた。
「わたしがいると邪魔なんだね」
「そんなことはないから。ただ両親が、異性の友達と言うものを理解してくれないんだ」
そっか。
千夏は腰を上げ、颯爽と巌を飛び降りていった。降りる時に彼女が足元にいると危ないと思い、真治はしばらくそこから身動きがとれなかった。
更に進むと、今度はなだらかな下り坂が真治たちを待っていた。先程の登り坂とは違って辺りに木々はなく、草原となっていた。
緑色に光る草花を夏の生暖かいそよ風がなぶっている。しかし草花も満更ではないようで、その身を委ねてゆらゆらと心地よさそうに揺れている。こびりついていた夏の光がそれに合わせ、草花の上で粉になって舞い踊る。そんな草花たちを縫うようにして作られた道を、神秘的な輝きに彩られながら真治たちは歩いている。
「すごーい。ロマンチックだね!」千夏の笑顔は光の粉の中でより一層輝いた。
邪魔者のいない空けた地を通り抜ける和やかな風は、千夏の髪を草花と同様にゆらりゆらりと遊ばせる。また、彼女の桃色の服や透き通った白い肌などは、光の海に染まっては境界を失い、裸になったようにその痩躯をはっきりと見せつけている。
歩く度に、拳に収まってしまいそうな狭い肩が交互に持ち上がり、髪はふわふわと彼女の肩をくすぐり、適度に膨れた太ももは極小なしわを作りながらぷるぷると揺れる。いつの間にか真治は歩く速度を落とし、そんな千夏の後ろ姿に見惚れていた。
待ちあぐんでいた素晴らしき花畑は、山裾まできて五仏坂もいよいよ終わりだろうという頃に現れた。富良野や美瑛と言った有名な花畑のような広大さはあり得ないと流石に分かっていたが、真治はその風光を目にした瞬間、思考が途切れてしまった。
その花畑は、坂道の右手の茂みがなくなったかと思うと、唐突に美麗な姿を披露した。小高い丘に赤や桃色、黄、橙など色とりどりに花が縦一列に、均一に並べられていた。色の組み合わせは本物とは異なるが、それはまるで虹を描いたようだった。
照りつける太陽光の手助けもあって、虹は丘の上で一段と輝きを発していた。その丘を越えた先には、かの美海部村が広がっていた。
すごい、なにこれ。千夏が賞嘆の声をぽつりと漏らした。彼女も地上の虹に魅入られて、視線をひしと掴まれていた。
これが真治君の言っていた花畑だね。僅かな時間で千夏は再びため息を漏らした。素敵……。
この時の真治にとって、千夏の掛けてきた声は本当の意味で、自然に溶け込んでしまっていた。沈黙の間がしばらく続いた。
ねえねえ。
自分の顔の前に出現した、上下に小急ぎに揺れる小さな手のひらを見て、真治はようやく千夏に気付いた。真治はそぞろに対応する。「ごめん、どうかした?」
「こうやって高いところから花畑を観賞するのもいいけど、あの綺麗な空間に入ったりすることはできないのかな? きっと素敵だなあって思って」
その質問は真治が一度、花畑に足を運んだという前提でされたものだった。重ねた嘘をこんなところで崩壊させてはならないので、真治は妥当な解答を得る為につらつらと思考を巡らせはじめる。
地蔵ならばともかく、この心奪われる美しき花畑を目にして、「以前は花畑に降りてみようなんて全く思い付かなかった」などとは口が裂けても言えない。曖昧で姑息な答は出せない。
花畑に行けるか否か。この二択で答えるしかない。
たった二つだけの選択肢なのだから、間違える確率は五割だが、それは同時に当たる確率も五割ということだ。輝かしい未来に到達できる可能性が僅か五割、それは真治の選択する勇気を削り取るのに十分な役割を果たしていた。
どうにかして、一割でも成功率を上げる方法はないだろうかと真治が考えていた時だった。花畑の方にちらりとやっていた視線の端に、足場の死角から謎の人影が現れ、地上の虹の中に紛れ込んでいった。
それはあまりにも一瞬のことで、その謎の人物の性別や年齢などは一切把握できなかったが、今の真治にはこれ程有り難い手助けはなかった。
千夏を窺えば、彼女の視線は真治の口元に固定されており、その出来事に気が付いていない様子だった。「勿論、花畑に入れるよ。前に入ったし」
今度は堂々と花畑の方に体の向きを変え、大袈裟に真治は声を出す。「ほら、ちょうどあそこに人影が見える」
「え、人影? どこ?」
花畑に向けられた指先を千夏は再三再四、目を細めて確認する。実は真治にも、例の人影はもう見えていなかった。既にどこかに去ってしまったみたいだった。
「あー、もうそこら辺の死角に消えたのかな?」真治は平気で嘘を重ねていく。大きな窪みだらけで、更には花畑自体が斜めに傾いていることにより、死角になり得そうな場所が幾らでもあることを心底幸運に思った。
「それじゃあ、そろそろ進もうか。このまま歩いていれば、いずれあそこの花畑に辿り着くからさ」
「うん。早く花畑に行きたい」千夏はすんなりと頷き、真治の横に並んで共に坂道を下り始めた。
どうして付いて来ちゃったのかなあ。純は自分の両脇をさも当然のように闊歩する、いとけない二人の姿を見て思った。
三人は未だに、民家や田んぼに囲まれた遊歩道を歩いてる最中だった。純としては、この二人の子供を早く帰宅させたかった。
「ねえねえ、お母さんには、五仏は危ないから行っちゃ駄目って言われてるんだよね? このままじゃお母さんどころか、お父さんにもカンカンに怒られちゃうよ?」
「だいじょうぶだよー。わたしたちには、ジュンおばちゃんがいるもん」女の子は純ににっこりとウィンクを送る。
純は不満を鼻の穴から吐き出し、指の爪と腹を髪の中に沈める。「そうは言われてもねえ。あたしは親じゃないんだし、責任取れないんだから困るんだって」
「またそうやって、オレたちをまこうとしてるんだぜえ。おまえ、ヒキョーモノだなあ!」男の子が純を指差して声を荒げた。
「うんうん、ジュンおばちゃん、ヒキョーモノー」女の子も言い出す。
「ジュンのヒキョーモノお」と男の子。
「ジュンおばちゃんのヒキョーモノー」と女の子。
「ヒキョーモノお!」
「ヒキョーモノー!」
二人はひたすらその言葉を繰り返し、どんどん大声になってくる。純は眉をしかめ、眉間に手を置く。
「いやいや、本当に困るんだって。勘弁してよねえ。まったく、どうしようかな……」
純は五仏坂がある山の鞍部と子供たちに交互に目を配り、仕方ないなと長嘆息する。「分かった。あたしも行くのを諦めるから」
騒ぎ立てていた子供たちが急に大人しくなった。そして、二人揃って言った。「あきらめる?」
「そう、あたしは五仏に行かない。だからあんた達も五仏には行っちゃダメよ」
「えー」二人はふてくされた顔になりながら、声を合わせて言った。
「さあさあ、早くみんなでおうちへ帰ろうか」純は嫌がる二人の手を無理やり引き、来た道を戻りだした。
花畑には、虹を作り上げているもの以外にもたくさんの種類の花々が咲いていた。向日葵や蓮のような馴染み深い花もあれば、中には真治たちの頭をくすぐる程の丈のものもあった。大小問わず、その殆どは真治にとってこれっぽっちも馴染みのない花だった。
「この花はなんて言うんだろう。何か、惹き付けられちゃった」
しゃがみ込んだ千夏の細長い指は、草丈五十センチメートル位の紫色の花を掴んでいた。花弁を傷つけないよう、優しく丁寧な触れ方だった。
どうせ答えられないのは知れてるが、真治も紫色の境域に近付いて観察してみる。花には粗い毛が生えており、葉は対生して細長く白みを帯びている。癒合して筒状になった花糸があった。形としては、松毬を少し押しつぶしたような感じだ。
やっぱり、真治の知識の範囲には一切含まれてない花だった。
