花言葉
真治が日中に花を購入したのは、彼が花を好き好んでいたからではなかった。癒やしとなる物を部屋に置ければ何でも良かったのだ。
自室まで持ち帰り、さっそく桃色の花を鼻の近くまで寄せてみる。良い匂いだ。真治はぽつり呟く。
しばらくして、青い花瓶に入れられた花を窓際に置いてみる。花びらが六枚あり、下の三枚だけに深紅色の斑点模様が入っている。桃色の花びらを蒼白な月の灯りが照らしている。神秘的な芸術がそこにはある。
心が綺麗に洗われるようなどことなく懐旧の情を抱かせるような。とにかく不思議な気分にさせられる。真治は頬を綻ばせ満足げに鼻息を鳴らした。
今日の昼間、真治はクラスの女子高生たちが「買い物でストレスを発散する」と言っていたのをふと思い出し、それを頼りに商店街に出掛けた。
結局、真治が買い物から「癒やし」を得ることはなかった。それ程欲しくもない物を無理やり買って、財布の中身を軽くする人間の心情が全く理解できなかった。
せめて「癒やし」となる商品を見つけようとして洒落た雑貨店に足を運んでみた。ぬいぐるみなんて物は趣味ではないし、ペットを買うというのも如何なものか。真治は色々と考えあぐね、気に入った商品がないまま店を後にした。
そして、しょんぼりとしながら商店街の来た道を引き返す途中、花屋に寄った。
普段ならば気にも留めずに店頭を一直線に通り過ぎる筈なのだが、何故かその日だけは猛烈に店内が気になってしまった。花の匂いが手招きしているようだった。
花屋に入るとまず強烈な甘い匂いが鼻腔をまさぐってきた。次に視界に女ばかりが入ってくる。真治はあまり店内には長居したくないと思った。真治にとって老若など関係なく、狭い空間に女ばかりがいるその密度の濃さがいけ好かなかった。
一目見て直感的に「ヒメヒオウギ」という花を買った。何故か惹きつけられるところがあったので、店内に招いたのはこの花だったのではないかと思った。
ひとまず今は、この花を「癒やし」と位置づけている。真治はヒメヒオウギの花言葉を知らない。別にそんな物に興味は湧かないし、女の美的感覚とやらもさっぱり理解ができない。しかしそれでも、花を鑑賞することは真治にとって十分な気休めになりそうだった。
こうやって真治が「癒やし」を渇望しているのも、原因は全て階下にいる「義父」にある。
真治の父親は五年程前に病気で他界した。それから四年半後、今からおよそ半年前に道夫がやって来た。
その日、真治は夕食の時間に学校から帰宅した。すると、母親の法子と二人だけだったいつもの食卓に見知らぬ男が座っていた。
男の体格は平均男性よりも大きく、筋肉質というわけではないが決してぜい肉を感じさせない。全体的に角張っている。たくましく生やした顎髭がたくましさを助長するようだった。
法子はその男、道夫を紹介し、近い内に彼と再婚すると真治に話した。真治は酷くそれを拒絶した。目の前にあった皿をテーブルから弾き落とし、すぐに自分の部屋に引きこもった。
法子がドアの前で必死に呼び掛けるが真治は頻りに「出ていけ」と叫ぶだけで、部屋からは出てこなかった。道夫は二人のやり取りを見て、その日は黙って帰っていった。
それからしばらくして法子は道夫と再婚をする。結局、真治が二人を心から祝福することはなかった。
そして、三人の家族になってからおよそ三週間。未だに真治と道夫の間に会話と言える会話は交わされずにいる。たとえ話したとしても、道夫が一方的に話し掛けてくるだけで真治は頷くことさえしない。
真治はどうしても道夫を父親として認めたくない。自分の父親はただひとりしかいないと片意地を張って止まない。
しかし、刻々と道夫が家族として馴染んでくる。それを痛感するたびに真治は頭を抱えた。そんなことをやっている内にストレスが溜まりに溜まってしまった。真治自身も危機感を覚え始め、「癒やし」が必要だと判断した。
真治は窓際に置かれたヒメヒオウギの深紅色の斑点模様をぼうっと眺め続けた。たまにヒメヒオウギを妖しく染める月を仰視したり、月明かりに照らされた自分の青白い手を見つめたりもした。
少しの間だけ目を瞑り深呼吸をする。そうして真治はベッドの中に身を放り込む。夏休みが始まった二週間ほど前から、毎晩そこで物思いに耽る習慣ができてきていた。