「何て名前の花なんだろう……。開花の時期や寿命、雄しべや雌しべ、花冠、がくがどんな性質を持っているかとか、花言葉だとか、この花についての知識をわたしは全く持ち合わせていないけど、きっととても素敵な花の筈だよ。わたしには分かる」
「それは女の勘ってやつ?」
「ううん、近いような気もするけど多分違うんだ。本当はそれよりももっと身近にあって、それでいて手の届かないところにあるものだと思う。ごめん、意味が分からないよね」
真治は唇の端を吊り上げながら首を横に振る。「言葉で表せないものなんて、世の中幾らでもある。それを表現するのは、作家だとか画家だとか音楽家みたいな専門的な『芸術家』の仕事さ」
実のところ、真治にも紫色の花の神秘はひしひしと胸に伝わっていた。でもやはりそれは、千夏の言うように『言葉で表せない何か』であり、少し意識を離せばこの花畑の鮮やかな彩りの中に極自然に、すうっと溶けていってしまう儚い一瞬の産物だった。
紫色の花弁に髪が触れそうなくらい顎を引いて、千夏は頷いた。「ありがとう。なんだか真治君は、芸術家みたいだね」
「そんなまさか」
「今わたしの中に、言葉じゃ表せない温かい何かが舞い降りたもん。真治君流に言えば、『芸術家』の仕業だよ、これ」
千夏に言われ、真治の頬は紅潮した。「俺が芸術家、か。俺はこれっぽっちもそうは、思ってないんだけどな……。一昨日、母親にも言われた」
「ほら、お母さんにも言われてるんだから、やっぱり真治君は芸術家なんだよ」
千夏にそやされるのが段々歯痒くなってくると、真治はポケットに手を突っ込み、花々の隙間をひとりで散歩しはじめる。
すると、丘の先に趣のある、葡萄茶の屋根の一軒家を発見した。この辺りで民家を発見したのは初めてだった。真治はこの花畑の持ち主のではないかと思った。虹を描くように綺麗に敷き詰められた花々からしても、確かに人工物の雰囲気は漂っていた。
そこで真治は一つの危険を察知した。もしかしたら自分たちは、人の敷地に不法侵入したことになるのでないか?
「こらてめえ、人んちの庭で何やってるんだ!」
悪い予感は的中した。のっぽな花の隙間から、花と同じくらいの背丈の老父が青筋を立てて飛び出してきた。
泥の跳ねた跡がはっきりと残るぶかぶかのズボンにTシャツ、日傘代わりの鍔の広い帽子。老父の格好はまさに、真治が思い描いてきた田舎の老人そのものだった。
「え、いや、ここが人の私有地だなんて、知らなかったもので」
「ふん、怪しいものだな。ここは花を盗みにくる奴が後を絶たねえんだ。たかが花と言えども、盗みは盗みだ。俺は許さねえぞ!」
「いや、まさか、俺は花を盗む気なんてこれっぽっちもないです。信じて下さい」
「へっ、犯人はいつだってそういうこと言うもんだ。『はい、そうです』なんて言う筈ねえもんな。俺はそんな愚策にはまるほど馬鹿じゃねえんだよ!」
老父が鋭い眼光を放ちながら言った。その眼は、一度決めつけたことは雨が降ろうが風が吹こうが絶対に変更しない、頑固者特有のものだった。
これは駄目だ。真治にはこの頑固者を説き伏せる能力もなければ、誤解を解く術もなかった。あるがままに、碌な結果が待ってないと知りながらも、身を任せるしかないようだった。
「あれ、真治君、そこのお爺さんは誰?」いつの間にか真治の背後に立っていた千夏が、暢気な声で訊いてきた。
真治を追い掛けてきた千夏を見て、老父は更に眉間のしわを深くした。嗄れた声でぽつり、「もう一人いやがったか」と言った。
このままでは、千夏まで厄介ごとに巻き込まれてしまう。真治の額には、暑さと焦燥感が混じった多量の汗が浮かんでいた。
「彼女は、俺に連れられてここに入ってしまっただけなんです。全責任は俺にあるんです」
「いいや、駄目だな。お前の発言なんぞ、聞くわけねえだろうが。容疑者の親族のアリバイ証言並みに参考にならんな。とにかく二人とも俺に付いてこい」
そう言って老人は、その歳にしては逞しい腰をしゃきっと伸ばし、手足をしっかりと活動させた歩き方で畑を進み出した。その姿は底知れぬ力を感じさせ、彼が老いをものともせずに生きてることを示唆していた。
この老人相手なら逃亡した方が得策ではないかと思っていた真治だが、完全に心を砕かれてしまった。
老父はその歳にしては走るのが速そうだが、流石に若い真治たちが劣ることはないだろう。それでも真治が恐れたのは、この老人が獲物を狙う獣のような目をしていたからだ。
例え一時的に老父の目につかない場所に避難できたとしても、執念深い捜索をする彼によっていずれ発見されてしまう気がした。自分たちに安息の地など存在していないのだと強く思った。
真治は仕方なく、老父の背中を見つめながら歩くことにした。老父は逃走される可能性がある筈なのに、一切こちらに振り向きもせずに歩き続けた。真治たちが逃げ出すことなどあり得ないだろうという自信の現れのようだった。
真治の後方に続く千夏はだんまりとし、訝しげな顔で老人と真治を交互に見ている。真治は頻りに背後を確認して千夏と視線が合う都度、取り返しのつかない罪悪感が胸にのし掛かってくるのを感じた。
あれほど心躍らせ待っていた至福の時間は、本番直前にどう仕様もない不安に駆られ、でもそれは杞憂だったと安心し始めた矢先に予想が的中してしまい、そしてどう仕様もない結末を迎えようとしている。
老父に連れられた場所は、花畑のある丘の先に佇んでいた例の古びた民家だった。葡萄茶の屋根を持つその家は、間近で見ると想像していたのよりもずっと大きく、そして想像以上に廃れていた。
壁には奇妙な痕跡がちらほらと点在していた。何か巨大な爪に引っ掻かれたようであり、何かがこすれたような感じでもあった。破れた雨戸の網が『何本』かこちら側へへしゃげていた。
そのなんとも淋しげな姿は、まるで罪人を迎え入れようとする刑務所の壁のように、絶望的な印象を真治たちに与えた。
老父は鍵など一切使用せずに、やや斜めに傾いていて開けにくそうなぼろぼろの扉を、力一杯に横に滑らせた。その際、扉と溝の部分がこすれ合い、黒板を爪で引っ掻いた時に発生するような独特で不快な音がした。
当然、この状況において耳を手で覆う余裕などなかったので、真治と千夏は顔を歪ませて扉の開放を見守るしかなかった。
「そんな拒絶する顔してたって無駄だぞ」老父はようやく真治たちの方に振り返り、勝ち誇ったような不気味な笑みを浮かべた。
「お前らの結末は、お前らの感情とは完全に切り離されたところにあるんだからな。無力なんだよ。足掻いたって何かが変わる訳がない」
「俺らは本当に何も知らなかったんです。許して下さい。それに、花畑にあるものは何ひとつ盗んでもいなければ、盗む気だって微塵もなかった」
「だからよお、それじゃあ駄目なんだ。そう言い出したら、誰も彼もが無実になっちまうだろうが。きりがねえよ」
やはり頑固者は、一度決めたことに一点張りだった。老父の言う通り、真治たちの運命は、真治たちの意思とは別のところに位置しているようだった。
真治は突如として、丘にある巌の上から俯瞰した小さな美海部の模様を思い起こした。どうしてこの場面で、それが頭の中に浮き上がってきたのかは分からなかった。
あそこでは全てが宙に漂っていた。足や手、耳や鼻、脳や臓器、真治の有するもの全てがふわふわと地から離れていった。
ちょっとした微風でも真治はぐらりとふらついた。地に落ちないように、手や足は勿論、臓器や髪の毛に至るまで全身に気を配り、なんとかバランスを保たせた。
真治にとっての浮遊は、一秒でも長く地から足を離しておく為の、無駄を知りながらも行わずにはいられない、儚げな抵抗だった。
老父は真治たちを睨みつけながら、さっさと来いと合図した。
とっさに真治は千夏に視線を移した。千夏も地に足がついていないような朧気な表情をしていた。
「おや、そこの二人はどうしたの?」
開けっ放しの玄関に突如姿を出した老婦が、柔和な口調で言った。
老婦は白髪やしわの具合から年相応の顔をしているが、どことなく上品な顔立ちをしている。若い頃はさぞや美人だっただろうことが想像できた。
老父が老婦のいる背後に腰を曲げてゆっくりと振り返る。「こいつら、うちの畑に勝手に入りやがったんだ」
「あらまあ、可哀想に。余所から来たのかしら? 何も知らないで入ってしまったのね」老婦が目を丸くしながら呟くように言った。
老父は眉間のしわを瞬時に増やす。「いいや、違うな。何も知らないふりをした泥棒に決まってる」
その様子に老婦は呆れたようにため息を零した。老父の先にいる真治たちに視線を定める。
「ごめんなさいね、うちの人はこの通り筋金入りの頑固者でね。この人には私の方からよく言っておくから、あなた達は帰っていいわよ」
「お前は何言ってやがるんだ!」老父が憤怒を露わにして叫んだ。
老婦はどうしたらいいものだろうかと、真治や千夏と視線を繋げた。真治たちはただ、その流麗な瞳を見つめているしかなかった。
そんな空気の張り詰めた場に、スライド式の窓がカタカタカタと開け放たれる音が割り込んできた。一同の視線は、その音がした二階の窓へと瞬時に注がれた。
四角い木の窓枠の中に見覚えのある、ワックスで立たせたブラウンの髪が入り込んできた。そして数秒遅れて、狐のような目を携えた端麗な顔がやってきた。
それは間違いなく、隼人だった。
隼人は玄関前に集まる四人を吊り目で見下ろしたまま、再び窓を閉めた。もう二度とその窓が開くことはなかった。
一同が錆びた窓の扉を呆然と見つめていると、今度は庭に面する比較的錆びてない窓が開かれた。そこから現れた長い黒髪は、午後の窓辺のカーテンのように優雅にふんわりと揺れた。
「あれ、真治君? どうしてここにいるんですか?」清花が目をぱちくりとさせながら、ゆっくりと言った。
それは真治の方からも、そっくりそのまま質問したいことだった。
おしろいを塗りたくって完璧に白となった顔に、黒いおかっぱと紅い唇が生えている。同じく美白に強調された黒い楕円形の枠の中から覗く黒くて綺麗な円は、真治たちを小さく映している。
真治は年代物の棚の上の、埃だらけのケースに入れられた日本人形が、不気味な微笑を浮かべながら自分たちを観賞している気がしてならなかった。極度の緊張がそんな幻覚を産出しているのかも知れなかったが、今の真治にはそれを判別することは出来ず、そしてどちらでも良いことだった。
千夏と真治が通された和室は、宿の部屋にも負けないくらい和の風趣を取り入れた空間だった。しかし同じ「和」と言っても、あちらが芸術に精通した清澄な「和」なのに対し、こちらは湿り気を多く含んだ生活感の溢れる「和」だった。それは御天神社周辺の山林と五仏坂の山林の違いにもどことなく似ていた。
狭苦しい和室には今現在、畳に直接座る真治と千夏しかおらず、老夫婦や清花の姿は一切ない。あの老人のいきり立った顔や声から一旦解放されたのは喜ばしいことだったが、この沈黙の空間は神経をとても磨耗させるものだった。
清花は真治たちをこの和室に導くと、電球を点けていても薄暗くて寒々しい廊下に速やかに消えていった。その際、清花は「大船に乗ったように寛いでいて下さい」と言った。
それから一時間ほど経つが、誰もこの部屋にやってこない。
そして、真治にとっての不安はそれだけではない。寧ろ、そんなものは重大な問題の発端にしか過ぎない。
何よりも怖いのは、千夏の沈黙だった。
千夏は花畑での時とは全く異なり、一切真治と視線を合わせてこない。目の前の炬燵の上にある煎餅やおかき、ピーナッツなどの方に視線が向けられている。意識までもがそちらに向けられているのかは、測りかねるところだった。
夢現な状態に陥ってるようにも見える千夏に掛ける言葉は、一つしか思いつかなかった。「ごめん、せっかくの散歩だったのに、こんなことになって」
千夏は何かを黙想するようにずっと首を枝垂れさせている。その「沈黙の間」が、真治の心臓を冷たくぎゅっと握り締め、鼓動をより一層激しくさせた。
そして、この重苦しい空気に溶けたようにゆっくりと、千夏の唇が動き始める。「ねえ、真治君はここの花畑に来るの、初めてだよね?」
真治はすぐにその発言の真意を見抜いた。先の「五仏坂に来るのは二度目」という発言に、また猜疑心を抱かれているのだ。
しかし真治は、この花畑の件は押し切れる自信があった。あの中年のカメラマンが実際に来て、そして紹介した場所だからだ。虚構の上に成り立っているものより、実際の経験の上に成り立っているものの方が圧倒的に信憑性が高い。
きっとこれは、あの老人によって引き起こされた不測の事態だったに違いない。本来は、花畑は入れる場所だったのだ。
真治はそう自分に強く言い聞かせ、千夏の目を真っ直ぐに見つめた。「いいや、これで二度目さ。前に来た時は、あんな人に絡まれたりしなかったんだけど……。本当はいけない場所だったのかな。でも、あの人の勘違いみたいな感じでもあったなあ」
出任せを吐く真治だが、千夏は彼の瞳だけに焦点を合わせ、そして目を細めた。浅はかな嘘がバレたのではないかと真治は焦る。
「そうだね。あのおばあさんとお姉さんの発言的に、おじいさんひとりの勘違いっぽいもんね」千夏は口元にふんわりと微かな笑みを浮かべた。
「あのお姉さんは確か、真治君の知り合いなんだよね?」
「うん。あの人は清花さん。美海部村出身だけど、大学に通う為に上京していて、四年ぶりに村へ帰省したらしい。嫌みったらしくてシスコンな弟と一緒に」
「はは、それは酷いなあ」千夏が噴き出した。
「しかしまあ、よくよく思い起こしてみれば、ここが清花さんの実家ってのも納得がいくや。清花さんが花に詳しいらしきことを純さんが言ってた気がする。俺が母親と花の話をしてる時に、『清花ちゃんが花に詳しかったなあ』とか割り込んできてた」
「純さんには昔から、たくさんの花を教えてきましたからね」
いつの間にか開けられた襖のところに清花がいた。彼女の顔には不吉な雰囲気など微塵も漂っていなかった。
「わたしがまだこっちの学校に通ってた頃から純さんは頻りに東京とこっちを往復していて、向こうで恋人を作るたびにわたしの家へ訪ねて来ては、プレゼントにお薦めの花を訊いてきました。相手の男性の好みなどを事細かに教えてもらって、母と一緒に色々と考えてあげたものです」
へえ、と真治は感心する。「恋人に花を贈るなんて、純さんのイメージからは想像できないですね。凄い意外です」
ふふふ。清花が顔を綻ばせる。「どんな女性でも、恋すれば皆女性なんですよ」
真治は清花の言っていることは理解できたが、素直に納得することができず、首を大きく傾げる。清花はそんな真治を咎めるわけでもなく、千夏に視線を移動させる。
「女の子なら分かりますよね?」
千夏もにっこりとしながら頷く。「はい、そういうものですよね」
それから二人はお互いを見つめ合い、十秒程の沈黙が続いた。そして二人は再びくすくすと笑いだした。
真治はその沈黙の間がただ無意味に流れたものではなく、何か特殊な意味合いを持ったものではないかと思った。この二人の間に何かが行われたのだ。それは恐らく、女同士の秘密のコミュニケーションだったのかも知れない。
何にしろ、男の真治にはそこに入り込む余地などないのだから、非常に辛いものだった。仕方なく、強引に話を進めるしかなかった。
「それだけ純さんが清花さんを頼ってたとなると、清花さんが美海部を離れている期間なんかはどうなってたんですか? 連絡とか取り合ってたんですか?」