下の階から微かに電話のコール音がした。真治は怠惰から電話を取りにいく素振りすらしない。
すぐに電話の音は止み、代わりに法子の声が聞こえてくる。何かを話しているようだったが、すぐに道夫の太い声に切り替わった。
「お袋、どうしたんだ!」そう声を張り上げてから沈黙が訪れる。「親父が!」
真治がいる部屋は二階だというのに、会話する声が聞こえてきてしまう。それほど道夫の地声は大きい。真治が道夫を嫌う数ある理由のひとつでもある。
それにしても、道夫の父親がどうしたというのだろうか。真治は少しばかり興味を持った。
それから間もなくして、階段を上るスリッパの音が小さく響いてきた。部屋のドアがノックされる。強く叩いたわけではないのだろうが、ひとつひとつの音には苛立ちが入り混じっていた。
「真治、ちょっといい?」法子が部屋の外で言った。
法子だからと、真治は躊躇いなくドアを開けた。しかし、法子の隣には道夫の姿もあった。間髪入れずに、真治の眉間にしわが寄せられる。
「真治、あのな――」
「何でお前がいるんだよ!」道夫の話をかき消すように、真治は怒鳴り散らす。
「真治、ひとまず話だけでも聞いて」法子がその場を取り仕切ろうと懇願する。いつもの気の強そうなぴんと張った眉や鋭い目尻はどこかへと消えてしまっている。
「そいつが部屋から出ていったら、聞いてやるよ」真治が乱暴な言い方をする。
「でも……」と法子が言い淀んだ時、隣から道夫が「最初で最後の頼みを聞いてくれ」と落ち着き払った声を放ってきた。
真治はうるさい道夫が神妙な面もちをしていることに驚いた。これはもしかすると、本当に緊急事態となっているのではないか。
ちっ。真治はわざとらしく舌打ちをし、「一回だけだからな」と不服そうに言った。
道夫の返事を待たずにベッドに座り込んだ。格好つけて窓際のヒメヒオウギに視線を向けながら聞く体勢を見せつける。
そして、その様子を伺いながら道夫がおもむろに口を開いた。「今年の夏休みは、俺の故郷で過ごしてくれ」
「は?」真治がきょとんとした顔をする。
「何で俺がお前の故郷なん――」
「それはな……」真治の話を無視し、道夫は事情を説明し始めた。
道夫の故郷である美海部村に住む道夫の両親は小さな宿をやっているそうだ。所が、道夫の父親が風邪で体調を崩してしまったという。
不幸というのは重なり易いようで、ちょうど二人の従業員が休暇を取っている最中だった。他に宿に残っているのは道夫の母親と数人の従業員のみで、とてもそれで営業が持続できるとは思えない。
場所が田舎だけに若者などの人手も足りない。どうしても男である道夫の手が必要なのだと頼まれた。そこで道夫は有給休暇を取り、真治ら家族を連れて故郷に帰省することに決めたらしい。
そんなわけで、真治らは明朝には電車に乗って道夫の故郷である「美海部村」に向かわなければならない。
「そんなもの、やってられるか」真治は目を三角にし、意地でも行く気がないことをアピールする。
「言うことを聞くって言ったよな?」道夫の頬が緩んでいる。
「確かに言ったけど……」真治がぼやくように小声で言う。しまった、と思っていた。
「男に二言はなしにしてくれよ? お前、男だろ?」道夫の言葉に、真治は完全に黙り込んでしまう。選択の余地を完全に摘まれてしまった。
「それじゃあ、朝早いから、さっさと身支度を済ませてくれよ」口元を若干弛緩させながら言うと、道夫は部屋を去っていった。父親が病床に臥している人間の様子にはとても見えなかった。
法子はまだ部屋に残り、こちらを見つめている。真治ではなく間近にあるヒメヒオウギに目線がいっているようだ。「その花、どうしたの?」
「今日買った」顔を背けながら真治は素っ気なく答える。
「あんた、そういう趣味あったっけ?」
「今日から趣味になった」
「女の子にでも貰ったの?」法子は淡々と訊いてくる。
「いや」真治は濁ませながら答える。
「ヒメヒオウギの花言葉、知ってる?」
「いや」
「あんた、よく買ったわね」
「なんとなく、気に入ったんだ」
それ以上のことは訊かず、法子も部屋を出ていった。去り際に「美海部村、案外良いことあるかも知れないわよ」と意味ありげなことを言ってきた。
「『良い知らせ』、よ」