「そこはあれですよ」清花はスキニーパンツのポケットから携帯電話を取り出す。「文明の利器ってやつですよ」
「ああ、なるほど」真治はあまりにも現代的過ぎる解答に、若干肩透かしを食らった。
「とは言っても、あまりメールなどはしませんでしたけどね。純さんは東京に来る時だけわたしにメールをよこしてくるんです。それでどこかのカフェやファミレスなんかでのんびりと話し合うって感じにしていただけです」
「純さんは今回、清花さんが帰ってきてるのを知らないようでしたよ。メールを送らなかったんですか?」
清花は手に収まっている携帯電話を小さく揺らす。「ちゃんとメールを送りましたよ。純さんがそれに気付いてなかっただけみたいです。昨日訊いたら、うっかりメールボックスを見忘れていたと言ってました。全く返信がないから、もしやと思ってたら、案の定でした」
確かに純のがさつな性格ならあり得そうだった。携帯電話は自分がメールを送る時しか使わなそうだ。そもそもこんな電波不良でメールをするような同年代が殆どいない田舎では、そんな習慣が身につくのも致し方ないことなのかも知れない。
そこで居間に再び沈黙が訪れた。先の内緒の会話とは違い、今度のは本当に話すネタのない、無意味な空白の時間だった。
三人は会議中の会議室にいるかのように黙り込んでは、指や目を微動させ、何か「きっかけ」が起きるのを待っている。
それまで全然会話に参加してなかった千夏が、タイミングを見計らったように言った。「わたし達、これからどうなるんですか? まだ五仏坂を散歩してる最中なんです」
それまでマネキンのように固まっていた清花が突然、弾かれるように身を揺さぶった。「あ、はい、すっかりその件を忘れてました。あれは父が勝手に言ってただけです。父は部外者が花畑に入るのを快く思ってないんです。わたしや母は全然良いと思ってるんですけどね。本当にご迷惑をお掛けしました」
清花がぺこりと頭を下げる。胸元まであった長い黒髪がテーブルで腰を休めている。美海部行きの電車の中と同じように、狭い室内に微香が漂った。今日はベビーパウダーだった。
「前に真治君が来た時は、花畑を自由に見て回れたらしいんですけど……」
「きっとそれは、わたしの父が見回りをしていない時間に訪れたからでしょうね。以前花畑を荒らされたことがあって、それ以降の父は過剰に見回りをするようになりました。あんな父ですけど、流石に人間なので、四六時中監視なんて不可能ですからね」
清花の説明を聞き、真治はほっと安堵した。
「でも真治君、いつの間にうちの花畑に来てたのですか?」
真治は意外な落とし穴に気付き、冷や汗をかき始める。昨日は御天神社で清花たちと出会しており、その後に失踪しているとしても、真治発見の連絡は当然いっているだろうから、失踪の時間内で花畑に行ったと言うのは危険だ。となると、花畑に行ったのは美海部に来た初日とするしかない。
「一昨日、五仏坂を散歩していて辿り着いたんです」
隅に置かれた四角い足の扇風機から送られてくる風が、額に浮かぶ汗を押し潰した。砕けて幾つもの破片になった汗たちは、力を失ったように額からずり落ち、次第に細かくなって消えた。
まるで沈黙を恐れるように、清花は色々な話をし始めた。花畑は実は、あの頑固者な祖父が丹念込めて作ったものだということ。
清花の両親たちは今は横浜に住んでいて、両親たちも美海部に来る予定だったが、父親に仕事の急用が入ってしまい来れなくなってしまったこと。
道夫たちのところとは昔から家族ぐるみでの付き合いで、清花の祖父と祖母、貞義、悦子の四人は実は年齢は違うが幼なじみであることなど。
同じく沈黙を恐れていた真治だったが、殊の外、興味深い内容だったので退屈しないで済んだ。千夏もにっこりとして話に参加しており、真治は尚更安心した。
一時間くらいが経った頃、出された麦茶を飲み過ぎた所為でトイレに行きたくなった真治は、話の途中で千夏と清花に断りを入れて席を立った。
廊下は相変わらず鈍重な空気に抱擁され、寝静まったようにしんとしていた。すり傷だらけな木の床が軋むギシギシというリズミカルな音だけが、閑静の森の中に響き渡った。
あの老夫婦もこの家の中にいるのだろうが、一切声は聞こえてこない。二階にでもいるのかも知れない。
トイレを済ませてまた再び無音の廊下に出ると、真治は正面の棚に載っかる熊の彫り物に目がいった。
結構な年代物のようで、荒ぶる海のように大胆で攻撃的な彫り込み方をしていた。激情がそのまま目に見える形となったようだった。とくに眼光が鋭く、今にもこちらに飛びかかってきそうな迫力があった。まさに芸術家の仕事の賜物だった。
しばらく熊の置物を観賞した後、千夏と清花のいる部屋に戻った。しかし、部屋には誰もいなかった。
背の低いテーブルの上には、まだかなりの量がある麦茶のペットボトルや口をつけた跡の残るコップ、破れた煎餅やピーナッツの袋がある。談話をしていた時と変わらない風景がそこにはあった。
ただ、千夏と清花の姿だけが消えていた。
声や匂いと言った、二人のぬくもりが部屋から抜き取られており、先程まで和気藹々(あいあい)としていたのがまるっきり幻覚だったかのようだ。神隠しの証人にでもなった気分だった。
庭にでも出ているのだろうか。真治は障子をどけて窓を横に滑らせた。庭は一般家庭にしては少し広い印象を受けた。
幼児向けに作られただろう小さな石段が窓に接する形であった。庭の端には、魚など住んでいなそうな利休鼠の廃れた池があり、そこから反射してくる混濁した夏日が辺りの草花の上で弾けている。
庭を囲う赤錆の付着した鉄の柵には、シャベルや農業用の縄、鍬と言ったものが夏バテしたようにぐったりともたれていた。
まさか、花畑の方に行ったのだろうか。真治は扇風機の電気を入れたまま部屋を後にする。
玄関の靴を確認してみると、千夏の白いシューズはしっかりと残っていた。他にも十足ほど靴があったが、それだけでは誰が外出しているのかは分からなかった。確実なのは、千夏が家の中にいるということだけだった。清花やあの老夫婦も家の中なのだろうか。
玄関から後ろへ振り返った真治の視界に、二階へと続くやけにつやつやとした木製の階段が入り込んできた。ふと隼人が二階から覗いてきたことを思い出した。二階は個人の部屋が連なっているのだろうか。
靴下で上ると階段はつるつるとよく滑り、転げ落ちそうで危なげだった。ギシーギシーと、真治の体重がかかる度に木の床は堪えきれず悲鳴を上げた。家中に響いていそうで、真治は常に緊張していた。
悲鳴が収まり、今度は鈍い足音が鳴り始めると、襖が閉まった二つの部屋と、廊下の先にトイレらしき扉とその隣に襖の開いたタンスだらけの部屋が見えるようになった。
手前の襖の閉まった二つの部屋の内の右の方から誰かの声がした。しっかりと聞き取れた訳ではなかったが、真治はそれが千夏だと瞬時に判断した。
端に十円玉程度の穴が幾つもある襖をゆっくり開けてみると、すぐ目の前に不機嫌そうな顔の隼人が立っていた。
真治と隼人は同時に目が合い、「あっ」と二人揃って声を発した。
身長が百八十センチ以上ある隼人は、下にいる真治を蟻でも見るかのような表情で見つめた後、視線をずらして小さく溜め息を漏らした。
「なんだ、頑固爺さんが来たかと思ったら、ただのマザコンか」隼人が独り言のように言った。
「煩い、シスコン」と真治は言った。
隼人は眉をぴくりとも動かさずに無表情に言う。「俺の部屋に何か用?」
そうだ、と真治は肝を潰した。千夏がいると思って部屋に入ったのに、そこは隼人の部屋だった。隼人の側からすれば、突然勝手に部屋に入ってきた真治を不審に感じるのは当然のことなのだ。
「千夏や清花さんがこの部屋にいるかなって思って」
隼人は首の後ろに右手を添えながら、頭を左右に振った。ぽきぽきと首が音を鳴らした。そして暢気な声で「ふーん」と言った。
「どこにいるか知ってるか?」
「あの女の子、千夏って言うんだ」隼人は満足げにひとりで頷いた。
こちらが質問しているのに、どうして隼人が納得しているのだろうか。さっぱり意味が分からなかった。こちらの質問はどこに消えてしまったのだ。
「なあ、千夏はどこにいるんだ? 知らないのか?」
「そう言えば昨日、神社で千夏を追い掛けて全力疾走してたっけ。滅茶苦茶足遅いなあって思った。かなりの運動不足だろ、あれ」
真治の頭の中で真っ赤な感情がぐつぐつと煮え立ってきた。『千夏』と隼人は言った。喋ったこともなければ、ほんの数秒、遠くから見ただけの少女を平然と、『千夏』と言った。
「おい」と真治は隼人の目を真っ直ぐ睨み付けて言った。
そんな真治の憤りを隼人は感じ取ったようだったが、相も変わらず無言のまま狐の目でいる。しかし、不動だった眉を僅かに揺らした。
「あれ? 真治君、よくここが分かったね」
突然、部屋の奥から千夏の声がした。真治は慌ててトーテムポールのように佇む隼人を避けて、部屋の中を覗いた。
大きくて分厚い本が幾つも床に広がっており、Wの字に足を折り曲げて座る清花がその内の一冊を開いていて、千夏は彼女の横に立ってその様子を眺めている最中だった。千夏も清花も今は入口にいる真治の方に視線を向けている。
隼人は真治が二人の存在に気付いたことで、不機嫌そうに顔を歪めて「もう一人増えちまった」と舌を鳴らした。
「隼人、まさかそこで、真治君が部屋に入るのを妨害してたんじゃないでしょうね?」清花が珍しく端整な顔に怒りを浮かべた。
「別に」と隼人は平坦な顔つきで言った。
姉弟の間で不穏な沈黙が流れ始めた。清花は目つきを厳しくして、隼人の目を一直線に見つめている。隼人はそれにどうも耐えられないらしく、微かに目線をずらしている。
「真治君も一緒に見ようよ」
千夏がいたいけな表情で真治を手招きした。そんな脳天気な動作が、気まずい空気をあっと言う間に取り払った。清花は凛とした顔つきを取り戻し、隼人は小さく息を吐いた。
ほんの少しばかり気が楽になった真治は、部屋の中央へ堂々と歩みはじめる。もう隼人は何も言ってこない。
千夏の隣に立ち、清花が床に広げているものを覗いてみる。それにはたくさんの写真がきっちりと整列させられていた。
写真の中には、今よりも大分小さな姿の清花と隼人がいる。どこかの後楽園で撮ったらしく、背後にはアルカイックなメリーゴーランドが写っている。
隼人はやはり可愛げのないつんとした雰囲気だった。とは言っても、今よりは随分と可愛げがあった。要するに、どこか拗ねた感じがあり、この年齢相応の可愛さがないのだ。断じて反抗期などと言ったちゃちなものではなく、拗ねているのだ。
逆に清花の雰囲気は意外なものだった。ぶっきらぼうに立ち竦む隼人の横で、両手でピースサインをしている。鼻筋の通った繊細な顔つきは、今の面影を充分に残しているが、表情はとても明朗としている。子供特有のいとけない笑顔だ。
真治の頭の中に疑問符が浮上してきた。無邪気なこの頃からどのような人生を歩み、現在のような気弱な雰囲気に変化したのだろうか。やはり、あの我が儘なシスコン弟の面倒を見ている内に、心が磨り減ってしまったのだろうか。
「言い忘れてしまってごめんなさい。目的の写真を彼女に見せたらすぐに部屋に戻る予定だったんですけど、ついつい他の写真にも見入っちゃって」
ぺこりと清花は頭を下ろす。真治は「目的の写真」という言葉が気に掛かった。
「わたしが清花さんに『東京で暮らしてる時の写真を見てみたい』って言ったら、『じゃあ、隼人の部屋の押入にアルバムがあるから、見せますよ』ってことになったの」
なるほど。「見せたい写真があるから、ほんのちょっとだけ入れてくれ」と言ってくる姉に渋々了解を出すも、アルバムを次々と部屋の中に広げられ、延々と滞在されてしまった時の隼人の顔が容易に想像できた。
アルバムには清花たちの両親の写真もあった。やはり美男美女の子供を持つだけあり、両親とも整った顔をしていた。しかし意外だったのは、隼人の鋭い目は父親譲りかと思えば、実は母親譲りだったことだ。逆に父親は眼鏡が似合っており、知的で家庭的な雰囲気を纏っていた。
記憶の一隅から実の父親の姿が沸き上がってくるのを真治は感じた。ずっと一緒に暮らしてきた父親と清花たちの父親のイメージが被ったのだ。別に写真のような整った顔と自分の父親の顔は似ても似つかないものだったが、平面からでも伝わってくる温みが、真治の記憶の一隅をくすぐったのだった。
懐旧の世界に引きずり込まれそうな真治だったが、とっさに道夫の下品極まりない濁声の笑いが聞こえた気がして、半ば強引に現実に意識を帰した。
千夏と清花はそんな出来事になど気付いてない風で、アルバムを囲んで楽しそうに両親の写真を見ている。隼人はだるそうにそんな二人の様子を窺っている。窓は閉められ、贅沢な冷房の唸る音が室内に充満している。蝉の鳴き声はない。火照る日差しもない。
その独特な空間は、ひとりで昔の映画のワンシーンを見ているようだった。見えているけど手の届かない、不確かな温もりの存在を感じた。
何だか、淋しくなった。
そうして真治と千夏は、清花たちの家を後にした。去り際に清花と清花の祖母が見送ってくれた。
それまでどこにいたか知れない清花の祖母は、「今度は遠慮なく花畑においで」と言ってくれた。しかし真治は、あの老人の憤激した様を強烈に頭に刻み込んでいたので、素直に頷くことができなかった。
何事にも流れというものがあり、そして波がある。それを崩してしまうと、均衡が保てなくなり、波は牙を向く化け物となって全てを飲み込んでしまう。
この散歩において、花畑はとても重要な波だった。
散歩の核である花畑の地点が、あの体たらくだ。嘘の件についてはうやむやになったようだが、いよいよこの散歩そのものの存続が危ない状態になってきている気がした。
真実に被せた嘘が、既に軋む音を立てているのだ。浅はかなそれが剥がれると、想像したくもない受け入れ難い現実が姿を現すのだろう。
その時が、この恋の終焉なのだろう。
花畑の後は至ってシンプルな下り坂ばかりだった。上り坂のようにくねくねとしていたり、風趣のある色とりどりな木々が並んでいるなどと言った暇つぶしの装飾がある訳でもなく、ただ真っ直ぐに下へと向かう砂利道が続くだけだった。辺り一面もごく普通な木々が立ち並ぶだけで、村を遠望することも叶わない。
味気ない道中で真治と千夏が話すことなど、清花たちのことだけだった。主役の二人にスポットが行かず、その二人を取り巻く脇役たちばかりが注目されるという、どう仕様もなく劣悪な駄作が完成しつつあった。
あまりにばつが悪くて真治はうつむき気味に歩いていたが、千夏が急遽、清花たちのことを話している最中だったというのに、話の軸を曲げた。
「結局、地蔵は発見できてないね。五仏坂の入口にあった地蔵だけで。おかしいなあ。わたし、目を凝らしてかなり細心の注意を払ってたんだよ」
千夏に言われ、真治は忘却の彼方に放置していたサブイベントを思い出した。確かに、五仏坂のゴールがまだまだこれからだったとしても、もう既に相当の距離を進んでいるのだから、そろそろもう一体くらいは姿を現しても良い筈だ。この五仏の道祖神的存在の五体の地蔵は、要領よく持ち場を分担できなかったのだろうか?
そんな真治の心配を余所に、千夏は濁りなき清々しい顔で周囲に目線を張り巡らせている。真治はそんな千夏の様子だけをそっと見つめる。
「ここら辺って何となく、地蔵がありそうな雰囲気だよね。この鬱蒼とした感じの風景、地蔵が映えそう」
「確かに、花畑みたいな明る過ぎる場所よりは、こんなじめじめとした場所の方が似合ってるかもな。どうせなら、まとめて後四体あってくれると助かるんだけど」
「でもそれって、ちょっと嫌だなあ」千夏が瞼を下ろしてぽつりと言った。
「あまりにも呆気なさ過ぎて?」
「ううん、違う」首を横に振りながら、森林に染み込ませるように千夏はそっと言った。
「じゃあ、どうして?」
「だって、それじゃあ入口の地蔵が可哀想だもん。あの地蔵がひとりで頑張ってるのに、みんなは寄り添って楽しそうにしてるんだよ? 理不尽で仕様がないじゃん」
なるほど、あの地蔵が真の孤独になってしまうから、か。自分の中になかった新鮮な発想に真治は息を呑む。
皆が各々、ひとりになって仕事をしていれば、大した孤独感など生じないだろう。どこかで贔屓が行われていて、尚且つそれを知ってしまったから不幸になるのだ。
真治は自分が中学生だった頃を黙想する。一年生から二年生に進級した時、真治を含めた強い絆で結ばれた五人組の仲良しグループは、全員がばらばらに違うクラスへ振り分けられてしまった。
運がないなと友人たちや真治は愚痴っていたが、結局それぞれが新しい環境に適応し、一年間を過ごした。
問題は二年生から三年生になった時だ。真治が二年生で親交を深めた友人たちが全員、真治とは違うクラスに固まった。更に泣き面に鉢とでも言うかのように、一年生の時の友人たちまでもがそのクラスに集結した。
二年生の時は我慢ができたというのに、三年生の真治はとても落ち込んでしまった。自分だけが至福の環から切り離されてしまったような気がして、心底寂しくなった。
それでも真治は二年生の時と同じように、新たな環境で新たな出逢いを経験し、三年生の生活を満喫した。
帰するところ、どれほど辛辣なことがあっても人間の心の痛みは、絶対的な「時の流れ」によって洗い流されてしまうのだ。それは人間の無情さでもあれば、強さでもあると今の真治は考えている。
でもあの地蔵にそれはあるのだろうか。あの地蔵に新たな出逢いや、心痛を払ってくれる手段はあるのだろうか。想像するだけで胸が痛くなる。
もし他の四体が一カ所に集まっていたら、入口の地蔵が可哀想だ。千夏がそこまで深慮して発言したのかは分かりかねるが、彼女の優しさがその発言に包容されていたのは間違いがなかった。
ふと空を仰げば、先程まであれだけ身体を焦がそうと気合いの入っていた太陽はどこにも見当たらなかった。濁った雲の大河だけがそこにはあり、真治たちのいる山に薄暗い不安を落としていた。
このまま沈黙に身を任せていては、憂鬱な影に二人が呑み込まれてしまいそうだった。例え確信がなくても、ここでしっかりと自信を漲らせて千夏に言うしかないと思った。
「大丈夫」真治はそっと囁くように、しかしはっきりと言った。「きっとみんな、自分の役割を精一杯に全うしているよ」
大空に充満する灰色の隙間に明るい希望の兆しを発見したように、千夏は堅い表情を徐々に緩めた。「そうかな」
「うん」
「そうだよね」
「さあ、早く他のみんなも探しに行こう」
「うん」千夏ははじけるような笑顔で頷いた。
結局、物語のように都合よく、見事な晴天が真治たちを祝福してくれるなどと言ったことはなかったが、二人の間にはかつてない温かな空気が生まれていた。
夏の光を散々ばら撒いていた空が瞬く間に曇に覆われてしまったのを見て、純は後少しで雨が降ってくるだろうなと心配になってきた。宿を出る時はすこぶる快晴で、眩しい程の青空が広がっていたのだから、どうしてこんな天気の急変を予想して傘などを用意しているだろうか。
何より、五仏を歩く自分の後ろを木陰に身を潜めながら、こそこそ追跡してくる小さな二つの影も十分な不安要素だった。彼らだって傘は持ち歩いていないだろうから、雨でずぶ濡れになって風邪を引かせてしまった、などと言うことは絶対にあってはならない。
ならば端から純が五仏に行かなければ万事上手く解決する、と言うわけにもいかなかった。何故なら、真治たちの行方を見届ける義務を自分は課せられてると思い込んでいるからだ。
東京で購入した洒落たゴールドの腕時計を見やる。五仏に入ってから約十五分。純はある些細なことに気付いた。
「そう言えば、この付近に清花ちゃんの家があるんだから、そこで傘を借りれば良いんだよね。多分、真治君たちは花畑で結構な時間を費やすだろうし、運が良ければまだのんびり滞在してるかも。そうと決まれば、五仏様のところを経由して清花ちゃんの家に直行しよう」
丁寧な説明を純はわざと大声で言った。背後ではどたばたと駆ける二つの音があったが、純は決して振り向かずに、さも何事もなかったかのように歩み続ける。
しばらく純と彼女を追跡する二つの影は五仏のなだらかな坂を上った。清花の家まで後十分くらいで着くだろうという頃、純の前方、およそニ百メートルほど先に見覚えのある二つの人影が現れた。
二つの影は純の存在に気付いてないようで、そのまま横の狭い林道へと入っていった。今すぐにでも追い掛けたいが、傘の件で清花の家にも行かなければならないので純は悩んだ。
清花の家まで後十分ばかし。頑張って走れば、十五分ほどで戻ってこれるだろうか。しかし、後ろの子供たちがそれに付いてこれる訳がない。この場に残ってろと指示する訳にもいかない。
結局、純は早歩きで清花の家の方向へ進むことにした。あの二人が亀のようにのんびりと散歩してくれるのを祈るしか術はなかった。
久しぶりに見たが、やはり花畑は頭の中に残っていたイメージと殆ど変わらず、鮮やかな色で埋め尽くされていた。
そう言えば前に、ここの花を内緒で何本か拝借したらあの爺さん、とち狂ったように怒りだして大変だったって、後で清花ちゃんが言ってたっけ。純は呑気に昔を懐かしんだ。
そして今頃、子供たちはあの花畑の中に一生懸命隠れてるんじゃないかなと、どこか可笑しくなった。そもそも子供たちにとってこの花畑は初めてなのだから、もしかしたら追跡などそっちのけで感動してる最中かも知れない。
あっちの二人も同様だったかも知れない。色々と想像を膨らませてみると、実に楽しい。
純は愉快な気分に鼻歌を奏でながら、玄関に設けられた傷だらけのボタンを押してみる。家内で鈍重なチャイム音が響き渡るのが微かに聞こえてきた。
それから誰かが木の廊下を小走りしてきて、靴置き場で靴を履く姿が分厚いガラス越しに見えた。人影はガラスの中に溶け込むように全身がグニャグニャに広がり、カチッと鍵を捻る音がした。
ガラスの扉が重そうに横に滑ると、呆然とした表情の清花が現れた。胸元が大きく開いたシフォンのタンクトップに、太ももを思う存分露出したフリルのショートパンツという格好をしていた。
「わおっ」純が呆気にとられながら言った。
「あっ、えっと、これは……」清花が恥ずかしそうに頬を紅潮させる。
純の顔から慌てて視線を外すと、瞬く間に玄関の扉を閉めてしまった。
しかし、純が扉と溝の隙間に素早くサンダルの足を割り込ませていた。手を扉の隙間に入れて無理やりこじ開けようとし始める。清花も最初は力ずくで扉を閉めようとしたが、純に適わないと判断したのか、早々と諦めてしまった。
再び玄関の扉が勢いよくピシャリと開かれると、清花は申し訳なさそうに純に頭を下げた。
「ごめん、足大丈夫?」
「大丈夫大丈夫。別にいいよ」
「こんなみっともない格好を見せちゃったのも、ごめん」
呆けた表情のまま純は首を横に振る。「いや、清花ちゃんだって家の中ではリラックスしたいだろうし……ね?」
「うん、まあ、そう言うことなの」清花がたどたどしく頷く。
「でも、あたしはそういう格好、良いと思うよ。清花ちゃんはモデルみたいに細くて背が高いのに、いつも控え目で地味な服ばかり着てたし、もっと大胆な格好をしても良いのになあって前から思ってたから」
「そう言って頂けると恐縮です」
「いえいえ」
鼠色に染まった空を純はちらりと見る。「ねえ、この調子だと大雨が来そうだよね?」
清花も空の様子を窺う。「そうだね。これは早い内から雷雨が来そうだね」
純は辺りを用心深く見回した。花畑や清花の背後の家の中まで、徹底して人がいないのを確認してるように振る舞った。
「実はね、あたし、ある秘密裏なミッションの最中なの」
「秘密裏なミッション?」
「そう、トップシークレットなの。こればかりは清花ちゃんでも教えられないんだ、ごめんね」
「トップシークレットなのは分かったけど、どうしてわたしにその話を? これじゃあ秘密になってないよね」
「秘密になってるか否かなんて、そこは正直どうでもいいの。重大なのは、至急、傘が欲しいってことなの。実はある二人組を追跡しててね、でも雨が降ってきたらそれが困難になりそうなの」
「ある二人組って、真治君たちのことだよね?」
清花に訊かれ、純は苦虫を噛み潰したような表情になる。「それはシークレット。言える訳ないでしょ」
「まあ、別にそれは良いとして。傘くらいならいつでも貸すよ」
清花はそう言うとすぐに、玄関脇の傘入れからピンク色の傘を取り出し、純に手渡す。
「ありがとう、流石。清花ちゃん大好き!」
傘を同じく両手で丁寧に受け取ると、純は清花に抱きつく。清花も不快な顔はせずに純に抱かれた。純がふと耳元で囁く。
「悪いけど、わたしをストーキングしてる、愛おしい子供たちの分も借りれるかな?」
「子供たち?」清花も囁く。
「そうそう。清花ちゃんが上京する前は今よりもうんと小さかったから、多分覚えてないと思うんだけど、達哉と千夏だよ」
完璧に思い出せないが全く覚えがない訳でもないと言う風に、清花は厳かなのか惚けているのか分からない曖昧な表情をした。しばらく黙想を続けてから、胸のつっかえが取れたように口元を緩めた。
「それって、ヨネおばあちゃんのところの二人?」
「うん、大正解。いつも赤と青の服着てるやんちゃな二人」
「懐かしい」と清花は感慨深そうに呟いた。「もしかして、未だに赤と青の服着てたりするの?」
「うん、まだあの二人、赤と青の服着てるの」純はどこか可笑しそうに声を低めた。
「へえー、未だに着てるなんて意外……。あ、とにかく、あの子たちがこの付近にいるんだね?」
「そうそう、風邪引かせる訳にいかないしさ、傘を更に二つ貸してくれる?」
「それは勿論。でも、真治君たちを純さんが尾行して、その純さんを子供たちが尾行してる。不思議な感じだね」
「まあね」と純は頷いた。
「ここ数日、他にも幾つか偶発的なことが重なってる。これは奇縁ってやつかも知れないね」
「奇縁、かあ。確かに」
あながち嘘ではないなあと純は思った。純と仲のいい清花たちと真治たち一家が電車の中で鉢合わせたことから始まり、御天神社で妖精と出会し、そして真治と妖精がデートをし、この現状に繋がった。果たしてこれを何かの縁と言わず、偶然として片付けて良いのだろうか。
まだまだ喋りたいことは沢山あったが、そろそろ追い掛けなければ真治たちを見失ってしまいそうなので、純が家を後にしようとした時だった。清花がふと思い出したように言った。
「そう言えば、純さんに頼まれたCD、どうする?」
「ヴァンプァイアのCD、今あるの?」純は立ち止まって目を輝かせた。
「うん、今度下北沢でお茶した時にでも渡そうかと思ってたけど、それじゃあいつになるか分からないし。せっかく帰省するんだからって持ってきちゃった」
「さすが清花ちゃん!」純は再び清花に抱きついた。
「本当にありがとうね。近頃、なかなか東京の方に行けなくってさ。あのCD、初回生産限定版だったから、かなり購入するの大変だったでしょ?」
「うん。ヴァンプァイアの新譜、凄い人気で、わたしの周りのCDショップはみんな予約段階で品切れになっちゃってた。隼人が友達に調べてもらって、ようやく見つかったんだよ」
「あの隼人が? どういう風の吹き回しかは知らないけど、後でお礼を言わないとね」
「本当は昨日、神社で出会した時に渡しとけば良かったんだろうけど、状況が状況だったからね。また渡しそびれたら嫌だし、今CD持ってきちゃうね」
買っといてくれたのは嬉しいけど、今は真治君たちを追わないといけないし、また今度会った時にでもCDを渡してくれればいいよ、と言おうとした純だったが、清花が先に行動を開始してしまった。
玄関から階段を駆け上る清花の姿が見えた。シフォンのタンクトップは背中も大きく削り取られており、清花の下着が僅かにはみ出していた。
なんだかなあと思い、純は人知れずため息をついた。
五分ほど経ったが、清花はまだ階段を下りてこない。あまりのんびりしていると、真治と妖精を見失ってしまう。純は壁に寄りかかり、サンダルのつま先でとんとんと玄関の段差の部分を叩いた。
不意に誰かが階段を下りてくる音が耳に届いた。とっさに視線を向けると、気だるそうな表情の隼人がそこにいた。
「やあ」と純は遠慮なしに手を挙げた。
隼人は階段を下りたところで立ち止まり、唇を窄めて口元に深いしわを作った。まるで全てにうんざりしているようなしかめっ面だった。
「いやあ、なるほどね。随分と粋な計らいをしてくれるじゃん」純は腕を組んだまま、嬉々とした声で言った。
更に瞳が見えなくなるくらいに目を細め、隼人は面倒くさそうに言った。「粋な計らい?」
「分かってる癖に。憎いねえ。清花ちゃんじゃなくてあんたが、ブツを渡してくれるとはね」
「はぁ?」と不躾に隼人が言った。
純は胸がむかむかする感じを覚えた。隼人の態度にも少し苛立ったが、何よりも伝えてることが伝わらずに、会話のキャッチボールが成り立たないむずがゆさがそうさせていた。
「ヴァンパイアのCDだって」もどかしさを吹き飛ばすように純は語調を強めて言い放った。「あたしが清花ちゃんに頼んで、あんたが一肌脱いで見つけてきてくれたやつ」
「ああ」と隼人は合点がいったように頷いた。「あれはただ単に、俺が欲しくって探してただけだって。清花が同じCD探してたの思い出して、ついでに買っただけ」
見下ろすように眼前に立つ長身の少年を睨みつけながら、純は唇を窄める。どう仕様もなく生意気なところは相変わらずだなと再確認する。
「偶然でもついででも別にいいよ。結局、気持ちの問題じゃなくて、結果の問題なんだからさ」
口角を吊り上げ、猫なで声を更に甘くして、純はできうる限りの満面の笑みを顔に浮かべた。それを見るや否や、毅然としないように隼人の顔が歪んだ。
「ありがとう隼人、とっても嬉しい」
サンダルを脱ぎ捨て、純は家に上がり込む。隼人は危険を察知し、すぐさま踵を返し始めるが、もう遅かった。
純は小さく跳ね、隼人の首にぶら下がった。隼人は声を出さなかったが、必死に首に回された腕を解こうともがいた。じたばたした後、踏ん張っていた足が悲鳴を上げ、そのまま後ろ向きに倒れた。純は凄まじい反応で隼人から離れて難を回避した。
ひとり尻餅をついている隼人を見下ろしながら、純は得意げに言った。「全く生意気なんだから。あたしに楯突こうなんて、まだまだ早いよ」
隼人はただ無言で苦虫を噛み潰したような顔をしていた。そこに階段の方から足音が届いた。純がそちらに視線を移すと、清花が階段から下りてくるところだった。
「あれ? 隼人、何やってるの」清花が尋ねた。
「隼人ったら、あたしのことが大好きなんだって。あたし、東京に彼氏いるのに困っちゃうなあ」純が代理で答えた。
「あらまあ、初耳」と清花はクスクス笑った。
終始、隼人は胡座をかいたまま、腕を組んで下を向いていた。純が意地悪な微笑を浮かべながら、何度もそれを覗こうとしたが、隼人はその度に顔の角度を変えて交わした。
清花たちと別れた後、純は心持ち速めに歩を進めて真治たちを追跡しはじめた。辺りは既に灰色の影に呑み込まれており、どこか遠方で雷光が瞬いたかと思えば、数秒後には轟音が響いた。
そう言えばこちら側にも雨や雷がきたら、真治君たちはどうしよう。急にそんなことを思ったのと同時に、良からぬことが起きそうな予感が頭の中をよぎった。雨ざらしなんかよりもずっと残酷で冷たい何かが、この朗らかなデートの先にひっそりと身を潜めていて、早く餌がやってこないかと待ちぼうけているのではないか、と。連動していとけない二人も気になり始めたが、今は自分の背後にいるので、真治たちを追うのに集中することにした。
どんよりとした雲の海に身を沈めた空が心配になってきた。永遠に海面に上がってきそうもないくらいに、闇は深々と五仏に満ちていた。しかし、ほんの少し油断しただけでバランスを失って落ちてくるような儚さもあった。
この迷惑な暗雲の下のどこかに真治たちもいるのだろう。彼らも同じ風景を見ているのだろうか。純は真治たちにささやかな祈りを送った。どうかこの闇が二人に落ちてきませんように、と。
真治たちが入っていったのは、五仏堂に通じる脇道だった。五仏様以外には特に見所のない退屈な場所だ。五仏様に拝んだ後はそのまま道なりに進み、五仏を出るのだろう。
五仏に入ったら先ず、五仏様に散歩の無事を祈り、花畑に行ってまた来た道を戻り、五仏様に散歩の無事を感謝して五仏を去る、これが通常のルートだ。先程見た真治たちは、恐らく帰り際だったのだろう。
そうなると、もうあの二人は五仏を後にしてしまったかも知れない。それはとどのつまり、あの二人のデートが終了してしまうということだ。これでは、わざわざあの二人の恋路を見守りにきた自分の意義がなくなってしまう。悦子の目を逃れ、子供たちを相手にしながら五仏坂を登ってきたのが、ただの時間の浪費で終わってしまうではないか。
万が一にもあの二人が逆走をしてきた場合はすぐに隠れられるように、辺りの木々の配置を意識しながら純は早足で進み続けた。そろそろ五仏堂に着くだろうという頃には、純の警戒心は最高点に達していた。目を精一杯に見開き、どんな小さな音でも拾えるように耳をそばだてた。
木々の隙間に焼け焦げたような色をした五仏堂の屋根が現れた。純はもう数歩進み、五仏堂の周囲が見渡せる場所を探し当てる。辺りを注意して観察する。人っ子一人いない。
五仏の出口へと通じる道にも目線を寄越すが、あの二人の姿はない。もしやと思い、自分の現在地に通じる道も確認してみるが、やはりいない。
時既に遅しで、清花のところでのんびりしている間に、五仏を出られてしまったのだろうか。話し込んだり隼人をからかっていた時の自分を心底憎たらしく思い、手のひらに爪を食い込ませた。
その時だった。五仏堂の入口から二つの影が現れた。純は慌てて木陰に身を隠し、そっと五仏堂の方を覗いてみる。二人の人間が何をするでもなく、ずっと向き合っている。真治と妖精だ。
――どうして嘘をついたの?
澄み切った透明感ある声がした。声を一度も聞いたことはなかったが、妖精のものだとすぐに判った。あの霊妙な雰囲気にとても似合いそうだった。
――ごめん。
とても情けない真治の声がした。
――何が、五つの仏が散らばってる坂、なのよ。
澄んだ声に赤黒いものが混じっていた。それでも尚美しいと感じてしまう自分に、純は困惑した。
――ごめん。
また真治の声は謝った。あまりにもか弱く、今すぐに消え入ってしまいそうだった。
――でも、悪気があった訳じゃないんだ。千夏を少しでも喜ばせられれ――
――うるさい、もう何も喋らないで!
そう言うと、妖精は細い腕を思い切り振り、真治の頬に平手を叩きつけた。
痩躯が外にひねられ、細い腕がたわむ。痩躯が元に戻ろうと逆に動き始める。僅かに遅れて腕が弧を描く。そして手は、その線上にある目標物をしっかりと退ける。あまりにも完璧な平手打ちだった。妖精のできうる限りで最高のものだっただろう。
素晴らしく痛そうな、玲瓏たる音が響く。真治の首が、妖精の腕の回転に合わせて曲がる。見事なことに、真治の体も首に合わせて曲がる。バランスを崩し、足が地面から離れ、そのまま転倒する。
魂が抜けたように地面に膝をついたままの真治に近付き、妖精は見下ろす。そこで彼女が何かを喋っていたが、声が小さくてよく聞き取れなかった。だがすぐに大声を出した。
――もう二度と、わたしのいる森や川原に来ないで!
冷罵を浴びせると、妖精は五仏の出口に向かって走り去ってしまった。ピンク色の服がとても優雅に揺れる、これまた見事な走り方だった。
真治はと言えば、頭を抱えたまま、見窄らしく地にうずくまっていた。